臨時教員を考える 加藤ブログ

臨時教員を考える 加藤ブログ

February 20, 2010
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 1月31日に全国生活指導研究会のセミナーに参加しました。参加しようと思ったきっかけは、私は、算数の授業にT1やT2として授業にかかわっていますが、果たして今の関わり方、授業への臨み方で良いのかヒントが欲しかったからです。
 どの分科会に参加しようかと考えましたが、「学びの世界をどう立ち上げるか」という題にひかれ、そこに参加しました。
 色んな話の中で、自分自身の課題として、「学びの実践は対話的実践」というところが気にかかりました。というのも私は今年、担任の先生の指導のもとで、算数の授業をやらせてもらっていたのですが、3学期に入り、授業をやらせてもらえなくなりました。それは、私が担任の先生にあまり相談することなく授業をやっていたからではないかと思っています。そこでは次のような文章が引用されていました。
 『学校とは、単なる学習の場でもなく、単なる教育の場でもない。学校は、生徒の学習と教師の教育が互いのコミュニケーション関係で結合する場』であるという視点から、「新自由主義が学校の内外から学校のコミュニケーション関係を破壊しようとしても、教育労働そのものは最後のところで、生徒とのコミュニケーションにおいて進行するものであり、このいわば教室内のコミュニケーション関係を破壊しつくすことはできず、そこに教育労働者が新自由主義に立ち向かって、最後は勝利する根拠がある」と述べ、これまでの教育労働をコミュニケーション労働という視点から問い直そうとしている。』という文章でした。また、「学びとは対立する関係の中には無く、協同でやるということが大事なのではないかという視点が大事」と話されました。それは、子どもと教師という関係だけでなく、子ども達同志、また、周りの教師とのことにおいてもいえるのではないかともいわれました。
私には果たしてそのような考えがあったのだろうか?
いつもいわれることが「理由を考えて行動すること」そのことが中々できないことが一番の課題です。授業をやるときに自分の気持ちとしてやりたいから・・・ということがとても多いのです。なんのためにそれをやるのか?その理由をはっきりさせながら担任の先生としっかり話しをできていたのだろうか?
私のやりたい実践をただ自分がやりたいために反対さされることを恐れ話さずにいました。周りの教師とのコミュニケーションこそ大事なはずが、自分からそれをさけていました。結果授業が途中からやれなくなってしまったのです。この先生とは、考えかたが違う、教える観点が違う、などなど違う所ばかり指摘しながら、だから自分の思うようにやるという結論にいつも達していたように思います。違いを大切にしながら、子ども達を大切に、わかるように指導したいというおもいは共通なはず・・・。
そんな思いの先生達や職員の方々、共通する所を大切にしながら関係を作っていく努力をしていかないと自分一人では孤立してしまう。そんなことを今回の学習会で感じました。

 また実際の授業で取り入れたいと思ったことは、今日の学習に入る前に前の学習でどんなことを学んだかを子ども達とのやり取り(コミュニケーション)をとおして確認したり、授業の内容について「今日の勉強はこのことを勉強するよ」ということをはっきり知らせ、どんなことを次に子ども達がやれば良いのかわかるようにするということ、そのために黒板に指示カードのようなものを掲示し、既習のものをスパイラルに展開し、授業をパターン化するなどということです。今日の授業は自分にとってどうだったのか感想をレポートしたり、発表したりするなどということなども、その後の話し合いのなかで学んだことでした。「できない」から解放する機会を提供してくれる「出あいの場」(自分との、仲間との、学習との)を経験することの意味は少なくない」という言葉を引用して終わります。





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Last updated  February 20, 2010 01:40:10 PM
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