戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年02月04日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
将軍となった徳川秀忠が江戸城にいる理由が「東夷」への押さえのためだというなら、


「東夷」の代表格は数ある戦国武将の中でも高い人気を誇るあの方じゃないかと
思いますが、その当の本人が登場するエピソードが『歴史散歩 江戸と東京』
(堤紫海/文化総合出版)にある。

 【江戸城の大増築は、慶長12年(1607)に、天守と本丸が完成し、ついで
  同17年から19年にかけて、二の丸付近の工事がおこなわれた。(中略)

  そのころのことだ。ある日、秀忠は伊達政宗を相手に碁盤を囲んでいたが、秀忠は
  一石おろすたびに、「政宗にしよう。政宗にしよう」という。隻眼の政宗をからかって、

  本郷から攻めようか」といいながら打った。対局が終ってから、秀忠がそのことばを
  気にして、「本郷はそんなにあぶないか」と聞くと、政宗は「いかにも危険です。
  わたくしが堀割りの工事をうけたまわりましょう」と答えた。これは本因坊家に
  伝わる話である。

  こういう話の末、伊達家は、平河の治水をかねて、神田、お茶ノ水の堀割りを通じ、
  湯島台地と駿河台を切り離すという大工事を担当した。】

おおいおい、碁坊主に守秘義務はね~のか~!?とゲラゲラ笑いましたが、
大坂の陣で一旦工事が中断されて再開した頃の話となってるので、
まだ算砂は生きてる頃なんだよな・・・

算砂はあまり長いこと江戸にはいなかったようだけど、
本因坊2代目の算悦はまだ子供なので、2人の対局を見守って情報をリークしたのは


ま、これもホントの話かどうかはわかりませんが、
秀忠と政宗の両方の性格をうまくとらえた愉快なエピソードではある。


さて、現地に戻りまして内堀を渡ったところにあるのが桜田門↓。

P1010622


P1010623


P1010625

手前の高麗門をくぐると右に90°折れて渡櫓門がある。
現存する中で最大の枡形だそうで、国の重文。
桜田門は実は2つあり、これは外側にある外桜田門。
ただ、現在では内桜田門は別名の方が一般に名が通っており、
ゆえに一般的には「桜田門」といえばこちらの門を指す。

この門ができてから、それまで同じ場所にあった小田原門という呼び名が廃止された
( 「江戸城(4)」 参照)。

慶長7年(1602)頃とされる簡単な絵図には堀にかかる橋の下に
【小田原御門是より柴の浜へつづく】と書きこまれており、
イエアスの入府後もしばらくの間は小田原門と呼ばれていたらしいことがわかる。
なんでも、この場所が小田原街道の始点なんだそうな。

ウィキペディアによると、外桜田門ができたのは寛永13年(1636)。
慶長7年頃の絵図はあまり細かい書き込みはないんだけど、
この周辺のアウトラインは割合変わってない。

桜田の枡形虎口を突破すると、皇居外苑に入る。
その後の整備で外苑は堀できっぱり切り離されたような形になってるので
ここも埋立てなのかと思ったら、慶長7年頃の絵図にしっかり地面が描かれているので
外苑はもともと陸地だったらしい。
が、外苑の東にある馬場先堀のそのまた東、現在の丸の内になると海抜は下がり、
かつては日比谷入江が入り込んでいた。

西から内堀通りを東に進んで、桜田門を入らずにそのまま通りを東進すると
日比谷・有楽町に出て周辺には帝国劇場だの日生劇場だの帝国ホテルだのがありますが、
そこもかつての海。
『江戸東京 地形の謎』にはその辺りの解説として

 【今日でも、工事をすればおびただしい水が湧出すると言われる】

とある。

日比谷の劇場へは昔通っていた時期がありましたが、
何も知らなければなんてことない都会の風景。
しかし、400年ちょっと前までは華やかな劇場のあたりで
尻をからげた漁師たちが浅瀬の海で貝や魚を取っていたのだ。


厳重な外桜田門の攻撃を突破して外苑に入ると

P1010626

この時は石垣ばっかり見ていて外苑全体の写真がありませんが、
現在ではだだっ広い場所。
「皇居前広場」ともいう。
一般参賀の時ってこの辺に集まってしばらく待ってたんだっけか?

今年の参賀はプリンセス佳子ちゃまもバルコニーにお出ましになるので、
久々に一般参賀に行っちゃおうかな~などとも考えましたが、
外出の準備でチョ~忙しかったので断念しました

江戸期にはここにも重臣たちの屋敷が建っており、
「阿部豊後守」なんて名もある。
豊後ならたぶん阿部忠秋さんの家系だろうな。

明暦の大火の時はこのあたりも火にまかれたと思われ(大火の経過は こちら )、
その後リニューアルされたんだと思うけど、興味深いことに
慶長7年頃の絵図には外苑の一角に「僧正殿」という区画がある。

この絵図は通称「別本慶長江戸図」というそうで、手持ちの古地図は
大して数がないのでわたくしは『江戸東京 地形の謎』に載ってるものを
見るだけなんですが、この絵図が慶長7年頃とされる理由のひとつが
「僧正殿」の書き込みなんだそうな。

著者の芳賀ひらく氏は、慶長年間の「僧正殿」といえば
大抵の人が天海を思い浮かべるだろうけど、
天海が権僧正になったのは慶長14年(1609)で、
大僧正に進んだのは元和2年(1616)で案外と遅い時期なので、

 【むしろここでは、「僧正殿」が日比谷入江に面していることに注目すべきでしょう。
  すぐに思い出されるのは、徳川菩提寺である増上寺は元来貝塚(麹町、喰違土手の前)
  にあって、そこから日比谷に移転し、さらに現在の芝に移されたという記録
  (『江戸誌』『江戸名所図会』ほか)です。『東京市史稿』(宗教扁第三)は
  『三縁山志』を引いて「學誉大僧正の自記に、慶長年間菩提所とあり」としていますので、
  この「僧正殿」は、日比谷の増上寺を指していると考えたほうがよいのです。】
  (『江戸東京 地形の謎』より)

とし、さらに増上寺が日比谷から現在の芝へ移ったのが慶長2年~3年と言われるので、
であれば「別本慶長江戸図」は通説の慶長7年頃よりももう少し古いものだろうと
しておられる。

増上寺がもと貝塚にあったというのはよく聞く話だけど、
一時は皇居外苑にあったとはね。
もうひとつの将軍家菩提寺・寛永寺はこの時点ではまだこの世に存在しておりません。

もし菩提寺に指定された増上寺がイエアスのお声がかりで
この場所に引っ越してきたんだとすれば、
そういうところへよく寛永寺が割り込んで入って、
のちに増上寺をしのぐ大発展を遂げたもんだよな~と思ったりもした。
やっぱり 皇子(輪王寺宮)を迎えた ことは大きかったよな。


もそっと奥へ進むと現れるのが二重橋↓。

P1010627

めがね橋になってるから二重橋なのかと思いきや、
写真の橋の奥にもうひとつ橋があるので二重橋ということらしい。

橋の奥の方に見える高台が現在の皇居で、かつての西の丸。
写真の石橋は皇居への入口になるので「正門石橋」と呼ばれており、
一般参賀の時は引率されてあの橋をみんなでぞろぞろ渡っていく。
石橋が架かっているのは「二重橋堀」で、石橋を渡るとすぐ右に折れて
もう一度二重橋堀を渡る。
その2つ目の橋は鉄橋(正門鉄橋)で、そちらが正真正銘の二重橋。

もちろん、今架かっている橋は近代になってからのものですが、
2つの橋を渡って奥へ進むという構造自体は江戸期と同じ。
写真奥の高台が「西の丸」と呼ばれていた頃には、
1つ目の橋を渡ったところが西の丸の「大手」だった。

だからまあ、ビジュアルは違っても江戸期の西の丸をしのぶことはできる訳ですが、
なにしろ今は天皇陛下がおわす「皇居」なもので、気軽には立ち入れない。

今回撮った本丸の写真はのちほどご紹介しますが、
もし本丸跡が「皇居」になっていたら江戸城散策の魅力はガタ落ちなので、
皇居ができたのが西の丸でよかったな~とは思う。

が、その一方で個人的には西の丸が皇居になっていることは痛すぎる。
なぜって、堀の向こうの高いところには城内における将軍霊廟・紅葉山が
あったからですよ~。

上の写真で石橋の奥に高石垣があり、その上にこんもりと木が写ってますが、
絵図を見ると大体その辺に西の丸の御殿が建っていたようなので、
おそらく江戸期には撮影地点から西の丸御殿が見えていたのだろう。
そして、御殿の奥に東照宮があった。
霊廟はその北側、本丸に近い位置にあった。

ま、明治のご一新の際に紅葉山の堂々たる霊廟は撤去されてるけどね。
でも、「ここがあの紅葉山かあ~」って現地で浸ってみたくなるのが人情ってもんだよね。


P1010628

うむ・・・木がジャマで中の様子がさっぱりわからん(←皇居ですから当然です)。
堀向こうの石垣を見ながらさらに進むと次に現れるのが

P1010629

坂下門。
もっと正面から綺麗に撮ればいいじゃないかと思う方もおられるでしょうが、
門の手前には警備の詰所があるのですよ。
なんたって皇居ですから、橋を渡ろうとする不届き者をここで足止めせにゃなりません。

ここには観光客も多く来るから警備の人たちも慣れてはいるでしょうが、
じろじろと警備のおっさんに見られながら写真を撮るのもイヤなもので、
少し脇の方から撮ったような気がする。

この先のスポットにも同じように警備の詰所があって、
まったり観たいわたくしとしては現地で「ウザいなあ」と思ったものだけど、
考えようによっては今も江戸期と変わらず城を守っている訳なので、
おっさん達の警備の制服と髪型を頭の中で着物とちょんまげに着せ替えすれば、
江戸城警備RPGで楽しめるということでもある

ところで、「坂下の門」ならたぶんここが 「4」 で紹介した、
坂下に門ができて紅葉山参詣ができなくなったってアレだよな。
千代田区観光協会のホームページには、西の丸の造営直後にできた門だとあるけど、
西の丸が整備される以前には江戸庶民はこのあたりから紅葉山へ登っていたのだろう。

西の丸にも大奥があり、坂下門は大奥に近いので西の丸造営後は通用門として
侍女などが通り、現在では宮内庁職員が使う出入口だそうな。
なので、坂下門は江戸城の移り変わりによって
ここを通る人々の顔ぶれが変わっていった門ともいえる。



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最終更新日  2016年02月04日 23時53分34秒


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