戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年01月31日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
東山御物展・江戸城・構成図
   (現地看板より)

上の図で右の「本丸」とあるあたりが当初の江戸城と思われるエリア。
「本丸」と「西ノ丸」の間にある「紅葉山」が寛永寺シリーズなどで
幾度となく出てきたあの紅葉山。
本丸や二の丸のあるエリアは現在では皇居東御苑として一般開放されており、
西の丸や紅葉山のあるエリアが皇居。
当初は西の丸エリアは城外だった。

権現様の関東ご入国の頃、今の西の丸の場所は野山で所々田畑などがあり、
 天地庵と云う常念仏堂もあったそうです。春には桃・桜・つつじなどの花が咲き、
 貴賤を問わず江戸での遊山所になっておりました。

 その後、そこを権現様の御隠居所にしようということになり、外構のお堀や石垣などが
 整えられ、お屋敷も建てられて「御新城」と呼ばれていたのですが、本丸とは別になっていて、
 紅葉山下通りを半蔵門の方へ抜けることができ、紅葉山は引き続き諸人の慰み所に
 なっておりました。

 しかし、関ヶ原の後天下一統となると、権現様の御隠居所は御新城ではなく駿府になったので、
 御新城は曲輪の内に組み込まれて、紅葉山下と坂下に門ができて通り抜けができなく
 なりました。そのため、諸人は紅葉山にあった山王社への参詣ができなくなり、
 江戸庶民が困っているとの話がお上のお耳に入りましてな。それならばと半蔵門の外の
 お堀端にあらたに山王社を建立したので、そちらは大変繁盛したようです。



イエアスの隠居所ができてなお、すぐ隣の紅葉山に庶民が参詣できたというのが
いかにも初期らしい、実におおらかな話ですが、山王社については

権現様が小田原から江戸へお移りになる際、榊原康政殿を召されて

 「この城に鎮守の社ってあんの?」

 「ここより北の方の郭に2つはありますね」

 「へえ、ちょっと見に行こうよ」

 とおっしゃるので榊原殿の案内で見に行かれました。
 そこは小坂の上に梅の木が沢山植えてあるところで、以前の城主だった太田道灌は
 歌人なので、梅林の中にある2つの社のうちひとつは天神社でした。
 権現様はいまひとつの社をご覧になり、拝礼されておっしゃるには


 「ここの鎮守の社がなかったら、坂本から山王を勧請しようと思ってたんだけどさ、
  なんとまあ、ここにあるのは山王社じゃないか!不思議なこともあるもんだ」


 「いかにも、奇妙なことでございますな~。これはこのお城が末永く続き、
  お家が繁盛するという吉兆でございましょう」


 「だよねだよね~
  お前もそう思う?」


 と大変ご機嫌のように見えたとのことです。

「叡山攻め」シリーズを読んだ方には、「坂本の山王社」が
比叡山東麓の日吉大社を指すことはすぐにわかりますね。

天海とイエアスの出会いの時期 ははっきりしていない。
天正年間と慶長年間の2つの説のうち、慶長年間の出会いの方が
今のところ有力なようだし、仮に天正18年説が正しかったとしても、
まだ出会ったばかりの天海がイエアスに大きな影響を及ぼすところまでは
行ってないだろうと思う。

ので、なんでイエアスが坂本から勧請しようと思ったのかは不明ですが、

そしてそれは、太田道灌が川越から勧請したものだとされる。
もともと関東は天台宗が強いお土地柄だったからね。

小坂の上にある梅林は現在でも「梅林坂」として名称が残り、
のちの大奥に近い場所にある。
道灌の城とイエアスの城では規模が違うので、

山王社は本丸から紅葉山へ移転し、ついで城外の現・国立劇場付近に移り、
明歴の大火ののち現在の赤坂へ移転する。

2010年の元日はこの江戸城の鎮守・赤坂日枝神社へ初詣に行きましたが、
あいにく写真が行方不明なのでここは先へ進めます。
ちなみに、天神社の方は特に指示もないうえに普請の邪魔になったので
平川門の外に遷座させて、のちにこれも城の拡張にともなって
現・国立劇場の近くへ移転して、現在も平河天満宮として残っている。
平河天神はのちに輪王寺宮の所管となったそうな。


え~、ここまでで「当時は地形がまったく違っていた」と何度も書きましたが、
特に何の知識がない人でも江戸城付近の地形を何となく知っていれば
誰にでもわかる最も大きな違いというのが、海がすぐ江戸城の近くまで迫っていたこと。

いちおうMapfanの地図を こちら にリンクしておきますが、
江戸城(皇居)から東は隅田川まで陸続きになってますね。

ところが昔は江戸城のすぐ東まで日比谷入江という浅瀬の海が深く入り込んでおり、
日比谷入江を挟んで「前島」という半島が江戸城の東にあった。
Mapfanの中心部分が大体前島の先端部といわれるあたりで、
そこには漁で生計を立てる漁師たちが住んでいたそうな。

現在の八代洲河原岸のあたりには漁師たちの家があり、魚などを買い求める時には
 この漁師たちの所で用が足りました。
 権現様のご入国の翌年あたりと聞いていますが、長雨があったそうでな。さらに南から
 大風が吹いて高潮が上がったのでその漁師町は水に浸かってしまい、漁師たちは
 船に妻子と家財道具を積み込んで現在の馬場先門内あたりの畑の中にある大木に船を繋いで
 食事等の準備しているところを、当時お城へ上る途中のご家中衆が見かけたそうですよ。

 ところでご入国の際には現在の桜田門の場所には大扉はなく、代わりに木戸門があって
 名前を小田原門といいました。その後、御新城ができて西ノ丸下の郭などもできて
 外桜田に門ができた時、今後は小田原門という呼び名は一切やめるようにとの
 厳しいお達しがあったそうです。

 西ノ丸のあたりは一般に地面が高く、そこにお堀も掘られたので大量の余土が出ましてな。
 その土でもって例の漁師町近辺の葭原をおおかた埋め立てて、漁師町もひと続きの町と
 なりました。そこは日比や町といって魚屋のほか色々な品が売られていましたので
 大変繁盛したようですが、のちにそこも郭の内となったので現在の日比谷町へ引き移った
 そうですよ。


八代洲(やよす)は八重洲(やえす)のことで、
ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともにオランダ船リーフデ号で豊後に漂着した
ヤン・ヨーステンの住まいがあったことから来ている地名だという話は
あまりにも有名ですが、首都東京の中心地で多くのビジネスマンや買い物客、
世界各国から集まる観光客などが忙しく行きかう東京駅のあたりは
ほんの400年前くらいまでは地味なイナカの漁師町だったのですよ

遠山時代には海側にいくつかの粗末な木戸門があって、
その木戸門の内側には重臣の大きな家や小さな家があり、
たぶんこれは道灌時代からのじゃないかと思うけど2~3の寺もあったそうな。
寺については徳川城の普請の際、金をやって城外に移ってもらったという。


揚土で整備された土地はほかにもある。

権現様が慶長5年(1600)に関ヶ原で勝利されると、西国大名では藤堂高虎、
 東国大名では伊達政宗を代表として
、

 「江戸のご城下に屋敷を建てさせて欲しいんですう~」

 との要望がありました。権現様は、

 「いや、みんな大坂に屋敷を持ってんじゃん。
  わざわざ新しく江戸にまで屋敷を持つことはないよ~」


  大御所様、是非に、ぜひにぃ~」


と熱心な願いようだったので、それならばと外桜田と現在の大名小路(平成の世では丸の内)
 のあたりに外様大名の屋敷を作ることを許されました。
 それより以前、前田利長殿(前田利家の子)は母君(まつ)が江戸に下向された折に
 秀忠様より大手先にお屋敷を賜り、すでに結構な建物を持っていたので、
 そこを江戸屋敷とされたようです。
 また、浅野幸長殿は父・浅野長政殿が外桜田の霞が関という名所の地をすでに賜っていたので、
 そこを上屋敷として、父君の隠居所には添屋敷を賜ったそうです。

 当時、大名小路あたりは葭原でしたが、お城の揚土をいただいて地形もどんどん整備された
 そうです。外桜田あたりになると土地の高低が激しかったので、土地をならすための
 土の入手にはずいぶん苦労したようですが、諸大名が願い出て御新城の外構のお堀を
 掘り広げたので今の通りずいぶんとお堀も広く深くなり、それによって出た大量の揚土を
 方々で引き取って地形を整えたそうです。

 外桜田に屋敷を拝領したのは、加藤清正をはじめ黒田、鍋島、毛利、嶋津、伊達、上杉、浅野、
 南部、伊東、亀井、金森、仙石、相馬、水谷、秋田、土方といった大名衆で、東西の諸大名が
 参加した工事なので、下々の者や工事関係者が西ノ丸外のお堀を、西塔の武蔵坊の心を取って
 「弁慶堀」というようになったようですが、弁慶堀と呼んだことについては特にはっきりした
 理由はないようです。

 前述の浅野幸長殿が拝領した添屋敷は浅野長治殿(幸長の弟・長晟の子)が住んでたのですが、
 ある時邸内で井戸工事をしたところ、地面から二間ばかりの底から葭の根が沢山出てきた
 そうです。何も知らない長治殿が


「ナニコレ?」

と不思議がっていると、徳永玄兵衛という家老が

 「おじ上がこの屋敷を拝領した当時、このあたりは深い谷間でしてなあ。
  井伊殿の屋敷の前のお堀から出た土でもって埋めたからですよ」

 と物語りなぞしたそうですよ。

埼玉の川越には「霞ヶ関」という地名がある。
初めてそれを知った時、

「ダさいたまの、しかも川越なんてド田舎に霞ヶ関ぃ~?
ちゃんちゃらおかしいぜ」


と鼻で笑いましたが(←千葉と埼玉は永遠のライバル)、
なにかの本で昔そのあたりは沼沢地だかの水っぽい土地でよく霧がたちこめたから、
というような地名の由来を読んで納得した。
東京の方の霞ヶ関について国土交通省のホームページでは

 【「霞が関」という地名の由来には諸説あり、古くは、日本武尊が蝦夷に備えて設けられた
  もので、雲霞を隔てる地であったことからつけられたという伝説があり、平安期より
  歌枕の地として多くの和歌によまれています。】

と説明しているけど、江戸城の南側なんかは現在でもかなり起伏の激しいエリアで、
ちょっと掘ればヨシの根っこが出てきたというあたり、谷間の部分はヨシが生い茂る
じめっとした場所で、ゆえに川越と同じくすぐに霧がたちこめるような
所だったのかもしれない。

弁慶堀の由来は結局わからないみたいだけど、「 西塔 」が叡山の西塔を指すことは
皆様とっくにおわかりですね。


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最終更新日  2016年02月06日 16時27分39秒


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