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1,殺傷兵器の輸出解禁について これほど重要なことが、ごく一部の「権力者」によって決定されるということは大きな問題だろう。歴史に学びつつ「方針の維持も含めてどのような選択を行うべきか」幅広い議論をすっ飛ばすべきではない。東京新聞の記事で青井未帆が述べているとおりだと考える。殺傷兵器輸出解禁「おかしいと言える正気を保っていけるか」 青井未帆教授が憂慮する「国民の議論飛ばし」:東京新聞デジタル〔ポイント〕 日本は長らく、防衛装備品の輸出をほぼ全面的に禁じてきた。Q なぜか? 大切なことは?A 背景には、かつて朝鮮戦争やベトナム戦争に日本製の武器が使われ、多くの人が亡くなった歴史がある。国民に共有された「それでいいのか」といった倫理的な問題意識が背景となって「武器輸出三原則」が打ち出され、定着した。重要な国是ともいえる方針の変更に際して「国民の議論飛ばし」は問題である。現状について「おかしいと言える正気を保っていけるか」が大切だ。〔紹介するポイントは以上〕Q 日本政府の言い分は?A 端的に言えば、国内「防衛産業」育成のための市場拡大が目的Q 問題点は?A そもそも「防衛産業(軍需産業)」は戦争や紛争、深刻な国際緊張によって潤う部門であること。事実、これまでも巨大な軍需産業は国家(政府)と結びついて莫大な「軍事費・防衛費」を獲得してきた。戦時中の「財閥」もいい例だ。〔近年の例〕ウクライナ危機に色めき立つ世界の巨大軍需産業 戦況長期化で利益を得るものは誰か | 長周新聞ウクライナ侵略で潤う米欧軍需産業、ロシアの脅威で「戦後」も好況か- CNN 実際、第二次大戦後においても軍需企業は国際緊張や紛争を助長してきたのではないか。具体例として、軍需産業を重要な基盤とする米国は、第二次大戦後に海外で戦争・紛争を引き起こすことで他のいかなる国よりも多くの人々を殺傷しているが、その背景に存在する「軍産複合体」についてアイゼンハワーなども警告してきた。(参考;池上彰特番の資料一部(および書籍)) 戦争のみならず、「内政干渉」目的に莫大な資金を投じて世界各地の紛争と混乱を引き起こしている。(遠藤誉作成の一覧表を参照) 以上の米国の例はきわめてわかりやすいが、まさにその米国と深く軍事的に結びつくことで「殺傷兵器の輸出を解禁された日本の防衛産業(軍需産業)」はどのような役割を果たすだろうか。歴史に照らしても明らかだと思われる。「軍民両用品」開発を援助するために一兆円以上の税金を使うなど、言語道断であろう。 軍民両用品を国が試験導入へ枠組み創設方針、新興企業育成…ドローンやAIに1兆円規模 PDF〔仮に、巨大な軍需企業(および軍産複合体)がなければ、冷戦終結後にNATOを含む軍事同盟は解体していただろうと私は考えている。〕2,エネルギー補助政策について これについては『東洋経済』の記事(一部)をそのまま紹介しておきたい。 ホルムズ海峡封鎖下の日本経済、高市内閣がこの夏以降も「エネルギー補助金」を続けるとどうなるだろうか | 政治・経済・投資 | 東洋経済オンライン 高市内閣は70年代の欧米と同じ轍を踏んではいけない ここで思い出すべきは、70年代の石油ショックの経験である。エネルギー危機の際は、価格メカニズムを活かすことが重要だ。値段が高くなれば需要は抑制され、供給は伸びる。つまり足りないものは大切に使うし、代替品も出てくるというわけだ。70年代の2度の石油ショックの際、日本はエネルギー価格の上昇を容認し、結果的に省エネ技術が進化した。そして80年代には、「燃費のいい日本車」が世界を席巻したのである。 逆に当時の欧米は、消費者保護のために補助金を出すなどしてエネルギー価格を抑制した。その結果、財政赤字が拡大し、高金利の下でインフレが止まらなくなった。それを克服するためには、アメリカのポール・ボルカー議長(任期79〜87年)の下での荒療治が必要であった。 今の高市内閣も、確実に当時の欧米の方向に進んでいる。〔紹介は以上〕 上記は全く妥当な主張だと考えるが、どう思われるだろうか。(なお、池上特番の前後の記述については4月27日時点で加筆・修正した。)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2026.04.25
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近年注目を集めている「学びあいのある授業」(学びの共同体)について私自身の考えも整理しておきたいと思います。 学習形態(コの字型やグループ学習)自体は別に新しいものではありません。「学習集団づくり」などの実践は従来から積み上げられていました。しかし、「学びの共同体」の新しさは明確に「学校づくり」、「学校改革」として取り組みが打ち出されていったことでしょう。 ここでは特に高校の現場における意義(および課題)を列挙しておきたいと思います。(常態で)1、教科や学科の枠を越えて、学校全体が「授業研究」に取り組む体制ができる例)授業づくりと学校づくり (過去記事) これまで高校の現場において、教科や学科の枠を越えて「授業研究」を一緒に行う機会は稀であった。 「学校改革の取り組み」としての「学びの共同体」の広がりが、同時に教科や学科の枠を越えた「授業研究」を広げていく意味を持っていたことは間違いない。 もともと、そのような取り組みとして提唱されたことに加え、授業後の研究協議が「子どもの学びの事実」を中心に進められる(したがって、発言にはその教科の専門性を必ずしも必要としない)という方式が「枠を越える取り組み」を促進した、と考えられる。2、上記の体制を基盤に、教職員自身が学びあう同僚性が構築できる この点については、リンク先の「授業づくりと学校づくり」からもよく読み取れる。そこでの同僚性の構築については、I さん自身の「周りを見る目」の変化としても語られているが、強い説得力を感じさせるものがある。 また、1、でも取り上げた「子どもの学びの事実」を中心に進められる授業後の研究協議が、実りある「教育評価」(教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件の整備につなげていく取り組み)の力量を互いに高めていくものであることにも注目しておきたい。(現在の「学校評価」も、子どもたちの現実に即してその「学びや成長を評価していく現場の力量」を高めていくことによって初めて実質的な改革につながると考えられる。)3、「学びの共同」の大切さを共有できる 「教室の学びを個の経験の軌跡を基盤として共同体的な実践へと再構成する活動」,「個人主義的な学びを共同体的な学びへと転換すること」(佐伯胖・藤田英典・佐藤学編 「シリーズ学びと文化(3)学び合う共同体」 東京大学出版会92頁)の重要性が、実践を通して共有されていく。 個人が「平和で民主的な国家および社会の形成者」となっていくためには、発言を出し合い聴き合って「学びの共同」を成立させていく経験は貴重なものであると考えられる。4、希薄になりがちな子どもたち同士の「関わりあい」(集団づくり)の大切さを共有できる 「学びの共同体」には「授業を通しての集団づくり」という側面が確実にある。事実、佐藤学自身、「学びあい」「関わり合い」の大切さを繰り返し強調している。また、例えば広島県安西高校の報告の中には、「学びの共同体」を学校全体で取り組むことが、生徒会行事の活性化等にもつながったことが報告されている。5、「聴きあうこと」の大切さを共有する(佐藤は)相手の言わんとすること,教材が問うていること,教師が発問していることをしっかりと「聴く」ことによって,自分の考えを構築していくような教室を「しっとりとした教室」(佐藤学「教室からの改革-日米の現場から-」 国土社)と形容する。(「しっとりとした教室」では,「話す」以上に,「聴く」ことが大切にされている。こういった様々な事象を受け止め「聴く」ことを佐藤は,〈受動的能動性=対応〉と呼んでいる。) 「学びの共同体」の課題 1、「学びの共同体」の立場から佐藤学は、「学び合い」と対比したかたちで一斉授業を批判する。しかし、その批判される一斉授業は、常に「教師による教え込み」である。単純な図式化によって一斉授業がその質を問われることなく、十把ひとからげに否定されるのは問題であろう。 一斉授業も大切にしながら、状況に応じて「グループによる学び合い」を取り入れる。それが実践における妥当な判断だと思われる。「学び方」に多様性を認めない教条的な面が「学びの共同体」にあるとすれば、それは問題である。2、学びを成立させ深める際の「教師の指導性」が適切に位置づけられていない。 柴田義松が(「『学びの共同体』と学習集団の実践」 現代教育科学No.591 明治図書2005で)指摘するように「学びの共同体」においては「子どもの発言を交通整理的に分けて板書することによって,お互いの相違点や共通点を明らかにし,対立するポイントを明確化したり,発問によって子どもの思考をゆさぶり,子どもの考えを広げたり,深めたりする教師の指導性」があまり追求されていない。 子どもたちの「聴き合う関係」,「学びあう子どもの学び」をつくるための教師の指導性や教材解釈をしっかり問うことは大切であろう。そのためにも、「学びの共同体」の取り組みに「過去の授業研究の積み上げ」を包摂していくことが、その「学校づくり」を豊かにしていくことになるだろう。 (教育問題に関する特集も含めてHP"しょう"のページに・・・)(アメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)
2012.03.22
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『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』(亜紀書房 福田誠治著)の紹介記事を書いてみたいと思います。〔なお、福田誠治氏は『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)の著者でもあります。この本についての紹介記事は以前、本ブログで連載いたしました。〕 さて、『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』には様々なデータや授業風景の写真が掲載されていますが、最初に私が興味深いと思った図表と関連する記述を紹介いたします。〔『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』37頁より〕 表1-2『PISA2003における得点格差と平均得点の国際比較』で見ると、フィンランドは、どの分野でも得点の散らばり、つまり国内の学力格差が小さい。まったく逆に、日本はどの分野でも得点の散らばり、つまり国内の学力格差が大きい。(・・・)〔同 37頁〕 OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長は、PISA調査から次のことが言えるとしている。 「OECD地域の生徒の社会的背景と成績の間には強い関係があるということ。これにはがっかりさせられます。というのも、私たちは理想的には、その社会的背景にかかわらず、すべての生徒に平等の機会を与えることを保障したいと考えて努力してきたわけです。しかし、実際には(・・・)どのような家庭の下に生まれたかが大きく問題になり、それが学校での成績に大きな影響を持っているのです」 「フィンランドは、全体的な成績が非常に良いのですが、もっと重要なことは、他の多くのOECD諸国に比べ、社会的背景の影響がずっと小さいということです。教育制度がすべての生徒に均等の機会を与えることに成功しているわけです」〔同 38頁〕 習熟度別のクラス編成も、フィンランドでは1985年から廃止されている。したがって、学校や学級はさまざまな学力の子どもたちが混じり合う「統合」というやり方である。 フィンランドでは、統合学級で平等な均一・一斉授業が展開されたわけではない。ましてや、個別に対応するために習熟度別編成を選んだわけでもない。フィンランドでは、「統合」でありながら「個別」に指導するという教育方法で対処することにした。平等と個別のニーズとの微妙なバランスが、専門家としての教育者が編み出す教育方法という知恵(専門性)によって解決されている。〔同 42頁〕〔コメント〕 学力テストの結果を見るときに、わたしたちは「平均点がどうか」ということにとらわれがちです。しかし、社会的に排除される個人を生み出さない(参考:イギリスのニューディール政策)、という観点を重視すれば「日常生活に必要な“学力”を獲得できない生徒が何%存在するか」ということの方がより重要なのではないでしょうか。 その点、いわゆるPISA(OECDが実施する国際学力調査)の結果、学力世界一といわれるフィンランドの教育についても、平均点の高さ以上に「学力格差が小さい」ということが注目できます。言い換えるならば、フィンランドでは「高学力と教育における平等が両立」している点が素晴らしいと思うのです。〔PISA:OECDが実施する国際学力調査で「これまで何を学んだかではなく、これから何ができるかを測ろうとした」ものだといわれる。つまり、「学んだ知識や技能を使って自分が社会で直面する諸課題を解いていく力」を測定しようとしたもの〕 PISAで高得点のフィンランドの子どもたちは「社会の中で生きていくための実践的応用力、思考力、表現力」において優れた力を蓄えている、ということになるわけですが、高得点をあげることができた理由は何でしょうか。しかも、なおかつ学校間格差がほとんどない、国全体の学力格差が極めて小さい、という「教育本来の目的からしても奇跡的に好ましい結果」を出すことができているのはなぜでしょうか。 上記引用部分からは「“統合”でありながら“個別”に指導する教育方法」が重要なポイントであることが読み取れます。しかし、「学力世界一」「学校間格差がほとんどない」という「結果」(高学力と平等の両立)を生み出したような教育方法、はいかにして構築され共有されているのでしょうか。 フィンランドの教育制度を中心に次回はその問に答えてみたいと思います。2に続く 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2009.02.01
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