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こんばんは!ルミルミです今日も動物病院に行ってハッピーちゃんのお薬を貰ってきました今のところテンカンの症状も無く元気一杯ですただ物凄い食欲で生のホウレン草でも何でも食べてしまいますもちろんお薬も食べてしまうので楽ですけどね昨日は父親のお誕生日会しました妹もやってきて家族一同でしたが・・最近母親が胸が苦しみだし病院で検査すると肺動脈血栓塞栓症でした足からの血栓が肺動脈を塞ぐ怖い病気です食生活の改善と足の血行が大事で慌ててマッサージストッキングと空気圧マッサージ器を買ってあげました血栓を溶かすには赤ミミズの健康食品がいいみたいで取り寄せようと思います・・どんちゃんに言わせると心の改善が大事ですが・・なんせ年寄りなので私がいつも説明しているけれど理解できないみたいですという私もナカナカ実践できていませんが・・いまだ表の欲の中で生きていますまあ少しづつですね~SOUL ROOM偶然と言うものは無い「世の中に偶然起こることは何も無い」と大勢の人が言っています。私も何となくですが以前からその様に思っていたのです。では何故偶然というものが無いのか?という疑問もなぜか考えることも無かったわけで、なんとなく当たり前のことのようにそう考えていたのです。 しかし世の中の一般的な常識では、偶然は偶然であってそのことは特に何も意味しないという考え方が主流であることは残念ではあるけれども否定できません。まあ、言い方を変えるとまだまだ本当のことに気づいていない人が大勢いるということなのですが、その気づき自体も人生での目的とし得ることなので、まあそれはそれで全然問題ではないのです。まだみんな途中なのですから、すべての過程を楽しむのが人生なのですから、気づく前の出来事もイベントとして大事なことは確かです。同じことは言葉は違っても何回か書いているわけですが偶然に起こる出来事は全てイベントの一種なのです。このイベントと言うのは、当事者が望んで作り出した出来事なのです。言い方を変えると当事者が創造した現実の一部であるということなのです。ネガティブなエネルギーにより起こる、ネガティブな出来事も当然ながらこのイベントになります。その人の身の回りで起きるすべてのことが、その人の意識などのエネルギーの影響を受けているのです。もっと正確に言えば、その人のエネルギーと他の人のエネルギーが相互に関係しあってそのイベントを作り出したと言うことなのです。 出来事全てが、その様に作られているのですから、何も意味が無く何かが起こることは無いのです。さてちょっと説明が要ります。いわゆる偶然と必然の違いです。必然とはことの成り行きにより当然なるべくしてなることを言います。たとえば、2回のベランダにおいてあった花瓶は突風がふいてきたら落ちてしまうとします。その場合強い風がふいたら落ちてしまうような場所にあったのですから、落ちたということ自体は必然であり、なにも偶然ではありません。もしも花瓶が落ちたとき、その下に人がいたとしましょう。それは偶然に落ちてきた花瓶に当たったということになります。この場合は俗に言う偶然と言うことに成ります。要するに2階から落ちてきた花瓶に当たるというイベントになるわけです。このように偶然は必然にタイミングという要素が重なって偶然になります。このタイミングはいわゆるシンクロニティ(共時性)の一種で意図的にタイミングがあわせられたものだと言うことになります。ここで大事なのは意図的という要素です。偶然落ちてくる花瓶の下にいるのではなく、落ちてくるときに意図的に花瓶の下にいるのです。もちろんこれはその被害者の表面意識がそれを意図したのではありません。被害者の無意識領域のエネルギーが現実に作用して、その下にいるという現実をおこすのです。ようするに大事なことは、いわゆる偶然といわれる様な、いきあたりばったりなことは絶対に起こらないということです。もしもそのままいったら落ちてくる花瓶の下にいてしまうように現実が流れていたとしても、被害者の深層の意識がそのイベントを望んでいなかったなら、その人がその様なことにならないように守ってもくれるのです。これは落ちてくる花瓶の被害者になることを本人が認めたからそのようなことが現実におこるということも意味するのです。 これは、私たちが偶然の事故から守られているということでもあるのです。言い方を変えると、人間には不測の事態を回避する不思議な力をもともと持っているのに、あえて被害者になることを選んでいると言うことです。イベントとして大事なのはタイミングなのです。私はいろいろと出来事をで物事を知るのですが、その場合にタイミングが働いているのかどうかと言うことが重要な要素になります。タイミングが関係ない出来事は単なる必然であって、意味を持つ偶然ではないのです。いわゆる偶然と言うものが無いということは、全てのものが必然と言う意味ではありません。偶然では無いということは、何かしらの意志が働いていると言うことなのです。それが誰の意志であるのかはこれまた難しい問題なのです。多くの場合当事者の意思が大きく影響しているのは間違いないのですが、それ以外の存在の意志もまた否定できないのです。たぶんその意志のもとが何であるのかはどのようにしても特定できないのでしょう。かなり複雑なエネルギーの相互作用が働いていると思われるのですから。(作用は複雑であっても、原理は単純だと思いますが。) たとえば偶然を装ったイベントで何かのメッセージを受け取ったとします。それが私の魂からのメッセージなのか、もっと奥の方の「大いなる全てのもの」からのものなのか、かなり表面意識に近い部分の欲に影響されている部分なのか?それを知る手立ては今の私には無いというのが現状です。何となくどこからのメッセージであるのか自分で決めてしまうしかないようです。全ての出来事の原因を全て自分にあると考えることが現実を具体的に変える唯一の方法である、と言うようなことが書いてある本があります。なんとなく意味は解るのですが、それを実際に行うのにはなかなか難しい気がします。それが出来ると言うことは、いわゆる奇跡を自由自在におこすことが出来ると言うことなのですから。
2008年01月27日
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こんばんは!ルミルミです毎日寒い日が続きますね~週に3日は現場検査なのでとっても寒いです皆様風邪やノロウイルスが流行っているみたいなので気をつけてくださいね会社のお友達もノロウイルスにかかってしまって今週ホテルの食べ放題に行くはずが中止に・・残念今日は久々にお友達と場外馬券場に行ってきましたやはりおっちゃんが多くて階段や床に座っているので・・雰囲気は良くないですが面白かったです~勝てばもっと良かったけどね今度は競馬の現場に行きたいです競馬放送を見ながらチュウハイを飲んでそれから阪急百貨店のバーゲンに行ったのが不幸の始まりでしたそこで前から欲しかったカシミヤのコートが目に入ったのです半額でも私にとって恐ろしい価格でしたが酔って気が大きくなっていたのでつい買ってしまいましたついでにカシミヤのマフラーまででも長く着れればいいかな~SOUL ROOM~恐れることは何もない~ 私たちの「生命(いのち)」は死ぬことはありません。簡単に言ってしまえば「永遠」なのです。これは単に時間的スケールだけの話ではありません。限りが無いくらいいつまでも続くと考えてもいいのですが、それよりも大きなサイクルの中でまた元に戻ってくる為に終わりが無いと考えても良いようです。地球の表面をずっと進んでいくと、地球を一周してまたもとに戻ってくるようなもので、命には終わる場所が無いのです。 別な言い方をすると、私たちの考えているような時間というものは本当は存在しないのですから、いつまでたっても私たちの生命(いのち)という存在は、そこにいるのです。人間は死んでも3次元的な肉体を捨てるだけで、自分自身のアイデンティティを持ったまま存在を続けます。それで多くの場合また生まれ変わって3次元の世界に戻ってきます。それを何度も何度も繰り返します。もちろん輪廻転生のことなのですが、これも実際は私たちの考えているものより、もっとずっと大きなサイクルの一環(プロセス)でしかないのです。 話がそれますが、私たちの日常会話で怖い思いをしても、「命までとられることは無いんだから」というような言い方をします。通常では一番怖いことは死ぬことなのです。でもそれさえもたいしたことでは無いと判った時、怖いものがあるのでしょうか? 人によっては、「恥をかくことが死ぬより怖い」と思う人もいるでしょう。なかには「人間として完璧でないのは死ぬほど嫌だ。」という人もいるかも知れません。そんな人は自分の別な人生を想像してみると良いのです。何回も人生を繰り返す間に間違いを犯さなかったでしょうか、失敗をしなかったでしょうか、そして来世以降の人生はどんなでしょうか。じつは失敗しないということはありえないのです。全ての経験をすることを「魂」は望んでいるのですから、失敗も重要なプロセスの一環なのです。かりに今生(今回の人生)でとんでもない恥をかいたとして、それがいったい何になるのでしょうか、残るのはその人のだけ経験なのです。他のものは何も意味が無くなるのです。変な言い方なのですが、自分の中に残るのは自分の経験だけなのです。他の人の経験はその人の中には残らないのです。もし貴方がとんでもない失敗をしたとしても、それは貴方の経験として残るけれど、他の人の経験ではないのですから何も残らないのです。 「旅の恥はかき捨て」ということわざがありますが、これは良く言ったものです。私たちは非常に長い旅をしています。いつまでたっても旅が続くのです。少々の失敗など気にすることはありません。そもそも恥のかき捨ても必要なことなのですから失敗を恐れることは無いのです。「人を傷つけることが怖い」という人はわりと多くいそうです。これはそのおおもとに「自分が自分でいられなくなる」という不安が内在しています。でも大丈夫なのです。自分はいつまでたっても自分なのです。誰がなにをしようと自分が自分でなくなる事はありえません。それに表面的に傷つけることは時として愛の行動で有ったりもします。べつな要素で言うと、相手がそれを望まない限り本当の意味で、相手を傷つけることは出来ないのです。相手がそれを受け入れない限り、人を傷つけることは出来ないのです。どちらにせよ貴方が本当の貴方でいる限り、貴方にとって不必要なことはおこらないのです。この点でも何の心配も要らないのです。もし誰かを傷つけたと感じても、それはそれで意味があることなのですからあまり考えすぎる必要もないのです。 ひとつ大きな問題があります。この世の中の根本的な原則として、恐れているものを引き寄せるという現象がおこります。この現象の場合は、原因が恐れだけなので、その他の意味を持たない可能性が多いのです。要するに不必要な不幸を呼んでしまうということです。要するに怖いことは「恐れる」ことなのです。まるで言葉遊びのようになってしまいますが、だからこそ「恐れるものは何も無い」と考える必要があるのです。そう考えている限り、本当に恐れるものは何もなくなるのです。 愛の対極にあるものとして、不安と恐怖をあげています。これはとっても大事な要素なのです。まず自分が愛を感じようとしたら、自分の中にある不安をなくさなければなりません。自分の中の不安を解決できたら、たぶん自分を愛することが出来るようになります。自分を愛せないでいて何で人を愛せるでしょうか?とにかくまずはじめは、「恐れるものは何も無い」というのが愛のスタートかもしれません。
2008年01月19日
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こんにちは!ルミルミです今日はハッピーちゃんが先週テンカンを1日に5回起こしたので動物病院に連れていきましたどんちゃんが言うには左の頭蓋骨が少し凹んでいて脳を圧迫しているみたいですが・・先生には霊能者がそう言っていました~なんて言うと信じてもらえないので整体師の先生がそうおっしゃっていましたと言うと精密にはMRIで検査しなくてはいけないみたいですただ費用が7万ぐらいかかるのですよねなんせMRIの機械は1億以上の価格らしいですしかしこの病院はとても広くて綺麗で超音波からCT・MRIまで設備も完璧ですしかも年中無休で救急患者も診てもらえるのですごい人気の病院です一応お薬を貰って様子を見ることにします早く治って欲しいものですSOUL ROOM思考レベル~その2まず魂の知っていることについて確認しておきましょう。私達が旅を始めたとき、その旅の記録をとる為に魂(たましい)が作られました。その魂は旅の手帳のようなもので、これから自分が体験するであろう体験にどのような種類があるのかはすでに知っているのです。それは言い方を変えると、全てのことを概念として知っていて、その概念を体験したいと願っているのです。以前、私はそれをスタンプカードと表現しました。それを埋めることが魂の望みなのです。 さて全ての概念を体験して記憶する為には、どうしても必要なことがありました。それは忘れることなんです。なぜなら知っていると体験できないことがあるからなのです。たとえば悲しみも、争いも、勝利も、敗北もその他いろいろなことを体験する為には全てを知っていては都合が悪いのです。だからすでに知っている概念も封印したのです。ということは、魂は本当は知っていても(知ることが出来ても)その必要を感じないとそれを思い出さないということなのです。それこそ私達は、ほとんど全て白紙の状態から旅を始めたのです。そしてやがて自分というものを再認識し、様々な体験をへて、人間のような身体を持つようになったのです。さて魂が封印した知識(概念)とはどのような仕組みになっているのでしょう。そこで先週書いた周波数が関係してくるのです。全ての物に周波数があるわけで、周波数ごとに徐々に封印を解くようにしてあるのです。それはどういうことかというと、最初には自分自身も良くわからないというレベルから、徐々に必要な体験をしながら、だんだんと思考のレベルを上げていく旅になったということなんです。結果的に魂ごとに、封印をどこまで解いてあるかの違いが出るのはわかりますよね。その封印のとき具合がこれから説明する思考レベルとその仕組みなのです。ここから例を出して説明します。ある人が本を書いたとします。その人の思考レベルは仮にレベル[5]だったとしましょう。そうするとその本の中には、レベルとしては、[1][2][3][4][5]の各レベルの考え方、思考が含まれると言うことになるのです。もちろん、それが均等に入っているわけではありません。その内容次第なのです。その本をレベル[5]の人が読んだ場合、全てすんなり読めるのです。それはその内容をすでに知っていたと言うことではなく、そんなに苦労しなくても理解できるという意味です。ところがまだ思考レベルが[3]の人がそれを読んだらどうでしょうか?[1][2][3]の部分はすんなり理解できるのですが[4][5]の部分は理解出来ないのです。それは頭の良い悪いという問題は関係なしでなのです。さてこの二人の読書後の感想はどうなると思いますか?レベル[5]の人がまだ認識していなかった[5]の内容が書かれていたのなら、この本は良かったということになります。ところがレベル[3]の人は[3]までしか理解できないので、[3]の部分が良かったと感じるのです。そして[4][5]の内容がそこにあったことにも気がつかないのです。もし本の内容が[4][5]に重点が置かれていたらどうなるでしょうか?そのような場合レベル[3]の人はその本を読んでも本当の意味が理解できないということになるし、その本を読むことに苦痛すら感じるのです。まあ訳のわからないことが書いてあるのですから、当たり前でしょう。なぜそれが読めないのかというと、その人の魂がその知識を封印しているからなのです。実際は本を読んでその内容は魂にまで届いているのです。でも魂はまだこのレベルの話は封印を解いていないから、という理由で頭脳に思考結果をフィードバックしないのです。もう少し別な言い方をすると、魂の中でそのレベルの思考を行う準備が出来ていないという意味でもあります。その様な場合どのような現象が見られるかというと、「右耳から入った情報が左耳に抜ける」という感じで何となく読んだだけで記憶に残らないのです。そういったときに違和感は感じません。それは脳の働きによるものなのです。そもそも脳はある種のフィルターなんですから当たり前といえば当たり前なのです。それはそれで脳が正常に機能していると言うことでもあるのです。思考レベルと意識レベルの違いについて書いておきます。思考レベルとは考えるとき、理解するときのレベルです。これは考えたり、理解するときに意識のレベルがその思考レベルになっていれば理解することが可能だということになります。理解した結果、しっかりと自分自身のものになった場合、その理解はいつでも使うことが出来ます。意識レベルと言うのはもっとダイナミックに動きます。要するに気分の変化でも変ります。例をあげます。たとえば意識レベルが高くなっているときにあることを理解したとします。そのあと意識レベルが下がると、「それは分っているんだけど、だけどねえ」というかんじになるのです。もっと意識レベルが下がったりすると、意識レベルが高かったときに理解したことなど、「それは理想論だね」、とか「それは屁理屈だ」というようにもなってしまうのです。 実際のところ、気をつけていないとかなりダイナミックに動いてしまう、意識レベルがもっとも人間性に影響しますから、要注意というのはわかりますよね。いつも意識レベルを最高の状態に持っていけるのなら、誰でもキリストのようにもなれるんです。意識レベルの周波数はその人の能力の周波数でもあるのです。 それではどんな理解が高いレベルなのでしょうか?個別にどの考え方がどうだというのはわかりません。でも大事な傾向があります。それさえ覚えてればかなり判断がつくのです。高いレベルの思考は、協調的で、視野が広く、愛に満ちているのです。この愛に満ちているという表現自体かなり難しいかも知れません。そういう部分は感じて判断してください。逆に低いレベルは、独善的で、視野が狭く、不安をベースにしているのです。 愛というのは、周波数の高さでもあります。心が愛で満たされていると、その時には意識レベルが上がっているのです。それは同時に視野が広くなり、不安を感じないということでもあります。また逆の方法で視野を出来る限り大きくすると、より愛を理解し易くなるということでもあるのです。 さてレベルという言葉を使った以上、その対策を説明する義務がありますね。なぜなら今の状態はあまり良くない人がいると説明したわけですから、どうしたらそれを改善できるのかというのがなければいけません。それもわからずにレベルなどという言葉を使うのはそれこそレベルがさがってしまうのです。もっともその方法を信じられるかどうかは読む人しだいなんです。その理由は今までの説明でわかりますよね。 まず意識レベルを上げることを考えましょう。先ほども書いたように意識レベルはいつも上がったりさがっりします。意識レベルが下がっていると、もともと理解できる思考レベルを持っていてもそれが出来なくなってしまうのです。たとえばの例ですが、意識の中でそれを否定的に考えていた場合、それは区別を促す意識なのです。分離を意味するような思考は意識レベルを下げてしまうのです。たとえば宗教のことでもその様な例があります。宗教では自分達が一番正しいという信念で組織をまとめています。それは他の宗教、他の宗派との違いを考えて、自分達を正当化しようとする分離をベースにした意識レベルになってしまうのです。皮肉なことに一番愛を理解してそれを実践しなければならない宗教で意識レベルが下がるというのは、当然、視野も狭くなり、愛から遠ざかるだけでなく、神からも遠ざかるということなんです。結果的に一部の人達を除いて、レベルの高い意識を維持するのが非常に大変になってしまうのです。 意識レベルを上げる最も簡単な方法は、何か判断するとき、「今、愛ならどうするだろうか」と考えることで上がるのです。考えるときは、より広い視点を心がければ良いのです。もちろん「愛なら、どのように考えるだろうか」と自問自答しても良いのです。それが意識レベルを上げる手っ取り早い方法なんです。慣れてくると意識的にそれをあげたままの状態に保てるようになります。 ということで、思考レベルの話はだいたい出来たと思います。最後にこの文章自体の最も高い理解を書いておきましょう。ここに書いてあることは、何故、理解不足の人がいるのか、何故、「愛」や「やさしさ」を理解できない人がいるのかの説明でもあります。そして全員が愛を理解する為の旅の途中であり、目的のために本来の能力を封印しているのだということなんです。それは全ての人を許す理由(説明)でもあるのです。全ての人が神なのです。そして今はその能力、理解を封印することで互いに協力して体験しあっていると言うことなんです。それは全ての人を愛せる理由なんです。
2008年01月07日
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大好きなパリパリ生地のピッツァ・マルゲリータお気に入りのいちご入りシャンパンこんばんは!ルミルミですお正月はかなり食べすぎましたフレンチのコースを食べに出かけた時も時間があったのでついその前にピザとから揚げを食べてしまったり・・食べすぎで・・4日から出社でしたが胃が少し調子悪かったですやっぱりどんちゃんが言われるように少食・菜食主義がいいのですがつい昨日も両親と一緒にイタメシへ~食べ物の誘惑には弱いです・・死んでも食べる~ところで高校の頃のお話ですがお友達がキリスト教プロテスタントに入っていたので私も学園祭にギターをかかえ聖歌を歌ったりしていた時がありました皆さんもご存知でしょうが洗礼を受けてそして聖霊・・主イエス・キリストの御昇天後十日目に、エルサレムの宮の二階で聖霊を待望していた百二十人の者に、俄然(がぜん)聖霊が降(くだった)時・・・初めて人類に神の御霊が、聖霊のバプテスマとして降ったのである。其処には、驚くべき天界の異象(いしょう)があり、(使徒行伝第2章2節~3節)(2節)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっている家いってぱいに響きわたってた。また、舌(した)のようなものが、炎(ほのお)のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(4節)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で語りだした。とあり、主の御取り扱いも、また、みな異なる言葉を語らされていた。然しながらみな一様に、受霊の徴として現われて来たものは、彼らみな聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々な国の言葉で語らされたのであった。(使徒行伝第2章4節)この、色々な国の言葉と言うのが、主イエスの言われた新しい言葉である。(マルコ伝第16章17節)この使徒行伝に書かれているように一同集まり祈ると(一晩中以上)異言をしゃべりだすのです・・私もいまだに1フレーズをしゃべれるのですがこれは本当に言語と思われるような変わった言葉だったのですところが最近大阪にも外国人が多くなってきてデカイ声で携帯をかけている外人の女性がしゃべる変な言葉がそっくりだったのですどこの国の人だったか尋ねたかったのですが長く携帯に電話していたし、仕事中でもあったので残念でした今は教会には行っていませんが、不思議な体験でしたSOUL ROOM思考レベル私達の意識は全体として一つの意識とつながっています。この意識の繋がりは共鳴というか、周波数を合わせることでその部分を私達が読み取ることが出来ます。もう少し詳しく書きましょう。私達の意識はもともと空間の無い場所(空間が無いから場所ではないけど)に同時に存在しています。そこはエネルギーの場で周波数が合うことで共鳴するのです。もちろん共鳴とは周波数があうことでデータのやり取りがなされるということなんです。 この意識(思考)と言うものには、ありとあらゆるものが含まれています。もともと世界の全てが一つの魂の中で出来上がった夢のようなものなんですから、それこそ全てのものが含まれているのです。その全ての物の思考の中に、考え方(概念)というものも含まれているのです。その概念というものがもとになって思考というものがなされるのです。私達が実際にしている思考について考えて見ましょう。前にも書きましたが、私達の考えることは本当は自分でその考えを作り出しているのではなく、すでに用意された考えのメニューの中から選び出してくるという作業をしているのです。そのメニューの元はどこにあるのでしょう。まず個人個人の根本となるメニューの元となる思考概念は魂の中に記録されています。この場合は精霊を含まない狭い意味での魂のことで、私達が何か考えるとき、その情報が魂に送られます。魂はすでに持っている思考概念を使って答えを出します。この作業が魂のアイデンティティの元になっているのですが、これは理解しにくいと思います。さて、魂が出した答えは、私達の表面意識(この場合は大脳と考えてもかまいません)にフィーリングやひらめきという形で送られるのです。私達がこのフィーリングやひらめきを正確に理解できると事は簡単なんですが、多くの場合その様なものは、表面意識により、無視されたり、変形させられてしまうのです。それは表面意識が様々なフィルターをかけてしまうのです。それはたとえば習慣(思考的な偏り)や生存本能、頭からの決め付け、宗教などで教え込まれた価値観、常識(このベースには生存本能があります)、そしてトラウマ、実に様々な原因があります。いわなくてもわかりますよね。このフィルターが少ない人がいわゆる、勘のいい人、直感的な人、閃く人なのです。だから本当は誰でも霊能者のどんちゃんみたいな人にもなれるのです。何かを考えたりしたとき、大概のことは魂が答えを知っています。自分の人生の予定もみているわけだし、今までの体験(過去生)により培ってきた叡智もここに入っているのです。だからこのフィーリングやひらめきを大事にすれば、相当なことが理解(自分では考えているつもり)できるのです。あらためて書きますね。自分自身の内側、魂の声に耳を傾けている人は、本当の自分自身の考えで行動したり判断しています。それをせず、表面の意識だけが働いていた場合、単に習慣的、常識的、普通で無難な、いわゆる自分以外の誰かが決めた価値観でただ流されて生きているのです。「意識的に生きる」というのがどっちを意味するのかは当然わかりますよね。 ここまでは、まあ普通のことですでに良くわかっているという人も多いと思います。実はこれからが本題なのです。実は魂も全てを知っているわけではないのです。この部分が最初に書いた周波数に関係あることなのです思考にも周波数があるわけで、その周波数によっては魂が理解していないこともあるのです。というか実際はそれが良くあることなのです。でも誤解しないでください。魂に根本的な優劣があるわけではないのです。魂は記憶装置なのです。それは何を記憶しているのかでその違いが出ているだけなのです。そしてそれはもともと誰でも同じ性能のものを持っているのです。そしてその周波数はあげていくことが出来るのです。長くなるので続きは来週です。
2008年01月06日
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新年明けましておめでとうございます本年もどうぞよろしくお願い申しあげます先日はお友達の家で宴会をしました手巻き寿司が用意されていてとっても美味しく盛り上がりましたイタリア人のお友達のパウロがやってきて花束を持ってきたのですが・・なんと仏壇の花冗談だと思ったけれど~外人からすると日本式の年末のブーケだと思ったのでしょうねSOUL ROOM大切なもの現世的な価値観 全て形あるものはいずれなくなっていきます。もしも歴史に名前を残しても、いつかはその歴史すらもなくなってしまうのです。これは現世的な見かたをしても少し視野を未来に広げてみればすぐにわかることです。いま誰かがいくらお金をたくさん持っていようが、どんな貴重品を持っていようがそれは時間の経過とともに意味がなくなってしまいます。これはものの価値を考えるときに時間をその要素の一つに考えることは出来ないということであります。 ではいったい何が大切なのでしょう?全てのものはいずれ亡くなってしまいます。自分の身体でさえいずれなくなってしまいます。むしろ一瞬で消えてなくなってしまうものの中に大切なものがあるのではないかというように思えてきます。「気持ち」「想い」こそ大切なものであり、その時々の「思い出」や気持ちを大切にしていきたいと思っています。そのように考えている人は多くいると思います。 少しだけ追加すると、「思い出」というのは過去のことであり、むしろ「思い出」を思い出しているときの気持ちの方が「今」の物なのですから、実は気持ちという感情の方がより重要であるし、またその感情がつらいものであっても生きている証として感じ取れることが大事だと言うことに成ります。大宇宙の構造を考えての価値観 こちらの方が本題になりますが、結論は現世的なものと大きくは変わりません。大宇宙では時間はこちらとは違います。過去、現在、未来の全ての時は同時に存在しています。そして全てのものが変化を続けています。ということは、過去の出来事もどんどん変わっているということです。たとえば、あの日あの時、誰かと愛の言葉を交わしたという過去があったとしても、もしかしたらその事実さえも消えてなくなってしまうことがありえるのです。 時間ということが関係してくると、現象としての事実は事実として全くあてにならないものであると言うことに成ります。これは現世的な価値観で出した結論をもっと強烈にした結果になります。とにかく存在として確認できることは「今」という瞬間でしかないのです。(厳密にはごく最近の過去の瞬間のこと) たとえば過去生において誰かを傷つけたとしても、その過去さえ今残っているのかどうかも判らないのです。ついでに言うと、過去の出来事に起因してカルマを持つということは、確たる根拠のないものに対して責任を感じることになるのです。大宇宙の仕組みを理解していればカルマなどということはありえないのです。(俗にカルマの法則と言われる因果律は別のものです。) 結局のところ、確実なのは今という瞬間だけしかないのです。「過去のことはもう確定したことで変わることがない」という誤った現世的な認識によって物事を考えているとこの事はなかなか理解できないかもしれません。ついでに書くと「地球の神」は人間の想像が作り出したものであるため、この時間に関しての概念は理解できていないようです。もともとカルマをベースにして成り立っているのですから大宇宙の根源的なものとは相容れないものがあるのです。 もう一つ大事なことがあります。簡単に言うとある意味ではこの世の中の物は全て幻想だという見方が出来ます。そうすると本当に大切なものは「今」あってしかも物ではないもの、そうです、気持ち、感情、想いなどという霊的な存在の重要なファクターなのです。 大切なのは「今の気持ち」、とくに「今を喜ぶ」という気持ちです。この時忘れてはならないことは、過去も未来も不確定ではあっても必ずあるということです。矛盾してるようにとられてしまうかもしれませんが、「今」があるためには必ず「過去」があり、そして「未来」も続いていくのです。 広い大宇宙の中のこの場所に今こうしている。そして過去何回も人生を重ねて、つらい事もあっただろうし、楽しいことも驚いたことも恐怖したことも、いろいろな経験をしてきて、そしてこれからもいろいろな経験が待っている。そして必ず栄光と感激の時も待っている。そして今はここにいる。ここにいるのは確かな事実で、それは自分以外のおおぜいの人や霊のおかげであるし、この恐ろしいほど巧妙に作られた世界の中で、人生のドラマを体験し、今こんな思いに浸っている。これは「神様の贈り物」以外のなにものでもない。「私は今、幸せである。」 とまあ、こんな風にいつも思えたら本当に幸せなんだけど、たまにしか出来ない自分がなさけない。
2008年01月01日
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