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お坊さんは英語ではMonk,日本語の発音にすると、マンクかモンクですかね?そんなことはどうでも良いのです。私の昔の学生で、現在はある会社の技術者をしているニルットさんが、モンクになりました。といっても、たったの1週間です。普通はもっと長く、1ヶ月くらいのようです。ただし、このモンクになるというのは、タイ社会、特に田舎では大大・・・、重要な出来事だそうです。息子がモンクになるのは親孝行の最たるもの!!モンクの修行を済まさないと結婚もできない、というのは当たり前のようです。さて、ニルットさん、仕事が大成功して、大忙しです。でも、もう36か37歳になりますから、そろそろ結婚しないといけませんね。ですから、忙しい合間を縫って、モンクになりました。モンク修行のあいだはいくつか忘れましたが100近い戒律、虫も殺してはいけない・・・・・などなどがあり、また、あるお経を暗記しないといけません。そして、午後3時に頭をそって、その日は大パーティーをします。彼の両親はコーラートの田舎のお百姓さんです。彼は、苦学して、私が指導教官でチュラロンコン大学の博士になりました。彼の田舎では、彼が唯一人の博士で、他には、幾つかの村をまとめる郡の郡長さんが博士だそうです。さて、坊さんになる日の大ディナー・パーティー、参加者なんと1,000人以上。野外の大パーティーです。彼が働く会社の同僚も30人くらい参加しました。写真が送られてきました。私も誘われたのですが、残念ながら、日本で所用がありました。坊主頭でモンクの衣を着たニルットさんは、本物のモンクでしたね^_^タイでは、このようなパーティーを仕切る専門業者がいます。だから、1,000人のパーティーも問題ありません。お金は?ニルットさんの働く会社の社長も私の教え子で、社長がニルットさんが坊主になるお寺に、結構な額の寄付をし、パーティーも応援してくれます。さらに、参加者が自分の食い扶持くらいのお金を包んできますので、金銭的にはさほど問題ないようです。私は26日からバンコクですが、彼はまだ修行中です。私が帰る前の5月2日(土)には会えるでしょう。まだ、髪が生えてないな!!
2015.04.25
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1週間ほど前、ふと見たら、池の金魚の1匹のしっぽが白くなっている。その白いのはしっぽそのものでなく、しっぽにカビのようなものがついているのだ。多分、病気だと思って、別の小さい水槽に移した。しかし、元気が無いし、白いものが増えていくようなので、ネットでメダカの病気を調べた。どうやら、カビが生える病気らしい。対策は塩水にいれること。それで、食塩1%の水を作り、そこへ移した。2日後、なんと、白いものがなくなり、尻尾も無くなっていた。つまり、カビが食塩で殺されて、カビに侵されたしっぽと一緒にとれてしまったのだ。それから2日ほど様子を見たが、結構元気なので、元の池に移した。それが昨日のことです。この金魚、今日も元気に泳いでいます。さて、尻尾は生えてくるんでしょうか?
2015.04.23
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ネットには大変お世話になっているが、逆に、問題も多い。その一つが【誇大広告】昨日、家族旅行で伊賀上野に行った。昼食は、伊賀上野だから、伊賀牛を安く食べたいと思って、ネットでレストランを調べた。そして、「伊勢之XX」という日本料理店で「伊賀牛まぶし重」というのを食べようと思った。ネットの広告に写真が載っていたのだ。さて、実際に注文したら、写真と違うじゃん!!まぶし重というのはお重のご飯の上にさいころ状の肉が乗っているのだが、サイコロの大きさがまるで違う。ネットの写真の肉は、形が不ぞろいで、まあ、10-20mm位はあります。そして、お肉で下のご飯は見えない程度に肉があります。実際に出てきたのは完全四角で7-8mmくらい。どう見たって、ご飯の白さが目立ちます。実物の写真を撮ってないので、客観的な比較はできませんが、どうみても羊頭狗肉だ!!この場合、責任があるのは、その「伊勢之XX」レストランなのか、その広告は「伊賀ポータル」というサイトにあるので、サイトの責任なのか?これからは、ネットの写真を持っていき、比較して似ていなかったら拒否するとかしないといけないな!!食べ物の恨みは怖いぞ~~~~~
2015.04.22
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昨日書きましたが、宗教のお話はひとまずお休みの予定でした。その後で、お釈迦様の生涯について知りたいと思ってネットで検索したら、すごく分かり易いサイトを発見。以下はそのコピーです。http://www.tamano.or.jp/usr/tosinobu/syakashogai.htm誕生仏教の開祖釈迦は、紀元前五世紀ごろにインドで釈迦族の王子として生まれた。 本名は姓をゴーダマ 名をシッダールタという。 釈迦という呼び名は、 その出身である釈迦族からとったものである。 のちに真理に目覚めてからは、 仏陀(ぶっだ)・釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)(釈尊(しゃくそん))などと呼ばれる。生涯 誕生 … ルンビニー園での誕生と生母の死(四月八日 花まつり降誕会(ごうたんえ)) 出家 … 二十九歳ごろに宮殿を捨てて出家(結婚後一子をもうける) 苦行 … それから六年間の厳しい修行(断食と坐禅の日々) 成道 … 苦行の中止後に菩提樹の下で悟り(禅定の中で悟りを得る) 十二月八日 成道会(じょうどうえ) 説法 … 鹿野苑という地で初めての説法(中道・縁起・四聖諦・八正道) 入滅 … 八十歳、クシナガラの地で(キノコまたは豚肉料理による中毒死)二月十五日 涅槃会(ねはんえ)頭を北、顔を西に向け横たわり入滅。 教え釈迦が菩提樹の下で悟り、説いた教えとは・・・・中 道(ちゅうどう) 縁 起(えんぎ) 四聖諦(ししょうたい) 八正道(はっしょうどう) の四つの真理から成り立っている。これらの修行を積むことによって煩悩をなくし、 結果として苦を克服することができるとしているのである。 中 道(ちゅうどう) : 何事も両極端はいけない。ほどほどがよい《考え、行動》 縁 起(えんぎ): 水がこの世になかったら雨は降らない。親がいなければ子は生まれない。このように物事には必ず「因(いん)」があってそれがあるところに必ず「果(か)」も起こります。あるものに対して他の何かがいろいろな形で縁となって働きかけをし、その結果に何かが生まれ起こることを「縁起」という。生まれたものもやがて死ぬ。若者もやがて老いる。愛し合う者たちにもいつか別れが来る。これは人間の多くの苦しみを生み出す原因である。このように物事はお互いに関係しあっている。 四聖諦(ししょうたい): 苦諦(くたい) … 生まれてきたわれわれの世の中の様相は「苦」であると見極めること。 集諦(じったい) … 苦を引き起こすのは、欲望と執着を集めることと見極めること。 滅諦(めったい) … 見極めた「苦」の原因、人の世の欲望と執着を捨て去って滅すること。 道諦(どうたい) … それを導く具体的な手段の「八正道」を日々怠りなく実践すること。 八正道(はっしょうどう) 正 見 … 正しく真実の姿を見据える 正 思 … 正しく本当のところを考える 正 語 … 正しい言葉で正しく語る 正 業 … 正しい行道・行為をする 正 命 … 正しい生活をする 正精進 … 身心を整え、健康に留意して、正しい努力をする 正 念 … 正しい信念を持ち、希望に燃える 正 定 … 以上のことを常に正しく守れるように身心を落ち着ける 東の空を曙光が赤く染める頃、“天眼”が生じ、釈迦は真理に目覚めて「仏陀」となった。35歳のときのことである。 これがお釈迦様の教えのすべてと思われます。その他もろもろは、全て、以上の短い教えを延々と、いろいろの人がいろいろの言い方で長々と説明しているだけと思います。
2015.04.20
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キリスト教はイエスの本「新約聖書入門」を読んだので、ならば、お釈迦様はどうかな?ということで、この本を読んでみました。この本を読んだきっかけは、NHKの番組でこの本を取り上げているからです。「100分で名著」というタイトルで25分づつ、4回でその本を紹介します。先日3回目を見ました。4回目はまだです。この本は「ブッダ最後の旅」をいうタイトルです。お釈迦様が、既に高名で広く尊敬されるようになって、その最後の出来事をつづったものです。お釈迦様の生まれたときの名前は<ゴータマ・シッダルタ>、インドの王族の家に生まれたのだけれど、29歳の時に出家して、35歳で悟りを開き、80歳で亡くなりました。その亡くなる1年くらいの出来事を記録しています。私の乏しい知識ですが、このころ、僧侶は修行して仏教を勉強した。そして、仏教を学び、修行する僧侶と一般の人(在家信者)は峻別されていた。在家信者は僧侶から有難いお話を聞き教えを得る立場であり、そのお礼として貢物をささげた。今日いう、小乗仏教ですね。さて、お釈迦様は旅から旅の生活を送っています。ある町へ行き、そこでしばらくとどまり、そして、また次の町へ行きます。住まうところは、どうやら林の中とか、畑の中のようです。そこで、お釈迦様は弟子たちに教え、在家の人にも教え、施しを受けて(食べるものを托鉢で貰って)生活しています。この本はそのような生活のありさまを書いています。NHKの番組では、この本は素晴らしい本だ、お釈迦様はお~~~~そろしく素晴らしい人だ~~~~~と紹介されていますが。私が本を読んだ感想は、別に~~~、何でお釈迦様はすごいのかさっぱりわかりません。でも、NHKの番組を見ていると、なるほどなるほど、そこはこういうことを言っているのか!と納得することがあります。でも、この本を100辺読んでも、お釈迦様がどれほどえらいのか、多分わからないでしょうね。この本の半分は最後の旅の様子を書いています。残りの半分は、注釈です。この旅の様子は、お釈迦様の愛弟子の若いアーナンダが語ったことを、また、誰かが書き写したものだそうです。そして、この本はパーリ語でかかれた物語を直接訳したものだそうです。解説に曰く、釈迦を神格化した記述は後代に加えられたもの。・・・・神話的な潤色は後代になるほど強まっていく・・・・お釈迦様は人です。生身の人です。その人が、その時代のインドで広く敬われたのは事実でしょう。なぜか、そこに宗教を知るヒントがあるような気がします。お釈迦様の生涯を勉強しましょう。これで、宗教のお話はひとまずお休みにします。
2015.04.19
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この本の副題は、心の糧を求める人へ、となっています。残念ながら、私はその心境でこの本を読んだわけではありません。キリスト教とはどういうものかな?という知的好奇心から読んだのです。常々、思っていたことですが、この本を読んでも同じ感想を持ちました。イエスの生涯についてやはり違和感があります。少し前にも書きましたが、イエスは人であり、キリストは神です。イエスはキリストの教えを体現した人です。よく(イエス・キリスト)と一つのように書かれますが、キリストはあくまでも神ですから実体はありません。さて、人であるイエスについてキリスト教の教えをまとめた聖書には次のことが書かれています。(1)イエスはマリアから受胎なしに生まれた。 つまり、父親はいません。(2)イエスは事あるごとに奇蹟を行っています。 めくらの人の目が見えるようになったり、歩けない人が歩いたり、その奇蹟は数知れません。(3)そして、有名なのは磔になって死んで3日目に生き返ること。これらは、キリスト教徒にとってはキリスト教が如何に素晴らしいかを説明する事柄になっています。でも、現代の科学から見たら、全部否定されます。しかるに、三浦綾子さんの「新約聖書入門」では、このすべてが<ありうること>と受け止められているのです。あるいは、だからこそイエスはすごい、そしてイエスの教えるキリスト教は素晴らしいとなっています。私はキリスト教を否定しないし、三浦綾子さんも立派な人と思いますが、この3項目を完全肯定することは到底納得できません。宗教の成り立ちは、イエスや釈迦のような優れた人が始めた、或いはそれまでの伝承などを宗教の域に高めたことは間違いが無いし、その教えは迷える人間に安らぎや良い人生を指し示す素晴らしい役割を持っていることは否定しません。しかし、どんな宗教も1000年、2000年のあいだに、その創始者、イエスや釈迦を神格化してしてしまうものではないかと思います。神格化することによって、大衆を引き付けることができやすくなったのでしょう。その結果、神格化した話が既成の事実として受け取られるようになった、と考えます。逆にいうと、イエスや釈迦の偉さも、このような神格化がなされないと、広く大衆に受け入れられなかったのではないか?つまり、布教のための必要悪です。宗教を目下信じていない私は、こんな風に考えています。
2015.04.18
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親鸞の浄土真宗では、信じて念仏すれば浄土に行ける。救われるわけですね。キリスト教も同じようです。ただ信ぜよ信じる者は誰かみな救われんという歌詞が讃美歌にあるそうです。宗教というのは、そういうものでしょうね。信じなければいけないのです。そこは理屈や論理で到達できる境地ではないのですね。さて、では、信じる人と信じるに至らない人の違いはどこにあるのでしょうか?仏教では、この世は苦しみに満ちている、ということが前提です。そして、仏教の世界観では、人は天国、この世、餓鬼、地獄を輪廻していると考える。この世では苦しいことでいっぱいだ。そして、死ぬともっとつらい餓鬼の世界に行く。さらに地獄に行く。しかし、信じて念仏を唱えると、この輪廻から解放されて永久に悩みのない浄土の世界に行くことができる。今から2,000年近い昔から西暦1800年代までも、人間が生きていくこと、飢えないことは難しかったのでしょう。この世は苦しみに満ちていると思う人が大部分だったことは想像できます。その世界にあっては宗教が大いなる力、救いであったのだと思います。信じる必要のある世界だったのだと思います。では、現代ではどうでしょうか?病気や事故、人間関係で悩むことが無ければ、それほど、この世が苦しみに満ちていると思う人は少ないのではないかな?私もその一人ですね。でも、病気になったり、老齢で寝たきりになったりしたら、生きていたくなくても死ねないとしたら、私も誰かに、何かにすがりたくなるかもしれませんね。その時は・・・南無阿弥陀仏~~~~南無妙法蓮華経~~~~そして、アーメン~~~~何でも良いから信じることにしましょう・・・と元気なうちは思っています。
2015.04.17
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昨日【教行信証】、親鸞の教えを書いた本のことでした。今日の【歎異抄】も親鸞の教えに関係します。どんな宗教も、時とともに宗派が沢山出来ますね。初めの人は一人なのに、その教えを受けた人達が、時とともにだんだん違う方向に進んでいく。そして、いつの間にか、別れていく。そして、自分の宗派を作るんですね。浄土真宗も例外ではありません。親鸞に教えを受けた人たちも、親鸞が無くなるとともに、親鸞の教えの解釈が違ってきてしまいます。【歎異抄】は【異】異なることを【歎】嘆く【抄】書物です。この書き物は、親鸞の直弟子の唯円という人が書いたものと言われています。親鸞が無くなって、この頃、こんなことをいう人たちがいるけれど、それは親鸞の教えとは違いますよ、と嘆いて書いたものだそうです。例えば、親鸞の教えは他力本願、南無阿弥陀仏と唱えれば、だれでも浄土に行けますよという教えなのに、この頃浄土に行けるようになるためにはうんと勉強しなければいけないというような人がいる。それは、親鸞の教えとは違うでしょう・・・お布施をたくさん持ってきた人は<大きな仏>になれるけど、お布施の少ない人は<小さな仏>にしかなれないなどという人がいるけれど、それは親鸞の教えとは違います・・・・などなど、唯円さんは嘆いているのです。歎異抄はとても短い書物ですが、きちんと理解するのはなかなか難しいです。さて、浄土真宗の根本は・・・もう一度、ちょっと難しく言うと「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ(信)念仏まうさば(行)仏になる(証)そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」親鸞の師をたどると、釈迦(ブッダ)に行きつくわけです。最近、NHKの番組で、「ブッダ最後の旅」という本の解説をする番組があります。それで、興味があって、その本(岩波文庫)を買いました。読み始めたところです。しばらくしたら、そのことについて書きましょう。
2015.04.15
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回り道をしましたが、親鸞の教えに行きましょう。親鸞の教えを書いた本が【教行信証】だそうです。私は読んでないので、偉そうなことは言えません・・・・が。その教えの根本は、念仏すればあの世で天国に行けるぞよ! ということのようです。いわゆる、大乗仏教、他力本願の教えです。教行信証というのは・・・信じて行すれば、行するとは念仏を唱えること証する、浄土・涅槃に行けることを教える実に簡単ですね。問題は信じて念仏ができるか?ということ。口で、南無阿弥陀~~~南無阿弥陀~~~~と唱えていても、心ここに非ずでは、浄土に行って菩薩になることはできないんでしょうな?ところで、教行信証の中に【正信偈】という短いお経があります。http://正信偈.com/ぶっせつ、あみだぎょう~~~~、な~む~ふ~か~し~ぎ~・・・・・・・・よく聞きますね。その意味を理解したいと思っています。まだ、修行が足りません。
2015.04.14
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宗教の話をしているのですが、なんだか本筋からどんどん離れて言っているような・・・昨日、ふと思ったのですが、ならば、【菩薩】は神か人か?仏教は無限の智と光の神様-如来、阿弥陀-を釈迦が人間衆生に伝えたものと理解されます。ならば、菩薩とは何ぞや?こういう時Netは便利ですねえ~~~早速菩薩で検索すると、以下Wikipediaです。菩薩(ぼさつ)は、仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のことを指す。はっきりしていますね。菩薩は【人】です。だけど、事はそう簡単ではない。数千年の時を経て、仏教が日本に伝わってきて、そして数百年経つと・・・日本では、仏教の教えそのものの象徴である如来とともに、身近な現世利益・救済信仰の対象として菩薩が尊崇の対象とされてきた。日本で広く信仰される主な菩薩としては、母性的なイメージが投影される【観音菩薩】、はるか未来で人々を救う【弥勒菩薩】、女人成仏を説く法華経に登場し女性に篤く信仰されてきた【普賢菩薩】、知恵を司る【文殊菩薩】、子供を救うとされ、道端にたたずみ最も庶民の身近にある【地蔵菩薩】などがある。こんな説明をされると、菩薩は人ではないなあ???そう思いませんか?もう一度、質問・・・・【菩薩】は神か人か?私の答えは、菩薩は人が創造した神です。結局、真如も阿弥陀も、キリストも人が心と頭の中で創造したものなんでしょうなあ・・・・こう言うと、宗教者、とりわけキリスト教の信者には叱られそうです!!<続く> もう少しお付き合いください。
2015.04.13
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神と人の違いは分かりましたが・・・では、仏様とは何でしょう??お葬式の時、亡くなられた人は棺に入っています。お葬式に来た人が、仏さんにお別れしましょう、ということで棺の中の亡くなられた人を拝んで、サヨナラをします。この時、亡くなられた人は【仏】さんです。奈良の大仏さんも【仏】という字が入っています。南無阿弥陀仏の最後も【仏】です。でも、いずれも、元人でした、ということはありません。私の理解するところ、【仏】は人が無くなり、生きていた時の善行によって、亡くなったのちに行くと、その亡くなった人は【仏】になります。はとも言いますね。この時、人は人から神に等しい【仏】になるのです。つまり、【仏】さんは【神】と同じ。そして、真如を信じ、阿弥陀を信じると、人はに行き、【仏】になる。ああ、有難や~~~有難や~~~生きていても、神様のように全知全能で他人に対してやさしく、親切な人は【生き仏】とも言いますよね。生きていても【仏】さんのような人というわけです。さて、こんな人になれるかな???
2015.04.12
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昨日のブログで、次は浄土宗の教義について書きます・・・と言ったのですが。考えが変わって、今日は「神か人か」についてです。いろんな宗教は、その根源が神様です。ところが、何か読んでいる時、その対象は神なのか人なのか分からないことがあります。キリスト教では、【イエス】は人、【キリスト】は神です。イエスは生まれ、そして十字架にかけられて死にます。復活がありますが、それは信じないことにします。もし、復活を信じたら、イエスは人ではなくなりますからね。<ただし、クリスチャンにはこの議論は異論があるでしょうが>キリストには生も死もありません。だから神。イエスはキリストの教えを現生に(厳正に)伝えることが役割です。それだけ、神に近い人だったのでしょう。では、仏教ではどうか?仏教(ここでは浄土宗)は複雑です。如来様阿弥陀様、或いは阿弥陀仏お釈迦様さて、この3つは神か人か?如来様、或いは如来は神です。浄土宗の根本は、「人智を超越した真理」これを真如といいますが、この真如がわれわれ人間をいつも見守り、真如を信じる人を常に守り救おうとしている、と信じることにあります。だから、この真如を信じると「如が来る」、如来が来る、如来様が来る。有難や、有難や・・・となります。阿弥陀様、或いは阿弥陀仏も神です。阿弥陀様の仏像が各地にありますが、本来人でない神に姿があるわけがありません。では、阿弥陀とはなにか?阿弥陀は真如と同じです。弥陀とも言います。弥陀も人智を超越した真理、命と光が無限にあるものです。そして、弥陀も真如と同じように、人(衆生)を救ってくれるのです。浄土宗は他力本願の宗教で、南無阿弥陀仏と唱えることが信じることとされています。南無阿弥陀仏とは【無限の命と光である阿弥陀様に私は南無します】と唱えることです。ここで、南無とは帰命、帰依するという意味だそうです。だから、私は阿弥陀様を信じますと祈ることによって救われるのです。さてさて、では釈迦、お釈迦様は人か神か?釈迦、釈尊、釈迦牟尼仏、ブッダ、いろんな呼び方がありますが、お釈迦様は人です。釈迦はキリスト教におけるイエスのような立場かな?と素人考えしています。そして、お釈迦様の教えを学んだのが、中国の高僧、善導で、その弟子が法然、そのまた弟子が親鸞となります。キリスト教の人間の出発点はイエス、仏教の人間の出発点は釈迦ということです。私は上のようなことを知って、少し、すっきりしたのですが・・・・益々、複雑になったかな???
2015.04.11
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今日から時々、宗教のお話です。日本人は大抵家から家へ、ある宗派の仏教に属しています。我が家は浄土真宗西本願寺派です。現在の日本は宗教の派閥間争いが表に現れていないようで、結構ですね。イスラム教のスンニ派とシーア派の争いは哀しいですね。かつては、キリスト教もプロテスタント派ともう一つ何でしたっけ名前が出てこないけど、派閥争いがすごかった。さてさて、本論はそんなことではありません。たまたま、本棚に岩波文庫 ワイド版の【歎異抄】がありました。仏壇を整理していて見つけた【修証義】のパンフレットが机の上にあります。姉がクリスチャンで三浦綾子さんの【新訳聖書入門】を貸してくれました。それで、いろんな宗教を比べてみるのも面白いか・・・・私は宗教の信者ではないので、宗教の理解も<信じた>人の説明ではありません。宗教の本質は<信じる>ことであって、頭や知識で理解することではない。けど、信じていない人間でも、それなりに宗教について話してもよいのかなと思います。前置きが長いですが、私が感じている仏教とキリスト教の違い。仏教は、人間(衆生)は弱く、人生は苦しみ・悩みの多いもので、浄土宗では阿弥陀さまが、その悩みを癒してくれる。キリスト教は、人間は罪深きもので、その罪がキリスト教を信じることによって救われる。人間が神を信じる出発点は、仏教では苦しみ・悩む弱さにあり、キリスト教では罪(原罪)を負うていることにある、ではないでしょうか?さて、次回は、浄土宗の「教義」についてです。
2015.04.10
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一昨日から3日連続で植木の枝切り。剪定というには程遠い。単に高い部分の枝を切るだけ。ミモザは花が終わると、若い枝を全部切ってしまうのは来年のために必要。ただし、今年の枝切りは一つ目的がある。歳を取って、高いところに登りにくくなった。これから、葉が茂ると、毛虫が出てくる。その退治をするのに、高いところは手が届かない。だから、今、花が終わり、葉が茂る前に、高いところの枝を切っておこうということ。一昨日は桃(花桃、実がならない)、昨日はミモザ、今朝は桜。桜の木が一番高い。梯子をかけて、枝に登って切った。ミモザは太い枝から細い枝が出てくる。毎年、その細い枝の付け根から切っているので、太い枝の一番先がごつごつと瘤だらけになっている。それで、今年は太い枝2本のうちの1本は、そのごつごつの瘤のかなり下で切ってみた。さて、来年、その新しい切り口の下から、新しい枝が生えるか、それとも、枯れてしまうか、それが問題。ということで、今年の枝切り仕事は終了です。とにかく、年々、身のこなしが重くなる。簡単に高いところに登れなくなってきている。
2015.04.09
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2台のパソコンを持ってます。1台はVAIO、もう1台はASUSである。いずれも小型のノートパソコン。去年、VAIOを落として壊してしまった。幸い、購入から1年以内だったので、修理代1万円で直せた。しかし、また、何らかのことでVAIOが壊れたら困る。特に、年に6-7回海外に出かけるとき、パソコンが無いと仕事にならない。それで、メールや検索ができるスマホを買うか、タブレットを買うか、2代目のパソコンを買うか、迷ったのだが、結局2台目のパソコンを買って、これを海外用にしようと思った。私のパソコン歴は・・・・Appleの箱型、NECのデスクトップ、富士通のノートパソコン、パナソニックのLet's Note、DELLのデスクトップ、VAIO、ASUS・・・VAIOはWindows7、ASUSはWindows8である。Windows8は慣れないし、私には使い勝手がよくない。それで、結局、海外へもVAIOを持って行っている。ということは、ASUSは机の上で眠っている。最近、間もなくWindows10が出るという。そして、Windows8は8.1にアップデートしないと10に無料アップデートできないという。それで、使っていないのだが、兎に角8.1にアップデートしてみようと思った。軽い気持ちで「無料アップデート」をクリックした。ところが、待てど暮らせど終わらない。アップデートのあいだパソコンは使えるよ、というアナウンスはあるが、私はVAIOがあるので、その必要はない。結局、午前10時にクリックして、完全に完了したのは午後5時だった。7時間かかりましたね。確か、3.6Gだったと思います。全部読み込みして、いろいろのプロセスがある。この間何もやらなくてよい。しかし、約7時間何も起こらない。再起動して、向こうから送られてくるコード(7桁の数字)を入れて完了でした。その7桁の数字の連絡方法が3つあって、一つはMSNだかSMSだか、スマホで受けるのかな、二つ目は電話だったかな。三つ目がメール。私はASUSと別のVAIOにメールで受けたのだが(メールアドレスが二つのパソコンで同じ)、もし、パソコンが1台しかない時は、どうするのかな?分からないことだらけですが、兎に角8.1にアップデートできました。めでたし、めでたし~~~
2015.04.07
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私が1日で一番元気なのは朝だな!といっても、それほど元気溌剌ではないのだ。朝玄関の戸をあけて外に出ると、春の気配だ。風が冷たくない。桜は散りはじめ、もう藤の花のつぼみが膨らみ始めている。朝早くは、道であう人に おはようございます と挨拶する。知らない人でもだ。そして、日中に会ったんでは挨拶なんてしないだろうな、と思うと何となく嬉しくなる。これは、朝早くて、周りにほかの人がいないので、みんなが友達なのだ。この違いは時間だが、田舎と都会では、地域の違いで友達付き合いが変わるんだと思う。田舎では、合う人皆が友達だが、大都会ではほとんどが他人なのだ。とそんなことをふと思った。しばらく歩いて公園につき、ラジオ体操仲間に おはようございます朝だけで10回は挨拶するな。これが私の朝の元気のもとかな?
2015.04.06
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