戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年01月03日
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カテゴリ: 江戸めぐり
新年あけましておめでとうございます。
本年も戦国ジジイをよろしくお願いいたします。

トモダチが少ないもので、受け取る年賀状も必然的に少ないのですが、
今年はなんかいつもより多め・・・
気のせいかな?と思いながら順々に見ていくと、
なんと叡山と寛永寺から年賀状が来てました

確かに去年はどちらのお寺ともご縁が多少増えたものの、
正式な檀家になった訳でなし、フリーの信者として多額の寄付をした訳でもなし・・・
いや、これは驚きましたね。


とまたバカなことを考えましたが、三山のうちでもっとも「有縁」なのは
間違いなく日光・・・
でも日光からは賀状をもらったことない(笑)。
いいんです、別に。
ただ、思いがけないところからダブルで年賀状をいただいたので、
正月からテンション上がっただけです。


え~、それでは北条早雲飛躍の第二段に移りますが、その前に。
今川家の家督問題を片づけた早雲がふたたび京へ戻らなかった理由について、
ウィキペディアにこんな記述がある。

 【この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。
  これは、文明13年(1481)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆

  知られている。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を
  京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある。】

えええ~、備中の庄元資え~~~!?

懐かしい名前に思わず身を乗り出してPCの画面を穴があくほど見つめましたが、
歴代庄氏のあまり詳しいことはよくわかってないらしく、
守護・細川家に反旗を翻したあの元資
でもまあ、早雲と時期がカブる可能性は充分にあるし、
一族内でその頃「元資」を名乗った他人も見受けられないので、
同一人物かもしれない。

戦国の梟雄として名高い早雲が借金問題で家に帰れなくなった、
な~んてこれが本当だとしたら実に面白い話ですが、
ついでに庄氏についてあらためて調べていたところ、
なんと庄氏は「武蔵七党」の一つ、児玉党の出身だったそうな。
庄氏が武蔵武士団だったとはね!


まま、庄氏はともかく、伊豆を手に入れた早雲の夢はさらに東へ広がる。
ただ、早雲という人はウソかホントかわからないエピソードを沢山お持ちの方で、
ゆえに「一介の素浪人が一代でのし上がった」という見方ができたようだけど、
近年ではずいぶんと定説をくつがえすような研究が進んでいるそうで、
前回の「伊豆討入り」・・・足利茶々丸を追放のうえ殺し、伊豆を平定した件については
京で10代将軍となった清晃が母と弟の仇である茶々丸の討伐を
伊豆のすぐ近くにいた早雲に命じたとも言われている。

であれば、これまで幕府の命を受けて関東に介入してきた今川家と同じようなもんだけど、
早雲の活動は伊豆に留まらなかった。

前回書いたような扇谷上杉氏の手引きが本当かはわからないものの、
山内上杉家と扇谷家の両上杉氏のせめぎ合いが続いていたことは事実で、
扇谷家の太田道灌が当主・定正に殺された あとの長享元年(1487)から
永正2年(1505)にかけて、「長享の乱」と呼ばれる内紛を続けていた。

その過程では、山内家に反逆した長尾景春が古河公方と結んで扇谷家に加勢するなど、
各陣入り乱れて飽きもせず風土病が吹き荒れていた。
わたくしがもしタイムスリップできたら、

「ヤバいよ、アンタたち!
早いとこ矛を収めないと
取り返しのつかないことになるよ~!!」


とリキ入れて説得したいところですが、当の本人たちは
危険な状態がすぐそこまで迫っていることなどつゆ知らず。
そして明応3年(1494)、扇谷定正は早雲に加勢を要請する。

この頃の関東各国の領国支配状況が今ひとつわからないんだけど、
ウィキによると扇谷家では相模を三崎城と小田原城で分けて支配していたという。
それが、同年に両城の当主が相次いで亡くなってそれぞれで家督争いが起こった。
さらに同じ年、山内家を攻めようとして荒川を渡っていた扇谷定正は落馬して
それがもとで死亡。
道灌さんの死の間際の予言が現実のものになろうとしていた。


この頃までに出家して「早雲庵宗瑞」となっていた早雲は韮山城に居を移していたが、
扇谷定正の死亡によって武蔵から兵を戻したという。

従来の説では、小田原城主となった大森藤頼に早雲が何かと贈り物をしたりして接近し、
藤頼がすっかり気を許したところで

「鹿を追ってたらお宅の山へ入り込んじゃってぇ~。
追い出すために、ウチの勢子を入れてもいいですかぁ~」


と言って藤頼がOKしたところへ勢子に扮した早雲軍が一気に小田原城を攻め落とした、
ってウソくさい話になってたんだけど、これも近年では新しい説が出ていて
早雲が小田原城を奪ったとされていた年の翌年に、
小田原城を追われたはずの大森藤頼が小田原城で山内家の攻撃を受け、
しかも早雲が大森藤頼を救援していたことがわかっているそうな。
これについてウィキでは

 【この事実について近年では明応10年(文亀元年・1501年)までに何らかの理由
  (大森藤頼の山内上杉側への内応か?)で早雲が相模守護である<扇谷当主>上杉朝良の
  許しを得て小田原城を占拠して自分のものとしたと考えられている。ここで注目すべきは、
  仮にも同盟相手とは言え他国の大名の家臣に領土の一部を譲り渡すという事態はそれだけ、
  朝良の戦況が苦境に立たされていた事の反映であると考えられている。】
  (<>内は戦国ジジイが補足)

としている。

まあ、あざやかすぎる手口で小田原城を攻め取ったんであれ、
扇谷家の苦しい事情から譲り受けたんであれ、
ここでも「お家騒動」という美味しいエサによって
さらに東へ進出したことに違いはない。

早雲のバックには今川氏がいる。
これまでは早雲の快進撃ばかりが語られてあまり世間に認知されてない気もするけど、
早雲は晩年までずっと甥である今川氏親を「屋形様」と呼び、
今川軍を率いて遠江・三河平定に尽力している。
だから、早雲の代ではまだ独立した戦国大名とは言えないかもしれない。

ところで、正月といえば箱根駅伝。
以前は毎年観ていたものの、近年は忙しくてまともに観ておりませんが、
TVの前を通る時にちらりと観ていて、今年はふと

「そうか、箱根駅伝て『坂東』の中に
収まるもんだったんだな~」


なんてことを考えました。
まあ、東京・大手町と箱根の芦ノ湖を往復するんだから
当たり前っちゃ~当たり前のことなんですが(「坂東」は足柄峠の東をさす)、
今ちょうどこういう記事を書いてるもんで、
上杉一族の領国内をえっちらおっちら走ってるのかと思うと
ちょっとおかしくなったりもして・・・

しかし、箱根といえば天下の険。
標高自体は高山でもなんでもないですが、
駅伝5区の登り、6区の下りの場面を観てると、傾斜はかなりきつい。
ゆえに、時には各校で「山のスペシャリスト」が登場してチームを引っ張る。
わたくしの母校は数年前に「神」が登場して、
それまで予選会あがりの常連だった我が校を優勝へ導いた。

この箱根を、完全なる自力で越えて武力で勝ち取るのは大変だろうけど、
早雲はチャンスに恵まれて(自力よりは)楽して箱根を越えた。
運も実力のうちとは言うけど、早雲は大したラッキーマンだったよな~なんて、
TVの中で一生懸命走るランナーを観ながらぼんやり考えてました。


小田原城を取ってからの早雲は小田原城に入ったと思ってる人もいるかもしれないけど、
早雲自身は韮山城を居城としたままで、小田原城には住まなかったらしい。
姓ももとの「伊勢」のままで、今川氏親を補佐するような立場で終わった。
早雲がじわじわと相模を平定していく中では、扇谷家とも敵対するようになる。
そして、武蔵や房総に手をかけたあたりで子の氏綱にバトンタッチするんだけど、
京では管領の細川政元が「永正の錯乱」で家臣に殺され、
同年には越後守護の上杉房能が守護代の長尾為景(謙信の父)に殺され、
古河公方家では内紛が起こるなど社会の混乱も加速していく。

んで、2代・氏綱。
良い息子を持ってよかったね~とつい早雲に語りかけたくなるこの2代目は
江戸城を落とし、河越まで手を広げて南関東のど真ん中、
武蔵の平野部の美味しいところをがっちり押さえた。
氏綱という人は、合戦とは勝たねばならないものだけど、
だからといってどんな卑劣な手段を使ってもいい訳じゃない、
という美学のようなものを持っていたらしいんだけど、歴代当主の版図を見ると
いや、よくここまで切り込んでいったな~とつくづく思う。

氏綱が東武蔵を押さえたということは、イコール上杉氏の領土が減ったことにもなるけど、
下山治久氏は

 【まさに、この江戸城奪取こそ北条氏が今川家の守護代的地位から独立して、関東の
  戦国大名へと飛躍する重要な場面であった。上杉氏への挑戦は、つまるところ
  関東管領への挑戦であり、関東に政権を確立する必要条件であったのである。】
  (『真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡』歴史群像シリーズ/学研より)

と語る。

この頃の関東管領は、鎌倉府が存在していた当時などと比べれば
もはや価値があるんだかないんだか状態だったろうと思うけど、
思い返せば関東を支配してきた人たちはどなたも政治的理由で入植してきた人ばかりで、
それが関東のプライドでもあったろうという気がするし、
後北条氏のように武力で割り込んできた人はこれまでいなかった。

平安期には平氏や源氏の一部が関東へ引っ越してきたりしたけど、
一部のエリアに土着した程度だったり、京から派遣された国主の場合は
任期が終われば京へ戻っていって、現地に残った郎党もやはり限定的な地域を支配する程度。
南北朝期の北畠顕家は関東を突破してるし、北条氏の残党が鎌倉を落としてもいるけど、
彼らは一時的なもので定着して支配することはなかったから、
エリア全体で見れば後北条氏が武力による侵略者第1号と言っていいんじゃないのかな。



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最終更新日  2016年01月03日 23時29分40秒


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