戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年04月02日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
江戸城を訪れたガイジンは色々いる。

もちろん、往時は鎖国下だから各自が自由に個人旅行できたハズもなく、
公的な参府の制に基づいて諸事制限を受ける中で江戸までやってきた訳だけど、
詳細な旅行記を遺している人もいて、今回わたくしが読んだのはそのうちの3つ。

ここまでの記事の中でもケンペルとツュンベリーの旅行記から文章を引用してますが、
あらためてわたくしの読んだ3つの旅行記を年代順に紹介しておきますと、

○エンゲルベルト・ケンペル『江戸参府旅行記』(斎藤信訳)

 ドイツ人・ケンペルの『日本誌』の第二巻第五章を翻訳して一冊の本にまとめたもので、
 オランダ東インド会社の船医としてインドで勤務したケンペルは、元禄3年(1690)

 江戸参府に従って元禄4年(1691)と元禄5年(1692)の2回江戸入りした。
 その道中、および江戸城での出来事を書いた部分が本書の内容。


○申 維翰『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』(姜在彦訳)

 朝鮮人・申維翰(しんいかん/シンユハン)が朝鮮通信使の製述官(せいじゅつかん:
 書記官)として享保4年(1719)に来日して江戸参府した際の道中記。


○カール・ペーテル・ツュンベリー『江戸参府随行記』(高橋文訳)

 スウェーデン人・ツュンベリーは「ツンベルグ」「トゥーンベリ」など色々な形で表記される。
 医師であり植物学者でもあるツュンベリーはオランダ東インド会社に入社してセイロン、
 ジャワ経由で安永4年(1775)に出島のオランダ商館付き医師として来日、安永5年
 (1776)カピタンの江戸参府に従って江戸入りする。
 本書は『1770年から1779年にわたるヨーロッパ、アフリカ、アジア旅行記』の



これらはいずれも平凡社の「東洋文庫」から出版されているもので、
わたくしが初めて東洋文庫の本を読んだのは源信の『往生要集』でしたが、
その後『名ごりの夢』を読んで大変に良かったので、平凡社、いい仕事してるな~と思って
巻末にある既刊本の一覧を見ていたら、ぬわんとT・E・ロレンス・・・
一般には「アラビアのロレンス」として有名な方ですが、そのT・E・の書いた

あ、T・E・にはちょっと個人的に思い入れがあるのでね。

『都風俗化粧伝』も同文庫から出版されているし、
前々から手に入れようと思っていた円仁さんの旅行記も
ついでに同文庫からこの程入手したのですが、
ぱらぱらと円仁さんの本をめくって見た時、

「文字とはなんと偉大なんだ!!」

と感動しましたね。
千年以上も前に書かれたものを、こうしてわたくしが読むことができるんだからね。

ま、それは余談ですが、江戸入りした3者の本から受けた印象は、
ケンペルは辛辣、ケンペルの旅行記を読んで心がまえをしていたツュンベリーは
実際に来日してみるといい意味で裏切られたことが多く、日本への評価はかなり好意的。
ただ、ケンペルとツュンベリーでは100年近い時の流れがあるので、
世間がだいぶ変わっていたということもあるかもしれないけど。
2人とも西洋の学者らしく、また当時の世界情勢もあって
道中の出来事をかなり詳細に観察し、かつそれを詳しく書き遺している。

ケンペルが辛辣だとはいっても、日本とは文化の質がまったく違う西洋人にしては
素朴に公平な見方をしている時もあり、そういう点では好感が持てる。

が、お隣の国で古くから文化交流のあった申維翰さんはといえば、
理解があるどころか辛辣さではケンペルの比ではない。
アマゾンの書評では「面白かった」と好意的な評価をしている方ばかりだけど、
最初の方でもうわたくしは読む気がしなくなった。

申維翰の態度を一言でいえば「尊大」。
これに尽きる。
さすがに大帝国・中国の一の子分を自認してきた朝鮮人だけのことはある。

最近の中国は各方面で各国と摩擦を起こして、あの国のトップをTVで観るたび
「中華」(自分達が世界の中心で優れており、他民族は劣った存在だとする思想)の意識は
変わっておらんな~と不快感がつのる一方ですが、その中華の人の尊大さがそのまま
申維翰さんの態度だと思っていただければ想像もしやすいかと思います。

儒学にハマった国には近代国家としての進化は難しいと言っていたのは
井沢元彦氏だったっけか・・・
『海游録』を読んで、確かにそうだよなと思いましたが、
一応フォローをしておくと朝鮮とは鎖国下でも正式な国交を保っており、
朝鮮通信使は新将軍の就任などの慶事で来日する国の正式な使者。
国の威信をかけて国の代表として訪れる訳だから、
単なる「貿易国」の商人付きの医師であるケンペルやツュンベリーとは立場が違う。
ま、そういう部分を差し引いても儒教の持つ毒性が前面に現れている本だとは思うけどね。

ついでに言うと、朝鮮通信使にも医師は随行していた。
申維翰は医官じゃないから通信使の参府旅行時の日朝の医学交流の実態は書かれていないけど、
たぶん医師同士のそれなりの交流はあっただろうと思う。
ただし、正式な国使だから幕府の医官などの限られた人しか
訪問できなかったんじゃないかと思う。


この3者の観察したものを本シリーズであれこれ紹介させていただくため
ちと前置きが長くなりましたが、江戸城における彼らの体験談は後で紹介するとして、
まずは化粧における各項目で引用していきます。
ガイジンがどういう風に日本女性を見ていたかというのも、なかなか面白いものです。
文化の違う人間が率直に感じた感想だからね。
まずは前回白粉について書いたので、白塗りに関する記述から。
(以下、本シリーズで各ガイジンの語る文章はすべて上記3冊からの引用です)

ケンペルは肥前佐賀城を過ぎた鳥井町というところで初めて肥前の女性を目にして、

彼女はこの地方のすべての婦人と同様に美しい姿をし、行儀のよい身のこなしを
  しているが、大そう厚化粧していたので、われわれはこの娘を危うく人形と見まちがえる
  くらいであった。彼女たちは小さい体をしているが、大へん若々しく歩き回るので、
  まだ未成年と思っていたが、それにもかかわらず乳を飲む子供を連れて歩いていた。
  そのことは少なからずわれわれに不審の念を起させた。

肉食人種の西欧人から見れば小柄な日本人が若々しく見えるであろうことは想像がつく。
ちと話が飛びますが、鎖国下の日本においてガイジンはかなり注目を集めたらしく、
江戸城でもケンペルやツュンベリーはまるで見世物のように色んなことをやらされている。
(申維翰はさすがに正式な国の使者だったためかそういう事は要求されていない)

その時にはどうやら大奥の女性たちも御簾の陰からガイジン見物をしたらしく、
御簾の隙間から見えた女性についてケンペルは

ヨーロッパ人のような黒い瞳をした、若々しい褐色がかった円みのある美しい顔立ち
  であった。また頭部から判断して、大きな体格と察せられ、年齢はおよそ36歳ほどと
  思った。


ケンペルが垣間見をしたのは自分が踊っている時で、
しかもわずかな隙間から2~3回見ただけだというのに、
執念ともいえるほどの観察眼には脱帽するしかありませんが
註釈によるとケンペルに姿を見られた女性は「左大臣鷹司教平の娘で当時40歳」だというから
医師の博識をもってした骨格からの分析もハズレだったようです。

鷹司教平の娘が異様に若づくりをしていた可能性もなくはない。
女性は化粧や衣裳・髪かたちで化けることができるからね。
しかし、翌年の2回目の参府の際、将軍綱吉はカピタンとケンペルにクイズを出した。

(前略)備後(牧野成貞:江戸幕府初の側用人となった人)の年は幾つか当ててみよ、
  と言われ、カピタンは50歳、私は45歳とお答えしたら、みながどっと笑った。

  (カッコ内はジジイが追加)

註釈によるとこの時牧野備後は57歳だったというから、
やっぱりここでも実年齢より若く見積もっている。

まあそうはいっても、

「私、いくつに見える?」

なんて本人から聞かれれば、相手が年寄りであればあるほど、
しかも女性相手であればしゃかりきに当てにいくよりも
実際に思った年齢より若めに年を言っておくのが
人間関係を円滑にする社交辞令ってもんだけど
鷹司教平の娘の場合はケンペルが頭の中で考えただけだから、
社会人としてのマナーを気にする必要はない。

てことで、ガイジンからすると日本人は若く見られたようですが、
鳥井町の話に戻ると、相当白粉を厚塗りしていたらしい。
人形と見間違うほどってどんだけ・・・
厚化粧は鳥井町のこの女性に限らず、佐賀の町の総括としてケンペルは

住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、
  この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。ただ、いつもこってりと
  白粉を塗っているので、もしもその楽しげで朗らかな顔つきが生気を示すことが
  なかったら、われわれは彼女たちを操り人形だと思ったであろう。

と言っている。

日本女性の美しさについては他の二者も書き留めており、
ツュンベリーは日本人には黄色い肌も白い肌もよく焼けて茶色になった肌もいるが、
上流の婦人はたいてい外出時には何かで顔を覆っているので真っ白であるとして
女性に関しては割とあっさりとした記述だが、おカタい儒学者である申維翰の記述は面白い。

女性の容貌は、多くのばあい、なまめかしくて麗しい。脂粉を施さなくても、たいてい
  肌がきめこまかくて白い。その脂粉を施して化粧した者でも、肌が軟らかくて
  つやつやしく、生来のものの如くに自然である。すなわち、眉を描き、顔をいろどり、
  黒髪、花簪に五色紋の錦衣を着け、帯をもって腰を束ね、扇をいだいて立つと、これを
  望めば人の形のようでない。


朝鮮通信使に対しては、日本側も前例にのっとって丁重にもてなしをしている。
が、前時代(秀吉の朝鮮出兵)のしこりなどもあり、
朝鮮の使節が日本側のもてなしを拒絶したり、申維翰も「通例」に異を唱えるなどして
道中色々なもめごとがあったことを記している。

率直に言って「お高くとまってるな~」とわたくしは思ったのですが、
そんなお高い申維翰でも女性を絶賛しているのを読んで

「見るとこはしっかり見てんじゃねーか」

と笑えました。
ただ、「多くのばあい」と言っているので、例外な女性も目にしたようだけどね



にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年05月01日 18時45分04秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: