戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年02月02日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
え~、今回の江戸城訪問では大手からまっつぐ皇居東御苑に入って
そこだけで終わってしまったのですが、前回書いた2010年元日の
赤坂日枝神社への初詣のあとで皇居外苑を抜けて大手町まで歩いていて、
ちょうどその辺りが前回の『落穂集』などから紹介した御新城(西の丸)周辺にあたるので、
ついでだから写真をご紹介しましょう。
つっても、まだかけ出しの頃だからロクな写真もないんだけど・・・

なにせもう6年も前のことですので相当記憶がアヤシイのですが、
日枝神社(地図は こちら )で参拝を済ませたあと、

道も入り組んでたんだけど、小さなアップダウンが多くて
移動にまごついた記憶がある。

当時は地形だとかには興味はなかったですが、
今になって古地図を見てみればアップダウンがあるのも道理。
日枝神社の西下から神社南東にある首相官邸の下にかけては
かつて山王溜池があったのだ。

ん~で、神社からたぶん首相官邸と衆議院議員会館の間の道を抜けて
国会議事堂の前へ回ったんだろうな。
『東京時代MAP』(新創社)だと首相公邸のあたりは「内藤紀伊守」の屋敷があり、
官邸の方は内藤さんちのほか、「京極周防守」・・・ってあの京極さんちだよな、
そんなお大名の方々のお屋敷跡に建っている。


国会議事堂に出るまでの間の写真がありませぬ。
ディスクには保存してあるのかもしれないけど、あいにくただいま
PCのドライブの機嫌が悪いので、写真を探すことができません

いやでもこの辺て、日本の心臓部だからな。
元日だろうが早朝だろうがコワモテの警備のおっさんは常時詰めて目を光らせているし、

(多少)行動を慎んでいるから、ほとんど写真も撮ってないかもしんない。

当時はぼんやり歩いてたから記憶も定かではないけど、
首相官邸から国会議事堂に向かうあたりはそうアップダウンはなかった気がする。
多少はあったかもしれないけど、日枝神社の下とか赤坂なんかに比べたらずっとマシ。
(赤坂周辺は「 高野山が出稼ぎに来てます 」シリーズをご覧ください)

写真がないのが残念ですが、周辺と比べて高低差が少ないのは
江戸初期に諸大名が揚土をもらってセコセコ土木工事をしたおかげなのかもしれない。


さて、外桜田といえば「桜田門外の変」を真っ先に思い浮かべる方も多いでしょうが、
西の丸の南側周辺を取り囲む桜田堀に面した場所に井伊さんのおうちがありました。


P1010618

 【井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)

  この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は二代
  忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を
  拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭(かもんのかみ)
  を称しました)。幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から
  外桜田門へ向かう途中、水戸藩士に襲撃されました。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

上の写真で左に写ってる妙な物体については現地に何の解説もなかった気がしますが、
『古地図で歩く 江戸城・大名屋敷』(岡本哲志監修/平凡社)によると
加藤清正が掘ったとされる名水「桜の井」で、

 【一度に桶三杯の水を汲むことができたことから、江戸城を訪れる人々に重宝された。】

という井戸だそうな。
ただし、当初のものではなくあくまで移設のうえ復元されたものとのこと。
一度に桶三杯ってどーゆー意味?(笑)

井伊の上屋敷は国会議事堂・国会図書館の向かいにある憲政記念館を
すっぽり含む場所にある。
この桜の井の正確な場所はもう覚えてませんが、
憲政記念館の敷地の道路沿いの地味な場所にあったんだろうな。

で、内堀通りに出まして


P1010620


これが桜田堀。
遠くに写っているのが桜田門・・・北条時代、「小田原門」と呼ばれていた門です。
この辺の堀の幅は往時とほぼ同じなのかな。
古老にもまた少しご登場いただきましょうかね。

遠山時代には当お城に石垣など築いているところは一ヶ所もなく、ぜ~んぶ芝土居で、
 土手には竹や木が茂っていたそうです。権現様ご入国の頃には本丸・二の丸・三の丸があり、
 各郭の間にはかなり深い空堀があったそうで、権現様が空堀をさっそく埋めなされたので
 本丸の敷地がずいぶんと広がって中仕切りの石垣などもでき、遠山時代の堀とは
 大層様子が変わったそうですよ。


遠山時代・・・つまり後北条時代というのは前城主時代ということだから、
イエアスの入府以前はこんな冴えない城だったんだよ~という意図も
多少は含まれてるのかもしれないけど、実際関東の中世の城というのは
西国に比べて土くさい城が多く、立派な石垣を残す城は西に比べて少ない。

石垣に限らず、北条氏康の子の氏規(うじのり)が京に行った時、
瓦葺きの家々を見てカルチャーショックを受け、
小田原もせめて板葺きにしようと言ったというエピソードがあるそうな。
だから、あながち前城主をおとしめようという理由だけで
こういう風に言い伝えられたとも言えないと思う。

ま、江戸城は徳川時代に入って洗練された近世城郭へとリニューアルするんだけど、
上の写真の桜田堀は土居で石垣じゃありませんね。
これについては、こんなエピソードが伝えられている。
まず質問者が

 「秀忠様の代に、西の丸吹上門外の土手を総石垣にしようというプランがあったのに、
  工事が中止になったってホントですかあ~?」


と問いを投げかける。
吹上門はちょうど上の写真の撮影地点付近の堀の内にあった門で、
写真に写っている土居も当然工事予定地に含まれていたんだろうけど、
質問に対して語った内容は

ちょうどその頃、大御所様が駿府から下向なさって、今の掃部殿(井伊家)の屋敷前の
 お堀端に沢山の石が積み上げられてるのをご覧になり、


「ナニコレ?ちょっと、駕籠を止めてよ」

とその場に立ち止まって 松平正綱 (智恵伊豆の養父)殿を召され、

 「コレ、一体何のための石なのかちょっと聞いてきてよ」

と仰せになったので、正綱殿が問い合わせて言うには

 「なんか~、ここのお堀端の両側とも石垣にするそうですよ」

 「え~、そんなの聞いてないよ・・・・・・
  駿府へ帰ろっと」


 「えっ!!!いやだって、皆様ご到着をお待ちですし・・・
  ととともかく、西の丸へ入りましょうよ~」


 「いや、いいよ。
  ひとまず品川まで戻ってお茶にしようよ」


とガンとして聞かないので、正綱殿はあわててその旨を城内へ伝えられました。
 権現様は慶長5年から数年の間は駿府から来られた折には外桜田門から
 西の丸にお入りになっていたので、その頃は桜田門まで御老中方がお出迎えに
 出ておられましたが、御隠居ののちは吹上門へ回ってお入りになっていたので、
 半蔵門で御老中総出で権現様のご到着をお待ちしておりました。
 そこへ突然駿府へ帰るという知らせが届いたので、本多正信殿が急いでやって来られ、

 「大御所様!!お城へ入らずこのまま帰るってホントですか!?
  なんでまた、急に・・・何かあったんですか?」


 「だって、こんな工事やってるなんて知らなかったんだもん。
  ワシらが西の丸にいたら、工事の邪魔でしょ?
  だから帰るんだよ。それだけ。」


 「そんなワケないでしょ~!!
  秀忠様だって、先ほど品川からお戻りになって西の丸で大御所様を待ってるんですよ。
  ここで大御所様がお帰りになったなんて秀忠様が聞いたら、私は何を言われることか
  どうか、私を助けると思って西の丸へ入ってもらえませんか~」


 「アハハハ、変なことを言うね、お前は。
  別にワシがこのまま帰ったところで、お前が迷惑することもないだろ」


「違うんです、そうじゃないんです。ちょっと私の話も聞いてください。
  今回の石垣の工事は、秀忠様のアイデアじゃないんです。
  今回、私が工事を任されたので石垣にしちゃいませんか~と提案したところ、
  ならお前の思うようにしろという話になっただけなんですよ。
  なのに、この工事が原因で大御所様がお帰りになったなんてことになったら、
  工事をお勧めした私は秀忠様からどんなに叱られるか・・・
  ですからどうか、私を救うと思って西の丸へ入っていただけませんか~。
  オネガイ・・・・・」


 本多殿の熱心な説得のうえ、松平正綱殿からもお口添えがあったので、
 権現様は笑いながら

 「まさか秀忠がこんなことをするとは思ってなかったけど、やっぱりお前だったのか。
  これはとんでもない思い違いだぞ。なんでかわかるか?
  そもそも将軍である秀忠がこの城にいるのは、東夷への押さえのため。
  だから、その方面に向かって城を堅固にするというならいいんだけどさ、
  西の方面は味方の地なんだから、西への備えは必要ないんだよ。
  ・・・まあ、お前がそれほどまでに言うならしょうがない。
  西の丸に入ってやるさ」


 そうしてようやっとご入城になられたのですが、夜になって本多殿が御前に出られ、

 「このたびの石垣の件は、返す返すも私の不調法で申し訳ございませんでした。
  ところで、石垣だけじゃなく、このお城には馬出というものが見当たりませんので、
  1箇所作りましょうと秀忠様にお勧めして今準備をしているところです。
  いずれ大御所様のお耳にも入るでしょうから、先にお伝えしておきます」


 今度は権現様はそれほどご機嫌をそこねることもなく、

「なに?お前、この城に馬出があんの知らないの?」

 「え?えええ~・・・・?
  いや、私は知りませんけど・・・ありましたっけ?」


 「アハハ、馬鹿だなお前。
  この城の馬出っつったら、大坂城じゃないか!
  さしあたって必要ないから、今は秀頼に預けてるだけだよ。
  一般に将軍の居城には堅固な防御や掛矢なんて大層なものはいらないのさ」


大坂の陣の前だから、慶長年間頃ってことになると思うけど、
本丸の方にあれだけ石垣が残ってるのに西の丸の方が土手なのはなんか違和感がある。
たしか千鳥ヶ淵の方も土居だったよな。

大道寺重祐も「なにぶん、古い話なのでホントかどうかわかりません」と言ってるものの、
話としてはなかなか面白い。


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最終更新日  2016年02月02日 22時49分59秒


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