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★ラム&コーク 北の巨人とのかかわりの系譜最初に、1930年代のキューバ音楽を生み出したキューバとアメリカの社会について、八木啓代さんと吉田憲司さんの著書『キューバ音楽』(2001年、青土社)の第4章から要約します。1920年1月16日をもって、アメリカ本土では合法的には酒が呑めなくなった。続々と闇酒場が生まれ、酒を密輸したギャングは儲けたが、人間、堂々と酒の呑める場所だって欲しい。そこで目をつけられたのがキューバだった。隣の国とはいえ、目と鼻の先。しかも、海は綺麗で、エキゾチックなムードを楽しめる。そして、アメリカは空前の好景気に沸いていた。この好況の中で、ラジオは誕生し、ハリウッド映画は発展し、ニューヨークの摩天楼が建設され、不動産と株は暴騰して、億万長者が次々と誕生していた。湯水のようにお金を使える人々が、歓楽を待っていたのだ。そんな中で、シカゴのギャングたちが本腰を入れて、キューバ開発に乗り出した。砂糖で儲けたキューバの資本家たちも負けてはいない。見事な連係プレイによって、キューバのリゾート化が進んだ。ハバナには、アメリカからどっと観光客が押し寄せるようになる。観光客たちにお金を落としてもらうために、カジノが作られ、キャバレーが作られた。ハバナは、まさに不夜城の都市となった。ハバナには、世界中のトップアーティストが集まるようになった。そして、スターたちの伴奏を行うのは、キューバの楽団だった。いくつものジャズのビッグバンドがキューバに生まれた。アメリカのジャズ界のスターたちも、外国公演という意識さえなく、頻繁にキューバの土を踏んでいる。こうしてジャズやアメリカのショウ音楽のエッセンスは、キューバ音楽に採り入れられたのだ。キューバの音楽家たちは、ジャズを完璧に演奏する一方、新しいキューバ音楽を生み出していった。たとえば、1920年代から40年代にクラシックとポピュラーの両分野で大活躍をしたエルネスト・レクォーナは、20代にニューヨークでモーリス・ラヴェルに学び、ロックフェラーセンターのミュージックホールをプロデュース、アフロキューバン組曲などを発表する一方、ショービジネス界では、レクォーナ・キューバン・ボーイズを結成し、数々の名曲を創作している。★「南京豆うり」の世界的ヒットとルンバ・ブームさて、今回は『キューバ万華鏡 私のキューバ体験』(2000年、海風書房)に中村とうようさんが執筆した「世界にはばたくキューバ音楽」の中から、キューバ音楽が「ラ・パローマ」以来ほぼ半世紀ぶりに送り出した第二の世界商品「南京豆うり」の世界的ヒットとそれに続く広範なルンバ・ブームについての記述を紹介します。音楽産業のカネの力が強大であることは、アメリカの強みというよりも、むしろ弱みなのではないかと、ぼくは思っている。カネの力でヒット曲を作り上げてしまうようなことばかりやっていたら、音楽そのものの生命力が育たなくなるからだ。だからときどきアメリカの音楽産業は行き詰まる。そういうときに、どうするかと言うと、外国からネタをパクッて来る。新鮮な生命力に満ちたネタを―。1929年にアメリカで株が暴落して大恐慌に陥ったのは有名な歴史の一齣だ。そのとき、あらゆる産業が落ち込んだなかで、いちばん深刻な打撃を受けたのが、音楽産業だった。1927年、アメリカで売れたレコードのトータルは一億枚を大きく超え、音楽産業にとっては絶頂期だった。ところが大恐慌のあとの1932年のレコードの総売り上げは、たったの600万枚、つまり5年前の6パーセントにも達しないというミジメな数字となった。この不景気のピークだった1930年代の初めに、唯一の明るい話題を提供したのがキューバから輸入した新しい音楽、ルンバだった。まず「南京豆うり」という曲がドン・アスピアス楽団のレコードで大ヒット、つづいて何曲ものルンバのレコードが発売された。レコードが売れただけでなく、ルンバの踊りが流行したことでクラブやダンスホールも賑わった。アメリカに「南京豆売り」を紹介したドン・アスピアスという人物はもちろんキューバ人で、名門のオボッチャマとして生まれ、兄のアントバルとともにアメリカに留学した。そのころキューバの大統領に就任したメノカール将軍はアメリカのマスコミにキューバをPRしようという気になり、アメリカの大学を出たばかりのアントバルにその役を命じた。そこでアントバルはニューヨークにキューバ音楽を紹介する事務所を設けると、ハバナでバンド・リーダーをやっている弟のドン・アスピアスをニューヨークに呼び寄せてバンドをやらせ、自分はそのマネージメントをやるという道を選んだ。それというのも、1929年の株の暴落でアントバルも損失を負い、音楽でカネもうけして借金を返そうと考えたらしい。1930年4月29日、ニューヨークのパレス・シアターでドン・アスピアスとハバナ・カシーノ・オーケストラのショウが開幕。米国人がマラカス、ボンゴ、コンガを使ったラテン・ダンス・バンドを見たのは、これが初めて。ショウは大好評で、これを見たRCAビクターは同年5月14日に「南京豆うり」を吹き込ませ、レコードは11月に発売され、翌年には百万枚の売上げを記録。この大ヒットでたちまち成功を収め、ブームに乗ってヨーロッパ公演でまたまた大入り続き。アメリカでもヨーロッパでも、不況で沈み込んでいる人々の心にキューバの楽しい音楽ルンバが明るい光を投げかけたのだった。日本でも、いちばん人気のあったコメディアン榎本健一(通称エノケン)など多くの歌手が「南京豆売り」を録音したことで、ルンバの流行ぶりがわかるだろう。Don Azpiazu & his havana casino orchestra "El Manicero"Don Azpiazu & his havana casino orchestra "True Love" Don Azpiazu & his havana casino orchestra "The Voodoo"Don Azpiazu & his havana casino orchestra "Green Eyes"Don Azpiazu & the Havana Casino Orchestra "Caminando"Don Azpiazu & the Havana Casino Orchestra "La Ruñidera"米国での成功の後、1932年、アントバルはアスピアス楽団を連れて渡欧、モンテカルロのカジノで喝采を浴びたあとパリのクラブに出演中に、アスピアスは「どうしてもキューバへ帰る」と言い出し、ひとりでパリを離れてしまう。バンド・メンバーの大部分はアントバルがニューヨークに連れて帰り、新しいメンバーを加えて、アントバル・オールスターズを結成。彼の楽団のレコードは1930年代に日本でも発売され、高く評価された。レコードで見る限りニューヨークでのアントバルの活動は1937年で幕を閉じている。パリ・ルンバはソフトで優雅であるのに対し、ニューヨーク・ルンバはヴァイタリティにあふれている。アスピアスやアントバルはドラムスやティンバーレスを使っている。当時のティンバーレスはダンソーンでの奏法が基本。軽快さの中に力強さを秘めたアントバル独特のリズムはダンソーンの要素による。Antobal's Cubans "Say 'Si,Si'" Antobal's Cubans "A Gozar" Antobal's Cubans "My margarita"Antobal's Cubans "Virgen (In A Cuban Garden)"Antobal's Cubans "They All Look Alike to Pancho"Antobal's Cubans "Tierra Tropical (The Cuban in Me)"Antobal's Cubans "Said the Monkey"アメリカからさらに、ヨーロッパでも日本でもルンバは流行した。パリなどはアメリカ以上のルンバ・ブームで、キューバの楽団が何組もパリに長期滞在し、ルンバ専門のクラブがパリの夜のもっとも華やかなスポットとなった。キューバのルンバが世界的にブームを起こしていた1932年、エルネスト・レクォーナはバンドを率いて渡欧しようとしたが、レクォーナ自身は病気のためとかで参加せず、ピアニスト兼アレンジャーのアルマンド・オレフィーチェがリーダーとなって渡欧、第二次世界大戦が起こるまでパリを中心に活躍を続けた。録音は1935年~1938年に行い、歌手アルベルト・ラバグリアティを擁し、キューバ情緒を適度にヨーロッパ好みに適用させて、欧米風のルンバやコンガを演奏して成功を納めた。Lecuona Cuban Boys "Coubanakan" モイセス・シモンズ作。シモンズ自身がピアニストとして客演。Lecuona Cuban Boys "Esclavo Soy"エリセオ・グレネ作。♪私はどれい、黒い肌は生まれつき。私の運命もまっ黒。私はとらわれのルクミ族。自由なしに生きなければならない。でもいつかは黒人にも自由の日が来る。わが恋人パンチャよ、その日が来たら思い切り踊ろうよ。Lecuona Cuban Boys "La Comparsa De Los Congos"エリセオ・グレネ作。Lecuona Cuban Boys "Anacaona"エルネスト・レクォーナ作。アナカオーナとは、スペインに征服される前のキューバの女王だったとされる伝説上の人物。Lecuona Cuban Boys "Tabou"エルネストの姪マルガリータ・レクォーナ作。Lecuona Cuban Boys "Para vigo me voy"エルネスト・レクォーナ作。年老いた母に別れを告げて旅立つ息子の歌。Lecuona Cuban Boys "Rumba Tambah"ラファエル・エルナンデス作。Lecuona Cuban Boys "En la Plantación"アルマンド・オレフィーチェ作。南国の田園風景の中でのロマンティックな恋の歌。Lecuona Cuban Boys "Guajira" アルマンド・オレフィーチェ作。グアヒーラとは、農村部の民謡ではなく、田舎娘のこと。Lecuona Cuban Boys "Luna de Monte Carlo"アルマンド・オレフィーチェ作。キューバ音楽は、民衆の生活感情をリアルに写し取るといった性格よりも、どうせ歌なんて芝居がかった“そらごと(空事)”さ、とでもいうようなクールな姿勢が根底にあって、架空の世界に遊ぶファンタジー的な要素が共有されていた。キューバ音楽は、そのような性格を体現していたからこそキューバ人以外に容易に受け入れられた。パリでは、芸能都市パリにふさわしい形にアダプトされ、すぐに根を張ることができた。レクォーナ・キューバン・ボーイズやカスティジャーノス兄弟、ドン・バレット、リコズ・クレオール・バンドは、パリに溶け込み、フランス色に染め上げられたキューバ音楽を聞かせる。キューバ音楽のファジーな性格を活かして土着化し、土地の色に染まることで新たなキューバらしさを発揮している。バレット兄弟もフィリベルト・リコも、1926年頃にスペイン経由でパリにやって来て、最初の演奏活動はジャズが中心だった。20年代末になるとビギンが商売になり始め、30年代に入るとルンバ・ブームが始まって、ルンバを中心に演奏するようになった。キューバ音楽を最初に録音したのは1930年11月~12月のカスティジャーノス兄弟の「ミ・トゥンバオ」と「クンバンバ」。バレットの「マルタ」は1932年5月の録音で、それ以後、パリでのルンバの録音は盛んになる。E. Castellanos "Cumbamba"Don Barreto et son Orchestre Cubain "Marta"モイセス・シモンス作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Beguin-Beguine"これはキューバ音楽ではなく、マルチニーク島のビギン。ヴォーカルはシャンソンの大スターであるジャン・サブロン。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Nella"ギターはドン・バレット。Don Barreto et son Orchestre Cubain "melody's bar"ホセ・リエストラ作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Trigueñita"フリオ・ブリート作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Lamento Cubano"エリセオ・グレネ作。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Cubanella"レイモンド・ゴットリーブ作。リコのフルート、バレットのギター、ゴットリーブのピアノ。Don Barreto et son Orchestre Cubain "Tristessa"ドン・バレット作。Rico's Creole Band "Lamento Esclavo"エリセオ・グレネ作。Rico's Creole Band "Buscando Millionarias"ホセ・リエストラ作。Rico's Creole Band "Vision De Venus"フィリベルト・リコ作。Rico's Creole Band "See Saw (Cachumbambe)"モイセス・シモンス作。Rico's Creole Band "Shangai"Rico's Creole Band "Biguine d'amour"Rico's Creole Band "Alma de mujer"Rico's Creole Band "La sitiera"Rico's Creole Band "Como una rosa"Rico's Creole Band "Canto caribe"エルネスト・レクォーナ作。アントバルとアスピアスの兄弟に続いてアメリカで成功したもうひとりのキューバ人が、デシ・アルナスだ。こちらも名門の出身。なにしろ父はキューバ第2の都市サンティアーゴの市長だった。市長のドラ息子デシは、アメリカでミュージシャンになり、人気バンドのザビア・クガート楽団などで活躍したあと自分のバンドを作り、やはりルンバで人気をつかむ。Desi Arnaz and his La Conga Orchestra "La Conga (Asuncion)"Desi Arnaz and his La Conga Orchestra "Africa Canta"Desi Arnaz "Conga" from the RKO movie "Too Many Girls"Desi Arnaz "Babalu" だが彼がいちばん成功したのは、テレビ・ドラマだ。アメリカの初期のテレビ界で人気最高だった「アイ・ラヴ・ルーシー」(ルーシーショウ)の主役ルシール・ボールはデシの奥さんであり、デシのほうもあのドラマで、実生活どおりルーシーの亭主役を務めていたのだ。"Lucy Takes a Cruise to Havana" Desi Arnaz Jr. portrays his father in "The Mambo Kings"こうしたキューバ出身者だけでなく、南米のあちこちからアメリカにやってきた連中やら生粋のアメリカ人やら、いろんなミュージシャンたちが、ニューヨークをはじめアメリカ各地でいわゆるラテン音楽を演奏した。★キューバ音楽のエクゾティシズム最後に「キューバ音楽のスケールが大きくなったのは、その国際性による」と分析する田中勝則さんの文章「キューバ音楽のエクゾティシズム」(スタジオ・ボイス1997年4月号 特集:キューバ~革命とエロス掲載)の一部を紹介します。ぼくが言うキューバ音楽の特徴である、エクゾティシズムと隣り合わせにやっていくようなスタンスは、この国にポピュラー音楽が生まれた時から持ち合わせていたものじゃないかと思う。なにしろキューバはカリブ海に浮かぶ小さな島。自国にさほど大きな音楽マーケットを持っているわけはなく、その歴史は外国との付き合いなくしては考えられない。むしろキューバ音楽をこれほどスケールの大きなものにしたのは、そんなこの国の音楽の国際性によるとも考えられる。30年代初頭、パリに進出したルンバ・バンドには、レクォーナ・キューバン・ボーイズやドン・バレット楽団、そしてニューヨークに向かった中にはドン・アスピアス楽団やアントバルズ・キューバンズなどがあったが、彼らこそがエクゾティックでありながら自己主張も忘れない、キューバ音楽の一番の特徴を確立させた偉人たちだ。パリではパリなりに、ニューヨークならニューヨークなりに、ルンバは聞き手の趣向に合わせてファジーにスタイルを変化させながら、同時にキューバ音楽の心というものを世界中に広めていった。
2013.04.14
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中村とうようさんの魂を追悼するため、とうようさんの著書を少しずつ読み直しています。今夜は、1999年9月20日に発行された岩波新書『ポピュラー音楽の世紀』の中から、ソンが成立するまでのキューバの融合音楽の歴史のエッセンスを紹介します。ラ・パロマは、1859年に出版され、世界的に大ヒット。リズムはハバネラ。キューバで生まれたリズムで名称もハバナに因んでいる。作曲家イラディエールは若い頃キューバに住んでいた。スペイン人によって送り出されたキューバの音楽だ。"La Paloma"カリブ海の多くの島々で、ハバネラが出てきた19世紀よりずっと前からアフリカとヨーロッパのリズムが融合して、様々な新しい民衆文化を生み育てていた。そのなかからポピュラー音楽が開花していく。世界で一番早くポピュラー音楽が芽ばえたのは、カリブ海と南アジア・東南アジアだ。コロンブスたちのカリブ到達とヴァスコ船団のインド洋横断に始まるヨーロッパとアメリカ大陸やアジアとの出会い、アメリカ大陸に黒人奴隷が連れ込まれたことによるアフリカとの出会いこそ、世界史上で最大のインパクトを持つ空前の文化衝突であった。ポピュラー音楽もその副産物。近代以降の世界の歴史は、表面的にはヨーロッパ・アメリカを中心に動いてきた。しかし、中心たるヨーロッパのはなばなしい発展は、周縁化したカリブ海・南アジアからの略奪があって初めて成り立った。周縁は、従属化という形での発展を、むしろ先進国よりも先に、なし遂げたのだ。融合文化の形成はどのような条件のもとで起きるのか。19世紀のカリブ海では、労働力を満たすために放り込まれた下層ヨーロッパ人たちは、それぞれの故郷を捨て去って新しいカリブ人に生まれ変わって生きてゆくしかなかった。彼らは、強いインパクトを持つ民衆文化を必要とした。それが、躍動するアフリカン・リズムによって身体性をなまなましく表現する踊りの音楽だったのは、当然の成りゆきだろう。19世紀カリブ社会のテンションは、ジャズを作ったニューオリンズよりも高かった。こうして生み育てられた新しい融合音楽が熟成したのが、ハバネラだった。白人たちもヨーロッパ的な音楽伝統だけでは充分に生きてはゆけないことを自覚せざるを得なかった。体の奥から揺さぶってくれるようなビートを求めてやまなかった。その欲求に応えられるのは、肉体の解放による満足感と高い精神的な喜びとを合一させたアフリカのダンス音楽しかない。融合音楽のなかにアフリカン・ビートの魂がどれだけ息づいているか。ジャズは、ハーモニーや演奏テクニックなどヨーロッパ的な価値観に進みがちだった。カリブの島々の音楽は、コミュニティを基盤としてアフリカン・ビートの生命力を受け継ぎ、強固なアイデンティティを保った。キューバでは、スペイン系の白人農民は内陸部で砂糖きびやタバコを作り、奴隷の子孫である黒人たちの多くは都市のスラム地区でコミュニティを作って単純労働で暮らしてきた。白人農民のスペイン系音楽がグァヒーラ、黒人宗教音楽がサンテリーアやニャーニゴ、黒人世俗音楽がルンバ。ルンバは、声自慢の男が最近の出来事などを即興的に歌い、他の全員がコーラスを挟む、コール・アンド・レスポンスの形。踊りは男女が対になり、タイコが踊り手にサインを出す。歌、打楽器、踊りが三位一体となってひとつの世界を作り出す。Carlos Embale y Coro Folklórico "El Edén de los Roncos""Consuélate como yo"キューバの黒人たちがカトリックの聖者の像を礼拝していたとしても、心の中ではアフリカ生まれの神々を歌とタイコと踊りで礼拝してきた。こうした宗教活動がアフリカン・ビートの保存装置となり、コミュニティの結束を保つ役目を果たした。Merceditas Valdés "Shango"キューバでは19世紀末にはギター伴奏でじっくり聞かせる歌カンシォーンが重要な存在となっていた。白人っぽいきれいなメロディと聞こえても、そこには黒人の感覚が入っていて節回しの微妙な味わいやリズムのノリに影響しているのである。Maria Teresa Vera "Veinte Años"キューバ音楽は1910年代後半のソンの成立で新しい段階を迎えた。ソンは、ほぼ対等と思える黒人と白人の協力で生まれた点で、世界に類例のない音楽だ。誰の耳にもまぎれもなく20世紀大衆のダンス音楽であり、ポピュラー音楽であった。 Septeto Típico Habanero "Como Esta Miguel" Conjunto Típico Cubano "Dulce Habanera" Septeto Típico Habanero ""El Florero"ソンは、スペイン色の濃い歌の主題部と、アフリカ的な繰り返しの部分とから成る。簡単なイントロのあと、主題部をリード・ヴォーカルが歌い、繰り返しのパート(モントゥーノ)をリード・ヴォーカルと全員のコーラスの掛け合いで演奏する。 Septeto Típico Habanero " El Tomatero"" Elena la Cumbanchera" Conjunto Típico Cubano "En el Silencio de la Noche"ソンのバンドが使う楽器は、トレースという小型で高く響くギター、普通のギター、ベース、マラカス、クラーベス、ボンゴの6種。半数がヨーロッパ系の弦楽器、半数はアフリカ系の打楽器。1920年代後半にはトランペットが加わった。Septeto Típico Habanero "Junto al Rio""A la Loma de Belen" Conjunto Típico Cubano "Maltrato"クラーベスは、2小節に5つの決まったビートを打つ。前半1小節の3打は、ハバネラの基本でもあったスペイン系ダンス音楽のリズムを受け継ぐ。後半1小節の2打は、シンコペーションで始まり、アフリカン・ビートの躍動感が生きている。Conjunto Típico Cubano "Nieves""Tiene Son y Guanguaco""Tres Lindas Cubanas"イグナシオ・ピニェイロは、ハバナの黒人居住区で生まれた。マリア・テレサ・ベラのベーシストを経て、1927年にセプテート・ナシォナールを結成。セカンド・ヴォーカルの対位的な絡み方、トレースのビートの効いたフレージングが特徴。Septeto Nacional de Ignacio Piñeiro "Esas No Son Cubanas" トリオ・マタモロスは1925年から1960年まで35年間、同じメンバーで活動。ミゲール・マタモロスの書く曲は、古くからキューバの民衆が歌ってきた民謡の伝統を守った親しみやすい曲で、味わい深いフレーズが散りばめられている。Trio Matamoros "Reclamo Místico""Olvido"ロス・コンパドレスは、ロレンソ・イエレスェーロとレイナルドの兄弟。ロレンソはマリア・テレサ・ベラの伴奏者を17年つとめた。1949年からデュエットで活動。オリエンテ州の伝統を受け継ぎながら現代に生きるキューバ音楽を創造。Duo Los Compadres "Frutas De Caney"モダン・グァヒーラは、キューバの内陸部で砂糖きびやタバコを作っていたスペイン系の白人農民の民謡が、ソンの影響を受けたもの。ややスパニッシュ的なメロディにパーカッションも加えた伴奏がつき、艶と丸みのある声で生き生きと歌う。Ramon Veloz y Conjunto Saborit "Amorosa Guajira"
2013.04.06
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中村とうようさんの魂を追悼するため、とうようさんの著書を少しずつ読み直しています。今夜は、1980年12月8日に殺害されたジョン・レノンを追悼するミュージッック・マガジン1981年3月増刊号『ジョン・レノンを抱きしめて』に発表された「世界史の中のジョン・レノン」を読んで、そのエッセンスを写経のように書き写しました。ジョン・レノンの音楽を聴きながら…レノンたちの生まれた町リヴァプールは17世紀後半以降、奴隷貿易や新大陸との交易によって繁栄をほしいままにした罪深い町。ジョン・レノンはその罪をつぐなうために、ヨーロッパ文明が、キリスト教世界が、差し出した贖罪の使徒なのだ。The Beatles Twist And Shout 1963/2/11ジョン・レノンがロックというアフリカに起源を遡る音楽をやったのは贖罪の方法としては正当だった。その彼をヨーロッパ世界自身が抹殺したのは、ヨーロッパの悪の開き直りにほかならない。だから彼の殺害は世界史の悲劇なのである。The Beatles A Hard Day’s Night 1964/4/16ぼくがキリスト教ぎらいになった原因は奴隷貿易や新大陸の征服にある。愛を説くキリスト教の名のもとになぜあんなに残虐な行為ができたんだろうかという疑問がふくらみ、キリスト教こそ残虐行為をやらせた起動力だと思うようになったのだ。The Beatles Help! 1965/4/13キリスト教は唯一の救い、という傲慢な考え方があるから、救いを与えてやったんだから奴隷にして当たり前、抵抗する者は殺してよい、となる。この姿勢が帝国主義の精神的基盤となり、現在の世界のさまざまな不幸の根本原因を作ってきた。The Beatles Strawberry Fields Forever 1966/12/2120世紀に入ってから、大なり小なりアフリカのビートを受け継いだ音楽がヨーロッパ、アメリカ、日本などの若者をとらえてきた。キリスト教世界の矛盾が大きくなったとき、まず若者の肉体感覚が、非キリスト教的なサウンドを求めたのだ。The Beatles Revolution 1968/7/12それは知らず知らずのうちにひとつの方向へと肉体を走らせる、飢餓感のようなものだった。最初から意識していたはずはないが、ビートルズ、ことにジョン・レノンが身をもって示したのは、キリスト教的なるものからの脱出の方法だった。The Beatles The Ballad Of John And Yoko 1969/4/1470年代になってからジョンが日本に深い関心を示したのも、非キリスト教的な生活感覚に惹かれたからではないか。ジョンの追い求めた「愛」は、仏教の「慈悲」に近いものを目ざしていたのではないか。ジョン・レノンも菩薩なのである。John Lennon Love 1970/10/9キリスト教に手向かうものは殺すことこそ正しいとする考え方が、結局ジョンを殺したのだ。キリスト教を脱出し、それを克服して、もっと次元の高い愛の思想を身をもって実践しようとしたジョンを、キリスト教は生かしておけなかった。John Lennon Imagine 1971/7/3直接的にピストルをぶっ放したのは、チャップマンという頭の少々いかれた一個人かもしれないが、彼をそういう行動に走らせたのは、古いキリスト教世界の最後の悪あがきだ。レノンの生き方を、レーガンのアメリカは許しておかなかった。John Lennon God 1970/10/9とにかく地球最終決戦は始まった。キリスト教的悪徳はレーガンを先頭に必死の反撃に出ようとしている。ジョン・レノンはその血まつりにあげられた。寛容でありたくとも、ぼくたちは戦うべきときには勇敢に戦わなければならないだろう。John Lennon Grow Old With Me 1980/11
2012.02.06
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私にとっての2011年は、たくさんの素敵な出会いがあった年でしたが、尊敬する中村とうようさん(79歳)が7月21日に立川市の自宅マンション8階から飛び降り自殺され、悲しみに沈んだ年でもありました。中村とうようさんは、1932年7月17日、京都府峰山町の生まれ。1956年に京都大学経済学部を卒業し、日本信託銀行に入社するものの、エルヴィス・プレスリーを中心に盛り上がるポピュラー音楽の世界に魅せられて、1960年に退社し、音楽批評の世界に入りました。1962年12月に最初の著書『ラテン音楽入門』を出版し、中南米諸国の音楽を幅広く紹介。1965年にはラテン・アメリカ各国の音楽を探訪する旅に出ています。1969年4月、ロックを中心に盛り上がる若者文化を紹介する雑誌『ニューミュージック・マガジン』を編集長として創刊。1980年1月、誌名を『ミュージック・マガジン』に変更し、ロックだけでなく、世界各地の音楽を紹介。この間、雑誌の編集・執筆だけでなく、世界各地の音楽のレコード・CDの発売に携わり、代表的なミュージシャンを招いて数々のコンサートを開催。ラテン、フォーク、ロック、ブルース、ゴスペル、アフリカ音楽を紹介した1970年代を経て、1984年のインドネシア旅行を契機に、とうようさんの関心は、アジア、ギリシャ、アラブへと広がっていきました。1972年7月、とうようさんがキューバでのサトウキビ刈りの労力奉仕から帰国した頃、私は、とうようさんを知りました。その後、とうようさんが「キューバの黒人音楽の真髄」と紹介してくれたアルセニオ・ロドリゲスの音楽と出会い、キューバは私のあこがれの国になりました。1974年7月、とうようさんが最初に紹介したサルサのレコードは、偉大なキューバの音楽家を追悼したオルケスタ・ハーロウ「アルセニオ・ロドリゲスに捧ぐ」でした。とうようさんが1976年9月にファニア・オールスターズを日本に呼んでから35年。サルサは、静岡の人たちに愛されています。毎月開かれるパーティでは、男女ペアがクラーベのリズムに乗って、見事なダンスを披露するし、静岡のサルサバンド「ソノーラ・スンプーニャ」が素敵なライヴを繰り広げます。とうようさんは、大好きなレコードを熱く語るときが素敵でした。1977年7月30日の夜、高円寺の次郎吉で平岡正明さん長谷川きよしさんとサンバの魅力を紹介したとき、エリゼッチ・カルドーゾの歌にみんな魅了され、その年の9月には彼女が来日し、素晴らしい歌を披露。これが私とサンバとの出会いとなりました。私は、とうようさんが1984年まで銀座4丁目コアビル7階テクニクス・ギンザで開催した「とうようのレコード寄席」を毎月、楽しみに通いました。1984年にはナイジェリア音楽のサニー・アデ「シンクロ・システム」を紹介し、アフリカ音楽がブームになりました。とうようさんの姿を最後に拝見したのは1999年5月16日にシアターオリンピックスの一環として開催されたエジプト音楽のハムザ・エルディーンのコンサート。1990年にハムザさんの自伝を出版されたとうようさんが静岡まで来てくれて、うれしかったです。『ミュージック・マガジン』2011年9月号は、とうようさんの遺書を掲載。その最後は「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません。(中略)という訳なので、読者の皆さん、さようなら。中村とうようというというヘンな奴がいたことを、ときどき思い出してください。」と結ばれていました。とうようさんは1991年6月、ポピュラー音楽の歴史と今後の展望について、次のように書いています。(「音楽から幻視する世紀末」『地球が回る音』1991年、筑摩書房)「西暦1000年からの千年紀は、ヨーロッパの千年紀であり、キリスト教の千年紀だった。その前半の500年間に、ヨーロッパはイスラム世界の備えた文明を奪い取り、後半の500年は、アフリカ、アメリカ、アジアの3大陸から物的、人的資源を奪い取ることで、繁栄をほしいままにした。音楽においても、この千年紀を支配してきたキリスト教教会音楽に、その最後の百年間、反逆する音楽が出現し、教会音楽の息の根を止める役割をしてきた。20世紀の始まりと同時にジャズやタンゴそのほかのポピュラー音楽が生まれ、20世紀の真ん中の1950年代にロックという音楽が出現してポピュラー音楽を大きく変え、そして20世紀の終わりにワールド・ミュージックの名のもとにポピュラー音楽はもう一度その根底から変わろうとしている。この千年紀は、白人(キリスト教徒とユダヤ教徒)による有色人種の抑圧、搾取の千年紀だった。自文化絶対主義は根絶されるべきである。そのあとに、アフリカ、アジアの多神教、汎神教にもとづく慈悲の世界が現出されなければならない。大衆音楽におけるワールド・ミュージックのヴェクトルとは、アジア歌謡によるヨーロッパ、アメリカ音楽の駆逐の方向性であり、それはアジア、アフリカ(人類発祥の地!)の叡智が世界を救う日が到来することの予兆なのである。」とうようさんのように言い切れない私でも、ヨーロッパ人が植民地化したラテン・アメリカで生まれたサルサやサンバが、ヨーロッパ音楽を上回るパワーを発揮し、文化的にはヨーロッパを凌駕していることは実感できます。経済的には欧米に支配されても、人々が生み出したポピュラー音楽では、逆に欧米を凌駕するパワーをもっている。それが音楽の力であり、とうようさんが生涯を通じて追い求めてきたものだと感じます。とうようさんが教えてくれた音楽の力を、大切に守り育てていきたいと思います。
2012.01.22
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♪ハ~ヴュ エ~ヴァ ビィ~ン トゥ エレクトリック レィディランド~と、ジミ・ヘンドリックスが優しい声で歌い出すとき、いつも「エレクトリック・レディランド」って、どんなところなのだろう…と想像力をふくらませていました。SideAの聴きどころは「ヴードゥー・チャイル」です。当時、ジミ・ヘンドリックスはニューヨークで、1968年3月13日にオープンしたばかりの最新鋭スタジオ「レコード・プラント」に、ロンドンのオリンピック・スタジオで活躍していたエンジニアのエディー・クレイマーを迎え、4月18日から3枚目のアルバムの制作に取り組んでいました。5月2日、ジミ、ミッチ・ミッチェル、エンジニアのエディー・クレイマー、スティーヴ・ウインウッド(トラフィック)、ジャック・キャサディ(ジェファーソン・エアプレイン)、その他大勢の友人たちは深夜、レコード・プラントの近くにあるシーン・クラブでジャムを楽しんでいたところ、ジミが「おい、スタジオに行って、これをやろうぜ」と言い出しました。ライブのギグみたいなサウンドでやってみようというアイディアでした。レコード・プラントに戻って朝の7時半からジャムを開始。テイク3が収録されました。パーティの雰囲気を出すため、拍手や観客の話し声をオーヴァーダブで加えました。「ヴードゥー・チャイル」♪俺はヴードゥーの子供さ♪俺が生まれた夜、月が火のように赤くなったんだ♪かわいそうにおふくろは「ジプシーの言った通りだ」 と叫んで♪その場に倒れて死んでしまった♪ピューマたちが待ち構えて、俺を見つけて♪鷲の背中に乗せたんだ♪鷲は俺を無限の縁に連れていって♪連れて帰ってきたときには火星の魔女の指輪をくれた♪そして鷲は俺に「飛べ」と言った♪俺がヴードゥーの子供だからだ♪俺はキミと寝るが♪キミは何も感じない♪キミが眠っている間に寝るからだ♪そのとき俺は百万マイル離れていて♪同時に、キミの写真の額のなかにいる♪俺はヴードゥーの子供だから(間奏)♪俺の矢は欲望でできていて♪メタンの海のそばの木星の黄緑色の鉱脈くらい♪遠くから飛んでくる♪俺はハミングバードを飼っていて、とても大きな声で 鳴く♪キミは頭がおかしくなりそうかい(間奏)♪俺は液体の庭とアリゾナの新しい赤砂の中を漂い♪俺はカリフォルニアのブルーという花の蜜を味わう♪そして俺たちが手をつなぐとニューヨークは水没する♪俺はヴードゥーの子供だから曲はブルースですが、左から聞こえてくるスティーヴのオルガンと、右から聞こえてくるジミのエレクトリック・ギターが掛けあいながら、だんだんと雰囲気を盛りあげていき、3番の歌のあと、スティーヴのオルガンを中心にした間奏で最高潮に達し、4番の歌のあと、ミッチのドラムを中心に再び盛りあがり、5番の歌のあと、三度盛りあがる、という形で、緩急をつけて、うねるようにサウンドが展開していきます。特にジミのギターは、天かける龍をイメージさせます。リラックスした雰囲気のなかで、だんだん熱く燃えていく、このようなサウンドの展開は、3分間でヒット曲をつくるという今までの方法とは、根本的に異なるレコーディングのスタイル。これこそが、ジミの今回のアルバムのねらいのひとつで、ジャムは、ジミにとって最大のインスピレーション源でした。「ちょっとでもチャンスがあれば、俺たちはすぐジャム・セッションするんだ。それがプレイってもんだよ……他のミュージシャンと音楽を創り出すというのがね。音楽が生きがいなんだもの。最近の連中はジャム・セッションのやり方を知らないんだ……他人に対する思いやりがないね。ジャム・セッションは、そこが肝心なんだ。みんなとプレイしないとね。ジャムっていると、音に流れみたいなのが出てきて、自分がどこへ行くかが見えてくるんだよ。2週間かけてレコーディングでやるよりも一体感が出てくるんだ。キーの転換、タイミング、ブレーク、リフ……時間さえあれば、あれほど素晴らしいものはないね」SideBは、どちらかというと、いままでのエクスペリエンスの流れを汲むブリティッシュ・サイドと言えそうですが、SideCに入ると、うねるようなサウンドが再び展開します。最初の曲「レイニー・ディ、ドリーム・アウェイ」と3曲め「スティル・レイニング、スティル・ドリーミング」でオルガンを担当したマイク・フィニガンは、「トム・ウィルソンが僕の小さなR&Bバンドをジミに紹介してくれたんだ。ジミは、僕やラリー・フォセット(コンガ)、フレディ・スミス(ホーン)に『ちょっと浮かんだ曲があるから一緒にジャムってみないか』と誘ってくれた。『Dのキーでスローなシャッフルをやるぜ。ジミー・スミスみたいにオルガンを弾いてくれ。俺がケニー・バレルをやるから』ってね」と語っています。♪雨模様、一日中ぴりぴりしても無駄なんだ♪自分なりにうねって、心配を流してもらおう♪雨の日にゆったりうねってラリーのコンガとバディ・マイルスのドラムスが叩き出すビートに乗って、ジミのワウワウギターとマイクのオルガン、フレディのホーンが呼応しあって、だんだんと熱くなり、歌のあと、また熱くなりと、サウンドがゆったりと、うねっていきます。続く「1983(僕は人魚に変身しなければならない)」は、トラフィックのクリス・ウッズのフルートを迎え、レコード・プラントの最新鋭設備スカーリーの12トラックのテープマシーンを駆使してのオーヴァーダブを重ねたサウンド・ペインティング。ジミは甘く悲しい音色で幻想的な空間を描き出しますが、オスマン帝国の軍楽隊を思わせる行進曲風のビートをミッチが叩き出すと、夢のような空間に危機感がもたらされ、緊張が高まります。♪バンザイ、僕は過去から目覚めた♪でも、ここでは戦争が続いている♪だから、恋人のキャサライナと僕は♪海まで最後の散歩をすることにした、この騒ぎの中を♪死ぬためではなく、生まれ変わるために♪こんなにも打ちのめされ、引き裂かれた大地から離れ て♪永遠に、永遠に♪ああ海よ、本当にめちゃくちゃだ♪地球の隅々までが戦いの温床だ♪鉛筆や口紅のチュープの形をしたものが降りそそぎ♪痛みと苦しみが生まれる♪僕たちの足が砂につくと♪北極がシルバーブルーから血のような赤に染まる♪海へとまっすぐに、まっすぐ海へ♪きょう、友人たちが僕たちと一緒でないのは残念だ♪友人たちは「人間が作るマシーンに人間は救えない」 と言う♪だから友人たちはきょう来なかったのかな♪彼らはこうも言う♪「人間は水の中に住み、息をすることはできない、永 遠に」と♪それが彼らの第一の不満♪しかも、僕に面とむかって、こう言った♪「とにかく、それは神の意思に背くこと♪そして、王の恩寵に背くこと」と♪だから、彼女と僕は砂の中で交わる♪乾いた大地での最後の瞬間を祝って♪僕らのマシーンよ、よくやってくれた、よく務めてく れた♪僕らの肉体に傷ひとつつけずに♪そして僕らはマシーンに別れを告げる♪ヒトデや大きな波の泡が、僕らにほほえみを送る♪僕らが水の中に潜る前、♪時代遅れの恐ろしい悲鳴に目を向ける曲は切れ目なく、「月は潮流を優しくめぐらせる」へ。♪下に向かって僕たちは行く♪ダーリン、急ごう、ショーに遅れないように♪海王星のチャンピオンと水の世界との試合は見逃せな い♪「さあ、こちらです」と人魚がほほえむと、♪アトランティスの歓声が聞こえる曲の最後、再び、行進曲風のビートが聞こえ、カモメの鳴き声が聞こえ、宇宙船が飛びまわる音が聞こえます。彼らは海を出て、今度は天空にむかって飛び立ったのでしょうか。SideDの冒頭、「スティル・レイニング、スティル・ドリーミング」が始まると、「1983」は夢の中の出来事だったのか…と受け取れます。現実に戻った私たちが直面するのは火事の場面。「ハウス・バーニング・ダウン」♪地獄の炎で赤くなっている空を見ろよ♪誰かの家が燃えおちている♪俺は友達に聞いた「あの黒い煙はどこから出てる?」 と♪彼は咳きこんで、話題を替え、♪「ああ、あれは、あそこらへんを白くしているのさ」♪俺はお茶をすすっている彼を残して、ジャガーに飛び 乗り、♪今回は、どんなわけで、誰がやっているのかを見に行 った♪妹や弟、父や母が泣きながら立ちつくしていた♪現場についたとき、炎は幽霊のような鳴き声を立てて いた♪俺はクルマの上に立って、叫んだ♪「どうして、同じブラザーの家を燃やすんだ」♪地獄の炎で赤くなっている空を見ろよ♪誰かの家が燃えおちている♪19マイルの背の高さの奴が群集から離れて、叫んだ♪「失職して、むかつくから、空を赤く染めたんだ」♪俺は言った♪「真実は前にある。やけくそになるな」♪「やけくそになる前に学べ。俺の言うことを聴け」♪そして俺は立ち去ったが、その日のことを忘れられな い♪というのも、俺が谷に着いたときに、♪巨大な宇宙船が道路を横切って降りてきて♪不気味な優雅さで着陸したのを見た♪そして死人を全部連れ去ったんだ♪地獄の炎で赤くなっている空を見ろよ♪誰かの家が燃えおちている♪空を見ろよこの曲も、「1983」と似ている行進曲風のビートが緊張した雰囲気をもたらし、宇宙船が飛び立つ音で締めくくられます。やはり「1983」は夢ではなかったのです。このあと、監視の目が光り、追手が迫るなか、「抜け出す道があるはずだ」と語りあう「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」が続き、巨人に育ったウードゥー・チャイルドが世界を自分の思い通りにする様子をワウワウギターの歪んだ音色で描き出す「ヴードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」で、締めくくられます。8カ月にわたるアルバムの制作期間に、ジミは、自分の過去を振り返り、幻想のなかで未来を予感し、現実に引き戻されて、音楽の創造に取り組んでいたと、私には感じられます。ジミが誘った『エレクトリック・レディランド』は、桃源郷のような場所ではありませんでした。
2010.05.09
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きょうから2週間だけ、『エル・カンタンテ』という1970年代のニューヨークで活躍したサルサ歌手の一生を描いた映画が静岡市で公開されるのを思い出して、16時35分から2時間、映画館に座っていました。主人公のエクトル・ラボーは、プエルト・リコの貧しい音楽一家の次男として生まれ、幼くして母を亡くし、父から音楽の教えを受け、14歳でプロの歌手になりました。17歳の時、父の反対を押し切ってニューヨークに旅立ち、有名楽団の歌手をつとめた後、1967年、21歳でファニアレコードからウィリー・コローン楽団の歌手としてデビュー。ニューヨークのギャングを全面に押し出したイメージ、故郷プエルト・リコを思いおこさせる哀愁を帯びた力強い声と節まわし、即興で歌詞を生み出していく才能などが相まって、ニューヨークのプエルト・リコ人たちの間でヒーローとなり、やがてラテンアメリカ音楽界のスーパースターとなっていきます。その一方で、薬物(ヘロイン)中毒で自分をコントロールできなくなり、ショーを遅刻したり、すっぽかすようになり、信用を落としていきます。自宅は火事で焼け、家庭は自身の浮気で崩壊し、17歳の息子は友人に射殺され、エイズに感染していることが判明……と悲劇は続き、エクトルは自己破壊的な行動をとるようになっていきます。41歳の時には、再起をかけたプエルト・リコでのコンサートが不調に終わり、ホテルの窓から飛び降り自殺を図り、一命はとりとめたものの、その後は、活躍の場を見い出せず、1993年6月29日、46歳で、その生涯を閉じます。しかし、いまもエクトルの歌は愛されており、2007年に映画が公開されると、彼の歌のシーンでは、観客全員で大合唱となったとのこと。この映画の企画は、エクトルの浮き沈みの多い人生を支え続けてきた、彼の妻「プチ」こと、ニルダ夫人から、ジェニファー・ロペスに「演じてほしい」と持ち込まれたもの。ニューヨークのプエルト・リコ人社会出身のジェニファーは、自分が設立したプロダクションの最初のプロジェクトとして、この映画を取りあげることを決め、夫のサルサ歌手マーク・アンソニーをエクトル・ラボー役に起用し、ジェニファーは彼の妻「プチ」役を熱演。エクトル・ラボーが素晴らしい歌を披露して輝く場面と、ヘロイン中毒で生気を失っていく場面が、あまりにも対照的です。生死の境からエクトルを引き上げようとするプチは、ファッションも華麗で、その熱い生き方が伝わってきます。エクトルの悲劇的な人生を追体験する映画なので、欲望に押し流される人間の弱い部分がクローズアップされるのですが、そんな生活のなかから生み出されるエクトルの素晴らしい歌が彼の人生を救っているようにも感じられます。この映画のサウンドトラックCDも、米国版DVDも、発売直後に買って、何度も聞いてきましたが、歌詞や科白が聞き取れないところがあったのですが、映画の字幕で、自分の人生を歌っているのだなと確認できました。「エル・カンタンテ」Written by Ruben Blades私はカンタンテ今日もみんなが聴きに来てくれた私の一番のレパートリーをあなたたちに捧げよう私は歌う、笑いと苦しみの人生を悪い時、そして素晴らしい出来事をみんな楽しみにやってきて入り口でお金を払い「悲しんでる暇なんかないさあ、カンタンテ、始めるんだ」って叫ぶ街角でたたずんでるとみんなこんなことを言うおい、エクトル、ヘーイ!おまえ、いつも女とよろしくやってんな!だれも私が苦しくないか、泣かないか深く傷ついた痛みを感じてないか聞いたりはしない私はカンタンテ歌うことが好きだから私はどこでも有名なカンタンテでもショーが終わると普通の人と同じ自分の人生を、笑いと苦痛で過ごす苦しい時、そして素晴らしい出来事もある私はカンタンテ私の仕事は歌うこと私についてきてくれる人たちに私は私の歌を捧げる
2009.10.04
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龍山寺で最初の龍に出会ったあと、私は、龍が描かれた赤いTシャツを買いました。故宮博物院では、古代から清代までの玉、銅器、陶磁器のなかに描かれた龍を発見して、ミュージアムショップで龍の絵を購入。翌日の6月9日(火)に訪問した九份(ジューフェン)の山頂では、再び龍づくしの寺院・聖明宮にたどりつき、土産品店の片隅に埋もれていた龍の置物を買いました。台北の北東に位置する九份と、となりまちの金爪石(ジングワシィ)は、1893年に金鉱が発見されて、ゴールドラッシュに沸き、1930年代の日本統治時代には、1万5千人以上の人々が暮らしていました。しかし、やがて金脈は尽き、1970年代に金鉱が閉鎖されると、町からは人が消え、もとの静かな町に戻っていったといいます。静かになった町が、今日のような観光地としてのにぎわいを取り戻したきっかけは、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督が発表し、大ヒットした映画『悲情城市』のロケ地に九份が選ばれたから。もう少し正確に言うと、侯孝賢監督の右腕として脚本を執筆してきた呉念眞(ウー・ニエンジェン)氏は九份の出身であり、自分の青春時代の話を侯孝賢監督『恋恋風塵』(1987)に、1945年8月15日の日本敗戦から1949年12月に国民党政権が首都を台北に移すまでの話を侯孝賢監督『悲情城市』(1989)に、日本統治時代の1920年代の話を王童監督『無言的山丘』(1992)に、それぞれ映像化して、九份の歴史を広く一般に紹介したのです。<九份の街並み>さらに、日本人観光客が多数訪れるようになったのは、日本語の台湾ガイドブックで、「九份は、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』の舞台のモデルである」と紹介されたからとのことでした。山の上の聖明宮の龍たちとともに、基隆(ジーロン)の港町を見下ろしていると、福建省泉州から渡ってきた人々によって見い出された龍が、黄金色に輝きながら、山の稜線を走り降りていく様子が見えるような気がしました。<九份から基隆を望む>前回、龍という架空の霊獣は、生命の気の威力を具体化させた観念図像であることを見てきました。今回は、そのような気の流れが、山頂から稜線を走り降りて、台湾の社会に、どのような影響を与えていったのかを見ていきたいと思います。「中国の秘密結社は、数百年どころか数千年の歴史を持ち、その伝統は地下を脈々と流れているのだ。そして中国の秘密結社はドラゴンにたとえられる。竜の頭がちらりと地下からのぞく。やがてとめどなく長大な、果てしない竜尾が彼方ではねあがる。ニューヨークで頭をもたげた竜は、はるかにその尾を、香港から中国本土の奥深くまでのばしているのである。秘密結社は犯罪や陰謀と結びつけられて、幻想的なイメージをふくらませてきた。だがその一方、それが民衆の助け合いといった役割を果す組織という面を持つことを忘れてはならない。秘密結社は超越的でもあるが、日常的でもあり、社会の非常に広い範囲において考えることができる」と、古代中国の三国志演義や水滸伝から、少林寺、現代ニューヨークのチャイニーズ・マフィアまで、中国の秘密結社の歴史を追った『ドラゴンの系譜』を著した海野弘氏は語っています。侯孝賢監督の『悲情城市』は、港町・基隆で船荷を預かる廻船問屋を営む林家の親子三代にわたる物語。台湾における『ゴッドファーザー』の物語です。映画の冒頭、昭和天皇の玉音放送が流れるなか、林家の長男の文雄(ふみお)は、妾が自分の子供を産むのを、神様に祈りながら待っており、生まれた子を「光明」と名づけます。また、いままで日本人を相手に経営していた、女性が接待を行う酒家を、日本の敗戦を機に大陸から渡ってくる中国人をターゲットとするため、「小上海」と改名して新装開店します。これらのシーンは、日本の敗戦で、明るい未来が開けるのではという、当時の台湾人の期待感を表現しています。<『悲情城市』小上海の人々>林家のゴッドファーザーは、75歳の阿禄老人。彼は義侠心に富み、日本統治時代は流氓(やくざ)と呼ばれ、しばしば入牢の経験をもつ、筋金入りの人物です。彼には、長男の文雄を含めて4人の息子がいます。次男の文森は、軍医としてルソン島に従軍したまま行方不明。三男の文良は、戦時中に日本軍の通訳を務めており、日本の敗戦によって基隆に戻ってきたものの、精神状態に異常をきたし金爪石の病院にしばらく入院。四男の文清は、幼少時の事故で耳が聞こえなくなり、話すこともできないため、金爪石で写真館を開店しています。1945年9月1日、蒋介石率いる国民党政権は、陸軍大将の陳儀を台湾省行政長官兼台湾警備総司令官に任命。陳儀は10月24日、上海から米軍機で台北入りし、翌25日、「今日より台湾は再び中国の領土となり、すべての土地と人民は中華民国国民政府の主権下におかれる」との声明を発表しました。国民党政権の官僚は、元台湾総督府、元日本軍の施設、日本の公営企業、民間企業、私有財産を接収しましたが、接収に際しては官僚の着服が横行。また、日本統治時代に差別され、行政機関や日本企業の上級職に登用されなかった台湾人は、祖国復帰により活躍の場が与えられると期待しましたが、重要なポストや管理職は、外省人(戦後、大陸から渡ってきた人々)が独占。台湾人の就労機会は減少し、30万人以上の失業者が巷にあふれ、治安が悪化しました。中国経済は、対日抗戦に続く内戦で疲弊を極めており、物資の欠乏とインフレで、物価の上昇は天井知らずの状況にありました。それまで日本に移出していた米や砂糖は、不当な低価格で中国に移出・密輸され、中国からは日用雑貨や工業製品が移入されましたが、中国の物価高に連動し、台湾の物価を押し上げました。中国への米の移出で、台湾は深刻な米不足となり、米の価格は吊り上がりました。日本の教育が浸透していた台湾人の胸中には、祖国・中国と国民党政権への失望と軽蔑が芽生え、日を追ってふくらんでいきましたが、国民党政権は、日本統治時代の教育を「奴隷化教育」と決めつけました。九份の酒家の一室では、四男・文清を取り巻く台湾の知識人たちがこうした議論を繰り広げ、国民党政権を批判しています。彼らは、やがて1947年の二・二八事件(国民党政権への市民の抗議行動)に参加したため、粛清の標的となり、命を落とすことになります。一方、他の酒家の宴席では、精神錯乱状態から回復した三男・文良が基隆に賭博場を開いている幼なじみの阿城から上海ギャングを紹介され、阿片の密輸や偽札づくりを持ちかけられます。そして、これらの利益の取り分をめぐって、基隆の幼なじみのファミリーや新興勢力の上海ギャングとの抗争がくり広げられ、林家のゴッドファーザーである阿禄老人の抵抗もむなしく、長男・文雄は殺され、三男・文良は、再び精神錯乱状態に戻ってしまいます。日本統治時代から国民党政権時代へうつる4年間、九份の山頂から稜線を走り降りたドラゴンは、基隆や台北の街を駆けめぐり、血を流し、歴史の表舞台から姿を消しました。しかし、1949年5月10日に施行された戒厳令が、1987年7月15日に解除されると、これを契機に呉念眞氏が構想をあたためてきた『悲情城市』の製作が進められました。1989年に完成したフィルムは、夏のヴェネツィア映画祭に出品され、グランプリを獲得。10月には、台湾で一般公開され、九份のドラゴンは、40年ぶりにその姿を現したのでした。その後、九份のドラゴンは、宮崎駿監督作品『千と千尋の神隠し』(2001)のなかで、龍の化身であるハクという名の少年として登場し、私たちを勇気づけてくれたのは、皆様ご存知の通りです。
2009.08.11
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4日間の台北滞在のなかで、私の心をとらえたのは龍です。台北で最初に龍に出会ったのは、龍山寺(ロンシャンスー)。屋根の上を極彩色の龍が飛んでいるのをはじめ、柱などにも龍の彫刻が施されていました。龍山寺は、台湾海峡をはさんだ対岸の福建省泉州から渡ってきた人々によって、福建普江安海龍山寺の分霊として1738年に創建された、台北で最古の寺院。本尊は観世音菩薩ですが、仏教だけでなく、道教の神様など100以上の神様も祀られています。台風、地震、第2次世界大戦末期の米軍の爆撃などで大きな被害を受けましたが、本尊は被災を免れ、建物はそのつど修復されました。現在の建物は、福建省から20数名の名匠を招いて造らせたもの。台湾各地の寺廟建築に大きな影響を与え、1990年に再建された横浜中華街の横浜関帝廟も、台湾の龍山寺を参考に設計されたそうです。到着した6月8日(月)の午前中、境内には、おばあさまがたの読経の声が響きわたり、大勢の参拝客が立てた線香の煙に満たされていて、龍山寺が台北の人々の精神的な拠りどころであることが感じられました。私も、本殿の観世音菩薩を参拝した後、後殿の7つの香炉を順に回りながら、縁結びの神様、子宝の神様、学問の神様、商売繁盛の神様、水の神様など、それぞれの神様に祈りをささげました。1600年代、台北は、沼沢が広がる未開の湿地で、1626年からのスペイン統治時代も、1642年からのオランダ統治時代も、台北は統治範囲に含まれず、平埔族のケタガラン族が漁業、狩猟、焼畑農業を営んでいました。鄭成功が1661年にオランダ勢力を駆逐し、1683年に清による統治が開始されても、当初は開発されませんでした。しかし、1700年代に入ると、福建と広東の人々が台北に入植し、開発が進められました。台北での初めて本格的な開墾事業は陳頼章墾号事業です。福建省泉州出身の陳頼章は1709年、仲間とともに台北を開発するための組織を結成し、現在の台北市中心部を開発しました。特に、新店渓と大漢渓の合流地点の岸辺は、マンクァと呼ばれ、開発の拠点となりました。マンクァは、原住民の言葉で「丸木舟」を意味します。山から切り出した木を、淡水河を使って別の場所に運んだことから「舟孟 舟甲」の文字が当てられました。やがて芋など物々交換の品物を置く小屋や店ができ、にぎやかになっていきました。そして、1738年にはマンクァに龍山寺が建設されました。つまり、龍山寺は、台北の歴史の始まりを象徴する場所なのです。最も栄えていた1853年、マンクァ周辺の河の上は、船でいっぱいでした。そして日本統治時代、マンクァは、万年の繁栄の願いをこめて「萬華」と書き換えられました。龍山寺をマンクァに建てた理由は、交易の要衝地であるとともに、風水の考え方に基づいていると云われています。風水では、その土地にある山脈の尾根から稜線を走り降りる生命エネルギーの通路を「龍脈」と呼びます。この龍脈にそったところであれば、吉相に恵まれるといわれています。そして、龍脈の行きつく底部には、地下の生命エネルギー「気」を噴きあげ、生気が満ちあふれる特異地点「龍穴」があり、ここに家を建てると最良の環境に恵まれ、家内安全・商売繁盛が約束されるといいます。そこで、萬華の立地を風水の観点で見てみます。台北盆地は、周囲の山々から流れこむ三つの河川の合流地点に生まれた湿地帯です。台北の東、鶯子嶺から流れくだる新店渓は、萬華付近で、萬華を包み込むように大きく蛇行し、大漢渓と合流して淡水河となり、さらに九份から流れくだる基隆河と合流して、北西の台湾海峡に注いでいます。龍山寺が建てられた萬華は、東の山々から来た生命エネルギー(龍)を、大きく蛇行した新店渓の河の流れで受けとめており、気の力が強く、幸福を呼ぶ場所である「龍穴」になっているように見えます。<宇宙から見た台北周辺>私が台北で最初に出会った、龍山寺の屋根の上を飛ぶ龍は、台北の周囲の山々から流れくだってきた生命エネルギーが地下から噴きあげ、形象化したものだといえます。あんなにもたくさんの龍の装飾が、寺院のあちこちに施されている理由が、なんとなく理解できたような気がします。
2009.08.02
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2009年6月7日から10日まで台湾の首都・台北に滞在しました。韓国が地理的に近くても心理的に遠い国と感じられたのに対して、台湾は地理的にも心理的にも近い国と感じられました。4日間の台北滞在のなかで、私の心をとらえたものを紹介します。私が台北の國立故宮博物院を訪れたのは、6月8日(月)の午後でした。南国の日差しが照りつけるなか、白亜の大理石の階段をのぼり、やしの木がゆれる、宮殿のような建物に入りました。故宮博物院が台北にあることを知ったのは、大学で中国絵画史を受講したときでした。范寛の水墨画「谿山行旅」の所蔵が故宮博物院となっていたので、北京にあると思ったのですが、調べると、台北にあったのです。なぜ中国五千年の文物が台北にあるのでしょうか。1924年、清朝皇帝・溥儀が紫禁城を退却すると、中国国民党政権は、歴代宮廷所蔵の文物を整理し、公開しました。これが故宮博物院の始まりです。1932年、日本軍が中国大陸に侵攻すると、文物の安全な保管のため、名品を選出して箱に詰め、不測の事態に備えました。翌年2月、第一陣の文物が上海に運んだのを皮切りに、計5回にわたって19557箱の文物を南方に送りました。1936年12月には上海から南京に移送し、さらに巴県、峨眉、楽山に移送し、文物はようやく一息つくことができました。1945年、日本軍が降伏すると、文物を重慶に運び、1947年には水路で南京に運びました。1948年、毛沢東率いる中国人民解放軍が全面反攻を開始すると、蒋介石率いる国民党政権は、3回にわけて2972箱を台湾に移送しました。これは南方に運ばれた文物の4分の1ですが、その多くが名品でした。1949年12月9日、国民党政権は、首都を台北に移しました。国民党政権が最後まで、歴代宮廷文物の所蔵にこだわったのは、国民党政権が中国の唯一合法的な政府であることの根拠とするためでした。こうして、歴代宮廷所蔵の文物は、北京と台北に分かれて所蔵されることになったのです。2009年6月8日の國立故宮博物院には、残念ながら、范寛「谿山行旅」は展示されていませんでした。人気の「翠玉白菜」をはじめ、古代から清代までの玉、銅器、陶磁器、書画を見たあとで、私の心をとらえたのは企画展「意 陳其寛(チェン・チクワン)90記念展」(2009年6月2日~8月31日)でした。その作品は、現代の水墨画と呼ぶにふさわしい感覚に満ちあふれていました。こんな画家がいたのですね。しかも、中国美術史を一覧できる博物院の一室で、個展を開催するというところに、中国美術の流れを汲んでいるという自負が感じられます。ふたつの作品の分析を試みてみます。<深遠>まず「深遠」(1979 紙本水墨着色 62cm×62cm)。画家は、緑色の観音開きの扉のついた、西向きの大きな窓のある家に住んでいます。家の床はフローリングで、窓の近くでは白い猫が眠っています。天井からは鳥籠が吊るされ、緑色のインコが飛び跳ねています。窓には、風通しの良いレースのカーテンがかけられています。窓辺には、大きな水晶球が置かれていて、その水晶球に部屋の中と外の景色が反映しています。部屋の中には、洒落たデザインの家具が置かれ、家具の上には、見事な枝ぶりの盆栽や大きな金魚鉢が置かれていて、金魚鉢の蓮根からは茎が長くのびて、蓮の花が咲いています。部屋の外には、運河があり、1艘の船が目の前を通りすぎようとしています。太鼓橋がかかり、そのむこうの海には、夕日が沈もうとしています。陳其寛の空間表現の特色は、この水晶球に部屋の中と外の景色を複雑に描きこんだところにあります。同じモチーフを扱った「雙屏」(1992)では、六角形や円形に穴の開いた壁が重なり、その向こうに、水面に影が反映して六角形と円形の太鼓橋が見える、というように空間を表現しています。陳其寛は、1921年、北京生まれ。幼少期に父親が家庭教師を招き、四書五経と書法(篆隸楷行草)を学びました。その青少年期は日中戦争期にあたり、戦乱を経て、陳一家は国民政府とともに重慶へと移りました。陳其寛は戦時中、重慶の中央大学建築学部に学んだ後、1948年に米国へ留学。1949年にスタンフォード市役所の設計で第1位を受賞するなど、西洋の観念と技術に中国的な要素を取り入れて新しい創造を生み出し、注目を集めました。1951年にはウォルター・グロピウスの建築事務所に招かれ、同時にマサチューセッツ理工学院で教鞭をとりました。1954年に、I・M・ペイに誘われて台湾の東海大学のキャンパス共同開発企画に携わったことが契機となり、1960年から台湾に定住し、東海大学に建築学部を開設しています。こうした建築家としての創作活動が、絵画での空間表現にも現れているのでしょう。中国の伝統的な山水画が近景・中景・遠景という3種類の景色を描き分けることで空間を表現していたのに対して、陳其寛は、水晶球や水面に映る景色や幾重にも重なる窓を通じて、新しい空間表現を達成しました。南フランスを中心に、地中海の明るい風景のなかで創作活動を展開したアンリ・マティスは、ひっそりと静かな室内と、開かれた窓から見えるどこまでも明るい戸外の風景というテーマを、若い時から晩年まで繰り返し描きました。陳其寛の空間表現は、アンリ・マティスと中国山水画の融合という印象を与えます。太鼓橋のむこうに沈む夕日、その方角は、陳其寛の生まれ故郷である中国大陸にほかなりません。陳其寛は、家の窓から中国大陸のことを思い、夕日が沈む海のかなたを見つめています。しかし、その風景を紙面に表現するとき、水晶球や水面に映る景色や幾重にも重なる窓を通じてしか、眺めることはできませんでした。そこに表現された新しい空間は、とりもなおさず、台湾海峡をはさんで対峙する2つの国家、中華民国と中華人民共和国の距離感を表現しているように、私には感じられます。<地球村>次に「地球村」(1998 紙本水墨着色)。天地186cm×左右32cmという縦に細長い作品は、上部に夕日と夕日を浴びてオレンジ色に輝く山々が描かれ、下部には三日月の青白い光に照らし出された山河が描かれていて、与謝蕪村(1716~1784)の俳句「菜の花や月は東に日は西に」を思いおこさせます。上に太陽、下に月という構図の作品は、「光陰過隙」(1996)、「徑欲曲」(1997)などにも見られますが、このような作品を生み出すきっかけとなった画家・陳其寛の体験を表現したのが「旋回」(1997)ではないでしょうか。陳其寛は、重慶の中央大学建築学部に在学中の1944年、インド・ビルマ戦区へ召集され、翻訳官の任務につきました。「旋回」は、飛行機で雲南省昆明からインドのレドへ向かう途中、気流を避けて旋回する機体の窓から見下ろした景観を表現した作品で、左上にオレンジ色の太陽が半分だけ描かれ、青く輝く山々の間を曲がりくねった道が画面の上から下へ抜けています。旋回する飛行機の窓から見た景観が、中国の山水画に宇宙を呼びこむきっかけとなったのです。もちろん、そこには、故郷の山河だけでなく、太陽や月と呼応する地球全体を表現したいという画家の思想が現れていることは言うまでもありません。そこには、台湾海峡をはさんで対峙するふたつの国家、中華民国と中華人民共和国の距離感を乗り越えたいという画家の願いがこめられているように、私には感じられます。やしの木がゆれる南国の博物館で、遠く北京の宮殿に伝えられてきた文物を見るという行為は、やはり不自然な感覚が残ります。その不自然さは、大陸と台湾との政治的な距離感からやってくることを、陳其寛の絵画が教えてくれたように思います。陳其寛の絵画は、大陸と台湾の距離をこえようとするものであり、その絵画にふれることで、私はようやく納得し、國立故宮博物院を後にすることができました。
2009.07.20
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1968年の京都。高校2年生の松山康介(塩谷瞬)は、日頃からケンカの絶えない朝鮮高校に親善サッカーの試合を申し込みに行く羽目になるのですが、音楽室でフルートを吹く女子高生リ・キョンジャ(沢尻エリカ)に一目惚れ。キョンジャに近づくために、彼女が奏でた歌「イムジン河」を覚え、朝鮮語を覚えようとします。イムジン河作詞:朴 世永 作曲:高 宗漢 訳詞:松山 猛♪イムジン河 水きよく とうとうと流る♪水鳥 自由に 群がり 飛び交うよ♪我が祖国 南の地 想いははるか♪イムジン河 水きよく とうとうと流る♪北の大地から 南の空へ♪飛び行く鳥よ 自由の使者よ♪誰が祖国を ふたつに 分けてしまったの♪誰が祖国を 分けてしまったの♪イムジンガン マルグンムルン フルロフルロ ネリ ゴ♪ムッセドゥル チャユロイ ノムナドゥルミョ ナル ゴンマン♪ネゴヒャン ナムチョクタン カゴパド モッカニ♪イムジンガン マルグンムルン フルロフルロ ネリ ゴ♪イムジン河 空とおく 虹よかかっておくれ♪河よ想いを 伝えておくれ♪ふるさとを いつまでも 忘れはしない♪イムジン河 水きよく とうとうと流るそのどこかものがなしいメロディーは、康介のたましいの純情を射ぬきました。人間は今のところ、国の境をこえられないけれど、水鳥だけは自由に空を舞い、人間が作ってしまった境界線にとらわれずに生きているとうたうこの歌は、北と南に引きさかれた朝鮮の人たちが、いつの日か平和な日を迎えられ、自由に行き来できることを願って作られたそうです。(日本語の2番、3番の歌詞は、北朝鮮に帰って、もう会えない友だちや、当時、世界で起きていた相互不信を頭に描いて、いつの日か、夢に見た日がやってくると信じて、松山猛さんが、詩を書きました)一方、キョンジャの兄リ・アンソン(高岡蒼佑)は、朝鮮高校の番長で、日本人の高校生との間でのケンカが絶えません。彼の夢は、北朝鮮へ帰国して、サッカーの選手となり、北朝鮮代表としてワールドカップに出場すること。アンソンの彼女は、妊娠していますが、彼が北朝鮮へ帰る計画を立てていることを知って、子どものこと言い出せないでいます。あるとき、親友のチェドキが日本人とのケンカで命を落としてしまい、アンソンは悲しみのなかで、仲間を募り、かたき討ちに出かけます……。「パッチギ」とは、朝鮮語で「突き破る、乗り越える」という意味で、ケンカ用語で「頭突き」という意味もあるそうです。ケンカのシーンで、朝鮮高校生は、頭突きを連発し、親友のかたき討ちをするシーンで、アンソンは「これがパッチギや!」と叫びます。映画は、日本社会の朝鮮人差別の中で、将来の夢を描けず、屈折した青春をおくっている在日朝鮮人の高校生たちの日々の生活と、日本人として、彼らとの交流を求めていく康介の姿を描いていきます。キョンジャを演ずる沢尻エリカさんは、朝鮮高校生としてチマチョゴリを着ているときも、母親の酒場を手伝っているときも、美しく、輝いています。彼女との交際を求めて、康介が近づいてきたとき、「私と康ちゃんがず~っとつきあって、もし結婚するなんてことになったら、朝鮮人になれる?」と康介に問います。康介は、その問いに答えられず、一時はギターを叩き壊しますが、その後の行動で、深く決意していることを示します。兄アンソンがつねに感情を表に出して行動するタイプであるのに対して、沢尻エリカさん演ずるキョンジャは、感情を内に秘めて、控えめな行動をとります。けれど、控え目ななかにも、一本筋が通った強さを感じさせますし、康介に対しては、「もし結婚したら、朝鮮人になれる?」という決定的な言葉を発します。そんな沢尻エリカさんの、控えめでありながら、強く、美しく輝いている演技が印象的な映画です。その演技が評価されて、沢尻さんは数々の賞を受賞しました。ちなみに、この映画の続編「パッチギ!LOVE&PEACE」にも、沢尻エリカさんの起用を予定していましたが、本人に固辞され、在日コリアンの女優・中村ゆりさんが演じることになったそうです。私が通った横浜の小学校の近くにも朝鮮学校がありました。通学するバスのなかで、チマチョゴリを着た女生徒と一緒になり、私はその服が好きで、いつか着てみたいなと思っていました。あるとき、私は放課後、いつも女生徒が歩いていく方向へ歩いていきました。しばらく行くと、深い緑の木々のなかに、学校の門があるのを見つけました。私は、おそるおそる、その門のほうに近づき、道の反対側から、門のなかをのぞき、耳をすませました。そのときの私が、なにを見て、どんな音を聴いたのか、いまとなっては思い出せませんが、見てはいけないものを見たような気がして、急ぎ足で、いま来た道をもどり、バスに乗り、家に帰りました。これが、私の、韓半島の人と文化との最初の出会い。この映画と同じ1968年ごろのことです。その後、私は、その朝鮮学校に、一度も近づいたことはありません。ですから、この映画の原作者のひとりである松山猛さんが当時、朝鮮学校の生徒たちと交流していたなんて、夢のように感じます。松山さんは、著書「少年Mのイムジン河」(2002年)のなかで、当時、仲よしだった2級先輩の京子さんのことを紹介しています。(京子さんは)その年の弁論大会で一等賞をとった人でした。彼女は当時まだ続いていた民族差別について語り、その悲しさを切々とうったえて受賞したのです。彼女も朝鮮系の人で、小さなころから民族がちがうことで、いわれのないイジメを受け、しかしそれをはね返して、人間どうしは理解し合うことによって、表面的なちがいを乗りこえ、仲よく生きられると主張したのでした。京子さんとその家族は、当時さかんだった北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国への、帰還運動のなか、第74次帰国船に乗り、日本とは国交のない国へ帰っていきました。京子から明姫(ミョンヒ)と朝鮮名に戻し、父親は成功していた商売を知人にゆずって、たくさんの財産を祖国へのおみやげにしたのでした。帰国した京子さんからは、最初は手紙も来ていましたが、それもいつしかとだえてしまい、松山さんはそれまでにない孤独を感じたと書いています。松山さんの著書「少年Mのイムジン河」を読んで、在日コリアンの問題を正面から扱う映画の制作を決意したプロデューサーの李鳳宇(リ・ボンウ)さんは、著書「パッチギ!的」(2007年)のなかで、京都での青春時代を回想し、撮影に協力した同級生たちの姿を紹介しています。在日の数多くの無縁仏や、本国に墓地を作ることのできない人々を弔っている万寿寺を預かる、幼馴染みの尹青眼(ユン・セイガン)和尚に撮影協力を申し入れたとき、「ここに眠る同胞たちの恨を晴らすような映画ができるなら、喜んで協力します」と言われた後の「アッスも死んだんだよ、先月」という言葉に、李さんは衝撃を受けます。「アッスとは金泳貴(キム・ヨンギ)の渾名で、中学生の同級生だった。中学を出て何度か鑑別所を行き来して、市内でウドン屋台を引っ張っていたが、酒癖が災いして店もダメになり、晩年は肝臓を悪くして、一人寂しく死んで行った。数週間が経過したある日、隣人に発見された。アッスだけじゃない。チェガルも死んだ、ション・チョルも死んだ、チョン・リョンギも死んだ、誰と誰が行方不明で、誰がヤクザになって刑務所に入った、そんな話を二人で延々としては溜め息をついた」「アッスだって、もっと真っ当な人生を存分に謳歌したかっただろう。報われない人生、そして思うような人生を送れないまま死んでいった、または朝鮮に帰国して行った同級生たちに対する哀れみと後悔で、胸が締めつけられる思いだった。差別なんて簡単な言葉で片づけたくはない。彼らには勇気がなかった、となじることも違う。京都朝鮮第一小学校を卒業した男子生徒25人のうち、すでに7人が死亡してしまったし、4人は行方が分からない。この事実をどう理解すればいいのか、僕にも分からない。今回作る映画は、彼らに対する鎮魂歌になるべきではないだろうか。そしてこの映画を見る観客に、彼らが生きた、そしてこの社会の片隅でいまも生きている証を提示しようと、静かに心の中で誓った」「京都での撮影は、建て前上は役所が第一優先だが、本当は地元ヤクザの許可が不可欠であり、撮影の敷地を有する「お寺さん」のイエスがないと何も進まない。今回の撮影はそれに加え、朝鮮総連や冷ややかな住民も含まれるので、僕らは八方塞がりの中で撮影を敢行する羽目になった。そんな難しい撮影を突破する支えとなってくれたのは、映画にモデルとなって登場する僕の同級生たちだった。パク・チョンスは独自のネットワークを駆使して地元ヤクザとの折衝を一手に引き受けてくれたし、リン・ソジャは3日に1回の割合でメロンパンを現場に届けてくれ、スタッフの気分を和ませてくれた。尹青眼和尚は、暇を見つけては現場に張り付いて、当時の在日朝鮮人の佇まいや口調、生活習慣などを事細かに指導してくれた。撮影が進むにつれ、同級生が親戚を連れて、またエキストラが家族を連れ、どんどんその数が増え続ける現象は、地元在日の人たちの関心の高さを証明していた。そんな状況はスタッフに煩わしさを与える反面、八方塞がりの現場で、心強い支えになったことも確かだ」日本と韓半島との間に橋を架けようとした松山猛さんの思いと、報われない人生を送った同級生たちへの李鳳宇さんの鎮魂の思いが重なり、「パッチギ!」のドラマは、私たちに引き継がれていきます。『パッチギ!』予告編
2009.04.15
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ノンフィクションライター田山絵理さんの『飯島愛 孤独死の真相』(2009年3月)は、飯島愛さんがディスコ通いを始めた10代後半から、36歳で亡くなる寸前まで、付き合いのあった人たちから聞いた話をもとに、愛さんの人生を再構成しています。そのなかから、「二十歳の恋」に関する話を紹介します。スタイリストのカオリさん「愛ちゃんってよく恋の噂が立つけど、本当に愛した人って、1人だけなんだって。一途だよね~。AVも、その唯一愛した男のためにやってたんだって言ってた。彼のためなら自分の体も売れるんだって。DJをやっている人らしいわ。10代の頃からいままで、10年くらいずっとその人のことだけを愛してるって言ってた。東京の青山にあった『キング&クイーン』とかのディスコクラブに通い詰めてたのも、その彼に会うためだったんだって」当時の遊び仲間で後輩のキョウコさん「この頃の愛ちゃんは、女の子らしい印象が強かったですね。よほど彼に惚れ込んでいるんだってわかりました。当時、彼女は世田谷公園の近くの世田谷区三宿に住んでいて、私もよく遊びに行きました。彼もいて、幸せそうで、いつも仲良くしてたのを覚えています。どちらかと言えば、愛ちゃんのほうが尽くしてるって感じでした。彼女のそういう態度は見たことがなかったから、もしかしたら結婚までしちゃうんじゃないかって、共通の友だちと盛り上がったことがあるほどです」ディスコ関係者「愛ちゃんはディスコの黒服をはじめ、DJや客など、何人かと付き合っていた記憶があります。当時、ディスコに出入りしている男も女も、誰もがそんな感じだったから、特別驚いたりはしなかったですね。ただ逆に、ヤナギサワさんにベッタリくっついてて、飲み食いするのも全部、愛ちゃんがお金を出してるのを知ってびっくりしました。ヤナギサワさんはモテましたから、他にも付き合っている女の子がいっぱいいて、それであの貢ぎ方ですから、かなり惚れ込んでいたんじゃないですかね。2人でアメリカに行く計画を立ててるって聞いたこともありますよ」元タレントのケイコさん「料理は上手でしたね。あるとき、愛ちゃんが煮物を作ってくれたことがありました。とても美味しくて、母の味のようでした。なんて家庭的な子なんだろうと思いましたね」愛の所属事務所だったオフィスレオの関係者「当時、AV業界を引退しようと考えていた後藤えり子本人が、わざわざスカウトしに出向き、飯島に話をつけたと聞いています。そして、所属していた芸能プロダクションに『事務所を辞める自分の代わりに』と、紹介したわけです。飯島はそのとき多額の借金(注:ヤナギサワの借金)を負っていると自分で語っており、その借金返済のために、まとまったお金が必要で、それがAVに出る目的だと芸能プロダクションの社長に言っていたようです。男のためだということは一切言ったことはなかったですよ。とにかく自分に借金がある、それを全部支払いたいということでした。飯島が19歳の頃です。正月前に彼とニューヨークに行くと言ってました。それで契約金1000万円のなかから、前金で200万円を受け取って、彼女は渡航したんです。それで年が明けてすぐにロケ。最初のロケはバリでした。バリに行くときに、彼氏を同伴させていたらしいことがあとになってわかりました。バリに向かう飛行機の中で、何度も何度も後ろの席に合図を送っているんです。初めは二枚目の男がいて、ナンパというか誘いをかけているのかなと思いましたが、その男が同じホテルにいたんです。それで、もしかすると彼氏かなと思いました。ロケが終わって帰国するまで、しばらく時間があったんですが、ずっとその男の部屋に入り浸りでしたよ。それから次がハワイのロケでした。そのときも、気づくとバリで見た二枚目の男が宿泊先の高級ホテル『ハレクラニ』にいたんです。体格がよくて、彼女と並んで歩くとボディーガードのように見えました。真ん中分けのロン毛で、顔は徳永英明に似ていました。彼の飛行機のチケットやホテル代は、彼女が全部もっていたようですね。チェックアウトのときに、愛がフロントで支払いをしていたんです。彼女の分は事務所がすでに支払っていますから、となると彼女が彼に貢いでいたということですね。それ以降のロケでも、ずっと同じことが続いていました」オフィスレオの関係者「愛ちゃんと事務所の社長が車で移動しているときのことです。愛ちゃんが原宿で車を降ろしてほしいと言うので降ろしたら、駅前に男が立っていて、車を降りた愛ちゃんがその男を連れて戻ってきました。そして、『いま、付き合ってる彼です』って紹介したんです。男のほうは、無愛想な態度で軽く頭を下げたくらいでした。バリとかハワイロケのときに見た男だなとすぐわかりましたよ。特別驚きはしませんでしたが、驚いたのは愛ちゃんのその後の態度です。翌日、事務所に訪れた彼女は、社長室で深々と頭を下げて謝ったんです。『社長ごめんなさい! 彼、基本的にはちゃんとしてるんですけど、きっと昨日は緊張したのかもしれません。私が稼いだお金で彼を食べさせてるのに、その私は社長のお陰で食べていられるのに、その社長にきちんと挨拶もできないなんて、本当にすみませんでした。彼に礼儀をちゃんと教えますから』と何度も頭を下げたんですよ。そのことがあってから彼のことはオープンになって、ことあるごとに結婚して彼の子供を産みたいと言うまでになっていました。知っているだけでも、かれこれ10年はその男と付き合っていましたね。うちを辞めたのが26歳か27歳の頃ですから。結婚のことはかなり本気だったと思いますね」オフィスレオの幹部「愛は、A○女優をしていた6年間、まったく自分の弱さを見せたことがありません。どんな厳しいことがあっても、じゃあやってみようよ、という感じでチャレンジするんです。しかもへこたれない。そんな愛が、オフィスレオに所属して4年目の冬頃だったと思いますが、真夜中に泣いて電話をかけてきたことがありました。『辛くて、辛くて、私どうしたらいいかわからない』と言うんです。電話の向こう側で号泣して止まりません。彼氏とのトラブルだなとピンときました。話してみろよと私が言うと、しばらく泣いていましたが、『すみませんでした、大丈夫です』と言って電話を切りました。本当は話したいことがたくさんあったんだと思います。でも、他人には弱さを見せられない彼女の性格が止めたんでしょうね」ヤナギサワのDJ仲間だったエンドウさん「ヤナギサワくんと愛ちゃんは、いつも一緒って感じでした。愛ちゃんがベタ惚れしてるってわかるくらい入れ込んでましたね。かなりお金も貢いでるみたいだったし、青山キング&クイーンには、愛ちゃんが買った高価なDJ用の音楽機器が置いてありましたね。もちろんヤナギサワくんに使わせるためですよね。店ではそのことが話題になっていたみたいです。2人の仲がよかった時期は、ヤナギサワくんも愛ちゃんの気持ちに応えようと真面目にやってました。ニューヨークには音楽修行に頻繁に行っていましたし。日本では一部の人にディスコのDJって知られるくらいでしたけど、向こうではそこそこ名前も知られるようになってました。愛ちゃんがAVを辞める少し前には、2人は大喧嘩をすることが多かったんです。でもそれが収まれば、それまでの喧嘩が嘘のように『愛とそろそろ結婚しようと思ってるんだ』と、うれしそうに言ってたのを覚えてます」中堅プロダクション社長「愛ちゃんはDJの彼と結婚したいとか、そろそろ結婚するとか言うんですが、その言葉とは裏腹に、複数の芸能人と交際しているのを耳にするようになりました。彼の浮気が治らないと悩んだ末、仕返しというわけじゃないんだろうけど、彼女は自分の居場所を探していたんじゃないかな」愛から相談を受けたヤマダさん「愛さんが仕事で忙しくなったのを理由に、ヤナギサワさんは出ていったそうです。ただ、その少し前からヤナギサワさんは外で借金を作るようになっていたらしく、外で借りるくらいならと、愛さんはかなりのお金を貸していました。それも別れる原因のひとつだったみたいです。それで泥沼の喧嘩になったときに、『もしも別れるなら貸した分だけでも返してね』と愛さんが言ったようでした。もちろん、これは彼女の本心ではないんですが……。愛さんの言葉を聞いたヤナギサワさんは、借金の話もそのままに、翌日、何も言わずに急に姿を消したそうなんです。半月ほど戻らなかったので、愛さんは彼の実家にも出向いたと言っていました。そこにもヤナギサワさんはいなくて、愛さんはそれから仕事を休んで心当たりの場所を何日も探し回って、やっとニューヨークに行ったらしいという情報をつかんだようでした」飯島愛インタビュー『コスモポリタン』2001年6月号「失恋したあと、ですか? ひとことで言えば、もう死んでもいいやって思うことがしょっちゅうあります。もう死にたいとか、もう長生きしたくないとか。でも死ねない。(中略)そういう意味では、失恋した直後に本を書き出したことは必然だったのかもしれません。ほかに没頭することができて、彼を失った喪失感に長く苦しまなくてすみましたから」ニューヨークのヤナギサワからの手紙「元気にしていますか、愛の書いた本(注:プラトニック・セックス)を昨日買って読みました。おめでとう」ヤナギサワのDJ仲間だったエンドウさん「いつだったか、愛ちゃんがヤナギサワくんから連絡があったと喜んでいたんです。やっと居場所が見つかったから、また連絡が取れると言っていました。すぐにでもニューヨークに飛びたいけれど、スケジュールが空けられないから悩んでいるようでしたね。ただ昔のように恋人関係に戻ることはなかったみたいです。愛ちゃんもああ見えて、相手との距離を測るタイプだから、ヤナギサワくんが失踪したことや、ごたごたしたことが心に残っていたんじゃないのかな。彼の気持ちをこれ以上傷つけないように、たぶんヤナギサワくんから歩み寄ってくれるのを待ってたんじゃないでしょうかね。愛ちゃんはいろいろな噂がある子だけど、ああ見えて、真面目に恋はしてたと思いますよ」当時を知る友人「ヤナギサワが死んだのは彼女にとってかなりのダメージだったと思いますよ。別れてからも連絡がつくようになってからは、毎週のように愛ちゃんと彼は何かと連絡をとっていましたから。2人は本当に死ぬ直前まで連絡し合ってたんです。だから、彼が死んだという最悪なニュースは、愛ちゃんをかなり憔悴させました。たぶん何も考えられない感じだったんでしょう。そのすぐあと、テレビに出ている彼女を見て、死んだような顔で言葉数も少なくて、共演者にそんな様子を指摘されて、『寝てないからぼんやりしてる』と無理に笑ってごまかしてたのが痛々しかったことを覚えています」ヤナギサワを知る六本木のクラブオーナー氏「僕は今回、愛ちゃんが死亡した際、薬物中毒で死亡したという当初の報道を見て、ヤナギサワと同じ死因だったので、言葉にならないほど驚いたというのが率直なところです。愛ちゃんは彼を本当に愛していましたから、彼を追っていったんだな、と思いましたね」
2009.04.01
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飯島愛さんの『PLATONIC SEX』(2000年10月)を読んだ私の心に余韻を残しているのは、DJ敏之くんとの出会いと別れの場面です。敏之くんは、私たちがよく通っていたディスコのDJで、本場ニューヨークで活躍し、日本のクラブシーンに新しい風を吹き込みたいという夢を持っていた。彼と私は直接話したことはほとんどなかった。智恵美や順子のつきあっていた男だったから、面倒くさいことになるのが嫌だったからだ。だから、彼が、智恵美を通して私にバースデイのメッセージをくれたのは、ちょっとした驚きだった。私はドキドキが収まらないうちに、電話をした。彼の部屋には電話が鳴り響いていたと思う。留守番電話のメッセージに切り替わった。「愛です。誕生日のメッセージ、ありがとう。うれしかった。電話をください」自分の電話番号を残し、受話器を置いた。好きな男からのコールバックを待つ時間は、へんにソワソワする。絶対自信があっても、それは同じ。相手を好きでいればいるほど、期待感と不安感は募る。杞憂は喜びに変わった。彼からすぐに電話があったのだ。「会おうよ」と彼の包み込むような声に頷いて、私たちは一緒にご飯を食べに行った。ずっと心の中で憧れていた敏之くんとのデートは、ちょっとした幸せだった。幸福は急激に深まることもある。敏之くんは、その日から自分のマンションに帰らなかった。「一緒にいよう」そういいながら、彼は私のひざ枕で私の表情を覗きながら毎日のように甘えてみせた。くたくたになって撮影から帰ってくると、部屋には明かりがついていて、大好きなトシちゃんが出迎えてくれる。彼との生活は、私のすべてを癒してくれた。(当時、飯島愛さんは、AVデビュー後、テレビ東京系のお色気番組『ギルガメッシュないと』にレギュラー出演し、写真集やグラビアの撮影も入ってきた。3カ月のAV出演契約が切れると、「もう三カ月だけ働いたら、前回の倍(2000万円)は最低保証するよ」と言われ、愛さんは、彼に相談せず、契約延長の話を許諾してしまいます。)街は冬にさしかかろうとしていた。その日のテレビの収録を終え、いつもの見慣れた道をいつものように車で帰った。マンションの鍵を開け、玄関に座り込む。「ただいま」部屋の奥の彼に聞こえるように声をかけながら、ブーツを足から外した。コートも脱ぐと、ちょっと体が軽くなる。軽い足どりのまま部屋に入ると、出かけているのか彼はいない。部屋の中を歩きかけて、私は体を固まらせた。いつもあるものがない! 彼の荷物がすっかりなくなっていたのだ。彼はどこかへ行ってしまったのだ。ふたりで一緒に生活していた温かい空間が、冷たい空間に一変していた。私は、倒れ込むように泣いた。子どものように声を出して泣きわめいた。三日たっても、一週間が過ぎても、彼は帰って来なかった。私は、毎日のように泣いた。生放送もばっくれた。つけたテレビからは司会者が「愛ちゃん、怒らないからおいで」と呼びかけていた。マネージャーからはひっきりなしに電話がかかってきたが、取ることもできない。悲しくてもお腹は減る。作る気力もない。私はピザ屋に出前を頼んだ。しかし、到着したピザを受け取るのにドアを全開にすると、「そばにいる」というマネージャーに踏み込まれるかもしれない。チェーンロックをしたままドアをほんの10センチだけ開けて、ピザを縦にして受け取った。リビングに戻って箱を開くと、ピザは片方に寄って、見るも無残な姿になっていた。ふたりは、すれ違いの生活の中で、交換日記をつけていた。1991.11.4 愛今日からトシちゃんと二人で暮らすの。愛ちんが男の人と一緒に生活したいと思ったの、本当に久しぶり。まだ、お互いに仲よくなって一カ月ほど。でも愛は好きで好きで……、一秒だってあなたを離したくない。この先色々なトシちゃんの一面に惹かれて気持ちは高まる一方でしょうね。トシちゃん、愛はずっとずっと、あなたを愛し続けます。寂しい思いや辛い思い、させないでくださいね。愛だけのトシちゃんでいてください。1991.11.11 敏之無職を初めてやってしまって数カ月。早く落ち着いて仕事をしたい。いろいろ迷惑をかけて、愛ちん、ごめんなさい。早くN・Yに留学して愛と向こうで生活がしたい。それまで頑張って働いて金を貯めたいです。今は何かと生活が落ち着かないけれど、ちゃんと将来を考えていこうと思う。愛ちんと結婚するもんね。ぼくは愛ちんを愛しています。ぼくの愛ちん。1992.1.18 愛最近お仕事が大変で大好きなトシちゃんと過ごす時間がほとんどありません。忙しいです。But トシちゃんはいつもお家の中でおかたずけをして待っていてくれます。ありがとう。愛ちんの好きになったトシちゃんは、優しくて、とってもいい人で……。本当に幸せです。絶対に絶対にトシちゃんだけは、愛ちん、誰にも渡さないよ。愛ちんの大切な大切なトシちゃん。最近……ごめんね。1992.1.19 敏之全然最近一緒にいる気がしない。起きて話をしている時間なんかほんの一、二時間。仕事だからしかたないけど、寂しい。今までずっと何をするのも一緒だったからなおさらだけど、離れたくないし、離したくない。早く帰ってきてちょうだい。イヤだ。寂しい。一人でメシを食うのは、もうイヤだ。最近一緒にご飯も食べてない。早く、オレ一人の愛になってほしい。寂しいよ、愛ちん。1992.2.17 愛お願い、そばにいてください。別れる方向に考えないでください。今も、これからも、あなたがいない生活なんて考えられない。考えたくないよ。愛のしてることは彼女として最低なことで、何もいえる立場ではありませんね。でもトシちゃんのこと思う気持ちや、二人で過ごす時間は普通の女の子だし、誰にも負けないくらい愛してる。忙しくて、彼女としてあなたにしてあげられないことたくさんあるけど。でも一人で寂しい時間を与えてしまっている分、休みのときは二人で楽しくできるよう、今まで以上に努力しようと思うの。まだ知り合って三カ月ほどだけど、色々な思い出いっぱいあって……。もうトシちゃんのいない生活は本当にイヤです。どうしていいかわからないもの。せっかく本当に大切に思える、大好きな人ができたのに……。優しくされても、そばにいてくれても、今までは不安だった。幸せな分、いつこの幸せがくずれるのか、考えると不安だった。だからもう先が見えそうで。トシちゃんが頭の中から離れていかないよ。絶対にイヤ、別れない。愛はトシちゃん以外、もう一生こんなに人を愛せないから。ずっとずっと愛し続けてください。1992.3.18 敏之ゴメン、オレが間違ってた。今の仕事、好きでやってるわけないよね。それなのにいつも自分の感情押しつけて……。仕事でも何だかんだいわれて、しかもオレのことで……。家に帰ってきてもオレにいわれてイヤだったんだろうね。ごめん。仕事をしないのも、オレが結局愛に甘えていた部分と自分で逃げていた部分が正直あったと思う。早くオレの方もはっきりしないとね。信じてください。浮気なんかしてないし、愛してるし、将来もよく考えるから。1992.6.16 愛大好きなトシちゃんの子どもだから、産みたい。すごく悲しいね。でも、自分たちには今、子どもを産んで育てることができません。無責任な愛たちが悪いの。絶対に産みたかったの。もう二度とこんなこと、ないようにしようね。将来、New Yorkで生活して、何かを得て、そしたら今度は愛が妊娠したことを喜んで下さいね。今回の子どもの分も大切に育ててあげようね、トシちゃん。愛にとっても子どもにとっても、いいパパさんになってください。これからも愛だけの大切なトシちゃんでいてね。もうすぐ、毎日一緒にいれるよ。1992.6.18 敏之愛ちんごめんね。いつも謝ってばかりだね。何て言っていいのか、悲しいし、かわいそうだし、オレが無責任だった、真剣に反省している。今は何て言えばいいのかわからない。子どもにはごめんなさいとしか言えない。今度そのときが来て、子どもが産まれても、もう一人生きているはずだったことを忘れずに生きていこうね。いつもお前にだけつらい思いをさせてしまって本当に情けない。オレができること、一生かけてつぐないます。でもオレも本当に欲しかったんだよ。1992.6.30 愛ただいま、トシちゃん。手術終わって帰ってきました。愛は元気だよ。もう本当に、赤ちゃん、殺してしまった。悲しいね。ごめんね、赤ちゃん。産んであげられなかった私をうらんでください。トシちゃん、愛はだいじょうぶ。だから赤ちゃんにだけ、申し訳ないとあやまってください。1992.9.30 敏之寂しいのは相変わらず。ここ何日かだけど、小さなささいなケンカ、多いね。相変わらずオレもぐちぐちしちゃってるし、たまに不安になってしまうんだよね。愛が冷たいとね。男だからそんな小さいこと気にするなって思ってるんだけど、いってしまうんだ。愛とつき合い始めてから、本当のオレの性格って何なんだろうって思うようになってきた。強いのか、弱いのか、優しいのか、冷たいのか。今まで好き勝手やって人を傷つけてきた。ばちがあたってるくらいだったら楽だけど。もう、昨日までのイヤなことは忘れよう。もっと男らしく、大人になって愛を包んであげよう。愛のいいところも悪いところもすべてわかったうえで、愛していよう。一日一日平凡でもいい。もっと二人でいる時間を大切にしてあげよう。愛ちん、もっとオレ、大人になるからずっと一緒にいて。年をとって楽しかった、幸せだったといえるようなつき合いをしようね。オレのそばから絶対に離れていかないでね、愛してるよ、愛ちん。彼から電話はなかった。彼はどこに行ってしまったのか、何をしているのか。まったく情報も入ってこない。私は仕事を休み続けた。それでも二週間もたつと体も心も慣れてくる。ようやく仕事に復帰し始めた。さらに、一週間がたち、二週間がたち、一カ月を過ぎる頃には、少しずつあきらめを覚えていた。泣き出すと涙が止まらないけど、泣く涙をこらえるということを、私は学習した。今までは、彼に対して負い目があった分、友達とのつき合いも仕事上の人づき合いもせずにまっすぐ帰宅していた。でも、もう待ってくれる彼はいない。早く帰っても家の明かりはついていない。私は家に帰り着く前に、友達に電話し、街に繰り出した。派手な服を着込み、大勢とバカ騒ぎをする。今までの私がさんざんやってきたことだ。一、二年、連絡をとらなかった男友達とも、恋人と別れたことを告げ、連絡をとるようになった。なぜ別れたかなどを話していると、やはり涙声が電話の向こうに聞こえたのか、男友達が心配をして、話を聞いてあげるからと、私の自宅まで夜中来てくれる。私は、今まで恋人ができたからといって友達を粗末にしていたことを申し訳ないと思った。でもそれは勘違いだった。男友達は、私の彼が出ていったことを知ると、当然のように覆い被さってきた。一瞬、信じられないと相手を疑ったけれど、彼に一途だった私が、そんなことを忘れていただけで、私は、そういう環境の中にいたことを思い出した。今までこうやって生きてきたのだ。恋人とのわずかな幸せな時間が純粋な心を与えてくれていただけだ。そう気づくと、私は反抗するかわりに、相手の舌を強く吸い、後ろに手を回した。そのまま体を沈め、自分のあえぎ声に寂しさを紛らわせた。男友達と身体を重ねあわせることで、彼の占めていた場所を埋めようとしていた。でも 埋まらない。違う。埋まらない。
2009.03.01
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クリスマス・イヴの夜、インターネットで飯島愛ちゃんが亡くなったのを知り、泣いてしまいました。愛ちゃんの青春時代をテレビドラマ化した「PLATONIC SEX」を見たときは、他人事とは思えませんでした。私も、居場所がなくなったときに、水商売に拾われて、「スージー」として、なんとか命をつないできたので。愛ちゃんがA○女優であったことを隠さずに、芸能界で活躍したことは立派でした。でも、脚をひっぱる人もたくさんいたはず。2007年3月の芸能界引退の報道に接して、「ず~っと戦い続けてきて、疲れちゃったんだなぁ……」と思いました。大きな荷物を背負ってきた愛ちゃんの困難がしのばれました。「愛ちゃん、よくがんばったね、おつかれさま」「イエスさま、愛ちゃんを救ってくださいね」と祈り、「きよしこの夜」を歌いました。1月8日の夕刊フジに高須基仁さんが「A○女優の希望の星だった飯島愛」という文章を書かれました。私が感じたことと同じことが書かれています。楽天ブログ「高須基仁の“百花繚乱”独り言」に、その記事が掲載されているので、ここに書き写して、愛ちゃんのご冥福をお祈り申し上げますm(_ _)m高須基仁 人たらしの極意A○女優の希望の星だった飯島愛 昨年(注:2008年)12月24日に自宅で遺体で見つかった飯島愛について言いたいことがある。 飯島の訃報が流れると、私のところに16人のA○女優から電話がかかってきた。皆、号泣していた。なぜなら、AVを仕事としている彼女たちにとって、飯島は希望だからだ。飯島の半自伝的小説「PLATONIC SEX」は彼女たちのバイブルなのだ。 私と彼女が最初に会ったのは、まだ彼女が18歳か19歳のころだったと思う。当時、AV界のトップ女優で、ピンクのキャデラックを乗り回すほどの勢いだった後藤えり子から「タカス君、いいと思わない?」と紹介された。 飯島に会った最初の印象は「目が全く笑わない18、19だな」。当時はバブルが全盛か、はじける直前。私も「ジュリアナ東京」のガラス張りのVIPルームで、「あの踊っている女を連れてこい」と言っていたものだったが、ジュリアナに踊りに来るような女たちの中でも、彼女は派手なタイプだった。 私が後押ししてAVデビューした飯島はグラビアが爆発的に売れ、テレビでもお色気番組「ギルガメッシュないと」、ドラマにも出演し、大手芸能事務所・ワタナベエンターテインメントに所属するタレントになった。 が、飯島は終生、差別の中にいた。私は、飯島には、4つの“憂鬱”があったと思う。 第1は、出身地の足立区で1988年に起きた同世代の少年たちによる女子高生コンクリート殺人事件と関わりがあったという噂。 第2は、未発表のAV映像が●ビデオとして流されてしまったこと。 第3は、「PLATONIC SEX」を出版した当時の編集関係者との恋愛。 そして第4が薬物だ。 私は年明けの3日に作家の宮崎学と会った際、宮崎が芸能界を引退する前の飯島と「サンデー・ジャポン」のCM中に交わしていた会話を聞いた。 飯島が薬物をやっていると察した宮崎が「飯島、やめろよな」と話しかけたら、飯島は「わかりますか」と言っていたという。 飯島がどんなクスリに手を出していたのかはわからない。が、薬物をやっていたのは間違いない。えぐるような差別の中では、そうやって戦っていかざるを得なかったのだ。 最後に飯島と話したのは、三浦和義が米国で自殺した直後だった。久しぶりに電話をかけてきた彼女は「三浦さんはなんで死んじゃったの?」と聞いてきた。私は「自殺だよ」と答え、「おい、飯島、お前は殺されたって死なねえ女なんだから、頑張れよ」と励ました。 本当に、そういう女だったと信じていた。三浦が死んだときの100倍、悲しかった。 繰り返すが、A○女優にとって、飯島愛は希望だ。憲法にも定められているが、どんな職業でも差別はあってはならない。少なくとも体を張って生きている女たちへの愛と礼賛を忘れないでほしい。(出版プロデューサー)P.S.愛ちゃん、スージーは完全復活しました。12月19日(金)の夜から、赤いオフショルダーの長袖ミニワンピース、黒のベルト、ピンクのストッキング、真っ赤なパンプス、赤い三角帽子というセクシーサンタの格好で、毎晩パーティを盛りあげています。一時期、拒絶反応が出ていたおじさまたちともチークを踊れるようになり、日曜日のパーティでは「スター・オブ・ザ・パーティ」賞をいただきました。スージーは、もう少し、がんばってみますね!その後、2月22日の静岡新聞日曜版にも、高須基仁さんが「飯島愛」について書かれましたので、ご紹介します。芸能通信簿飯島愛 唾は拭わなくても乾く 晩年の飯島愛を考える時、「唾(つば)を拭(ぬぐ)わざるもの自ずから乾かん…」という不退転の覚悟で、TVの世界で生きていたように思う。「人から唾をかけられたって、そのままに放っておいたらいい…。拭わなくても自然に乾くから…」。つまり、あらぬ中傷や風評に対し、柳に風のごとくに受け流し、自然体のまま生きよう…としていた。 1990年代の初めごろ、「Tバック」という斬新な下着のまま、土曜日の深夜テレビ「ギルガメッシュナイト」(テレビ東京系)に登場した飯島愛は、まだ当時、日陰の存在だった「A○女優」を生業(なりわい)にしていた。しかし、この番組を通じて「セクシータレント」という日向(ひなた)の存在にロンダリングされた。 この機を逃すことなく飯島は、一般の芸能人、コメンテーター、そして作家という「表舞台」を歩き始めた。その上、飯島的ロンダリング人生は、小説「プラトニック・セックス」(小学館刊)で赤裸々にし、「A○女優」という職業も、世間に広く認知されるようになった。 3月1日、東京・芝公園にある高級ホテルで、飯島愛のお別れ会が行われる。発起人には、テレビでおなじみのお笑い芸人、司会者などが名を連ねている…。ただ、この会はあくまでも「日向の存在」となって以降の彼女を追悼するものだ。「日陰の存在」だったころについてうかがえるものは何もない。 それから翌々日の3月3日に、私は東京・新宿ロフトプラスワンで、毎年恒例の「熟女クイーンコンテスト」を主催する。6回目を迎えるこのイベントを、今年は「飯島愛・もう一つのお別れ会」とし、A○嬢時代を知る私を含めた関係者を一堂に招いて、彼女をしのぶ…。 飯島は数多くのA○女優に「プラトニック・セックス」を通じて、「希望」を与えてきた。昨年末、彼女の死が報じられた瞬間、私のケイタイは鳴り続け、合わせて19名の平成生まれの若いA○女優が電話口で「なぜ?どうして?…」と号泣した。飯島と同期の、三十路を過ぎても現役を続けている「A○女優」は、現在「熟女優」というくくりの中で、悪戦苦闘をしながらも生き抜いている…。 当日のコンテストには、常連の山口玲子、妃すみれ、若手現役のみづなれい、渋谷リカ、現在、大反響を起こしているシンガー・ソングライター出身の松浦ひろみなど、総勢30人前後のA○女優が集結する…。参加する若手A○女優は、一度だって本物の飯島愛に会ったことなどない…。飯島愛の、テレビで見る生き方と、小説の中に「希望」を見いだし、それぞれに生き抜いている…。たとえ世間の良識から非道徳、没倫理、非常識という汚名を浴びせられても「唾はそのうち乾くよ…」と信じ、約200名の高須マニアのエロス観客と共に桃の節句の夜、飯島をしのぶ…。きっと大手メディアは無視するだろう!!<高須基仁・出版プロデューサー>
2008.12.24
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今回は、日本での韓流ブームの一方、親北朝鮮政策を進める盧武鉉(ノムヒョン)大統領とその時代背景について、呉善花さんの『「反日・親北」韓国の暴走』(2005年)によって、紹介します。盧武鉉政権になってからの韓国は、金大中(キムデジュン)政権時代よりも親北傾向を強めている。2004年7月8日、金日成(キムイルソン)が亡くなって10年目にあたる日、韓国の親北民間団体のホームページで、金日成の死を悼み、生前の「業績」を賛美する文章が集中的に載せられた。たとえば「我が民族史と人類歴史で金日成主席様におかれまして、別世されたときほど悲しみと悲哀に溺れて涙の海をつくったことはなかった」という文章があった。政府の国政公報庁のインターネット・ニュースサイトには「金日成主席十周忌の弔問団を政府と民間が共同で構成し、最低限の道理を示さなければならない」という文章が掲載された。盧武鉉大統領と与党ウリ党の政治姿勢は、親北朝鮮で一貫している。たとえば、盧武鉉政権下の「疑問視真相究明委員会」は、北朝鮮から南へ送り込まれたスパイと反政府共産ゲリラの未転向長期囚に対して「韓国の民主化に貢献した」という判定を下している。与党ウリ党は、KAL858便機爆破事件は、北朝鮮が起こしたものではなく、当時の韓国政府(全斗煥政権)の陰謀という説を支持している。学校教育でも親北教育が顕著である。金星出版社刊行「韓国近現代史教科書」では、朴正熙元大統領のセマウル運動(農村の近代化・農家所得の増大・農業生産力の拡大の推進)を「長期政権正当化の手段」と決めつけて非難する一方で、金日成の千里馬運動(社会主義的集団農業作業体制の確立)については「社会主義の経済建設に大きな役割を果たした」と高く評価している。しかし実際は、セマウル運動が大成功をおさめたのに対し、千里馬運動は農村の疲弊を深めた。2001年に全国教職員労働組合(全教組)が発刊した「統一教育指針書」は、「朝鮮戦争を民族和解の立場で教育するために」、北朝鮮が韓国を侵略したのかどうかに焦点を置くのではなく、「この戦争を通じて、分断克服に必要な歴史的教訓を得ることに焦点をあてなければならない」とし、朝鮮戦争で「外国勢力(アメリカや日本)は肥え太り、民族は焼き尽くされた」ことに重点を置いた教育を主張している。北朝鮮は、国際テロ・核兵器開発・兵器密輸・日本人拉致・麻薬密売などに手を染めてきた、横暴な世襲独裁者をいただく世界有数の危険国家である。にもかかわらず、なぜ韓国は親北朝鮮になったのか?そのきっかけとなったのは次の4つだというのが私の考えである。(1)冷戦体制の崩壊、(2)北朝鮮情報の公開、(3)自由主義経済への絶望、(4)左翼民族主義政権の誕生。冷戦体制終結後の盧泰愚政権末期からの韓国では、国内に向けて北朝鮮情報を次第に開示していく政策がとられた。それは金大中政権から急加速され、2000年の平壌での南北首脳会談を決定打として、世論もマスコミも政治もほとんど親北朝鮮一色といってよいほどの現在の状況となった。この流れは一見すると、韓国の政治が文民政権の登場で、より民主的なものになっていくなかでの、急速なリベラリズムの広がりという印象があるかもしれない。しかしそれは表層だけを見たものにすぎない。長らく米ソ両体制の代理対立の関係にあった韓国と北朝鮮で、その代理性が消失していくなかで、それまで封じ込められてきた「民族こそ国家」の意識が噴き出していったのが、この流れの本質である。そもそも民族主義は「我々は世界に冠たる優秀な民族だ」という他民族に対する優越意識がその出発点にある。冷戦体制の終結で、韓国と北朝鮮はようやくその出発点に立ち戻れる可能性をつかんだ。そこから、テーマは、国家のあり方よりも、民族のあり方となっていった。韓国は、民族に向けて国家を開く政策を前進させ、北朝鮮も、韓国からの多大な支援資金・支援物資の流入とともに、さまざまな機会をとらえて韓国の期待に応え、民族に向けて国家を開く姿勢を推し進めてきた。韓国で開かれた2002年アジア大会、2003年ユニバーシアード大会にやってきた北朝鮮「美女軍団」に対する韓国人の熱狂的な歓迎ぶりは、現在の韓国人の対北朝鮮認識を端的に表すものだ。私には、韓国国民が北朝鮮に惹かれていくその心理・心情はとてもよく理解できる。私は全斗煥政権時代の1983年に来日するまで、金日成親子の写真も映像も見たことがなかった。自分が受けた教育からイメージしていた北朝鮮は、悪の権化の金日成を頂点に諸悪を凝り固めてつくった国家であり、人間らしい気持ちをもって生きる者が一人として存在しない世界であった。私が日本で金日成の写真を初めて見て感じたことは、なんてハンサムで穏和な顔をしているのだろうかというものである。この体験以後、北朝鮮について知ることが増えていけばいくほど、韓国政府が国民に植え付けてきた北朝鮮イメージが、いかに極端で子どもだましのデタラメなものだったかを思い知らされた。歴代韓国政府は、韓国国民が北朝鮮に対して、国際的な視野に立ち、そのうえで客観的かつ冷静に批判していく道を固く閉ざし続けてきたのである。その反動から、「北朝鮮の脅威は、まったくの幻想だった」という正反対の幻想が、あっという間に国内に拡大していくことになってしまった。北朝鮮情報が小出しにオープンされるようになり、北朝鮮に実は同じ民族の血が流れる同胞たちがいたのだと実感できるようになり、北への安心感が少しずつ根付いていくなかで、金泳三政権下では、戦後韓国の二大国是「反日・反共」から「反共」が消え去り、「反日」だけを残すようになった。たとえば、北朝鮮の幼児たちのあの見事なまでに画一的な「お遊戯」と、自然さのかけらもない人工的な笑い顔である。大部分の日本人は、一種ぞっとする感覚とともに、悲しく痛ましい思いをもたずにはいないだろう。しかし韓国人はそうではない。その統一ぶりには「よくそこまで訓練されたものだ」と感心する者が少なくない。また、教えによく従う古典的で素朴な子どもぶりが感じられ、心情的な親近感も高まっていく。統一的な街並みと威風を誇る建築物を林立させ、人工的な見栄えのよさを徹底して押し出した平壌の都市景観についても同じことがいえる。日本人はそうした見せかけだけで中身のないものを嫌うが、大部分の韓国人は外観の立派さに圧倒され、ソウルと比較して、うらやましい思いすらもつのである。そこでも伝統的な朝鮮の美意識が感じられる。2000年6月13日~15日、平壌で南北首脳会談が実現した。空港で金大中を出迎えて笑顔で接見する金正日(キムジョンイル)の姿、初めて耳にした肉声の歯切れのよさ、自ら先頭に立っての歓迎ぶり、会見でのユーモアと人情味に溢れる言葉、年長者をたてる礼儀をわきまえた態度。韓国人には最初から最後まで驚くばかりの好印象が続いた。金正日が自ら演出するその外面的体裁は、李朝の支配層・両班(ヤンパン)に象徴された「朝鮮的大人の風格」を備えたものといってよかった。韓国人に特に人気があるのは、金正日の対米姿勢である。――金正日は一小国の指導者かもしれないが、アメリカ大陸にまで届く核搭載ミサイルの保持をちらつかせることによって、世界一の大国アメリカに対して一歩も退かない態度をとっている。彼のように自立的な態度を世界に対して堂々ととれる指導者は、韓国からは生まれようもない。北朝鮮への危機意識のない若い世代のなかには、金正日を民族の英雄と見る者が増えてきている。以後、韓国では、金正日を「金正日国防委員長」と呼ぶようになった。私は2002年9月29日~10月14日に釜山で行われた第14回アジア大会に前後して2週間ほど韓国に行っていたが、そのときの韓国では北朝鮮選手団と女性応援団(美女軍団)の話題でいっぱい、「北朝鮮歓迎」ムード一色だった。日本では9月17日の日朝首脳会談を経て、拉致問題が連日のようにトップニュースとなり、多くの人々が北朝鮮の脅威を日々実感的に深めていた時期である。10月15日の日本人拉致被害者の帰国の様子は、韓国のテレビと新聞では、簡単に事実だけを伝えるニュース報道と、小さな情報記事以外には見あたらず、詳しい様子を知ることはできなかった。それが数日後に日本行きの飛行機に乗るや否や、機内のテレビでは帰国時の映像が繰り返され、新聞は帰国者の記事で溢れ返っているではないか。日本であらためて、帰国した拉致被害者たちの姿を見て、彼らが歩まされてきた不条理な人生に目をつむることなど到底できないことを、私は深く実感させられた。これほど日韓で「世界が違う」と感じたことはかつてなかった。一方、経済の面では、韓国は1997年11月の通貨危機で国家倒産の危機に追い込まれ、IMF管理下で経済再生が図られていった。従来の政府主導による保護政策に代わって、「規制なき自由競争」の市場原理に基づいた政策への転換が強力に推進された。2002年には、韓国経済は成長率も外準備高も良好となり、企業や金融機関の不良債権も大幅に減少した。しかしその一方で、失業、所得格差、貧困などの問題がいっそう深刻化することになった。韓国の一般家庭が抱える債務は、97年末の211兆ウォンから、2002年末には420兆ウォンへと倍増。金融自由化政策が推進されたため、安易なクレジットカードやキャッシュサービスの利用が急増し、年収とほぼ同額の借金を抱えるまでになってしまった。2004年5月末の時点で、全国で電気料金を支払えない世帯は89万3272世帯にのぼり、14万世帯が長期間の料金滞納によって電気、水道、ガスの供給を止められている。ソウルの公立高校では14.4%の生徒が授業料を支払えない。2003年の離婚件数が16万7000件と、前年比で2万件以上増加しているのも、家計崩壊が離婚の要因となっているからだ。ソウル駅や都心の地下道で夜を明かすホームレスや無料給食所に集まる失業者の長い行列は、見慣れた光景となってしまった。2003年8月と2004年2月に4年制大学と短大を卒業した者の就職率は66.8%。大学生は、かつてのように大学教育に自分の将来を託せなくなっている。また、20~40代の高学歴者や技術系の人材の移民が急速に増加している。韓国の大多数の庶民にとっては、この数年間の構造改革は、将来的な経済生活への絶望感を年を増すごとに深めるものだった。現在の韓国に急激に広まっているのは不信と絶望のムードなのである。韓国の、アメリカ離れ、日本離れ、中国接近、親北朝鮮という傾向は、この不信と絶望に大きくかかわっている。大部分の韓国人は、北朝鮮が核兵器を保有していることを恐れていないし、武力南進の危機も起きないと思っている。心底恐れているのは、北朝鮮が崩壊し、2000万人を超える北の一大貧困集団を丸ごと抱え込んでいかなくてはならないということである。北が崩壊しないように体制を支えていくしかない。それが圧倒的多数の韓国人の考えである。金大中政権の親北「太陽政策」を引き継いだ盧武鉉政権は、北の体制を支えていくにとどまらず、北朝鮮へ大きく歩み寄ることで本格的な南北統一へ向かうための政策を次々に打ち出している。韓国の北朝鮮化とすらいえるほど、盧武鉉が親北姿勢を強めている背景には、韓国国民の親北心情の広がりだけでなく、市場経済に対する国民の絶望的な思いが深く横たわっている。盧武鉉政権は、反市場主義情緒に乗って、親北姿勢を強めることができているのである。
2007.08.19
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1992年9月、四方田犬彦さんは、北朝鮮が開催した第3回平壌国際映画祭に、日本映画人の友好訪問団の一員として参加しました。今回は、『回避と拘泥』(1994年)で発表された旅行記の一部を紹介します。切れ切れの記憶が浮かびあがる。ネオンだけが光輝く、無人の夜の目抜き通り。わたしの乗ったバスにむかって、誰に命令されるまでもなしに一心に手を振り続ける子供たち。客の姿をまったく見かけず、ただ品物だけが整然と並べられたデパート。映画館の裏側にきちんと整列し、無言で開場を待ち続ける何十人ものワイシャツ姿の若者たち。午後7時半には店を閉じるレストラン街と、その暗闇の彼方に聳え立つチュチェ思想塔。「偉大なる朝鮮労働党万歳」とハングルで赤く大書された、建物の表示。軍隊詰所の屋根のうえにびっしりと並べられた唐辛子……。結局のところ、旅行の期間中、われわれは四六時中二人の案内人の思うがままにスケジュールを管理された。案内人たちはその場で次々と予定を変更してはわれわれを混乱させた。また機会があるたびに、さまざまな口実を見つけてはわれわれに日本円をせびり、その金を用いて上司の接待に使うのだった。彼らの間にさえ厳しくも踏みこえ難い順列があることは、容易に理解できた。彼らは卑屈で、平然と嘘をつき、情報を思うがままに操作することでわれわれを統率しようとした。わたしは最初腹を立て抗議したが、旅の終わりにはしだいにそれを受け容れるようになった。彼らもまた彼らなりに情報が完璧に操作された階級社会のなかにあってなんとか生き延びるために必死なのであり、われわれの眼に自己保全とも卑屈とも見える振舞いは、北朝鮮の日常生活における処世術の表現だったのだと思いあたったのである。だが、それにしても恐怖を感じたのは、案内人と対話をしていてあるところまで話が発展すると、それから先はどうにも見えない壁に突きあたってしまったかのように彼の思考が停止し内閉してしまうことを、目前で何回も見てしまったときだった。彼らは金日成将軍の偉大さについて、アメリカ人の生活風俗の愚かしさについて、金剛山の景勝の美しさについて、いかにも自信ありげに滔々と語った。だが、わたしがつい素朴な質問をひとつふたつ尋ねてみると、その瞬間に意表を突かれたように黙りこくり、慌てて質問をはぐらかすか、でなければ断定口調で質問の無意味を宣言した。彼の思考は、思考が可能な狭い領域のなかでどこまでも不毛に循環していた。もちろんそれだからといって、彼が祖国への狂信に満ちた人物であったというわけではない。後天的に獲得されたシニシズムが幾重にも彼を覆っていて、けっしてこちら側にその本心を悟らせまいという配慮が感じられた。9日の間に、わたしが案内人の目を盗んで平壌市内を自由に散策できた時間は、わずか2、3時間にすぎなかった。早朝に同行者と示しあわせてホテルを出、一番近い地下鉄の駅に飛びこむと、もっとも遠い駅まで乗って外へ出てみた。平壌では電力節約のために、学校も職場も午前7時に始める。すでに地下鉄は満員だった。しかし、金日成総合大学の周囲には、なぜか学生の姿が見られなかった。しばらくぶらぶらと散策し、ふと眼についた一般の食堂に入ると、少なからぬ人たちが昼食のためにチケットをもって行列していた。彼らは一様に黙りこくっているか、ひそひそと話しあうばかりで、笑い声はけっして聞こえてこなかった。わたしは食券をもっていなかったが、片言の朝鮮語で事情を説明し、食事がしたいと申し出ると、給仕の女性が何人も集まって興味深そうに、最初はこわごわと、次に少し落ちついた調子で、こちらに話しかけてきた。おそらく外国人と口をきくのが生まれて初めての体験だったのだろう。差し出された昼食はつねづね予想していたものの、それ以上に貧しく、お世辞にも腹が満たされるというものではなかった。穀物の粉をわずかに塗した、薄ぺらい5センチ角の餅4枚。キャベツの代用キムチ3片。小指の大きさほどの鶏肉を浮かせたスープ。それだけだった。居合わせた誰もがそれを黙々と口に運んでいた。帰国した直後にわたしは、この国のあちらこちらで食糧暴動が生じていると知らされたが、正直にいってこの食事の貧しさでどうやって労働ができるのかを大いに疑問に思った。マシッソヨ(おいしい)?と給仕の女性が小さい声で尋ねた。わたしは彼女が声をかけてくれたことに少し感動した。マシッソヨとわたしは答えた。そもそも他の答えを思いつくことができるだろうか。これが9日間の旅行の間で一般の朝鮮人と曲がりなりにも口をきくことのできた、数少ない、貴重な機会のひとつであった。わたしが、外国人が滞在を義務づけられているホテルに戻ると、ロビーにはいつもの案内人が立っていた。どちらへ行きましたか、と彼は尋ねた。わたしは大学と凱旋門ですと答えた。他にも行ったところがあるでしょう、と彼はいった。住民から苦情の通報が入っています。彼は無表情にそう付け加えた。すでに誰かがわたしを密告していたのである。北朝鮮が、韓国はもとより地上のいかなる国家とも本質的に異なっている点について論じておかなければ、本稿はどこまでも不充分なことになるだろう。それは、この国家が金日成(キム・イルソン)を超越神とする、一種、神聖なる宗教原理によって統治されているという事実である。平壌に滞在して日数が経つうちに了解されてくるのは、この都市では表向きの、偽りの言説や映像があり、それとは別に、どこかに隠された真実なるものがあるというのではなく、ひとたびある言説なり映像が国家の手によって真理として認められてしまうと、それが時間を超えて永遠に、不朽の真理と化してしまうという現象である。歴史は次々と新しく「発見」されて、従来の歴史に付け加えられるのであって、もとより歴史的な時間を超越した、崇高にして英雄的な物語と同義である。たとえばあるとき、中国国境に近い白頭山中で、金日成の抗日闘争を賛美する言辞を木の皮に刻みこんだという樹木が、いっせいに何千本と発見される。ただちにそれは1930年代から40年代にパルチザンが作成したものだという認定がなされる。樹木の1本1本が永遠に現状を留められるようにと、内側にオゾンを充満させた特殊なガラスケースが取りつけられることになる。刻みつけられた言葉のなかに、金日成の息子・金正日(キム・チョンイル)の、白頭山における誕生を賛美するものが多数存在していたことから、彼が今日行ないつつある権力の「世襲」がすでに半世紀以上も前に予言されていたことが、高らかに報告される。80年代後半にソ連で生じたペレストロイカは、日本敗戦の時点で単にソ連軍の一大尉であった金日成が45年9月にハバロフスクからウラジオストック経由でソ連船に乗って「祖国」へ送りこまれたとか、金正日がハバロフスクから80キロほど離れたヴャツコエの野営地で誕生したという事実を、いとも簡単に明るみに出してしまった。だが、今日の北朝鮮を理解するうえで重要なのはそうした事実ではなく、むしろ北朝鮮側が主張してやまない真実、いうなれば神話化された「真実の映像」のほうである。わたしが知りたいと思うのは、祖先が(李朝の身分制度において坐女や芸人と並ぶ賤業のひとつの)墓守りであったと、金日成が回想録のなかでさりげなく書きつけたことの意味である。わたしはここに、東アジア的に一般な貴種流離譚の物語的伝統が影を落としているように思う。先祖が墓守りであったと口にすることは、北朝鮮というブルジョワ階級の価値観の転倒のうえに築きあげられた国家にあっては、先祖が高貴なる一族の出身であったと語ることと同じ意味をもつのではないだろうか。まして李朝時代には大いなる抵抗者である林巨正の物語が存在している。金日成回想録の冒頭に示されたこの指摘は、いうなれば逆立ちした名門意識であり、それは墓守りの息子であった祖父がアメリカ帝国主義の尖兵であったシャーマン号焼き打ちに加わったという、今ひとつの輝かしい「伝説」へと素直に直結する性質のものである。「明けることもわからない夜の漆黒のなかで三千里疆土が限りなく悶え苦しんだとき、1912年4月15日、万景台の小さな藁屋では死に瀕した国と民族の運命を救ってくれる傑出した英雄の誕生を知らせる呱々の声が世に轟いた。民族の偉大な太陽であられる金日成同志が誕生されたのである! 偉大な首領の誕生、それは間違いなく万景台の限りない喜びであり、民族最大の慶事であり、祖国光復と民族再生の未来を約束する新しい朝の曙光であった。」金日成の藁小屋での誕生物語の背後に、キリスト教のイエスの誕生をはじめとする、英雄神話の冒頭と同じ構造を見てとることは困難ではない。それは、金日成が両親の信奉するキリストの伝統のもとに少年期の精神形成を成しとげたことと関係しているかもしれない。だが同時に想起しなければならないのは、世界中にあまねく存在している太陽神話との類縁性であり、それは金日成の生涯を一挙に宇宙論的な規模の登場人物に仕立てあげることになる。万景台での彼の生誕は神話的始源児の誕生であり、幼年時代のさまざまな逸話は悪戯好きの童児神には欠かせないものである。抗日闘争は悪と暗黒の支配する世界に対する、新世界創生の苦しみの物語に他ならず、その結果創造された朝鮮民主主義人民共和国は完成した新世界であって、そこでは本質的に時間は停止、というより消滅してしまう。それにしても興味深いのは、「日成」と「正日」という固有名詞が主張する太陽神信仰の正統性であって、その命名のあり方は、日本近代の天皇たちのそれとどれほど似通っていることだろう。昭和のあとを平「成」が継ぐように、日「成」の後を正「日」が継ぐというわけだろうか。平壌のいたるところに貼られた金日成の肖像写真と人々が着用を義務付けられている金日成バッジは、戦前の日本に存在していた「御真影」を思い出させる。神話的想像力が映像を統轄するさいに生じる奇怪な現象として、この二つの例は世界史的に記憶されることだろう。平壌への旅から1ケ月ほど経ったころ、もっとも興味深く、また思いがけない反応があった。われわれの通訳兼監視の役を勤めた案内人のひとりが、60年代の中頃に単身で、日本から「祖国」へ渡ったということを知らされたのである。少年は金日成総合大学をきわめて優れた成績で卒業し、やがて映画の輸出業務部に勤め、外国の貴賓来賓の接待と案内を担当することになった。わたしは彼が、この地で帰国者として、文字通り「生き延びる」ために、けっして人前で頭角を現わしてはならないと自分に強くいい聞かせるに至った日のことを、ある痛ましさをもって想像する。今、この奇妙な旅の直接的な興奮がいくぶん遠のいたあとで少しずつ了解できてくるのは、北朝鮮全体を覆っている神話論的枠組であり、これは日本のマスメディアに横たわる卑小な紋切型とは比較にならないほどに巨大にして空虚な宇宙論的規模を誇っている。実現されたユートピアにとうとう来てしまったのだ。わたしもまた、そう思った。だが、ユートピアが本来「ありえない地」を示すギリシャ語であるとすれば、この表現はなんと滑稽なことか。そして現在、このユートピアは平壌中央に聳え立つ巨大な三角形の高層ホテル(金正日の指示で着工された、高さ300メートル、3000の客室と2000人収容の大宴会場をもつ朝鮮最大のホテルだが、突然工事が打ち切られた)のように、みごとに奇怪な残骸を晒している。
2007.08.12
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今回は、日本人拉致事件の背景について、重村智計さんの『最新・北朝鮮データブック』(2002年、講談社現代新書)によって、紹介します。<ベトナム統一を背景に、北朝鮮が統一工作路線に回帰>日本人拉致工作の時代は、1975年から1985年までのおよそ10年間とみられる。金日成主席は1975年4月18日、北京での歓迎宴で演説した。「南朝鮮で革命が起これば、同じ民族であるとの立場から傍観はしない。南朝鮮人民を積極的に助けるであろう。もし敵が無謀にも戦争を仕掛けるならば、断固として戦争で応じ、侵略者たちを完全に破滅させる。この戦争で失うものは軍事境界線であり、得るものは統一である」。この演説の背後にあるのは、ベトナムの統一である。南ベトナムでは、北ベトナム軍が支援する解放戦線がアメリカとの戦争で勝利し、統一を実現する直前であった。金日成主席の演説には、北朝鮮も、ベトナムのように統一したいとの中国指導部への訴えが込められていた。この演説は、北朝鮮が、韓国との対話路線から、統一工作路線に回帰し、日本人拉致工作につながることを示唆したものであった。韓国では「北朝鮮の国家目標は、南朝鮮革命と、社会主義統一」であるというのが、一般的な理解であった。朝鮮労働党の規約に従えば、北朝鮮の国家目標は、韓国の「主体思想化」である。何もしないで放置しておいても、韓国で北朝鮮に呼応した革命が起きるわけはない。革命が起きるような情勢を生み出すしかない。そのために対南工作活動が展開されたのである。こうした工作活動は、社会主義と自由主義が対立していた冷戦時代には当然の行動であった。<なぜ日本人を拉致したのか>日本人を拉致した目的について、金正日総書記は小泉首相に、工作員として使ったり、工作員への日本語の教育や日本人化訓練のためであったと説明している。日本人拉致は(1)日本人を工作員にする、(2)工作員の日本語教育を行う、(3)日本のパスポートを取得する――ことを目的に行われたと思われる。実は、北朝鮮は、1970年代後半の初期に日本の偽造パスポートで、多くの工作員を海外に送り出した。ところが、日本のパスポートを所持し、朝鮮語を話す人々が、北京経由で海外に出国し、しばらくすると北京経由で平壌に帰ることに、疑問を抱いた中国の公安当局は、北朝鮮に厳重に警告し、数人を逮捕した。北朝鮮は、日本の偽造パスポートを使用できなくなり、本物のパスポートを取るしか方法はなくなったのである。<社会党の北朝鮮追従が日本人拉致を生んだ>1978年、社会党の飛鳥田一雄委員長が、5月11日から16日まで北朝鮮を訪問した。社会党は、この時の共同声明で、(1)日米が北朝鮮を承認し、中国とソ連が韓国を承認す る「クロス承認」反対、(2)南北朝鮮の国連同時加盟反対、(3)在韓米軍完全撤退、(4)日韓条約廃棄――などを宣言した。社会党の指導部や幹部は、長年にわたり北朝鮮の指示どおりに行動し発言する存在になっていた。北朝鮮を訪問した歴代の委員長は、日本企業に対する北朝鮮の貿易代金未払い問題を提起しなかった。また、社会党は長い間「韓国」の存在を認めなかった。社会党の中央執行委員会が、韓国を国家として承認したのは、1989年11月であった。こうした社会党の北朝鮮追従姿勢が「日本人を拉致しても問題はない」との判断の背景にあった。そして、北朝鮮の思惑どおり、社会党も社民党も「拉致はない」との立場を貫いたのであった。社会党などの北朝鮮追従政党や岩波書店などの出版メディア、朝鮮総連などの在日組織の行動が、日本人拉致を生んだ、もうひとつの原因であった。<2つのテロ事件の背景>北朝鮮は、1980年代に、ラングーン爆弾テロ事件(1983年)と大韓航空機爆破(1987年)という2つのテロ行為を実行した。この事件の背後には、社会主義国との関係改善を図る韓国の外交活動を阻止する目的があった。韓国の朴正熙大統領は1979年10月26日、腹心の部下に暗殺された。独裁を批判された朴大統領の死は、北朝鮮には、統一を推進する最大のチャンスに思えた。北朝鮮がさらに「統一は近い」と判断を誤ったのは、「光州事件」(1980年5月)の勃発であった。学生・市民による光州市での反政府行動は、軍との銃撃戦にまで発展した。全斗煥将軍は、光州事件後、任期7年の大統領に就任した。北朝鮮では「民衆を弾圧した凶悪な軍人が、米帝国主義の助けで権力を握った。全斗煥大統領さえ排除すれば、人民は立ち上がる」と語られていたという。また、1980年10月10日に労働党大会が開かれ、金正日書記(当時)が後継者として公式に登場したことも、工作活動を活発化させた。この時期に、韓国はソウル五輪の開催を獲得した。ソウル五輪には、中ソはもとより社会主義国が参加する可能性が高かった。そうなると、北朝鮮は、体面とプライドをいたく傷つけられる。朝鮮半島における唯一の合法国家とする北朝鮮の正統性が揺さぶられかねない。さらに、北朝鮮をいらだたせたのは、全斗煥大統領のビルマ訪問であった。韓国の大統領が社会主義国を訪問するのは初めてであった。これを許せば、他の社会主義国に飛び火するかもしれない。これを阻止するために、全大統領暗殺計画(ラングーン爆弾テロ事件)は実行に移された。1983年10月9日、北朝鮮人民軍偵察局所属の工作員が、ビルマ公式訪問中の全斗煥大統領が立ち寄るアウンサン廟の天井に爆弾を仕掛けた。大統領の到着が予定より遅れ、工作員が楽団の練習を大統領の到着と勘違いして爆破スイッチを押したため、待ち受けていた韓国高官17人が死亡した。ビルマ政府の調査委員会は11月4日、北朝鮮当局が派遣した工作員の犯行と断定し、北朝鮮との国交を断絶した。金日成主席は、1986年10月にソ連のゴルバチョフ書記長と会談した際に「南朝鮮では、社会主義に有利に事態は進行している。南朝鮮国会の3分の1は北を支持している。今や、学生や多くの人民が反米行動に立ち上がっている。ソウル五輪にソ連は参加すべきではないし、東欧諸国にも参加しないよう圧力をかけてほしい」と強く求めた。革命と統一への期待が、判断を誤らせたのである。ゴルバチョフ書記長は「この要求を拒否し、北朝鮮も改革と開放を選択するよう」伝えたと、後に明らかにしている。こうした金日成主席のソウル五輪の阻止への強い意向が、大韓航空機爆破事件につながったと思われる。ソウル五輪の前年の1987年11月29日、バグダッド発ソウル行きの大韓航空(KAL)858便が、乗員乗客115人を乗せたまま、インドからマレーシアに至るアンダマン海峡上空で爆破された。経由地のバーレーン空港で、この飛行機から降りた「日本人」が疑われた。そして日本のパスポートを所有する「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」と名乗る父娘が逮捕された。いずれも、北朝鮮の工作員であった。男性は服毒し死亡したが、女性は生き残った。女性は、ソウルに移送され、「金賢姫(キムヒョニ)」であると自白し、犯行を認めた。北朝鮮工作員が名乗った「蜂谷真一」さんは実在した。この蜂谷さんの戸籍謄本を手に入れ、パスポートを入手し、蜂谷さんになりすましたのである。この2つの事件は、国際社会での北朝鮮の孤立化を決定的にした。中国はもとより、日米や各国が厳しい制裁措置に踏み切ったからである。<大韓航空機爆破事件から、日本人拉致問題が登場>KAL858便を爆破した金賢姫は1989年6月、記者会見で「(自分に日本語を教えた)李恩恵は日本人である」と明らかにした。その後、1991年5月16日に警察庁は、李恩恵が埼玉県出身の女性(田口八重子さん)と確認した。この確認で、拉致問題が日朝の懸案問題として新たに登場した。さらに1997年2月3日、産経新聞が、新潟で行方不明になった女子中学生・横田めぐみさん(当時13歳)が「北朝鮮に拉致されている可能性が高い」と報じたことから、新たに横田さんを含む拉致被害者の問題への関心が高まった。警察庁の伊達警備局長は1997年5月1日、参議院決算委員会で、横田めぐみさんに関して「北朝鮮に拉致された疑いがある」と答弁し、拉致された日本人を「7件10人」と確認した。その後、政府の認定は2002年3月に「8件11人」に、同年10月には「10件15人」に増えた。横田さんが拉致されたのは、1977年11月15日である。田口八重子さん(李恩恵)も、1978年から行方不明になっている。1977年には在日朝鮮人が久米裕さん(当時52歳)を石川県の海岸に連れ出し、北朝鮮の工作員に引き渡す拉致事件が起きている。日本各地の海岸でアベックが失踪する事件も、1978年に起きた。1980年には、宮崎県の海岸から原敕晁さんが拉致された。同じ頃に、平壌にいる日本赤軍の関係者が、欧州から多くの日本人の男女を拉致した。この時期には、日本に侵入した工作員も多数逮捕されている。しかし、工作員を逮捕しても、わずか1年前後の懲役刑しか言い渡せない。日本の公安機関は、北朝鮮の暗号放送の送付番号から判断して、日本では少なくとも常時200人前後の北朝鮮工作員が活動し、朝鮮半島で混乱が起きたときに、日本の防衛施設などの破壊工作を行うとみている。韓国でも、これまで約500人の韓国人が北朝鮮に拉致されている。しかし、韓国政府は、北朝鮮に拉致問題の解決を公式に求めていない。<北朝鮮の工作機関と対日工作>北朝鮮の工作機関のひとつである朝鮮労働党の統一戦線部は、対南工作専門の機関として、1977年に設立された。1994年には傘下機関として、アジア太平洋平和委員会を設置し、日本とアメリカを対象にした公然活動も行うようになった。奇妙なことに、日本の政治家やジャーナリストは、この統一戦線部の責任者に、競って接触しようとした。「実力者」「金正日総書記の側近」という言葉に乗せられて、自民党の実力者らは「コメ支援」に力を注いだ。ジャーナリストたちは「平壌支局を他社に先駆け開設させる」「金正日総書記とインタビューさせる」などの言葉に乗せられ、北朝鮮に都合のいい記事の掲載を要求されたこともあった。統一戦線部は、外務省を押しのけ、外交にも手を出すほどの権勢を誇ったが、統一戦線部の責任者・金容淳(キムヨンスン)書記は2001年、統一戦線部の担当をはずされた。日本の政治家やジャーナリストへの工作を担当した黄哲(ファンチョル)指導員も、姿を消した。二人は、不正蓄財や韓国からの金銭授受の容疑で取り調べを受けたという。この処分の後、統一戦線部の組織は縮小され、担当の副部長も、すべて入れ替えられたという。<北朝鮮の日本への工作活動は、なお続く可能性がある>金正日総書記(国防委員長)は2002年9月17日、平壌で小泉純一郎首相に、北朝鮮の関係機関による日本人の拉致を初めて認めた。北朝鮮の赤十字会が、拉致された日本人14人について「5人生存、8人死亡、不明1人」の安否を明らかにした。金正日総書記は、小泉首相に、拉致について謝罪し、再発防止を約束した。また、日本に工作船を派遣していた事実も認めた。北朝鮮が、初めて工作国家の事実を公式に認めたのであった。金正日総書記は、小泉首相に、日本への工作機関の活動を今後は行わない、と約束した。これまでのような工作船の派遣や、拉致などの活動はしないということである。北朝鮮でも、旧式の工作活動への批判が出ていたといわれ、より近代化を図ったとみるべきであろう。韓国への工作・情報収集活動は、なお続けられている。日本で、もっと高度な手段を使った工作活動を行う可能性は、残されている。
2007.08.11
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今回は、韓国の徴兵制について、四方田犬彦さんの『人間講座・大好きな韓国』(2002年6月~7月、NHK教育テレビで放映)によって、紹介します。★徴兵制とは日本では、韓国の徴兵制についてほとんど知られていない。韓国でもおおっぴらに話されることは少ない。とりわけ軍隊経験者は、女性に対して口を固く閉ざす。それは敵への機密漏洩の心配というより、できることなら心理的に封印しておきたい屈辱と孤独、喪失感と暴力の記憶ゆえである。しかし、この徴兵制を知ることは、韓国を理解するうえでたいへん重要なことである。「俺たちが国を守っているんだ」という強い自覚を男たちがもつことは、フェミニズムへの反発、男性至上主義の確認につながっているし、退役軍人会はいまでも社会に対して強い発言権をもっている。軍隊がある社会として、まず韓国を理解すべきであり、それは徴兵制への考察を抜きには考えられない。徴兵検査は数えで19歳になる年に義務づけられている。服役期間は陸軍で26カ月、海軍で28カ月、空軍で30カ月である。兵役は30歳までに終えておく義務になっていて、おおかたは19歳、大学2年生を終えてから服役する。入隊が決まると、友人たちが連日連夜の送別会を開いてくれる。酒をガンガン呑み、精神的にも高揚状態になる。すると訳知り顔の先輩が、「赤線」地帯に連れて行ってくれる。童貞喪失はこのときというのが多い。売春は法的には一応禁止されているが、いたるところに実在しており、徴兵制とは切っても切れない関係にある。★訓練場でのキハップの洗礼新兵はまず頭を丸坊主にして訓練所に入隊する。訓練所では、見送りの親兄弟に向かって古参兵たちがにこやかに挨拶してくれる。が、ゲートが閉まると途端に態度が豹変して、「軍人としてのキハップが入っとらん!」とただちに殴られる。荷物を入れた鞄は、歯で噛んで引っ張って門に入れと難題をふっかけられる。伏せろ、横になれ、飛べと、古参兵が玩具のように命令するのに、新兵は絶対に従わなければならない。これは個人の生半可な意志を捨て、命令だけを遂行する肉体となるための第一歩である。鉄拳制裁のことを「キハップを入れる」「キハップを受ける」という。「キハップ」とは日本語でいう「気合」の韓国語読みである。具体的には、頭を殴る、頬を平手打ちにする、腹を殴る、尻を蹴る、向こう脛を足で突く、などがあり、最後のものが一番痛い。訓練所では、第1週目に整然と行進、敬礼の仕方を習う。続いて精神教育、胎拳道(テコンドー)、銃剣訓練、警戒訓練、化学兵器防衛訓練が行なわれる。ここでは、戦闘靴が足に合わなくとも、足を靴に合わせろと怒鳴られたりする。化学兵器防衛訓練では、一室に閉じこめられると、周囲から毒ガス弾が投げこまれる。目、鼻、耳、喉のすべてが激しい痛みを感じるが、悶えながらも「お母さん、ぼくを産んでくださってありがとう」という、母親の産みの苦しみに感謝する歌を全員で合唱することが求められる。外へ出されたときには、安堵と解放感に満たされる。第2週目からは戦闘訓練、救急訓練、本格的な銃剣訓練、火器ならびに射撃訓練、遊撃訓練などがあり、ここで兵士としての緊張した自覚が強くなる。遊撃訓練は山上に北朝鮮の兵士の人形を並べて、下から突進する。あちら側からも威嚇の発砲がなされる。武器を扱う訓練のときは、どさくさに紛れて一番ひどく殴られたり、キハップを入れられたりする。行軍は重装備のまま100キロを歩き、夜間に短時間の睡眠と歩行をくり返す。その間に兵士の肉体はどんどん頑強になってゆく。こうして第6週目の体力検定を経て、新兵訓練は終わる。★軍隊生活の実際軍隊用語は旧日本軍のものを踏襲したものが多い。これは、韓国軍が学徒出陣兵や満洲国の士官学校出身者を中心として1946年に創設されたことに関連している。朝鮮戦争のころも、場所によっては日本語で号令と敬礼をしていた。ちなみに20年近くにわたって軍事政権を続けた朴正熙(パクチョンヒ)大統領は満洲軍官学校、日本の陸軍士官学校を出て、満洲国で「共匪狩り」で活躍。1961年に同期生を重用してクーデターを行なった。そのメンタリティは、さながら2・26の青年将校のそれであったといわれている。ニ兵はつねに空腹をかかえている。1990年代初頭までは、三度の食事はご飯、白菜のキムチ、ほとんど具のない味噌汁(自棄になってウンコ汁と呼ぶ)というのが通常であった。たまにラーメンかカレー、豆腐が出る。韓国でカレースタンドが流行らないのは、男たちが軍隊を思い出すためだという。ここでも古参兵が食事の上前をはねたり、突然1分間で食事を終わらせろと命令したりするので、ゆっくり食事もできない。さて、ニ兵は6週間の訓練ののちに各軍に配属される。陸軍の標準的日課では6時起床、点呼、体操、朝食を終え、8時から軍務。昼食を終えて再び6時まで軍務。7時より自由時間で、TVを観たり、談笑したり、カラオケなどをして過ごす。10時就寝。土曜は午前だけの軍務で、日曜は休日となっている。休暇は服役期間を通して3回、全部で35日間しかとることができない。過酷にして退屈な生活に耐え抜いて、最上級の兵長ともなると、軍隊は天国だと思えてくる。髪の毛を伸ばしていても、酒を呑んでいても、誰も文句はいわない。配下の人間は殴り放題である。これまでの屈辱の元手をとらなければという気持ちも働いて、思い切りキハップを入れる。最初はためらうが、段々と平気で人を殴れるようになる。TVを観る座席も階級の順番による。兵長は間近で寝そべりながらタバコを吸いつつ観、上兵は座った姿勢で、ニ兵は遠くなので画面など見えなくなる。ここでも特技をもつ兵士は得をする。古参兵の恋文の代筆、将校のテニスの相手などで評価を高める。サッカーが上手な者ほど軍隊生活は楽だといわれている。★社会との隔絶単子化が進んでいる韓国では、「ママボーイ」と呼ばれ、母親に溺愛されて育った甘えん坊の一人っ子が増えている。そうしたママボーイが軍隊に入ると、あまりの寂しさと訓練の苛酷さから、ふだんは手紙など書かない肉親へせっせと手紙を書くようになる。家族の絆だけが心理的に大きな支えとなる。除隊後も家族意識は強いまま残存する。新兵のたいがいの悩みは、娑婆に残してきたガールフレンドのことだ。9割がたがうまくいかなくなってしまう。これを「コムシン(女ものの靴)が向こう側を向く」と韓国では表現する。しかし男の側も、なかなか待っていてくれとはいえない。たまの休暇の日に彼女が面会に来てくれると、3時間の自由時間に裏山に出かけたり、トイレに2人きりで閉じこもったりする。このときばかりは古参兵も見て見ぬふりをしてくれる。入隊の直前に指輪を交換して、どんなに約束しても、1年ほどすると、もう待ってくれなくてもいいやという気分になってしまうらしい。恋人に会いたくて脱営という場合がままある。この場合は発見されたその場で射殺されるという悲惨な事態が生じることさえあり、脱走者の出た部隊は共同責任で激しく殴られる。脱走者がパニックに陥り、手にした銃で一般人を射殺して自殺するという事件が1年に2、3回はある。★内面の変化と除隊後軍隊にいる時間が長くなるにつれ、多くの兵士は思考が単純化し、複雑なことを深く考えなくなる。よほど強い自我意識をもっていないかぎり、女と寝たいとか、うまい酒をしこたま呑みたい、という即物的なことしか考えなくなる。そのため、ひたすら我慢して、除隊する日を待ちわびる。かわりに、日本人にありがちな「引きこもり」はなくなり、他者依存の甘えが許容されないという現実が身に染みてわかってくる。一般社会から隔離されていることの不安から、これまでの損失を取り戻そうと懸命に学問に励もうという気持ちも、同時に強く生じてくる。こっそりと英語を勉強したり、資格試験取得のために準備したりする。娑婆に出たら思い切り反体制運動に献身してやろうと、決意したりする者も出てくる。かつて韓国の学生デモは、日本のそれとは比較にならないほどに隊列が強固で、命令伝達機能が優れていた。学生運動の指導者は、それを軍隊で学んでいたのである。除隊したときには、あまりの解放感から全能感に襲われる。厳しい訓練と生活のあとで、自分が一人前の「韓国人」になったという自覚、それ以上に男になったという自信にあふれ、それが社会的に認知されることになる。体つきはもちろん、顔つきまでしまってくるのだ。もちろん世間も、これで一人前になったと認めてくれる。徴兵を経験した者には共通の連帯感が生まれる。わたしは深夜の地下鉄で、酔払いの中年男が2人して、「忠誠(チュンソン)!」と号令をかけあっているのを、いくども眺めたことがある。彼らは同期入隊生であった。★あとを絶たない兵役逃れ徴兵は、父親か兄弟が戦死か重い負傷者となった場合や、混血や親のいない者は免除される。スポーツ界で国際的に活躍した者も免除となる。オリンピックをはじめとする各種の世界選手権で優勝した韓国チームの悦びがことのほか強いのは、実はこのあたりにひとつの原因がある。祖国を守るという大義名分はあるが、本心では誰も行きたくないのが人情である。膝の軟骨の一部を除去して兵役逃れを手助けした外科医がいて、1991年に摘発された事件があった。一時的に白内障になる手術もあったという。徴兵制を肯定する者とは、それをすでに済ませた者であり、まだの者は何とかそれを避けたいと心の奥底で願っている。政府高官や財閥など特権階級では、いろいろな手を用いて息子を徴兵逃れさせようとする。海外移住者の兵役逃れも深刻な問題となっている。★徴兵制はどうなるかこういう状況下で、いま徴兵制を見直そうという動きが出てきている。韓国では男子が徴兵を終えて大学を卒業すると25歳以上になる。日本で22歳の青年を企業が登用するのと比べると、3年間のギャップは国家的損失といえる。一方、軍隊内の備品の発注を受けているのは中小企業であり、服からハブラシ、薬まであらゆるものを請け負っている。徴兵制度の存在は企業対策と切り離せない関係にある。北朝鮮との緊張緩和、南北対話の時代に、はたして韓国軍は何の役に立つのかという疑問の声も聞かれる。有事ともなればアメリカ軍がただちに介入し、自分たちの頭越しに戦闘が始まってしまうという、空しさの認識のことだ。だが、それ以上に、同じ民族を敵として3年近い苦痛に我慢できるのかという、不条理意識も考慮しなければいけない。単子化が社会的に進行している現在、軍隊内部のしごきといじめから、青年が自殺したり、深刻な身体的・精神的後遺症を引き起こしてしまうことは、社会的に不利益ではないかという議論も、最近では強く唱えられるようになった。大きくいって、韓国社会の急速な発展と変貌に、軍隊はなかなか対応できないでいた。旧日本軍から継承し、軍事政権時代とほとんど変わっていない制度や習慣が強く残存している。それでも1990年代になると、人権に対する配慮が少しずつなされるようになってきている。南北分断というこの国の特殊事情を考慮したうえでこそ、かくも長き徴兵制は理解されうるのであると、重ねて強調しておきたい。
2007.08.10
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今回は、韓半島分断の歴史を、小室直樹さんの『韓国の崩壊』(1988年)によって、ふりかえってみたいと思います。<何の根拠ももたなかった38度線>韓国は、いかに誕生したか。それは、韓国を何も知らぬアメリカ陸軍の准将が、エイヤと引いた線から創られた。1945年8月9日の参戦以来、満州(東北)を蹂躙し、怒涛のごとく南下してくるソ連軍。それを見て胆をつぶした米陸軍の准将が、ママヨッ、ここらへんで食いとめとけ。こう言って引いたのが、米ソ分割占領線たる38度線。米軍は、38度線以南で日本第17方面軍を武装解除する。38度線より北では、ソ連軍が関東軍の武装解除をする。こう、取り決まった。この米ソによる分割占領は、8月15日付の連合軍最高司令官マッカーサー元帥の一般命令第1号である。38度線。それは、マッカーサーの意志によるものではない。また、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、蒋介石などの連合軍最高首脳が関知するところでもなかった。<コリア人民の自治能力不信が生んだ韓国の悲劇>1943年11月のカイロ宣言において、米英中三国首脳は、「コリア人民の奴隷的状態に注目し、しかるべき順序をたどって、コリアを自由かつ独立なものにする」決意をもつことが宣言された。1945年2月のヤルタ会談において、ルーズベルト大統領とスターリン首相とのあいだの個人的な取り決めとして、コリアを、しばらくのあいだ、米英中ソ四大国の信託統治下におくことが合意された。ルーズベルト大統領は、コリア人民の自治能力に信頼を置いていなかった。コリア信託統治の期間は、1945年12月、モスクワ協定において、5カ年以内と定められた。それにしても、四大国による信託統治にもってゆくまえに、「自由かつ独立」な朝鮮政府を作る準備として、臨時朝鮮民主政府が設立されなければならない。しかし、臨時政府の設立は絶望的であった。朝鮮独立運動の指導者たちは四分五烈し、「解放」と同時に、果てしなき抗争に入っていた。<朝鮮総督府に朝鮮統治を継続させたアメリカ>コリア人民の自治能力を信用していないアメリカは、暫定的に朝鮮総督府をつうじて統治してゆくことに決めたのであった!!! 米朝鮮占領軍司令官、第24軍団長ジョン・R・ホッジ中将は1945年9月9日、総督阿部信行大将以下の朝鮮総督府の日本人官吏の留任を発表した。これが戦後アメリカのコリア統治である。しかし、総督府留任には、朝鮮人の反撥がすさまじかった。アメリカは、留任命令3日後の9月12日、阿部総督以下の日本人官吏を解任した。韓国では、8月15日を祖国解放の日、光陽節として祝う。日本は圧政者、アメリカ軍は解放軍。その「解放軍」が圧政者を統治者に任命したのである。このことが、爾後、韓国の軌道を致命的に決定していくことになった。何故、アメリカは、かくも狂的な幻影を現実化させたのか。コリアについて、あまりにも、無知、無関心であったからである。<韓国・台湾はアメリカの防衛線外だった>1950年1月12日、アチソン国務長官は、ワシントンのナショナル・プレス・クラブで演説した。「西太平洋におけるアメリカの防衛線は、フィリピン――沖縄――日本――アリューシャンを結ぶ線である。この防衛線に加えられた攻撃に対して、アメリカは全力をあげて反撃するであろう。ただし、それ以外の地域(韓国、台湾など)の防衛については、アメリカは特別の責任をもたない」。韓国と台湾は、生みの親たるアメリカによって放棄された。ときに、共産軍による「武力解放」の絶頂期。1949年10月1日。毛沢東は、武力によって蒋介石を台湾に追い払って中華人民共和国を樹立していた。この武力解放戦争を、台湾へも南朝鮮へも拡大してゆこう。でも、武力解放戦争を発動したとき、米軍が介入してきたらどうしよう。これだけが、東欧諸国と中国とを傘下に収めて意気軒昂たる共産主義者の悩みの種であった。この悩みの種が、アメリカ自身によって除かれたのである。アチソン声明は、満を持して韓国を睥睨していた北鮮軍へのゴー・サインであった。<たった3日で陥落したソウル>1950年6月25日、日曜日。北鮮軍は、破竹の進撃を開始した。これを迎撃するつもりの韓国軍は、疾風の前の枯葉であった。早くも、翌6月26日。「……北鮮軍の戦車はソウル郊外に迫りつつある。……韓国軍は北鮮軍に抵抗することができない。……韓国軍が殲滅されるのは時間の問題である」(マッカーサー元帥のトルーマン大統領への報告)。翌々6月27日。ソウルは陥落した。韓国軍は総くずれ。支離滅裂となって潰走中。6月30日。マッカーサーは、ペンタゴンに報告した。「もはや韓国軍は組織ある行動ができない。軍隊としての機能を失った。アメリカ軍だけが、北鮮軍を阻止することができるであろう」。韓国は、北鮮の軍事侵略を虎よりもはげしくおそれる。むべなるかな。韓国軍は、1週間で撃滅されるところであった。そして、北鮮軍による虐殺につぐ虐殺。朝鮮戦争(韓国動乱)の最初の1週間こそ、韓国にとって、致命的後遺症を残した幼児体験であった。もし、このとき、アメリカが本気になって助けてくれなかったら。韓国人は、残酷このうえない共産主義者によって皆殺しにされていたかもしれない。少なくとも、自由と繁栄と幸福とは、決してあり得なかったことであろう。韓国は、韓国動乱以来、厖大な国費を割いて、国防おさおさ怠りない。北鮮軍の奇襲に、たえず怯えきっているからである。国防が、経済的にまた人材的に、いかに大きな犠牲を強うるものであるか。それでも、韓国は、国防の重圧という呪縛から脱せられそうもない。<北と南の軍事力差は狼と羊ほどもあった>1950年6月ちょっと前の韓国。餓狼のまえの仔羊であった。あまりにも好戦的で、つねに北進を絶叫していた李承晩(イ・スンマン)大統領の暴走を危惧したアメリカは、韓国に、飛行機、戦車、重砲その他の重火器を与えなかった。戦闘訓練も、緒についたばかりであった。通信のための電話線は10マイルもなかった。「オンボロ装備で武装された、ひよこのような軍隊であった」(ジョン・ガンサー)韓国軍に対し、北鮮軍の充実ぶりは、くらべものにならなかった。北鮮軍は、革命の情熱に燃え、ソ連も、必死になって訓練した。飛行機200機、戦車300台のほか、重砲以下の重火器も与えられた。とくに、迫撃砲がたっぷり与えられていた。韓国軍は、ソ連製のT34・85型戦車に蹴散らされ、踏み殺された。反撃のしようもなかった。たちまち、戦車恐怖が蔓延していった。戦うどころではない。それゆえに、戦争はもっぱらアメリカ軍が引き受けるほかはなかった。7月8日、韓国に急派された第25師団の師団長ディーン少将は、マッカーサー元帥に打電した。「残念ながら、われわれは、北朝鮮軍の兵力を、兵士の訓練、士気、装備のすべての分野で過少評価しすぎていたといわねばなりません」。<軍内部も乱れきっていた韓国>朝鮮動乱にさいしての北鮮軍と韓国軍。意気ごみに天地の違いがあった。北朝鮮の兵士たちは、革命の情熱にたぎっていた。中国革命やら東欧革命やら、人民革命の潮流が絶頂にさしかかっていた時代である。人民革命に、本気になって身をはって反対する人民がいるなんて想像も出来ない。北鮮軍の兵士たちは、ひとたび南進すれば、南鮮(韓国)人民の歓迎をうけるものだとばかり思い込んでいた。一方、このころの韓国では、韓国軍や韓国人民の叛乱があいついでいた。軍隊叛乱のきっかけは、出動命令拒否に端を発したものであった。1948年4月3日、済州島(チェジュド)に暴動が発生。李承晩は、朝鮮南海岸の要港・麗水(ヨース)の第14連隊に討伐を命じた。第14連隊の兵士たちは、南朝鮮労働党(その実、南朝鮮共産党)の指導下にあった。兵士たちは、同胞に銃をむけることはできないと、命令を拒否したのであった。1948年10月20日。麗水と順天(スンチオン)で、軍隊の叛乱が起きた。叛乱軍と政府軍とのあいだには、60キロにわたって戦闘がなされた。何とか鎮圧したと思ったら、1週間ほどで、大邱(テグ)でまた軍隊の叛乱が起きた。韓国軍に叛乱が続出したのは、共産主義者の活動による。換言すれば、当時の共産主義は、韓国兵士さえもオルグされるほどの魅力をたたえていたということだ。軍隊への共産主義の浸透に愕然とした李承晩大統領(1948年8月15日、大韓民国の初代大統領に選出)は、一大粛清にふみきった。10万の韓国軍のうち、8000人の将兵が粛清の対象に擬せられた。しかし、この粛清は、あまりにも乱暴であったため、恣意の粛清を恐れて、北鮮へ逃亡する韓国軍部隊が続出した。アメリカが手塩にかけて特訓した2個大隊の最精鋭は、アメリカ式の新型武器を持ったまま、北朝鮮へ逃亡してしまった。これに懲りてアメリカは、韓国軍には、ロクでもない兵器しか与えなくなってしまった。<北の経済力は南を圧倒していた>韓国動乱(朝鮮戦争)において、北朝鮮と韓国とに天地の懸隔があったのは、軍事力だけではない。戦前、戦中の大日本帝国による朝鮮統治において、北の経済力は、南を圧倒していた。北は工業地帯であるのに、南にあるのは不毛な裸山ばかりで、工業らしい工業はなかった。昭和期に入ると、大日本帝国の軍需生産のために、北朝鮮の工業は、巨大な重化学工業に育成された。(日本の)朝鮮窒素株式会社は、鴨緑江(アムノクカン)と豆満江(トウマンガン)を利用して、いくつもの大きな水力発電所を建設し、この電力を利用して、巨大な軍事産業を作りあげた。厖大な量の火薬、アルミニウム、ロケット燃料などを日本軍に提供していた。この電力と軍事生産力が、そっくりそのまま、1945年8月15日の日本敗戦を機に、朝鮮民主主義人民共和国の手に帰したのであった。北朝鮮経済と韓国経済とは、すでに終戦(解放)の時点において、天地の開きがあった。天地の開きは、その後、ますます拡大され、韓国では、工業生産は低落を続け、李承晩政権初年度の生産実績は、日本時代の1940年当時にくらべ、わずか18.6%という惨憺たるありさまとなった。<北朝鮮からの送電打切りで韓国経済は低迷>戦前、戦中をつうじて、朝鮮半島におけるほとんどの発電は北においてなされていた。戦後、北朝鮮・韓国と二分された後も、はじめのうちは、北朝鮮は、韓国に送電を続けてきた。その送電を、1948年3月、打ち切った。韓国経済は、動きが取れなくなった。工業生産の激減はいうまでもなく、農業生産すら、目に見えて低下してきた。大都市は、ほぼ停電で、毎日が防空演習みたいであった。やむなくアメリカは、航空母艦と戦艦を急派した。艦載の発電機で、辛くも、韓国の電力需要をまかなったのである。当時のアメリカの航空母艦と戦艦は、まず重油で発電し、その電力で機関を動かすシステムを採っていた。韓国経済は、かくも脆弱であった。北朝鮮経済とのあいだの大きな格差は、1953年の韓国動乱終結後も続いた。それが、1960年代なかごろを転換点として逆転した。現在の北朝鮮経済の惨状は、アフリカの飢餓国なみだ。
2007.08.09
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ソウル特別市は、当時の人口1100万人。国内の4分の1の人口が集中しており、これを分散させるために30キロ圏内に7つめの30万人規模の衛星都市を建設中とのこと。バスがソウルに近づくと、廃墟のような高層の建物群が現れ、やがて、クレーンが見えてきて、それが廃墟ではないことがわかります。バスは、漢江(ハンガン)の南にある、1988年のソウル・オリンピックにあわせてオープンした34階建てのインターコンチネンタル・ソウルへ。隣接する現代百貨店でショッピングを済ませ、夜は韓国式料亭「三清閣」(サムチョンガク)で韓定食をいただきました。料亭では、ピンク(赤)、青、(薄)緑の三原色を大胆にあしらったチマ・チョゴリを着こなした美しい妓生(キーセン)のアガシたちの接待を受けました。チャンゴという胴の中央がくびれた太鼓、テグムという横笛、カヤグムという琴による伝統音楽の演奏にあわせての優雅な舞に続いて、顔の位置に掲げた5つの太鼓を叩きわける、力強く華麗な舞が披露されました。五面太鼓の舞は、美しく力強い韓国の女性像を感じさせ、特に印象に残りました。ホテルに戻ると22時。ホテルの地下の三成(サムソン)駅から地下鉄2号線(環状線)に乗り、漢江の流れに沿って東西に広がるソウルのまちを、ひとまわりしようと決めました。ボタンを押してから、お金を入れるのが、韓国の切符の買い方。満員電車に揺られていると、電車は、地下から出て、地上を走っていきます。そして、35番目の聖水(ソンス)駅に着くと、電車は動かなくなり、乗客はみんな降りてしまいました。まだプラットホームに灯りがついているので、ふらふらしていると、駅員さんがカンテラで「ヨボセヨ~、下りてください」と合図をしているようです。時計を見ると12時。もう終電なの? あと、8駅で三成駅に戻れるのに……。呆然としている私を見つけて、歩み寄ってきた男性がいました。私が「終電なのですか?」と英語でたずねると、「そうだよ。自分も寝すごしてしまった。延世大学へ行く予定だったのに」と、切符を持っていない彼は、改札口を飛びこえました。「タクシーをひろっていただけますか?」「いいよ」。彼は、道路の反対側の、タクシーに乗ろうと並んでいる人たちのところへ私を連れていきました。韓国のタクシーが相乗りシステムだということを、そこで初めて知りました。タクシーが来ると、自分の行く方向を大声で運転手に告げ、方向が合うと乗せてもらえるようでした。お客様を乗せていないタクシーが、私たちを無視して通り過ぎていきます。「どうしてですか?」と聞くと、「もう充分にカネを稼いだからじゃないかな」。彼は、タクシーが来るたびに何回も「インターコンチネンタルホテル!」と、どなってくれ、とうとう私を相乗りさせてくれるタクシーを見つけてくれました。「Thank you very much. See you again」と握手して、三井グループの会社に勤めている彼と別れました。あのときは、本当にありがとう。あなたが助けてくれなかったら、私は道に迷いながら、夜が明けるころ、ホテルにたどり着いていたことでしょう。こうした出会いが、私の韓国への思いを熱くしてきたのだと思います。ホテルの部屋に戻り、テレビのスイッチを入れると、カタールのドーハで開催されている1994アメリカ・ワールドカップ出場を賭けてのアジア最終予選の初戦、日本VSサウジアラビア戦が始まっていました。それにしても、私たちは、この日、扶餘で日本の古代文化の源流にふれ、夜は、料亭で王朝時代の伝統芸能にふれ、いまは、東アジアを代表する大都市の外資系ホテルの高層階で、街の灯りが限りなく広がる夜景を眺めながら、遠く中東の地で戦う日本代表の試合を韓国語放送で観戦するという具合に、いくつもの空間をくぐりぬけてきたわけです。私は、タイムマシーンで時空をかけめぐり、ついに時空を超越した場所に至ったような感覚に捕われていました。韓国滞在5日目は、ソウル特別市の政治の中心地・汝矣島(ヨイド)にある韓日親善協会中央会に金守漢(キム・スゥハン)会長を訪ねました。金会長は、金泳三大統領の右腕といわれる国会議員で、大統領から「韓日の民間交流を深めてほしい」と特に請われて、1993年4月に会長に就任されました。金会長は、わが団長との会見のなかで「韓日の交流は、単に2国間の交流ではなく、世界の中の韓国と日本として位置づける必要がある。EC(欧州連合)やNAFTA(北米自由貿易協定)のような経済圏を構築し、共存共栄をはかっていかなければならない。そのためには、韓国への技術移転をもっと促進してもらいたい。そうすれば韓国経済は発展し、それに伴って日本から韓国への輸入が増えるので、全体のパイが大きくなり、韓日両国にとって良い結果を生み出すだろう」と東アジア経済圏の構築を提唱されました。また、韓日交流の歴史について「韓日の間には、過去に不幸な歴史があったが、長い友好の歴史のなかの、ほんの一時期にすぎない。今度、1300年ぶりに韓国に里帰りする宮崎県南郷村の神社のご神体は、百済王朝が滅びたとき、日本に亡命した王族なのである。日本文化の源は韓国にあり、韓日(の祖先)は同じといっても過言ではない。国立扶餘博物館は、韓国の一流の建築家が日本の神社等を研究して設計したもので、東亜日報に『日本の真似』と書かれたが、その源をたどれば韓国のものなのである」と話されました。さらに、静岡県と韓国との交流について「北陸地方の人たちに比べて、韓日交流に熱心でない」との感想をもらされたので、わが団長は「静岡は、朝鮮王朝との善隣友好関係を築いた徳川家康の本拠地であり、興津の清見寺には、朝鮮通信使が残した書画が大切に保管されています。明治維新以降の日本は進む道を間違ってしまいましたが、戦後の静岡県では、SBS静岡放送とMBC大邱文化放送との交流、日韓親善高校サッカー大会の継続開催、シャンソン化粧品のバスケットボールチームにおける韓国人選手やコーチの起用、自動車部品・精密部品メーカーの韓国での製造、静岡県立大学では、国公立大学として初めて、在日韓国人である金兩基(キム・ヤンキ)氏を国際関係学部教授に迎えたことなどを説明して、金会長に反論。金会長も、静岡県に対する認識を新たにしたようでした。こうして金会長との約1時間の面会は終わりました。あとは、お楽しみの時間です。戦後、米軍基地の町として栄えてきた梨泰院(イテウォン)では、おみやげに有名ブランドのコピー商品を買いました。ロレックスの時計、シャネルのスカーフ、イヤリング……。昼食は、南大門(ナムデムン)近くの焼肉屋へ。骨付きカルビを3人前、冷麺(ネンミョン)も完食。東和免税店では本物のシャネルを購入。そして、最後の訪問地・景福宮(キョンボクグン)へ。土曜日ということもあって、結婚式を挙げる花嫁花婿があちこちで写真撮影をしています。このあと、空港へ向かう道路でも、風船をつけたクルマがたくさん走っていたし、空港でも、新婚カップルを見かけました。「チュッカハムニダ(おめでとうございます)!」とカメラを向けると、ポーズをとってくれました。景福宮は、朝鮮(チョソン)王朝の宮殿です。高麗(コリョ)王朝(936年~1392年)を滅ぼして、朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は、王都を漢陽(ハニヤン、現・ソウル特別市)に築くことを決めました。漢陽は、韓半島の中央に位置して、水陸の便が良く、風水地理説からみても、北漢山の山系が南に延びた北岳を主山とし、四囲を山に囲まれた盆地で、その中を流れる清渓川(チョンゲチョン)と漢江があり、背山臨水、南面山麓、山河襟帯の貴い地相と考えられたのです。漢陽を王都に選んだ李成桂は、1394年に新都建設のための設計図を作らせ、全国から民衆を動員して建設工事に入りました。1395年には、王朝政治のシンボルである景福宮の宮殿群が北岳山の山麓に南向きに建てられ、その南方に弧を描いて流れる漢江を望むように工夫されました。その東方に歴代の国王を祀る宗廟、その西方に神を祀る社稷壇が完成。つづいて景福宮の前面に大路(現在の世宗路)を開き、その大路の東西に王朝政治の中枢機関が立ち並ぶ官庁街をつくりあげました。1592年4月、豊臣秀吉の軍勢が釜山に上陸し、壬辰倭乱(イムジンウエラン、文禄の役)の火蓋が切られました。小西行長率いる18000余兵は中路を、加藤清正率いる22000余兵は西路を、黒田長政率いる11000余兵は東路を通って北進し、城や寺院を焼き払い、上陸後20日目には漢陽に至り、景福宮など王宮になだれこみ、掠奪のかぎりをつくし、さらに北進して平壌城を落としました。1593年4月に豊臣軍が撤退した後、景福宮をはじめ朝鮮王朝の中枢部が集中していた一帯は、灰燼に帰していたそうです。以来、徳寿宮が王宮に使用され、景福宮が再建されたのは1865年、第26代王・高宗の実父である興宣大院君(フンソンデウォングン)によってでした。大院君は、摂政として実権を握り、政治制度を改編して民衆の生活を向上させる一方、外国勢力を排斥し、王朝の権威を回復しようとしました。しかし、1873年に大院君が失脚すると、朝鮮王朝は、日本をはじめ諸外国と通商条約を結ぶことになります。景福宮は、1991年から10年計画で復元工事をすすめているとのことで、あちこちで建築中。王が臣下の朝会と賀礼をうける正殿「勤政殿(クンジョンジョン)」と、方形蓮池内に建てられて水面に美しい姿を映す宴会用楼閣「慶会楼(キョンフエル)」などを見てまわりました。最後に、同じ敷地にありながら、伝統的な木造建築物の宮殿とは対照的な、日本の国会議事堂を思わせる大理石の建物へ。この建物は、1910年に韓国を植民地とした日本が、景福宮の宮殿の一部を取り壊し、9年の歳月をかけて1926年に朝鮮総督府の新庁舎として竣工した建物です。終戦と同時にアメリカ軍の政庁となり、1948年の大韓民国建国後は韓国政府の中央庁として使われ、1986年からは国立中央博物館として利用されてきたそうです。そして、金泳三大統領は、政権発足から半年たった1993年8月8日の閣議で、「わが民族の自尊心と民族精気回復のためには、朝鮮総督府の建物をできるだけ早急に解体することが望ましい」と発表したのでした。館内は、修学旅行の小学生たちでいっぱい。集合時間も迫っていたので、私は、仏像と白磁の展示を見てまわり、金銅三山冠半跏思惟像の本物と対面したのですが、日本帝国主義が建てた重厚な建物のなかでは、その微笑みも凍りついているように見え、何も感じられず、残念でした。私は、1936年ベルリン・オリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタール監督の映画『民族の祭典』の最後、マラソンの過酷なレースを走りぬいて優勝した孫基禎(ソン・ギジョン)選手と3位になった南昇龍(ナム・スンニョン)選手が、表彰台で月桂樹の冠を受けて、うつむいて立ち、日の丸があがり、君が代が流れるシーンを忘れられません。同様に私は、朝鮮王朝の美しい木造の宮殿群のなかに、割りこむように、そしてそれらの建物を威圧し、つまりは韓国民の歴史文化を威圧するように建てられた旧朝鮮総督府庁舎を見せられて、「異民族支配とは、どういうことか」ということを改めて認識させられました。旧朝鮮総督府庁舎は、1995年8月15日から解体・撤去され、現在は、光化門の背後に景福宮の宮殿が見え、その向こうに青瓦台(大統領官邸)のある北岳が見える、朝鮮王朝建国以来の景観が、68年ぶりに取り戻されたとのことです。
2007.08.08
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道高パラダイスホテルの朝食もアメリカン・ブレックファスト。私たちは、韓国料理の朝食を体験できませんでした。4日目に訪問した公州(コンジュ)と扶餘(プヨ)は、百済(ペクチェ)の都が置かれたところです。韓半島の西南部に約700年間にわたって栄えた国・百済は、飛鳥時代の日本に仏教を伝えるなど、日本の文化の発展に大きく貢献した国です。公州へむかう道路ぞいには、ずっとオレンジ色のコスモスの花が咲いていて、とてもきれい。そのむこうの水田は、稲刈りの真っ最中で、地面に広げた布の上に刈りとったモミを並べて乾燥させていました。公州では、武寧王陵(ムリョンワンヌン)を見学しましたが、私は前夜の唐辛子で真っ赤な鍋料理のせいか、おなかの調子が悪く、一行が見学を終えて出てくるまで、トイレのなかで過ごすことになってしまいました。おみやげ屋さんは、修学旅行の学生たちでいっぱい。女子学生はみんな、よく笑います。武寧王陵を背景に記念写真を撮るとき、一緒に写真に入ってもらいました。扶餘へむかう間、ゆったりと流れる白馬江(べンマガン)を眺めながら、ガイドさんは、百済王朝滅亡の物語を語りはじめます。韓半島では、西暦300年代の後半から、百済、高句麗、新羅の三国時代に入りました。三国は、戦国の時世ならではの不思議なかけひきを繰り返しながら、約300年間にわたり、一定の均衡状態を保っていました。その均衡が崩れたのは660年、新羅が唐と結んで、百済を滅ぼしたときでした。百済の始祖は、現在の中国の東北地方・吉林省の一帯を原郷とする扶餘族の出身で、漢城(現在のソウル)に王都を置きますが、高句麗の攻撃に耐えきれず退却を余儀なくされ、475年には王都を熊津(現在の公州)に移します。私たちが訪れた王陵の主・武寧王は、501年に第25代の王位を継ぐと、高句麗を攻撃して、百済の領土を拡大。これを認めた梁(中国)の武帝は、武寧王に使持節都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王の称号を与えました。しかし、523年に武寧王が亡くなり、その子・聖明王が即位すると、国力は再び衰え、537年には王都を泗ビ(現在の扶餘)に移します。641年、第31代の王位を継いだ義慈王は、雄雄しく、勇ましく、胆力があり、決断力があり、642年7月、自ら兵を率いて新羅を攻めて、40余の城をおとし、初陣に見事な勝利をおさめ、百済の士気は一気に高まります。しかし、新羅でも、後に統一新羅の礎となった金ユ信将軍が頭角をあらわし、百済と新羅の戦いは一進一退の戦況が続くようになり、651年、新羅の真徳女王が、唐の太宗に百済との講和を上奏すると、太宗は使臣を百済に遣わし、停戦を命じたのでした。このころから義慈王は、酒に時を過ごすことが多くなりました。宮人とともに宮女をはべらせ、耽楽し、酒飲を楽しみ、政務はとどこおりました。王の生活は日に日に乱れ、ひどくなっていきました。もともと百済人は、軍は得意ではありませんでした。文化的な素質に優れ、文化人や芸術家が多く、軍上手な武人には恵まれませんでした。660年3月、唐の13万の大軍が海路を百済に出発。一方、新羅は、武烈王と金ユ信将軍に率いられた精鋭5万が陸路を百済に出発。海と陸から唐と新羅の両国に挟み撃ちにされた百済は、もう打つ手を失っていました。7月18日、百済の義慈王は、太子を連れて逃れていた熊津城から出て、降伏。温祚王が建国して678年間続いた王朝の幕が下りました。義慈王は、唐に連れていかれ、まもなく病死。扶蘇山の王宮に仕えていた3000の宮女は、王宮が焼かれたとき、敵に捕らわれて辱めを受けたくないと、西端の絶壁から白馬江に身を投じて、百済とともに散っていきました。その絶壁を、後世の人が、白馬江に身を投じた宮女を花にたとえて「落花巌(ナクァアム)」と名づけました。一方、国は滅んでも再起をかけて戦う百済人は、倭国に滞在していた義慈王の王子・扶餘豊を王に迎え、高句麗と倭国に援兵を請います。倭国は、これに応えて兵を送り、白馬江の河口・白江で扶餘豊の兵と合流。海では、倭国の兵が唐の水軍と戦い、陸では、新羅の軍隊を相手に扶餘豊と倭国の連合軍が戦いますが、大敗。多くの百済の将兵が倭国の軍船で日本に渡ってきたと『日本書紀』は伝えています。やがて、唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼし、韓半島は統一新羅時代を迎えます。扶餘では、1993年8月6日に移転オープンしたばかりの国立扶餘博物館を見学。百済の文化は、すべて消滅したと聞かされていましたが、古墳、寺院跡、城跡、王宮跡、瓦窯跡などから発掘されたものが、これだけあったのかと感激。青銅器時代の土器、石器、銅器、銅剣、銅鏡、銅鐸などからは、私たちが住む静岡の登呂遺跡の源流・日本古代文化の源流がここにあることが実感されました。百済の美術は丸みをおびたデザインに特徴があるとのことで、三国時代の壺、装身具、金銅製・石製の仏像や菩薩像、蓮の花をかたどった瓦、鳳凰・龍・鬼などを優美に表現したレリーフなどに日本人の美的感覚との共通性が強く感じられ、私は限りない愛着を覚えました。開館記念として、日本の高松塚古墳や藤ノ木古墳の出土品も参考展示されていて、百済と古代日本との交流を再認識できました。特に、私が惹かれたのは、韓国の国宝83号に指定されている金銅三山冠半跏思惟像でした。国立扶餘博物館に展示されているのはレプリカで、本物には翌日、ソウルの国立中央博物館で対面することになるのですが。半跏思惟像の高さは93.5㎝。私の目の前に、3面が丸い山模様の冠をかぶった、その人が、右足を左足にのせ、その右足の足首に左手をのせ、右足のひざに右手のひじをのせ、右手の人差し指と中指をそっと頬にあてて、微笑みながら瞑想にふけっているように感じられるのです。上半身は薄い布を着けているのか、ほっそりと美しい丸みをおびた肉体を見せ、胸元に2本の首飾りをしています。下半身をゆったりとおおっている服は美しい襞を描き出し、左足は蓮の花をかたどった台座を踏んでいます。まず、思ったのは京都・太秦の広隆寺に伝わる弥勒菩薩半跏思惟像にそっくりだということです。奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像にも似ています。わが国を代表するこの2つの半跏思惟像が木造であるのに対して、1920年代に慶州で発見されたと伝わる、この三国時代の半跏思惟像は金銅製であるにもかかわらず、そこに、その人がいるような温かみを感じさせるのに驚きました。私は、あこがれの人にやっと出会えたと感じ、その人の前にいつまでもたたずみ、相対していたいと感じました。その人の前から立ち去りがたかったことをいまでも覚えています。そして、その人は、私がこうありたいというイメージを形象化した人として、私に影響を与え続けています。博物館を出ると、お昼。扶餘の食堂で参鶏湯をいただきました。大邱の桐華寺の近くの食堂とは異なり、今度は、鶏の腹のなかにおかゆが入っていました。バスは、いよいよソウルにむかいますが、ソウルでの話は次回に譲ります。ここでは、私の韓国旅行の後で起こった、古代の日本列島と韓半島との交流に関する、二つの出来事を紹介したいと思います。ひとつは、天皇陛下が2001年12月18日のお誕生日に際して記者会見された際、記者の「世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年、日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ、両国の市民レベルの交流も活発化していますが、歴史的、地理的にも近い国である韓国に対し、陛下が持っておられる関心、思いなどをお聞かせください。」との問いに、次のように答えられたことです。「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。(後略)」なぜ、523年に百済で亡くなった武寧王の子孫が日本にいて、794年に平安京を創る桓武天皇を生んだのでしょうか。武寧王の父・蓋鹵王の時代、百済は高句麗の攻勢を受けて、退却を余儀なくされており、蓋鹵王は、倭国の支援を受けるため、自分の弟の昆支を、妊娠していた自分の妻と結婚させて、倭国の大王(天皇)のもとに送りました。その途中、筑紫の各羅島で生まれた男児が後の武寧王で、百済に送り返されました。蓋鹵王の弟の昆支は、倭国に滞在して5人の子どもが生まれたと伝えられており、武寧王の子・淳陀も、514年に倭国で死去したと伝えられています。義慈王の王子・扶餘豊も日本に滞在していたことを考えあわせると、当時、百済の王族が多数、倭国に滞在していたと推測できます。663年、百済救済の倭国軍が唐・新羅軍に白村江で撃破されると、その王族を頼って、多くの百済の将兵が倭国に渡ってきたのでした。また、桓武天皇が都を遷した山城国は、古くから韓半島からの渡来人・秦氏(新羅人)が住みついていた土地でした。もうひとつは、2007年1月20日に行われた大学入試センター試験の日本史Bの第1問に、ソウルの国立中央博物館の金銅三山冠半跏思惟像と京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の写真が並べて掲載され、このふたつの仏像の歴史的背景が次のように述べられたことでした。「図1・2を見てみよう。いずれも7世紀に制作されたと考えられる有名な仏教彫刻である。現在、図1の像は韓国ソウルの国立中央博物館、図2の像は京都の広隆寺で、それぞれ所蔵・公開されている。両者がとてもよく似ているのは当時の東アジアの歴史が関連しあって推移していたからだろう。また図2の像は、日本の伝統文化や歴史を再評価しようとする動きのなかで、近代に至って真っ先に注目された。なお二つの像は、両国でそれぞれ国宝に指定されている。」私は、二つの仏像が生まれた時代をこんなふうにイメージします。仏教は、はるかインドから、シルクロードを通って紀元前2年に中国に伝わり、やがて政治的色彩を帯びて、4~5世紀に韓半島の三国に伝わりました。そして、韓半島から6世紀の倭国に伝わりましたが、天地の八百万神を四季ごとに祭ってきた大王(天皇)と物部氏と、新しい文明・技術とともに仏像礼拝を広めようとする蘇我氏との間で、しばらくの間、争いが続きました。そんな時代に、韓半島から渡ってきた仏師の手によって、1本の赤松材から彫り出された弥勒菩薩半跏思惟像は、仏教に深く帰依した聖徳太子の手を経て、山城国の秦河勝に渡り、広隆寺で礼拝されるようになったと伝えられています。蘇我氏が建立した飛鳥寺の釈迦如来座像にくらべて、これら二つの仏像は、私たちに親しみやすく、瞑想にふけるブッダその人を生々しく感じさせます。仏教が生まれて数百年後に、ブッダの思想をしなやかな形で表現する仏像が韓半島で生まれ、日本列島への仏教伝来の最初の使節となり、その美しい思想を伝えてくれたことは、しあわせな出来事だったと、私は改めて感じます。
2007.03.22
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韓国訪問の第2の目的は、1988年のソウルオリンピックに次ぐ世界的規模のイベント「大田(テジョン)世界博覧会93」を視察することにありました。わが団長が、駐横浜大韓民国総領事館の推薦を受け、1993年6月から、日本における「大田世界博覧会93」名誉広報委員に就任し、博覧会のPRにつとめていたからです。朝9時、バスに乗りこもうとすると、大邱の皆様が見送りに来てくださいました。とてもていねいな対応に深く感謝して、釜京高速国道を大田へ。儒城観光ホテルで早めの昼食(ビビンバ)をいただいてから、大田直轄市の北部、大徳研究団地内にある広さ90.1㏊の博覧会の会場へ到着。まずは大田世界博覧会組織委員会の李大淳委員長を表敬訪問しました。国会議員であり、逓信部長官などを務めた李委員長は、「大田直轄市には、科学技術研究施設が多数立地しており、世界112カ国が参加する大田世界博覧会93を契機に、国民の科学技術への関心を高め、博覧会のテーマである『新しい跳躍への道』の言葉通り、韓国の発展に弾みをつけたい。11月7日の会期終了までに1000万人の入場は確実で、日本からも30万人が入場するだろう」と語りました。会場には、モノレールが走り、頭の上をゴンドラが往復。家族連れはもちろん、何よりも団体旅行の小・中・高校生の姿が目立ち、約30あるパビリオンを、入場待ちの列が幾重にも取り囲んでいました。私たちはまず、大宇(デウ)グループ提供の「人間と科学館」の大型立体(3D)映像を日本語訳で観ました。続いて入った「資源活用館」は、ガイドの日本語がうまく、コンパニオンの白いコスチュームも素晴らしかったです。今回の博覧会の開催にあたっては、韓国の政界・経済界から、在日同胞や日本各地の日韓協会、各種経済団体を通じて、日本人への博覧会のPRと来場への動員がさまざまな形で行われたのでしょうが、両方のパビリオンとも、日本語への対応が見事で、日本からの来場者への対応に力を入れていることが実感できました。3つめのパビリオンは「日本館」。日本人のコンパニオンは美人ぞろいだし、弥生時代風のコスチュームも良かったです。展示は、日本の陶器づくりの作業場を再現したジオラマにロボットを登場させて、中国・朝鮮半島から海を渡ってきた様々な技術や文化を、日本が継承・発展させていることを紹介するコーナーと、盲導犬のロボットが、様々な障害物を避けて視覚障害者を誘導する実演ステージで構成されていましたが、物足りなさを感じました。1993年8月7日から11月7日まで93日間にわたって開催された「大田世界博覧会93」には、最終的に1000万人の入場者目標を上回る1400万人(1993年の韓国の人口は4400万人)が入場し、成功裡に終了しました。韓国は、1964年に「東京オリンピック」を開催し、1970年に大阪で「日本万国博覧会(入場者数6422万人)」を開催することで、世界の先進国の仲間入りを果たした日本を注目していたのでしょう。そんな日本に追いつき、追い越せと、1988年に「ソウルオリンピック」を開催し、1993年に「大田世界博覧会」を開催したのだと思います。1993年当時、韓国の高速道路を走っているクルマは、韓国車のHYUNDAI(現代)、DAEWOO(大宇)、SAMSUNG(三星)であって、日本車は見かけませんでした。韓国の自動車産業は、高度成長期を迎えていたところでした。しかし、その後の韓国経済は、1997年に通貨危機に見舞われると、IMFの管理体制下に入り、無理な外部からの資金の借り入れと投資を続けていた多くのメーカーは、金融危機と倒産の危機に直面。大宇グループが解体するなど、大規模な構造調整を強いられました。こうしたなか、1998年2月に大統領に就任した金大中氏は、国家情報化戦略「サイバーコリア21」構想を打ち出し、国民全体のIT教育や電子政府の実現を推進しました。この結果、2001年には、世界一のブロードバンド普及率を達成。大統領選挙が行われた2002年12月には、インターネット利用者が国民全体の約60%に達し、20代~30代のネチズンたちの圧倒的な支持により、盧武鉉(ノムヒョン)氏が次期大統領に選出されました。私は、1993年に「大田世界博覧会」の会場で最先端の科学技術にふれた小・中・高校生たちが、10年を経て、インターネット世代として社会を動かすまでになったことを感慨深く受けとめました。そして、2002年FIFAワールドカップでは、韓国は、日本と肩をならべて大会を共催するに至り、韓国代表チームは、ヨーロッパの強豪国を次々に破ってベスト4へと快進撃を果たしました。「ついに日本を追い越した」との思いをかみしめたのではないでしょうか。いま、「大田世界博覧会」を振り返ると、マスメディアを通じて知った、その後の韓国の発展の道のり、特に、韓国代表チームの戦いぶりに感動し、熱い声援をおくった日々に思いが至ります。さて、「大田世界博覧会」の視察を終えた私たちは、3日目の夜を温陽(オニャン)の道高パラダイスホテルで過ごしました。温陽は、約1300年前に発見された、韓国でもっとも長い歴史をもつ温泉地。朝鮮王朝の歴代の王が保養や病気治療を目的に訪れました。戦後、国鉄の開通とともに観光地として脚光を浴び、代表的な新婚旅行地だったとか。温質はアルカリ性ラジウム泉で、泉温は約50℃、皮膚病や神経痛などに効果があるそうです。同僚は、お風呂場でアジュンマにアカスリをやってもらい、ぴかぴかのピンク色の肌になり、「気持ち良かった」とニコニコしていました。夕食は、海鮮料理の寄せ鍋でしたが、出し汁が唐辛子で真っ赤なので、びっくり。そのせいか、翌日、おなかをこわしてしまいました。夕食後、男性たちは、ナイトクラブへ行ったようでしたが、私は、古いホテルの狭い客室で、テレビを見ました。テレビコマーシャル、若者むけバラエティ番組、三角関係を描いたテレビドラマ、ロバート・レッドフォード主演の映画『ハバナ』などを韓国語で楽しんでいるうちに、眠っていました。大田世界博覧会93 日本館
2006.11.14
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朝食はアメリカン・ブレックファストでした。9時30分にホテルを出発して、八公山(パルコンサン)桐華寺(トンファサ)へ。まちを歩いているとキリスト教の教会の十字架が目立ち、キリスト教徒の多さを実感します。韓国国民の22%がキリスト教だそうで、仏教徒の数にほぼ匹敵するとか。一方、お寺は、人里はなれた山の中につくります。八公山は標高1192mの山で、山の四方に古刹と石造物が点在し、仏教空間を形成しています。桐華寺は、八公山の東麓にある493年に創建された古刹で、当初の名前は瑜伽寺。寺を再建する際、冬なのに桐の花が美しく咲いていたので、それにちなんで桐華寺とつけられたとか。まずは、高さ33mの石造りの統一薬師如来像へ。この大仏の造成には、韓半島の民族の統一を願う切なる思いがこめられているそうです。まわりの建物は建設中。参拝者は、瓦1枚に家族の名前を書いて1万ウォンで寄進していました。大雄殿へ。岩山を切り開いて建てた印象。まわりの木々は紅葉していて、静か。おちついた雰囲気は、精神世界の探求にふさわしい環境と感じました。韓国の僧侶の90%は、生涯を独身で過ごすそうです。そこで、食べ物も、精力増強につながるニンニクやネギの入ったキムチは食べないとか。お寺は、修行と学問の場であり、そこには、日本のような信者のお墓はありません。韓国では、死者は土葬で、山の中腹にある墓地・先山(ソンサン)に葬ります。親の供養のために広大な土地の墓をつくろうとする傾向にあるので、政府は、墓の広さを以前の12坪から3坪に制限し、土葬でなく火葬をすすめているそうです。これも、韓国の儒教精神と関係があるのではないでしょうか。儒教精神はまず、親子関係に発揮されると聞きました。親をうやまい、親の前では、子供は煙草を吸わない。酒の飲み方は、親や兄から、少しずつ飲む作法を教わり、酒に呑まれないようにするとか。昼食は、桐華寺の近くのレストランで参鶏湯(サムゲタン)。鶏の内臓に、もち米、にんにく、なつめ、にんじんなどを詰めたスタミナ料理で、百済13代の王が3000人の女性を相手にするために食べていた料理……とガイドさんは紹介されました。が、おかゆと鶏肉が別々に出てきて、おかゆには味がないので、塩をふり、キムチ、味つけしてある青野菜と一緒にいただきました。裏山で採れたという松茸を1㎏7~8万円で売りにきた人がいましたが、見るだけ。食事のあと、放し飼いの鶏や雉、唐辛子を干しているところ、青野菜をまとめているところを見ました。朝鮮人参は4~6年、限られた土地に政府の許可を得て植えるそうです。人参を作ったあとは、土地がやせほそるため、肥料をやり、他の作物を作って、10年かけて土をもとにもどさないと、次の人参を作れないそうです。人参のエキスや粉末は、蜂蜜を混ぜて、お茶のように飲むと、体質が改善されるとのこと。韓国では、嫁に行くときには、キムチの漬け方を教わります。その家庭独特の、辛さばかりではない微妙な味で、汗は出るが、涙は出ない辛さ。10月から翌春の野菜が獲れる時期まで、土に埋めて作ったキムチを食べたものですが、最近のマンション暮らしの若い人たちは、キムチを買って食べる人が増えて、親孝行も薄れつつある、とガイドさん。大邱のまちなかに戻り、9月にオープンしたばかりの12階建てのデパート「大邱百貨店プラザ」を見学。12階は屋上庭園、11階はファーストフードショップと地元放送局MBCのスタジオ、10階は画廊、9階はレストランフロア。江戸前すし屋が出店していて、お客様でいっぱいでした。8階は、バーゲン売り場で、黒山の人だかり。6階は、オーディオ、本屋、CDショップなど。ラジカセは、SANYO、AIWA、PANASONIC、SONY、韓国製ではSAMSUNGとGOLDSTAR。韓国人の日本製品に対する要望は強く、MADE IN JAPANというだけで、どんな商品でも飛びつく傾向にあり、在日同胞が日本で安く買った商品を韓国へ持ち込んで高く売るケースもあるとか。在日同胞の韓国での活躍については、このほかにも、いろいろと耳にしました。韓国では1本20万円するコニャックのナポレオンを、在日同胞が免税店で1本7千円×2本購入して入国し、それを韓国の料亭に販売して旅費を浮かす人が多いので、洋酒の持ち込みは1本に制限されるようになったとか。バブル経済を日本で経験した在日同胞が、韓国でひと足先に株を買い、株価が落ちる前に、土地を買って、大金持ちになったとか。それらのエピソードには、韓国人の在日同胞に対する複雑な感情がこめられているような気がして、興味深くうかがいました。大邱タワーに登り、大邱市内を見渡しました。高層住宅や工場が遠くまでぎっしりと広がっています。私の住んでいる静岡市とはスケールがちがいます。ひとつひとつのビルも大きい。もちろん、小さな家もありますが。1000ウォンで、アイスクリームを食べました。大田万博のマスコット人形や韓国プロ野球グッズを売っていました。達城公園へ。なぜ入場料を払うのかと思ったら、中央が芝生公園で、まわりが動物園でした。小鳥たち、熊、猪、猿、狸、狐、鷲、梟、孔雀、馬などをざっと見て歩きました。子供づれの若い女性やカップルが多いように感じます。木陰では、民族衣装を着たおばさまたちが芝生の上に敷物を敷いて、円陣を組んで、ゲーム?をやっています。山高帽と白いでっふりとした民族衣装を着たおじいさんたちも、公園の入口付近に集まっています。公園のまわりには、自動車部品か何かの金属を加工する中小の工場や商店が立ち並んでいます。ホテルにむかって、ぶらぶらと歩いていくと、コンクリートの瓦礫のむこうに教会がそびえ立っています。交差点は地下道で結ばれていて、地下商店街を形成しています。原宿の竹下通りか上野のアメ横の感じで、色とりどりのレオタード、下着、靴、チマ・チョゴリ、洋服、CD、化粧品、本、薬、その他。大邱は薬でも有名らしいです。女学生が列を組んで下校するのに出会いました。本屋さんのガラスに「non-no」のチラシが貼ってあります。ガラスのむこうには、「with」「more」「non-no」「anan」など日本のファッション雑誌が並んでいます。繊維産業の都市ということで、日本のファッション・ビジネスを研究するために買っていくのでしょうか、それとも先ほどの女学生たちが日本のファッョンを楽しむために買っていくのでしょうか。夜は、太金レストランで、提携先の経済団体主催の歓迎晩餐会。レストランへ着くと、プレゼントとして静岡から持ってきた葛飾北斎の赤富士を描いた駿河塗羽子板や人形を飾りました。まず、提携先団体の役員25名の皆様がひとりひとり握手で私たちを迎えてくださり、両団体の代表のあいさつで始まったパーティは、緊張のうちにも、とどこおりなく進んでゆきました。提携先の団体の会長さんは、私たちひとりひとりにお酒を注いでくれました。お店のママさんともうひとりの女性がチマチョゴリを着て、あとのふたりの女性は白のブラウスに黒のミニスカートで、もてなしてくれました。ママさんは、日本語も話されました。となりの部屋では、プロ野球の韓国シリーズのテレビ中継を流していて、大邱がフランチャイズの三星(サムソン)ライオンズが0-5で負けていたので、みんな残念がっていました。私は、今回の旅行の準備をファックスでやりとりした提携先団体の担当者の男性と歓談しました。大学で2年間、本で勉強しただけだという彼の日本語に「立派だ」と、みんなで拍手しました。日韓併合の痕跡として、年配の方は日本語が話せますが、若手経営者は韓国語しか話さず、こちらも韓国語が話せないのは問題です。私が、担当者の男性の同僚の方と英語で親しく話していたら、担当者の男性が気分を害したようで、ちょっとびっくり。パーティの最後にも、役員の皆様が私たちひとりひとりと固い握手をして送ってくださいました。私は、ホテルの部屋へ戻ると、着替えて、夜の大邱の街へ出かけました。もう22時を過ぎています。ホテルの前の道をずっと歩いていき、交差点を渡るために地下へ下りると、やはりここも商店街になっていますが、ほとんどの店は閉まっています。地上へ出て、ずっと歩いていくと、道の反対側に24という赤いネオンサイン。コンビニエンスストアだな、あとで寄ろうと思いながら、歩いていると、昨晩、バスから見えた明るい商店街が見えたので、その商店街を、恋人たちの後について、歩いていきます。商店街が終わり、地下へ下り、地上へ上がると、「TAEGU STATION」。階段をのぼると、改札口前で、みんなテレビを見ています。観光案内窓口で「大邱市の地図はないですか?」と聞きますが、通じないのか、わからないのか、返事がありません。昼間、ホテルでたずねたときも、韓国語の地図のコピーしか、ありませんでした。大邱は観光地ではないから、つくっていないのかな。それとも、北の侵略を警戒して、地図を公表していないのかな。(現在は、大邱広域市のホームページに日本語版があり、地図も掲載されています)駅は、線路をまたぐ橋上駅舎構造になっています。北口にはテニスコートがあって、テニスをしている人たちが見えます。あと、温泉マークも見えるのですが、ラブホテルなのでしょうか? 橋の上では、恋人たちが線路を見下ろしながら、話をしています。女性が持っている花束は、下の屋台店で、男性が買って、プレゼントしたのかな。慶州方面から吹いてくる海風が気持ち良いです。23時に貨物列車が通り、23時15分にディーゼル機関車に引かれた客車が10両くらい、到着しました。その列車が駅を出ていくのを見送って、南口に下りました。駅前には屋台が並んでいて、ラーメンのようなものを食べさせる店、果物を売る店、おでんのようなものを串にさして、若いサラリーマンたちに食べさせている店など。商店街のショーウインドを眺めながら、歩きます。靴屋の斬新なディスプレイに目をひかれていると、ひとりの男性が声をかけてきました。無視して、歩いていると、「アガシ!……」としゃべりながら、追いかけてきます。3つ目の交差点を過ぎて、ふりかえると、追ってこなくなりました。私は、こんなふうに異国の夜を過ごすのが好きです。あれから十数年、その間、私は、ニュースで、何度か「テグ」という言葉を耳にしました。ひとつは、2002年FIFAワールドカップの開催地に選ばれて、韓国最大の大邱ワールドカップ競技場(66040席)を建設し、セネガルVSデンマーク、南アフリカVSスロベニア、韓国VSアメリカ合衆国、韓国VSトルコの4試合を開催したこと。もうひとつは、2003年2月18日9時53分に、大邱広域市中区で発生した「大邱地下鉄放火事件」(死者192名、重軽傷者148名)。大邱のまち、どんなふうに発展しているのでしょうか。民族統一の願いがこめられた桐華寺の薬師如来像
2006.11.06
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私が韓国へ行ったのは、1993年10月。韓国は私に、強烈な印象を残しました。火曜日の午後、名古屋空港から釜山(プサン)の金海(キメ)空港に飛び、大邱(テグ)で2泊して、大田(テジョン)世界博覧会を見て、温泉地・温陽で1泊、さらに、かつて百済の都として栄えた扶余(プヨ)へ行き、ソウルで1泊して、土曜日の夜、金浦(キンポ)空港から名古屋空港へもどる4泊5日。私は、ある経済団体の韓国親善訪問団の団長秘書として、この旅に参加したのですが、韓国観光公社の女性のガイドさんが、バスのなかで韓国の歴史と文化について話してくださり、それを現地で確かめていく旅でした。当時のメモを読みながら、再体験してみたいと思います。名古屋空港の出国搭乗手続を済ませて、免税店で、友人に頼まれたシャネルの口紅とアイシャドーを買ってルンルン気分だった私も、飛行機の窓から、たくさんの船が白い波を立てて進む対馬(大韓)海峡を眺め、干潟が現われ、畑が現われ、90分後の15時40分、金海空港に着く頃には、緊張していました。窓の外には迷彩色の軍用機とヘリコプターが並んでいます。日本との時差はありません。空港では、業務提携を結んでいる大邱の経済団体の人たちの出迎えを受けました。金海空港のある金海は、現在は釜山市に編入されていますが、『日本書紀』に任那として登場する駕洛(カラ)国の古都だそうです。韓国最大の川・洛東江(ナクトンガン)を渡り、大邱へバスを走らせます。道端にはピンクや白のコスモスが咲き乱れ、ハングルで書かれた色とりどりの看板と田園風景、ところどころに白い高層住宅団地が立ち並んでいます。やがて、バスは雑然とした街並みのなかをビー・ビーとクラクションを鳴らしながら走ります。地下鉄工事か、いたるところで工事中。ここで、ロッテのサクセス・ストーリーを。ロッテの創業者・重光武雄(辛格浩)氏は、釜山市近郊の貧しい農家の長男として生まれ、早稲田大学理工学部を卒業しましたが、就職できず、石鹸工場を創業したそうです。戦後、アメリカ兵がガムをかんでいるのを見て、石鹸をつくる釜でガムの製造を開始して成功。ロッテという社名は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に登場する恋人のシャルロッテからいただいたそうで、「お口の恋人・ロッテ」というキャッチフレーズとともに、この社名は好評を博し、現在は、2大財閥(現代と三星)に次ぐ、10大財閥のひとつに数えられているとか。京釜高速国道に入ると、クルマの流れはスムーズに。制限時間は100㎞ですが、バスは150㎞で走ります。いままでは釜山からソウルまで片道12時間かかっていましたが、この高速道路の開通で、ソウルとは1日交通圏になったそうです。日本で東名高速道路が開通した1969年頃の高度経済成長期を韓国は迎えているのでしょうか。ただし、高速道路は、日本のようなアスファルト舗装ではなく、傷みにくいようにコンクリートでつくられていて、中央分離帯をつくらないで、有事には軍用機の滑走路として使用するとのこと。途中、ドライブインでトイレ休憩。建物は西洋風で、自動販売機もある、などと、日本の施設と比べて、ひとつひとつチェックする私でした。ガイドさんから、韓国の地方自治制度についての説明がありました。日本の県にあたるのは、韓国では、全羅道、慶尚道などの道。北海道の道と同じですね。日本の政令指定都市にあたる人口100万人以上の都市は、直轄市と呼ばれ、釜山、大邱、仁川、光州、大田の5都市(現在は蔚山をふくむ6都市が広域市と呼ばれているようです)。人口1000万人以上のソウルは特別市で、人口が集中しすぎていることから、周辺に30万人規模の衛星都市を建設中とのこと。全羅道(ジョルラド)は、古代日本との交流が深かった昔の百済の地域で、新羅との戦いに敗れて、文化財を焼き払われたため、唯一の歴史遺産は石の塔だとか。韓国の歴代大統領では金大中(キム・デジュン)氏が全羅道の出身。慶尚道(キョンサンド)は、昔の新羅(シルラ)の地域。新羅の古都・慶州(キョンジュ)では、文禄・慶長の役(壬辰丁酉倭乱)で、僧兵が決起して寺を拠点に豊臣秀吉の軍勢と戦ったが、鉄砲VS弓矢で敗戦。秀吉側の武将たちが、慶州のすべてを焼き払ったため、それ以前の木造建築物は消滅し、石の遺跡だけが残っている。現在は、東南アジアから輸入した木材で、昔の農家風の木造の家を復元して、まちの雰囲気を壊さないようにしているそうで、石やレンガづくりの家が多い韓国では珍しいとのこと。韓国の歴代大統領のうち、朴正煕氏(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドファン)氏、盧泰愚(ノ・テウ)氏、金泳三(キム・ヨンサム)氏が慶尚道の出身。このように慶尚道は数多くの大統領を生んでいるのに対して、全羅道出身の大統領は少なく、この東西両地域の間では権力抗争が繰りひろげられているとのこと。当時は金泳三氏が大統領に就任していましたが、小さな島の出身で、父親が漁船をたくさん持っていて、金泳三氏の政治活動の金銭面を支えていて、大統領となった現在も、ふつうの庶民の暮らしをしているとの紹介がありました。日本では、1987年頃から超低金利とカネ余りのなかで、大量の資金が不動産市場と株式市場に流れこみ、地価と株価が急上昇するバブル経済となり、1991年後半からバブル崩壊が始まっていました。韓国でも、建設会社が次々と土地を買い、マンションを建てて、売り出したそうです。ただし、その販売価格は、一定の水準以上にならないように規制されていました。しかし、眺めの良い高級マンションは、資産家が即金で購入し、他に転売し、価格が高騰していったため、金泳三大統領は、この転売に規制を加え、昨年(1992年)からは庶民に手の届く価格帯のマンションをつくらせているとのことでした。「韓国人の反日感情は?」という質問には、ガイドさんは「身内が(太平洋)戦争に巻きこまれた人々は反日感情が強い。けれど、現在は、反日感情よりも北への反共意識のほうが強い」と答えました。大邱直轄市は、人口約230万人で、ソウル、釜山に次ぐ韓国第3の都市。繊維産業を中心に工業都市として発展著しく、ソウルに本社を置くアパレルメーカーも、工場は大邱に置いていて、市の西側は繊維工業団地、東側は住宅地、という形で都市機能を分担しているとのこと。大邱は、りんごと美人の産地で、ミス韓国の多くは大邱出身だとか。18時20分、大邱のホテル琴湖(グムホ)に到着。入口では業務提携先の経済団体の会長が出迎え、チマチョゴリを着た女性から、わが団長に花束が渡されました。ホテルマンが、日本語であいさつしてくれて、びっくり。夕食は、ホテルの近くのレストランへ。同行の在日の方から「あまり辛いものを食べると、おなかをこわしますよ」とのアドバイス。プルゴキという、日本のすきやきのような料理をいただきました。同僚が「ほら」と、ホテルのマッチを私に見せます。汚れていたり、赤い火薬のはがれているものが入っていたり。食卓の楊枝入れも、上むきの楊枝と下むきの楊枝が混ざっています。こんなことを気にする日本人は、神経質なのかな。夜の街は、メイン・ストリート以外は、とても暗く感じました。「有事に備えての灯火管制」という話もあるそうです。金海空港で見た迷彩色の軍用機、有事には軍用機の滑走路として使用することを想定して造られた高速道路、そして日常会話に出てくる灯火管制という言葉。韓国では、いつも、どこかで北を意識して、ぴーんとはりつめている雰囲気を感じます。
2006.11.05
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私は、家から小学校まで、バスで通っていました。そのバスのなかで、白と紺の、着物に似ているけれど、少し異なる優雅な服を着ている女生徒と一緒になりました。私は、その服が好きで、いつか着てみたいなと思っていました。女生徒は、私と同じバス停で降ります。私の小学校は、道路ぞいの小高い丘の上にあって、その校舎は、太陽の光を浴びていました。小学校の正門は校舎の裏側にあって、細い道をしばらく歩くのですが、その女生徒は、私の小学校の正門を通りすぎて、さらに奥へと歩いていくのです。あるとき、私は、学校が終わってから、その細い道を女生徒が歩いていく方向へ、奥へ奥へと歩いていきました。しばらく行くと、こんもりとした深い緑の木々のなかに、学校の門があるのを見つけました。私は、おそるおそる、その門のほうに近づき、道の反対側から、門のなかをのぞき、耳をすませました。門のなかには、まず広いグラウンドがあり、そのむこうに見上げる高さの校舎が建っていました。そのときの私が、どんな音を聴いたのか、いまとなっては思い出せませんが、その深い緑の木々に囲まれた学校は、ひっそりと建っているという印象を私は受けました。私は、見てはいけないものを見たような気がして、急ぎ足で、いま来た道をもどり、大きな道路に出ると、いつものようにバスに乗り、家に帰りました。これが、私の、韓半島の人と文化との最初の出会いであり、その印象は、私の心に深く刻まれました。その後、私は、その朝鮮学校に、一度も近づいたことはありません。ですから、実際は、ちょっとちがったのかもしれませんが、このとき小学生の私に刻まれたイメージは、韓半島について思いをめぐらすとき、私の心の奥底から浮かびあがってくるのです。そして、チマチョゴリを着たいという私の願いは、果たせずにいます。韓半島の人の言葉を聴いたのは、ずっとあとのこと。大学を卒業して、静岡で仕事をするようになってから。1992年4月23日、当時、東京外国語大学大学院生であった呉善花(おそんふあ)さんの話を聴いたのです。呉善花さんは、1956年、韓国済州島生まれ。大邱大学卒業。4年間の軍隊生活を終えて病院に勤務した後、1983年に来日。1990年に『スカートの風 日本永住をめざす韓国の女たち』という本を日本で出版して、反響を呼び、いままで奥歯に物がはさまったような韓半島の人々との交流に一石を投じたということで、静岡に呼ばれたのだと思います。呉さんの講演は印象的で、横浜の朝鮮学校の門の前から足早に立ち去った私を、一歩、門のなかへ導き入れてくれたのでした。もちろん、朝鮮学校は、在日の朝鮮籍のこどもたちのための学校で、呉さんの母国である韓国籍の人たちの学校ではありませんが。そのとき私が書きとめた、呉さんの講演の要旨を、読み返してみたいと思います。★似ているようで異なる文化最近、日韓のトラブルが多くなっていますけど、それらの多くは小さな行き違い、思い違いからくる問題です。それが国家レベルでのトラブルにまで繋がっていると思います。韓国人と日本人は、顔も同じですし、文化も似ていますね。ご飯の炊き方も同じだし、同じ儒教文化圏ですから、日本の常識と韓国の常識は同じで、お互いに通じると思ってしまうんですが、これは大きな錯覚です。★食文化にみる文化の違い日本人は茶碗を持って食べますが、韓国人は机に置いてスプーンで食べますね。韓国では、持って食べるのは罪人か囚人です。ですから、持って食べるとお母さんから叩かれるんです。韓国人は、日本のお茶漬けに嫌悪感を感じるんです。スプーンで食べるべきだと感じるし、お茶漬け自体、お粥でもない、ご飯でもない、曖昧なもので、良くないと感じるんです。逆に日本人は、韓国人が同じ鍋にスプーンをごちゃごちゃ入れて食べるのを見ると、嫌悪感を感じる。韓国では、家族主義ですから、その方が情が通じていいという考え方です。このように韓国人と日本人がお互いのことを徹底的に分析したり知らせたりしていたならば、反日・反韓という気持ちにはならなかったと思います。★反日教育によるイメージ私は9年前に日本に来ましたが、当時の韓国では、反日教育が行われていました。韓国の歴史の教科書の3分の1は日本との関わりを書いています。そのほとんどが日帝36年と豊臣秀吉による侵略の話で、日本人がいかに野蛮人かというものです。ですから、国としての日本と付き合う時には、韓国人も国を背負ってしまうので、すごく感情的になってしまうんです。私も、小学校から大学までは、日本イコール野蛮人、悪魔だと思ってきました。「日本人は、とても優しいけれど、裏で何を考えているかわからない。ある程度は教えてくれながらも、肝心な所は教えてくれない恐ろしい考え方(凄まじい愛国心)を持っている人達だ」というのが、日本人に対するイメージです。でも、日本人はそれほど深く考えていない。相手が要求していないのに教えるのは申し訳ないと、考えているんですね。★韓国は兄、日本は弟韓国では、家族に兄弟がいる場合、知識にしろ、経済力にしろ、常に兄のほうが上に立たなければなりません。家族の中でも上下関係をはっきり作ります。上に立った兄は弟に対して思いやりを持ちます。国家的レベルで見たとき、韓国人は日本を弟だと思い、中国をお父さんだと思っているんです。昔、韓国が文化的に優れていたとき、日本にいろんなことを教えてあげました。ですから、日本が技術的・経済的には上に立った今、韓国がいちいち「教えてほしい」と言わなくても、教えるべきだと韓国人は考えるんです。★反日感情は一種のおまつりそれだけでなく、日本は弟で、韓国のほうが民族的に優れていると思っていますから、弟が上に立つのは、生意気で許せないという感情もあるんです。韓国人に「いつまで反日感情を持つか」と聞くと、よく冗談で「韓国が上に立つまで」と言います。ひとつの楽しみ、遊び、お祭りみたいなものです。日本の誰かが韓国へ行くとワーッと騒ぎますが、過ぎてしまうとあっと言う間に冷めて忘れてしまうんですね。従軍慰安婦問題で宮沢首相に莫大な金額を要求しましたが、それは本音ではないんです。兄の窮状を見た弟のように、対応してほしいと思っているのです。★韓国のビジネスは家族主義的韓国は、ビジネスをしにくい国だよとよく耳にします。20年かけて韓国に進出した日本の会社の4分の3が、ここ1年くらいで撤退してしまいました。理由はいろいろありますが、韓国のビジネスは家族主義的で、親が会社を作ったら子供に譲るのは当たり前なんです。自分の身内を最も大事にするわけですから、言葉の上でも、敬語は自分の身内に対して使います。また、韓国人は、強い友達関係を作らないと不安になるんです。韓国人は皆、自分が身を任せられるような友達を持っています。その関係は、ものすごく強烈で、なにもかも一緒にしようとします。会社にその様な友達がいると、もし、一人が辞めることになれば、もう一人も一緒に辞めてしまいます。韓国のビジネスマンが日本のビジネスマンに会う場合、自宅に招待して個人的な友達関係をつくろうとします。そうした関係をつくっておいて、「あなたにすべてを任せますからお願いします」とか「あなたと私は切りがたい友達関係です」と言われると、韓国人は凄まじい力を発揮するんです。日本人は、そういうふうにベタベタするのは嫌いですが、現在も韓国に残って活発に動いている日本企業の担当者は、そうした韓国人のやり方をうまく活用しています。また、韓国でも3K業種の人手不足が深刻です。調理師、美容師、運転手などの手で仕事をする人は卑しい人だという李朝以来の考え方があるためです。また、韓国人は問題が起きたとき、対立して解決しようとしますが、日本人は対立を避けようとしますね。日本企業が撤退したとき、韓国のマスコミは「何か不満があるなら、言うべきじゃないか。こっそり出ていくのは卑怯だ」と言いました。★日本人は教える姿勢が弱い日本は島国で、南方や中国大陸から流れてきた文化をうまくミックスして日本独自のものを作りあげました。日本は受け入れようとする力が強いんです。韓国では、何でも直接入り込んでくるけど、整理する余裕もなく、そのままどんどん流しています。韓国は能動的なんです。それは両国の言語にもあらわれています。韓国語には、日本語の「言われた」「思われた」「呼ばれた」「~させられた」というような受身形の発想がほとんどありません。ソウル・オリンピックのスローガンは「韓国を世界へ」というもので、どうすれば韓国を世界へ教えてさしあげるかということです。逆に日本の場合は「世界に学ぼう」というスローガンでした。学ぶことに強くて、教えることに弱いというのは日本人の性格だと思いますが、これからは、韓国と日本をミックスした何かを作り上げるべきだと思います。
2006.10.21
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帰国後、池澤夏樹さんの『ハワイイ紀行』(ハワイは、正確にはHawai‘i、つまりハワイイと発音します)を読み、フラをおどる人、レイをつくる人、ハワイイ語をはなす人、サーフィンで風と波と戯れる人、さまざまな人が、それぞれの形でハワイイの文化を守り、育てていることを知りました。特に印象的だったのはホクレア号のエピソードです。1995年2月、池澤さんは、ハワイイ島のロアで、南へ4000㎞の位置にあるタヒティ島への1か月におよぶ遠洋航海にむかう「ホクレア」「ハワイイロア」という2隻のカヌーの出発式に立ちあいます。カヌーといっても、太い材をくりぬいてつくった、長さが20m近い大きな双胴の、細くて長い二つの船体の間に広い甲板を渡した形で、2本のマストに張った帆に風を受けて走ります。池澤さんは、ハワイイ諸島の島民は、どこから渡ってきたのかと思いめぐらします。「彼らには遠くから自分たちがこの島々へ渡ってきたという神話的な記憶はあったけれど、それは非常に昔のことで、遠い父祖の地との具体的な結びつきはもう消滅してしまった。それにしても、過去のある時期には、その父祖の地との間に頻繁な行き来があったのではないか」今日の学説では、太平洋諸島に住む人々は東南アジアから来たと言われています。3万年前の氷河期、地表の多くの部分は氷に覆われ、その分だけ海面は低い位置にあり、東南アジアからオーストラリアやニューギニアへは徒歩で渡れました。この時に第1次の移民が進出。この後、氷が融けて海面は90mも上昇し、多くの土地が海によって他から切り離されました。約6000年前、第二次の移民たちが東南アジアから東へ進出。この人々は、ある程度の海洋航海の技術と舟を持ち、島から島へと渡るだけの勇気も持ち合わせていました。彼らは、4500年前にはニューギニアに達し、その1000年後にはソロモン諸島、ニューヘブリデス、フィジーまで展開しました。紀元前1200年にはトンガ、サモアなどポリネシアの西寄りの島々に人が住んでいたことがわかっています。紀元前後にはポリネシア人はマルケサスやタヒティまで進出。こうして人は太平洋の島々に広がり、紀元1200年ごろには、南のニュージーランド、東のイースター島、北のハワイ諸島を結ぶ一辺が約8000㎞の広大なポリネシアの三角形のほぼ全域を満たしていたとのことです。「海の真ん中の小さな島に住む人々は海に親しんでいる。島から島へ望む時に渡れなければ、これらの島々での生活は成り立たない。羅針盤や六分儀なしに海を渡って生きてきた人々がたしかにいたのだ。彼らには彼らの技術があったと考えなければならない。太平洋の各地に優れたカヌーがあり、航海術に長けた男たちがおり、舟は水平線の彼方にある島々の間を帆を張って行き来していた」1973年にハワイイで結成されたポリネシア航海協会は、古代風の遠洋カヌーを建造して、ポリネシアとの間を往復することを決めます。この計画は、ハワイイ州のアメリカ建国200周年記念事業に指定され、「ホクレア」が造られます。ハワイイ諸島には、この種の船のモデルは残されていないので、喫水線下の形は、クック船長が図面を残していたトンガ諸島とタヒティ島の遠洋航海用の船に共通する形を採用。水より上は、ハワイイの小型カヌーを模して作り、帆は、ポリネシア各地に見られるマストとガフを狭角で配置するカニの鋏型を採用。1975年3月に進水します。「ホクレアとは、牛飼座のα、アルクトゥールスと呼ばれる星の名。ハワイイ語で、ホクは星、レアは喜び。ホクレアは、7月のはじめならば夜の7時ごろ、ハワイイの真上を通る星。この星が頭の真上を通れば、自分たちはハワイイ諸島と同じ緯度のところにいるとわかる。南からやってきた者は、この星がだんだん高くなるのを見て、自分たちがハワイイに近づいていることを知る。帰路をたどる船にとって、ホクレアは故郷の星なのだ」当面の目的は2つ。第1は「ホクレア」は帆走でハワイイからタヒティに行くことができるか。第2は、近代的な航海術に頼らずにタヒティを見つけることができるか。第1については、操船の技術は次第に向上し、少し強い貿易風を受けると6ノット(時速11㎞)で走れるようになりました。第2については、ハワイイにはその人材がなく、ポリネシア航海協会は、ミクロネシアのグアム島の南、カロリン諸島に属するサタワル島で最も優秀な航海士のひとり、マウ・ピアイルグを招聘しました。17名の乗組員を乗せた「ホクレア」は、1976年5月1日午後3時、マウイ島を出発しました。5月4日から5日にかけてハワイイ島の東の沖合を通過すると、その先は島影ひとつない大洋。「マウ・ピアイルグのやりかたは総合的で、反射的で、一言で言えば生きている。何日も曇りが続いて星も太陽も見えなかった後で夜、一瞬だけ北極星が見えたとする。それで彼は自船の位置を推測し、この先のコースを決める。この広い海のどこかにいたことは確かなのだから、曇りの間にどこを通ってきたかはどうでもいい。基本になるのは星と太陽と風とうねりだが、雲や海鳥や海面の色や燐光も大きな助けになる。彼は海全体を読んでいるのだ」北東の貿易風を受けて「ホクレア」は順調に南に向かい、西に流れる北赤道海流を越え、東に向かう赤道反流を越え、また南東の貿易風を受けて南赤道海流を越えて進み、1か月後の6月1日には、初めての陸地としてマタイヴァ島を目視、3日後には目的地タヒティ島のパペーテ港に到着。マウ・ピアイルグは、自分が知っている海域をはるかに離れたところで、赤道を越えて北極星が見えなくなるところまで行って、なおかつ目的地に船をぴたりと着けました。彼の航海術がただの経験則の暗記ではなく、別の海へも応用のきく高度なものであることが証明されたのでした。しかし、航海中、乗組員がマウをあまり信用せず、彼にとっては不愉快なことが多く、タヒティ島に着いたマウは「2度とハワイイには行かない」と言ってサタワル島に帰ってしまいます。「ホクレア」は、近代的な装置を使って進路を見つけ、ハワイイに戻りました。この帰路の船に乗り組んだ1人がナイノア・トンプソンという24歳の若者。半分ハワイイ先住民の血をひく彼は、自分でマウの航海術を身につけようと決意して勉強をはじめました。ナイノア・トンプソンは、ビショップ博物館のプラネタリウムなどを活用して、星の羅針盤を独学で学びました。1978年には彼らだけの手によるタヒティ島への航海が実行に移されましたが、オアフ島とモロカイ島との間のカイウィ海峡で遭難。乗組員の伝説的なサーファーのエディ・アイカウが助けを求めに「ホクレア」を離れ、行方不明に。1979年の晩春、ナイノアは、マウに会いに行き、お互いの気持ちを確認。4か月後、マウはハワイイにやってきて、星だけでなく、雲の読みかた、海面の色の見かた、鳥、さまざまな知識をナイノアに伝えたのでした。1980年、ナイノアは、航海士としてハワイイ~タヒティ往還に成功。1985年~1987年には、タヒティ島を経て、クック諸島、ニュージーランドのアオテアロア、トンガ、サモアへ。1992年にはクック諸島のラロトンガ島へ航海し、ポリネシア人の結束と伝統文化の復興のためにポリネシア全体からたくさんのカヌーが集まって開催された第6回パシフィック・アーツ・フェスティバルに参加。そして今回(1995年)の航海では、21日という最短記録を作ってタヒティ島に近いライアテア島に到着。ここでニュージーランドのカヌー1隻、クック諸島からのカヌー2隻と合流してタヒティ島へ。ハワイイ島からタヒティ島に入った「マカリイ」も到着し、タウティラ港に6隻のカヌーが集結。「ポリネシアの多くの島がそれぞれ遠洋航海に耐えるカヌーを持つようになったきっかけは、やはり何回にもわたる「ホクレア」の大航海であり、それに触発された太平洋航海ルネッサンスとも呼ぶべき大きな運動だった。いくつもの島が自分たちでカヌーを造っただけでなく、伝統航法の技術を持つ者を養成した。ホノルルに設立されたポリネシア航海協会の意図は全太平洋に広がったのである」6隻のカヌーがオアフ島に到着した5月11日の翌日、池澤さんは、ホノルル港で乗組員に話を聞きます。航海にとっていちばん大事なのは何だと思う?という問いにテリー・ヒーは「みんなの気持ち。今度の旅がよかったのはクルーの気持ちが本当にひとつになっていたからだよ。こういう時っていうのは、誰もが自分から動く気持ちでないと駄目なんだ。先に立って仕事をするっていう姿勢だね。みんなにそれがあると気持ちのいい航海になる」その翌日、6隻のカヌーを出迎える儀式がホノルル空港に隣接するケエヒ海浜公園で開催。砂浜に並んだ乗組員たちは、迎える側の屈強な若い男女と対峙します。双方は交互に大音声で呼ばわり、腕を振り上げ、硬い木を削って作った槍を擬して、それぞれの力を誇示。上陸する側は、自分たちは礼儀正しい歓迎に値する優れた者だと言い張り、迎える側は、ここはつまらぬ者の上陸を許さない立派な土地だと唱えます。この擬闘を経てはじめて、遠来の客は客として迎え入れられ、心のこもった歓迎を受けるのです。まず、マウ・ピアイルグが英語とサタワル語でスピーチ。「アロハ。この場にこんなに集まってくれたみなさんにありがとうと言います。航海の技術がもう一度生まれなおして、私たちは幸福です。この技術を受け継いでくれる若い人々がいるのはとても運のいいことです。これからも子供たちに技術を教えて、この先この技術が二度と死ぬことがないようにしていきたいと願います。ありがとう」次に、ナイノア・トンプソンが演壇に立ちました。「自分たちが信じていたことを実現できたのは嬉しいが、そのためにたくさんの人々の力を結集できたことはもっと嬉しい。たくさんの人々の力でここまで来られたと思うと、自分自身はどこまで謙虚になってもなりすぎることはないと思う。先祖たちの誇りと自負を受け継ぐことができたのは我々みんなが協力したからだ。その分だけ我々は、少しばかり強くなったと思うし、それだけ健全な共同体を作れるようになったとも思う。伝統を蘇らせるのは大事だが、それを教育によって次の世代に伝えるのはもっと大事だ。未来への長い航海を担う若い人々を育てること、それを可能にする健全な共同体を維持すること、それがこの航海の本当の目的ではないか。このカヌーに乗ってゆく次の世代が育ってくれるのをぼくたちは見守りたいと思う。マハロ」池澤さんは書いています。「ハワイイは一方ではアメリカ合州国の一つの州であるが、他方ここはいつになっても間違いなくハワイイという名の土地である。アメリカの一部であることよりも、かつてハワイイ人が住んで優れた文化を維持していた場所、大勢の移民の流入にもかかわらず今もその伝統を受け継いで次代に伝えようとしていること、そちらの方が大事なのではないだろうか。カヌーと伝統航法はその象徴だから、ナイノアはそれを体現する人物だから、この日の催しにこれだけの人が集まった」2007年1月、「ホクレア」は、ホノルル港を出発し、マウ・ピアイルグが住むサタワル島などミクロネシアの島々を経由して、4月~5月に日本の各地を訪れる予定とのこと。
2006.08.13
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<「Aloha Hawaii」Artwork by Kerne Erickson>ワイキキのにぎわいがピークをむかえるのは、夜9時頃でしょうか。レストランでの食事をおえて、夜のまちにショッピングに繰り出す人々で、海岸ぞいのカラカウア通りは、あふれます。音楽を奏でる人たち、似顔絵を描く人、大道芸人などが、通りでパフォーマンスを繰り広げます。いくつかのレストランでは、ライヴバンドが演奏をはじめ、その音楽は、店の外に流れていきます。最初の夜は、22時頃、黒地に金色でふちどりした赤い花を散らしたミニ丈のチャイナドレスと黒の網タイツ、黒の長めのレースの手袋をつけて、クヒオ通りのワイキキ・トレード・センターにあるナイトクラブ「ザンザバー」へ踊りにいきました。IDの提示を求められたので、日本の運転免許証を見せると、入店OK! 右手首に紙製のバンドを巻いて、スタンプを押してくれました。コロナビールにライムをしぼり落して飲んでから、ダンスフロアへ。ダンスフロアは、すでに、私より身体の大きい白人の女性たち、基地からやってきたGI風の男性たちで、いっぱい。マイクを持った黒人のMCがダンスフロアで踊りながら、ラッピング。両サイドのお立ち台では、クラブ専属の女性ダンサーが雰囲気を盛りあげています。ちょっと疲れたから、休もうかなと、席にもどって時計を見たら、2時間が過ぎていました。店を出てクヒオ通りをホテルへ向うと、街角にセクシー・ドレスの女性たちがちらほら。男友達と歩いている私にウインクする女性もいて、私も彼女たちの一員になった気分。男友達は、私がみんなからじろじろ見られるので、一緒に歩くのが恥ずかしかったらしい。2日目の夜は、ライヴバンドの演奏を楽しみました。ハワイアン・ミュージックを楽しもうとしていたのですが、通りを歩いていて、思わず惹きつけられたのは、店の中から流れてくる「ホテル・カリフォルニア」のギター・ソロでした。私は、ギターにあわせてメロディを口ずさみ、その曲が「ホテル・カリフォルニア」であることを友人に知らせました。すこしばかり退廃的な雰囲気をただよわせている夜のクヒオ通りに、「ホテル・カリフォルニア」は、ぴったりに感じられました。深夜のワイキキに雨がぽつぽつと落ちてきて、だんだん雨粒の数が増えてきたので、街角のABCストアーズで雨宿り。ワイキキでは、主な街角には必ずABCストアーズが店を構えていて、ATMも完備し、おみやげを買うように誘っています。私は、さんざん迷った末、友人用に「MAUNA LOA」のDry Roasted Macadamiasを12缶と、プルメリアの花をデザインした色ちがいの携帯ストラップ8個を選び、自分用に、ワイキキ・ビーチのサンセットを夕陽で真っ赤に染まる空と海、ダイヤモンド・ヘッドとヤシの木々の黒いシルエットで表現したバスタオルと、ハイビスカスなどハワイの花々をあしらったパープルのアロハシャツを買いました。最後の夜は、ハイアット・リージェンシー・ワイキキ・リゾート&スパ3階のイタリアン・チャイニーズ・レストラン「チャオ・メン」で友人たちと夕食を楽しんだあと、部屋に戻って、マーメイド・ラインとチュチュを組み合わせたパープルのビュスティエ・ドレスにボレロ・ジャケット、シーライフ・パークで買ったプルメリアの花のチョーカーをつけて、ハイアットの地下にあるナイトクラブ「ディープ・ブルー」へ。夜10時を過ぎていて、席も、そこそこ埋まっているのに、誰もダンスフロアで踊らないので、店のスタッフが誘いにきました。私は、カクテル「ブルー・ハワイ」をいただいて、気分が良くなったので、DJブースの前に行き、DJを見つめながら、踊りはじめました。メロディがほとんど感じられないヒップ・ホップの曲がリズム・パターンを変えながら、次々と流れていきます。私の身体がリズムに導かれて激しく弾み出すと、黒人のスタッフがやってきて、私の身体に重ねあわせるように彼の身体をくねらせ始めます。私も、彼の挑発に応えて、身体を震わせます。私のダンス、ワイキキのナイトクラブのスタッフに認められたのかな。うれしい♪2時間ほど踊ってから、ホテルに戻り、荷物を詰めて、翌朝の帰国に備えたのですが、作業が終わっても眠れません。私は、夜明け前のクヒオ通りを、深夜の飲食店の勤務を終えたスタッフたちとすれちがいながら、ワイキキ・トレード・センターまで歩き、左折して、今度はカラカウア通りに出て、ロイヤル・ハワイアン・ショッピングセンターのショーウインドをゆっくりとながめ、1901年創業の面影を残すシェラトン・モアナ・サーフライダーの白亜の建物を名残惜しく見とれ、1912年と1920年のオリンピックで競泳自由形の金メダルを獲得して世界にサーフィンを紹介したハワイの英雄デューク・カハナモクの像に別れを告げました。さよなら、ワイキキ……翌日は、カラカウア通りでパレードがあるので、交通渋滞を避けるため、早めの朝食をとって、ホノルル国際空港へ出発とのこと。3フロア分の高さのある水槽のなかをゆったりと泳ぐ魚たちをながめながら、朝食をとっていると、まわりの席は、白人のおばあちゃんたちでいっぱいに。みんな、おしゃれして、おしゃべりを楽しんでいます。そういえば、初日の夜に行った、このホテルの3階にある日本食レストラン「ショーグン」でも、日系のおじいちゃん、おばあちゃんが楽しそうに過ごしていました。ホノルル空港で帰りの飛行機を待っている間、搭乗ゲートの近くにある「べストセラーズ・ブック&ミュージック」で、すてきな絵葉書を見つけました。1935年からハワイに定期便を飛ばすことになったパンナム(現在はなくなってしまったパンアメリカン航空)がアメリカから観光客を呼びこむために、「リゾートアイランドハワイ」のイメージをイラストレーターに描かせたポスターなどを絵葉書にしたもの。それらのイメージは、現代の私たちが抱く楽園のイメージにも通じるものがあり、大変興味深いものです。そのなかでもKerne Ericksonというイラストレーターが描いた作品に惹かれ、その人が描いた作品の絵葉書は、すべて買い、急いで飛行機に向かいました。エリクソンのポスターの構図は、暗い前景があって、それがニース時代のマティスの作品の窓のような役割を果しています。マティスの作品の場合は、窓のむこうに南フランスの光景が広がっているのですが、エリクソンの作品の場合は、ボートハウスやヤシの木陰のむこうに、輝くばかりのワイキキ・ビーチが広がっていて、ポスターを見る者の旅情をかきたてます。観光ポスターとして申し分のない出来栄え。エリクソンの絵にみちびかれて、1930年代のワイキキ・ビーチを歩いてみたくなりました。ワイキキは、ハワイ語で「水が湧き出る」という意味で、タロイモの水田や淡水の養魚池、ココナッツ林がある湿地帯でした。その後、アジア系の移民により稲作水田が作られましたが、ハワイ王国が滅んで、ハワイ共和国による統治が始まると、ワイキキの水田や養魚池は「蚊が大量に発生する非衛生な地区」とされ、土地の改良を義務づけられ、資金面でそれができない持ち主は土地の使用権を売却放棄せざるを得なくなり、ワイキキの土地は白人支配階級のものになっていったそうです。現在のワイキキ・ビーチの基礎をつくった「ワイキキ環境整備プロジェクト」の完成は1928年。ワイキキの一部を掘削して運河(アラ・ワイ運河)をつくり、山から流れてくる3本の川の水量を調節するとともに、そこから出た大量の土砂で湿地帯を埋め立てました。ワイキキの東西に真っ直ぐに伸びるアラ・ワイ運河を境に、その海側に、観光客向けの土地が完成し、地価は30倍に跳ねあがったとか。1921年には、ホノルル港の整備が完了し、アロハ・タワーも完成。1922年にハワイを訪れた観光客数は約1万人で、アメリカやヨーロッパの大富豪たちが中心でした。1925年には、マティソン汽船が、ロサンゼルスとホノルルの間に豪華客船マロロ号の定期運航を開始。1927年には、ロイヤル・ハワイアン(ピンク・パレス)が開業。この後、続々と大小のホテルの開業ラッシュが続きます。米国本土に渡ったソル・ホオピイなどが生み出した華麗なスティール・ギターの演奏による「ハワイアン音楽」の流行がはじまったのも、この頃でした。1929年の大恐慌で、ハワイの観光客数が激減すると、キャッスル&クック社は、米国本土にむけてハワイの観光宣伝を開始。1935年には、宣伝活動の一環として、ラジオ番組「ハワイ・コールズ」(~1975)の放送を開始。パンナムは、サンフランシスコ~ホノルル間に「チャイナ・クリッパー」の定期運航を開始。マティソン汽船では4日かかっていたホノルルへの旅程が21時間半に短縮されました。私たちがチャイナ・クリッパーから降りると、長い黒髪の女性たちがレイをかけてくれます。A型フォードに乗って、向かうホテルは、1927年にオープンしたホテル「ロイヤル・ハワイアン」。外壁がピンク色のスペイン風の建物は、私好み。ピンク・パレスと呼ばれているそうです。ビーチを見渡せる3階の客室でしばらく休んでから、彼と二人でビーチに出かけました。彼は、スコット・フィツジェラルドが描いたグレート・ギャツビーのように、風通しの良い白い麻のスーツ。私は、ギャツビーが一途な愛を捧げたデイジーのように、首元が大きく開いたクリーム色のサマードレスにクリーム色の帽子。正面にはダイヤモンド・ヘッドの山並みがくっきりと見え、青空のところどころに、うすく雲がかかっています。ビーチでは、背丈よりも長いサーフボードをもったサーファーたちがコバルトブルーの海へ漕ぎだそうとしています。色とりどりのビーチ・パラソルを広げて、その陰から海を眺めている女性たち。車座になって、友達のうわさ話に夢中の若者たち。シートにうつぶせになって、じっと背中に日をあびている男性たち。黒髪に赤いハイビスカスの花を挿して、ウクレレを弾いている女の人。私の大好きな「ナ・レイ・オ・ハワイ(ハワイの花々)」を歌っている。今夜のホテルのショーに出演するのかな。彼との会話に夢中で、気がつくと、日がかたむきかけていて、私たちの影も左へ大きく伸びています。そろそろ帰ろうかなと、ホテルのほうをふりかえると、飛行機のプロペラ音が聞こえます。ボオーっと汽笛の音がして、沖に客船のシルエットが見えます。もうすぐ本土から、たくさんのお客さまがやってくる。今夜は、どんな夜になるのだろう。そんなことを夢想しているうちに、私たちのノースウエストNW009便は、ホノルル国際空港を離陸し、晴れわたった空のなかへ。成田空港まで約8時間30分の旅です。帰国してから、インターネットで調べてみると、Kerne Ericksonは1946年6月30日生まれ。戦後生まれのアーティストでした。戦後生まれの画家が、見たことのない1930年代のハワイを、当時の観光ポスターをよそおいながら、臨場感たっぷりに描き出すとは、いったい、どんな人なのだろう。私のような夢想家が、アメリカにも、ひとり、いらしたんですね。ちょっと、うれしくなりました^^<「Waikiki Beach」Artwork by Kerne Erickson>
2006.07.30
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<オアフ島 クアロア牧場の古代養魚池>6月23日(金)は「クアロア牧場アクティビティ半日ツアー」に参加するため、朝8時にホテル前からバスで出発。オアフ島の東海岸カネオヘ湾に面するクアロア牧場に着いたのは9時ごろでした。ツアーの参加者は、アメリカ人と日本人だけ。ガイドさんは、日本語と英語で交互に案内してくれました。昨日、ビショップ・ミュージアムで説明を受けたとおり、カメハメハ3世は、ハワイ王国を近代国家に脱皮させるため、さまざまな政策を打ち出したのですが、そのひとつが土地制度でした。まず、1848年のマヘレ法では土地の所有がカメハメハ王とハワイ政府と245人の族長に認められ、次いで1850年のクレアナ法では、庶民でも自分の小作農地を請求すれば所有できるようになり、また外国人にも土地の所有が認められたのでした。法律への理解力が優れ、ある程度の資金をもっていたハオレ(白人)たちは、対外債務を抱えていたハワイ政府から、格安で王領地や官有地の売却を受け、1862年にはハワイ全土の75%がハオレの個人所有になっていたそうです。ここクアロアは、古来より聖なる土地のひとつとされ、数多くの伝説や詠唱を生み出してきました。1850年、クレアナ法が施行されると、カメハメハ3世の相談役であったゲリット・P・ジュード氏は、622エーカー(東京ドーム450個分)という広大な土地を1300ドルで譲り受けます。さらに数年後には、彼の息子が、ハキパウとカアアヴァ峡谷、漁業権、モコリイ島(カネオヘ湾にある小さな無人島で山高帽の形に似ていることからチャイナマンズ・ハットとも呼ばれています)を購入。現在もジュード氏の子孫が経営しています。最初は、さとうきびの栽培を試みますが、干ばつに襲われて断念。1900年代に入ると牧場に転換。太平洋戦争が始まると、牧場は米軍に接収され、沿岸防御用の基地が作られました。戦後、牧場はジュード家に返還。牧場や農園を経営するかたわら、1970年代には乗馬施設をつくり、1980年代には、他のアクティビティ(体験観光コース)も開発し、アクティビティ・センターとしても注目を集めるようになりました。現在は、乗馬、四輪バギー、射撃、ジャングル・ジープ・ツアー、古代養魚池&ガーデン・ツアー、パリク展望台ツアー、カネオヘ湾クルーズ、子供乗馬、プライベート・ビーチ滞在、ハリウッド映画のロケーションを積極的に受け入れてのロケ地をめぐるバスツアーという10種類のアクティビティが楽しめます。「ロケ地バスツアー」に参加した私は、まず崖の上に戦時中につくられた防空壕に案内されました。現在は、「Hollywood comes to Kualoa」の看板を掲げ、クアロアで撮影されたさまざまな映画のシーンを観光客むけに展示しています。ここで撮影された映画のうち、私の知っている最も古い映画は、ジョン・フォード監督とマービン・ルロイ監督が1955年に発表した『ミスタア・ロバーツ』。1980年以降では、『ジュラシック・パーク』(1993年)、『ゴジラ』(2000年)、『パール・ハーバー』(2001年)、『ウインド・トーカーズ』(2002年)など16の映画やテレビドラマがここで制作されました。私たちを乗せた1960年代風のボンネットバスは、山道を抜けて、牧場に到達します。この牧場は、北側と南側をコオラウ山脈の山々で囲まれ、東側は海に面していて、独特の景観を生み出しています。山々は、その岩肌をさらすことなく、緑におおわれているのですが、起伏に富んでいて、その陰影から人の顔に見えたり、動物の姿に見えたりします。雨が降ると、山々の谷の部分を滝のように水が流れるそうで、水の力によって、この地形は生み出されたとも言えそうです。ハワイでは、風は1年中、北東から吹いていて、オアフ島では、北東に位置するクアロアに最初にやって来て、コオラウ山脈に当たり、気持ちの良い驟雨を降らせた後、乾いた風となって、ワイキキに向かうそうです。先ほどの展示スペースで、スティーブン・スピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク』で博士たちがたくさんの鳥獣に追われて逃げるシーンが紹介されていましたが、そのシーンがここで撮影されたとのこと。『ジュラシック・パーク』は、カウアイ島でほとんどのシーンが撮影されたのですが、当日は天気が悪く、急遽クアロアでの撮影が決まったとか。現地には、『ジュラシック・パーク』の恐竜のロゴマークの看板とともに、映画で使われた倒木が残されており、記念撮影ポイントになっていました。バスがゆっくりすすむと、GODZILLAの看板とともに、左右6mはある巨大なゴジラの足跡が牧草地の中に現われました。撮影時には深さも4mほどあったそうですが、放牧している牛たちに危険なため、牧場のスタッフが足跡の輪郭がわかる程度に土を埋め戻したそうです。そのほか、「ここでは『パール・ハーバー』で零戦が爆撃するシーンを撮影した」というような説明があり、ガイドさんとアメリカ人観光客との間でジョークを飛ばしあいながらの1時間のツアーは終了。半日ツアーでは、2種類のアクティビティに参加できるので、今度は「古代養魚池&ガーデンツアー」へ。TOKIOの山口達也さんに似ているガイドさんと楽しく過ごしました。「みなさん、Alohaには、3つの意味があることを知っていますか?」「こんにちは!」「はい、そうです。もうひとつは?」「さようなら!」「はい、そうですね。もうひとつは?」「……」「わかりませんか?」「……」。私は、心のなかで「愛してる!でしょ」と応えましたが、声になりません。「わかりませんか。もうひとつは、愛してる! I love youです!」バスは、マカダミア・ナッツ、マンゴ、グァバ、ライム、パパイヤ、バナナ、パイナップルなどの樹が果実を実らせ、プルメリア、ハイビスカス、オーキッド、極楽鳥花などが咲く「モリイ庭園」を、ゆっくりとめぐり、ガイドさんが果実や花の種類を説明。古代養魚池に着くと、池のなかに舟をすべらせました。約800年の歴史を持つこの池は、アラモアナ・ショッピングセンターと同じ広さですが、深さは1~1.5mで、太陽の光が池の底までとどき、魚の餌となる藻や珊瑚類を成長させるように配慮されているとのこと。池は、狭いゲートで海とつながっていて、小さな魚は入ってこられますが、池で大きく成長した魚は、ゲートを通れず、海には戻れない仕掛けになっているそうです。緑に囲まれた池の静かな水面に浮かぶ舟の上で、心地良い風に吹かれながら、コオラウ山脈の山並みや、ぽっかりと頭を出しているチャイナマンズ・ハットの島を眺めているうちに、あっという間に時間がたってしまいました。森に住むメネフネ(小人の妖精)が、夜な夜な、山から石を運んでこの池を造ったと言う伝説も伝わっているとか。もし、ひとりで池のなかに舟を浮かべていたら、800年前にタイムスリップして、妖精と出会えたかも。この池と庭園とコオラウ山脈を舞台に『ファンタジー・アイランド』という映画が1998年に撮影されたそうです。この自然が、どんな物語を生み出したのか、ぜひ見てみたいな。もう少し、ゆっくりしたかったです。
2006.07.23
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<オアフ島 カメハメハ大王像>6月22日(木)は、午前9時からFIFAワールドカップの日本代表VSブラジル代表の試合がキックオフ。私は、ハワイに来る前から、この試合を生中継で見られるのかどうかが気がかりで、ホテルのフロントで、客室のテレビで観戦できることを確認して、ひと安心。客室のテレビは約30チャンネルを視聴できますが、NHK衛星放送は見られず、私はディズニー系のテレビ局ESPN/ABCと韓国のテレビ局の衛星放送でワールドカップを観戦したのでした。アメリカのテレビ局は、キックオフ直前まで、前夜の試合でアメリカ代表がガーナ代表に1-2で敗れ、グループリーグ敗退が決まったというニュースを繰り返していました。日本代表のスタメンは、GKに川口能活、DFに三都主アレサンドロ、坪井慶介、加地亮、中澤佑二(cap)、MFに中田英寿、小笠原満男、中村俊輔、稲本潤一、FWに巻誠一郎、玉田圭司。前半34分、稲本選手が左サイドへロングパスを通すと、アレックス選手がフェイントをかけて中央に切り込み、ペナルティーエリアへスルーパス。最終ライン裏にうまく走りこんだ玉田選手が左足でシュートを放つと、ボールはゴール左上に突き刺さりました。今回のワールドカップで、日本代表が最も輝いた瞬間でした。しかし、ブラジルは前半ロスタイム、ロナウド選手のヘディングシュートで追いつくと、後半8分にジュニーニョ選手のミドルシュートで勝ち越し、後半14分にはジウベルト選手の左足のシュートで3点め、後半36分にはロナウド選手がダメ押しの4点めを決めたのでした。決勝トーナメント進出にむけて、かすかな望みをつないでいた日本代表のサポーターたちは、ブラジル代表との圧倒的な力の差を見せつけられて、グループリーグ敗退という結果も、納得せざるを得なかったのでした。アメリカの放送局なので、試合終了と同時に放送も終了。中田英寿選手がピッチ上に身体を横たえて、天をあおぎながら泣いていたことは、帰国してから知りました。私は、試合終了後のなんともいえない余韻のなかで、日本時間では午前4時に行われたこの試合を、どれだけの日本人が観戦し、どのような思いで、今日一日を過ごすのだろうかと思いました。私は、ホテルの前から、トロリーバスに乗り、終点のワード・ウェア・ハウスまで風に吹かれていました。それから、バスケットボールの試合の観戦にむかう人たちでにぎわうNBCアリーナを右に眺めながら、ワード・アベニューを北へ歩き、ホノルル美術館に到着。ホノルル美術館は、1927年にアンナ・ライス・クック婦人が自身のコレクションをハワイの人々に公開したことが始まり。平屋(一部は2階・地階)で南国の気候に対応した風通しのよい建物を、6つの中庭を囲むように配置。30室のギャラリーには、地中海と中近東の古美術に始まり、東洋との交流を経て、20世紀のヨーロッパ絵画と彫刻に至るまでの西洋美術の流れが優れた作品で理解できる一方、韓国、中国、日本、インド、インドネシア、イスラム、アメリカ、そして、フィリピン、ハワイをはじめとする太平洋の島々の美術が、素晴らしい展示で概観できます。ハワイという、東洋と西洋の接点、太平洋の真ん中に浮かぶ島に立地する美術館は、どのような視野で美術品を収集すべきか。そのコンセプトが、創立者のクック婦人から現在に至るまで揺るぐことなく一貫して維持されていることが、その展示から感じられます。ワールドカップという世界の舞台で、ブラジルに大敗した日本を目のあたりにして意気消沈していた私でしたが、アジア・太平洋地域の造形物の、ときには繊細をきわめ、ときには大胆でユーモラスな表現、それらを生みだした、この地域の人々の生命力に接して、勇気づけられたのでした。ただし、これらの素晴らしい美術品の収集と展示が、主に欧米系の人々の知性と富によって実現されていることも忘れてはならないのかもしれません。美術館の中庭のひとつに開かれたカフェは、白人たちの社交の場になっていました。そうそう、私が住む静岡市の伝統工芸品・駿河竹千筋細工の素晴らしい虫籠が展示されていて、誇らしく思ったのですが、説明文はBirdcageとなっていました。学芸員に連絡しようと思いながら、忘れてしまいましたが。そのあと私は、ビショップ・ミュージアムを訪れました。この博物館は、カメハメハ王家最後の直系子孫パウアヒ王女への追悼記念として、夫のチャールズ・リード・ビショップ氏によって1889年に設立されました。このため、ハワイアン・ホールの最初の展示室は、ハワイ王家8代100年の歴史を歴代の王の肖像画と王家伝来の美術工芸品で紹介しています。展示説明は英語ですが、15時30分からの学芸員による日本語の案内に間に合いました。のちにハワイに統一王朝を築くカメハメハが生まれたころ、ハワイには、3人の王がいました。西端のカウアイ島はカウムアリイ酋長、東端のハワイ島はカラニオプウ王、その2つの島に挟まれたオアフ島・モロカイ島・ラナイ島・マウイ島などの島々はマウイ島のカヘキリ王が治めていました。そして1778年、イギリスからジェームズ・クック船長がハワイを訪れ、これが発端となって、ハワイは時代の荒波に揉まれていくことになります。ハワイ島のカラニオプウ王の甥として生まれたカメハメハは、1782年にカラニオプウ王が亡くなると、その遺言によって王権の守護神(クーカイリモク)を祀る役に就任しますが、王を継いだ息子キワラオとうまくいかず、ハワイ島の王権は分裂。しかし、1791年には、ハワイ島の統一を成しとげ、1795年にはオアフ島ヌウアヌ・パリで、マウイ王を継いだカラニクプレとの戦いに勝利し、ホノルルでハワイ王朝樹立を宣言しました。カメハメハは、語学にも堪能で、当時来航したイギリス人たちをブレーンに起用。彼らを通じて近代兵器による武力装備をすすめた軍隊は、圧倒的な強さで、ハワイ統一に大きく寄与しました。1819年にカメハメハ1世が世を去ると、幼い息子リホリホがカメハメハ2世(1820~1824)に即位しますが、短命におわり、カメハメハの愛妻カアフマヌがクヒナヌイ(摂政)として王権を掌握。後を継いだリホリホの兄カウイケアオウリは、カメハメハ3世(1825~1855)として、1840年の憲法公布をはじめ、土地制度、義務教育制度などを導入し、近代国家への脱皮をめざしました。その後、カメハメハ1世の娘・摂政キナウの息子であるアレクサンダー・リホリホがカメハメハ4世(1856~1863)、その兄ロット・カプアイワが5世(1864~1872)に即位。少年期にアメリカとヨーロッパを訪問したリホリホとロットの兄弟は、イギリスでは国賓待遇を受けましたが、当時まだ奴隷制度が公認されていたアメリカでは黒人と間違えられて列車から下ろされそうになったという経験もあり、親英路線を打ち出し、アメリカを嫌いました。5世が亡くなると、カメハメハ家は断絶。議会は、王位継承者にルナリロ(1873~1874)を選出するものの結核で他界。カラカウアを次の王(1875~1890)に選出しました。カラカウアが王に即位した当時、在住外国人、特にアメリカ系財閥からの激しい圧力、西欧各国からの圧力、純粋ハワイ人人口の激減などの課題が山積していました。王は1876年、アメリカのグラント大統領と直談判し、互恵条約の締結に成功。この結果、ハワイからは砂糖と米が関税無しで輸出可能になり、逆にアメリカからは工業製品を無税輸入できるようになり、ハワイでは、さとうきび農園を中心にアメリカ系財閥が急成長。1887年にはアメリカから、条約更新の条件として真珠湾の軍事利用を押し切られてしまいます。アメリカに対抗して、ハワイ王国が生き延びるには、どうしたらよいかが、カラカウア王の終生の課題でした。1881年には10カ月に及ぶ「国王による世界一周」を実施し、世界各国との交渉や、ハワイの労働力不足に対する協力要請を行いました。王は日本にも立ち寄りましたが、これは明治政府への初めての元首訪問であったため、明治天皇はじめ、カラカウア王を大感激させる歓迎を行いました。このとき王が提案した、カイウラニ王女(当時5歳)と山階宮定麿の国際結婚は実現しませんでしたが、1885年には、日本から「官約移民」がハワイへ労働提供に旅立ちました。「もし、ハワイの王女と日本の皇室との結婚が実現していれば、ハワイの日系人社会は、現在とは異なった位置づけになっていたでしょう」と、ガイドさんはつけ加えました。カラカウア王の時代、ハワイ人は人口激減し、伝統文化は、すたれていきました。これを憂慮した王は、自らペンを取って「ハワイの伝説と神話」を著し、秘伝であった創世神話クムリポを公開。それまでキリスト教の宣教師たちの圧力もあって、公式には禁止していたフラを復活。王直属のフラ・ハラウを作り、ロイヤル・ハワイアンバンドを編成。王みずからが作詞した「ハワイ・ポノイ」という曲はハワイの国歌となります。1891年、兄カラカウアの後を継いで53歳で即位したリリウオカラニ女王は、アメリカ人勢力と対決。1893年1月13日、王党派の議員と共謀して、アメリカ人との妥協の産物であった内閣を解散し、新内閣を組織。14日には、新憲法を発布して、議会を閉会するという強硬手段に出ます。アメリカ人側は市民集会を開き、その場で女王の糾弾とアメリカ軍の出動を要請。17日には、最高裁判事のドールを首班としてハワイ暫定政府が成立宣言。女王に退位を要請するとともに女王を監禁し、ハワイ王国は幕を閉じます。1894年にはハワイ共和国が成立、ドールは大統領になりますが、米西戦争をきっかけに、軍事拠点としてのハワイの重要性を再認識したアメリカ合衆国は、1898年7月、ハワイを併合してしまいます。そのようなハワイ王国の物語を聞いてから、いにしえのハワイ人たちの生活の様子や工芸品を紹介する展示、19世紀にハワイに移民した日本人、韓国人、フィリピン人たちの民族衣装などの展示をながめ、人の気配がなくなったミュージアムをあとにしました。日本人や韓国人やフィリピン人が経営するレストランやショップをのぞきながら、陽の傾いたキング・ストリートをチャイナタウンに向って歩きました。ホノルルのチャイナタウンは、レストランよりも、食品のマーケットが多く、夕方には閉店していました。古い建物も残り、雰囲気はあるのですが、横浜の中華街のような華やかさはありません。チャイナタウンを過ぎて数ブロック歩くと、左にイオラニ宮殿、右にカメハメハ大王のブロンズ像が見えます。カラカウア王は1883年、3年の歳月と莫大な資金をかけて建造したイオラニ(王家の鷹という意味)宮殿で、盛大な戴冠式を挙行。宮殿の前には、カメハメハ大王のブロンズ像を安置しました。アメリカ人彫刻家トマス・グールドの手になるもので、身長約2m、武力にも知力にもすぐれたカリスマの姿をギリシア神話の英雄のように表現しています。3mほどの白い台座の上のたくましい黒い身体は、金色のケープと金色の王冠で飾られて、輝いています。王は、左手に槍をもち、右手を宮殿にむかって差し出し、なにごとかをハワイ人たちに問いかけようとしています。
2006.07.23
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<オアフ島 ヌウアヌ・パリ>6月21日(水)から25日(日)まで3泊5日で、ハワイのオアフ島に行ってきました。ハワイの印象を忘れないうちに書きとめておこうと思いながらも、帰国してから仕事やワールドカップのテレビ観戦に時間をとられていました。ワールドカップは、ジダン選手の頭突き→レッドカードという衝撃的な幕切れの余韻を残して終了。ハワイ滞在から、1か月が過ぎてしまいました。忘れないうちに、書きとめておかなくては。そうでした。旅立ったのは、ワールドカップ予選リーグの真っ最中で、私は、思いっきりワールドカップ・モードで毎晩、盛り上がっていたので、ハワイゆきの気分になかなか切り替えられなったのです。一番心配だったのが、日本VSブラジルの試合がホノルルで生中継でテレビ観戦できるのかということ。前日に戸田書店でオアフ島のガイドブックを2冊選び、本棚の『ハワイ音楽パラダイス』を加えた3冊を成田空港20時30分発、ホノルル空港8時50分着のノースウエスト航空NW10便の、ときどき激しく揺れる機内で、眠れずに読み終えたのでした。ホノルル空港の入国審査では、両手の人差し指の指紋と顔写真を撮影されました。私のパスポートを見た係官に「マニラへは仕事で何回も行っているのか?」と聞かれ、「いいえ、マニラに友達がいるのです」と応えると「ボーイフレンド?」。私が「イエス」と言うと、係官は微笑みながら「グッド!」と言って、入国させてくれたのでした。機内では、きょうの天気を「晴れときどき曇り」とアナウンスしていましたが、外へ出ると、ハワイのイメージ通りの青い空。黒塗りのリンカーン・コンチネンタルを、がっしりした黒人の運転手が手入れしているのを見かけて、ここは、アメリカなのだと実感しました。今回のツアーは「ルックJTBマイセレクトホノルル5日間」。空港からJTBのバスに乗り、アロハタワーのサービスセンターに到着した頃は、もう昼になっていました。荷物は、ホテルの部屋へ届けてくれるとのことなので、昼食を簡単にすませて、12時30分発のオプショナルツアー「東海岸とヌアヌ・パリ」コースに参加しました。丘の上から、海水浴を楽しむ人々でいっぱいのハナウマ湾のビーチを見おろします。白い砂浜のこちら側にはヤシの木が何本も生え、砂浜の向う側にはエメラルドグリーンの海面が広がっています。両側からカニの手のように突き出ている岬の向うに広がる太平洋は、水深が深いのか、青い色をたたえています。バスを運転しながら説明してくれるガイドのおじさまは、「きょうは曇っているな。晴れているとハワイ諸島の島かげが水平線のむこうに見えるのだが」と言うのですが、私には、青い空に白い雲がところどころに浮かんでいて、とても良い天気にしか見えません。次におとずれたのは「ハロナしお吹き穴」。岩場に波が打ち寄せると、その穴から水煙があがるというだけの場所なのですが、観光スポットになっています。私たちと同時刻に到着した2台の黄色いスクールバスからは、なんと日本の高校生が制服を着て、ぞろぞろと降りてきました。最近の修学旅行はハワイなのですね。ハワイの学校は、すでに夏休みとか。このあたりは波が荒いようで、東側の海岸では、サーフィンを楽しんでいます。「サーフィンは、むかしから、太平洋の島々の人々の間で楽しまれていたんだよ」とガイドさんが教えてくれます。海の民といわれる古代ポリネシアの人々は、カヌーで漁に出かけました。漁から帰るときに、押し寄せてくる波にカヌーを乗せたのです。漁業の技術の一つであった“波乗り”が、いつのまにか娯楽として一人歩きをはじめ、カヌーは次第に小さくなり、サーフボードの原形が誕生したのだそうです。トイレ休憩で下車したシーライフパークは、イルカのショーなどが楽しめる水族館だそうですが、おみやげショップをのぞいているうちに集合時間に。パークの入口に咲いている真っ赤な火炎樹の花が印象的でした。バスは、海岸を離れて、緑のなかを走ります。緑といっても、日立のテレビCMの「この木なんの木」のように円形に広く枝を広げたねむの木や、何本ものつたをたらした南国の樹木です。日本では、見ることのない木々の形や、木々のむこうに見える、緑におおわれたコオラウ山脈の山並みの独特な起伏に、思わず目をひかれてしまいます。ハワイの自然に、こんなにひきつけられるとは思いませんでした。私は、スティーブン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』の、人々がUFOの基地のある不思議な形の山に惹きつけられていく場面を思い出していました。その気持ちは、コオラウ山脈の峠の途中にある展望台「ヌウアヌ・パリ」に立ったとき、最も強くなりました。緑のなかを歩いていくと、突然、カイルア湾への展望が開けて、展望台に近づくにつれて、谷を吹きぬける強い風に身をさらされるのです。ここは、かつてカメハメハ大王がハワイを統一する政権を築くために、最後の戦いをくりひろげた古戦場とのことで、その様子を描いた看板も立てられているのですが、強風に吹かれながら、コオラウ山脈に連なる切り立った崖と緑の山々や森が草原や街並みへつながり、カイルア湾へと広がる雄大なパノラマを眺めていると、いままで青かった空にも、いつのまにか灰色の雲がたれこめて、山々の上部には霧がかかり、私は、はるか昔にタイムスリップしたような錯覚におちいったのでした。帰りのバスのなかで、ガイドさんがハワイの島々の成り立ちについて語ってくれました。太平洋の真ん中の、大陸から遠く離れた島々に、どのようにして植物や動物がもたらされ、そして人間がやってきたかについて。海流に乗って、ヤシの実が流れついたであろうこと。さまざまな植物の実を食べた渡り鳥が、ハワイの島々で羽を休めたとき、その糞のなかに、それらの植物の種が混ざっていたであろうことを。そして、渡り鳥が飛ぶ方向を見た人間たちが、きっと、あの方向には、島があるにちがいないと察して、大海に船を漕ぎ出したであろうことを。私は、その話を聞きながら、火山島にヤシの木が生え、鳥たちのさえずりが聞こえ、島が緑の森におおわれ、やがて南方の島々から船に乗った人間たちがやってくる様子を思い描きました。私のこころとからだが、ようやくハワイに同化し、心地良い眠気のなかで、うつらうつらしはじめたころ、バスは、DFSギャラリア・ワイキキに到着。ここから宿泊場所のパシフィックビーチホテルまで、ワイキキビーチ沿いに、5ブロック歩いていきます。すれちがうのは、アメリカの白人たち。4ブロックめのハイアット・リージェンシーの前を歩いていると、右手の視界が広がり、ヤシの並木のむこうにワイキキビーチが姿をあらわします。道路の両側には、黄色いハイビスカスの花が咲きみだれています。私のこころは、ハワイの古代の自然から離れて、リゾート気分に染まっていくのでした。ホテルの部屋からは、ワイキキビーチがよく見えます。同室の友人は早速、水着に着替えて、ビーチにむかいましたが、私は、ベッドの上に身を横たえて、今夜は、どのドレスを着て踊りにいこうかな、などと考えているうちに、眠りにおちていました。
2006.07.22
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きょう、清水エスパルス公式サイトで、あなたが、2005年11月26日の日本平スタジアムでの鹿島アントラーズとの試合を最後に、今後の試合には出場しないと決めたことを知りました。11月23日、ヴィッセル神戸戦後の深夜、あなたが引退を表明したことをインターネットのニュースで知り、私は、朝まで眠れませんでした。いつか、この日が来るのは覚悟していたけれど、もう1年くらいやってくれるものと思いこんでいたので、ショックでした。私はすぐ、あなたの公式サイトの伝言板に書きこみました。「せめて、もう1季私は、澤登選手のプレーを見るために、毎試合、スタジアムに足を運んでいます。今季はスタメンで起用されないことが多いので、ハーフタイムに澤登選手がピッチに出てきて、シュート練習をするのをじっと見つめています。天皇杯の徳島ヴォルティス戦、後半7分に澤登選手が登場して、前線に的確なパスを送りはじめると、エスパルスの攻撃が前半とは見違えるように活性化して、次々にゴールが決まり、試合後には澤登選手の力強いコメントも聞けたので、私は「やっぱりエスパルスのボランチは澤登選手でしょ!」と確信しました。ところが、その後の横浜F・マリノス戦は長谷川監督が澤登選手を起用したのは後半39分で、私は「もっと早く起用してくれれば勝てたのに」と思いました。次の柏レイソル戦も後半44分の起用。そして今日のヴィッセル神戸戦は、後半35分からの起用でしたが、やはり澤登選手が登場すると、エスパルスの攻撃が活性化して、押せ押せムードになり、勝つことができました。澤登選手は、ひとつひとつのプレーのレベルが高くて、私は、お客さまがお金を払ってスタジアムに足を運んでまで見たいプレーは、こういうプレーだと思いますし、エスパルスで、そういうプレーを見せられる数少ない選手のひとりが澤登選手です。残留争いの最中でしたので、意見を書くことは控えていましたが、私は、この3試合の長谷川監督の澤登選手の起用方法については納得していません。もし澤登選手が引退してしまったら、今日の試合のようにエスパルスの攻撃が手詰まり状態になったとき、いったい誰に助けを求めたらよいのですか? 澤登選手のようなリーダーシップを発揮できる選手がチームに育っていないではないですか? 来季のエスパルスを考えるとき、私は、とても不安です。次の選手が育つまで、せめて、もう1シーズン、プレーを続けてほしいと、私は思います」私は、あなたは、まだまだエスパルスに必要不可欠な選手だと思っていました。ところが、あなたの公式サイトの伝言板には、「おつかれさま」などと、あなたの決断を当然のように受けとめる書き込みが多くて、私のように、「ノボリ、まだプレーできるよ」といった反論はほとんど書き込まれず、私は、さらにショックを受けました。今季のホーム最終戦となった11月26日の鹿島アントラーズ戦。私の不満に耳を貸してくれたのか、あなたをスターティング・メンバーに起用した長谷川監督。後半18分のマルキーニョス選手のゴールを生み出した、あなたのロングパス。このころ、すでに、あなたは脚がつっていて、後半24分の交代は、自分から監督に申し出たそうですね。そして、あなたから試合を託されたエスパルスの若き選手たちは、なんとしても試合に勝たなければならなかったのに、ゴールを守りきれず、その後の決定的なチャンスも逃して、引き分けに持ちこまれてしまいました。これでは、あなたも安心して引退できないのではないですか。 試合後の引退セレモニーは、とても悲しくて、私は、顔を伏せて声を出して泣いていました。翌日の日曜日も、月曜日も、ふと、セレモニーのシーンが浮かんでくると、涙が出てきてしまいました。きょう、やっと落ちつきを取りもどし、「もうノボリはいないんだ」と、あきらめの心境になりました。いまは、ひとつの時代が終わってしまったという虚ろな気分です。来季も、いままでのようにエスパルスを応援できるかな……。今年入団した若い選手たちが活躍しはじめているし、鹿島アントラーズに獲られそうになっていた筑波大学の藤本淳吾選手の入団も決まったし、日本代表のためにも若い選手を育てていかなければならないとは考えるのですが、いままで期待を裏切られることが多かったせいか、あなたのいないエスパルスには不安がいっぱいです。11月24日の引退記者会見で「一番思い出に残っているゴールは?」と聞かれて、あなたは「1999年のリーグ戦でエスパルスが優勝して、ジュビロ磐田と戦ったチャンピオンシップでのフリーキックで決めたゴール」と答えていますね。そして「若いときのプレーのビデオを見るたびに、自分は、もう限界なのかなぁと、思うようになってきた。スピードも当然衰えているし、持久力は落ちていないけれど、自分のイメージした通りに動けなくなってきている。技術的には、逆に年齢を重ねていくにつれて向上している部分はあるけれど、やっぱり自分の中で許せない部分もある。試合に出られなくなって引退するよりは、自分が輝いて出ているときに終わりたいと、ずっと思っていた」と語っていますね。選手の立場から見ると、そういう評価になるのでしょう。でも、私にとっては、今季のあなたが、この14年間で、一番素晴らしかったです。ここ数年、エスパルスが下位に低迷し、降格争いに巻きこまれ続け、毎年、監督が交代するなかで、私は、あなたを信じ、あなたに賭けていました。サッカー王国・清水の代表であるエスパルスの誇りを持ちつづけ、チームにただよう沈滞ムードを打破し、上昇気流に乗せるリーダーシップを、私は、あなたに期待しつづけていました。そのような私の期待に、今季のあなたは、ちゃんと応えてくれました。スタメンでの起用が少なくなり、出場時間が少なくなっても、少しも腐らずに、ベストを尽くし、結果を出してくれました。たとえば、9月3日の 川崎フロンターレ戦。後半28分に、あなたが登場してからは、ずっとプレーを見つめていました。同点に追いつく杉山選手のゴールを引き出したスルーパスには、シビレました。あのスルーパスで、エスパルスは勝つことができたのだと思います。守備でも大活躍で、あなたがゴール前にいてくれると安心できました。このまま、ずるずるいってしまうのではないかと不安な、節目となる試合でしたが、勝てて、本当に良かったです。森岡キャプテンの気持ちと、あなたのプレーが、エスパルスを勝利に導いた試合でした。そして、すでに書きましたが、残留争いのなかで、エスパルスを支えつづけ、勝利に導いた、あなたのプレーの数々。私は、今季のあなたのプレーこそ、ミスター・エスパルスの名前にふさわしい最高のプレーだと思っています。澤登正朗選手、14年間、素晴らしいプレーで、私たちを、しあわせな気分で満たしてくれて、本当にありがとうございました。心から感謝しています。
2005.11.30
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この作品の主人公・森井のように、1960年の安保闘争に挫折したのち、海外に渡った活動家がいたかどうか、私は知りません。しかし、五木寛之は、1968年のパリで5月革命を目撃するなかで、パリに集結した世界各国の活動家のなかに、日本人活動家を幻視して、『デラシネの旗』(1968)、『変奏曲』(1971~72)という二つの作品を生み出しました。1968年、大学解体をスローガンとした全共闘運動はピークに達し、全国の大学の8割にあたる165校が紛争状態に入り、70校でバリケード封鎖が行われました。しかし、1969年1月19日、東京大学・安田講堂に機動隊8500人が入り、立てこもっていた学生300人以上を逮捕。大学闘争が敗北すると、闘争は過激化、武装化し、五木寛之の作品が予言していたかのように、一部の若者たちは革命をこころざして日本を旅立ちます。1970年3月31日、日本航空機「よど号」を赤軍派の兵士9人がハイジャックし、北朝鮮に亡命。1971年2月26日、共産主義者同盟赤軍派の奥平剛士(26歳)は、PLOのアラファト議長とその武装ゲリラ組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を求めてレバノンのベイルートへ。28日には、奥平のあとを追って重信房子(25歳)がベイルートへ旅立ち、ふたりはPFLPの支援を得て、アラブ赤軍(日本赤軍)を結成。奥平はバールベックの軍事訓練所に入所。その後、数人の日本人兵士が合流。1972年2月19日、長野県軽井沢町の浅間山荘で、連合赤軍兵士5人が管理人の妻を人質に取って立てこもり、警官隊と銃撃戦の後、2月28日、逮捕。警察側は3人が死亡、27人が重軽傷。その後、彼らが群馬県の榛名山のアジトで、12月31日から2月10日までに12人の兵士を「総括」と呼ばれるリンチ殺害していたことが判明。重信房子の親友遠山美枝子も殺されていました。5月30日、イスラエルのテルアビブのロッド(リッダ)空港で奥平剛士、安田安之、岡本公三がカラシニコフ自動小銃を乱射し、空港内の警備兵や乗客24人を射殺。奥平と安田も死亡し、73人が負傷。この戦闘は5月8日のイスラエルによるアラブ・ゲリラ射殺に対する報復としてPFLPが計画した作戦であり、それを実行した彼らは「アラブの英雄」とたたえられました。1973年7月20日、オランダのアムステルダム空港を離陸した日本航空機を日本赤軍とパレスチナ・ゲリラがハイジャック。1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビルを東アジア反日武装戦線が爆破し、死者8人、負傷者376人。彼らは、海外に進出した大企業が現地人を搾取して東アジアを実質的に植民地化していると非難し、これらの企業にダメージを与えるために企業連続爆破を実行。1978年末までに鹿島建設工場、三井物産本社、神社本庁、北海道庁など10数カ所を爆破。1974年9月13日、オランダのハーグのフランス大使館を日本赤軍が占拠し、フランス当局が拘留中の兵士1人を釈放。1975年8月2日、マレーシアのクアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を日本赤軍が占拠し、日本で拘留中の兵士7人の釈放を要求し、5人が出国。1977年9月28日、インドのボンベイ空港で日航機を日本赤軍がハイジャックし、日本政府は服役・拘留中の赤軍派兵士ら6人を釈放。しかし、1978年8月25日、日本政府が「ハイジャックに対する姿勢を超法規的措置から断固たる態度へ転換する」と表明すると、ハイジャックは影をひそめます。日本赤軍は、このほか、1986年5月14日のジャカルタでの爆破事件、同年11月15日の若王子信行・三井物産マニラ支店長誘拐事件、1987年6月9日のローマでの爆破事件、1988年4月14日のナポリでの爆破事件などに関与したとされています。1989年11月、ベルリンの壁が崩壊。東ヨーロッパ諸国では民主化運動がおこり、共産党政権は次々と倒壊。1991年12月には70余年の歴史をもつソビエト連邦が崩壊し、20世紀後半の世界を支配してきた米ソ二極の冷戦構造は解体。テロリストを擁護する国家は、アメリカ合衆国から厳しい追求を受けるようになり、1997年2月15日には、「リッダの英雄」とたたえられた岡本公三をふくむ5人の兵士をレバノン当局が逮捕します。2000年11月8日、帰国中の重信房子が大阪府高槻市で逮捕され、2001年4月14日には獄中から日本赤軍解散を発表。また、2001年以降、北朝鮮在住の赤軍派兵士の妻子も次々に日本へ帰国。兵士たちの多くは逮捕され、ある者は戦死し、ある者は自死を選び、ある者は依然として海外で活動を続けていますが、あれから30余年を経て、彼らの戦いは、終りを迎えつつあるようにみえます。彼らは、世界の貧しき人々を愛し、彼らとともに銃をとって戦いました。多くの日本人も、世界の人々を愛し、ある面では彼らと問題意識を共有しましたが、彼らとは別の道を選びました。今日、私たちは、貧しき人々のなかに分け入って、日本人がつかんだ智恵を伝え、彼らが自立できるように支援する日本人の姿を世界各地で見ることができます。その一方で、平和ボケの日本を離れると、2001年9月11日の朝、ニューヨークの国際貿易センタービルとワシントンの国防総省に飛行機で突っ込んだ同時多発テロのように、厳しい現実に絶望した若者たちが、銃をとって戦う姿も依然として、なくなってはいません。私の愛する人が住むミンダナオ島でも、多くのイスラム教徒が住んでいて、独立をめざす過激派が30年以上にわたってゲリラ活動を展開し、国軍との間で毎日のように戦闘があり、双方の兵士から死者が出ています。フィリピンの社会は、キリスト教徒の間でも貧富の差が激しいのですが、イスラム教徒は、さらに貧しく、働き口は無く、あっても給料は安く、家族を養えません。テロの背景には貧困や人種差別があり、夢も希望もない社会が存在しています。さて、2005年7月、重信房子は、東京拘置所の独房で詠んだ3548首の短歌のなかから257首を選んで、歌集『ジャスミンを銃口に』を発表。それらの歌のなかには、彼女が愛する奥平剛士を詠んだ歌があり、外国の貧しき人々と連帯しながらも孤独に生きる男と、それを見つめる女の姿が描かれていて、『変奏曲』の森井と杏子を彷彿とさせます。咲きのぼるブーゲンビリアの緋の塀を曲がればいつも君に出会ったジャンプして高々と挙げた指先でもいだオレンジ私に投げたこの街で暮らしていくと決めた朝きみと別れてジャカランタ仰ぐ夕暮れのローマ遺跡の石段で二人で歌った「北帰行」の歌爪先を波に浸してゆっくりと叶わぬ夢を語りし日あり本当の想いを告げたらいつのまにか夏雲のように去りゆきし君菜の花はベカーの原にゆったりと寝そべる君を包み咲きおり銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君北斗星まっすぐに指して語りたる君の視線はランボーになりぬ差し出した最後の握手君の手の冷たい温もり愛だと思う逆光に頬づえしつつ眉あげし君の決意の固さを知りぬうつむいた決意のうしろに冬の月白い吐息と共に溶けたり体液がどっと一気に流れ出す君の死知った五月の夜よ自己犠牲たたえながらもわだかまるこの寂寥は愛の総括歌を詠み君を辿ればあの日のまま髪なびかせて君は立ってる重信房子独占インタビュー1973日本赤軍クアラルンプール事件1975日本赤軍ダッカ日航機ハイジャック事件1977
2005.11.09
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夜、ふたりは、音楽祭が開催されるサン・ミシェル教会の広場をめざして、暗闇のなか、コツコツと足音を響かせながら、曲がりくねった石畳の坂道をのぼっていきます。道端に立って、ナイフで木を削っている男に、教会への道を確かめると、「切符はあるのか」と聞かれ、森井が「ない」と答えると、森井がカネを持っているのを確かめた後、横道へ案内します。しばらくの間、階段をのぼり、アパルトマンに入ると、女がドアを開けます。男は「ひとり200フラン」を要求し、森井が払うと、男は、部屋の鎧戸を開けます。パッと視界がひらけると、正面にサン・ミシェル教会が見え、眼下には、開演を待つ聴衆の姿があり、彼らの話声が広場から立ちのぼってきます。ふたりがライトアップされた教会の鐘楼、教会の壁面を飾る彫像、左手にひろがる夜の海、イタリアの街々のあかりに見とれていると、男は音楽祭について語りはじめます。「毎年、いろんな連中がくる。ケンプ、リヒテル、ギレリス、前にはルビンシュタインも来た。どうだ、いい席だろう。金持ちどもを見下して音楽を聴くのは、いい気持ちだぜ。マセラッティやフェラーリで来るやつがいる。ニューヨークから自家用のジェット機で来る金持ちもいる。薄汚れた裏街を、やつらはものめずらしそうにのぼってくる。豚ども。豚どもの音楽祭さ」広場の照明が暗転すると、拍手がわきあがり、教会の扉が開いて、チェロを左手にかかえタキシードを着た演奏家が広場のステージに歩み出て、ゆっくりと椅子に腰掛けます。森井は身を乗り出して演奏家の名前を呼びます。「オイストロポーヴィッチだ!」そして、芸術家に無関心な男にフランス語で語ります。「ソ連の宝といわれている人だ。有名な人民芸術家だよ」。男は「いいカネとっているんだ」と応えます。森井は、杏子に日本語で語りはじめます。「ぼくは昔、貧乏学生のころ、あの人のレコードをすりきれるまで聴いて暮らしていた時期があった。ドイツとの戦争中、ナチに捕らえられていたんだ。ナチの高官や親衛隊の連中が彼の演奏を聴きたくて、礼をつくして頼んだんだが、彼は絶対に楽器を持とうとしなかった。最後には腹を立てて、彼を森林伐採の労働に追いやったけれども、最後までノウと言い続けたという。有名なエピソードだよ」男は「じゃ、ゆっくりな。楽しみなよ」と言って鎧戸を締めます。演奏家は、おもむろに弦を構え、重厚な調べを奏で始めると、控えめなピアノの演奏が加わり、やがてピアノが美しい調べでチェロをリードしていきます。最初の曲は、プロコフィエフのチェロ・ソナタでした。心地よい海風が渡ってきて、ふたりの髪を揺らします。杏子は、演奏を聴きながら、夜の海をながめ、演奏家たちをながめ、教会の鐘楼を見上げ、演奏に耳を傾ける聴衆をながめます。後ろの部屋の中から、うめき声が聞こえて、杏子はハッとしますが、演奏は終わり、聴衆が力強い拍手をおくります。次の曲を待つ聴衆に向って、演奏家は「バッハの無伴奏チェロ組曲 第5番」と言います。後ろの部屋から再び、うめき声が聞こえ、杏子は「ねぇ、あの声は何?」と森井に問いかけますが、演奏に集中したい森井は「しずかに!」と、杏子の問いを制します。チェロの演奏が始まり、杏子は、ふたりを案内したフランス人の男が後ろの部屋で女とセックスをくりひろげる様子を隙間からのぞき、自身も自慰行為を始めます。杏子の息づかいが激しくなり、絶頂に達し、もらした声が部屋の中の男の耳に入ると、男は杏子に見せつけるように反復運動を一層激しくさせます。杏子は鎧戸を閉じ、海からの風に吹かれながら呆然と虚空を見つめ、音楽にひたります。涙が頬をつたいます。チェロは、物悲しくも激しく歌い続け、杏子には、それが自分の心を代弁しているかのように感じられました。演奏会の帰り道、「NON」という文字が上に書いてある小さなトンネルをくぐりながら、森井は、うれしそうに感想を語りはじめます。「ぼくが、オイストロポーヴィッチを聴いたのは、なんと20年ぶりだよ。そして、こんな感動は、ずいぶん長いこと忘れていた。……本当にひさしぶりなんだ。こんなに楽しい気分なのは」「あなたは、いつまでたっても、おとなになりきれない人間なのね」「きみだって、あの演奏には感動したろ」「感動なんか、しなかったわ」「何を怒っているんだ」「あなたは感動して、あたしはしなかった。ただ、それだけのことだわ。何が人民芸術家よ。ファシストのために弾かない巨匠が、ブルジョアのためにわざわざモスクワからやってきて嬉々として演奏するなんて。そして、その演奏にあなたが酔うなんて、あたしにはわからないわ」「それは言いがかりってもんだ。なんと言われようと素晴らしかった。すくなくとも、あの演奏を聴いているあいだは、ぼくは本当に解放され、自由だった。あのバッハを聴いた者は誰だって、そう感じると思う」「あたしは、なにも聴かなかったわ」「え?」「あたしはずっと見ていたの」「何を?」「あのセクシーな男を。あの男と女がコンサートの間、部屋のなかで何をしていたか、あなたは知ってるの?」「そんなに自分をいじめるのはやめたまえ! 自分がみじめになるだけだ」そのあと、ふたりは最後の晩餐を終えます。森井は、夜の海岸を歩き、潮騒の音を聞きながら、杏子に死について語ります。「恋愛だって、快楽だって、そしてきみの言うような死んだような生活だって、みんなあやふやなものなんだ。もっとも確かで、もっとも間違えのないことは、やがて死ぬということなんだ。いずれ、ぼくが死に、きみが死ぬ。どうちがうふうに生きようと、その死がぼくときみとをつないでくれる。死に直面したとき、確かにぼくがいて、きみがいたことを思い出すために、ぼくたちはここへやって来たのさ。いつかも言ったろ。ぼくは君のために死ねるって」その言葉を聞いて、杏子は、森井を抱きしめます。森井の頭に「組織」のことがかすめますが、それを乗り越えて、そのまま海辺で愛しあい、そのまま夜明けを迎えます。夜のパリには、冷たい雨が降っていました。杏子は寒気を感じ、彼女が熱を出しているのを知った森井は、再び彼女を組織のアジトに迎え入れます。アスピリンを飲んでベッドにもぐりこんだ杏子は森井に語りかけます。「オイストロポーヴィッチね」「オイストロポーヴィッチがどうかしたのかい?」「素晴らしかったわ。ごめんなさい。せっかくの雰囲気をこわすようなことばかり言って」「いいんだよ。ぼくもただ、感傷にひたってみたかったのさ。この長い年月のあいだ、ぼくはほとんど音楽を聴くなんてゆとりをもっていなかった。ぼくは本当にあわただしく、せっぱつまった世界に生きてきたんだ。人を尋問したり。銃を抱いて眠ったり。隠れて国境を越えたり。そしてこれから先、ぼくはまたその世界に帰っていく。そして何十年も、あんな音楽を聴く心のゆとりをもたずに過ごすだろう。2度とああいった音楽を聴くことがないかもしれない」雷鳴がとどろきます。「でも、あのとき、あんまりあなたが感動して、そしてあなたのその顔があまり美しかったから」「しばらく眠ったほうがいい」森井が杏子のために薬と食べ物を買いに出ているあいだに、拳銃をもった組織のメンバーの女性が訪ねてきます。部屋に戻った森井は、彼女を見て、恐れていた事態が発生したことを知ります。「彼女の仲間が外で待ってるんだ。彼らは今朝からぼくをさがしていたらしい」「あたしたち、もう会えないのね」「そうなると思う」ふたりはキスを交わします。「ありがとう。ぼくはこれから、いろいろな仲間に質問されたり、問い詰められたりするのさ。1年間、何もなくて、きのう、それがおこるとは皮肉なもんだ。でも、きみに誘われて旅に出るとき、ふと、そういうことになりそうな予感があった。いずれにしろ、後悔はしていない」組織の女性が、フランス語で口をはさみます。「みんな下にいるわ。なぜだかわかるでしょう? フランツもリカルドもみじめな捕まり方だったわ。シオニストの豚どもを撃って、ふたりは手はずどおり、ここへ逃げこんだ。でも、助けてくれるはずのあなたは、いなかった。この大切なときに、どこへ行ってたの? とにかく来てちょうだい」「レオも来ているのか?」「もちろん、あなたのことをスパイだといってるわ」「ぼくはスパイじゃない」「レオにそう言うのね」森井は、最後に、もう一度、杏子を見つめて「いい旅だったよ」と言い、部屋を出ます。杏子は、カーテンを開けて、走り去るクルマを見つめます。彼女の耳には、マントンで聴いたバッハの無伴奏チェロ組曲が響いています。Bach - Cello Suite No.5 i-PreludeBach - Cello Suite No.5 ii-AllemandeBach - Cello Suite No.5 iii-CouranteBach - Cello Suite No.5 iv-SarabandeBach - Cello Suite No.5 v-GavotteBach - Cello Suite No.5 vi-Gigue
2005.11.02
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映画は、その舞台をパリからコートダジュールへ移します。南フランスの鮮やかな陽光のもとで、17年ぶりに再会した杏子(麻生れい子)と森井(佐藤亜土)は、自分たちの人生をしばりつけてきた過去から解き放たれて自由の身になることを試みます。「なんでまたコートダジュールなんかへ行こうという気になったんだい。ひどいところだぜ、あのへんは」「もっとも俗っぽいところへ行きたかったからよ」ふたりは、オルリー空港からニース空港へ。ニースで、彼女はブルージーンズとボーダーシャツ、男はホワイトジーンズとピンクの半袖シャツにきがえ、タクシーを海沿いにイタリア国境へ走らせます。「あたし、いまの生活に満足してはいないわ」と睡眠薬の詰まった瓶を男に見せる彼女。通りかかったマントンの町で、タクシーを降り、小さなホテルを見つけます。「あたしたちふたりだけね。いまここにいるのは。……そして今度パリに帰ったら、そこで別れて、もう二度と会わないんだわ」冷房のきかないホテルの部屋で、ふたりは窓を開け放したまま、服を脱ぎます。「あたし、男の人の目の前で、何もつけずに裸のまま歩いたり、立ったり、何かをしたり、自由に動きまわってみたかったの。ピンナップガールっていうでしょ。あのアメリカの雑誌なんかにヌードで立ってにっこり笑ってる娘たち。あんなポーズを一度でいいからとってみたかったの。一度でいいから死ぬ前にそうしてみたいって、そう思うことって誰にでもあるでしょう」「たとえば?」「たとえば、ここのところの名前を大声で連呼するとか」と彼女は男の手を自分の茂みに押しつけてささやきます。「あたし、生まれてから何十年も、一度もそれを自分で大声で人前で口にしたことはないわ。あたしはまだこんなにも不自由に生きているのよ」彼女は男の下肢の間に手を滑らせて、ささやきます。「あなたは静かなのね。たぶん、あなたも何かから自由になる必要があるんだわ」「何から?」「たとえば政治だとか、思想だとかいったものから……あたしが女のあそこの俗称を大きな声で叫べないように、あなたも大声で連呼できない言葉があるはずだわ。革命なんて無意味だ、って言ってごらんなさい」「革命なんて無意味だ」「もっと大きな声で!」「革命なんて無意味だ」「自分の欲しいのは自分だけの安楽と権力だ。民衆なんて馬鹿だ」「民衆は馬鹿だ。革命なんて無意味だ。ぼくはカネと権力をにぎりたい。黒人やアジア人たちがどんな苦しみのさなかにいようと、こっちには関係ない。うまいものを食って、ぐっすり眠りたい」「さあ、ぼくは言った。こんどはきみだ。言いたまえ。これは一体なんだ? いやらしい男たちはきみのここの部分を何と呼んでる?」彼女は、目を閉じて、最初の母音を発音しようとしますが、突然、こみあげるように吹き出します。「だめだわ。あたし、どうしてもだめ」ひと眠りしたあと、ふたりはレストランで海をながめながら食事をすませ、カジノでルーレットを楽しみます。翌日、ふたりはニースの空港に、ジェット機が離陸するのを見にいきます。そこで、杏子の夫の友人の日本人のデザイナー水品と連れのフランス人女性クリスチーヌに会い、水品のアパルトマンに誘われます。途中、杏子は夜の海で泳ぐことを提案し、4人は裸で夜の海を楽しみます。そのとき浜辺で、彼女は、水品とこんな会話を交わします。「あの人に会いさえしなければ、あたしは平穏無事にずっと過ごしていたでしょう。でも、会ってしまったんです。それで、現実のあの人のみじめな姿をはっきり確かめて、過去の美しすぎる記憶を清算してしまおうと」「それで、できましたか? ……奥さんの考えかたは、わからないこともありません。でも、その計画には、大切なことがひとつ脱落していますよ」「どういうこと?」「仮にあなたがそういう目的で旅に出て、もしもあなたの言うように森井さんに幻滅できず、昔と少しも変わらぬ、いや、昔よりもさらに男として、人間として成長し充実した彼を発見することになったら、そのときはどうします?」「本当にそうだったら、……本当にそうだったら、あたしはどうなるの!」「あなたが心の底で望んでいるのは、本当はそのことなんだ」4人で食事をしたあと、杏子は水品に誘われて、庭のテラスに、ニースの夜の街を見に行きます。「ニースの夜景は、ちっとも綺麗じゃないわ。まるで死んだ街みたい」水品に愛撫されながら、そう、ささやくと、「死んだ街ですよ。若い男と女のカップルが見当たらない街です。カネをうんと持ったみにくい老人と、若さだけしか持っていない娘の組み合わせか、そうでなければひとりぽっちの老人たちが、カジノでぼんやりすわってカネをもてあそんでいるだけだ。何も創り出すことがなく、何も新しいものが生まれてこない。すでに死んでしまっている街なんです。だが、ぼくたちもやがてそうなる」「あたしも?」「そうですよ」マントンにもどるタクシーのなかで、森井は彼女にクリスチーナとの情事が可能だったことを告白します。ホテルの部屋にもどった二人は、もう一度試しますが、男は「組織」のことが頭に浮かび、できません。二人は、満月が照らす夜の海でたわむれます。「あたしたちに残された時間は、もう何日もないのね」「ご主人がパリに帰ってくるんだったな。それからきみはどうする?」「彼と一緒に東京にもどるわ」「それから?」「なんにも考えないで暮らすの。食べることと、眠ることと、素敵なファッションを着て、快適な家に住み、動物園のパンダみたいに生きていくの」「そんなふうにできたら、実際たいしたもんだと思うがね」「人間が動物みたいに生きて、どうしていけないの?」「いけないとは言わない」「けだものみたいに生きる人は多いじゃない。政治家だって、実業家だってそうだわ。だったら、まだ家畜のように生きるほうがましでしょう? 他人に害を及ぼさないだけね。狼生きろ、豚は死ねなんて文句を聞くと、あたしはぞっとするの。むしろ豚のように生きるほうがましだと思うけど」「人間がそんなふうに生きていくことに果して耐えられるだろうか」「あたしにはできるのよ。たったひとつ、あの希望という観念さえ捨ててしまえば。そして事実、あなたに会うまでのあたしは、そんな暮らしにほとんど成功しかけていたのよ」「今夜、音楽祭に行こうか。ひさしぶりに音楽が聴きたいよ」
2005.11.01
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村上春樹は、彼自身の青春である1968~70年を回想することで現在の自分の位置を確認する作品を発表してきましたが、五木寛之は、『内灘夫人』(1968~69)、『デラシネの旗』(1968)、『変奏曲』(1971~72)の3部作で、彼自身が激しい政治の季節の渦にまきこまれた大学生時代(1952~1957)を、再び訪れた政治の季節(1968~1970)のなかで、ふりかえるという形式の作品を発表しています。『内灘夫人』と『デラシネの旗』が学生運動の真っ只中に執筆されたためか、熱気を帯びているのに対して、『変奏曲』は、学生運動の挫折後に執筆されたためか、挫折感がただよっています。作者自身も、『変奏曲』のあとがきで、『内灘夫人』と『デラシネの旗』は陽画(ポジ)、『変奏曲』は前2作品のヴァリエイションで陰画(ネガ)と説明しています。小説『変奏曲』は1976年、中平康監督によりATG初の海外オール・ロケで映画化されました。私は、この映画に強く惹かれ続けてきました。この映画の何が私を引きつけるのか、私は知りたいのです。映画は、銃声の響きから始まります。画面が写し出されると、森のなかに4人の外国人が立ち、そのうちのひとりが構えた銃が火をふくと、木の幹を背に彼らと対していた黒髪の男がくずれおちます。走り去るクルマの音。画面は切り変わり、フラメンコギターとタンバリンの音とともに、1972年のパリのカフェの店先でフラメンコを踊るジプシーを映し出します。ジプシーの子供が投げ銭をもらいに各テーブルをまわり、物思いにふけっている日本人の女性に「マダ~ム」と声をかけると、彼女は「ノン」と応えます。最初は強く、2度めは弱い口調で。それから、まわりの目が気になり、投げ銭を入れる皿に5フラン紙幣を入れようとすると、今度は、子供が「ノン」と拒絶。<私はもっと早くノンと言うべきだったのだ。5年……いや10年……もっと以前に……>彼女は、薄い白のブラウスと黒のスカートを着て、左脇に黒のバッグを抱えて、パリの街を歩きます。階段で、左の靴の踵がとれると、近くのバーに寄り、コニャックを頼みます。煙草を吸いながら、ふとカウンターを眺めると、黒髪の男が酒を飲んでいます。やがて、その男は決意したように彼女のテーブルにやってきます。「しばらく」彼女は、バーテンダーに「アンコール」と空のグラスを見せ、「3杯めよ」と男に言います。「僕はワインだ。かなり飲めるようになった」「あなた、昔は飲めなかったわね。……目を悪くしたの。そんなサングラスをかけて。……覚えていたのね」「すぐわかった。迷っていたんだ。声をかけようか、どうしようかって」「私は、なかなかわからなかったわ」彼女は、勘定を払おうとする男を制します。「私が払うわ。私はいまでも、おカネに不自由していないの。あなたは?」「カネはないな、いまも。下腹に脂肪がついたり、歯がだめになったり、通風が出たりするようになったけど、あいかわらずカネには不自由しているよ」男は、彼女が差し出した紙幣と、バーテンダーがもってきたおつりをポケットのなかにしまい、店を出ます。ふたりは、腕を組んで街を歩きます。「主人は先週、プラハに立ったの。私、結婚してるのよ。彼と結婚してから、もう13年近くたつわ。あなたがいなくなったのは昭和30年の秋よ。だから17年。時間って、本当に早くたつものなのね」日が落ちて、雨が降りはじめ、男は、彼女を「組織」が借りている部屋へ連れていきます。シャワーを使いながら、自分のことを話しはじめる彼女。「あたしたち、高輪のちょっとした家に住んでいるの。主人は、銀座で外国製品を扱う大きなお店をやっているの。一流銘柄の高級品ばかりを信じられないような値段で売る店よ」「きみはその人を…………やめよう」「愛しているわよ。ある意味でね。自分の経済力や知識や、そんないろんなものにゆったりした自信を持った人なの。あたしがいま生きているのは彼と出会ったからだわ。あたしね、あなたがいなくなってから二度も死にかけたの。もちろん自殺よ。家を飛び出して銀座のバーのクロークに勤めていたとき、彼と知り合ったの。あの人が私を救ってくれたんだわ」彼女がベッドに入ると、男はシャワーをあびながら「組織」について説明しはじめます。「ペー・ジェー・ペー・エムというんだ。インターナショナルな運動体で、ブラック・パンサーや、パレスチナ解放戦線や、南チロル独立派、ケベック自由同盟、アルジェのグループとも連絡がある。日本人のメンバーのなかの何人かは、ペー・ジェー・ペー・エムの指揮下でギニアで実地の戦闘訓練を受けている」「あなたが大村湾から船に乗ったとき、もうすでに組織とは連絡がとれていたのね。あたし、あなたのそばにいながら、なんにも知らなかった。それでどこに渡ったの?」「中国だ。そこに2年いて、インドから中近東へ渡った。そしてしばらくしてモスクワへ行き、やがてプラハに移ったんだ。プラハではカレル大学にいた。パリへは68年の五月革命の前に来た」「あたしには遠い世界の話みたいにしか聞こえないけど……。でも、本当のことって、かえってそんなふうに感じられるものなのかもしれない」「本当だよ」男は、明かりを消して、ベッドに入ります。激しい雨が降り、雷鳴がとどろきます。「こんなふうにして出会うとは思ってもみなかったわ。あなたは死んだ人だと思いこもうと、つとめてきたのよ。17年ものあいだ」「ぼくもそのつもりだった。きみにとって、すでに存在しない人間として生きていくつもりだった。連絡しようと思えばできたのに、それをしなかったのは、そう考えたからさ」「なぜ?」「きみとぼくとは別な人間だと思ったから」「どういう意味? ……あなたは革命とか、人民のためとか、そんなことに献身することができても、あたしはそれができない種類の人間だと思ったわけ?」「ぼくは人間や世の中を憎悪することができた。だが、きみをその生き方の道連れにするわけにはいかないと思ったこともある」「そう」「政治や革命運動の現実は、革命そのものの理想とはちがう」それから男は、2、3年前から自分が不能になったことを彼女に告白します。「滑稽だろうが、本当のことだ。この街へ来てから、ずっと、ぼくは1日10フランで暮らしてきた。ピガールでアラブの連中と連絡中、あやうく得体のしれない車にひき殺されそうになったこともある。四六時中、ずっと緊張のしっぱなしでね。疲れた……。僕は疲れたんだ」彼女は、男の肩を抱き寄せて、つぶやきます。「この街を離れましょう、ふたりだけで。あたし、一週間、ずっと、あなたと過ごすわ。……だまって。わかってるわ。でも、しばらくの間、忘れるの。なにもかも忘れるの」男は彼女と口づけを交わし、ふたたび組織のことを考えた後、一緒に旅に出ることを決意します。
2005.10.31
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村上春樹の処女作『風の歌を聴け』(1979)も『ノルウェイの森』(1987)も『国境の南、太陽の西』も、主人公の青春時代である1960年代を回想する形式をとっています。村上春樹は、あの時代を回想することで現在の自分の位置を確認する作業を続けてきたといえます。『風の歌を聴け』と『ノルウェイの森』が、あの時代の回想を物語の中心においているのに対して、『国境の南、太陽の西』は、物語の源は1960年代にあるものの、その後の主人公の生きざまを物語の中心におくことで、あの時代と現在との関わりを見極めようとする作家の視点が、より鮮明になっています。『国境の南、太陽の西』が発表された1992年は、バブルの崩壊が始まった次の年でした。1989年5月、日本銀行が公定歩合を戦後最低の2.5%に下げると、超低金利とカネ余りのなかで、大量の資金が不動産市場と株式市場に流れこみ、地価と株価は急上昇。土地や株を担保に巨額の資金を借り、再び土地と株に投資するという投機が一般化し、資産価格は、短期間にその実体からかけ離れたものとなっていきました。平成景気は、高級消費を生み出し、高級車、美術品、宝飾品、デザイナーズブランド、海外旅行が好調を続けました。しかし、1990年8月、イラクがクウェートに侵攻すると、石油を中東に依存している日本はインフレを懸念して金融引き締め政策に転換。1991年7月に公定歩合を6.0%に引き上げると、株価や地価は急速に下落し、不動産会社は高値で取得した土地・建物の処分に行き詰まり、資金を融資した銀行は巨額の不良債権を抱えこみ、証券会社は大口顧客に損失補填をして社会的批判を浴びるなど、大きな打撃を受けました。『国境の南、太陽の西』の「僕」は、建設会社を経営する義理の父親の資金提供を受けて、2軒のジャズ・クラブを経営し、アルマーニのネクタイとシャツ、ソプラニ・ウォーモのスーツ、ロセッティの靴を身につけ、BMW320と赤いジープ・チェロキーに乗り、青山の4LDKのマンションに住み、箱根に小さな別荘をもち、余った金を株と不動産に投資し、短期間にかなり大きな利益をあげます。すでに紹介したように、「僕」は、結局、政治闘争に熱中することもできず、大学の講義にも興味を持てず、失望と孤独と沈黙のうちに過ごしましたが、あの時代をともに生きた一人にはちがいありませんでした。「僕」は、「なんだか自分ひとりが不正な近道をして、不公平な手段を使って、いい思いをしているような気がした。(僕らがあの時代にノオを突きつけた資本主義の論理で成立している世界に)、知らず知らずのうちにすっぽりと呑み込まれてしまった。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ」と現在の自分に居心地の悪さも感じています。そこに、島本さんが登場します。「僕」は、島本さんに自分の店の説明をするとき、こんなことを言います。「僕が学生の頃は、ジャズ・ミュージシャンといえば、みんなクスリをやっていて、半分くらいが性格破綻者だった。でもときどきひっくりかえるくらい凄い演奏が聴けた。僕はいつも新宿のジャズ・クラブに通ってジャズを聴いていた。そのひっくりかえるような経験を求めてだよ。まずまずの素晴らしいものを求めて何かにのめり込む人間はいない。九の外れがあっても、一の至高体験を求めて人間は何かに向っていくんだ。そしてそれが世界を動かしていくんだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う」「でも今は少し違う。今では僕は経営者だからね。僕がやっているのは資本を投下して回収することだよ。僕は芸術家でもないし、何かを創り出しているわけでもない。そして僕はここで芸術を支援しているわけではないんだ。好むと好まざるとにかかわらず、この場所ではそういうものは求められてはいないんだ。経営する方にとっては礼儀正しくてこぎれいな連中の方がずっと扱いやすい。それもそれでまた仕方ないだろう。世界じゅうがチャーリー・パーカーで満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」「僕」の話が終わると、島本さんはカクテルのお代わりを注文し、新しい煙草を吸いながら、じっと何かを考えています。彼女が再び、「僕」に話しかけるとき、ドラマは動き出すのですが、ドラマが始まる前の長い沈黙の時間に、私は引き寄せられます。島本さんには、自分がもう一度、ハジメくんに話しかければ、このあと、どんなことがおこるのかがわかっていたように思えます。それでも、あえて、彼女は決断します。その決断を下すまでの長い沈黙の時間を、私は味わいたいと思います。島本さんという人物像は、三保の松原に羽衣伝説をもっている静岡に住んでいる私から見ると、天女のイメージです。あちらの世界に住んでいて、雨の降る夜だけ、こちらの世界に舞いおりてきます。そして、しばらくの間、「僕」と関係をもったあとで、あちらの世界へ帰っていくのです。赤ちゃんの骨を川に流すために、「僕」を伴って羽田空港から小松空港へむかうとき、天女のイメージがふくらみます。「あれは私が生んだ、ただ一人の赤ん坊の灰。生まれてすぐに、次の日には死んでしまったの。とても綺麗な赤ん坊だった。やわらかくて……。原因はよくわからなかったんだけれど、うまく呼吸ができなかったの。死んだときにはもう色が変わってしまっていた。女の子だったのよ。名前はまだなかったわ。どこにも埋めたくなかったの。暗いところなんかにやりたくなかったの。しばらく私の手元に置いてから、川から海に流して、雨にしてしまいたかったの」と島本さんは独り言のように話します。私には、島本さんが、赤ちゃんの骨と一緒に、1960年代の魂を川に流してしまったのではないかと思えます。そのために、島本さんは、あちら(死)の世界に引き寄せられていきます。雪の降りしきる小松空港で「僕」を道連れに、あちらの世界へ行くことを考えます。私は、小学生の「僕」と島本さんが、島本さんの家の居間の新型のステレオ装置で15枚ほどのLPレコードを何度も何度も繰り返して聴く場面を思い出します。レコードを扱うのは島本さんの役。レコードをジャケットから取り出し、溝に指を触れないように両手でターンテーブルに載せ、小さな刷毛でカートリッジのごみを払ってから、レコード盤にゆっくりと針をおろします。レコードが終わると、そこにほこり取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭き、レコードをジャケットにしまい、棚のもとあった場所に戻し、「僕」の方を向いていつものように小さく微笑みます。彼女が扱っていたのはただのレコード盤ではなく、ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い魂のように感じられました。その魂を、島本さんは川に流してしまったのではないでしょうか。最後の夜、箱根の別荘に着くと、ガス・ストーブで部屋を暖め、昔のようにソファーに並んで座って、昔二人でよく一緒に聴いたナット・キング・コールのレコードを聴きます。ナット・キング・コールが『プリテンド』を歌うと、島本さんも小さな声で昔のように歌います。♪Pretend you’re happy when you’re blue♪It isn’t very hard to do♪And you’ll find happiness without an end♪Whenever you pretend♪Remember anyone can dream♪And nothing’s bad as it may seem♪The little things you haven’t got♪Could be a lot, if you pretend♪You’ll find a love you can share♪One you can call all your own♪Just close your eyes she’ll be there♪You’ll never be alone♪And if you sing this melody♪You’ll be pretending just like me♪The world is mine, it can be yours, my friend♪So why don’t you pretend?辛いときには幸せなふりをしてごらん/そんなにむずかしいことじゃない/幸福はいつだって見つかるよ/幸せな顔をしていれば/誰だって夢を見ることができるんだ/人生は見かけほど悪いものじゃない/かなえられなかった小さな夢も/大きな夢になる、幸せなふりをしていれば/わかちあえる愛が見つかり/君だけの恋人に出会えるのさ/目を閉じれば、彼女はそこにいる/もう一人ぼっちじゃない/君もこのメロディを歌えば/僕みたいに幸せなふりができる/世界は僕のもの、君のものになるかもしれない/だから幸せなふりをしてごらん島本さんの顔には、ずっと同じかすかな微笑みが浮かんでいました。それはなにものにも決して乱されることのない静かな微笑みでした。でも、その微笑みの向こう側に潜んでいるのは、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間。それを知られないために、彼女は、この素敵な笑顔を人生のなかで身につけたのだと、私は思います。いずれにしても、島本さんは「僕」と再会することで、60年代の魂に別れを告げたのではないでしょうか。そして、「僕」の妻である有紀子も、「いつか、どこかで夢や幻想は自分の意志で殺して、捨ててしまった」と告げます。それでも「僕」は、まだ、夜明けの空の青と日常的な昼の光の間に、うずくまっているように見えます。さて、村上春樹は、当時のインタビューで次のように語っています。「だから『ノルウェイの森』の騒動(上下巻とも200万部をこえるベストセラーとなり、その年の流行となったこと)のときは、さすがにめげるところはありましたね。あれは完全に僕の計算外の出来事だったし、おかげで自分のペースを守ることがいささか難しい状況になったから。でも、結果的には、今にして思えば、あれはあれでよかったと思うんです。一時はけっこうきつかったけど、あのおかげでかえってタフになることができたから。きちんと見切りをつけることもできたし」春樹は『国境の南、太陽の西』で、『ノルウェイの森』をめぐる騒動とその後について語っていると、私は読みました。「僕」の経営するジャズ・クラブ『ロビンズ・ネスト』が雑誌に紹介されて、昔の友人がたくさん押しかけてくる場面は、作家が苦心して書いた『ノルウェイの森』が思わぬ反響を呼びおこしたことと重ねあわせることができます。「僕はゼロから何かを作り上げたり、その作り上げたものを丁寧に改良したりする作業を愛した。そこは僕の店であり、僕の世界であった」と「僕」は『ロビンズ・ネスト』に対する思い入れを語ってしますが、これは、作家の、作品に対する思い入れでもあります。そして作家の生み出した幻想『ノルウェイの森』は作家自身をとらえ、過去に引き戻し、あげくの果てに死の淵まで追いつめていきました。作家は、あの騒動で、そこまで追いつめられたのだと思います。その過程が、この『国境の南、太陽の西』で、比喩的に語られているのではないでしょうか。小説の終わり近く、「そしておそらく今度は、僕が誰かのために幻想を紡ぎ出していかなくてはならないのだろう」と「僕」が思うとき、自分の幻想を紡ぎ出すことによって現実に対峙しようとする作家の密かな決意を読み取ることができます。つまり、この物語は、作家自身の死と再生の物語でもあるのです。いままでの春樹の小説の方法は、どちらかというと、無意識から紡ぎ出されたものでした。それが『ノルウェイの森』という悲しみのかたまりのような幻想を生み出すに至り、それに作家自身がとらえられてしまいました。『国境の南、太陽の西』は、その無意識の創作の過程を意識的にとらえ直そうという作業であり、いままでの作品とは異なる、自己批評的な色彩をもった作品だと私には思えます。
2005.09.25
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島本さんが消えたところで、この物語を終えてもいいと思うのですが、村上春樹は、最後の1章を書き加えます。その日の午後4時前に東京に戻った「僕」は、島本さんが消えてしまらなくてはならなかった理由を考え、彼女の裸の体の生々しい幻影を思い出し、店のカウンターに座って、空しく彼女を待ちつづけます。家に帰ったのは午前2時。うまく寝つけないまま台所でウイスキーを飲んでいると、有紀子がやってきて同じものを飲みます。「あなたには私の他に好きな女の人がいるんでしょう?」僕は頷いた。「誰かを好きになったら、それはそれで仕方ないと思うわよ。あなたはきっと私だけじゃ足りなかったのよ。そのことは私にもなんとなくわかっていたし、いつかきっとこういうことが起こるだろうとは思っていたの。だから私はあなたを責めているわけじゃないのよ。怒っているわけでもないのよ。私はただ辛いだけよ。ものすごく辛いだけよ。そういうことになったらたぶん辛いだろうなとは想像してはいたけれど、想像をはるかに越えて辛いわね」「その女の人の話なんて何も聞きたくない。私にこれ以上辛い思いをさせないで。私が知りたいのは、あなたが私と別れたいかどうかっていうことだけよ。家だってお金だって何もいらない。子供たちが欲しいのならあげる。だから別れたいのなら、別れたいって言って。イエスかノオかどちらか」「わからない」と僕は言った。「いつになったらわかるの?」僕は首を振った。「じゃあゆっくり考えなさい。私は待つから大丈夫よ」と有紀子はため息をついてから言った。その夜から「僕」は居間のソファーに布団を敷いて眠ります。ときどき寝室から有紀子が泣いている声が聞こえてくることもありました。それから2週間、「僕」は島本さんと過ごした最後の夜のことを、ひとつひとつ思い出し、その中に何かの意味を見いだそうとします。「僕は車の助手席からじっと僕を見ていた島本さんの目を思い出した。そのときの彼女の漂わせていた死の気配のようなものを、今でははっきりと感じることができた。彼女は僕と二人で死ぬために、箱根までやってきたのだろう。でも何かがそのとき彼女を思い止まらせた。そしてすべてを呑み込んだまま、彼女は姿を消してしまった。どのようにして、どのような理由で、どのような目的で、そしていったい誰が、彼女をそんな場所に追い込んでしまったのだろう。どうしてそこから逃げ出すことが、そのまま死を意味しなくてはならなかったのだろう? 結局のところ彼女はその秘密を僕と共有することを拒否したのだ。この先島本さんと会うことはもうあるまいと僕は思った」「僕」は外見的には以前とほとんど変らない日常生活を続けていました。ただ「僕」はもう以前ほどには店の経営に熱心ではなくなっていました。カウンターのスツールに座って店の中をぐるりと見回してみると、前とはちがっていろんなものがひどく平板で色褪せて見えました。すべては人工的で、薄っぺらで、うらびれた、酔っぱらいから金をむしりとることを目的として作り上げられた、ただの舞台装置に過ぎませんでした。「僕」はまだ島本さんの幻影を頭の中から追い払うことができませんでした。雨が降ると、島本さんが今にもここを訪れてきそうな錯覚に襲われました。次の週の水曜日の午後、外苑東通りを車で走っているときに、「僕」は島本さんにとてもよく似た後ろ姿の女を見かけて、あとを追いますが、見失います。「僕」が信号機の柱にもたれて息をととのえて、ふと目をあげると、イズミの顔がありました。イズミは、「僕」の前に停まっているタクシーの後部座席の窓から「僕」の顔をじっと見ていました。彼女の顔には表情というものがありません。まるで深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていました。そして彼女はその表情のかけらもない顔で、「僕」をじっと見つめています。でも彼女の顔は「僕」に向って何も語りかけてはいません。やがて信号が青に変わり、タクシーは去っていきます。「イズミはいつでもどこかで僕のことを待っていたのだ。僕にはそれを見ることができなかっただけのことなのだ。イズミとのその奇妙な邂逅のあと、僕のまわりを取り囲んでいた島本さんの幻影と残響は、ゆっくりと時間をかけて薄らいでいった。目にする風景はいくらか色を取戻し、月の表面を歩いているような頼り無い感覚もだんだん治まってきたようだった。自分の体にしっかりとしがみついているものが少しずつ、ひとつひとつ引きちぎられていくのを、僕はぼんやりと感じていた。それと前後して、僕の中にあった何かが消えて、途絶えてしまったのだ。音もなく、そして決定的に」夜の2時半、「僕」がソファーの上に横になったまま、眠れずに天井を見つめていると、有紀子がやってきて、声をかけます。「僕」はゆっくりと時間をかけて、言葉を探します。「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力すればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと乾きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと乾きに苛まれてきたし、これからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。同じようなことがもう一度起こったら、僕はもう一度同じようなことをするかしれない。僕はその力に打ち勝てるという自信がどうしても持てないんだ」「私にも昔は夢のようなものがあったし、幻想のようなものもあったの。でも、いつか、どこかでそういうものは消えてしまった。たぶん自分の意志で殺して、捨ててしまったのね。私にはそのとき、そうするしかなかったんだと思う。ときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。真夜中に私は汗でぐっしょりになってはっと目が覚めるのよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけではないのよ。あなたはまたいつか私を傷つけるかもしれない。あるいは今度は私があなたを傷つけることになるかもしれない。何かを約束することなんか誰にもできないのよ、きっと。でもとにかく、私はあなたのことが好きよ」有紀子が寝室に戻ったあと、「僕」は仰向けになって、長いあいだ天井を眺めていました。夜明けが近くなると、眠るのをあきらめて、夜明けの空を眺めます。空の端の方に一筋青い輪郭があらわれ、それが紙に滲む青いインクのようにゆっくりとまわりに広がっていきました。それは世界じゅうの青という青を集めて、そのなかから誰が見ても青だというものだけを抜き出してひとつにしたような青でした。しかし太陽が地表に姿を見せると、その青はやがて日常的な昼の光の中に呑み込まれていきました。「僕」は、暗闇の中で、広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思います。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはないのです。
2005.09.23
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『ブルータス』に「僕」の名前と写真が載ったことで、中学や高校の同級生たちがジャズ・クラブ『ロビンズ・ネスト』にやってきました。そして11月初めの月曜日の夜、「僕」は、綺麗な女の客が来ていることに気がつきます。彼女は、青い絹のワンピースの上に、淡いベージュのカシミアのカーディガンをかけて、ワンピースの色に似たバッグをカウンターの上に置いていました。とても自然に寛いでいて、まわりの空気によく馴染んでいました。カウンターに頬杖をつき、ピアノ・トリオの演奏に耳を澄ませ、美しい文章を吟味するようにカクテルを少しずつ飲んでいました。9時すぎから激しい雨が降り始め、客足がとまると、彼女は「僕」のほうにさりげなくやってきて、隣のスツールに腰をかけて、「僕」に話しかけます。「素敵なお店ね」そのとき何かが「僕」を打つのが感じられました。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がして、「僕」は、「これはあの吸引力なのだろうか?」と考え、しばらく彼女と会話をかわすうちに、彼女が島本さんであることに気づいて、混乱します。「ねえ、ハジメくん。正直に言うと、私はここに来ることについてはずいぶん迷ったのよ。ほとんど1カ月近く迷って、悩んでいたの。でもせっかくあなたの住所がわかったんだから、ちらっと姿を見るだけでもいいからここに来てみようと思ったの。もしあなたが私のことにずっと気がつかなかったら、そのまま黙って帰ってしまおうと思っていたのよ。でもどうしても我慢できなかったの。懐かしくて、声をかけないわけにはいかなかったの」「あなたのことをあそこからずっと見ていたの。最初のうちはなんだか別の人みたいに見えたの。すごく大きくなっていたし、スーツも着ていたし。でもよく見ていると、ちゃんと昔のハジメくんだった。ねえ、知ってる? あなたの動作って、十二のときからほとんど変っていないみたいよ。手の動かし方とか、爪先でこつこつ何かを叩く癖とか、気むずかしそうに眉をひそめるところとか、昔からぜんぜん変ってないんだもの」「僕」は、島本さんに「ずっと会いたかった」と告白し、彼女も「私もあなたに会いたかったのよ」と応えます。「本当のことをいうと、私は中学校に上がっても、高校に上がっても、大学に行っても、友だちというものが一人もできなかったの。どこにいてもいつも一人だった。だから私はいつもそばにあなたがいてくれたらどんなにいいだろうって思っていたの」島本さんは、「僕」のこれまでの人生について聞いたあと、バッグを手に取り、「僕」に送られて、店を出ます。「おやすみなさい。あなたに会えてよかった」それから毎晩「僕」は『ロビンズ・ネスト』のカウンターに座って、本を読みながら、島本さんが来るのを待っていました。でも、彼女はやってきませんでした。クリスマスが過ぎ、一月が終わり、「僕」は彼女を待つのをやめます。ニ月の初めの、音のない、凍てついた雨の降る夜に、彼女はやってきました。彼女は、「僕」から、お店の経営の話を聞いていましたが、ずいぶんあとで、こう切り出します。「ねえ、ハジメくん。あなたどこか川を知らない? 綺麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、川原があって、あまり淀んだりせずに、すぐに海に流れ込む川。流れは早い方がいいんだけれど」「僕」は驚きますが、しばらく考えたあとで、学生時代に行った石川県の川を思い出します。島本さんが「私をそこへ連れていくことはできる?」とお願いすると、「僕」は、少し考えてから承諾し、有紀子に嘘をついて、次の日曜日の早朝、羽田空港から石川県へ向います。川に着くと、二人は上流に向けてゆっくりと道を歩いていき、静かな場所を見つけます。島本さんは、ショルダー・バッグから小さな壷を取り出し、中の灰をゆっくりと左の手のひらの上に落とし、灰を人差し指の先につけて、そっと嘗めてから、川辺にしゃがんで、その灰を水に流し、その水の行方をじっと眺めます。「「雨になるかしら?」と島本さんは言った。僕は空を見上げた。「まだしばらくはもつだろう」と僕は言った。「ちがうのよ。私が言っているのは、あの子の灰が海に流れついて、それが水に混じって蒸発して、それが雲になって、そして雨になって地上に降るのかしらということ」僕はもう一度空を見上げた。そして川の流れに目をやった。「あるいはそうなるかもしれないね」と僕は言った」レンタカーで空港に向う途中、「僕」は島本さんの様子がおかしいことに気づきます。顔は紙のように真っ白で、何かを塗られたみたいに不自然にこわばっていました。目には表情がなく、瞳の奥は死そのもののように暗く冷たく感じられます。「僕」は、島本さんのバッグの内ポケットから薬の紙袋を見つけ、雪を自分の口で溶かして、その水を口移しにして薬を呑み込ませると、十分ほどで、彼女の頬に赤みがさしてきました。「「あなたは誰にでもこんなに親切なの?」「誰にでもじゃない」と僕は言った。「君だからだよ。誰にでも親切にするには僕の人生は限られすぎている。君ひとりに対して親切にするにも、僕の人生は限られているんだ。もし限られていなかったら、僕はもっといろんなことを君にしてあげられると思う。でもそうじゃない」島本さんは僕をじっと見た。「ハジメくん、私はあなたを飛行機の時間に遅らせるためにわざとこんなことをしたわけじゃないのよ」と島本さんは小さな声で言った」空港に着いたときには、飛行機の搭乗時間はもうとっくに過ぎていましたが、エンジン整備の関係で、飛行機は、まだ乗客を乗せていませんでした。やがて雪が激しく降りはじめ、飛行機が飛ばない可能性が出てくると、島本さんは自分に言い聞かせるように静かな声で言います。「こんなことが起こるだろうというのはわかっていたのよ。私がいると、そのまわりでは決まってろくでもないことばかり起こるの。いつものことなの。私が関わるだけで、何もかも駄目になっていくの。それまでは何の問題もなく運んでいたものが、突然みんなうまくいかなくなるの」そのうちに「僕」は、自分が本心では飛行機が飛ばないことを期待していることに気づきます。「僕」は心の底で、「僕」と島本さんが二人でここに来たことが妻にばれてしまい、ここに島本さんと二人で残り、流れのままに身をまかせてしまうことを望んでいました。飛行機は1時間半遅れて離陸し、「僕」は、飛行機の中で島本さんの肩に腕をまわして抱いていました。「今日のことは本当にありがとう」と言った島本さんの唇は、もう一度あらためて「僕」を求めているように見えましたが、「僕」はなんとか踏みとどまります。青山一丁目の角で彼女が車から下りてしまうと、「僕」は世界が一瞬がらんどうになってしまったような気がします。春が来るまでの二ヶ月間、「僕」は島本さんと毎週のように会っていました。東京の街の中では、島本さんは以前のクールで魅力的な笑顔を取り戻していました。島本さんの中には彼女だけが引き受けている孤立した小世界があって、「僕」は、そこに入っていくことはできませんでした。その世界への扉は一度だけ僕に向けて開きかけましたが、今では閉じてしまっていました。四月の半ばに島本さんがまた姿を消すと、「僕」は、ひどく手持ち無沙汰な気持ちになり、家の中を意味もなく歩きまわり、街を歩きまわります。落ち着かない日々が何週間かつづいたあとで、神経を仕事に集中させます。頻繁にプールに通い、休みなしで二千メートル近くを泳ぎ、そのあとに階上のジムでウェイトリフティングをやりました。夏になると、週末は箱根の別荘に行って子供たちと過ごし、夜になると有紀子を抱きました。これ以上快適な生活は「僕」には思いつけませんでした。「でも島本さんが姿を見せなくなってしまうと、ときどきそこはまるで空気のない月の表面のように感じられた。眠れない夜には、僕はベッドの中でじっと横になったまま、雪の降りしきるあの小松空港のことを何度も何度も何度も思い出した。島本さんはベンチの上で、自分の両肘をしっかりと抱え込むようにしてじっと座っていた。彼女はネイヴィー・ブルーのピーコートを着て、マフラーを首に巻いていた。その体には涙と哀しみの匂いが漂っていた。僕は今でもその匂いを嗅ぐことができた」秋がやってきたときには、「僕」の心はもうほとんど定まっていました。こんな生活をこのままずっと続けていくことはできない、と「僕」は最終的な結論を出します。その日は午後七時には雨が降り始めていました。ひそやかに、でもしっかりと腰を据えて、長く降り続きそうな秋の雨でした。「僕」が九時過ぎに店の傘をさして『ロビンズ・ネスト』に移ると、九時半に島本さんがやってきました。「僕」は、島本さんに切り出します。「君を見ていると、ときどき遠い星を見ているような気がすることがある。それはとても明るく見える。でもその光は何万年か前に送りだされた光なんだ。それはもう今では存在しない天体の光かもしれないんだ。でもそれはあるときには、どんなのよりリアルに見える。君はそこにいる。そこにいるように見える。でも君はそこにいないかもしれない。本当の君はどこか余所にいるのかもしれない。あるいはもうずっと昔に消えてなくなってしまっているのかもしれない。僕が手を伸ばしてたしかめようとしても、いつも君はすっと体を隠してしまうんだ。ねぇ、いつまでこういうのが続くんだろう」「おそらく、当分」と言って、島本さんは微笑み、綺麗な包装紙にくるんで赤いリボンをつけたプレゼントを「僕」に手渡します。それは、昔二人でよく一緒に聴いたナット・キング・コールのレコードでした。「僕」は、島本さんに、今から箱根の別荘に行って、二人でこれを聴かないかと誘い、箱根の別荘へBMWを飛ばします。「ハジメくん、あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら死んじゃうでしょうね。私と一緒にここで死ぬのは嫌?」別荘に着くと、ガス・ストーブで部屋を暖め、二人は昔のようにソファーに並んで座って、ナット・キング・コールのレコードを聴きます。「僕」は、島本さんに「君がいなくてはやっていけない。もう二度と君の姿を失いたくない」と告白すると、島本さんは、こう応えます。「私には中間というものが存在しないのよ。だからあなたが、二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部をとってしまうわよ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの? それでもあなたは本当に私と一緒になりたいの? あなたの奥さんと二人の娘さんはどうするの? あなたはその人たちをとても大事にしているはずよ。あなたは私のために何もかもを捨ててしまっていいの?」「僕」は、「それでいい。もう決めたことなんだ」と応えます。それから二人は、長い時間をかけて、お互いの体を舐めあい、やがて何度か交わりました。途中で一度、「僕」が中に入っているときに、島本さんは感情の糸が切れてしまったみたいに激しく泣き、拳で僕の背中や肩を強く叩きました。そのあいだ「僕」は彼女がばらばらにほどけてしまわないように、彼女の体を強く抱きしめていました。長い年月、彼女の心の奥底で硬く凍てついていたものが少しずつ溶けて表面に姿を見せ始めているように、「僕」は感じました。しかし、翌朝、「僕」が目覚めたとき、島本さんの姿はありませんでした。
2005.09.20
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物語は、「僕」の少年時代を回想するところから始まります。「僕」は1951年1月4日に大手の証券会社に勤める父親と普通の主婦である母親との間に生まれた「一人っ子」。「僕」の通っていた小学校では、「一人っ子」は「僕」と「島本さん」だけでした。二人は親しい友だちになって、心を通いあわせました。「島本さん」は、転校生で、生まれてすぐ患った小児麻痺のせいで左脚を軽くひきずっていました。学校の成績も良く、クラスで一目置かれる存在でした。「でも彼女には、僕を別にすれば、友だちと呼べるような相手は一人もいなかった。彼女はおそらく彼らにはクールで自覚的に過ぎたのだろう。でも僕は島本さんのそうした外見の奥に潜んでいる温かく、傷つきやすい何かを感じることができた。それはかくれんぼをしている小さな子供のように、奥のほうに身をひそめながらも、いつかは誰かの目につくことを求めていた」しかし、小学校を出ると、二人は別の中学校に進み、やがて「僕」は彼女に会いに行くのをやめてしまいます。「でもそれはおそらく間違ったことだった。僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。僕は島本さんと会わなくなってしまってからも、彼女のことをいつも懐かしく思い出しつづけていた。思春期という混乱に満ちた切ない期間を通じて、僕は何度もその温かい記憶によって励まされ、癒されることになった。そして僕は長いあいだ、彼女に対して僕の心の中の特別な部分をあけていたように思う。島本さんと会うことはもう二度とあるまいと思っていたにもかかわらず」「僕」は、高校2年生のとき同じクラスになったイズミと友だちになります。「彼女の隣に座ってその指に手を触れていると、僕はとても自然な温かい気持ちになることができた。他の人間には言えないことでも、彼女に対しては比較的楽に話すことができた。僕は彼女の髪をあげて、その小さな耳に口づけするのが好きだった。僕がそうすると、彼女はくすくす笑った。今でも彼女のことを思い出すと、僕はいつも日曜日の静かな朝の情景を目に思い浮かべる。穏やかで、天気が良くて、まだ始まったばかりの日曜日。宿題も何もなく、ただ好きなことをすればいい日曜日」しかし、「僕」は、イズミに少なからず困惑し失望してもいました。「僕が困惑し失望したのは、僕がイズミの中にいつまでたっても僕のためのものを発見できない点にあった。僕は彼女の美質を並べることができた。そしてそのリストは彼女の欠点のリストよりずっと長いものだった。でも彼女には決定的な何かが欠けていた。もし彼女の中にその何かを見いだせたなら、僕はたぶん彼女と寝ていただろう。でも結局のところ、あえてそうするだけの確信が僕には持てなかったのだ」11月はじめの肌寒い日曜日、「僕」が一度だけ裸のイズミを抱いた(セックスはしませんが)あと、公園でイズミは、こう言います。「あなたといるときは私はいつもすごく楽しいのよ。でもね、そのあとで一人になると、私にはいろんなことがわからなくなってしまうの。あなたは私のことを大事にしてくれる。それはわかるのよ。でもあなたが本当は何を考えているのかが私にはときどきわからなくなってしまうの。あなたはきっと自分の頭の中で、ひとりだけでいろんなことを考えるのが好きなんだと思うわ。そして他人にそれをのぞかれるのがあまり好きじゃないのよ。それが私をときどきすごく不安にさせるの。なんだか取り残されたような気分になってしまうの」イズミは「どうしてわざわざ東京の大学に行かなくちゃいけないの」と言って、「僕」に、この町に残ることを願いますが、「僕」は、この町を離れて、両親から独立して、一人で生きることが自分には必要なのだと思うようになっていました。「僕の体と心は見知らぬ土地と、新鮮な息吹とを求めていた。その年には多くの大学が学生の手で占拠され、デモの嵐が東京の街を席巻していた。世界が目の前で大きく変貌しようとしていたし、僕はその発熱を肌にじかに感じたかった。もしここに残ったなら、僕の中の何かがきっと失われてしまうだろう。でもそれは失われてはならないものなのだ。それは茫漠とした夢のようなものだった。そこにはほてりがあり、疼きがあった。それは人が、おそらく十代の後半の限られた時期にしか抱くことのできない種類の夢だった。そしてそれはまたイズミには理解することのできない夢だった」2週間後、「僕」とイズミは京都に遊びに行き、京都の大学に通っているイズミの従姉を呼んで昼食を一緒にしたとき、「僕」は「この女と寝なくてはいけない」と思います。「僕が強く引きつけられるのは、数量化・一般化できる外面的な美しさではなく、その奥の方にあるもっと絶対的な何かなのだ。僕は、異性が僕に対して発するそのような強くひそやかな何かを好むのだ。その何かを、ここでは仮に<吸引力>と呼ぶことにしよう。好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに人を引き寄せ、吸い込む力だ」次の日曜日に「僕」はひとりで京都に行って彼女と会い、その午後にはもう彼女と寝ていました。「僕とそのイズミの従姉とはそれから二カ月に亘って脳味噌が溶けてなくなるくらい激しくセックスをした。僕らは顔をあわせるとほとんど口も利かずにすぐに服を脱ぎ、ベッドに入って抱き合い、交わった。僕は文字どおり精〇が尽きるまで彼女と交わった。でもそれほど激しい吸引力をお互いに感じあっていたにもかかわらず、自分たちが恋人になって、長く幸せにやっていけるだろうというような考えはどちらの頭にも浮かばなかった。我々にとってそれはいわば竜巻のようなものであり、いつかは過ぎさっていってしまうものだった。僕はイズミのことが好きだった。でも彼女はこのような理不尽な力を僕に一度も味わわせてはくれなかった」1月の終わり、「僕」とその従姉との関係がイズミに露顕し、イズミはひどく傷つき、ひどく損なわれてしまいます。「僕」は一度だけ、イズミの会って長い話をしますが、イズミは理解しません。3月の末には町を出て東京に行くことになっていた「僕」に、イズミはもうどんな関わりも持とうとはしませんでした。「その体験から僕が体得したのは、たったひとつの事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった」大学に入った「僕」は、政治闘争に熱中することもできず、講義にも興味を持てずに過ごします。気がついたときにはもう政治の季節も終わっていて、一時は時代を揺るがす巨大な胎動と見えたいくつかのうねりも、まるで風を失った旗のようにその勢いを落とし、色彩を欠いた宿命的な日常の中に呑み込まれていきました。「僕」は、大学に入ってから三十代を迎えるまでの十二年間を、失望と孤独と沈黙のうちに過ごします。「僕」は、三十になる少し前、夏休みに一人で旅行しているときに、有紀子とめぐり会い、一目で引かれあいます。「僕」が久しぶりに感じた吸引力でした。「僕」は有紀子と結婚し、建設会社の社長である彼女の父親の勧めで、青山のビルの地下で、ジャズを流す上品なバーを始めます。店は予想を遥かに越えて繁盛し、2年後には、もう一軒もっと規模の大きい店を出し、「僕」は一息つきます。最初の子供が生まれ、青山に4LDKのマンションを買い、BMW320を買い、二人めの子供を作ります。三十六歳のときには、箱根に小さな別荘をもち、移動のために赤いジープ・チェロキーを買い、有紀子の父親の勧めで、余った金を株と不動産に投資し、短期間にかなり大きな利益をあげます。「なんだか自分ひとりが不正な近道をして、不公平な手段を使って、いい思いをしているような気がした。僕らは六〇年代後半から七〇年代前半にかけての、熾烈な学園闘争の時代を生きた世代だった。それは、戦後の一時期に存在した理想主義を呑み込んで貪っていくより高度な、より複雑でより洗練された資本主義の論理に対して唱えられたノオだった。でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理によって成立している世界だった。結局のところ、僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ」最初の子供が生まれたころ、「僕」は実家から転送されてきた会葬御礼の葉書を受け取ります。「僕」は、三十六歳で亡くなった女性がイズミの従姉であることに気づき、その葉書を送ってきたのがイズミであり、彼女は僕のやったことをまだ許してはいないのだと感じます。『ブルータス』の「東京バー・ガイド」に載った「僕」の写真を見て、店にやってきた高校時代の同級生が、イズミの消息を教えてくれます。イズミは、彼の妹が住んでいる豊橋のマンションの同じ階に住んでいました。「大原イズミさんは、そこのマンションでは謎の人なんだ。誰も彼女と口を利いたことがない。廊下ですれ違って挨拶しても返事がかえってこない。用事があってベルを押しても出てこない。あの子はもう可愛くはないよ。あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖がっているんだ」彼が帰ったあと、「僕」はカウンターで一人で酒を飲みます。「みんなどんどん消えていってしまうんだ。あるものは断ち切られたようにふっと消えさり、あるものは時間をかけて霞んで消えていく。そしてあとには砂漠だけが残るんだ」
2005.09.18
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村上春樹の長編小説は、以前に発表した短編をふくらませていくことが多く、『ノルウェーの森』は『蛍』を、『ねじまき鳥クロニクル』は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』を改稿したものですが、『国境の南、太陽の西』も『我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史――』(雑誌『Switch』1989年10月号に発表、短編集『TVピープル』に収録)をふくらませたものといえます。もちろん、このふたつの物語はかなりちがった設定になっていますが、話のトーンは同じだと思います。『我らの時代のフォークロア』のなかで、「僕」はこう言っています。「これは彼に聞いた話である。意図的に事実を作りかえた部分もある。でも、実際はほとんどこの通りだっただろうと思う。何故なら僕は話の細部は忘れても、彼の話のトーンだけは今でもきちんと記憶しているからだ。誰かに話をきいてそれを文章にするときにいちばん大事なことは、その話のトーンを再現することである。事実の違いがその本当さを高めることさえある」『我らの時代のフォークロア』と『国境の南、太陽の西』は、設定が少し違っていて、そこに春樹の創作の過程をかいまみることができます。『我らの時代のフォークロア』では、「僕」が、中部イタリアの町で、高校時代のクラスメイトと出会い、「彼」が、彼の高校時代のガールフレンド藤沢嘉子の話をするのを、レストランでワイングラスを傾けながら聞く設定です。「僕」は物語の冒頭、「我らの時代」である1960年代について、こう解説します。「人生の中のいちばん傷つきやすく、いちばん未成熟で、それ故にいちばん重要な時期に、1960年代のタフでワイルドな空気をたっぷりと吸い込んで、そして当然のことながら、宿命的にそれに酔ってしまったのだ。ドアーズからビートルズからボブ・ディランまで、BGMもばっちりと揃っていた。1960年代という時代には、確かに何か特別なものがあった。いろんな人間がいて、いろんな価値観があった。でも、1960年代が近接する他の年代と異なっているところは、このまま時代をうまく進行させていけば、そういう価値観の違いをいつか埋めることができるだろうと我々が確信していたことだった」「彼」は、ふとしたことで藤沢嘉子と仲良くなり、やがてふたりは恋人同士になり、いつも一緒に昼食を食べ、一緒に下校し、肩を並べて話をし、日曜日には一緒に勉強します。ふたりはふたりきりでいるときにいちばん安らかな気持ちになれました。でも、何かが欠けていると「彼」は感じ、何も包み隠さずに彼女と一体になることを求めます。「僕はいつもひとりだった。そしていつもある種の枠の中で緊張していた。僕は自分を解放したかった。自分を解放することによって、これまでおぼろげにしか見えなかった自己の姿を発見できるような気がしたんだ。彼女とぴったりひとつに結びつくことによって、僕は僕を規制してきた枠を取り払えそうな気がしたんだ」しかし、嘉子は、服を着たままのペッティングまでしか許しませんでした。「私とあなたは結婚できないわ。私はいくつか年上の人と結婚するし、あなたはいくつか年下の人と結婚するのよ。それが世の中の普通の流れなのよ。もちろん私はあなたのことを好きよ。でもそれとこれとは別なの。私たちは今は高校生で、いろんなものにまだきちんと保護されている。でも外の世界はそうじゃないのよ。もっと大きくて、もっと現実的なのよ。私たちはそれに備えなくちゃならないのよ」東京の大学に進学した「彼」は、夏休みに神戸で嘉子と再会し、結婚の話を持ち出しますが、嘉子は拒否します。「私は怖いのよ。生きていくことが怖いの。あと何年かで現実の中に出ていかなくてはならないことが怖いの」そして、嘉子は泣きやんでから不思議なことを言います。「ねえ、もしよ……もしあなたと別れることになっても、あなたのことはずっといつまでも覚えているわ。もし何かそれについて約束がほしいのなら、約束する。私はあなたと寝る。でも今は駄目。私が誰かと結婚したあとであなたと寝る。嘘じゃないわ、約束する」「彼」は嘉子と別れ、嘉子は四つ年上のテレビ局のディレクターと結婚します。そして、彼が28歳で小さな会社を始めた頃、嘉子は彼に電話をかけてきます。「私は昔あなたと交わした約束のことをまだちゃんと覚えているのよ」「彼」は、自分が過去の闇の中にそっと置きざりにしてきたものを、ここでもう一度揺すって起こしたくないと感じつつも、嘉子の部屋へ行きます。そして、古いレコードを聞き、昔と同じように服を着たまま指だけをつかって、何も言わずに長いあいだペッティングをしますが、セックスはできませんでした。「彼」は語ります。「それはもう封印され、凍結されてしまったことなんだ。もう誰にもその封印を取ることはできないんだ。僕はひどく……ひどく虚ろだった。僕はそのへんをあてもなく歩いた。自分がこれまで生きて費やしてきた時間がまったく無意味な消耗であったように思えた」『国境の南、太陽の西』では、「藤沢嘉子」が「島本さん」と「イズミ」と「有紀子」に分裂し、「彼」は「僕」という設定に代わっています。そして、物語はもっと複雑化しています。しかし、話のトーンは同じではないでしょうか。そして、そのトーンというのは、1960年代の夢、つまり、何も包み隠さずに一体になることをお互いが求めながらも、それを実現できない虚しさでしょうか。
2005.09.15
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1991年6月25日~30日に静岡市民ギャラリーで開催された「海野光弘の世界」で、夭折した海野光弘の版画を初期から晩年まで通してみる機会を得た。今も目の裏側に鮮やかな色彩が焼きついて離れない。それと同時に、さまざまな思いが頭の中を去来する。それをここに記録しておきたい。私を魅了した鮮やかな色彩が海野版画に登場するのは、1972年頃からだった。それまでの作家は、どちらかというとモノクロの世界に生きていた。1958年~1959年の作品には、東京の貧しい民衆の姿が描かれている。この頃、海野は、日立製作所東京本社へ入社し、東京での生活が始まった。まだ、敗戦後の焼け跡のなごりが、東京に残っていた頃だ。当時の労働運動と呼応するような雰囲気の作品だ。1963年~1965年にかけて、作品は抽象度を増す。ムンクを思わせる「丸い夢」から、作風は独自の世界へ入りこんでいく。都会の片隅で挫折し孤立する自分の姿を凝視し、それをできるかぎり忠実に描き出そうと努力しているのだ。書いては消し、書いては消し、自分の心情にぴったりくるフォルムが浮かび上がってくるまで、それを続ける。手を動かして、版木を彫る。そのひとつひとつの動作が、苦悩する作家の心を救っていったに違いない。この抽象的な作風は、1966年の「蘇像」で終わりを告げる。ここでは、古い衣を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わろうとする者の姿が描かれている。作家の願望なのかもしれないが、感動的な作品だ。同じ年、作家は静岡へ戻ってきた。しかし、選んだ題材は、静岡の街中の風景ではなく、街中から少し離れた宇津の谷の部落だった。作家の言葉を借りれば、「心のふる里」「素朴な人間の生活」ということになる。この時期から、海野版画の特徴のひとつである「障子」が画面に登場する。「障子」とは何か。宇津の谷の部落においては、それは部落の人間関係を象徴するものだった。石やコンクリートの壁ではなく、「障子」であり、家と家とのつながりは、ゆるやかに保たれていて、ほんの薄い紙一枚でしか隔てられていなかった。しかし、作家は、部落にとってよそ者であり、部落の人たちは作家が何をしに来たのかをけげんそうに眺めただろう。その姿が、じっとこちらを見つめる少女の顔に表現されている。作家にとって、この時の「障子」は、「障子」でありながら、石の壁のように乗り越えがたいものに感じられたにちがいない。1967年の「蚊取り線香の宵」「宵の縁先」「祭りの宵」等の作品に見られる道路から「障子」のなかを覗き見ようとする構図が、それを示している。▲祭りの宵(1967年9月 34×26cm)しかし、まもなく作家は、「障子」の中から外の世界を見ることができるようになった。1969年の「斜陽」「軒」が、その最初の作品だ。一方、この頃から、紙の地肌がそのままの形で作品の中に現われるようになる。「母と子の残像」は、その最初の作品で、ここでは、残像(亡くした子供の思い出)を表現するために、その技法が使われている。たぶん、木版で色を重ねていく段階で、何も色を着けないほうが優れた表現を生むことを偶然発見して、それを意識的に採り入れるようになったのだろう。この「白ぬき」の技法は、1969年~1971年の「忍野」の連作で、より一層深められ、素晴らしい表現を生むようになる。それまで、画面の基調となる色は黒のヴァリエーションであったが、それに対抗する色として、この「白ぬき」の部分が現われ、ときには、その「白ぬき」の部分に、緑・黄・ピンクなど鮮やかな色が入るようになったのだ。この時期の代表作「白い林」は、林の背後に山が見えるという構図だが、前面の木の幹や枝が「白ぬき」の技法で強調され、不気味な緊張感がただよっている。かつて、中国の山水画は、前景・中景・遠景と、3つの空間で構成されていたが、その後、葛飾北斎が富獄三十六景や富獄百景で、遠景に小さく富士山を描き、前景に大きく樹木を配し、中景を省いた構図でダイナミックな表現を創造したことを、この作品は想起させる。しかし、北斎の作品とは異なる「白ぬき」の技法で、林を幻(まぼろし)のように表現することで、樹木の精霊がそこに生えているような印象を観るものに与えるのだ。他の海野版画でも、黒々とした背景の中に、鮮やかな色で浮かび出す一面黄色の菜の花や桜の花は、この世のものであって、この世のものでないような生命力をもち、観るものに訴えかけてくる。▲湖岸の民家(1972年5月 54×38cm)さて、その後の作家は、どこへ行ったのか。1975年の佐賀白石平野の連作では、作家は鳥になり、雲になって「心のふる里」を見下ろしている。代表作のひとつ、1976年の「追い陽」では、水田に雲の陰が映っているのだが、まるでUFOにでも乗っているような現代的な空間だ。作家の目は、ここまでの自在性を獲得したのだ。▲追い陽(1976年3月 50×100cm)1977年の「語り草の谷」「壁影」「斜景」「草生えの坂道」「えのころと海」などでは、作家は草になり、石になっている。もはや前景に描かれる植物は「白ぬき」の技法ではなく、陰影まで細かく描かれ、その背後の黒々とした壁が視界をさえぎっている。背後に、ほんのかすかに、空や海が見えている。ここまで来て、作家は自然と同一化することができたのだろうか。▲えのころと海(1977年11月 50×100cm)そして再び、「障子」が登場する。1976年の「縁通し」は、格子戸、すだれ、テレビの画面に映った風景が組み合わされ、複雑な空間を創り出していて、代表作となった。▲縁通し(1976年2月 50×100cm)1978年にも、「窓格子」「語らいのあと」「浮き雲映える家」「語らいを終えて」「語らいを待つ」など、「障子」をモチーフとした作品が次々に現われる。ここでは、「障子」は、天上界(過去)と下界(現在)との境として、象徴的に描かれている気がする。語らっていた人々は描かれず、その宴の始まりと終わりだけが描かれている。いままでの作品なら、「白ぬき」の人物として表現されていいはずのものが、ここではまったく描かれていない。つまり、風景そのものが、天上界の暗喩になってしまったのだ。「心のふる里は、もう幻のかなたに消えてしまった」と、作品「語らいを終えて」は語っているようだ。ここで、作家は生涯を終えたのである。▲語らいを終えて(1979年6月 70×50cm)※ この文章は、1991年6月に書いたものです。その後、海野光弘さんの全作品は、遺族から島田市に寄贈され、島田市博物館分館「海野光弘・版画記念館」で公開されています。
2005.08.06
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2005年6月7日に亡くなった女優アン・バンクロフトさんを追悼しようと、映画『卒業』を見なおしました。カメラは、まず、6月に東海岸での大学生活を終えて、ロサンゼルスの空港へむかう飛行機のなかのベンジャミンの緊張した顔をとらえます。空港の中を歩くベンの心を代弁するように、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れます。♪Hello darkness, my old friend,♪I’ve come to talk with you again♪Because a vision softly creeping♪Left its seeds while I was sleeping♪And the vision that was planted in my brain♪Still remains♪Within the sound of silenceハロー、暗闇よ、ひさしぶりだね/また君と話しにきたよ/幻影がそっと忍びこんできて/種をまいていったんだ、僕がねむっているあいだに/僕の頭に植えこまれた、その幻影は/いまもまだ残っているんだ/沈黙の音のなかにこの歌の通り、この映画の主題は暗闇です。西海岸の両親のもとを離れて、東海岸で大学生活をおくったベンの心のなかには、いつしか暗闇が宿っていました。明かりを消した2階の自室の窓から、プールサイドで談笑する人たちの姿をのぞいて、ここには自分の居場所がないと、ためいきをつくベン。そんな彼の姿を、たばこをすいながら、ひとりソファにこしかけて見つめ、彼の心のなかの影に気づいたのが、ロビンソン夫人です。夫人は、トイレと間違えたふりをして、ベンの様子をうかがいにきます。「家まで送って。主人がクルマをもっていったの」と言われたベンは、両親からプレゼントされた赤いスポーツカーで夫人を送ることになります。ロビンソン家に着いたベンは、「暗いのがこわいの」という夫人にうながされるまま、ホームバーで、音楽を聴きながら、ウイスキーを飲みます。「私をどう思う? 子供の頃から知ってるでしょ。アル中だったのよ。知ってた?」と聞かれて、様子がおかしいことに気づき、帰ろうとするベン。それでも引き止められたベンは「エレインの肖像画、クリスマスに出来たの。見る?」と、2階のエレインの白い部屋に案内されます。黒のドレスの背中のファスナーをベンにおろさせて、下着姿になる夫人。危険を感じたベンが帰ろうとすると、「1階においたバッグをもってきてちょうだい」と頼み、ベンがエレインの肖像画の横にバッグをおいていると、バスルームから裸のまま戻ってきた夫人は、ベンを誘惑します。そこへ、ロビンソン氏のクルマが帰ってきた音がして、ベンはあわてて、1階のホームバーへ戻ります。ベンの誕生日。ブラドック家では、例によって、プール・サイドでパーティが開かれています。アトラクションとして、ベンは、誕生日プレゼントとして両親から贈られた黒いダイビング・スーツを着て、プールにもぐることになります。ダイビング・スーツに身をつつんだベンが、家のなかから、水かきをつけた足でヨチヨチと、プールにむかうと、みんながはやしたてますが、ベンには、マスクのガラスごしに、その様子は見えるものの、歓声は聞こえません。ベンは、そのまま、プールの底、水色の世界にしずんでいると、やっと心の安らぎを取り戻せたように感じました。スクリーンはプールの底を映し出したままですが、ベンがロビンソン夫人に電話をかける声が重なります。「どこにいるの?」「タフト・ホテル」「1時間後、そこへ行くわ」。ベンは心のなかの暗闇をもてあましていました。そして、夫人も、同じように心のなかに暗闇をかかえていることに、無意識のうちに気づいたのでした。ホテルのラウンジで、豹柄のコートに黒いドレスの夫人とおちあい、「部屋をとって」と言われ、おそるおそるフロントの様子をうかがうベン。部屋に入ると照明を消して、夫人の到着を待ち、いきなりキス。彼女が服を脱ぐと、ブラのうえから右の乳房をさわるベン。しかし、壁に頭を打ちつけて「こんなことできない」と言うベンに対して、「はじめてなのね」と挑発する夫人。「なんだって」とベン。一度脱いだ服を着ようとする彼女に「動かないで」と言って、おそいかかろうとするベンのシルエットで、スクリーンは暗転。ふたりの心のなかの暗闇が、ひとつになったのです。カメラは、カリフォルニアの太陽でキラキラひかるプールの水面を映し出し、ふたたび「サウンド・オブ・サイレンス」が流れます。自宅のプールに浮かせたマットのうえで、サングラスをしてビールを飲み、ロビンソン夫人への思いにふけるベン。午後はプールでのんびり日光浴をし、夜になるとタフツ・ホテルに出かけて、夫人とからだを重ね、翌日の昼頃に帰宅という生活をおくっているベン。カメラは、たばこをすうようになったベンをとらえます。子供に理解があるところを見せようとしていた両親も、いよいよ心配になって、ベンに質問や説教をはじめます。ホテルでの情事の合間、ベンは、部屋の照明をつけて、「少しお話がしたいんだ」と切り出します。夫人は、すぐ照明を消しますが、ベンが話を続けると、再び照明をつけて、たばこに火をつけ、また照明を消します。「ロビンソン氏は、気がつかないの?」「寝室が別なの」「なぜ結婚を?」「よく考えてみて」彼女は照明をつけます。「娘には内緒よ」「妊娠したから?」「もう寝ましょう」と会話を打ち切ろうとする夫人。「おふたりは、一体どういうきっかけで?」ベンに背をむけて、悲しげな表情を見せながら、大学生のときに知り合ったこと、大学では美術を専攻したが、興味を失ったことを話します。夫との成りゆきを聞かれ「誘われて、クルマのなかで」「クルマは何?」「フォードよ」。部屋の照明を消す夫人。主導権をにぎったベンが「エレインはフォードで生まれたか」と言うと、ミセス・ロビンソンは怒り出します。「娘の話はやめて!」「なぜ?」「聞きたくないの」。ベンが「彼女とデートして確かめてみよう」と冗談を言うと、夫人は照明をつけて、抱きついていたベンを押しもどして「あの子を誘ってはだめ」と言います。「僕は興味ないよ」と言いながら、ベンはベッドを離れて、切り返します。「でも、なぜ?」「言えないわ」「僕が彼女に合わないから、話す資格もない?」「やめましょ」「あなたとならいいが、娘と付き合う資格はない。そうなんだ」。ベンは、シーツをまくりあげ、夫人のからだをあらわにします。夫人はシーツをもどして、「そうよ」。ベンは、夫人との情事を非難しながら、シャツを着て、ネクタイを首にかけ、ジャケットに腕を通して、部屋を出ようとします。「僕は地獄から脱け出す」「そう?」「そうさ」「私は最低だと言うのね」「やめてくれ、傷ついたふりは」「傷つけたいんでしょ」「あなたが、僕に資格はないと言った」「言ったかしら」「言葉はちがうが」「そう聞こえたら謝るわ」「ついさっき、そう言って、そう聞こえたら謝るか」「ちがうの。あなたたちは会うべきでない。あなたが悪いとは言ってないわ」「そう?」「もちろんよ」。夫人も、ベッドを出てストッキングをはきはじめます。「何してる?」「もう私がイヤなんでしょ」カメラは、ベージュのストッキングをはく夫人の左脚が空中をゆれ、それを見つめるベンをとらえます。動揺し、彼女に許しを請うベンの表情は、影になっていて見えません。「つい頭に来て、ひどいことを言った」「いいのよ。私がなぜイヤかわかるわ」「あなたが嫌いなら、こうして来ないよ」「不愉快なんでしょ?」壁のほうをむきながら「楽しい。いつも喜んで来てる」と応えるベン。「無理しないで」「嘘は言わないよ」「いていいの?」「いてほしい」「ありがとう」「礼なんて。僕が望んでる」と彼女に顔をむけたベンは、エレインと会わないことを誓います。和解したふたりは、お互いに背をむけたまま、つけたばかりの下着を脱ぎはじめるのでした。南カリフォルニアの光に満ちた世界に居心地の悪さを感じたベンが落ち着ける場所は、2階の自室であり、プールの底であり、夜のホテルの1室でした。そして、ベンを暗闇に誘うロビンソン夫人は、黒いドレス、黒い下着をつけて登場し、情事は暗闇のなかで行われます。ただ、このホテルの1室でベンと口論する場面では、照明を点けたり、消したり、という行為が繰りかえされ、夫人は、白いシーツに身体をつつんで、青春時代を回想するとき、めずらしく悲しげな表情を見せます。ベンが、シーツをまくって、夫人の身体をあらわにしたとき、彼女は、自分がエレインのように若くないことをあらためて思い知らされ、かつては自分も光の世界に住んでいたことを思い出したのでした。「エレインを誘わない」と夫人に約束したベンですが、両親の強い要望で、エレインとデートすることになります。ロビンソン家を訪問し、ミセス・ロビンソンに言い訳するベン。エレインの白い服。黒いサングラスをかけて、ひさしぶりに会うエレインに心を開かず、ストリップ劇場へ連れていくベン。そんなベンの仕打ちに涙を流すエレインに、ベンは心を動かされ、サングラスをはずして、キスします。夜中、エレインを家へ送るころには、夫人と別れる決意をしています。翌日、大雨のなか、クルマをロビンソン家の前に着けると、黒いコートを着た女性が走ってきます。ベンは、エレインかと思ったのですが、顔をあげると、ロビンソン夫人でした。「エレインには会わないで。私の命令よ。いざとなれば、すべてを話すわ」。その言葉をきくと、ベンは、クルマを出て、2階のエレインの部屋に飛びこみます。覚悟を決めて、夫人との関係を告白しようとするベン。そのとき、ずぶぬれの夫人が部屋の前に戻り、気配を感じたエレインは、悲しげな夫人の顔を見て、すべてを察します。部屋から追い出されたベンに、夫人は呆然とつぶやきます。「グッバイ、ベンジャミン」。ロビンソン夫人が影だとすれば、彼女の娘エレインは光そのものでした。白いドレスに身をつつんでベンジャミンの前にあらわれて、たちまち彼をとりこにしてしまいます。エレインとの結婚を決意したベンが、バークレーに彼女を追いかけて、彼女の愛を確認できたとき、ベンの着ている服も白になります。その後、ロビンソン夫人が登場するシーンは、2回。エレインがバークレーから姿を消したのを知ると、白い服を着たベンは、夜通しクルマを走らせてロサンゼルスにもどり、裏庭からロビンソン家にしのびこみ、2階のエレインの部屋にむかいます。「エレイン…」と声をかけたベンに、ふりかえったのは、黒のパンツとカーディガンをつけたロビンソン夫人でした。彼女は「急で結婚式にご招待できなかったわ」と話しかけながら、ワードローブから、娘の結婚式で着る襟と袖が豹柄の黒いコートを出してきます。最後、サンタ・バーバラの教会の2階から、ベンと一緒に逃げ出そうとするエレインを「だめよ」と止めますが、エレインが「行くわ」と応えると、その頬を2度、平手打ちします。逃走するエレインは、純白のウエディングドレスですが、ベンは、教会での格闘で、白い服がやぶれて、下に着ている黒いシャツが見えています。みたび「サウンド・オブ・サイレンス」が流れるなか、ベンの表情は、映画の最初、ロスへ向う飛行機のなかのベンを思い出させます。ベンに再び暗闇がしのびよるところで、映画は終わります。このように、マイク・ニコルズ監督は、チャールズ・ウェッブの原作の映像化にあたって、光と影のせめぎあいのドラマという手法を使いました。そして、ミセス・ロビンソンという影の役を演じたアン・バンクロフトさんの演技が、この映画にリアリティをあたえています。映画『卒業』より
2005.08.03
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夜中に、部屋のなかをゴソゴソやっていたら、ヴェネツィアの画家ティントレットについて書いた文章が出てきました。日付は1981年2月4日。私の出発点となる文章なので、日記に掲載することにしました。私は、「イタリア・ルネッサンス展」(1980年11月1日~12月21日、国立西洋美術館)で、ティントレットの「最後の晩餐」(1566年制作、油彩、カンヴァス、220㎝×420㎝、ヴェネツィアのサン・トロヴァーソ聖堂所蔵)を観て、その圧倒的な迫力に惹かれたのだが、その圧倒的な迫力がどこからやってくるのか、ということを少し考えてみたい。私が西欧の絵画を鑑賞するとき、とまどうのは、神話や聖書からとられている主題をどのように考えたらいいのか、という問題である。13世紀後半イタリアにおいてジョットやその先駆者たちが創造した、形体や空間を3次元のイリュージョンによって表現する方法は、一応宗教的主題の世俗化の傾向(その当時の世俗生活において解釈しなおすという意味)を示すものとしてとらえられるが、アッシジのサン・フランチェスコの思想との関連も見逃せない。このような問題は、芸術(この場合、近代的な芸術概念として使っているわけだが)における宗教とは何か、さらに翻って芸術とは何か――近代芸術概念の再検討という問題へと拡大していく。私にとってヨーロッパの中世・ルネッサンス期は未知でありすぎるし、ここではそういった地域差や時代差を超えて私に訴えてくるなにものかについて何かしら述べられればいいのだが。 ティントレットが生きた16世紀後半(1518年~1594年)は、新大陸の発見によってもたらされたペルーの金と銅によって欧州市場は混乱していたし、とりわけヴェネツィアは15世紀半ばのトルコ人によるコンスタンティノープルの陥落によって東方貿易に打撃をうけ、スペイン・ポルトガルによる東洋への長距離航路の発見はヴェネツィアを衰退へと導く不安をかきたてた。そこで、高級ラシャの製造、造船業といった新しい産業の発展を見るのである。また、精神面では、腐敗しきった教会組織に対して北方ヨーロッパでは宗教改革が始まったのに対して、カトリックの側でも、トリエント公会議(16世紀中期)基本綱領をもとに教会の立て直しが行われつつあった。つまり、世界の転換期であり、あらゆる価値が相対化される混乱のなかで、人間の行為もいろいろな形であらわれたのである。ヴェネツィアは、その地形のみならず、商業都市国家という性格からも、ローマ教皇権の支配より世俗権力が優位であり、自由な雰囲気をもっていた。その黄金時代を象徴するのがティツィアーノの絵画であり、人々はいまだにその豊麗な色彩に満たされた理想美の世界に酔いしれようとしていたのであった。そこに登場したのがティントレットというわけである。まず、この作品を古典的なレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(1499年、ミラノ、サンタマリア・デルレ・グラツィエ修道院)と比較してみる。レオナルドの作品においては、線遠近法の収束する一点は、ちょうどイエスの額と重なり、すなわち神の子イエスによって統一された世界を示す。そしてイエスの背後には、二階の広間の窓から外の明るい風景が望まれる。ティントレットの作品においては、やはりイエスを画面構成の中心に据え、背景には外界の風景が夕方の光のなかに望まれるのであるが、作者の視点はレオナルドの作品に比べて高い位置にあり、イエスと使徒たちを俯瞰する形になっている。さらにテーブルの形は、レオナルドでは伝統的な細長い形であるが、ティントレットでは正方形に近く、それに伴って使徒たちの配置もレオナルドでは12人の使徒が3人ずつ組になっているのに対して、ティントレットではその配置・身体の運動ともにより複雑であり、また伝統的な図像に出て来たことのない人物たち――果物を持った皿を手に食卓に近づく一人の少年、階段の上で糸を紡ぐ老婆、さらには柱廊のまばゆい光に包まれながら、キリストの背後に歩み寄る二人の小人物像が見られるのである。ここで、このような画面構成の変化を導き出した要因を考えてみる。当時レオナルドらによって確立された絵画の古典様式に対して、後期ミケランジェロをはじめとするそのあとの世代によって新しい絵画様式が創造されていた。この動向は、一般的には直接「自然から」画面を構成するのではなく、先行する巨匠たちの「美しいマニエラ(手法・様式)」によって画風を構成するところから「マニエリスム」と呼ばれ、1520年前後のフィレンツェ、ローマに源を発し、1530年~1550年にはヴェネツィアにも多大な影響をもたらし、16世紀後半には全ヨーロッパへ国際様式化した。アーノルド・ハウザーは、その基本的様式原理を「あの特徴的な細長い形体、丈高い細い人物の好み、空間の不均等な充填、緊密な中央集中を捨て、主要な情景を前景または中央から、後景または片隅へとしりぞかせる方法、むらのある人物配置、短縮法による強烈な奥行き表現、前景に暗く表現された人物、あるいは対角線・大きさ・照明・姿勢などの強烈なコントラスト、題材や線や形体の反復、平行、押韻、そして主人公を画面中心から移して、個人よりもグループの価値を重んずるなどの原則」とまとめている。 マニエリスムの影響は、ティツィアーノの作品にもみえるが、ティツィアーノとの比較からティントレットの特徴をみいだせば、ティツィアーノの作品の依頼者が、外国の宮廷や王侯であった(ティツィアーノ自身もピエーヴェ・ディ・カドーレからヴェネツィアにやってきた画家であった)のに対し、ヴェネツィアの染物屋の息子であるティントレットの作品の依頼者は、主に教会と、本質的に宗教的な団体である同業組合(スクオーラ――その目的は(1)聖職者以外の市民のための共同の宗教的訓練の場、(2)慈善や相互扶助を行うこと)であり、彼の活動範囲もほぼヴェネツィアに限られていたことである。このスクオーラは、ヴェネツィアで下から盛り上がって広汎な層をとらえるにいたった新しい宗教生活深化の動きを象徴するものであった。このような背景を頭にいれて、先にみたような前の時代との絵画技法の変化が、どのような新しい意味をもたらしたかを考えてみる。この作品では、画面はまずキリストの背後の柱廊から外界の風景にいたる明るい空間と、前景の室内のより暗い空間に分かれている。さらに前景の空間にやってくる光は、キリストの背後の明るい空間だけではなく、中央のテーブルをほぼ照らし出すような大きさのあかり窓が、やや上部むかって右側手前(私たちの俯瞰する視点より上部右側)にあって、そこから斜めに光線がさしこんでいるようである。リドルフォによれば、このような仮構の空間における構図・照明効果の研究にあたって、ティントレットは蝋と粘土でできた小さな彫像と、舞台のように光の具合が調べられるようになっている暗箱の一種を使っていて、衣の襞の具合、遠近のようす、照明効果を調べたという。明暗のコントラストによる空間の分裂に加えて、人物においても、このような分裂がみられる。おそらくこの場面は<イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互いに顔を見合わせた>(ヨハネによる福音書13-21~22)という記述に対応するものであろうが、ティントレットは、この作品で、この情景をマニエリスム的なむらのある複雑な人物の配置・動作の表現によって、神の子イエスに対する使徒の裏切りというよりも、その逸話を当時の世俗社会に重ねあわせての再解釈、つまり神を失いつつある当時のヴェネツィアにおける人間と人間との間の不信な関係(当時のヴェネツィアにおいて人間関係は信仰よりも金であった)の象徴として描いているようにみえる。先に指摘した俯瞰する視点によって、画面はイエスを中心とするというよりも、テーブルを中心(光もそこにあたっている)とし、そのまわりの人物は、その風俗画風の描写とともにイエスもふくめて、前の時代よりもそれぞれの人物に同等の価値が付与されて描き分けられているようにみえる。マクス・ドヴォルシャックのように、前景に後ろ向きでまだ半分ほど入っている盃と葡萄酒の瓶をつかんでいる人物をユダとし、イエスとユダの垂直の対照に、この作品の主題をみいだしていくこともできるが、ティントレット独自の表現を考えた場合には、聖書の伝統的解釈からより逸脱した点に特徴を求めるべきだろう。そして、この前景の室内の世界と対照的に、イエスの背後に描かれた後景の柱廊は光に満たされ、前景の人物像と対照的な半透明の二人連れの人物像がみいだされるのだが、ティントレットの諸作品にしばしば登場するこの半透明の人物像の解釈は難しい。ここでは、前景を現世の苦悩の象徴、後景の光に満ちた世界を天上の楽園の象徴、そしてその二つの世界を架橋する者としてのイエス、と解釈しておく。しかし、この天上の楽園を満たす太陽の光も傾きかけているようである。それは柱廊の柱の長くのびた影や、たそがれの空の色によってわかるのだが、これは、この最後の晩餐が夕刻に行われているということを示すだけでなく、それまでの西欧のキリスト教的世界観が崩壊しつつあることを示しているのではないだろうか。ちなみに、彼のこの後の「最後の晩餐」の諸作品では、もはや外界の風景は描かれていず、全体が異様な光線で照らし出されているのである。さて、この作品の表出力の強さは、どこからやってくるのだろうか。それは、前の時代においてはキリストを中心に統一されていた「最後の晩餐」の画面が、いま、みてきたように分裂、崩壊にひんしながらも、それを画面全体としてなんとか統一させようとするティントレットのくわだて、この崩壊と統一との間にバランスをとろうとするところに生まれる緊張、そこに、この作品の美が成立しているのだ。それはまた、彼の作品の依頼者であったヴェネツィアの市民や職人たちの危機感と祈りを代弁しているのではないだろうか。
2005.07.18
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私がはじめて『南回帰線』を読んだときから、強烈なイメージとして残っているのは、アメリカ大陸のすみずみまで歩きまわり、見つめつづけるヘンリー・ミラーの姿です。ミラーは、15歳のとき、ブルックリンの高校で出会ったユーナと恋におちます。しかし、ミラーは、彼女とは2、3度、遠慮がちな接吻のよろこびを味わっただけで、二人だけで会ったことも数回しかありませんでした。ミラーは、ニューヨーク市立大学に入学しますが、2カ月で退学し、職を転々とします。15歳年上のヴィーナスのような女性と2年間一緒に暮らしますが、ミラーが愛していたのはユーナでした。女性との生活に耐えられなくなったミラーは、ユーナにも別れを告げ、カリフォルニアへ逃げ出します。ミラーは、アリゾナで、汽車の車窓から、ある峡谷にかかっている橋を見て、おどろきます。「いままで一度も見たことのない橋――何千年も昔に、地球の大変動によって、とつぜん自然にできあがったような橋だった。インディアンのような格好をした男が一人、その橋を渡っているのが見えた。彼は、馬にまたがり、あぶみの横に長い旅嚢をさげていた。澄みきった大気のなかで落陽に映えたその千古の橋は、想像しうるかぎり最も新しい、最も若い橋のように見えた。しかも、その非常に堅固な橋の上を、ありがたいことに、一人の男と馬しか通っていなかった。それがアリゾナだったのだ」それは、ミラーの夢でした。実際に、日が暮れたアリゾナの駅に降りたミラーは、幻滅し、その先から砂漠が始まる、とある町はずれに立って泣きます。また、あるとき、ミラーは、テネシー州境に近い北カロライナの橋の上にいます。「私は、大きな峡谷の上にかけられた、ぐらぐらゆれる木造の橋の上に出た。そこは世界の果てであった。どのようにしてそこにたどりついたのか、なぜそこにいるのか、私には、さっぱりわからなかった。おれは、どこで、どうして食べものにありつくつもりなのか。たとえ想像しうるかぎりどっさり食事をすることができたとしても、私は依然として悲しいだろう。私はそこからどこへ行くべきかを知らなかった。その橋は私の果てであった。この橋は狂気そのものにちがいなかった。そこにかかっていなければならぬ理由は、まったくなかったし、それを人々が渡らなければならぬ理由もなかった。近くに低い岩壁があった。私は、それにもたれながら、どうすべきか、どこへ行くべきかを考えた。私は自分がいかに文明化された人間であるかを静かに自覚した――私は、周囲の人間を、会話を、本を、劇場や音楽や酒場や飲みものを、その他多くのものを必要としていることに気づいた。文明化されるということは、じつにおそろしいことだ。なぜなら、世界の果てへ来たとき、孤独の恐怖に対して、まったく無力であるからだ」ミラーは、チュラー・ヴィスタ市のオレンジの林のなかで、奴隷のように働きます。「なにもかもうしなってしまったような気がした。私はもはや人間ではなかった。動物に近かった。荷車を挽く2匹のロバのうしろについて終日歩きつづけている私。私には、なんの思想も夢も欲求もなかった。体はすこぶる健康なのだが、頭はからっぽであった。人間の屑みたいなものだ。生気溌剌として健康的でありすぎるために、カリフォルニアの果樹林にぶらさがっているあの甘美な人工的な果物に似てきたらしい。もう少し太陽の光にあてられたら腐ってしまうかもしれない。熟する前に腐ってしまうのだ」ミラーは、何千マイルもの道を歩きつづけ、メキシコ湾に到達すると、そのまま、まっすぐ海のなかへ入っていきます。「私は、このニセモノの文明人の生活をつづける口実のために、メキシコ湾に身を投じなければならなかったのだ。自分の神聖な肉体から私自身を追放しなければならなかったのである」と、ミラーは書いています。「新世界は、純粋なるものの破滅の上に、ごうかんや掠奪や殺戮の上に築かれたのではなかったか? 私は、われわれの祖先のことを思うと、顔があからむのをおぼえる。われわれの手には血と罪悪がしみついているのだ。しかも、私がこの大陸をすみずみまで旅行したとき、まっさきに発見したのは、依然として虐殺と掠奪がくりかえされていることであった。最も親しい友人にいたるまで、あらゆる人間が潜在的な殺人者であった。私にとって一番つらかったのは、せっかく口から出かかった言葉を、とたんに抹殺されてしまうことであった。私はこの巨大な暴力の半球のなかで孤立していた。私は自由というものに必然的にともなうさまざまの刑罰に、しだいに自分を馴らしてゆかなければならなかった」ただし、ミラーは、まったく孤立していたわけではありません。「人々は、かげで、いや、ときには私の目の前で、あいつはおかしいぞという合図をかわす。私は友人や、家族や、それまで愛していた人たちから、グッド・バイを余儀なくされる。ごく自然に、またしても流れにのってただよう自分を発見する。だいたいは、夕陽に顔をむけながら、ハイウェイを歩いている。私は、はなはだ愛想のよい、ものやわらかな、抜け目のない動物であり――同時に、聖なる人間と呼べるようなものとなる。私は適当に、ある地位にとどまり、ある人間との交際をつづけるが、必要なものを獲得したら、さっさとおさらばを告げる。私にとっては終着点というものがない。無目的の放浪は、それ自体充足したものなのだ。私は小鳥のように自由であり、軽業師のように自信に満ちているのである。マナは天から降ってくる。私は手をさしのべてそれを受けとりさえすればよい。私は、行くさきざきで、この上もない悦楽の思いをのこす。まるで天から降る贈りものを受けることによって、他人に真の恵みをあたえているかのようだ。私は、いつも泥棒や、ごろつきや、人殺し連中とつきあってきたが、彼らは私に対して、なんと親切で思いやりがあったことだろう! 彼らはまるで私の兄弟のようであった。私もやはり、あらゆる罪をおかし、そのために苦しんできたのではなかろうか。その罪ゆえにこそ、私はこうした仲間と、ごく密接に結びついていたのではなかろうか」ニューヨークへ戻ったミラーは、成熟して生まれかわるまで、真の自己を冬眠させます。ふたたび人間の行動の流れのなかに身を投じ、人間性の潮が白い大きな波浪となって、ミラーを洗うのに身をまかせます。それは、ミラーを疑問から疑問へとみちびき、すでに海面から没していた真の自己を、ますます見うしなわせることになります。「私は自分が社会によってガトリング銃を手にもたされたあやつり人形であることに気づいて、凍えるような絶望感におそわれたことがあった。たとえ私が善良な行為をしたとしても、究極的には、悪質な行為をした場合と、なんら異なるところがないのだ。いかに私が有能になろうとも、私は絶対にプラスないしマイナスの記号に変ることはできなかったのだ。私だけではなく、すべての人がそうであったと断言してもいいと思う。私たちのあらゆる生活は、この等式の原理の上に築かれていた。整数は死のために踊らされている記号と化してしまっていた。同情、絶望、情熱、希望、勇気――それらのものは、さまざまな角度から等式を見ることによって生じる一時的な屈折作用であった。それに背をむけ、あるいは、まともに相対して、それを書くことによって際限なく糊塗することをやめたところで、なんの甲斐もなかった。鏡の広間のなかでは自分自身に背を向ける方法はないのだ。全然なにもしないでいることができるだろうか。なにもしないということについて考えるのをやめられるだろうか。完全に静止して、虚心担懐に、自分の真理をひろめることができるだろうか。この考えは、いつも私の脳裏をはなれず燃えつづけていた」ミラーは、自分の内部に湧きたぎっている熱い溶岩を、なんとか流出させようと呻吟します。なんとか通路をつくって、ただの一字でも一句でもいいからとらえてやろうと、何千回となく努力をくりかえしますが、うまくいきません。ところが、ある日、奇妙な調和感、神秘的な静止の状態を感じます。ミラーは、家へ飛んで帰り、机に向います。「私がなにを書いているのか、なぜこんな書きかたをするのかを、だれひとり理解してくれるものはいなかった。私が新しい世界について書いたのは、不幸にも時期が少々早すぎたようである。それはまだラッパ管の中にかくれている卵巣の世界であった。わずかに背骨の芽ばえが見られるだけで、脚も腕も髪も爪も歯も、まったくなかった。それは極微時間の世界であり、各分子がそれぞれに不可欠であり、驚くほど論理的であり、絶対に予言しえない微分子の世界であった」「じつはそれは古くも新しくもなく、ただ刻々に変化する永遠に真実なる世界であった。夜、私はしばしば机に向って、オーストラリアの奥地人や、ミシシッピー渓谷の原住民や、フィリピンのイゴロート族などに手紙を書いた。どんな古い年代の人間でも私を理解してくれたにちがいない。ただ私の周囲の人たち、この大陸に住む1億の人たちだけが、私の言葉を理解することができなかった」「子宮の世界は、生命のリズムの所産である。生の究極の意味は、ごく簡単な身ぶりひとつで十分伝達することができる。全存在で語るならば、ただの一語でも生命をあたえることができるのである。行動そのものは、まったくなんの意味もないばかりか、それはしばしば死の徴候にほかならない。単純な外部的な圧力によっても、環境や慣例の力によっても、あるいは行動を生む雰囲気そのものによってすら、人間は――たとえばアメリカのような――おそるべき死の機械の一部になりうるのだ」「生の根源たる子宮へ帰る道を発見していることを自覚した人間が、彼の先史的な机から世界の古代人と通信するのに用いる粗雑な暗号、そこから新しい言葉が生まれるのである。その言葉は無線電信が嵐をつき抜けてゆくように現代の死の言葉をつき抜けてゆく。私自身のように、口をひらいて語るものだけが――イエス、イエスと言いつづけてきたものだけが――死に対して大きく腕をひろげることができ、なんの恐怖も感じないでいることができるのである。いかなる人間でも、自己を発見し、生命のリズムである自己のリズムを発見したとき、最初に書く文字は、イエスなのである。その後に書くあらゆることも、すべてイエス、イエス、イエス――千差万別のイエスなのである。いかに巨大な発電機でも――たとえ1億の死者の発電機ですら――イエスと言いつづける人間に立ち向うことはできないだろう」ミラーは、ブルックリンの街を歩きながら、はじめて愛した女性ユーナのことを思い出し、ひとりぼっちであることの際限のない辛さを感じます。星は、明るく、遠く、輝いていて、ミラーに語りかけます。「わしらはね、何百万年、何千万年も、こうしてここにいるんだよ。わしらは、あらゆるものを、ひとつ残らず見た。けれども、あいかわらず毎晩おだやかに光を放っているのだ。道を照らし、人の心を静めているのだ。あたりを見まわしてごらん。万物が、いかに静かで美しいかを、きみの目で確かめてみるがよい」。ミラーは、非常に考え深くなっていきます。「私は世界じゅうのあらゆる人を愛しはじめた。私の家? この世界が、全世界が私の家なのだ! どこにいようと、そこが私の家なのだ。もはや境界線なぞはない。そんなものは最初から存在しなかったのだ。私が勝手につくっていたのだ。私は幸福感にひたりながら、ゆっくりと通りから通りへと歩いて行った」
2005.06.05
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もうひとつのニューヨーク。それは、マンハッタンのなかの女陰の形をした亀裂――ブロードウェイで、ヘンリー・ミラーが仲間たちと繰り広げるセックスの歌。ミラーは、通信会社の雇用主任として目撃した悲惨な人生をおくっている人々や幼年時代の輝かしい日々について回想し、人生の虚無について思いをめぐらしたあとで、ひといきつくかのように、女たちとのセックスの場面を描いています。それは、絶えず浮かれたり、沈んだりするミラーの生命のリズムであり、女たちとのセックスについて語るミラーは、陽気です。『南回帰線』の物語は、このような陰と陽の場面が交互にあらわれて、リズムをきざみ、螺旋状にうねりながら、海流のように流れていきます。ミラーの『北回帰線』(1934年)、『暗い春』(1936年)、『南回帰線』(1939年)は、アメリカやイギリスで発禁になっているエロティック文学を出版するために、イギリス人ジャック・カヘインが設立したオベリスク・プレスから刊行されました。ミラーの作品にたびたび挿入される猥褻な場面のために、アメリカ人の出版者は、これらの作品の出版に難色を示し、合衆国は、ミラーの本をアメリカへ輸入することを禁止。しかし、ミラーは「限度なんてあるはずはない。あらゆる危険を冒し、あらゆるものを表現することだ。それが、このおれだ。表現に制限を加えることだけはしたくない」と猥褻な場面の削除を拒否します。アメリカで『南回帰線』が刊行されたのは、24年後の1963年です。ミラーは、15歳のときの初体験について書いています。「ローラは私の最初のピアノ教師だった。美人とはいえなかったが、私の心をそそったのは彼女が毛深いことだった。彼女は、すばらしく美しい長い髪の毛を、蒙古人風の頭に、半分は上向きに、半分は下向きにたばねていた。襟もとの毛は、くるくるとカールしてあった。彼女がくるころまでに私は手なぐさみのためにややぐったりしていた。だが、彼女が横の椅子に腰をおろすと、すぐまた私は昂奮におそわれた。彼女が腋の下にたっぷりとつけたつんと鼻をつく香水のためである。夏には袖なしを着ているので、密生した腋毛がのぞいて見えた。全身毛だらけで臍のなかまで毛が生えている彼女を私は想像した。私は、ある日とうとう入浴中の彼女をのぞきみする機会をつかんだ。それはみごとなものだった。草むらのように深く、毛編みの敷物のように豊かなのだ」「つぎにローラが家へきたとき、私は前ボタンを全部あけ放しにしておいた。(真赤になっているローラが左手でそこを指さして顔をそむけるふりをすると)私は、その手をつかんでひきずりよせた。私は、一物のよろこびを彼女に示しながら、彼女の毛編みの敷物をさぐろうと、手をのばした。すると、いきなり私は横面を思いきり殴られた。つづいてまた一発。やがて彼女は私の耳を引っぱって、ぐいぐいと部屋の隅へつれて行き、私の顔を壁に向けて言った。『さあ、前ボタンをはめなさい。このいたずら坊主!』」「ある晩私は鉄道線路のそばの草むらのなかに寝ころんでいた。とつぜん私は、こちらへやってくる女の姿をみとめた。『ローラ!』と私は呼んだ。彼女は、『まあ、こんなところで、なにをしているの?』とびっくりしながら、堤防の上に私とならんで腰をおろした。私は、ただ黙って彼女の上にのしかかった。『ここじゃ、いやよ。おねがい』と彼女は言ったが、私はとりあわなかった。それは彼女にとっても最初の経験だったらしい。たぶん彼女は私以上にそれを欲していたようである。しかし、火の粉が体に散ったとたんに彼女は体を離したがった。彼女は立ちあがり、服の土をはらい、襟もとの髪を直した。『さあ、早くうちへ帰んなさい』と彼女は言った。『帰らないよ』と私は言い、彼女の腕をとって歩きだした。私たちは、かなり長いあいだ、おし黙ったまま歩きつづけた」「私は本能的に池のほうへ足を運んだ。ローラの手をとって低く枝を垂れた木々の下をくぐり抜けようとしたとき、不意に彼女は私の手を握ったまま、ずずっと足をすべらせた。私を引き寄せて、しっかりと胸のなかに抱きしめた。手をさりげなく忍びこませ、すばらしい技巧で愛撫してくれた。やがて私の手をとって彼女のほうへみちびいた。そして、ゆっくりと仰向けになった。私はけんめいに接吻しつづけた。ローラは、両手で私にしがみついてきて、何度となくよろこびに達した」ミラーが描く女性とのセックスの場面のいくつかは、このバリエーションです。ミラーのはたらきかけに対する、相手の女性の激しい拒絶。しかし、女性は、徐々に体をときほぐし、ミラーを受けいれていきます。アナイス・ニンは、日記のなかで「各々の女に、ちがった顔をあたえるかわりに、ミラーはすべての女をして一つの生物学的穴に還元することに喜びを見出すのだ」「ミラーは、女のなかに、男を歓ばせる天賦の才と能力以外、何のとり得もない性的オブジェしか見ないし、求めない」と書いて、女性とのセックスを「無名の性、すなわち人格個性ぬきの性」ととらえるミラーを非難しています。しかし、ミラーにとっては、相手の女性が恥じらいを脱ぎすてて、個性を失い、自然そのもの、動物そのもの、女陰そのものと化す瞬間に立ち会うことに意味がありました。「女は、めったに笑わないものである。だが、いったん笑うとなると、ひどく爆発的である。そんな腟の高笑いのもとでは、たとえ鉄筋コンクリートだって、立っていられやしないだろう。さかりのついた雌馬よろしく祭壇のうえに横たわり、聖霊をふくむあらゆるものを受け入れるということだ。それは哀れな男性が対数的な巧知をもって、5千年、1万年、2万年もかかってようやく築きあげたものを、彼女が一晩で瓦解させてしまうということだ」イマヌエル・カントが『純粋理性批判』で物自体の認識について探求したように、ミラーは、形而上学的な性器の探求をきわめようと、さまざまな女陰との出会いを求めていきます。そして、そのような自分自身を、小さな鏝を手にした男が地球の裏側へ抜けようとしてトンネルを掘っている姿としてイメージしています。「鏝を用いての労働は、このうえもなく好ましいものであった。女性という動物が、とつぜん情感につきあげられて床に伏し、よろこびと過度の昂奮のために虚脱状態におちいるとき、それより一刻も先んずることも遅れることもなく、約束の高原が、霧のなかから影をあらわす船のように、視界にうかんでくるのであった。もはやなすべきことは、その高原に星条旗をうち立て、これをアメリカ合衆国と聖なるすべてのものの名によって領有することのみであった。あらゆる人間が、すくなくとも一度は、この領土に旗を立てたことがあるはずである。しかし、永久にその領有を主張しえたものは、ひとりもいない。それは一夜にして――場合によっては一瞬にして消滅してしまうからである」ミラーは、何百回も、何千回も、「不毛の地」で骸骨踊りを踊りますが、めざす約束の高原は、一瞬のうちに消滅してしまいます。ミラーは、性交の国にいながら、孤独でした。そしてミラーは、ミス・マーラと出会います。「ダンスフロアの隅に立っていた私は、ふと、彼女が近づいてくるのに気づいた。彼女は翼をひろげ、大きな丸顔が長い円柱状の首の上に美しい均衡を見せていた。髪の毛が黒く、目がきらきらと輝いていた。思わせぶりな、神秘的な、うつろいやすいその微笑が、一陣の風のように、浮かびあがった。富と威容を彼女はもっていた。これが、よかれ悪しかれ、アメリカなのだ。私は生れてはじめて、この大陸に、目と目のあいだを思いきりぶん殴られた。彼女は、迅速に、容赦なく、運命そのもののように私におどりかかった」「私たちは、愛が合体させ、死のみが切り離すことができるシャム双生児であった。私たちは明けがたに寝床につき、ちょうど薄暗くなりかけたころ起きあがった。カーテンをしめきった暗い穴倉に住んで、黒い皿で食事をし、暗黒の書物を読んだ。そして、自分たちの生活の黒い穴から世界の黒い穴をのぞきこんだ。地球は回転をやめ、頭上の空の穴からは、決してまたたくことのない黒い星がぶらさがっていた」「最初のうち彼女は、大柄な、ビロードのような肌ざわりの女で、猫科の獣特有の、しなやかで見かけによらぬ力をもったジャガーそっくりであったが、その後しだいに力おとろえて、矢車菊の花のように華奢になった。その変化のたびごとに、まるで人間が変ってしまうので、彼女の本体をとらえることは、とうてい不可能であった。彼女は、目もさめるほど美しくなりたいと願い、そのために、名前、家族、友人、過去を思いださせそうなものは、なにからなにまで捨て去ったのである。たえず鏡の前で生活し、一挙手一投足、一顰一笑にいたるまで研究を重ねたのである」しかし、永遠に続くかと思われた、楽園に住む双生児の蛇の生活は、破綻をきたします。「暗黒のなかにおける私たちの小さな鳩と禿鷹との生活は、なんと平和なものであったろう! 天井の幻惑的な穴をのぞけば、それは、ほとんど完全な胎内の生活であった。だが、そこには穴があった――膀胱にできた裂傷のように。大量の液体を自由に放出することはできるが、どうして鐘楼の裂傷を、不自然な沈黙を、<もうひとつの>世界のさし迫った危険、恐怖、破滅を、忘れることができよう?」「彼女がコカインを服用しているときには、あらゆることを、神のご託宣のように吐き出した。しかも、一語として、一事として、真実は語られていなかったのだ。彼女は一瞬たりともとどまることを知らなかった。彼女のうしろには現実という静かな事実が横たわり、この巨人が彼女のあとを、とこどこまでもつけてまわっていたのである。日に日に彼女は、より速い翼をのばし、より鋭い顎をもち、より透徹した催眠術師のような目をもつようになった。真空の果てには真理が立ちふさがっていて、稲妻のような勢いで、いまにも失地を奪回しようと待ちかまえていた」結局のところ、マーラは、変身を続けるなかで、彼女自身の本質、自然そのもの、動物そのもの、女陰そのものと化す生命力を失いつつあるのでした。まっ暗な無表情の太陽のようなマーラが、巨大な翼を羽ばたかせて、手のとどかないところへ行ってしまうと、ミラーは、死に近づきます。「私の目には暗闇のなかでテーブルの前に坐っている自分の姿がうかぶ。いきなり象皮病にとりつかれたかのように、私の両手両足は、ぐんぐん太くなっていく。体が重くなればなるほど、部屋の雰囲気は軽くなってゆく。しだいに私は拡大していって、ついには、ひとつの堅いゼリーの塊で部屋を満たしてしまう。私のごく小さな一部分だけが、いまは生きている。そして、生気のない屍が拡大するにつれて、この生命の閃光は、しだいしだいに鋭くなり、私の内部で宝石の冷たい炎のように輝く」ミラーは、行きつくところまで行きます。そして、ある晩、とつぜん、さがしもとめていた、あの、知られざる不可視の目的地に達したのでした。「ある晩、アマリロー・ダンスホールから出ようと回転ドアの真鍮のバーに手をかけたとき、それまでの私のいっさいが、いまにも崩れ去ろうとしたのである。私が生まれた時そのものが、強い流れにさらわれて消え去ってしまったのだ。私は、成長過程が停止されたままになっている無時間のベクトルのなかに追いかえされてしまったのだ。そこには不安はなく、あるのはただ使命感だけであった。突入の際に骸骨は破裂し、無力な不変のエゴだけが残った」
2005.06.01
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ヘンリー・ミラーが『南回帰線』を発表したのは1939年のパリ。通信会社の雇用主任として働いた日々からは15年が経っていました。ニューヨークでの日々をひとつのイメージとして形象化するには、一定の時間の経過と、アメリカから遠く離れたヨーロッパの都市での孤独な環境が必要だったのでした。パリのまちを歩きながら、ミラーは、ニューヨークでの日々を思いおこします。無意識のなかからイメージが、次々に湧き出してくると、それを定着させるために、ミラーは、友人アナイス・ニンが提供してくれたヴィラ・スーラ18番地の家に急いで戻り、タイプライターを打ちはじめます。きょう、思い出したのは、少年時代のある夏の日の午後の石合戦のことです。「ある日、いとこのジーンといっしょに公園で遊んでいると、少年の一団が私たちをとりかこんで、喧嘩をふっかけてきた。私たちは、たがいにかばいあいながら、河の土堤ぎわに積まれた石の山の上で死にものぐるいで戦った。奴らが、いっせいにおそいかかってきたちょうどそのとき、ジーンが一団のガキ大将めがけて石を投げつけた。かなり大きな石だったが、それが奴のどてっ腹にみごとに命中した。しかも、ほとんど同時に投げつけた私の石が、奴のこめかみに当った。奴は、その場にばったりと倒れたきり、うんともすんとも言わなくなった。5分後に警官がやってきたときには、その少年は死んでいた。少年は8つか9つ――私たちと、ほぼ同じ年ごろだった。とにかく私たちは、嫌疑がかからないように、いちはやく家へ帰ってしまった。途中で服の汚れを払い、乱れた髪をなおしていた。家へはいるときには、出かけるときと同じくらい、きちんと服装をなおしていた。カロライン伯母は、いつものように、新鮮なバターを塗った、すっぱいパンに、砂糖をすこしふりかけて出してくれた。私たちは、台所のテーブルでそれを食べながら、天使のような微笑をうかべて伯母の話に耳をかたむけていた。伯母は、私たちに、ブラインドをおろした表側の部屋で、近所のジョイ・ケッセルバウムと、おはじきでもして遊ぶように、と言った。ジョイは、すこし知能の発育がおくれていたから、ふだんなら、あっさり負かしてしまうのだが、その日は、私とジーンとのあいだには暗黙の了解がついていたので、わざと、すっからかんに負けてやった。ジョイは、とてもよろこんで、そのあと私たちを、自分の家の地下室へつれていき、妹にドレスをぬがせて、その下にあるものを見せてくれた。ウィージーというその妹は、たちまち私を好きになったようであった」そして、あの夏の日のすっぱいライ麦のパンの味について、ミラーは考えます。「当時をふりかえってみると、私たちは親たちよりも健全な、そしてもっと深く突っこんだ話をしたように思う。恩を忘れるところに私たちの力と美があった。私たちは愛情にこだわらないおかげで、あらゆる罪悪を知らずにすんだ。泣き声一つあげずに、ばったりと倒れたまま死んだあの少年の死は――あの少年を殺したことは――なにか健康的な、さっぱりとした仕事をしたような感じでさえあった。それに反して、パンのためにあくせく働くのは、なんとなく卑劣な、いやしむべきことのように思われた。そして、私たちは両親のそばにいると、彼らが不潔に思われ、はげしい反撥を感じた。毎日おやつに食べるあの厚いライ麦のパンは、正確にいえば、われわれが働いて手に入れたものではなかったがゆえに、たいへんおいしかったのである。殺人の日には、かえって、いつもよりおいしかった。それは、いままでにない恐怖の味が、ちょっぴり加わっていたからである。しかも、私たちの行為は、カロライン伯母の完全な暗黙の許しを受けていたのである」あの夏から20年後、ミラーはジーンに再会しますが、あの少年を殺したのが私たちであったことも、ウィージーの小さな乳首のことも覚えていないのを知って、ミラーは、はげしい失望におそわれます。「こうした幼年時代の完全に制約された生活は、逆に無限の宇宙のようなものであった。それ以後の生活は、おとなになるにしたがって、次第に領域が狭まってきた。学校へ入れられた瞬間から、人々は自分を見うしなってしまう。首に縄をつけられたような感じがしはじめる。人生の味が消えるにつれて、パンの味まで消えてしまう。パンを得ることが、それを味わうことよりも、ずっと大切になってくる。すべてが計算しつくされ、あらゆるものに値段がつけられるようになる。 私のいとこのジーンは、全然くだらない人間になってしまったし、(いっしょに冷蔵庫あらしをやっていた)スタンリーは最低の落伍者になった。かつて私の最大の親友であったこの二人のほか、もう一人の友人ジョイは、いま郵便配達人になっている。私は、なにが彼らの人生をそんなものにしたかを考えると、泣けてくるのである。子供のころの彼らはじつに立派だった」パンの味から、幼年時代のまちのにおいを思い出し、ポーランド人のスタンリーの誕生日のパーティでの腐ったバナナのフライをめぐる大混乱、ユダヤ人の仕立て屋の少年とアイルランド人の兄弟とのけんかの顛末、フランス人の少年の上品な行動、イギリス人の政治家の息子の洗練された行動などについて追憶したあとで、パリのミラーは、こう決意します。「私は、何代にもわたって先祖たちが創造したものをすべて否定する。私は、古代ギリシアの世界よりも小さな世界へかえりたいと思う。つねに腕をのばせばとどく世界へ、いつでも、この目で見て、認識できる世界へ、かえるのだ。私は子供のころ知っていた最初の輝かしい世界を、もう一度通りながら、そこで休息しようとは思わない。もっと輝かしい世界へ、私が忘れてしまっているにちがいない世界へ、しゃにむにかえるつもりだ。それが、どんな世界か、私は知らない。はたしてそれを発見できるかどうかもわからないが、しかし、それが私の世界であり、他のなにものも私の目をあざむくことはできないのだ」
2005.05.23
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私がニューヨークを初めて訪れて、摩天楼のなかを歩いていたとき、意識の底から浮かびあがってきたのはヘンリー・ミラーが『南回帰線』のなかで描いたニューヨークのイメージでした。「私が出勤する1時間前から、すでに志願者がぎっしりつめかけていた。私は事務所の階段をのぼるのに、文字どおり人の波をかきわけていかなければならなかった。帽子をぬぐひまもなく、しばらくは電話の応対に忙殺される。机の上には電話が3台あったが、それが同時に鳴り出すのだからたまらない。しかも、待ちかねた志願者たちは、私が腰をおろして仕事にかかる前に、口やかましくわめきたてるのである。こうして、午後の5時か6時まで、小用をたす時間すらなかった」ミラーは1920年、28歳のとき、ウエスタン・ユニオン通信会社(小説ではコズモデモニック電信会社)の電報局で数カ月、配達人として働いた後、同社の雇用主任に採用され、雇用事務所「サンセット・プレイス」に勤めることになったのでした。「遊軍とは、各支局が相互のあいだで1日か半日だけ融通しあう配達人のことである。101もある各支局のどの一つも、十分な人員をかかえていなかった。したがって、私はその間隙を埋めるために躍起となって人を雇い入れ、一方ハイミーは、遊軍の駒をチェスのように動かしていなければならなかったのだ。おそらく配達人要員のうちで固定しているのは2割くらいなもので、あとはみな浮草であった。なかには、1時間働いただけで仕事に見切りをつけ、電報の束を屑箱やどぶに捨てて、やめてしまうものもいた。しかも彼らは、やめるとすぐ給料を払ってくれと要求するのである。彼らは、揃いもそろって、生来の嘘つきばかりであった。その大部分は、何度も雇われては馘になった経歴の持ち主であり、なかには、他の職を探すための絶好の足がかりと心得てくるものさえあった」「あるものは、地下鉄のなかで消え、あるものは摩天楼の迷路のなかで行方不明になった。またあるものは日がな1日エレベーターに乗って遊んでいた。なかには、スタッテン島へ出かけて、ついでにはるばるカナリア諸島まで足をのばすやつもいたし、また昏睡状態になって警官につれもどされるやつもいた。ニューヨークの要員として雇ったやつが、1カ月後には、けろりとしてフィラデルフィアの支社にあらわれることもあった。また、会社から支給された制服を着たまま新聞を売っていたものもいる。また、あるものは、なにか奇妙な自己防衛本能にかられて、まっすぐ留置場へ行ってしまった」配達人の採用と解雇の仕事に追われながら、ミラーは、彼らの生きざまに、アメリカ社会の縮図を見て、火山の火口をのぞきこんだような慄然たる思いにおそわれます。配達人の職を求めて世界じゅうからニューヨークへやってくる人たちのなかには、素晴らしい人間性をもった人たちも、数多くいました。「彼らは、あとからあとからひきもきらずに押しかけてきた――仕事を、タバコ代を、車代を、チャンスを求めて。おねがいです、神さま、もう一度チャンスをめぐんでください! 私は自分の机に釘づけにされながら、電光のごとき速度で世界じゅうを旅行してまわった。そして、どこへ行っても同じように、飢えや屈辱、無知、悪徳、貪欲、搾取、陰謀、拷問、独裁、人間が人間に加える残虐行為、手かせ足かせ、鞭、拍車のあることを知った。彼らは、あのぶざまな屈辱的な最低の制服をまとって、ニューヨークの市中を歩きまわった。しかも、彼らのなかのじつに多くが、世界を支配するにふさわしい人間であり、他に類のない偉大な本を書くにふさわしい人間であった」彼らの悲惨な人生を目の当たりにしたミラーは、彼らを勇気づけようとします。ミラーには、彼らのなかに、小さなほのおが燃えているのが見えたのです。ミラーは、5人ぶん働き、3年のあいだ、ほとんど眠りませんでした。「私は自分のポケットには金をもっていなかったが、他人の金を自由に使うことができた。社の雇用主任だということで信用があったのだ。私は平気で人に金をくれてやった。洋服でも、下着でも、本でも、余分なものは、ことごとく人にあたえた。どんなに多額な金でも、気前よくあたえた。なぜなら、貧しい悪魔どもにことわるより、よそから借りて渡すほうが気が楽だったからである。私は貧しい自分の生涯中に、これほど悲惨な人間どもの集団を見たことがなかった。しかし、その底には目に見えないほど小さなほのおが燃えていた。そして、その火をかきたてる勇気さえあれば、炎々と燃えあがらせることもできるのである。私は、思いやりをかけすぎるな、感傷的になりすぎるな、と絶えず(副社長に)戒められた。くそくらえだ! おれは、あくまで寛大に、思いやり深く、すなおに、慈悲と寛容とまごころをつくそう、と私は心ひそかに反駁した。そして、当初のうちは、一人一人の話に、終始熱心に耳をかたむけた。もしその男に職をあたえることができず、しかも私が金を持っていない場合には、タバコをやるか勇気をつけてやるかした。とにかく、あたえることに専心した! 私は、それと交換に、大きな感謝と、好意と、かずかずの招待と、感傷的ながら心のこもった、ささやかな贈りものを受けたのである」多種多様な人間性にふれ、多彩な経験をつんだミラーは、いつかその体験を記録する機会がきたときに使うつもりで、気分の落ちついたときに、その覚え書きをつくりました。3年後の1922年、ミラーは思いきって3週間の休暇をとり、彼らに代わって書きまくり、12人の男に関する本『Clipped Wings』を書きあげます。その一部は、『南回帰線』でも紹介されているようです。しかし、ミラーは、書くことによって、彼らを助けてやることはできないことを知ります。ミラーの気分は、絶えず浮かれたり、沈んだりして、爆発的な陽気さや、恍惚たる霊感のあとには、きまって憂鬱と落胆の長い時期が続き、その中間の状態に安定していることができなくなります。ある晩、ミラーは、娼婦が待つマンハッタン島のアパートへ行くために、対岸のブルックリンから市街電車に乗り、部下のハイミーに話しかけている最中に、朦朧たる気分におそわれます。「ブルックリン橋で考えはじめたことは、白昼夢のように、私の頭のなかで毎日あたためられていた思索であった。すなわち、はげしい日常の活動のさなかに感じられる人生の単調さ、退屈さに関する本のことであった。私は何年もむかしから、その本について考え、毎日それを(頭のなかで)書きつづっていたのである。しかしその日は、沈みゆく夕陽や、燐光を発する死骸のように光っている摩天楼を、橋の上から眺めながら、過去の思い出にふけっていた。下を通りすぎる船。フォール・リヴァー定期船、アルバニー・デー定期船。おれはなぜ勤めに出かけるのか? 今晩おれは、なまあたたかい女の裸身のかたわらで、いったいなにをしようというのか? 逃げ出そう。そしてカウボーイになるんだ。河だ。ええ、めんどうくさい。まっさかさまに飛びこむか。いや、死ぬのはまだ早い。あと1日待て。運が向いてくるさ……。おそらく私が(生れ故郷であり自宅のあるブルックリンと、職場であり遊び場であるマンハッタンの)両岸の中間の高い位置におり、人の往来を眼下に見おろし、生も死も超脱し、しかも両岸には高い墓石が落陽に映え、河は悠然として時の流れのように流れていたせいかもしれない――そして、私がその上を通りすぎるたびに、なにものかが私のそでを引き、私をそそのかして、自己を語らせようとしたのかもしれない。いずれにしろ、私は、その高い橋を通りすぎるときには、いつも心底から孤独になり、そうなるたびに、あの本はひとりでに書かれはじめ、私が一度も表明しなかった意見、一度もかわしたことのない会話、一度も自認したことのない希望や夢や妄想を、声高らかに絶叫しつづけるのであった」通信会社の雇用主任としての生活をおくるミラーは、自分自身を、荒れ狂った海のまっただなかに立つ燈台と感じていました。はるか遠く、すみずみまで、皎皎と照らし、休みなく冷酷に回りつづける巨大な探照燈。しかし、ミラーは、自分がひとつの目として、世界のドラマを見続けることに疲れてしまいます。「私は、私自身の体や、自分の欲望を知る契機をつかむために、失明することを望んだ。見たこと聞いたことをふりかえってみるために――そして、それを忘れ去るために、何万年もひとりでいたかった。自然の謎の生産力を、子宮の深い井戸を、静寂か、さもなければ暗冥の死の潮騒を、ひたすら求めた。じつに不可解であると同時に、きわめて能弁でもある暗闇になりたいと思った。もはや、話すことも、聞くことも、考えることも、いっさいしたくなかった。草木や虫や小川の流れのように、ただ地上のものとしての人間でありたかった」
2005.05.22
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猪木寛至は中学生になったころ、テレビのプロレス中継に夢中になります。力道山は英雄で、神様のような存在。でかくて卑怯な外人レスラーをぶちのめす空手チョップは、敗戦国のコンプレックスを吹き飛ばしてくれる神風でした。昭和32年(1957)、猪木が中学2年生のとき、家族はブラジルに移民することを決め、猪木も中学2年の修了証書をもらうと、楽園のようなイメージを膨らませて、ブラジルに渡ります。しかし、スイス人が経営するコーヒー園で、あてがわれた家には電気も水道も便所もなく、朝5時にラッパの音で叩き起こされ、夕方5時まで毎日12時間、コーヒー豆の収穫という過酷な奴隷労働が待っていました。家族は死にもの狂いで働いて、雨期に入ると、今度は炎天下、雑草を延々と刈り続ける過酷な日々が始まりました。厳しい労働の日々、どこへ行くのにも数十キロ歩くという原始的な生活は、知らぬ間に、猪木の身体を鍛えあげていきました。そのうち、1日の仕事を終えると、砲丸投げ、円盤投げ、槍投げの練習に熱中するようになり、全ブラジル陸上競技大会の円盤投げで大会新記録を作り、優勝。この話がブラジル遠征に来ていた力道山の耳に入り、猪木は、力道山に入門。3年間の移民生活を経て、再び日本に戻ったのでした。猪木は、プロレスラーとしての練習に加えて、力道山の付き人として、荷物運びから食事の世話、着替えから、汗拭きから風呂での背中流しまで、必死でこなしていきます。力道山は、ちょっとでも気に入らないと、すぐに猪木を殴り、罵倒しましたが、結局3年間、力道山が死ぬまで付き人をつとめます。「力道山に対する思いは複雑だ。殴られ続けても結局、私は付き人を辞めなかった。私は力道山を尊敬していたし、とにかく力道山には魅力があった」昭和38年(1963)、猪木が20歳になった年の12月8日、力道山は、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で暴漢に刺され、死んでしまいます。力道山が死んだ晩、猪木はうなされ、金縛りにあいます。「ふと足元を見ると、黒い影がうずくまっている。力道山だった。じっとこっちを見ている。何かを伝えようとしているような、怒っているような……」。それ以来、猪木はしばしば力道山を夢に見ます。30年後、アントニオ猪木は、スポーツ平和党の党首として参議院議員になっていました。北朝鮮の核査察が国際問題になり、外務委員会や国際安保委員会で「北朝鮮は、独裁者が君臨するテロリスト国家で、何をやらかすかわからない恐ろしい国。その上、日本を射程距離に捕らえた核ミサイルを配備しているらしい」といった、北朝鮮が仮想敵国であるかのような議論を聞きながら、何か直接行動が出来ないかと考えはじめます。民族差別のことも、植民地支配も、詳しく知らなかった猪木は、北朝鮮の勉強をはじめます。そして、師匠の力道山について考えるようになり、力道山の娘が今も北朝鮮に住んでいるという新聞記事を思い出します。力道山は東京オリンピックに協力を惜しみませんでした。当時、力道山の兄が北朝鮮オリンピック委員会の代表だったので、肉親と再会することを心待ちにしていたのだと思われます。日本からの第一次帰国船で帰った人たちが、力道山の存在を、同胞が日本の英雄になっていることを、母国に知らせたのでした。それで娘の存在もクローズアップされ、国家から手厚い待遇を受けることが出来たのだといいます。しかし、東京オリンピックの前年の暮れに、力道山は、亡くなったのでした。「ある時期から、私は瞑想をはじめていた。目を閉じて呼吸を整えていくと、空気が澄んできて、物が鮮明に見えてくる。その状態で力道山に思いをはせているうち、力道山の何気ない一言や、忘れていた場面が思い出されてくる。自分の気持ちが次第に力道山に重なっていくのだ」「リングを下りれば酒に溺れ、暴力沙汰を繰り返した力道山。力道山は空手チョップを産み出すために、血を流しながらコンクリートに三千回チョップを叩き込んだという。その心の奥に潜む怒りと哀しみ。そして孤独。スターになるほどに自分の出自を隠し続けなければならないことのむなしさ……。心の深いところで固く凍ったままだったこだわりが、次第に溶けだし、素顔の力道山が見えてきた」。「私は力道山の無念を思った。死んだ夜に、私の足元に現れたあの力道山の影が、私に伝えようとしたこと。それが、やっとわかったような気がした。彼が果たせなかった夢を、弟子である自分が果たすことが、恩返しだとも思った」。「力道山の無念とは何か? それは望郷の念である。朝鮮人が差別されている日本で、裸一貫で大スターになったのだ。どれだけ故郷に錦を飾りたかったか。肉親に晴れ姿を見せたかったか。本当に自分を評価し、心から出世を喜んでくれる人たちは、故郷にしかいなかったのだから。力道山は晩年、こっそり韓国を訪問している。板門店を訪れた力道山は、突然上半身裸になって、北の祖国に向かって雄叫びを上げたという。彼は何を叫んだのか。誰にその叫びを伝えたかったのか。あれだけの名声と金を手にした力道山だが、本当に欲しかったものはそれではなかったのだ……」。猪木は、北朝鮮行きを決意。朝鮮総聯を訪ねて申請を出すと、「どういう資格で行きたいのですか」と問われた猪木は「私は、力道山の弟子です。師匠に恩返しをしたいのです」と答えます。中国経由で北朝鮮に入る許可をもらい、北京の飛行場でチェック・インをしていると、北朝鮮の外務省の役人が走って来ます。「今回は大変申しわけない。ある事情があってお迎えすることができません」。金日成主席が亡くなったのでした。その後、正式な招待状をもらい、平成6年(1994)9月に初めて北朝鮮の土を踏みました。力道山の娘が空港まで出迎えてくれたのですが、こちらの真意を窺がっているようで、距離を感じます。猪木は、政府の要人と食事をすることになります。挨拶のときに「聞くところによれば、北朝鮮のミサイルは日本に向いているそうですが」と聞くと、相手は表情を固くして「そういうことはお互いの関係が深まれば、自然に解決するものです」と答えたといいます。「ということはミサイルは日本を向いているのですね」と言うと、相手の顔色が変わっているのに気づきますが、本音で喋っているうちに、すぐ仲良くなったといいます。彼らが「日本のマスコミは一方的すぎる」と怒ったので、猪木はイラクでの体験を話し、「平和の祭典」を提案します。「力道山がやっていたプロレスを北朝鮮の国民に紹介し、世界の人たちを招いて、彼らの目で北朝鮮の実態を伝えてもらえばいい」と。北朝鮮滞在中にイベント開催の許可が下りた猪木は、帰国してイベントの準備に追われます。平成7年(1995)4月28日から30日の3日間、平壌メーデー・スタジアムで「平和のための平壌国際体育・文化祝典」の開催が決まり、プロレスは2日間、新日本プロレスをはじめ、アメリカのWCW、全日本女子プロレスも参加して開催することになりました。猪木は、モハメド・アリを立会人として招きます。パーキンソン病が悪化していて、奥さんの付き添いがなければバスの乗り降りも出来ない状態でしたが、北朝鮮で熱烈な歓迎を受け、報道陣のフラッシュを浴びているうち、アリは別人のようにシャンとなっていきます。「スターという人種は注目されれば甦るのだ。北朝鮮のイベントがアリに力を与え、アトランタ・オリンピックのあの感動のシーンに繋がった」と、猪木は書いています。北朝鮮は、世界中から3万人の観光客とマスコミを迎え入れました。門戸を閉ざしていれば誤解が広がるだけですが、交流が生まれれば、新しい可能性が見えてきます。これは外交上も画期的なことでした。「リングに上がってみると、これまで経験したことのないほどの大観衆だった。19万人である。下から見上げると遥か彼方まで観客がぎっしり詰まっている。私が動くと、地鳴りのようなどよめきが広がる。私はリック・フレアーと闘った。彼は元NWAのチャンピオンで、ある時期のアメリカのプロレスを代表していた選手だった。私が求めたのは激しく厳しい試合だった。フレアーは精一杯それに応えてくれた。北朝鮮の大衆の目に、力道山の残したプロレスを焼き付けることが出来た。そして力道山が私の中に残した「闘魂」というものを彼らに伝えることが出来たと思う」「力道山は死ぬ前、色紙によく「闘魂」という文字を書いた。私はいつも墨をすって、色紙の上を走る筆先を見ていた。そして、いつの日か私は色紙に「闘魂」と書くようになった。私のキャッチ・フレーズ“燃える闘魂”のルーツは力道山なのだ。「闘魂」とは何か。それがわかるまでには長い年月が必要だった。今、私はこう考えている。「闘魂」とは己に打ち勝ち、闘いを通じて自分の魂を磨くことである――と」2日間で38万人が来場。北朝鮮国内のテレビ視聴率は99パーセント。猪木は、政府高官から「一夜にして反日感情がなくなった」と言われました。「力道山は韓国でも英雄だ。だから北朝鮮、韓国、日本というのは、力道山という英雄によって結ばれたトライアングルなのである。民族問題で苦しんだ力道山が、国境を超え、時代を超えて語り継がれる存在になった。私は感無量だった。これで力道山の恩に報いることが出来たと思った。プロレス入りして35年、力道山が死んでからは32年だ。もうプロレスで思い残すことは何もない。事実上、あの北朝鮮のリングでアントニオ猪木は引退したのだと思う。だからあの日、力道山の故国北朝鮮のリングの上に、私は特製のガウンを置いて来た」
2005.04.20
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1968年4月4日、初めてのアフリカ旅行から戻ったジェームズ・ブラウンは、ボストン・ガーデンでの5日の公演に備えて、つかの間の休息をとっていましたが、その日の午後のニュースを聞いて、飛び起きます。マーティン・ルーサー・キング牧師が、黒人清掃労働者たちが始めていた差別撤廃のためのストライキを応援するために駆けつけたメンフィスで、殺されたのです。終日モテルにいて、スタッフたちと今後の作戦計画を練っていたキング牧師は、友人の牧師から招かれていた夕食にむかうために、2階のバルコニーの廊下に出たところを狙い撃たれて倒れました。右あごに穴があき、血が勢いよく流れ出して止まりませんでした。「理由もなく偉大な人間が殺され、しかもそれがたまたま自分の友達だったら。喪失感も2倍になる。マーティンの場合、国中が同じ気持ちだった。彼を失って、国が最も偉大な友人を失ったようだった。アメリカの最高の友――それがマーティンだ。そしてアメリカ人の多くは、それにさえ気づいていなかった」ショックから立ち直ったブラウンは、電話をかけます。キング牧師の暗殺が、暴力、放火、死人といった、誰の利益にもならない事態に、発展することが予期されたので、それを避けるために何かできることはないだろうかと、友人に問いかけたのでした。それから、ノックスビルとボルティモアの自分のラジオ局に電話をかけ、生放送で「平静を保つことでキング牧師の名誉を称えろ」と呼びかけ、ラジオ局のマネージャーたちに、このテープ・メッセージを事態が落ち着くまで何度も流すように指示しました。その翌日の金曜日、テレビの特別番組のために録画撮りをしてから空港に直行し、ボストンに飛びました。その夜は誰もが最悪の暴動を予測していたので、コンサートをやれば、その夜ストリートに出る人を少しでも減らせるし、客に状況を説明できると思ったのです。ローガン空港には、ボストン初の黒人市議会議員のトーマス・アトキンスが迎えにきていました。ケビン・ホワイト市長のリムジンでボストン・ガーデンに向かいながら、ブラウンはアトキンスから状況報告を聞かされます。その日の午前中、市議会では、その夜のブラウンのコンサートを実施させるべきかどうか議論になっていました。市長は中止しようとしましたが、アトキンスは「そんなことをしたら、市庁舎まで破壊されてしまうほどの暴動になりかねない」と主張。その時、コンサートをテレビで実況中継するアイデアを思いついたのでした。そうすれば、みんなが家にいてショーを見ることができるし、コンサートに来る人も締め出されずにすむ。アトキンスは、ブラウンのニューヨークの会社に連絡を取り、テレビ放映を承諾するように働きかける一方、市長室は、地元の公共テレビ局WGBHを説得して、コンサートのライブ中継の準備をすすめ、市長は、ブラウンの返事が来る前に、コンサートのライブ中継を記者発表し、地元のラジオ局WILDは、家でジェームズ・ブラウンをテレビで見るよう市民を説得するテープを流していました。リムジンがボストン・ガーデンに着くと、ショーがテレビでライブ中継されると聞いた人々が、チケットの払い戻しを求めて集まっているのが見えました。ブラウンは怒ります。「俺の許可なしにテレビ中継を勝手に発表し、そのおかげで今じゃコンサートまで台無しだ。少なくともコンサートに来る1万5千人の若者には、俺の主張を伝えられるばずだった。それなのに、誰もいない劇場でステージだ。この経費も全部かぶらなきゃならないのに、別の特別番組の契約上、テレビ放映すらできないんだ」思い直したブラウンは、今晩ここでテレビに出られるように、契約条項をはずしてもらうよう手配し、アトキンスは、市長に電話し、入場料収入の減収分は市の予算で保証することで話がつきます。テレビ中継の発表が行き渡ったにもかかわらず、ガーデンには2千人がやってきました。夜の8時頃、ショーは始まりました。アトキンスがブラウンを紹介し、ブラウンが市長を紹介しました。市長は「今晩私たちみんなが集まったのは、偉大なスターのコンサートを聴くためです。が、同時に、最も偉大なるアメリカ人、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を称えるためでもあります。24時間前、キング牧師は、私たち黒人と白人みんなが仲良く、暴力なしで、平和に暮らせるよう、その身を犠牲にしました。どうかみなさんも協力してください――キング牧師の夢をボストンで実現させるのです。たとえ、ほかのどこのコミュニティーが何をしようと、私たちボストン市民は、キング牧師を称えて平静を保ちましょう」と言いました。ブラウンは「俺もその意見に賛成する。キング牧師の名誉を汚すようなことは慎もう。家にいるんだ。あなたたち若者は、特に、自分のすることをよく考えてほしい。キング牧師がなんのために戦っていたかを考えてほしい。自分のコミュニティーを破壊するような方法でキング牧師に報いるのだけはやめよう」と話しました。ショーの間、ブラウンは、曲の間にキング牧師のことを話し、歌の題名を言う時にも、キング牧師に関連したちょっとした話を語り、ブラウン自身の人生やブラウンの出身地の話をしました。マーティンの思い出話をしていた時、ブラウンは、涙がこぼれ、すべてが沈み込むような感じを覚えましたが、気を取り直し、ショーを続けました。「俺はいまだにソウル・ブラザーだし、俺があらゆる点で一流になれたのも、みんなのおかげだ。俺はラジオ局の前で靴磨きをしていた。それが今ではラジオ局を所有するまでになった。俺が、そのラジオ局を買うまで、ソウル・ミュージックをまったく流さない局だった。これがどういうことだかわかるかい? これこそブラック・パワーだ」ブラウンは、自分の音楽の力強さがリズムにあることを発見していました。すべての楽器を、ギターでさえ、ドラムスのように扱いました。ギターのスクラッチ、速く叩きつけるベース、それにクライド・スタブルフィールドが叩き出すファンキーなリズム。ブラウンは、大ヒット曲をすべて歌い、信じられないほど優雅で驚くほど機敏なダンスを披露し、渾身のステージングを見せました。ショーの間、市長は舞台裏で市の様子をモニターしていました。警察がロックスベリーの通りはほぼ無人だと伝えました。問題は、これっぽっちもありません。ふだんより人が少ないくらいでした。警察は、気味が悪いとも言いました。ショーはフィナーレに入り、ブラウンが膝をがくっと崩して「プリーズ、プリーズ、プリーズ」を歌うと、フェイマス・フレイムスのメンバーがブラウンの背中を叩いて、マントを肩にかけます。ブラウンは立ちあがり、そしてもう一度、膝を落とします。同じアクションを繰り返すにつれて、歓声は高まっていきました。曲が終わると、数人の子供たちがステージに駆けあがり、さらに数人がこれに続き、ブラウンに握手を求めてきました。すると、これに動揺した警察官たちが、子供たちをステージから排除しようと動き出しました。警察の介入がテレビで放映されれば、その晩の努力が水の泡になるのは見えていたので、ブラウンはバンドを止めて、警察に後ろに下がるよう頼みました。「ちょっと待った、待ってくれ。止まれよ。そんなのはおかしいぜ。待てったら。そういうやり方はあんまりだろう。おれの仲間なんだ。おれに話をさせてくれ」そう言うと、ブラウンは子供たちに語りかけました。「いいか、よく聞くんだ。おれたちはみんな黒人じゃないのかい? 君たちはすべてを台無しにしようとしている。君たちのせいで、おれは自分の肌の色を恥ずかしいと思うかもしれない。黒人であることを恥じてしまうかもしれないんだ。もしも自分の仲間を誇りに思えなくなったら、俺にはもう、どうしていいのかわからない。そんなのはおかしいだろう?」じっと耳を傾けていた子供たちは、ブラウンと握手を交わして、ステージから去っていきました。ブラウンは最後に「アイ・キャント・スタンド・マイセルフ」を熱唱して、ショーを終えました。ライブのショーが終わるとすぐに、テレビ局はライブ中継の再放送を深夜12時まで続け、危険は去っていきました。ボストンは、その週末をほとんどなんのトラブルもなく終えることができたのです。一方、ワシントンDCでは木曜日と金曜日の夜、町中が略奪と炎に包まれました。外出禁止令は無視され、最初の2晩だけで300件の火事が出て、焼かれたビルは崩れ、怪我人を出し、2千人以上が逮捕され、木曜日に1人、金曜日は4人が死亡。ビルは煙をあげ、道や店には割れたガラスが散乱。黒人たちが自分の店を守るために書いた「ソウル・ブラザー」の文字は、なんの役にも立たず、黒人の店も略奪にあっていました。土曜日。市長の要請に応えて、ブラウンは、ワシントンDCの市庁舎からテレビの生中継で語りかけました。「みんなの気持ちはよくわかる。俺も同じように感じている。だが、物を壊したり、焼いたり、盗んだり、略奪したりしても、何も達成できない。テロ行為は止めるんだ。団結するんだ。焼くんじゃない。子供たちに学ぶ機会を与えるんだ。家に帰れ。テレビを見るんだ。ラジオを聴くんだ。ジェームズ・ブラウンのレコードを聴け。この国の人種問題に対する本当の解決法は教育だ。焼いたり殺すことじゃない。準備をするんだ。資格を持つんだ。何か所有するんだ。偉くなれ。それがブラック・パワーだ。マーティンは、俺たちのヒーローだ。俺たちには、真の兄弟という彼の夢を実現する義務がある。暴力では、この義務は果せない」ブラウンは自伝のなかで、こう語っています。「俺は喜んですべての町で呼びかけただろう。できれば、もっとたくさんの町を回りたかった。あの破壊から得られたものは何もなかった」「もし誰かが俺の言うことを聞くとすれば、それは今だ。これだけ多くの客を目の前に、世の中であらゆることが起こっているのに、何も役に立とうとしないのは恥ずかしいことだ」1969年9月、「セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」をリリースすると、ブラウンは、他人種のファンを失いました。ブラウンのコンサートの人種構成は、ほとんどが黒人になったのです。ピーター・ギュラルニックは、書いています。「ソウルを取り巻く空気は、すでに変わっていた。そこには敵意という新たな感覚が入り込んでいた。敵意に関しては、それまでも常に意識していたが、これほど顕著なものは今回が初めてだった」。
2005.04.05
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立教女学院 聖マーガレット礼拝堂2005年3月25日はグッド・フライデー、キリストがエルサレムのゴルゴタの丘で十字架にかけられて処刑された日。26日はホーリー・サタデー、キリストが墓に葬られた日。そして27日、きょうはイースター・サンデー、復活祭。金曜日に処刑されたキリストがよみがえったことを祝う最も重要な祭日。こんなことがわかるようになったのは、南の島に友人ができてから。ユーミンは、幼稚園がカトリック、中学校がプロテスタントで、グレゴリアンチャントなどの教会音楽に影響を受けたそうです。「ベルベット・イースター」が収録されたファースト・アルバム『ひこうき雲』のデザインは、アルヒーフのレコード・ジャケットを意識したものでした。サウンドは、キャラメル・ママ(細野晴臣ベース、松任谷正隆キーボード、林立夫ドラムス、鈴木茂ギター)の参加で、ユーミンのヨーロッパの香りのする音楽に、アメリカのウエストコースト風の味つけが加わって、バラエティに富んだものになりましたが、基調は、祈りの歌のように思います。このアルバムが発売されたのは1973年11月20日。ユーミンは当時、大学2年生でしたが、友人の死を歌った「ひこうき雲」をはじめ、曇り空や夜明けの雨などをモチーフにした、このアルバムの作品は、60年代後半から70年頃までの波乱に満ちた青春時代に捧げられているように感じられます。それが72年頃の人々の気分でもあり、ユーミンの音楽は、その雰囲気をうまくとらえていたので、共感を呼んだのではないでしょうか。<参考>1966年~1972年のユーミン私には、ファースト・アルバム『ひこうき雲』の背景で、1960年代にユーミンが体験したさまざまなことがひびきあっているように聞こえます。そんなことは、歌詞には、ひとことも出てこないのですが。ユーミンは、それを「私小説というコンセブトに基づいている私小説アルバム」「今まで思春期とか、幼少時代送ってきたのをすべてはき出していたアルバム」と説明していますが、私は、ユーミンは、個人的な体験を、普遍性を獲得するところまで、イメージを研ぎ澄ませて作品化したのだと思います。ユーミンは、1960年代にどんな体験をしたのでしょうか。デビューから10年後の1983年に発行された『ルージュの伝言』という、ユーミンのインタビューを山川健一氏がまとめた本からいくつか書き抜いてみたいと思います。以下、敬称略。1966年に立教女学院中学に入学したユーミンは、テンプターズやカーナビーツなどのグループ・サウンズのおっかけとして、新宿や銀座のジャズ喫茶に出没するようになります。やがて、それに飽きたりず、立川や横田の米軍基地に出入りしはじめ、基地のPXでジミ・ヘンドリックスやクリーム、ジェファーソン・エアプレイン、アンアン・バタフライなどのレコードを買い漁り、ゴールデンカップス、モップス、ビーバーズなどにレコードを持ち込むようになります。特にプロコルハルムのレコードは、すり切れるくらい聴きこみます。そのうち、成毛茂、高橋信之(高橋幸宏の兄)らが結成したフィンガーズというバンドの中国人のベーシスト、C・U・チェンに惹かれ、音楽的にも影響を受けていきます。「ユーミン」という呼び名は、C・Uがつけたそうです。1968年から、ユーミンは、御茶ノ水の美術学校へ通うようになり、その界隈の、明治大学や中央大学の激しい学生運動を目撃します。ロックミュージカル『ヘアー』を上演しようとするグループと知り合い、ブティック「ベビードール」や飯倉のレストラン「キャンティ」を拠点に交流を始めます。六本木の女王といわれた「キャンティ」のオーナー、梶子にかわいがられ、サン・ローランの衣裳をプレゼントしてもらいます。立教女学院高校へ入学した1969年の5月には、元ザ・タイガースのメンバー加橋かつみがユーミンの作品「愛は突然に」をレコード化します。このころ、六本木のディスコ「スピード」に通い、そこに出演していたバンド、フローラルの細野晴臣、松本隆、小坂忠らと知りあいます。ベトナム戦争への抗議、性の解放、資本主義への嫌悪、宗教への疑問をテーマとした『ヘアー』は、東京公演を1970年2月25日、3か月で11万人の観客を動員して終了。しかし、翌日、主要なスタッフ4人が大麻取締法違反で逮捕され、3月1日からの大阪公演は中止に追いこまれてしまいます。ユーミンは、根岸のドルフィンの近くの外国人収容所にいるC・Uに面会に行ったり、立教の男の子とパーティをやったり、湘南の海までドライブしたりという日々をおくります。「だから、いわゆるカウンターカルチャーは、もうたっぷり吸い込んだね。60年代終わりから72、3年とかまで。すごく暗い時代だったじゃない、本当は。ジェファーソン・エアプレインの歌なんか、私にとっては象徴的だった。ああ、これぞ今の私だとかって思ったもの。あのトーンがそういうふうに思えた。もちろんほかの音楽もいっぱい聞いたけど、なぜかグレース・スリックが代表選手なの。」1971年、高校3年生になったユーミンは、芸大の受験勉強に本格的に取り組むため、遊びの誘いは断りますが、曲を作ってアルファレコードに持ちこむことは続けていました。1972年4月、多摩美術大学に入学したユーミンは、日本画を専攻しますが、アルファレコードの村井邦彦社長の決断で、シンガーソングライターとしてデビューすることになります。
2005.03.27
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昨年末に見た映画の余韻が、いつまでも続いています。映画は、時代を、このように表現できるのだとおどろき、あの時代だからこそ、このように映画で表現できたのかもしれないとも、おもいました。映画は、ナイトクラブのMCが「How about Sam Cooke!」とアナウンスする声で、はじまります。スポットライトをあびた後ろ姿のサムが「How are you doing out there? Feel all right」と何度も呼びかけると、観客は「Yeah!」。サムは「Don’t fight the feeling」と歌いはじめます。スクリーンには、夜の街をジョギングする黒人の青年の姿が映し出されます。マイアミ・ビーチのジムで、ボクシングのトレーニングをする青年、リストンが挑戦者を倒したシーン、キリストを描く父親の絵筆を見つめる青年、バスの黒人専用席で、リンチで殺された、目をくりぬかれた黒人の顔写真を掲載した新聞を見つめる黒人の少年、「正義は自ら勝ち取るのです。南部でも北部でも、暴力に耐えろとは説いてない。そうは説かない。イライジャ・ムハマドは言っている。『アフリカ系アメリカ人の誇りをもって生きろ』と。だれかが皆さんに暴力を振るったら、『暴力を振るえないように思い知らせろ。もう絶対に』と」マルコムXのスピーチを壁にもたれて聞く青年……ギターとシンバルがトレモロを奏でるなか、青年の心のなかのイメージが次々と現われると、サムは「Bring It On Home To Me」を歌いはじめます。22歳の青年は、スパーリングを終えると、試合会場に向かいます。ローブに着替えた青年は、計量検査で王者を目にすると「Liston, You are not the champion! Float like abutterfly, sting like a bee!!!」(リストン、お前は、王者ではない。蝶のように舞い、蜂のように刺す)と言葉で挑発します。「挑戦者カシアス・クレイ210.5ポンド! 世界王者ソニー・リストン218ポンド!」。計量結果がアナウンスされると、クレイは再び、言葉を機関銃のように繰り出して、リストンを挑発し続けます。控え室でクレイが手にテーピングをしていると、マルコムXが現われます。部屋の隅でアラーに祈りをささげる二人。そして、1964年2月25日、マイアミでの世界ヘビー級チャンピンシップ、ソニー・リストンVSカシアス・クレイのゴング! 胸に右ストレートをあびると、クレイは、左のジャブでリストンを挑発します。第1ラウンド終了のゴングが鳴っても感情的になって攻撃を続けるリストン。第2ラウンド、チャンピオンのパンチを軽々とかわすクレイ。第3ラウンド、クレイのワン・ツー・パンチに左目の下を切るチャンピオン。第4ラウンド、劣勢を挽回するためにリストンがグローブに塗った薬が目に入り、目が見えなくなったクレイは、第5ラウンドは防戦一方に。第6ラウンド、復活したクレイの左が炸裂し、今度はチャンピオンが防戦一方に。第7ラウンドを前に、マウスピースを吐き出し、試合を放棄するチャンピオン。勝ったクレイは、リングでサム・クックを抱きしめ、「世界一グレートなロックンロール・シンガー」と呼びました。テレビ画面を見つめるネイション・オブ・イスラム教団(黒人イスラム教団)のイライジャ・ムハマド尊師。試合を終えて、マルコムXの滞在するモーテルでの祝賀パーティでくつろぐカシアスとサム・クック。ハーレムをマルコムXと歩きながら、自分は「弱者を味方にする王者になる。民衆の王者になる」と宣言するクレイ。世界チャンピオンになったことを評価され、イライジャ・ムハマド尊師から「Muhammad Ali」の名を贈られます。すべては、ここから、はじまったのです。アフリカ系アメリカ人の3人のスターが、お互いを鼓舞し、一緒に喜びを分かちあった歴史的瞬間。リストンとの試合は、アメリカでスターの座を獲得したばかりのビートルズも観戦していて、クレイがジョン・レノンと交わした会話をガールフレンドに伝える場面も描かれます。アフリカ系アメリカ人の戦いの歴史に現われた一瞬の光。しかし、映画は、その光が、周囲(アメリカ合衆国)からの圧力で、だんだんと輝きを失っていく様子を見つめていきます。このころ、すでにイライジャ・ムハマド尊師との意見の対立から停職処分を受けていたマルコムXは、メッカでの体験を経て、ネイション・オブ・イスラム教団と袂を分かち、新しいアフリカ系アメリカ人の統一組織を立ち上げますが、アメリカでは常にネイション・オブ・イスラム教団員に命を狙われていました。映画では、モハメド・アリが、アフリカのガーナで、マルコムXと再会し、メッカでの体験談に耳を傾けた後、尊師と口論したマルコムXを非難して、別れる場面が描かれます。そして、マーティン・ルーサー・キング博士と会談するマルコムXがテレビ画面に映し出された後、マルコムXはハーレムのオーデュボーン・ボールルームでの講演会で撃ち殺されてしまいます。1965年2月21日の日曜日、39歳での死。クルマを運転中、マルコムXが殺されたニュースを聞き、涙を流し、拳をハンドルに何度も打ちつけるアリ。スクリーンには、サム・クックの名曲「A Change Is Gonna Come」が流れます。映画には描かれませんが、サム・クックも1964年12月11日、ロサンゼルスのモーテルで射殺。33歳でした。「A Change Is Gonna Come」Written by Sam Cooke♪I was born by the river in a little tent, and oh(僕は川沿いの小さなテントで生まれた)♪just like that river I’ve been running ever since(それから川の流れのように走り続けている)♪It’s been a long time coming, but I know(それは長い年月だったけど)♪A change is gonna come, oh yes it will(いつか変化は訪れる)♪Then I go to my brother(ブラザーのところへ行って)♪and I say”Brother, help me please”(助けを求めても)♪But he winds up knocking me(僕は拒絶されて)♪back down on my knees(がっくりと膝をつく)ここから、サム・クックとマルコムXの魂を引き継いだモハメド・アリの、孤独な戦いが始まります。ソニー・リストンを再び倒し、美しい妻ソンジーとは1年足らずで別れたアリに1966年、徴兵令状が届けられます。アリには、以前、徴兵検査に不合格になった経緯がありました。それが今回は、能力を試験しないまま、甲種合格になったことに、意図的なものを感じたアリは、1967年4月28日、徴兵を拒否。「ベトコンと戦う理由なんてない。彼らは俺を“ニガー”と呼ばないぞ。別の貧しい人々を殺すなんて冗談じゃない。ここで政府と戦って死ぬ。敵は、ベトコンや日本人じゃない。アメリカ合衆国政府こそ自由の敵、正義の敵、平等の敵だ。国のために戦え? 俺の権利を認めてもいないくせに、露骨に差別しているだろ」と批判を続けますが、国家への反逆罪で起訴され、6月には有罪(懲役5年と罰金1万ドル)となり、タイトルとボクシング・ライセンスを剥奪され、パスポートも取りあげられて、試合への道を断たれてしまいます。そうしたなか、アリは、幼なじみのイスラム・パン屋の娘ベリンダと再会し、結婚、子供が生まれます。テレビでは、混迷するヴェトナム戦争に反対して学生たちが投石する映像が流れています。突然の銃弾音は、1968年4月4日、メンフィスのモーテルのバルコニーでのマーティン・ルーサー・キング博士の暗殺。享年39歳。キング博士の暗殺に抗議して、夜のまちに暴動がひろがる様子を遠くから見つめるアリ。イライジャ・ムハマド尊師から、信仰生活も禁じられてしまいます。しかし、ABCテレビでのスポーツ・ジャーナリストのハワード・コーセルとの対談を契機に、世論の支持を得て、1970年10月26日、ジョージア州アトランタでの世界ヘビー級3位のジェリー・クォーリーとの試合に第3ラウンド終了後TKO勝ちし、リングに復帰。 1971年3月8日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのジョー・フレイジャーとの戦いはアリの判定負けに終わりますが、6月28日、アリは、最高裁判決で無罪を勝ち取り、自由の身になります。1973年1月22日、ジャマイカのキングストンで、アリが再戦を望んだフレイジャーは、ジョージ・フォアマンに第2ラウンドでKOされてしまい、アリは、アフリカのザイールのキンシャサで、フォアマンとの試合に挑むことになります。キンシャサの空港にアリが到着すると、「ア~リ、ボンバイエ」(アリ、やつを倒せ)の大合唱。キンシャサの町をジョギングすると、子供たちがアリと一緒に走ります。アリは、民家の壁に、戦車や爆撃機と戦い、勝利するアリの姿を描いた絵を見つけ、人々のアリへの思いを感じます。アリは、アフリカの人々の力を得て、よみがえりつつありました。しかし、試合の大方の予想は、フォアマンの圧勝であり、32歳のアリは、この試合で殺されるというものでした。試合のゆくえを悲観した妻が、子供の看病のためにシカゴに戻ってしまうと、アリは、ドン・キングと一緒に来ていた美しい混血女性ベロニカ・ポルシェに惹かれていきます。1974年9月20日・21日の2日間にわたって、前夜祭のコンサートが始まります。ステージには、地元ザイールのリンガラ・ミュージックのバンドのほか、アメリカからも多数の黒人ミュージシャンが出演。大西洋をはさんで、それぞれの歴史を刻んできた、ブラック・ミュージックの交流です。スピナーズ、クルセーダーズ、B・B・キング、ポインター・シスターズ、ジェームズ・ブラウン、ファニア・オールスターズ……。フォアマンがスパーリング中に目の上を負傷したため、試合は、10月30日に延期して開催。ローブをまとって、スタジアムのリングに向かうアリに、キンシャサの観客は「ア~リ、ボンバイエ」の大合唱。おくれて登場するフォアマン。第1ラウンドを戦ったアリは、「脚が重い。空気も水中のようだ。」と、アフリカの気候のなかで戦うことの難しさを実感し、無尽蔵とも思われるフォアマンの体力を消耗させる作戦に切り換えます。第2ラウンド、ロープを背負って、フォアマンに打たせるアリ。パンチが当たり、朦朧となりながらも、言葉ではフォアマンを挑発し続けます。「あれで全力なのか!強打が自慢なんだろ! 全然、効いてないぞ! もっと強く打ってみろ!」。アリは、観客に声援をうながします。「ア~リ、ボンバイエ」。第3ラウンド、第4ラウンド、第5ラウンド、第6ラウンド、第7ラウンド、ロープを背負い、フォアマンを挑発し続けます。「まるで女みたいなパンチだ! あと3ラウンドもつか! 今のが強打か!」。第8ラウンド残り30秒、パンチを打ち疲れたフォアマンを見定めると、攻撃に転じたアリは、フォアマンのアゴに左右のパンチを直撃。大木のように倒れるフォアマンの身体。フォアマンは、辛うじて立ちあがったものの、レフェリーはカウント・アウト。モハメド・アリ、1967年に、試合に負けることなく不当に剥奪されたタイトルを、7年の孤独な戦いに耐えて、奪還! リングにしゃがみこんだアリが、再び立ちあがると、雷が轟き、雨が降りはじめ、大歓声に包まれるスタジアム。歓喜する観客に、両腕を高々と上げて、こたえるアリ。Muhammad Ali vs George Foreman私は、しばらく、この時代のアフリカ系アメリカ人たちの生きざまを、追体験していくことになりそうです。
2005.02.20
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