戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年07月18日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
唐門の前には両サイドに銅灯篭がある。



叡山4・毘沙門堂47


ここはもちろん、銅灯篭へ食いつくでしょう。
素材もさることながら、全体的なデザインはわたくしがよく見慣れたものだからね。

まずは外観からね。


叡山4・毘沙門堂41



叡山4・毘沙門堂44



叡山4・毘沙門堂45



叡山4・毘沙門堂49


寛永寺(つか、現在の上野東照宮)の銅灯篭はまだ全制覇してませんが、
徳川家と大名のとではデザインが違う。

※上野東照宮の御三家の銅灯篭は 「上野第二編(69)」 ~ 「(70)」 、
大名家の銅灯篭は 「上野第二編(39)」 ~ 「(43)」 参照。

まあ、御三家の銅灯篭もそれなりにバリエーションはあるけど、
共通する意匠があるので大名家の奉納品か徳川家のかは大ざっぱに見分けがつく。

日本全国に腐るほどある寺の総数からいえば

しかもまともに観るようになったのはここ数年のことだから、
経験値はかなり低いのだけど、それでも個人的な印象からすると
銅灯篭なんてものは限られた場所にしかないと思われる。

今はいくつかの寺に分散しているけど、おそらくかつては
5本の指で足りるぐらいの数の寺にしかなかったものじゃないかと思う。


寛永寺の 根本中堂 や 両大師 にあるもの。
この2つの境内にある銅灯篭の銘は、今はない。
たぶん、銘がつぶされたんじゃないかと思う。
(銘を再確認した記事は 「寛永寺にほとけが集結してます(1)」 )

大名の奉納品は色んなバリエーションがあって、
将軍霊廟への奉納だから皆様気張って造ったのか、
それぞれのデザインの違いを楽しむことができる。
そういう点では大名の銅灯篭の方が観ていて楽しいとも言えるけど、
毘沙門堂のは割にスタンダードに近いような・・・

でも、よく見ると違う部分もあるしそれにこれ↓


叡山4・毘沙門堂43



叡山4・毘沙門堂46


笠に龍が付いてるのは徳川家のによくあるパターンだけど、
火袋の部分からこんな風に突き出してるのは今のところ観た記憶がない。
とすると、大名家系に分類した方が適切かな?

そりゃね、シロートがデザインだけ見てどなたの奉納かなんて
わかる訳ありません。
でも、銘を見て納得できるようであれば、わたくしだっていちいちこんなこと
考えたりしません。
つまりは 浄土院 のように銘に納得していないってことですが、
向かって右手の灯篭は

 【毘沙門堂御寶前
  前天台座主一品公寛親王御寄附
  享保六年辛丑三月吉祥日】

向かって左側は足場のようなものの中に埋没していて
左右どちらとも観察はしにくいのですが、
日付と毘沙門堂あてなのは向かって右のと同じ。
ただ、「毘沙門堂御寶前」と日付との間になにやら文字があって


CIMG0845


輪王寺宮の墓は数えるほどしかお目にかかってないのですが、
「○○院殿」としている銘は見たことがない。

この銘の不自然なところは、「毘沙門堂御寶前」と日付はかぼそい字なのに
はっきり読める。
なのに、上の写真で白くなってる「ナントカ院殿」の部分は
はっきりした彫り方のハズなのに、文字がかなり不明瞭。
その上、通常銘が刻まれる部分の地は汚い。

わたくしが何を考えているか、もうおわかりですね。
ここの灯篭も元の銘がつぶされたような気がするんですよ。
だって宮が銅灯篭を寄進するなんてのもなんか変だし。

「ナントカ院殿」の部分がもうちょっとはっきり読めたらな・・・
けど、全体的な文字のカンジからすると、
わたくしには「大猷院殿」に見えてしかたがない。

まあ、わたくしの知識なんて乏しいものだから、
歴代輪王寺宮にゆかりの深い毘沙門堂に公寛法親王が灯篭を寄進したとしても
別におかしくはないのかもしれない。

それにしてもなんだかな・・・
享保6年(1721)?
吉宗の時代か・・・
と、ここでその頃に 家光(大猷院)の上野霊廟 が焼失したことを思い出した。
で、寛永寺シリーズを読み返してみたところ、家光の上野霊廟が焼失したのは
享保5年(1720)だった。

家光の墓は日光にあり、霊廟としての「大猷院」ももちろん日光にある。
でも寛永寺にも家光の霊廟が造られ、ちょうど焼失した時期の将軍が
倹約令で有名な8代・吉宗の時代だったため、家光の上野霊廟は再建されなかった。
そして、家光の上野霊廟の勅額門とされるものは
現在4代・家綱の霊廟を守る門として現存している( 「上野第一編(2)」 参照)。

家光の上野霊廟にもそこそこの数の灯篭が奉納されていたハズで、
再建せず規模を縮小のうえ家綱と合祀したのであれば、
置き場所に困った灯篭のいくつかをお下げ渡しにしたとしても
流れ的にはおかしくはない。

もちろん、浄土院の灯篭のように近代に入ってから毘沙門堂へ移されたって可能性も
なくはないけど、たぶんそれだったら奉納当時の僧侶の名前が刻まれるだろうし、
わざわざ公寛法親王の名を持ち出す必要なんかない。

ので、結論としてはもともと寛永寺の上野霊廟へ奉納されたものが
霊廟の焼失によって多少整理する必要に迫られたこともあり、
輪王寺宮・公寛法親王の名をあらたに刻んで公寛法親王から毘沙門堂へ
贈られたものじゃないかと推測いたしました。

他の可能性としては江戸城内にあった紅葉山の霊廟へ奉納されたものもあるけど、
紅葉山のなら江戸期よりは明治に入ってから移される可能性が高い気もするし、
毘沙門堂への奉納と家光の上野霊廟の焼失時期がちょうど重なることから、
寛永寺にあった灯篭という可能性の方が高い気がする。

寛永寺シリーズで書いたように、歴代輪王寺宮は天台座主も務めているものの、
輪王寺宮としての任期と天台座主としての任期は必ずしもイコールではなく、
公寛法親王は196世と199世の2回天台座主を務めているようで、
1回目は享保3年6月13日からで、2回目が享保16年5月27日からだから、
1回目の座主を務めたあとにこの灯篭が奉納されたものと思われます。

もしこのつぶれてる銘がホントに大猷院殿だったなら
日光にあった灯篭という可能性もなくはないですが、
日光から流出するとは考えにくいので、やはり寛永寺の可能性が高いと思います。

実は毘沙門堂の灯篭について論文を書いておられる方がいるらしいんだけど、
おしくもそれが入手できなかったので、もし入手できたらまた報告するかもしれません。
どういうことが書かれているのか非常に興味がありますが、
手に入らなかったものは仕方ありません。
国会図書館まで行けば手に入るでしょうが、今はなかなかその時間も取れそうにないし


んで、これが残りの唐門の写真↓。


叡山4・毘沙門堂51



叡山4・毘沙門堂53


↑これは蟇股を裏側から見たところだったかな。
蟇股の後ろにさりげなく菊の御紋が・・・
菊と葵、この2つが毘沙門堂の格式を表わす象徴とも言えるでしょう。
して、門のところにはこんなものも↓。


叡山4・毘沙門堂52


いちまんえんか・・・
気軽に出せるお値段じゃないな。
そういえば、 寛永寺両大師ののぼりも一万円だった っけ。
これが相場なのかな(笑)。

さてこちらが唐門をくぐってすぐのところにある本殿↓。


叡山4・毘沙門堂76


ここまではタダですが、内部拝観は有料。
この時はオフシーズンの平日にもかかわらず、
さすがに山科の名所だけあってぱらぱらと拝観者はいたものの、
内部まで入る人はあまりいなかった。

わたくしはもちろん入りますよ。
事前の調べでは、ご住職などがお手すきであれば
説明に付いてくれるみたいなことだったんだけど、
受付でお金を払ってもおじさんは何も言わなかった。

説明について聞いてみようかとも思ったけど、
一般の拝観者と食いつきどころの相違が多いわたくしは
自分のペースで観たいという思いもあり、まして今回は宮萌え~で行ってるので
一人で静かにまったりしたくもあり、説明はお願いしなかった。

受付のおじさんは、観る順路と見どころなどを教えてくれた。
それを聞いてリーフレットをもらってから、いざ中へ。


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最終更新日  2016年04月21日 17時31分02秒


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