戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月07日
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カテゴリ: 江戸めぐり
上杉氏関係図


足利直義の挙兵に呼応して、直義派の上杉氏も挙兵した。
上杉憲顕の子で、前回高師直に殺された重能の養子になっていた能憲(よしのり)が
常陸で挙兵。
憲顕も、能憲と連携するために領国の上野国へ向かう。
さらに奥州でも直義派の挙兵が相次いだ。

これを受けて、鎌倉公方・基氏の補佐にあたっていた高師冬は
基氏を連れて鎌倉を脱出するも、途中で反乱にあって基氏を奪われてしまい、
師冬はその後討ち死にする。


高師直・師泰兄弟の出家という条件で講和が結ばれたものの、
京に戻る途中で高氏兄弟らは上杉能憲らに殺される。
高師直が上杉重能を殺してなかったら自分も殺されることはなかったかもしれないけど、
まあこれは仕方ないわな。

で、尊氏・直義とも京に戻って一旦は落ち付きかけたものの、
何やかやで再びキナ臭い匂いが漂い始め、結局また2人は決別。
その過程で南北朝も統一された。
そして合戦に敗れた直義は再び兄と講和を結ぶが、鎌倉に入った尊氏によって幽閉され、
その翌月に急死する。
高師直・師泰兄弟が殺された日からちょうど1年後のことだった。
享年46歳。


ま、あまりにもタイミングの良い死でもあるし、誰がどう見ても不自然。
実父の尊氏に嫌われながらも養父の直義に尽くした足利直冬は
まだその後も10年ちょっと頑張りを見せるので、
直義を生かしておくのは危険すぎる・・・

尊氏と直義の兄弟は母を同じくし、1歳違いと年の近いこともあって

直義だってそんな兄を全力でサポートし、兄が身体を張ってもぎ取った勝利を
しっかり統治し続けていくために理想を掲げて頑張った。

でも、やはり二頭体制というのは無理があった。
観応の擾乱は、尊氏と直義のどちらが悪いということでもなく、
必然の結果とも言えるのかもしれない。


さて、直義の死によって幕府は一本化され、一件落着・・・
となるハズが、直義の亡霊はその後も生き続ける。
亡霊っていうと「出た」みたいだけど、別に「出た」訳じゃなくて、
直義の遺志が引き継がれたって意味ね。
養子の直冬ももちろん直義の遺志を引き継いだといえるだろうけど、
そんな遠い場所の話じゃありません。

観応の擾乱の最中、尊氏も直義も戦況を有利に進めるために
それぞれがこともあろうに南朝に投降していた。
それがために、南朝が再び息を吹き返して京の奪還を目論むなど
「戦時」はまだ続いていた。

して、鎌倉の制圧までも目論んだ南朝は、前回の中で北畠親房の船団が
ちりぢりになった際に遠江に漂着して井伊氏に保護された親王を
征夷大将軍に任じて関東に向かわせた。
この皇子・宗良親王は遠江に上陸したあと各地を転々としたらしく、
最終的には信濃に拠点を置いて頑張っていたそうで、
オヤジ譲りのしぶとさにちょっと笑いましたが、
宗良親王の軍には新田義貞の遺児もおり、さらに上杉憲顕や坂東の一揆勢も呼応した。

なんでここで憲顕が南朝に混ざるんだよ~と理解に苦しみましたが、
旧・直義派として尊氏に対抗したってとこなんだろうか。

宗良親王の軍は一旦は鎌倉に入ったものの、すぐ合戦に負けて
尊氏に奪還される。
勝利した尊氏は東国の体制を整備し直す。
すなわち、直義との合戦および宗良親王との合戦において功のあった
尊氏派を据える人事を行い、直義派だった関東管領・上杉憲顕は排除された。

この時の人事を「薩埵山(さったやま)体制」といい、宇都宮氏綱・畠山国清・河越直重の3者が
中心となって「尊氏の、尊氏派による、幕府のための東国支配」てな新体制ができた。
このうち、畠山と河越は源頼朝のリベンジ戦に遅れて参陣した仲良し秩父トリオで、
どちらの当主も鎌倉期に滅ぼされたことを 「(13)」 で簡単に触れてますが、
河越氏の方は重頼の死後もどうにか存続したらしい。
ただし、薩埵山体制を担った直重が最後の当主となるそうな。

畠山といえば~、室町幕府内で斯波・細川とともに三管領として
華々しく活躍した有名な氏族ですが、実はこれは秩父流平氏の畠山の名跡を継いだもの。
ただ、秩父流の畠山は平氏だったのに対し、室町の畠山は足利一門の出で源氏なので、
足利の者が畠山を継いだ時点で秩父流畠山氏は消滅したことになるらしい。

観応の擾乱の前、直義は一揆の禁止を打ち出していた。
が、泥沼の兄弟試合の最中に、一揆勢は自然発生的な連帯から
のちの戦国時代でも見られるような契約状を取り交わしてのスタイルへと進化を遂げており、
河越氏などは「平一揆」という集団を拠り所としていたらしい。
足利系畠山氏も、武蔵の名族・秩父流畠山氏を継いだことでその存在が重要視されるように
なったようで、尊氏は信頼する者を関東の支配に就けながらも、
そうした地元の勢力を取り込まざるを得なかったともいい、

 【上部権力の側も一揆を自らの権力構造に取り込むうえで、彼らが自立的行動をとる危険性を
  もつことを承知しながらも、こうした動きを受容・促進したのである。】
  (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)

・・・つまりは、直義の政策を否定したことになる。
とは言っても、各地でまだ戦乱は続いており、いつまでもそんな状況を
放置する訳にもいかないので、あらためて直義の定めた故戦防戦の停止を命じており、
基本的に直義の路線を継承しながらも一部現実と妥協したというところだろうけど。

して、直義の死の翌年、尊氏は帰洛するが、出発の前日、
鎌倉公方・足利基氏を武蔵の入間川(現・埼玉県狭山市)に移した。
基氏はこのあと、足かけ9年を入間で過ごし、基氏の在所は「入間川御陣」と称される。

基氏はこの時点で13歳。
そんな基氏をなんでまた武蔵なんかに据えたのか、その理由については
色々な推測がなされているようで、

 ・武蔵に地盤を持ちながら相模守護となっていた河越直重を牽制するため
 ・越後、信濃、上野、武蔵などの周辺諸国でまだ反幕派が健在だったため、
  それに対する備え
 ・薩埵山3人組の中で尊氏が最も信頼できる畠山国清の庇護下に置いて、
  周辺の反幕派へのにらみをきかせるため

などの諸研究者の論が前掲書で挙げられているが、それに加えて櫻井彦氏は
基氏がかつて直義の養子として育てられていたことももっと考慮に入れてよいだろうし、
直義の養子として育った基氏だからこそいくばくかの警戒心を尊氏は持っており、
ゆえに腹心ともいえる畠山国清の庇護下に置いたのではないか、ともしておられる。

はたして尊氏の真意がどこにあったのかはわかりませんが、
幕府内部だけに絞ってももうほっとんど訳のわからない状況になっている。
足利一門にしても、それぞれの立場で尊氏につくもの、
旧直義派となっていた者などさまざまおり、直義が死んでも観応の擾乱の影響は
すぐに消滅するようなものではなかった。

まあ、武士を統括するにもっともふさわしい鎌倉を出て
まだ幼さの残るような基氏をわざわざ武蔵に置いた理由は、
たった1つに限定されるというよりも、総合的な政治判断だっただろうけど、
もし「直義の養子」という経歴を持つ基氏に尊氏がいくばくかの警戒心を抱いていたのなら、
さすがに室町幕府を開いただけのことはあるじゃねーのとも言いたくなる。


京に戻った尊氏は、旧直義派や南朝勢力に対し、
幕府方として戦功を挙げれば本領は安堵するという呼びかけをした。
なんせ、両派のそもそものトップである直義も後醍醐天皇ももはやこの世の人ではない。
尊氏のこの呼びかけに早速応じた者もいたが、
本州の西のはずれでは大内家のひろよんがやっと周防を平定したところで、
大内氏が幕府方に帰属するのはこれよりまだ10年先のこと。
全国を巻き込んだ争乱は少しずつ収束に向かう流れが始まっていたものの、
まだ先は遠い。
そんな中、尊氏が死去して義詮が2代将軍を継いだ。

新体制がスタートした義詮の幕府は早速南朝叩きに乗り出し、
基氏も関東から兵を出した。
この兵を率いたのは、畠山国清だった。

この時の出兵は一定の成果を挙げたものの、まだ帰国命令も下りないうちに
畠山国清は関東に戻ってしまう。
なんでも、配下の武士たちが何やかやの理由を付けて勝手に領国に帰り始めてしまったそうで、

 【今回の国清の上洛が、国清にとってさまざまな意味を有していたとしても、それに動員
  された東国武士に上洛の直接的な必然性は存在しなかった。(中略)『太平記』が伝える
  「国清の軍勢は長い移動と在陣にくたびれてしまったうえ、馬や武具を売らねばならない
  ような状況になったので、とうとう我慢できずに、国清に挨拶もなくばらばらと本国へ
  帰っていった」という光景は、実態をかなり正確に描写したものではなかったか。国清は、
  東国武士の強い要望を無視できず、帰国しなければならなかったものと思われる。】
  (前掲書より)


尊氏や直義は、禅に深く帰依していたという。
禅といっても当然臨済の方だろうけど、吐きたくなるほど長く流転する情勢の中で、
静かに自己を見つめる禅は確かに彼らの救いとなっただろうと
流れを追う中で思った。

鎌倉幕府の滅亡からここまで、26年。
戦働きによる恩賞にあずかれる可能性はあっても、そりゃ~武士たちも疲れるだろう。
しかも、さしあたって直接的な利害の絡まない戦への動員で、
坂東武者の我慢も限界にきていたかもしれない。

それでも、この時点での国清には知るよしもないが、
社会の混乱は収束に向かっているといってもまだまだ続く。
そして、東国にはいよいよ新しい風が起ころうとしていた。



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最終更新日  2015年12月07日 23時31分56秒


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