戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年08月08日
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カテゴリ: 江戸めぐり
回向院の墓地はおおむね奥の方にまとめられているけど、
観臓記念碑の隣にはこんなのがあって↓


南千住・回向院11


この裏手にいくつもの墓が整然と並べられている。
回向院には安政の大獄で処刑された志士や桜田門外の変の実行犯や
その他著名な犯罪者など色々な墓があるらしいが、
今回は思いつきで寄っただけで事前の知識は何もなかったし、
このクソ暑い中でわたくしがお目当てとしていた墓は限られていたので、
ここのエリアはスルー。


ので、そのまま境内の奥の方へ進むと正面に解説板があった。

 【荒川区指定記念物(史跡) 小塚原の刑場跡 回向院

  小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから
  移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り
  (約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は
  草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に
  位置していました。

  小塚原の刑場では、火罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、
  刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて
  行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ
  後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)は


  明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、
  記念の地となっていきました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、
  ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し
  「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内には
  こうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。】


この解説板の向かって右手が史跡エリア。
解説板には墓の場所を示す図もついている↓。


南千住・回向院12


あれ、鼠小僧の墓がこんなとこにある。
まあ 本所の回向院の墓 は供養墓って書いてあったもんな。
埋葬はこっちにされたってことか。

解説の中に「回向院下屋敷」とありますが、
ここはもとは本所回向院の別院という立場だったらしい。
でも本所の鼠小僧の供養墓には昔から多くの参詣人が詰めかけ、
「欠き石」は現在までに数百基置き替えられていると本所の解説にあったし、
今では受験生まで祈願に来るというから、
昔も今も「鼠小僧の墓」は本所の方がメジャーだったってことだな。
徳川家の馬がここに埋葬されたっていうのも、 徳川家綱の愛馬の話 を考えれば
いかにも回向院らしいエピソードだってカンジですね。

え~と、鼠小僧の墓の近くには「毒婦」といわれた高橋お伝の墓もあるな。
ふんふん、今回のお目当ては一番奥のようだから、通る時に見ていこう。
そういえば、八百屋お七が火あぶりになった時の台の石が残ってるとかって話を
前に読んだことがあるけど、あれは鈴ヶ森の方だったかな。

で、大体の場所を確認してから墓地へ向かうと、史跡エリアの門扉には


南千住・回向院13


やっぱ、回向院だ~(←こればっか)。
門を入ったところの全景↓。


南千住・回向院14


墓地に慣れているわたくしといえど、今回ここに来る予定なんか全くなかったし、
ゆえにノリノリで来ている訳でもない。
勢いで南千住で降りてしまったのは本当に魔が差したとしか言いようがないのですが、
ここはただの墓地ではなく有名な刑場地。
ので、暑かったせいもあるけど手早く観るものを観て早くここを離れたかった。
そのためか、墓地の配置図を確認して1分も経ってないのに、
鼠小僧と高橋お伝の墓のことは門を入った時点で綺麗に忘れてました

それで、ずんずんと奥まで進む。


南千住・回向院15



南千住・回向院16


これが橋本左内の墓で、この手前にはデカい顕彰碑が建っていた↓。


南千住・回向院17

文字は細かいし漢文だしとてもまともに読もうなんて気にはなれなかったので
ボケ~としてこれを眺めていたのですが、静かな境内に突然かすかな音がした。
小伝馬町の「穴」の近くにいた時、風もないのに急にのぼりがギイギイと
嫌な音を立てていた
のを瞬間的に思い出した。
ここでも、風がないのに変な音がするう・・・と思って音のする方を見たら、
墓のすぐ裏手に建つ建物で静かにカーテンを閉めている音だった。

なんだ、カーテンか。
おどかすなよ。
つか、墓の裏手に住む人ってなんでわざわざ人が墓参りしている時に
邪魔するような音を立てるんだろう。
中なんか覗かないっつの
(以前に墓参りを邪魔された記事は 「吉備路編(5)」 を参照)


で、こちらが墓石↓。


南千住・回向院18・橋本左内の墓

ここには碑文がある。

 【橋本景岳先生の生涯と墓所の由来

  橋本景岳先生は、天保5年(1834年)3月11日、福井藩の藩醫橋本長綱の
  長男として生れ、名を綱紀、通稱を左内、号を景岳(けいがく)又は藜園(れいえん)
  といった。幼少の時から学問を好み、やがて藩儒の吉田東篁(とうこう)について
  儒学を学び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿について蘭学を修め、
  その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓発録」
  (けいはつろく)は、嘉永元年、15歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、
  思想は、すでにこの著書の中に示されてゐる。

  嘉永6年のペルリ来航以来、わが國は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主
  松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその
  側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに
  春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって
  隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽囚の身となり、翌6年10月7日、江戸傳馬町の
  獄内において死刑に處せられて、26歳の短かい生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、
  安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。

  先生刑死の日、同藩の長谷部恕連(よしつら)は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を
  小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、
  幕吏は刑人の墓を建ててはならないといって、これを許さなかったので、改めて「藜園墓」
  の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許された
  ので、文久3年(1863年)5月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の
  橋本家墓所に改葬されたが、明治26年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして
  再建され、さらに昭和8年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が
  設けられて今日に至った。

  套堂の向って右に聳えてゐる巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18年、先生と親交のあった
  福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の
  友人重野成齋の作により、巌谷修が書し、三條實美が篆額したものである。
  昭和49年10月 景岳會】
  (現地碑文より原文のまま。ただし旧字は一部新字に改めた箇所あり)

とな。
春嶽公(松平慶永)も一時期は苦しい立場にあったからねえ・・・
この頃の福井藩のことはあまり知らないんだけど、
側近の三岡八郎(由利公正)も蟄居させられたりしてるしなあ。
左内が処刑された時はさぞかし春嶽公も心を痛めたに違いない。

にしても、一旦は福井へ帰郷した墓石がここに戻されたというのがオドロキだけど、
刑場の歴史を伝えるという意味では有意義なことだと思う。


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最終更新日  2015年08月08日 21時48分43秒


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