戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年06月16日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
話が前後して恐縮ですが、天禄3年(972)、
良源さんが60歳の時に書いた遺言、『慈恵大僧正御遺告』について紹介します。

これは天台座主となって6年目の時のことで、
東塔の堂宇の復興を終え 「二十六ヶ条制式」 を発布し、
さらに横川の独立という座主としての最初の一連の大仕事が一段落したところで、
良源さんは病に倒れた。

幸いこの時は2週間ほど寝込んだだけで回復したけど、
もう還暦も過ぎたし(←数えだと61歳)、人はいつか必ず死ぬ。


「ワシが死んだあとは、お前達の好きにせいや~。
どうなろうと、それが運命じゃけえ~」


てほっぽらかしにせず、実にこまごまと指示を出しているのが
いかにも良源さんらしい。


まずは不動産関係についての記述から始まる。
一番最初に来るのが自分の住房である定心房についての指示で、
これは禅師の君へ委託するとし、弟子たちは必ず従うように厳命している 。

その次に来るのが 藤原師輔の出資による真言堂 。
ただ、どうも真言堂は100%九条家の出資という訳でもないらしく、
『御遺告』で良源さんが語るところによると

右は故九条殿下(師輔)の仰せの旨によるものであり、材木を用意している間に
  殿下は薨去された。これによって、前の中宮(安子)が造立されたものである。
  材木の資金の半分は殿下がご存命の時に充てられ、また中宮より資金にと
  米百斛ばかりを賜った。この他の材木や資金は私が方略を廻って工面したもので、
  これすなわち御周忌の所とするために急ぎ造営したものである。つまり、
  件の造営資金の半分以上は私が奉仕したものである。(意訳)


資金の半分以上って、まだ良源さんも発展途上だったのに

まあ、半分近くは師輔と安子の遺産でもあるし、
自分の出資分も混ざってるとはいえどのみち禅師の君は自分の後継者でもあるから、
これもまた禅師の君に委ねるとしている。

真言堂の完成からまだ10年ちょっとしか経ってないのに、
『御遺告』を書いた時点では

年来の風雨による被害で、近頃では雨漏りが甚だしく、屋根を葺き替えたいと
  思っているうちに余命が尽きようとしている。


ので修理を頼むね、もし自力じゃ難しい時は、
太政大臣・伊尹(これただ)やその弟君を頼りなさいとアドバイスしている。

伊尹は師輔の長男なので、その「弟君」ももちろん師輔の子。
つまりは師輔の10男である禅師の君にとっては腹違いの兄たちということになる。
良源さんもちゃっかり・・・いへ、しっかりしておるの~(笑)。
ちなみに、真言堂には師輔の「両部曼荼羅ならびに御本尊」があり、
安子の「極楽浄土」・・・これは何なのかわからないけど、
阿弥陀様一行の来迎図か浄土関係の何かがあったということだろう。

そのあとで東塔や西塔などにある不動産について触れて
それぞれ継がせる弟子を指示してるんだけど、
その中には弟子の年老いた母が住んでいる房もあり、
病の床にあっても彼女らのことを考えるともう泣けて泣けてしょうがないから、
みんなでマメに訪問して便宜を図ってやってくれ、と頼んでいる。

不動産の中には弟子の母のために建てている建設途中の屋もあり、
母思いの良源さんの素顔が垣間見える遺言でもありますが、
それ以外の意図もあったかもしれません。

 【三千人近くの衆僧をかかえる、比叡山延暦寺は、その信仰と理性の筋をとおすには、
  大きくなりすぎていた。にもかかわらず座主としては、この課題に挑戦しなければ
  ならない。二十六ヶ条の御制戒も、広学竪義も、華やかな五堂法会もそのための
  試みではあった。しかし、学僧良源はそのような叡山に期待はしていなかったのである。
  だからこそ、横川を独立させたかった。増えたとはいえ住僧二百口。東塔や西塔に
  比べると、五分の一から四分の一。まだここの各谷の住僧たちは顔を見知っていたし、
  師資をさぐればすべてが良源につながっていた。(中略)天台宗、ひいては日本仏教
  全体への危機感から、二百人の小さな信仰集団としての結界と、研学の絆をかためて
  いく必要があった。】
  (『女人成仏への開眼』より)

うん、確かにね。
よく良源さんは「弟子の数三千」とか言われるけど、
それは叡山全体の数を指してるんだと思う。

横川を独立させる時、良源さんは「横川もずいぶん僧が増えたから・・・」
と言っているもののたかだか200人で、なんでこの段階で
横川を独立をさせたんだろうとも思う。

もちろん、二塔の干渉を離れて自分の牙城を築きたかったという面もあるだろうけど、
そうして出来上がった第三の塔は、優秀な学僧をぼんぼん輩出するというものだった。

師輔から禅師の君に譲られた土地の管理について書いた項目では、

自分の一周忌には必ず八講を行い論議すること。世人はこれを忌むが、病僧の本業は
  この道にある。また、成仏のためにはこの道を勤めるべきなのだ。もし報恩の志を
  持つ者がいれば、必ず講説論議を修めるべし。他の善行はいらぬ。


論議だけ聞かせてくれればいい、あとはな~んにもいらない。
「病僧の本業はこの道にある」との思いが特色ある横川を作り上げた。

そうしてできた「小さな信仰集団」を守り続けていくために、
これだけの細かい指示を出したようにも思える。
小集団ならではの固い結束。
弟子の母への配慮を怠らなかったのも、そういう「絆」の一環なんじゃないだろうか。

その一方で、学僧として名を馳せた弟子たち・・・
平たく言えば、禅師の君を除く「四哲」の3人はここに名前が出てこない。
でもそれは 「(165)」 で引用した適材適所の平林氏の解釈が妥当と思われるので、
これも別の形での「絆」なんじゃないかと思う。


それから山科の妙業房も出てくる。

件の房は先の大師上綱が入滅された所で、大師入滅の後、火災に遭って焼失して
  しまい、遺弟は多くいたがこれを引き継ぐ者はいなかったので、私が11間二面庇の
  板屋に仕立てた。寝殿が1棟で3間、四面庇、うち一面は孫庇付きとして去年完成した。
  (後略)


てな感じで、建物のほか荘園についても指示を出しつつ、
誰から譲り受けたとか誰が出資してくれたとか実に細かく書いている。

荘園の中で興味深いのは、出雲国嶋根郡の「三津厨」という土地の施入を受けていたそうで、

海藻等が上がり、不断念仏や八講などの僧供料に充てられていた。

だって。
「三津厨」が具体的にどこなのかはわからない。
出雲市に日本海に面した「三津町」というのがあるけど、
ここのことなのかな・・・
まあ、海藻がうんたらって言ってるんだから、海沿いの土地には違いないよな。


不動産の次は法具などの小物関係で、ほとんど所持品の目録のようになっている。
ホントに病床で書いたんですか?ってほど細かいし結構長い文章なんだけど、
全体の4分の3までは不動産や小物の処遇にからめて
自分の跡を継ぐのは禅師の君であることを明言し、
自分への供養よりもまず先に横川発展の恩人である藤原師輔の菩提を弔うよう
言い残している。
何年経っても師輔への恩義を忘れない、律義な性格が窺える内容です。



さて、実は結構良源さんの遺言は有名で、一般に食いつかれるのは
『御遺告』の最後の4分の1程度の部分。
何で人々が食いつくのかとゆーと、自分の葬儀から埋葬までも
きっちり指示しているからです。

墓地は急ぎ建てること。もし建てる前に命が終わったら、北の勝地を選んで建てるように。
  棺は存命中に作っておく。これも出来上がる前に命が終わったら終日急ぎ作らせ、
  夜のうちに納棺せよ。よい日時を選んではならない。死後3日のうちには必ず埋葬し、
  引き延ばしてはならない。遺弟等は素服縄帯を着けてはならない。ゆめゆめこの教えに
  背くな。墓所は高屋板垣等で例の作法のごとくせよ。


なんでいちいちこんなことまで指示するかとゆーと、
結局座主であり横川の長でもある自分が死ねば、
手間暇とカネをかけた葬儀が行われるのだろう。
でも、そんな必要はないってことらしいです。
「素服縄帯」というのは喪服のことで、

 【本来僧侶は重服の時以外は喪服を着用しないのがならわしであり、良源の死は重い服忌
  (ぶっき)でないことを強調したものである。山上諸堂舎の復興供養は盛大に行いながら、
  自己の葬儀は全く質素でよいとする考え方で、弘法・求道のためなら費用を惜しまない。
  場合によっては俗権と手を結んでもよいが、単なる形式的なことは質素でよいという
  ものであろう。】
  (『人物叢書 良源』より)

だそうな。
「重服」というのは重い喪のことで、父母の喪に際して着る服らしい。
これだけならそれほど注目には価しないけど、その次に入棺・荼毘・
骨を拾う人および留守人を定め、

右卒塔婆は運んで作りたいと思っている。もし運ぶ前に命が終わったら、急いで仮の
  卒塔婆を立て、その下に3~4尺ばかりの穴を掘り、骨を穴の底に置いて土をかぶせる
  ように。四十九日のうちに石の卒塔婆を立てるように。これは遺弟等が時々やって来る
  だろうから、彼らの目印とするためのものである。卒塔婆の中には大佛頂尊勝光明五字
  阿弥陀等真言を安置せよ。これらは生前に用意しておきたいが、書けないまま入滅した
  ならば、良照らが書いて欲しい。

骨を納めてもまだ終わりじゃありません。
良源さんの臨終RPGは死後の供養にまで到り、

四十九日までは念仏を行うこと。
  法華堂で12人(御堂で1日3回懺法を行う)、常行堂で14人(御堂で3回念仏を行う)。
  また念誦堂では読経僧10人(朝夕法華経を読み、最初と最後の日には尊勝真言を念ずる)、
  念仏僧10人(3回念仏をする)。

  一七日(7日め)は常の僧衣で念誦堂で誦経する。
  三七日(21日め)は常行堂で。五七日(35日め)は法花堂で。
  七七日(49日め)も誦経せよ。

  5月3日から16日まで、病床にてこれを記す。改めることがあれば、追記する。

とここで一旦終わるものの、後から大事なことを思い出したらしく、

入滅の日には御願と私印の二つの印を妙香房に奉るべし。一面は楞厳院のもので、
  院司領掌については前唐院の定めに従うこと。四十九日を過ぎれば、妙香房をもって
  御願院の検校とする解文を申請せよ。早々に言上すべし。

と、四十九日が過ぎたら正式な手続きをもって禅師の君が自分の跡を継ぐように、
と明記して『御遺告』は終わる。


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最終更新日  2015年06月16日 23時00分09秒


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