戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年05月21日
XML
カテゴリ: 旅日記(近畿)
永観元年(983)は良源さん71歳。
この頃から病がちになっていたようで、翌永観2年(984)の暮れには
病も重くなり、山上から麓の坂本へ移った。
まだ天台座主は辞任してないけど、印やら鍵やらの重要なものは
禅師の君に預けているので、実質的な引退と言えるだろう。
そしてそれと時期を同じくして、源信は『往生要集』の執筆にとりかかった。

源信が語るところによると、作業開始は永観2年(984)11月で、
完成したのが翌年の4月。
こんな短い期間であんなものを書いたのかと思うと

『往生要集』の話に入る前にまず 慶滋保胤 をば。


『往生要集』と同じ時期に保胤は『日本往生極楽記』という本を書いている。
これは読んで字のごとく往生譚を拾い集めたもので、
日本で最古の往生伝とも言われている。

ただ、執筆に際して往生に関する経論で読まなかったものはないと保胤は言ってるものの、
橘成季 (『古今著聞集』の著者)のように自分が集めた話を沢山詰め込んだという訳でもなく、
『日本往生極楽記』で取り上げられたのは45人。

仮に日本の仏教のスタートをいわゆる 公伝 に置いたとしても、
そこからすでに400年以上経ってる。

極楽往生の証しをしようと本気で材料を収集したのであれば、
名僧・高僧の類だけでも相当の数のエピソードが集まったろうと思うのに、
保胤が自らの著作で紹介したのはたった45人。

わたくしは『日本往生極楽記』は読んでませんが、どうも保胤は明確な意図を持って
この45人を選んだらしい。


保胤以外の人が書いた往生伝は往々にして著者の脚色なども交じっているそうなんだけど、
保胤は一切そういうことをしていないんだそうな。

基礎知識として先の記事で往生譚や失敗例をいくつか紹介しているので、
なんで脚色が必要なのかはおわかりでしょうが、
極楽往生を勧めるのに必要なファクターは、浄土信仰すなわち阿弥陀様への帰依。
それから臨終の際の奇瑞。
この2つは欠かすことはできないので、ストーリーとしてはいいけど
阿弥陀如来じゃなく弥勒菩薩への信仰だったり、
熱心な念仏行者であってもお迎えサービスの来訪を告げる瑞兆がなければ
当然説得力は薄れる。
そこで多少の潤色という手段を取った場合もあるらしいんだけど、
保胤の場合は徹底していて保胤の目的に合わない往生譚は思い切りよく
丸ごと取り上げなかったらしい。

 【もし取り上げた場合には原典に従つて忠実に記すという姿勢を持している。
  保胤にとつて恣意の潤飾を行つて往生伝風の体裁を作り上げることは何の意味も
  持ちえなかつたのであろう。】
  (「日本往生極楽記の撰述について」/中尾正己より)

保胤の道心の深さを思えば、この姿勢はしごく当然のものだろう。
『日本往生極楽記』は保胤が真摯にリアルに「往生」と向き合った書だといえる。


ウィキペディアによると、『日本往生極楽記』の成立年代は

 【寛和年間(985年-987年)頃と見られている】

だそうな。
が、川崎庸之氏によると源信のように一気呵成に書き上げたのではなく
そこそこの時間をかけているようで、

 【今日伝わる本は、保胤の出家(986)以後に加筆された部分を含んでいるが
  (加筆したのは兼明親王、918~987)、大部分は永観年間(983~985)
  に成ったものと思われ、それがすぐ源信に呈示されて、『往生要集』(985)にも
  引照されるにいたったものである。】
  (「源信の生涯と思想」より。漢数字は戦国ジジイが変換)

だという。

なんと、まあ!
この2人はお互いに影響を与えあっていたのかと保胤をつい最近まで知らなかったわたくしは
かなり驚きました。

『往生要集』は間違いなく歴史の教科書にも載ってるハズ・・・
でも『日本往生極楽記』のことは書いてあったろうか?
紙面の都合があるとはいえ、浄土信仰の歴史にとってかなり重要な書なのに、
保胤のことが書いてなかったら不公平ってもんだよな・・・と思って
高校の日本史の教科書をめくってみたら、『往生要集』はやっぱり本文に書いてある。
けど、『日本往生極楽記』は書いてない。

やっぱ書いてないか・・・と残念に思ってなにげに脚注の部分を見たら、
そこに保胤と『日本往生極楽記』のことが簡単に紹介されていたのでほっとした。


さて、『往生要集』の完成は本人の跋文によると永観3年(985)4月。
「元三大師」の愛称を持つ良源さんの死亡日は永観3年1月3日。
つまり、『往生要集』は師の良源さんが重病の床についた頃に書き始め、
良源さんの死をまたいで死の3ヶ月後に完成している。
ところが、本文はおろか序文や跋文でも良源さんや師の著作について
何ら源信は触れていない。

源信の執筆の直接の動機が良源さんと無関係であったとしても、
せめて跋文くらいには

」

とかの(笑)追悼の言葉ぐらいあってもいいのに、いやあってしかるべきなのに
それが全くない。

良源さんも源信もともにビッグなので、この不自然さについて諸人の興味を
引かないはずがなく、

 【そのことで『往生要集』の成立を別の年次とする考え方もあったが、良源と源信の
  生き方の違いとする考え方が主流となって肯定されている。権門によしみを通じ、
  壮大な堂舎を作り、華美な法会を行った師良源にたいし、僧官の昇進に意をつくさず、
  弟子から贈官されて権少僧都となる有様で横川に籠り、述作に没頭する源信とでは
  全く相反するという。源信は師を黙殺したことになるのであろうか。】
  (『人物叢書 良源』平林盛得/吉川弘文館より)

わたくしが持っているこの本は昭和51年の初版本なので、
現在ではまた違った見方が増えているのかもしれないけど、
「俗物」とも評される良源さんなので、こういう考え方は今でも根強いんじゃないかと思う。

でも、もし源信も心の中では「俗物め」と思っていたのなら、
何も叡山の中心的存在となった横川に無理して居座ることはなかったのだ。
現に、同じ良源さんの弟子の増賀や性空は別天地を求めて出ていったのだから、
源信だってもっと静かに隠棲できる場を求めて出ていけばよかったのだ。
ところが、源信はそうしなかった。
叡山で僧侶生活をスタートし、叡山に骨をうずめて一生を叡山で過ごした。


良源さんは自筆の遺言の中で、禅師の君以外の弟子にも細々と指示をして
後事を託している。
それらの遺言に名前の出てくる弟子たちは

 【(前略)それぞれ昇進して僧綱入りをしている。良源が見込んだ、いわば実務派の
  僧侶たちであろう。ここで注意したいのは、良源の四哲といわれた高弟たちの位置で、
  尋禅・源信・覚運・覚超の四人のうちで、尋禅以外の三人は遺言の中に全く名前が
  記されていない。たとえばさきの天禄三年四月三日に行われた五大堂落慶供養のさい、
  源信(大講堂供養)は静安(総持院供養)と同じように右方の梵音衆となっており、
  覚運も右方の錫杖衆(大講堂供養)の中に見えており(『叡学要記』)、僧位などで
  源信等が著しく劣っていたとは考えられない。源信等を煩わしい寺院運営や行事面から
  除外しているのは、むしろ良源の配慮であったように思われる。横川が研学の中心と
  なり、良源の弟子たちが数多くそこから巣立ったのにはこうしたいわば学究派とも
  いうべき僧侶を寺院事務から解放したところにあるのではなかろうか。】
  (『人物叢書 良源』より)

と平林氏は推測する。
わたくしもこの見方に賛成ですが、この推測が合っているのであれば
良源さんは弟子のそれぞれの適性や進むべき道を理解し考えていたことになる。
弟子たちもそういう師の考えはよく理解していたんじゃないだろうか。
価値感の相違はあったとしても、そういう師のもとにいるメリットを総合的に考えて、
デメリットが許容範囲だと判断した弟子たちが叡山に残ったんじゃないかと思った。

一般的な良源さんと源信のイメージはそれぞれ「お祭り好きな俗物」と「隠棲の人」
てな感じじゃないかと思うけど、そこだけを見れば2人はかなり対極にあるようにも思える。
が、源信が浄土信仰にのめり込んでいったことも考えると、
「華美な法会」にも源信は一定の理解を示したんじゃないかと個人的には思う。

それで、『往生要集』の中で良源さんに触れていないことについて平林氏は

 【源信にとって自著とはいえ、浄土を願うすべての人の実践書である書に、個人的な
  哀悼は師の教えからしても意味のないことであったろう。】

とし、師の著作『極楽浄土九品往生義』を無視している点については、

 【良源が仰を奉じて『九品往生義』を編したことになっているが、それは名目上のことで
  あって、現実には良源門下の弟子たちの作ではないだろうか。源信は無理としても
  上席の弟子たちが良源の命を受けて編纂し、良源の名のもとに奉呈した。源信はこの
  作業に従事しないまでも、その事情を知っていた。したがって、『九品往生義』を
  師作とはせず、直接には自著とはかかわらないこともあって、これにふれなかったと
  推測したい。】
  (いずれも前掲書より)

とする。

わたくしはもちろん、『九品往生義』を誰が書いたかなんて論じる知識はありませんので
何とも言えない部分はあるものの、ありえない話でもないと思う。

増賀や性空は、叡山を出ても完全に縁を切った訳じゃない。
ので、自分の道を求めて出ていった弟子たちも単純な感情論で
その道を選んだということでもなさそうで、やはり良源さんや叡山には魅力があったのだろう。
叡山に残った源信たちはなおさらその魅力を感じていたんじゃないかと思いたい。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年05月21日 23時07分46秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: