戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年08月23日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
わたくしがこの旅で最初の2日間を過ごしたのは、
山科駅前にあるホテルブライトンシティ京都山科。
そこを通過して南下すると、細い道を挟んでお隣に大丸があるのですが、
ホテルと大丸の間にあるこの細い地味な通りが


叡山4・山科の東海道


旧東海道。
薗田秀延も、ちょうどこの写真の地点あたりから東海道を外れて
毘沙門堂の参道に入っていったかもしれない。

大丸の先にある三条通りを西に折れて、安祥寺川が出たところで



叡山4・別院へ


まったく知らない土地でも、馴染みの店なんかがあるとほっとする↓。


叡山4・別院へ2


デーツーって関東の方にしかないのかと思ってたけど、全国展開なのか?
チープな品ぞろえの多いしまむらは、安物買いのわたくしの大好きなお店です

この近くには東西の本願寺の別院がそれぞれありますが、
しまむらを過ぎてまず現れるのが東本願寺の山科別院(場所は こちら )。

そうなんです、山科といえばかつて山科本願寺があったところ。
ま、今回は叡山関係が中心の旅だったのでぶっちゃけ本願寺なぞ
眼中にございませんでしたが
山科駅の構内に本願寺の案内が貼り出されてるのを見て
戦国モードではなく仏教モードで行ってみようかという気になって
ここまで足を延ばした訳です。
行きあたりばったりでも自由に予定を入れ替えられるのが、
一人旅のよいところでございます。


叡山4・東本願寺山科別院


叡山4・東本願寺山科別院2・蓮如像

境内に雄々しく立つこのお方は、本願寺中興の祖といわれる蓮如さん。
蓮如さんの若い頃については 蓮如堂 のところで少し書いてますが、
浄土真宗を開いた親鸞は意外にも在世中は鎌倉新仏教の他のお祖師と比べて
世間的にはそれほど名声を博したというほどではなかったらしい。

そうして本願寺は時代を追うごとに落ちぶれていき、
叡山で修行中の蓮如は信者からはったい粉を恵んでもらうほどだった。

42歳の時に本願寺第8世となるが、その後は延暦寺から仏敵とみなされて弾圧に遭い、
現在の知恩院のあたりにあった大谷本願寺は延暦寺西塔の僧徒によって破却された。
これにより蓮如は付近を転々とすることになるが、文明15年(1483)8月22日、
山科のこの地に本願寺が完成。

ただ、本願寺が本願寺たる最重要要素である 親鸞の御真影を
園城寺(三井寺)から返してもらう際にもイジワルされた
なんてエピソードがあるので、
蓮如さんも引き続き苦労したものと思われる。

蓮如がこの地を選んだ理由としては、もとの大谷での再興を目指して
大谷に近いところを選んだのではないかなど色々推測されているらしいが、
この辺りには古くから多くの寺院などが存在していたことが
発掘調査によって判明しているんだそうな。

現在の山科は京都市に属しているものの、中心部から外れた山あいにあり
ちと地味な存在。
でも今回、山科に2泊して東山に宿替えしてからも山科へやって来て、
実際自分で使ってみると山科という場所は交通の便もいいし、
すごく便利な土地だなと思った。
もちろん、現在の交通の便というのは当然公共交通機関に左右されるんだけど、
すぐ西には逢坂の関もあるし、古くからの交通の要衝だなと実感した。
現地で、宿替えしなくてもよかったな・・・と思ったぐらいだから。

山科本願寺は6年かけて建設されたといわれ、
内外の寺内町を有するなど大きく発展していった。
山科の後にできたのが有名な石山本願寺で、
新たに石山の地に綺麗さっぱり引っ越したのかと思ったら、
まだ蓮如が生きていた頃で山科も残したまま石山本願寺を築いたらしい。

石山に本願寺が築かれたのが明応6年(1497)。
ふっ・・・室町から戦国にかけては大内氏の歴史が時代認識の基準となる
わたくしにとっては、明応はなじみ深い元号です。

明応2年(1493)に「明応の政変」で将軍職を追われた足利義材(よしき)は
石山本願寺ができた翌年、朝倉貞景(義景のジイちゃん)のもとへ流れ、
さらにその翌年の明応8年(1500)大内義興さんを頼って山口へ入る。
本願寺が大発展していったのはそういう時期です。

義興さんが足利義尹(義材から改名)を連れて京へ進軍し、
ふたたび将軍職へ就けてやったあと、中央政界では細川氏の勢力争いなどで
混乱の様相を呈し、名実ともに本格的な戦乱の時代に入っていく。
そういう中で本願寺も武力を保持し、天文元年(1532)8月、
一揆を起こした法華宗と細川晴元が結んで山科本願寺を総攻撃する。

この戦いで山科本願寺は見事に燃え尽きて陥落。
翌天文2年(1533)に石山へ本拠地を移す。
のち、石山合戦を経て石山本願寺の地には秀吉と家康がそれぞれ大坂城を建てるが、
大坂城趾には現在でも蓮如が袈裟を懸けたという松が残っている↓。
(ほとんど松が写ってないけど気にしないで)


蓮如上人袈裟懸の松


 【蓮如上人袈裟懸の松

  本願寺第八代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し
  明応8年2月まで居住す。天文元年8月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に
  移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。
  永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。
  而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。天正11年豊臣秀吉
  大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに
  往昔を偲ぶ。             

  本願寺津村別院誌(抜粋)】
  (大坂城趾の現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

大坂の陣であれだけの攻撃を受けて蓮如の松が残るってホントかよ・・・
とついツッコミを入れたくなるのはわたくしだけではないでしょうが
山科別院へ戻りましょう。


叡山4・東本願寺山科別院3



叡山4・東本願寺山科別院4


え~っと、立派だからこれが本堂かな↓。


叡山4・東本願寺山科別院5


破風んとこもすごい↓。
ネットがかかっているのが実に惜しまれます。


叡山4・東本願寺山科別院6


留蓋は


叡山4・東本願寺山科別院8


おっと!
これは松戸の 香取稲荷神社 や上野の 花園稲荷神社 にあったのと同じタイプだな。
絶対波だよな、これ。

軒丸瓦はもちろん


叡山4・東本願寺山科別院9


別の留蓋には狛犬もいたけど、


叡山4・東本願寺山科別院10


あらぬ方向を見ているので彼の正面側に回ったらこんな顔だった↓。


叡山4・東本願寺山科別院11


笑ってるよ・・・
これじゃ魔除けにはならんな。

さて、わたくしが入ってきたこの門↓


叡山4・東本願寺山科別院12


は脇の門だったらしく、本堂がこれだけ立派な姿をさらしていても
これは側面だった。
のでお堂の正面へ回ります。


叡山4・東本願寺山科別院13



叡山4・東本願寺山科別院14


お堂の正面を飾る2つの大きな石灯篭は、なんだかすごく変わってる↓。


叡山4・東本願寺山科別院15


灯篭の裏には文久2年(1862)の銘が入っている。


叡山4・東本願寺山科別院17


賽銭箱の上にはこんなものが懸かってたんだけど↓


叡山4・東本願寺山科別院16


興味を持たなければするっと見過ごしてしまうものだと思うけど、
仏教美術ってのも色々あって面白いもんだな~と思いながら撮影。



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最終更新日  2015年08月23日 22時55分47秒


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