戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年07月19日
XML
カテゴリ: 旅日記(近畿)
現地ではまず中へ入っていったのですが、
ここでは本堂の外観から紹介しましょう。

叡山4・毘沙門堂75


本堂の方も、どうやらごく最近になって化粧直しをしたらしいな。
わたくしがこの写真を撮り始めた時、ご住職らしき人が小グループに説明をしていて、
それを聞きながら撮ってたんだけど、修理にあたって扁額を解体したところ、
パーツが40いくつあったと言っていた。

たぶんこの扁額のことだと思うんだけど、四方にある飾りはかなり細かいものだから、
確かにそれぐらいのパーツで構成されててもおかしくはない。

修理前の扁額はかなりおいたわしいことになっていたのだろう。
それじゃ、写真をガンガンいきますよ~。


叡山4・毘沙門堂77


叡山4・毘沙門堂78


叡山4・毘沙門堂80


叡山4・毘沙門堂81


叡山4・毘沙門堂82


叡山4・毘沙門堂84


叡山4・毘沙門堂85


叡山4・毘沙門堂86


叡山4・毘沙門堂87


叡山4・毘沙門堂88


叡山4・毘沙門堂89


叡山4・毘沙門堂90


叡山4・毘沙門堂91


叡山4・毘沙門堂92

ふっ・・・

それもそのはず、ご住職の説明では東照宮と同じ業者が・・・
みたいな話をしていた気がするけど、そんな説明聞かなくっても
デザインを見れば幕府直営の日光や寛永寺と同じ系統にあるってことがすぐにわかる。

さてそれでは中へ。
内部は撮影禁止ですので、写真はありません。

 【本堂

  本堂は将軍家綱が大壇越となり、紀伊と尾張の徳川家から材木が寄進されて、
  寛文6年(1667)に竣工した。全体に漆塗や彩色彫刻が施されて豊かな装飾に
  特色が見られる。本堂の前方に建つ唐門・仁王門は共に本堂と同時期のもので、
  和様と禅様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる
  雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上
  17世紀後半のものと考えられる。】
  (本堂内部の解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)


再建がどーのとか書かれてないから、毘沙門堂が現在地に移転して
復興された当時からの建物ってことかな。
唐門・仁王門についてもこう書かれてるってことは、
毘沙門堂では大きな火災がなかったってことだろうか。

外側はペカペカにお色直しされてたけど、中は畳も古いし(笑)
いかにも長い歳月を経た雰囲気。
ま、畳が古いと言っても内部はさすがに見事なもので、
入口に近い側の外陣の天井は格天井(ごうてんじょう)で格子の中のそれぞれには
絵が描かれている。
内陣の天井は細格子。

正面におわすのが御本尊で、毘沙門堂のホームページに掲載されている写真
そのままの御厨子とお前立がいらした。
この御本尊は秘仏で、最澄自刻の毘沙門天だと毘沙門堂サイドでは紹介しているけど、
わたくしにはちょっと違和感がある。

だって、ここの兄弟分が 日光輪王寺の秘仏・鎮将夜叉(ちんじょうやしゃ)像 だと
思われるのに、日光では「鎮将夜叉」といい、毘沙門堂では「毘沙門天」だという。
毘沙門堂のウリは、 葛原親王が最澄から授けられた鎮将夜叉法 を伝えるという
ものなんだから、鎮将夜叉法の御本尊は当然鎮将夜叉様じゃないのかって
気がするんだけど、どうなんだろ?
輪王寺宝物館の解説では鎮将夜叉像の「尊容(おすがた)は、
七福神の毘沙門天に相似する」としているから確かにビジュアルは似てるんだろうけど、
「天」と「夜叉」じゃずいぶん違うしな・・・


御本尊の向かって右側には、イエアスの坐像がある。
若くてきりりとした容貌で、衣冠束帯で笏を持って坐っている木像で、
イエアスを荘厳(しょうごん)する瓔珞(ようらく)なども実に素晴らしい。

向かって左側にはお不動様のコレクションがある。
どれも変わったビジュアルのものばかりだった。

本堂では香時計が静かに時を刻み、他に誰も拝観者がいないので
菊や葵がちりばめられた意匠やハイレベルの美術工芸品をしばらく眺めていた。
さすがに格式の高い毘沙門堂だな・・・
外部とは扉一枚隔てただけなのに、内部は時間が静かに流れる別空間。
毘沙門堂へ来たら、ぜひ内部も拝観することをお勧めします。


本堂と廊下でつながった奥にあるのが、御霊殿。
有料エリアの建物内はどこも撮影禁止だけど、外の部分なら許されるだろうと
数枚写真を撮ってますが、確か本堂から御霊殿へ向かう途中の光景がこれだったと思う↓。

叡山4・毘沙門堂62


え~、位置関係からすると左に写ってるのが霊殿で、その奥が「高台弁才天」。
毘沙門堂でもらったリーフレットによると、豊臣秀吉の正室・おねが
大坂城内に祀っていたものを移築したものだという。

大坂城内?
どの時点での移築だろ・・・
毘沙門堂は最澄ゆかりの古くからの名刹とはいえ、
秀吉が健在の頃なら江戸期ほどの格式はまだ持っていなかっただろうし、
その頃毘沙門堂の前身である出雲寺はかなり荒廃していたはずだから、
秀吉が生きていた頃はもとより、大坂の陣以前の移築はちょっと考えにくい。

流れ的には大坂の陣以降、天海以下の寛永寺の面々に手を貸した
徳川家がらみで移築したと考える方が自然な気がするけど、
あの大規模な大坂城攻めで弁天堂が残れたのか?って疑問も湧く。

ま、とにかくこの弁天堂は別名を「不老弁才天」ともいうそうで、
多くの庶民の信仰を集めているんだそうな。

上の写真にも写ってますが、霊殿は


叡山4・毘沙門堂63

亀腹だあ
廊下を伝って歩いているので、あいにく霊殿全体の写真はありませんが。

 【御霊殿

  御霊殿の造立は元禄6年(1693)で外陣の天井画の黒画丸龍図はその
  西北隅に狩野永叔主信(1675~1724)の落款がある。永叔は狩野安信の
  嫡孫弟で、中橋狩野家の当主として活躍した。】
  (霊殿内部の解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)

御霊殿は元禄6年(1693)公弁法親王の建立だそうな。
ま、公弁法親王とはいっても、もちろんカネは幕府から出てるでしょうけどね。
5代将軍・綱吉は寛永寺の堂塔伽藍も一挙に建立して、
綱吉&公弁法親王の代で寛永寺の主要堂宇がほぼ出揃っている
けど、
毘沙門堂まで援助してたってことか。

解説の通りここには天井に龍がおり、御本尊である阿弥陀様の両脇には
厨子に入った小さな坐像が数体と、はじに位牌がある。
わたくしは現地では位牌までは覗きこまなかったけど、
これはどうやら徳川将軍たちのものだったらしい。
おそらく、表には出ていなくてもここには輪王寺宮のお位牌もあると思うけどね。

この旅より後に行った旅では、いくつかの寺で徳川将軍の位牌を祀っているのを見た。
中には、悪いけど

ええ、何でここに位牌があるか!?

って寺もあったぐらいなので、朝廷と幕府をつなぐ輪王寺宮のふるさととも言える
毘沙門堂で徳川将軍の位牌を祀っているのは何の不思議もない。

霊殿内陣のふすまなども見事な障壁画。
本堂に続き、さすがは毘沙門堂といったカンジです。


霊殿から廊下を伝って入るのが宸殿(しんでん)。
霊殿あたりから見た宸殿↓。

叡山4・毘沙門堂64


たぶん渡り廊下付近にあったものだと思うけど、閼伽井(あかい)↓。

叡山4・毘沙門堂65


閼伽井の上屋の瓦は

叡山4・毘沙門堂67


れんかちゃん(蓮花-れんげ-紋)だあ
しかし、鬼板のところはなんだろ?
見事に破損しておるぞ。
自然な劣化なのか、それとも意図的に破壊したか?
意図的らしきものは寛永寺で沢山見てるけど、もっと綺麗にぽっかりしてたぞ。
なら、自然発生的なものか。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年07月19日 22時21分09秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: