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祝福を断ってはいけない。断るとそのたびに蕩減が重くなるから。メシアから指名された相手を断ることは、死ぬよりも恐ろしいことだった。相手はどんな人でも受け入れなければならない。命よりも大切な愛をメシアにささげることによって蕩減がはれるのだから。こんな教えゆえに、相手を受け入れることしか許されてなかった日本人婦人とマッチングを受けた韓国人男性。日本人の大半の女性たちは死をも覚悟して日本をあとにしたのではなかったかと思う。一方韓国側では、まことのすばらしい家庭を作るための結婚セミナーで人が集められた。従順な妻、愛嬌あふれる日本女性と結婚できると多くの結婚できない田舎の男性が集まってきた。純潔と愛あふれる家庭をキャッチフレーズににわか信者になった青年たち。その中には病気もちで家族さえもてあましているような人、精神病を患っている人、働けない人もいたのだ。そんな人たちもなぜ祝福を受けることができたのか。それは牧会者として人を生かすという姿勢よりも、祝福候補者を輩出して実績をあげれば上から認められるからだ。メシアを受け入れれば選民という考えもあったかもしれない。もし祝福にふさわしくなければアボニムが全部見通すことができるので受けれないだろう。メシアの力を信じすぎていた協会長達。結婚したい人は誰でも会場に送ったのだ。しかしその尻拭いは、もちろん本人が受け持たなければならないのだった。言葉の壁、文化の壁で現状を十分に把握できなかった本人が受け持つにはあまりにも重すぎる現実。自分の娘、息子を結婚させたいと思う人でなかったら推薦すべきではなかったのにそんな良心も持ち合わせてはいなかった。韓国にいる日本人の中では自分が選んだ道なので現状を考えることも拒否している人がいかに多いか。だから時間がたてばたつほど手のつけようがないほど生活も心も困窮していく。まだ泣いたり、怒ったり、悲しんだり嘆いたりできるのは、回復し慰められ明日に希望を託すことができる。人が行き着く絶望の端にあるのは無表情、無感覚だ。悲しみも怒りもどこか遠くにおいてきたみたいに明日どうしたらいいかも考えられない人びとが祝福を通して量産されている事実。上からの指示がなくては、笑うことも話すこともできず心が凍ってしまった人。そう私はそんな目をした人をテレビで見たことがある。北朝鮮で暮らしている人たちだ。自分の生活に疑問を持つことなく黙々と上の命令で動いている。子供を抱えながら先にご主人に先立たれ心配しているご両親が日本で待っているというのに韓国で暮らすことに固執している人。引きこもりのご主人と年取った義理のお母さんと障害者の弟さんのために生計を立てている人。子供が大きくなってしまって、思うように日本に帰れない人。どれも信仰だけで答えは出ない。外国人の女性ができることも限られている。大きな宮殿は立てても、本当に助けを必要とする人には知らん振りしているこの団体にまことの愛なんてないことに早く気がついてほしいものです。いや気づいても、きづいていないふりしないと、もう生きることもできないほどです。
March 31, 2009
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祝福というのは、ただの結婚ではない。文鮮明を再臨のメシアとして受け入れ霊肉ともに救われるための宗教的儀式だ。条件的であっても、原罪をぬぐうために全人類が受けねばならない儀式だ。私はこの価値観を捨てた。人間の罪の根が淫行ではないからだ。聖書に記述されていない部分を想像して天倫の秘密を明らかにしたと大ほらをついて多くの人を惑わしてきた原理には人を生かし、癒す力もなければすでに生命がそこに宿っていない。祝福を否定することは、自分の人生すべてを否定することだと譲ろうとしない彼と前面衝突が始まりました。あれは1月1日の神の日のこと。今年この行事はチョンピョンではなく所属協会で行われることになった。今まで私は周りの目をごまかすため、形だけ協会に日曜日彼と出かけてきた。せっかくの週末を信仰のことで争いたくなかったし、第一子供たちを前にけんかする姿を見せたくなかった。私の心とは反対にただ流されるまでの時間でした。彼の立場上、私が落ちたなんてありえない話。振りをするほうが楽だった。黙って座っていれば誰にも何も言われることなく静かに自分も回りもごまかせたから。でもこの神の日はそうできなかった。祭壇の前で敬礼をしなければならなかったのだ。私はうろたえ迷った。ついこの間まで、平気でできていたことができなくなっていたからだ。ここで礼拝しているのは創造主ではないという括弧とした確信。哀しくそして抑えることのできない怒り。アーメンの代わりにアージュということもイエス様の名ではなく祝福家庭の自分の名で祈ることもわたしには、恐ろしくて罪の上塗りをするようでできない。もう後には引けない。愚かな鳩のように何の知恵もなく祝福を受けて喜んでいたあのころに戻ることはできない。私は取り返しのつかない道に進もうとしているのだろうか。これから起こるであろう彼との関係を思うと心は重くなるばかりだ。しかし今ぶつからなければ、ことはもっと難しくなるだろう。いずれ子供たちともぶつかるはずだ。原理の呪縛から彼を解く事が永遠の命を得ることが神の真理に対する愛だと私の魂が叫んでいる。
March 24, 2009
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わたしの中では、はっきりと原理とおさらばできても祝福を受けた夫婦の目指す方向はそれぞれ違うだろう。目覚める時期も、その内容もそしてそれによってとる行動も。原理の間違いにきづいても、私は一人ではないからだ。わたしの考えだけで、ことを大きくすることもできない。結婚した以上、わたしには、夫があり、こどもがいて、そして主人の兄弟たち、そんな関係を持ちながら生きているのだ。その関係は、義務でもあり責任でもあり、愛でもあるのだ。統一教会の信仰がなくなれば離婚しかないと思う人。信仰はなくても子供のために家庭生活はきちんとやることが大人として責任ある態度だと思う人。信仰においても相手に対しても深入りしないで適当にあきらめるのも一つの考えだろう。どれが正しいという答えはない。そしてすぐ答えが出るものでもない。すでにわたしは人生というマラソンコースで原理を選んでここまで歩んできた。原理を選ばなければ、もっと違った人生が待っていたかもしれないという懐疑的な考えよりこのことを通して、神様と関係がもてたことにわたしは感謝している。聖書という読み物がわたしに与えた影響に感謝している。そしてわたしのこれからの人生は、彼を目覚めさせるためにかかわっていかなければならないと思い始めています。福音を伝えるためにまずわたしが癒されながら、心変わりしたわたしを恨む彼を理解することからはじめようと思いました。
March 23, 2009
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