戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月28日
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カテゴリ: 江戸めぐり
将軍・足利義政が上杉氏を保護し渋川義鏡を堀越府から追放したことで、
堀越公方・足利政知の立場はよろしくないものになった。

先年死去した堀越府の執事・犬懸上杉教朝の跡は教朝の子・政憲が継いで
上杉氏との関係回復に努め、また一連の騒動によって軍備の再補強が御破算になったため、
堀越府は周辺の諸氏との結びつきを強めてそれなりの勢力を維持したらしい。

それらの勢力を借りて、またもや堀越府を襲撃してきた古河公方陣営をはね返し、
すでに応仁の乱が始まっていた京からの援軍が得られない中で
一時は足利成氏の本拠・古河を攻めるところまで行ったというから
政知も頑張ったじゃねーのと思うものの、関東全体で見ればなんのこたぁない、



さてと、かなり大回りをしましたが、今川家の家督争いに戻ります。

今川氏関係図-2


幼い嫡子・龍王丸とその叔父・小鹿範満をそれぞれ擁立するグループによる内紛は、
周囲にとってはおいしいチャンス。

特に小鹿範満は堀越府執事の犬懸政憲の娘を母に持つという関係もあって、
東駿河の国人を味方に付け始めていた堀越公方・政知が介入を目論み、
犬懸政憲に兵を付けて駿府へ派遣して小鹿範満擁立へ圧力をかけてきた。

さらに、扇谷上杉氏も犬懸政憲への加勢のため、
家宰の太田道灌に兵を付けて同じく駿河へ派遣。
放っておけば小鹿範満が優勢だっただろうところへ、早雲が登場する。

ここでのエピソードが戦国の梟雄としての早雲の華々しい第一歩、的な扱いになる。

早雲の機略で見事切り抜けたというんだけど、近年の研究では
幕府の命を受けて、父の代理として早雲が駿河入りしたというのが有力な説だそうな。
ま、確かに前後の状況などを考えると、そちらの説の方が無理がない気はする。

調停に乗り出した早雲が出した案は、龍王丸が元服するまでの間、
小鹿範満が当主を代行するというものだった。


武力衝突による内紛の拡大および他家の介入を防ぐための現実的な折衷案を提示した、
という感じではあるけれども、現実はそんな単純明快なものではなかったともいう。

前回、前当主の今川義忠が応仁の乱で東軍として活動し、
遠江国人と戦っていたとしましたが、どうも義忠が戦っていた相手は
同じ東軍に属する国人衆だったらしい。

早雲の父・伊勢盛定からすれば娘の夫である今川義忠はムコ殿になるけど、
幕臣の盛定はムコ殿が戦っていた相手を支持していたらしく、
その相手を討ったムコ殿は盛定および幕府からは反逆者という立場になる。

そのため、龍王丸は家督相続どころじゃなくなる可能性もあり、
母の北川殿とともに一時避難したともいうんだけど、
ここに来て幕府が龍王丸擁護の側に回ったのは、
堀越公方や上杉氏の駿河への影響力が増すことを幕府が嫌ったからだという説もある。

それが真実かどうかはわかりませぬが、室町の歴代将軍は
関東にはほとほと手を焼いていたので、さもありなん、という気もするよな。

なら、政知や扇谷家がしゃしゃり出てこなければ
あるいは小鹿範満が家督を継いでいた可能性もあるのかという想像が頭をもたげますが、
小鹿範満は犬懸政憲の血をひいているので、結局は同じことだろうな。

そして、龍王丸派と小鹿範満派の双方はこの調停案を受け入れ、
小鹿範満が今川館に入って一時的に統治をすることになった。
そもそもこの調停劇に早雲が登場すること自体を疑問視する向きもあるようだけど、
もし早雲がこの場で活躍していなかったら無残に散ってしまう
ドラマティックなエピソードがもうひとつある。

内紛の鎮圧という名目で兵を率いて駿河まで来ていた太田道灌のもとに
早雲がやって来て、


別に幕府に対して一物あるとかいうワケじゃないんスよ。
今、私が説得しているところなんで、
もうちょっと待っててもらえませんかね?
そりゃもう、頑張ってますから、私。

でも、万が一和解させられなかったら・・・
その時はもうしょ~がありません。
どうぞ武力で鎮圧しちゃってください。
だからあと少しだけ待っててちょ」


英雄は英雄を知る。
近年では早雲の生年は結構遅いという説も出されているようだけど、
従来の説では早雲と道灌さんは同い年とされていた。
片や扇谷上杉氏の重鎮・・・つか実質上のトップともいうべき活躍ぶりで、
片やまだ無名といっていいような「臥龍」の状態。

でも道灌さんは静かに早雲の話を受け入れ、事の成り行きを見守った。
そして見事調停が成功すると、これまた静かにいさぎよく帰っていった・・・

尼子経久と若き毛利元就の出会い よりドラマ度が高いじゃあ~りませんか!!
単なる俗説であったとしても、これに関しては俗説の通りであってほしいと願うのは
わたくしだけではありますまい・・・


さて、この問題が解決すると早雲はとっとと京に戻ってしまったという。
いくら現時点では小鹿範満が当主ということになったとはいえ、
龍王丸は成人すれば次期当主が確約されており、
龍王丸の母方の叔父であり今回の調停の殊勲者である早雲は
今川家で重んじられる立場についてもよさそうなのに、そうはならなかった。

そして、文明15年(1483)から長享元年(1487)までの間は
幕府で申次衆を務めていた。
ここの経歴は確かなようだけど、今川家の調停からは少し時期が空いていて、
小和田哲男氏はこの間は禅寺で修行していたのではないかと見ておられる。
時期についてははっきりしていないものの、京・建仁寺や同じく京の大徳寺で
修行していたことがうかがわれる史料があるそうでね。

で、申次衆の最後の年になる長享元年。
これもまた今川家の家督にからんで駿河へ下向したためのものらしい。
そしてこれこそが、早雲の人生を大きく変える転機となる。


今川龍王丸の生年は、ウィキによると文明3年(1471)と文明5年(1473)の
2つの説があるようだけど、長享元年(1487)時点では、
文明3年生まれなら実年齢で16歳、文明5年生まれなら14歳という計算。
当時はもちろん「数え」で、単純に1を足せば17歳か15歳ということになる。

どちらにしても龍王丸は元服の時期を迎えていたのに、
小鹿範満からは当主を譲る気配がなかった。
しっかり者の早雲は、以前の調停後に前将軍・義政から
龍王丸が家督を相続することの内書を取り付けていたという。
つまり「龍王丸が成人したら家督を継承する」という幕府の公認があった。
にもかかわらず、なんか家督を譲ってもらえそうもない。

そこで、早雲はひそかに駿河に入ってチャンスをうかがい、
長享元年11月9日に今川館を襲って小鹿範満を討った。
おそらく北川殿からの窮状を訴える報せを受けての行動じゃないかと思うけど、
それにしても以前に内紛をうまく丸めた時とはだいぶ趣きが違う。

「ちょっと、話が違うじゃないの!」

というような折衝などは一切なく、事前通告ナシにいきなり急襲したというのが
定説なので、だとすれば元服の時期もとっくに過ぎて
家督を譲渡する意思が小鹿範満にないことが確実視された時点で武力行動に出た・・・
であれば、龍王丸は文明3年(1471)生まれの17歳だったという
可能性の方が高いようにも思われるけど、もちろん武力による内紛を長引かせれば
また周囲がしゃしゃり出てくると踏んでの行動でもあっただろう。
幕府の御内書という大義名分もあるしね。

そしてめでたく龍王丸は元服して当主となり、氏親(うじちか)と名乗った。
この氏親の子がおなじみの今川義元。
・・・ふっ、だいぶ江戸が近くなってきたぜ。

あざやかに今川家の危機を乗り切った早雲は、今度は京に戻らなかった。
そして富士山の真南、東駿河の興国寺城を与えられた。
広域の地図で見ると興国寺城は この場所 (←Mapfanへのリンク)ですが、
ここから東へ東へ、後北条氏の発展が始まる。


関東の歴史、特に室町から戦国初期にかけてなかなかわたくしが手を付けられなかった
(手を付けたくなかった)のは、事態がどんどん泥沼化していく「風土病」のせいで、
鎌倉府設置以降の関東の権力者はみな外から来た「よそ者」だったのに、
関東に入るや風土病に侵されてずぶずぶと泥沼に足を取られていったというのが
わたくしの印象。

しかし、後北条氏だけは風土病に侵されることなく、
逆に風土病・・・要するに他家の内紛をうま~く利用して、
あざやかに関東を切り取っていった。
でも、その風土病に侵されないあざやかさが逆に後北条氏への心証を
悪くしている部分もあるような気がする。

後北条氏の戦歴なぞすべて書いてたら大変なことになるので、
今回の歴バナでは「なれそめ」中心で終わらせますが、
早雲の子・氏綱が江戸城に入って以降67年間、江戸城は後北条氏のものだった。

 【六十七年とは短くはない。だが、この期間は、江戸城の歴史において、もっとも
  短く表現されるか、あるいは記述があっても、もっともおもしろくない。これは
  いったいなぜなのか。わたしのむかしからの疑問であった。】
  (『賤民の場所 江戸の城と川』塩見鮮一郎/河出文庫より)

塩見氏はこの本を書く前、小田原に住んでいたそうで、
その時は後北条氏が東に発展していくさまを想像していたらしいんだけど、
そのあとで東京に引っ越してくると、視点がまるで変わってしまったという。

 【しかし、同じ世界を、東京にいて想像すると、後北条の軍馬は、相模川をこえ、
  多摩川を渡ってどんどん近付いてくるのである。しかも、ひとつひとつ城を
  落としながら、東京湾ぞいと、八王子の側からくるのだ。実にスリリングでおもしろい
  はずだが、東京にいると、あまりいい気持ではない。この視点のちがいはどうしようも
  ない。江戸城に関する歴史で、後北条に乗りこまれた時代にはうとましくなるのも
  仕方がない。】
  (前掲書より)

これを読んだ時、ああなるほどね~と納得した。
下総に生まれ育ったわたくしは、戦国に興味を持ってから
「関東の殿様って後北条になるんだよな」と思って勉強しようと思った。
でも、それは続かなかった。
感情がついてこなかったのだ。

関東は「武者が駆け抜けたという表現がぴったりくる」と前の記事で書きましたが、
後北条氏の場合は「席巻」という言葉がぴったりくる。
けれど、席巻される側にとっては「侵略」以外の何者でもない。

わたくしの両親はどちらもよその土地の者なので、血統的には下総に縁もゆかりもないけど、
人は生まれ育った土地の子なんだと思う。
だから、下総の子であるわたくしにとっては、関東の風土病に侵されて
「よそ者」が「現地人」になった鎌倉公方や上杉氏と違って、
風土病に侵されず関東に覇をとなえた後北条氏はやっぱり「侵略者」だと
深層意識で捕らえているんだろうな、と塩見氏の文を読んで思った。


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最終更新日  2015年12月28日 23時57分05秒


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