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学校に行っていると、よく「なんで勉強しなきゃいけないんだろう」とか、「勉強はテスト前だけでいいんじゃないか」とか、「あの授業はつまんねえ」......
誰でも学生時代、こんなことを考えるんじゃないだろうか?
私は最近時折「勉強」という言葉を「学び」もしくは「探求」に変えたらいいんじゃないか、などと感じる時がある。
なぜかというと、「勉強」という言葉には「強く勉める」という、やや強制的な響きがあり、多くは「テスト」と結びつきやすいからだ。
誰でも「勉強=テスト」は苦手だ。(喜ぶ人もいるだろうけれど。)
でも、「勉強」ではなく、「知識の蓄積のため広く深く学び、知りたいことを探求する」のが学生の成すべきというか、愛すべき自由な時間なのではないだろうか。
そして、学校という場所は、彼らがどれだけ「知りたい内容を深く自ら学んだか」、その「基盤的知識」を「テスト」という形で知ろうとしているに過ぎない。
だから、従来の「勉強=テスト」という繋がりは形式的なものとして切り捨てても良い。
それでもテスト、試験があるのは、学校側は、学生に「学んだ知識の基礎的片鱗を披露する」チャンスを与えているからである。
こう考えれば、「学校」の存在意義も明確となり、学ぶ楽しさも募るのではないだろうか。
もともと人間には「知能」という素晴らしい賜物が天から与えられており、その「知能」はいつもハングリーなのだ。
自分の知りたいこと、または社会一般を知るに必要な知識を、人間の「知能」は「知識の蓄積」によって獲得し、ハングリーな状態を満たそうとする。
そうしてさまざまな知識で知能が満たされた時、「知的渇望」は幸福を感ずるのではないか。
せっかく生を享け、「知能」を持つ人間として生きているのだから、「勉強=テスト」というのは単なる形式且つ呼称に過ぎない、学ぶ目的は「知的渇望」を潤すことにより、幸福を感じ、自己実現を達成することなのだー
こういうことに気づくことにより、大事な青春時代をあたらゲーム漬けになって時間を潰すよりも、ずっと有益に過ごすことができるのではないだろうか。
もちろんゲームも気晴らしも必要なものだが、「学校=勉強=テスト」というステレオタイプな思考から、学生は一度は脱却してみる必要があるように思うが、いかがなものでしょうか。
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