戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月05日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さて、鎌倉府の長となった足利義詮を補佐する最初の関東管領となったのは、


足利氏略図-2


後醍醐天皇方の陸奥守・北畠顕家は、前回少し書いたように奥州経営に尽力した方で、
京から遠く離れた場所で一定の成果を挙げていただけでもすごいと思うのに、
奥州から2度も上洛を敢行している。
海路じゃなく、陸路をですよ。
当然足利方は妨害するものの2度とも顕家に突破される。

最初に顕家が奥州を離れた際にはそのスキを狙って、
顕家が奥州で築き上げた秩序を事実上の鎌倉府のトップである斯波家長が崩壊させてしまう。

奥州を諦めて2度目の上洛を決行することになる。

そして顕家2度目の上洛の際も下野小山城を攻撃したりしながら南下し
小山朝氏が捕獲された のはこの時)、ずんずん鎌倉に迫ってきた。
この時、斯波家長ら家臣は一旦房総に引いて体制を立て直そうと進言するも、
足利義詮が鎌倉での決戦を主張したといい、激戦の末ここも突破され、
斯波家長は討ち死にしてしまう。

その翌年5月に北畠顕家が和泉で討ち死に。
7月には新田義貞(これも南朝)が越前で討ち死に。
合間の6月には新しい関東管領として上杉憲顕(のりあき)が鎌倉に下向した。

上杉氏の登場で時代が進んだ感がちょっと出てきますが、

北家は「叡山攻め」でさんざん出てきた藤原師輔の九条家などと同じ系統ね。

上杉氏関係図


良房の系統は参考までに載せただけですが、
上杉氏は藤原北家といっても傍系で、勧修寺高藤流という系統の末だそうな。
ウィキペディアによると勧修寺流は【家職として朝廷の実務を担当する家】が

所領としたことに始まるという。

重房の祖父は崇徳院に仕え、重房の父は後鳥羽院に仕え、
どちらも主の天皇の配流にともなって流されており、ゆえに

 【重房の一族は天皇家を中心とした政争に翻弄された感があるが、実務官僚として
  評価されていたからこそ巻き込まれたともいえよう。】
  (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)

という貴族だったようですが、足利尊氏は丹波の上杉荘で生まれたともいわれる。
もっとも尊氏の出生地にはほかに鎌倉と地元・足利の2つの説もあるようなんだけど、
ウィキによると3つの推測地のうち上杉荘がもっとも有力視されているらしい。

いずれにせよ、後嵯峨天皇の皇子である宗尊(むねたか)親王が
鎌倉6代将軍に就任するために下向した際、重房も同行して鎌倉入りし、
上杉氏では2代続けて娘が足利家の子を産んでいるように足利家と積極的に縁組をした。

ま、子を産んだといっても上杉氏の娘たちは正室ではなかったんだけど、
上杉氏の婚姻政策は足利氏の家臣にまで及ぶ。

足利氏の家臣といえば、尊氏とラブラブだった高師直に代表される高(こう)氏が
何といっても有名ですが、高氏は代々足利惣領家の執事を務めた家柄で、
その師直の弟にまで娘を嫁がせていることから

 【足利総領家ばかりでなく、その執事の家にも女子を送り込みながら東国における基盤を
  勝ち取ろうとする上杉氏の姿がみえてくる。そして足利氏との関係が深まれば深まるほど
  惣領と執事との関係の緊密さを実感したはずで、上杉氏が尊氏ではなく同じく清子の子で
  ある直義に接近したのは必然であっただろう。そして、尊氏の側近として成長していく
  高氏との溝が深まっていくこともまた、当然の結果であった。】
  (前掲書より)

前の記事でも書いたように、足利尊氏と直義は2人あわせてバランスが取れるというような
別の優れた才能を持った兄弟であり、前掲書によると2人で分担した管轄から
見えてくる役割は、尊氏が【武士を家臣として従属させる「武家の棟梁」】(=主従制的支配権)
で、直義は【全国を統治する政務の統括者】(=統治権的支配権)といったものだったらしい。
もっと単純に言うと、尊氏が軍務、直義が政務てカンジなんだろうけど。
戦国風にいえば、武断派と文治派ってとこでしょうか。

もともと実務派官僚だった上杉氏が直義に接近したのは、
確かに尊氏&師直主従のラブラブ度が強すぎて割り込めないから弟にすっか~
的側面もあったかもしれないけど、得意分野の同じ直義についた方が
上杉氏にとっても無理のない選択だったんじゃないかとも思う。


関東管領に話を戻しますと、上杉憲顕は関東管領になった同じ年の末に解任された。
替わって関東管領となったのが高師直のいとこにしてのちに猶子となる高師冬だった。
上杉憲顕の解任の理由はよくわかっていないようだけど、
憲顕が関東管領になった年は、1月に南朝の北畠顕家が上洛して
一旦東国は落ち着きを取り戻したものの、5月の顕家の戦死を受けて
顕家のオヤジの親房が秋に下向するなどの出来事があった。

北畠親房の下向については、もともと親房が主役ではなく、
北畠顕家の死によって奥州経営の任にあたったのは顕家の弟の顕信で、
さらに後醍醐天皇の皇子たちもいた。

伊勢から海路で東に向かった南朝の船団は途中で暴風雨にあい、
ちりぢりになった船は鎌倉・房総などの太平洋沿岸に漂着し、
北畠顕信と皇子の1人は伊勢へ吹き戻された。
もう1人の皇子は遠江に漂着して井伊氏に保護されたというんだから、
実にドラマティックというか、歴史って面白すぎ。
初心者にとっては南北朝ってホント勘弁してよ~って
ウザいくらいのめまぐるしさですが、その一方で南朝の足跡ってあちこちにあるので、
集中して勉強すればこれはこれで面白いのかもしれないな。

あ、それで、北畠親房は常陸に漂着したそうな。
現在の稲敷市というから、霞ヶ浦の周辺てことですかね。
そこからつくば市あたりの小田氏に迎えられて常陸を拠点に活動する。
つまりは東国において再び南朝の動きが活発化した訳で、
その後北畠親房が上洛するとその翌月には高師冬は関東管領を解かれているようなので、
南朝対策のために武断派の高師冬が一時的に関東管領になっていたことがわかるという。


さて、戦争状況が少し落ち着いてくると直義の出番が増える。
直義が行ったことは、京と鎌倉の禅宗寺院に「五山十刹」の称号を与えるというものから、
武士に対して「故戦防戦の停止」、一揆と号することや党類を率いての合戦の禁止、
守護が非法を行えば職を没収するといった内容で、故戦防戦の停止とは
戦いを仕掛けた者は理由の如何に関わらず処罰、防戦側は正当な理由があれば無罪だけど
それ以外の場合は処罰するというもの。

これは治安と秩序の回復のために、紛争を武力で解決することを禁じたもののようで、
戦国ファンなら「惣無事令」を連想しますわな。
でも、鎌倉幕府滅亡以降の「戦時」を収束させるには必要な規定といえる。

その次の項目は、血族間や地域間で連帯して保身の手段としてきた武士たちに対し、
徒党を組むなとしており、最後の項目では上に立つ守護でさえ勝手なことすんじゃねえ!と
言っていて、

 【(前略)直義はすべての階層の武士に対して、幕府の統治下における自立した行動、
  「自力」の発動を禁止した。】
  (前掲書より)

ところが、実際にはなかなか混乱は収まらなかったらしい。
どころか、直義の施策は幕府上部での争いのタネを蒔くことにもなった。

まあここも、豊臣家における武断派と文治派の確執を思い出していただければ
話が早いワケで、武断派の代表格ともいえる高氏の間に不満がつのっていったらしい。

そして貞和5年(1349)、あらたな紛争が勃発する。
すなわち、直義が上杉重能らと図って尊氏に高師直の執事職を解任させる。
怒った師直は直義を襲撃、直義は尊氏の家に逃げ込んだ。
ああ、豊臣家のアイツらにホント似てるよな。

尊氏の仲介によって、直義の側近・上杉重能と畠山直宗は越前へ配流、
直義は引退して尊氏の子・義詮に譲るといったような内容で和解が成立したが、
高師直も直義もすぐに元の職に復帰する。
が、流罪となった上杉重能と畠山直宗は、高師直の差配により途中で殺害されてしまう。
さらに翌月には、尊氏の実子で直義の養子となっていた長門探題・足利直冬に対する
討伐軍が催され、直冬は九州に追われることになる。

して、鎌倉殿代理であった尊氏の嫡子・義詮が上洛、
同じく尊氏の子の基氏が鎌倉へ下向する。
基氏の執事には高師冬がついた。

尊氏って人はホントによくわからない人で、直義の養子となった直冬は一説に

「ただ1度のアバンチュールでできちゃった~」

という生まれだといい、尊氏に認知してもらえない可哀想な境遇だったのを、
直義の配慮で養子にしてもらったという。
また、新たな鎌倉公方となった基氏も直義の猶子だったらしい。
とはいえ、基氏は義詮と同じ正室の子なので、
基氏の場合は直義に実子がいなかったことによるものなのかもしれないけど。

けど、直冬は成長して軍功を挙げるようになってからも
尊氏やその周辺からは嫌われていたともいい、陰湿な一面がうかがわれる。

その昔やった大河では、真田広之が尊氏を演じてたな。
真田広之はカッコいいけど、どうもあの人が演じるとどの役も暗くなるような気がして
演技を観るのはあまり好きじゃない・・・
でも、ある意味尊氏は似合いの役だったかもな、なんて思ったりもして

じゃなくて、基氏は尊氏の子として鎌倉に下向した。
この時点で京にいた直義は、高師直との抗争が勃発した年の末に出家した。
九州へ落ちのびた直冬は直義派を集め始め、次第に同調者は増えていった。
そして、直冬が九州で挙兵したという報告が入るや、
尊氏や高師直はすぐさま九州への討伐の準備を整えたが、
尊氏が出発する前日に直義がひそかに京を脱出し、
高師直とその弟の師泰の討伐を呼び掛けて、ここに尊氏と直義の兄弟が決定的に決別する
観応の擾乱(じょうらん)が起こる。

関東の歴史を主眼に置けば、南北朝よりもこっちの方がよっぽど重大で、
かつ深刻。
これがなかったら、あるいは関東の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
だからこそ、かいつまんででもこうして書かざるを得ないんだけどね。



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最終更新日  2015年12月05日 23時50分24秒


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