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オネムちゃんハッピーちゃんは今日も元気外面の良いお花どんどん寒くなってきました皆様お元気でしたか風邪をひかないように、家に帰ってきたらうがい、手洗い、そして良く寝ましょうね家のほったらかしのお庭のお花は持ち主に似て外面が良くフェンスを超えまだ咲き誇っています本当は野菜とか植えたいのですが土を掘り起こして石灰を撒かないといけないみたいなので、ずぼらな私には無理ですね又チューリップでも植えることにしますねSOUL ROOM自分を知ること人と人との関係がとても大事であります。そしてそれぞれの人間関係においてその人の特定の側面が出てくるのですが、その場合相手の人は鏡の役割をしているのだということです。また問題なのは、自分のある側面が気に入らなかったときの対処法です。結論から言うと、たとえその側面の自分が気に入らなかったとしても、ただそれを知っていれば良いと言うことなのです。大事なのは、自分を知ることであって、その今の自分を基準値にして世の中を見る必要があるのです。 まえおきが必要です。この場合の人間関係とは、正しい人間関係のことで、変な固定観念にとらわれたり、お互いが自分自身を見失っている場合などには、自分を成長させる人間関係にはならないようです。そこで人間関係を鏡として捉えると言うことなのですが、それはなかなか理解が難しい気がします。とりあえず、相手が思っている自分が本当の自分の姿であるということです。いってみれば、自分は自分で思っているような自分ではなくて、相手が考えている自分の姿が本当の姿だと言うことです。 ということは、正しい人間関係とは、お互いに自分には相手のことがどのように見えているのかを、素直にあらわせる関係だと言うことに成ります。これは、自分が周りからどのように見られているのかを気にするのが大事だということではありません。たとえばどのように見られたいとか、こんな風に見られるのは嫌だとか考えるのは、自分が考える自分自身が先にあって、無理やり人間関係をそれに合わせようということになってしまうのです。これでは正しい人間関係にはならないのです。あくまでも正しい人間関係の中で、相手の姿を返してあげることが大事なのです。 鏡は曇っていてはまずいのです。その曇りは自分自身の見栄とか、世間体などを意識する気持ちなども含まれるのです。相手も曇っていたらまずいですから、正しい人間関係を維持するのはなかなか大変かもしれません。 さて、運良く相手に自分の本当の姿が映ったとします。難しいのはこれからです。多くの場合、その姿は自分にとって望ましいものでは無いかもしれません。でもそれで良いのです。大事なことは、その自分の姿を「ありのまま」に知ること、そして、それを良いとか悪いとか判断する必要は無いのです。ここで変に自分の評価をしてしまうと、またそこで自分の考える自分を作ってしまうことになるのです。同じ理由で自分を変えようとする必要はありません。自己嫌悪などする必要は全く無いのです。知っていれば自然に変わっていくのです。 相手によって映し出された自分の姿を知った後、またポイントは人間関係にもどります。人を見るときの基準を自分を基準、0(ゼロ)にするのです。それによって人間関係に変化がおこり、同時に自分自身の考え方にも影響が出るのです。細かく説明すると、今までの人間は比較対照するときに高いところに基準を置きすぎているのです。これは特に宗教などに顕著に現れています。人間は自分自身を考えるとき、無意識のうちに理想的な人間(聖人)を思い浮かべて、その架空の人物と自分を比較する癖があるのです。これは劣等感や自己嫌悪を呼びます。これは罪の意識を作ります。そして無力感や不安感にまでつながってしまうのです。 たとえば小学生が高校生の勉強が出来なくても、劣等感や自己嫌悪を感じる必要はまったくありません。それを大人から見たら、その小学生に「そんなことを気にすることは無いよ、いま体験しなければならないことは別にあるよ。」と思うでしょう。それでもまだその小学生が自分を高校生と比較して嘆いているのなら、逆に「何を生意気なことを言ってるんだ、そんなことはまだまだ早い、もっと自分の力を知るべきだ。」くらいのことを考えるかもしれません。私たちは、この生意気な小学生のような考え方で自分の社会を見ているのです。 こんなだから、自分を許せないし(自己嫌悪)、人も許せないのです。ありのままの自分を知ることが全ての始まりなのです。そうすれば、あとは自然に変化していくのです。極端に聞こえるかもしれませんが、自己嫌悪に陥るなんて事は、ある意味では生意気で傲慢なことなんです。子供は子供らしく楽しく生活すればいいのです。とりあえず今大切なのは、私たちがまだまだ発展途上、成長の途中であるということをしっかりと自覚することなのです。
2007年11月18日
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ハッピーちゃんは今日も元気!皆様お元気ですか~今日もバレーボール勝ちましたね~先週会社で突然焼肉宴会があったのですが行ってみると元天才セッターの中田 久美さんを招待していましたただ初めからホルモンがボールにどっと出てくる店もっといい所に招待したらいいのにねうちのハッピーちゃんも食べないかもスポーツ選手は老けやすい右に写っているのは私ではありません~念の為SOUL ROOM肉体的な死魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではありません。私達の意識とは全く違う捉え方をしているのです。私達の意識は自意識により支配されています。自意識(自我)とは基本的に生存欲求なのですから、私たち(自意識)は生存することを最も重要な目的として働いています。それは人間の行動をみればわかります。ある程度大人になった人間の場合、ほとんどの行動が自らの安全を確保する為を前提として選択されています。それは食欲などの基本的な欲求ばかりでなく、社会的な欲求も、人間関係に対する欲求も、根本的なところでは、安全に対する欲求が元になっているのです。社会的に成功してお金持ちに成りたいと思うのも、基本的にはお金持ちの方が安全に生きていけると考えているからなのです。 というわけで、私達の意識は生存を続けることを第一の目標として生きています。それは「肉体的な死」というものを、真正面から考えることを避けるということでもあるのです。とくに人間の本質が肉体であると勘違いしている場合はなおさらです。死という物を出来るだけ避けなければならないという前提に立って私達の思考(意識)が成り立っているのです。べつにそれが悪いとは言っていないですよ。ただ自意識の本質として生存欲求があると言うことをまず説明したかっただけです。 私達の自意識の根本的なところがそんな風に出来ているのですから、魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではなく、多くの場合すばらしいイベントであり、人生の中で最もドラマ性の高い楽しみな部分であるといっても心情的に理解するのはたいへん困難だということになるのです。 私たちは、永遠という一瞬の中で絶えず変化しながら、生きることの感動を味わっています。少々ゆがんではいますが、わかり易い言い方に変えるとこんな風に成ります。私たちは、輪廻転生を通じて何度も何度も生まれて、成長し、死を体験しています。輪廻転生自体を何回も繰り返しているということです。言ってみれば無限に生と死を繰り返しているのです。そんなわけで、今回の輪廻転生での全ての記憶を持っている魂にとっては、「肉体的な死」というものは特に珍しいものでもなく、単なる一つの区切りでしかないのです。 おまけに、魂にとっては「肉体的な死」というイベントは大きな感動を伴った出来事になるのです。死を通して、愛を確認したり、一生での体験の総決算である気づきをしたり、人によっては「肉体的な死」の前後にその人の人生の価値(成果)のほとんどを体験することもありえるのです。とくに意識的でない生き方をしてきた場合、「肉体的な死」を通しての感動は重要になります。たとえば、死んだ後で初めて「自分がどれくらいたくさん愛されていたのかを実感できる」というようなこともあるのです。 だから魂にとっての「肉体的な死」は、極端な言い方で在るのを承知で書くと、「食事の最後に出てくる、大好物のデザート」でもあるのです。今書いたことだけでも、自意識からの見かたしか出来ない人にとっては、まったく何を言っているのか判らないだろうし、私のことを気が違っていると考えるのかも知れません。要するに自意識にとってそれだけ「死」というものを的確に理解することは大変なのです。 まあ言ってみれば、「肉体的な死」というものは何も悪いことではないし、なにも恐れることではないのですが、それを完全に知ってしまうとデザートの味が落ちてしまうのでこまりものです。まあ死ねば分かるんですけどね。たちえば、テロなどで殺された人は、死を受け入れているのです。少なくとも魂はそれを受け入れています。何故ってそれを嫌がる理由は魂には無いのですから。もしも魂がもっと生きることを望んだ場合、はじめからその飛行機に乗るという選択肢は用意しないのです。少なくとも意識的に生きている人は、絶対にその様なことで不本意な死に方をすることはありません。無意識に生きている人の場合、魂からの忠告を聞かずに飛行機に乗ってしまうかも知れません。そのばあい集合意識による創造であるテロなどのせいで不本意な死に方を選択しなければならなかったということになるということも出来るかもしれません。しかし基本的にはその直前、あるいはその直後にはあきらめたでしょう。この場合のあきらめるということは、集合意識に従うということです。もしそうでなかった場合、奇跡を起こしてでも生還することは出来たと考えられます。(それはかなり困難で在るけれど、不可能ではないという意味です。) 人間は死んでも3次元的な肉体を捨てるだけで、自分自身のアイデンティティを持ったまま存在を続けます。それで多くの場合また生まれ変わって3次元の世界に戻ってきます。それを何度も何度も繰り返します。もちろん輪廻転生のことなのですが、これも実際は私たちの考えているものより、もっとずっと大きなサイクルの一環(プロセス)でしかないのです。 要するに、私たちの生命(いのち)は死なないのです。たとえ肉体が死んでもそれはただ形を変えただけのことに過ぎないのです。肉体の死というものは、それだけのことなのです。死によって親しい人としばらく離れ離れになることは悲しいことではありますが、それでさえ逝った人にとってはいつでも残った人を感じることが出来るのでそれほどの悲しみではありません。 話がそれますが、私たちの日常会話で怖い思いをしても、「命までとられることは無いんだから」というような言い方をします。通常では一番怖いことは死ぬことなのです。でもそれさえもたいしたことでは無いと判った時、怖いものがあるのでしょうか?
2007年11月10日
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生レバー大好きハッピーちゃんは今日も元気久々に大好きな焼き鳥を食べに行きましたとっても美味しかったです~特に生レバーが大好きお店のメニューにないとがっかりするほどですそして1泊でやってきたチワワのチャコちゃんです可愛いけれど飼い主そっくりでワガママですぐ怒るしどこでもウンチしてしまう困ったワンコです家のハッピーちゃんが物凄く良い子に見えますねSOUL ROOM~カルマの意味~「カルマとは輪廻転生の中で発生するゴミだ。」そもそもカルマはゴミなんですから必要なものではありません。まあなければないほうが良いのはあたりますです。解りやすく書くと、「カルマの為に輪廻転生があるのではない、カルマは輪廻転生の本質的な問題には関与していない」ということです。 とはいっても、ゴミだらけでは魂も気持が良いわけはありません。お掃除をしなければならないのです。このゴミはいったいどこにあるのでしょう。それは魂の中にあると考えないと全くつじつまが合わなくなってきます。もうちょっと考えると「カルマは魂の傷」だということが出来ると容易に行き着くでしょう。「カルマは魂の傷」だと確認するとこれと非常に良く似たものが現世においてもあります。「精神的外傷」いわゆるトラウマです。これは良く考えると前世で心に傷を負ったあとの状態では、トラウマの段階を通過しているというのがわかります。解り易い言い方で言いなおすと、このてのカルマは「ある程度以上深いトラウマだったため、現世まで持ち越されてしまったもの。」だということがわかります。このタイプのカルマの解消法はトラウマの解消法と同じだと言うことが解ります。ようするに、トラウマの原因となった問題を知ること、理解することでこれは解決できます。もうひとつのタイプについて考えてみましょう。これは死んだ直後、自分の人生を振り返ったときに発生すると考えられます。死後、自分の自分の人生を振り返って大きく反省するわけです。その反省の気持が大きいと、あの時こうすれば良かった、もう一度やり直して今度はうまくやろう、というように思うのでしょう、それが魂の中でゴミのように残ってしまうわけです。これは特に人間関係において多く起こりそうです。この場合は、傷として考えるよりゴミとして考えたほうがずっとすっきりします。もっと別な言い方で言えば、「魂の持っているこだわり」ということもできます。 さて、このタイプの場合、魂が生まれ変わってくるときに、その関係の両者が話し合って、同じタイミングで生まれてきます。これは魂のレベルでは両者が前世の失敗をやり直そうという合意が出来ているのでしょう。実際の悲惨な例で言えば和歌山カレー毒殺事件の林真須美テレビで放映されていましたがランダムに毒殺したと思われていますが実は殺された3人が前世で彼女を殺した相手だったのです。前世の失敗をやり直すつもりが又カルマを作ってしまいました。もちろんこれだけが目的で生まれてくるのではないのです。いくつものたくさんの課題を抱えて生まれてくるのですが、そのうちのひとつになっているということです。さてこの解決法なのですが、これは両者の合意において生まれてくるのですから、両者がバースビジョン(誕生時の人生計画)にそって人生を過ごせばそれで良いということが考えられます。もしも自分のバースビジョンに気が付いたなら、それにしたがって行動すれば良いということになります。なぜ魂は霊界にいる間にカルマの精算が出来ないのでしょうか? 霊界にいる魂は過去の前世の記憶を持っていますから、現世で知れば問題の解決になるようなことはすでに知っているはずです。そうでなくては、バースビジョンの組立てのときに、後者のタイプのカルマ精算の合意が出来ないことになってしまいます。ハッキリした理由は良くわかりませんが、現世での体験を基に発生したゴミ(傷)であるので、霊界ではその処理は出来ないと考えざるを得ません。「魂は霊界ではカルマの精算は出来ない、これは結果的に今生の目的の一部にカルマの精算も課題としてもってこなければならない事を意味する。」カルマの解決は「魂のヒーリング」ということになります。そしてそれは現世でしか出来ないということなのです。なぜか相手が気になったり、何もしないのに嫌ったり、恐れたりする相手は自分のカルマの相手かもしれませんね。
2007年11月03日
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