戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年01月12日
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カテゴリ: 江戸めぐり
北条氏綱が江戸城を攻めた大永4年(1524)、氏綱はもうひとつの対抗策を実行する。

これについて下山氏は『真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡』で

 【まず、この上杉氏を関東から追い出すには、政治的なイデオロギーが是非とも必要である。
  関東の伝統的政治世界に、他国者の伊勢氏が乗り込んでいくためには、それなりの
  国人、土豪層が納得する政治方針がなければならなかったのである。関東には伝統的に、
  源頼朝が鎌倉幕府を開き、源家三代の統治のあと、藤原氏が将軍職、執権職=副将軍職に
  北条氏が就任していた歴史があった。室町幕府も鎌倉に幕府の出先機関である鎌倉府を
  開いて足利一門が統治していた。それを具現化していたのが、管領職の両上杉氏だったので


とする。

ふむ、後北条氏は実力でもってあらたな関東管領的立場に立とうとしたということか。
しかし、関東管領はあくまでナンバー2だからな・・・
「上司」がいないじゃん、上司が・・・と思ったら、いた。

氏綱は娘を第4代古河公方・晴氏の継室として嫁がせ、
その姫は晴氏の次男・義氏を産んだ。
長男はちゃんといたが、北条腹の男子ではなかった。
氏綱の跡を継いだ後北条第3代・氏康の代になると古河公方と後北条氏の関係は悪化し、
古河公方は上杉氏と組んで河越で対決するも、後北条方に大敗を喫する。
そういうこともあって、氏康は自分の甥にあたる義氏を古河公方に立てる。
さらに氏康は自分の娘を義氏に嫁がせる。


「貴種」への外戚作戦も同時に行っていたのだ。

過去の記事での大永年間といえば、安芸では 大内氏が鏡山城を尼子経久に奪われて
翌年に 大内義興さんが奪還に本腰を入れ 、備後では国人衆があらたなボスを
迎え入れようとした 「神辺和談」

つまりその頃の西国では思いっきしドンパチな戦国ムードだった訳で、
武力行動以外の後北条氏の戦略を見ることで関東と他のエリアとの違いが
より鮮明になってくる。

北条氏綱は相模の寺社の再建なども積極的に行っているが、
無残にも戦火の犠牲となった鎌倉の鶴岡八幡宮の再建も行っている。
これは10年以上をかけた力の入れようで、
「鎌倉」が特別な存在だったことはこれまでの記事でおわかりでしょうが、
その鎌倉のシンボルともいえる八幡宮の造営を行ったことも
「自称・関東管領」たる後北条氏の正当性のアピールにつながるものといえる。
ちなみに、ウィキペディアには八幡宮の再建にあたって

 【氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している。】

とあるけど、ここまでの流れを理解すれば上杉氏のこの行動が
当然のものだということがよくわかる。
そうね、こんな大事業は本来の関東管領であるアンタ達がやるべきもんだったのよ。


この時期、関東の独自性を象徴するものがもうひとつある。

関東公方相関図


だいぶ以前に作った系図なので、古河公方は全員を載せてませんが、
第4代古河公方・晴氏の父が第3代の高基。
高基の兄弟の義明が「小弓(おゆみ)公方」となってますが、
義明はもともと出家して僧侶となっていた人だった。

古河公方第2代の政氏とその子・高基は親子で争っていたが、
東関東に勢力を持つ古河公方の配下の一家に上総の真理谷(まりがやつ)武田氏がいた。
真理谷武田氏はその名の通り、あの甲斐の武田氏の分家ですが、
この頃の真理谷当主は勢力を伸ばしたいという野望を持った人だった。
が、古河公方には鎌倉府時代からの親密な国人衆が複数いたので、
真理谷氏が彼らを飛び越えて勢力を広げるにはちと無理があった。

そこで真理谷氏が目をつけたのが、当時まだ僧侶だった義明。
真理谷氏は義明を還俗させて下総の小弓城に迎え、「小弓公方」として擁立した。
小弓公方にからむ数々の出来事もいかにも関東らしくチョ~複雑なので
ここではごく簡単な紹介にとどめますが、小弓公方・義明を使って
真理谷氏は勢力を伸ばし始める。

ところが、真理谷氏が自分のよこしまな思惑で勝手に義明を「公方」に
仕立てあげたにも関わらず、周辺の国人衆も義明への接近を図る。
ウィキペディアではここを

 【義明が持つ「貴種性」が真里谷氏の思惑を越えて広がり、義明自身も里見義通に対する
  書状で、本佐倉城(千葉氏の本拠)・関宿城(古河公方最大の支城)への野心を示すに
  至った。】

と解説する。

いやあ~、いくら義明が古河公方の血を引くとはいっても、
小弓公方なんて単なる「自称」だよ?
ま、当初は真理谷氏の傀儡として立てられたはずの義明も、
ウィキの解説にあるように次第に自身の野望を持ち始め、
しかも武将としてはなかなかの人だったようだから、
そういう義明自身の資質に惹かれて周辺の国人が集まってきたって可能性もあるけど、
やはりカギはウィキの言う通り義明の「貴種性」にあるんだろうと思う。

関東における正当性はすなわち伝統的支配層にあり、「貴種性」にある。
世間では実力本位の世の中に移行しているのに、
関東ではいつまでも古い伝統にしがみついて泥沼の戦いを繰り広げている。

こういうところに切り込んでいく後北条氏も土地の伝統をハナから蹴散らす訳にもいかず、
上に書いたように古河公方家と姻戚関係を結んで家督に介入したり、
小弓公方とも当初は敵対する立場を取らなかった。

しかし、各公方家と関係は結びつつも、後北条氏にとってそれはあくまで
政治的な戦略のひとつの手段でしかない。
事実、別の手段の「武力」で相模から武蔵に進出して東京湾の西側を手中に収めると、
東京湾東沿岸を支配する小弓公方方としては静観していられなくなる。
かつ、小弓公方・義明もただの傀儡として終わらず勢力を伸ばしていたので、
公方家の本家である古河公方としても小弓公方のこれ以上の進展を食い止めたくなり、
古河公方と後北条氏が手を結んで古河公方・晴氏は小弓公方退治を命じる。

そして始まったのが2回ある国府台(こうのだい)合戦のうちの1回めで、
首尾よく小弓公方・義明を討ち取った北条氏綱に対し、
古河公方・晴氏は関東管領を与えたという説もある。

古河公方自体が昔に比べて相当落ち目だった上に、
幕府との連絡役でもある関東管領職はもともと幕府に任命権があるものだから
氏綱の関東管領補任は「カラ手形」以外の何物でもないと思うけど、
伝統にしがみつく関東ではそれなりの「大義」を得たとも言えるかもしれない。


と、個々の出来事だけを見ると後北条氏も「風土病」に侵されつつあるようにも
思えるけど、彼等は決してそれに染まることはなかった。

次第に領国を拡大していく中で、氏綱は家中での制度も着々と進め、
後北条氏のことをあまり知らない戦国ファンが後北条氏と言われて思い浮かべる
いくつかの特色は、おおむね氏綱の代に整えられている。
その跡を継いだ3代目・「相模の獅子」氏康がまた優れた武将で、
後北条氏当主の中でわたくしが一番好きな方ですが、
最大版図はラストの時期が最も広いものの、政治的には氏康の頃が
もっとも安定していたといえるんじゃないかな。

そういう安定さを反映したものか、初代・早雲、2代・氏綱とも
もうけた男子の数はそう多くはなかったが、氏康にはボロボロ男子ができた(笑)。
しかし、

 【北条五代、約百年にわたってほとんど内訌(ないこう)がなかったということは、
  日本史はおろか世界史的にも稀有なことである。なかんずく男兄弟が七人もいると
  いうのに、身内の騒動なしでやり過ごせたということは、中世の戦国にあっては
  珍事とさえいえよう。】
  (前掲書より)

「男兄弟が七人」というのは氏康の子供達のことで、
その中には秀吉による小田原攻めの際に強硬な姿勢を取ったといわれる
氏照などもいる。
それでも、内紛が起きなかったというのだ。

上の引用文は、小和田哲男氏と下山治久氏の対談を編集部がまとめたもので、
その中で氏康の子供達に内紛が起こらなかった理由の可能性として、
ほとんどの男子が同腹から生まれていること、
氏康の威厳と教育ぶりがハンパなく優れていたことなどを挙げ、
さらには「想像をたくましくすれば」と断ったうえで
同腹の男子たちは別々ではなく一緒に育てられて疎遠になることはなかったかもしれない、
という推測も挙げている。

確かに、氏康自身の資質によるところは大きいだろう。
けど、ここまで一連の長い歴史を追ってきたわたくしとしては、
伝統が生きつづける特殊な土壌の関東に割り込んできた「よそ者」の後北条氏だからこそ
だったんじゃないかという気もする。

歴バナといってもかいつまみすぎて各時代のロクな紹介にもなってませんが、
後北条氏の発展を後押ししたのは、関東の上層部のお家騒動だった。
それをひとつひとつついばみながら大きくなっていった後北条氏には、
内紛の持つ危険性というものが身にしみて理解できたんじゃないのか。

もちろん、他家の内紛を利用した輩なんか、古今東西腐るほどいる。
それに、色々苦労した初期の当主にくらべておぼっちゃま育ちとなる
後代の当主になればなるほどそういう危機意識が薄れていく可能性だって充分にある。
それでも、秀吉に滅ぼされるまでの約100年間、
他家の美味しいエサとなるような内紛は起こさなかった。
ここが後北条氏のすごいところだと思う。

氏綱が氏康に遺した遺言としては、「勝ってかぶとの緒を締めよ」などの5ヶ条がある。
後北条氏は一見快進撃を続けたようにも見えるけど、その実、
風土病の深刻な患者たちが手を結んで包囲網を築いたりして結構苦労もしている。
氏康が河越で勝利を収めてからは南関東の覇権もおおむね入れ替わったけど、
まだかつての支配者たちを完全に駆逐した訳じゃない。
そういう時代を戦いぬいた氏康だからこそ、父・氏綱の義にもとづく遺言に加えて
一族の団結の必要性なども子供達に教え込んでいったんじゃないかと思った。

怖いオヤジがいたところで、死んでしまえばもう自分の好きにもできる。
でも、氏康の子供達は好き勝手しなかった。
関東特有の風土病に侵されなかったからこそ、関東的な自滅をすることなく
関東で覇を唱えることができた。
後北条氏の強さの要因は、当主の資質とか政治力、武力など色々あるのは当然だけど、
風土病の怖さをよく知ってそれを克服し、子孫に伝えていったことが
隠された最大の要素じゃないのかと思った。



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最終更新日  2016年03月27日 11時55分08秒


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