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最近『天皇への敗北』(國部功一郎著)を読んだ。いろいろ考えさせられる内容だったので、その一部を要約・紹介したい。 Q 同書の主張(ポイント)の一つは?A そもそも天皇は、基本的人権の「飛び地」(人権が認められない領域)になっている。Q どういうことか?A天皇は「国の象徴」(日本国憲法1条)であり、「国民(主権者)」からは除かれ、またその地位は「世襲」(同2条)で、「国政に関する権能を有しない」(同4条)ため、政治参加などの権利は認められないと解されている、ということ。Q「女帝」が認められないのは男女平等原則に反するという議論は?A「飛び地」の外の憲法原則を「飛び地」のなかに持ち込む倒錯した議論。男女平等原則を貫徹しようとするのであれば、まず「飛び地」そのものをなくす(基本的人権の認められない存在をつくり出す天皇制を廃止する)ことが先決。 197頁Qまず、明確にすべきことは?A1 天皇の人権問題 「天皇制を廃止して、基本的人権を保障する」か、「天皇には基本的人権が認められないと言うことを憲法に明記する」か、いずれかを選択すべき。(国民の総意に基づいて:1条)A2 昭和天皇の戦争責任 それが曖昧にされたことが、日本の被害者意識の温存につながったことは間違いない。「なぜ天皇が責任を問われないのか」という国民の潜在的な疑問は、自分たちの加害性を見つめるという課題から目を逸らすことを可能にしたと思われる。 * 天皇が人権の認められない「飛び地」になっている問題が曖昧なものでなくなり、昭和天皇の戦争責任が明確にされ、日本国民がその潜在的被害者意識を乗り越えて戦争責任を主体的に引き受けられるようになることが大切。 Q 「日本国民の加害者意識の弱さ」(自分たちは戦争の被害者で「侵略や植民地支配の反省をせよ」と言いつのる中国・韓国などアジア諸国の要求は不当だといった意識)について考えていく大きなヒントは? A「加害者臨床」(DV加害者に対するプログラムに関わっている信田氏の著書)(以下は『暴力とアディクション』等の要旨) 信田氏は、加害者男性が被害者意識をもっている点に注目。「妻は自分のことをDV加害者だというが、むしろ自分の方が被害者だ」、「これだけ普段我慢しているのに、それを理解せずにあんな口調で言われたら誰でもキレますよ」(『暴力とアディクション』206頁) 人によってはこれに呆れ、加害の事実を本人に徹底的に突きつけろと思うだろう。実際、「加害者は加害記憶を喪失する、しかし被害者は死ぬまでそれを抱える」(同208頁)のであり、加害の事実を加害者に示すことは重要だが、しかし、それは十分ではない。Qそれはなぜか?A加害者が自分のことを被害者だと思っている限り、「加害の事実を突きつけられようとも、それは被害者意識の強化にしかつながらないから」。「被害者の立場から彼らを鮮明に批判することは、加害者の更正を促進するどころか、むしろ再発のリスクを高めてしまう懸念もある」(同207頁)Q必要なことは? 彼ら(DV加害者)に被害者の苦しみがどれほどのものであるかを正確に伝え、その責任は彼らにあることを示していくこと。彼らがそれを引き受ける覚悟を示し、謝罪をすることで、かろうじてその家族は崩壊を免れる。 責任をとることを抜きにして、暴力の生起した関係の再生はありえない。そのためには暴力と定義づけ、被害者性を構築し、さらに「加害者」性を構築するプロセスが必要となる。(『家族と国家は共謀する』 72~73頁)Q「加害者臨床」と「加害者ケア」の違いは?A 後者は不適切。加害者は第一義的には被害者に責任をとるべき存在だから。そのためのプログラム参加であり、適切な教育によって更正をめざすべき存在だから。(『家庭と国家は共謀する』96~97)Q加害者臨床の留意点は? 加害者臨床は絶対に被害者の目線で臨まなければならない。加害者の言い分を受け入れて「そうですね、奥様にも問題がありますね」などと口にすることがあってはならないということ。[引用者の見解:「問題があるかどうか」はおいても(仮になにがしかの問題があったとしても)「やってはならないことがDV」である。これはいじめの場合とも共通すると思われる。] しばしば誤解されるが、加害者臨床とはあくまで再犯防止、再発防止を図るものであり、 DV被害者支援の一環として実施されるものだ。(『暴力とアディクション』223~224頁) 責任の所在をはっきりさせることこそが、再犯再発の防止には必要。 Q 信田氏の「加害者臨床」についての考えの意義は?A 責任を問うために司法的なモデルに訴える必要性と同時にその限界を教えていること。必ず被害者の目線で臨むと同時に、加害者に対する単なる鮮明な批判は、加害者意識をもたらすどころか、被害者意識を強化してしまう場合があるという事実から目を背けないこと。そして、もちろん責任の所在をはっきりさせることが再犯再発の防止に必要であること。Q これを活かしつつ日本の戦争責任をどう考えるか?A1 司法的なモデルに基づいて、日本の戦争犯罪を追及することが必要であり、その記録を保持し、保持させる努力が必要。A2 同時に、鮮明な批判だけでは被害者意識がむしろ強化されてしまう場合があるという事実を見据え、どこにその温存のからくりがあるのかを見極める必要がある。 Q 戦後80年の「戦争トラウマ」報道に関する信田氏の発言は? 2025年8月15日に毎日新聞に掲載されたインタビュー トラウマという被害は、加害なくして生じない。トラウマの悲惨さがクローズアップされることは意味がある(・・・)。しかし、あの戦争の責任はどこにあるのか、責任がどのように果たされたのかを抜きに、戦争トラウマについてのみ語られるのはどうなのか。 (記事に付された解説:戦争トラウマとは、過酷な戦場や加害行為のため兵士らが負う心的外傷後ストレス障害(PTSD)。旧日本軍では「戦争神経症」と呼ばれていたが、軍は「皇軍に軟弱な兵士はいない」と存在を秘匿し、戦後も長らく実態が知られないままだった。)Q 信田氏が語ったことはどう解釈できるか?A 戦争加害の最高責任者に対する追及が然るべき仕方でなされてこそ、温存されてきた日本国民の被害者意識もまた白日の下に晒される。その時、アジア諸国に対する加害者としての日本国民の責任が明確にされ、日本国内の被害もまた被害として認識されるようになる。(紹介は以上) 長くなったので付け加えないが、『天皇への敗北』には、上記以外の大切な論点か数々含まれている。ぜひ、一読されることをお勧めしたい。過去記事で紹介した文章も同書に掲載されていたことも合わせて記しておく。 総選挙2014「亡命はなぜ難しいのか」 なお、リアルタイムで触れられなかったが、下記リンクの記事や報道も考えさせられる点、参考になる点が多々あった。こちらも一読されたい。 【高市首相が「中傷動画」答弁修正】擁護すべき点は一つもない、国会で貫き続けた「詭弁と強弁」が招く政治の劣化 【西田亮介の週刊時評】「高市擁護」が目立つSNS、政治家の腐敗を助長する(1/4) | JBpress (ジェイビープレス) “人為的にバズらせる” SNS操る「農場」ビジネスを取材 「テスト」と書かれただけの投稿が6分で100万回表示… 選挙で悪用の懸念も【報道特集】 | TBS NEWS DIG (1ページ) にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2026.07.10
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1,殺傷兵器の輸出解禁について これほど重要なことが、ごく一部の「権力者」によって決定されるということは大きな問題だろう。歴史に学びつつ「方針の維持も含めてどのような選択を行うべきか」幅広い議論をすっ飛ばすべきではない。東京新聞の記事で青井未帆が述べているとおりだと考える。殺傷兵器輸出解禁「おかしいと言える正気を保っていけるか」 青井未帆教授が憂慮する「国民の議論飛ばし」:東京新聞デジタル〔ポイント〕 日本は長らく、防衛装備品の輸出をほぼ全面的に禁じてきた。Q なぜか? 大切なことは?A 背景には、かつて朝鮮戦争やベトナム戦争に日本製の武器が使われ、多くの人が亡くなった歴史がある。国民に共有された「それでいいのか」といった倫理的な問題意識が背景となって「武器輸出三原則」が打ち出され、定着した。重要な国是ともいえる方針の変更に際して「国民の議論飛ばし」は問題である。現状について「おかしいと言える正気を保っていけるか」が大切だ。〔紹介するポイントは以上〕Q 日本政府の言い分は?A 端的に言えば、国内「防衛産業」育成のための市場拡大が目的Q 問題点は?A そもそも「防衛産業(軍需産業)」は戦争や紛争、深刻な国際緊張によって潤う部門であること。事実、これまでも巨大な軍需産業は国家(政府)と結びついて莫大な「軍事費・防衛費」を獲得してきた。戦時中の「財閥」もいい例だ。〔近年の例〕ウクライナ危機に色めき立つ世界の巨大軍需産業 戦況長期化で利益を得るものは誰か | 長周新聞ウクライナ侵略で潤う米欧軍需産業、ロシアの脅威で「戦後」も好況か- CNN 実際、第二次大戦後においても軍需企業は国際緊張や紛争を助長してきたのではないか。具体例として、軍需産業を重要な基盤とする米国は、第二次大戦後に海外で戦争・紛争を引き起こすことで他のいかなる国よりも多くの人々を殺傷しているが、その背景に存在する「軍産複合体」についてアイゼンハワーなども警告してきた。(参考;池上彰特番の資料一部(および書籍)) 戦争のみならず、「内政干渉」目的に莫大な資金を投じて世界各地の紛争と混乱を引き起こしている。(遠藤誉作成の一覧表を参照) 以上の米国の例はきわめてわかりやすいが、まさにその米国と深く軍事的に結びつくことで「殺傷兵器の輸出を解禁された日本の防衛産業(軍需産業)」はどのような役割を果たすだろうか。歴史に照らしても明らかだと思われる。「軍民両用品」開発を援助するために一兆円以上の税金を使うなど、言語道断であろう。 軍民両用品を国が試験導入へ枠組み創設方針、新興企業育成…ドローンやAIに1兆円規模 PDF〔仮に、巨大な軍需企業(および軍産複合体)がなければ、冷戦終結後にNATOを含む軍事同盟は解体していただろうと私は考えている。〕2,エネルギー補助政策について これについては『東洋経済』の記事(一部)をそのまま紹介しておきたい。 ホルムズ海峡封鎖下の日本経済、高市内閣がこの夏以降も「エネルギー補助金」を続けるとどうなるだろうか | 政治・経済・投資 | 東洋経済オンライン 高市内閣は70年代の欧米と同じ轍を踏んではいけない ここで思い出すべきは、70年代の石油ショックの経験である。エネルギー危機の際は、価格メカニズムを活かすことが重要だ。値段が高くなれば需要は抑制され、供給は伸びる。つまり足りないものは大切に使うし、代替品も出てくるというわけだ。70年代の2度の石油ショックの際、日本はエネルギー価格の上昇を容認し、結果的に省エネ技術が進化した。そして80年代には、「燃費のいい日本車」が世界を席巻したのである。 逆に当時の欧米は、消費者保護のために補助金を出すなどしてエネルギー価格を抑制した。その結果、財政赤字が拡大し、高金利の下でインフレが止まらなくなった。それを克服するためには、アメリカのポール・ボルカー議長(任期79〜87年)の下での荒療治が必要であった。 今の高市内閣も、確実に当時の欧米の方向に進んでいる。〔紹介は以上〕 上記は全く妥当な主張だと考えるが、どう思われるだろうか。(なお、池上特番の前後の記述については4月27日時点で加筆・修正した。)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2026.04.25
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この間の主な記事のPDF版教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 1 (2012年3月執筆)の続き2、学校評価と教職員評価 ~その現状と問題点~現在の「学校評価」や「教職員評価」が強調されるようになったのはいつからだろうか。田中耕治(『教育評価』)によれば、第16期中央教育審議会答申(1998年)以来、学校の経営責任の明確化、各学校の教育目標を効果的に達成することを目指して、学校評価が意識的に取り組まれるようになってきた。学校評議員制度もこの学校評価を支えることを一つの目的として導入されたものである。 「教育改革国民会議」(2000年)で「教師の意欲や努力が報われ評価される体制」の構築が提案される一方、「指導力不足教員」の問題、他方では「教員の専門力向上」の問題をにらみながら、人事考課、勤務評定としての「教育評価」の取り組みが強まっている。⑤ ここでは概略、次のような点が指摘される。・学校評価において、自己評価と外部評価をどのように関係づけるのか。・教師の教育専門家としての成長と、処遇への反映の関係をどのように考えるのか。・競争的な報奨制度が共同的な教育活動を阻害することになったアメリカでの失敗例を念頭において、教師の努力や意欲が報われ評価される体制をどう構築していくのか。 田中耕治の記述はいくつかの問いで終わっているが、彼が「教育評価」と鍵括弧つきで表現した上記の取り組みの中には、本来の教育評価を捻じ曲げる要素が数多く入り込んでいるのではないだろうか。「学校評価」・「教職員評価」導入の意図が、「教育評価」を前進させるという純粋な観点だけでないところに問題がある。いくつかの側面から整理しておこう。1)「学校評価」の主体は本来誰か冒頭の引用文で中内(『教室をひらく』)も記述しているように、教育評価の筋で考えれば教職員こそが評価の主体である。「教科の学習や特別活動の成果」、「学習や活動によって生じた変化(あるいは変化が生じていないように見える理由)」を適切に評価し、「教育を(学校を)よりよいものにつくり変えていく力」こそが、教職員の専門性だと考えられる。このような意味における「教育の成果や教育実践そのものを評価していく教職員の力」を高めることなしに、豊かな教育は成り立たないであろう。あくまでこれが基本であり、教職員自身による「教育評価」を補うために「利害関係者」(具体的には同僚、保護者、地域住民、教育行政機関、第三者機関)の評価、そして学習の主体である子どもたちの評価を取り入れるのである。例えば研究授業や参観授業で同僚・保護者が感想・意見を述べる等、教授・学習過程に関係する人たちが評価に参加することは、「教室に閉ざされた評価」を開いていくことになる。そして同時に、教職員は出された意見を受け止めつつ検討することで「教育評価」の力を高めていくことができるであろう。2)教育評価と評定の区別 評価については、教育評価(エヴァリエーション)と評定(ヴァリエーション)を区別することが必要であるが、現状においてはきちんと区別されていない。現在の学校評価、教職員評価は純粋に「教育評価」の観点から拡大しているわけでないところに問題がある。「教育評価」と言うよりも、「評定」が強調される傾向があまりに強いのである。(例えば、教職員をA、B、Cにランクづけする等。)確かに、現行の「学校評価」の中には教育評価的な性格が取り入れられている部分もあり、それをも含めて全面否定することは問題があるだろう。しかし、それ以上に「民間企業の目標管理システム」をモデルにしていると見える側面が強い。後者のモデルは目に見える数値目標を重視するが、それにとらわれることで「教育の目標設定」そのものをゆがめてしまう可能性は大きい。 さらに、数値目標が一人歩きしていくことは教育の市場化・商品化を加速させていくと考えられるが、米国において完全に失敗していった「教育改革の現状・結果」⑥から、しっかりと学ぶ必要があるのではないか。また、ランクづけ(さらには賃金格差の導入)が「教職員集団で行き届いた教育を創造する」上で大きなマイナスになることについては、多くの論者が指摘するとおりであろう。3)評価に関わる「利害関係者の利害」とは?確かに、学校教育において「利害関係者」が「教育評価」に適切な形で参加することは有意義である。適切な形での参加というのは、教職員による「子どもたちの学びの現状の評価」を色々な角度からの意見によって補ったり修正していくことである。その結果、どの学校においても指導や教育条件が行き届いたものになるよう関わっていくことである。 しかしながら、「参加」の問題が「俺にも文句言わせろ」と言う形で「評定(例えば標準テストの平均点)を上げるための圧力」になってしまうとすれば、結局、子どもたちを際限のない「排他的競争」に駆り立てるだけで、権利としての行き届いた教育保障に逆行するものではないか。確かに教育目標を再検討していくことは大切である。しかし、例えば学習指導要領の内容が、政治家や経済学者やマスコミによる「学力低下キャンペーン」によって右往左往するようなことには大きな問題がある。あくまで、目標の再検討は、現場における「教育評価」を土台にしてなされるべきであろう。(※)また、教職員をランクづけし「最低ランクの○○はやめさせろ」、「担任替えろ」といった要求を出すことが、しっかりとした「教育評価」をもとに、落ち着いて指導内容の改善や教育条件の整備を進めていく上でマイナスに働くことは容易に想像できる。橋下維新の会による「教育基本条例」は、そのような性急な要求を公的機関が押し出すことで「米国の失敗」を現実のものにする危険性が大である。 〔註〕⑤田中耕治『教育評価』岩波書店 87頁⑥堤 未果『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書 2011) によれば、米国における「教育の市場化・商品化」の現状・結果は以下のようなものである。(概略)アメリカでは2002年春、ブッシュ政権によって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行された。その結果、全国一斉学力テストの実施が義務づけられるとともに、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給や解雇が行なわれる。公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化に追い込まれる。さらに、公立学校の教員の多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成と生活に余裕を失った保護者からの大量の無理難題要求に追い詰められていく。その結果、バーンアウト(燃え尽き)していく事態が急速に進行。2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、この政策は、教育現場を極度に荒廃させただけに終わっている。なお、米国で失敗した「落ちこぼれゼロ法」と「教育基本条例」が酷似していることを指摘した番組をとりあげたブログ記事はこちら 。◎「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは一応理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。 2023年5月10日付記 (※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。 続き にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.09
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伊藤詩織さんの映画をめぐる紛糾にドキュメンタリー制作者たちが緊急提言! ヤフーニュース(上記)で公開されましたが、弁護士の観点とは異なる角度から、重要な議論がなされていました。 参加者は、『国葬の日』などの監督作品で知られる大島新、東海テレビで長年『ヤクザと憲法』や名張毒ぶどう酒事件を追った一連の映画を作ってきた阿武野勝彦、『i-新聞記者ドキュメント』や『福田村事件』などの監督・森達也、そして『Little Birds-イラク戦火の家族たち-』などで知られる綿井健陽。座談会の記録は、『創』誌面で16頁に及ぶ長いもの(Yahoo!newsもかなり長い)ですが、さらに要約して紹介します。〔以下、紹介〕伊藤詩織さんの映画『Black Box Diaries』は、米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に日本人の監督作品として初めてノミネートされ、海外では数々の賞を受賞し、上映・配信もされているにもかかわらず、日本では公開の目途も立っていない。 2024年10月、2025年2月20日に外国特派員協会で、伊藤さんと一緒に裁判を闘ってきた旧弁護団がこのままでの映画公開は人権侵害にあたるという、これまた異例の記者会見を行った。一連の経緯や問題とされている事柄は、ドキュメンタリー映画の本質に関わる、深刻で重要な意味を持っている。⇒ 急きょ、ドキュメンタリー映画監督やプロデューサーで議論し、提言を出そう⇒ 都合のついたメンバーで2月23日朝にオンラインで緊急討論を行った。 参加した全員が映画『Black Box Diaries』の海外版を観て2時間に及ぶ議論を行う。3月7日発売の月刊『創』(つくる)4月号に掲載。このヤフーニュースでの公開は、少しでも早く多くの人に議論の素材を提供することが目的。 一連の問題は法律に関わる面もあるが、ドキュメンタリーの本質に関わる事柄だけに、制作・表現の現場を踏まえた意見表明や議論が大切だと思う。以下、ドキュメンタリー制作者らによる議論と提言。※ 伊藤さんの映画がすぐれた内容であることは全員の意見が一致当事者同士の話し合いや必要な対応を経て、問題がクリアされたうえで、日本での公開が早急になされることを望みたい。Q この映画をめぐって何が問題となっており、それについてどう考えるべきなのか。以下の議論をぜひ参考にしてほしい。「欧米スタイルのとてもよくできた作品」――伊藤詩織さんの映画『Black Box Diaries』とそれをめぐる大きな議論は、ドキュメンタリー映画にとってとても深刻で大事な問題を提起している。大島 『Black Box Diaries』は、制作チームの力がとても大きい。エモーショナルかつドラマティックな構成で、観る人の感情に訴えかけるような作り。ジェンダーの時代に世に問うべき映画だ阿武野 性被害者が監督として自分を描いていくドキュメンタリーは初めて観る。世に問うべきもので、映画として生まれてほしい。この間の様々なやりとりや記者会見にも「人間とは、社会とは」を問うドキュメンタリーの要素が満載だった。「ジャーナリズムとドキュメンタリーの混在」森 今の騒動については、一言で言えば「ジャーナリズムとドキュメンタリーのロジックが混在してしまっていること」が大きな問題。ジャーナリズムとドキュメンタリーの最大の違いは優先順位。公益性や社会正義を優先するのがジャーナリズム。キュメンタリーは自分の主観、思いや感覚を優先する「作品」。 捜査官の話、ホテルの映像、タクシー運転手…。タクシー運転手の映像はどう見ても撮られることを承諾しているが、その後に連絡が取れなくなったらしい。 伊藤さんが無断で西廣さんの映像や音声を映画に使っていたというのも、そのぐらいはやるだろうと思っている。「人としてどうか」という議論と、作品としてどうか、ドキュメンタリストとしてどうかというのは別だ。僕だって作品だけで言えば「人としてどうか」なんていくらでもある。望月衣塑子さんを撮ったドキュメンタリー映画の中では、法廷の廊下を隠しカメラで撮り、金平茂紀さんとか神保哲生さんとかも承諾なしで撮っている。電話の会話もそのまま使っている。(信頼関係って言葉は好きじゃないけど、多分彼らは抗議しない。)ケースバイケース。しっかりとラインで分かれているわけじゃなくてグレーゾーン。 今回の伊藤さんの「間違い」について、いいか悪いかでいえば良くない。人としてもあるいはジャーナリズムとしても全然これは良くないが、森は使うかと言われたら、問題とされている映像については、全部使う。ただ使い方はもう少し考える。あまりにもそこは無防備すぎた。僕らドキュメンタリストはしょっちゅう自分たちを「鬼畜」と表現、自嘲するように、時には人を傷つけることを承知で作品を優先する瞬間がある。阿武野 ホテルの映像、捜査官A、タクシー運転手。実は僕も全部使うだろう。なぜならいずれも欠かせない映像だと思うから。そして、使えるようにしていくプロセスはおそらくある。「プロデューサーやスタッフとの連携が…」森 ジャーナリズムや法の論理から言ったら、伊藤さんの編集は一方的でアンフェアだと西廣さんが感じることは当然だが、自分が感じたことを様々な素材を援用しながら再構成するとドキュメンタリーを定義するならば、自分だってやったかもしれない。綿井 この映画に限らず、ドキュメンタリーは、塀の上を歩いていて、塀の外と内のどちらに落ちるか、無事渡り切れるだろうかみたいな緊張感が常にある。大胆な撮影も時にするが、落ちないように渡れるように最大限の慎重さも保つ。そうした意識が今回は残念ながら薄いように見える。森 塀の上という意味では、ジャーナリズムにもその要素はある。例えば沖縄密約問題における西山記者のように、ペンタゴンペーパーズにおけるニューヨークタイムズやワシントンポストの姿勢のように、権力監視という機能を果たすためには、時にはその権力側が作ったルールや規制を踏み越えなくてはならない。ジャーナリズムの場合は、そうした逸脱の内在論理として、できる限りを社会正義の実現や公権力の看視や公益性の方向に尽力すべきと思うけど、ドキュメンタリーはだいぶ違う。「ホテルの映像使用をどう考えるか」森 ホテルの映像使用について、ホテル側が恐れているのは、客のプライバシーを撮った映像を求めがあったら「はいどうぞ」と渡してしまうと思われるのがダメージだということ。西廣さんからしたら、彼女も裁判以外には使わないという誓約書に連名でサインしているから弁護士としては絶対に看過できない。阿武野 ただ、ホテルの映像は、この映画の中で欠かすことのできないものだ。映画の成立不成立の鍵。そこまで考えてくると、相当根深い対立になっている。 もう少しいうと、ホテルのロビーは、パブリックなスペース。そこに防犯ビデオがあるというのは、犯罪を防止するため。犯罪に繋がっていく様子がそこに明確に映っているから裁判の証拠として採用されたわけで、映画の中で最も欠かせない映像素材の一つ。防犯目的であれば犯罪行為があった場合、映像はニュースや映画等で使われる可能性がある。むしろ犯罪防止の面で監視が徹底しており、安心安全誠実なホテルだと示せる。綿井 ホテルの映像を修正版で全部削除するというのはあり得ない。ニュース番組のディレクターたちに防犯カメラの事情を聞いたところ、殺人事件が起きたら防犯カメラの映像は、どのテレビ局もニュースで放送することが多い。阿武野 コンビニ強盗などは防犯ビデオ映像が出てくる。犯人逮捕に向けて警察が情報提供を促すために広報する、そういうことが日常的に起こっている。綿井 刑事事件は不起訴だが、民事では伊藤さんが勝訴で確定している。ホテル入口という極めて公共性が高い場所で起きた行為であって、訴訟でも確定していて本人が映っているような今回の場合、ホテル側は映像使用を例外的に認めるべき事例だと思う。「曖昧な部分がドキュメンタリーの本質」森 映像の了解を得るために事前に見せるべきと主張する人もたくさんいる、僕は基本的に見せない。特に被写体に見せていたらドキュメンタリーは成り立たなくなる。それは僕のドキュメンタリーの定義。今回こういう議論になって、その辺りの曖昧な部分をクリアにすることは悪いことじゃないが、その曖昧な部分がドキュメンタリーの本質そのものでもあるので、その領域に強引に線を引かれてしまうことにすごく危機感を持っている。この場合にはこうすべきだみたいなことがルール化されてしまうと、ドキュメンタリーは窒息してしまう。綿井 外国特派員協会の会見の時もそうだが、海外メディアは、「なぜこの映画が日本で公開されないんだ?」「元弁護人が妨害してるのでは?」「伊藤さんは何か法に触れる行為をしたのか?」といった疑問を投げかけている。彼らは基本的に、この映画の中では防犯カメラを出すのは当然だし、早く日本で上映すべきという捉え方。「公開すべき映画だし重要な作品」森 公開すべきだと思う。重要な作品だ。綿井 これまで海外映画祭で上映やネット有料配信されている版については、当然契約書も交わして、販売売上も発生している。それを今から封印や販売停止するのか、できるのか。伊藤さんや現在の弁護人は、「修正版」ではなく、「最新バージョン」という言葉を2月20日付の声明では使っている。森 そう考えたらもう修正には意味がない。だからグレーゾーンのままでいてほしい。ドキュメンタリーの現場にいる者としてこの騒動は、早く終わってほしい、が本音。「伊藤さんと旧弁護団の関係修復を」阿武野 2月20日の弁護団の会見の中で、このまま上映された場合に何か実害があるかという質問に、「実害がある、人権侵害だ」と弁護団は応えている。綿井 この映画が日本でどう公開されるか。そこには、伊藤さんの今後のジャーナリスト生命もかかってくる。映画の修正版の制作・公開はもちろんだが、自身の言葉と行動で説明する機会を自ら改めて設けて、答えなければならない。 (進行役) これだけ大きな問題になってしまったから、この映画についてどういう落としどころにするかは大事。ドキュメンタリー映画をめぐって将来、マイナスにならないような解決にしないといけない。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2025.03.09
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