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新年のBShi は何故かイタリア特集で、今夜はイタリア・バロック芸術の巨匠ベルニーニの金色の祭壇などが紹介されていた。
その時流れた曲が、かの『龍馬伝』BGM を担当した佐藤直紀氏の「別道」だった。
この曲は、龍馬伝最終回で、龍馬が暗殺される1867年11月15日に、弥太郎が龍馬を訪ねてきたシーンに流れていた。
大変抒情的で深みのある美しい曲なので、イタリアの教会の豪華絢爛な祭壇のBGMとしても違和感がなかった。
この弥太郎が龍馬に「ミニ銃を大量に売りさばいて大金を稼いだ」と言うと、龍馬は自分のことのように喜んで「凄いのう、おまんは本当に日本一の大金持ちになったんじゃのう」と喜ぶ。
それでも弥太郎は忌々しげにつっかかる。
「おまんの言う大政奉還なぞ、ありえん。ありえん、思うて銃を仕入れた。戦が起こるに違いない、そう思うて。だけんど、わしは弱気になった。大政奉還を、おまんはやってしまうかもしれん。おまんを信じてしもうたがじゃ。(それで売りさばいてしまい、儲けた)この金は、わしのじゃない、おまんに儲けさせてもろた金は欲しゅうない、この手形(領収書)はおまんにくれてやる!」
龍馬が好きでたまらないのに、ライバル意識がひょいひょい顔を出す、この「ツンデレキャラ」の弥太郎はユニークな存在だった。
この最後の日まで、弥太郎は愛憎こもる口調で龍馬に捨て台詞を吐く。
「おまんという男はわしはダイっ嫌いじゃ!おまんは自分の好きに生きて、それが何故かことごとくうまくいって...おまんの側にいると、わしはなーんんもできん、こんまい、つまらん人間に思えて、情けのうなってしまうがじゃ...こんな、悔しいことがあるかえ!」
深い愛情の裏に潜む憎しみを剥き出しにされても、龍馬は「そんなに、おまんは、わしが嫌いかえ。わしは土佐におる時から、おまんを友達だと思っていたし、今もそうじゃ」と落ち着いて答える。
こんなところが、彼の弥太郎への強い友情が生きているし、人を決して「憎まない」、優しい性質が表現されている。
そう落ち着いて言われると、弥太郎が余計にムカついて、「おまんの、そういうところが大嫌いなんじゃ!」とツンデレパワーを炸裂するのだが、あの愛情に裏打ちされた我がまま、龍馬には何を言っても許されるという甘えが見て取れて、その演技が本当に凄いと感じた。
この「弥太郎」の「ツンデレキャラ」は、producer のアイデアで、『アラビアのロレンス』からヒントを得たらしい。
映画『アラビアのロレンス』は、英国で事故死したロレンスの葬式の場面から始まる。そこで、ロレンスを「あの人は英雄だった」と悼む人、「あいつは礼儀知らずの男だった。あんな者とは知り合いでもない」とけなす人、様々な人がロレンスを語る。
そうしたシーンから、『龍馬伝』の語り手である「弥太郎」役が、龍馬に対して愛憎剥き出しのキャラクターになったそうだ。
香川照之さんは、その辺の「岩崎弥太郎」のイメージを的確に把握し、「憎しみや嫌悪の入り混じった大きな友情」を、底辺から這い上がる根性から湧き起こる激しく、時には冷めた感情と共に実に巧みに演じたんじゃないだろうか。
その「弥太郎」像を、三菱創始者、岩崎家の子孫の人々が、「汚すぎる」とNHK にクレームをつけたらしい。
YouTube のニュース映像で、その話題を知ったのだが、確かに商売繁盛し、会社を創設するまでの、初期の弥太郎は、ボサボサ頭で、顔もすすけ、歯も汚く、着物もボロボロだった。
当の岩崎一門の人々には、「先祖の弥太郎があそこまで汚く演じられると嫌だ」という気持ちも沸いてくるのかもしれない。
それでも、あれはドラマの中の役作りであるから、仕方がないんじゃないか。「仕方がない」と言うより、「こうであっただろう」という江戸時代末期の地下浪人の姿をリアルに再現するために、ぜひ必要だったのだ。
幕末は「道も道路として舗装されていなかったし、埃はいつももうもうと舞っていただろう」と監督らスタッフ陣は考え、スタジオのセットには常に白いスモークをかけ、一般民衆の役者達には、頬などに自然な感じですすけた埃で汚れたメークを施したという。
そうした工夫で、「作り物の時代劇」らしくない、現実味溢れる幕末、まるで江戸末期の150年前の人々が21世紀の私達の身近にいるような雰囲気が生まれ、ドラマに生命が宿ったのではないか。
香川さんは「地下浪人時代の弥太郎」を演じるに際し、顔を地面にべたっとくっつけ、「これぐらい汚くした方がいいんじゃない?」と真剣だった。
最も下級の侍としての、「地下浪人の岩崎家」のセットを見て、弥太郎の父親「与太郎」役の俳優さんが、「あのセットを初めて見た時には、あまりの凄まじい貧しさに気が滅入りました」とまで感想を漏らしていた。
それでも、そうした「凄まじい貧しさ」をリアルに再現することで、賢明な弥太郎が学問を続け、ゆくゆくは商売の才覚を表し、日本一の財閥「三菱」を築き、明治18年頃には西洋貴族の館のような立派な御殿に住むようになった、そうした「内に潜む才能を開花させた成功者」の姿がくっきりと浮き彫りにされるのであるから、「汚い弥太郎」は必須のイメージだったのじゃないだろうか。
そして、この『龍馬伝』において、実際の成功した後の「岩崎弥太郎」に一番似ていたのは香川さんの演じた弥太郎だった。明治以降、50代になった、口髭をたくわえた姿は、遺された「岩崎弥太郎」の写真に瓜二つである。
他の配役として、実存の本人のイメージに似ていたのは、「弥太郎」の次には、龍馬と共に暗殺された「中岡慎太郎」だった、と思う。実際の「中岡慎太郎」のにっこり微笑む写真は、江戸末期の人々に特有の強張った(ひきつった?)硬い表情がなく、21世紀の日本人に通ずる雰囲気がある。
他に主だった配役では、「幕末写真館」で見られる実物に「似ているなあ」といった人はあまりいなかった。
まあ、主役の「坂本龍馬」からして、それを引き受けた福山雅治さんが、「何でこの話が僕に来たんだろう?龍馬に似ているわけじゃないのに...?」と戸惑ったぐらいだから、実存した人物にそっくりの現代人で、しかも芸能界の人となると、探すのは難しいだろう。
主役は実物と全然似ていなくても、その俳優の持ち味でドラマをぐいぐい引っ張って行くという結果になるから、それが大河ドラマの面白さなのかもしれない。
で、逆に他の俳優で、「実物とぜーんぜん、似てないっ」と思ったのは、まずは「高杉晋作」役の伊勢谷友介さんじゃないかな。
ファッションモデル出身で、芸大大学院修士で、英国に留学した英語の達人の伊勢谷さんは、鼻が鷲鼻で日本人離れした魅力的なイケメン俳優。本物の「高杉晋作」には、ぜ~んぜ~ん、似ていない。
それから、「西郷隆盛」役の俳優さんも、全く似ていない。実在した西郷どんは、写真を見ても、「こんな顔立ちの人は、滅多にいないよな」という位、豪傑パワーがむんむんしている。こう言う人は、21世紀の日本人に見つけることは不可能なのだ。
最後に、「滅茶苦茶似ていない!嘘だっ!」という位、似ていなかったのは、徳川最後の将軍、「徳川慶喜」役の俳優さんだった。(すみません......^^;)
実在した「徳川慶喜」は、現代人に通じる鼻筋の通ったイケメンな人である。昔、大河ドラマに『慶喜』があり、その主役を演じた俳優さんは、本物によく似た凛としたハンサムで、あれほど時代劇で「実物に似ている」役はなかったんじゃないか。
『龍馬伝』の「徳川慶喜」は、最初は「一橋慶喜」と名乗っていた。だから、「えっ?この人が最後の将軍の、あの慶喜?『一橋』と名乗っているから、あの『徳川慶喜』とは違うんじゃないの?」と驚いていた。
でも、広辞苑で「徳川慶喜」を調べると、「徳川御三家の一橋家の養子となり、後に徳川最後の将軍となる」と書いてあった。
「ま、まさか、この人が......?も少し細面の俳優さんだったら良かったのに......あっ!本当に徳川慶喜になっちゃった!あぁ~この人がホントに『最後の将軍、慶喜』役だったのかぁ?」
ふっくらとして、眉の薄い(メークで、かな)お顔は、「慶喜」のイメージからは程遠かった。(すみません...m__m)
この驚くべきキャスティングに、「きっとこれは、龍馬役も高杉晋作役もイケメンだから、ホントにイケメンだった慶喜将軍まで、イケメン俳優を起用したら、主役の龍馬にスポットが当たらなくなるからなんだぁ」
こう結論づけてしまった。(重ね重ねすみません...^^;)
「似てる似てない」は別として、「慶喜」役は、声も良く、思慮深く、迫力のある演技だった、と思う。
いろんな役者さんが集まって、実在した人物を主役とする「大河ドラマ」は、「似てる、似てない」とか「かっこ悪い、汚い」などの色々な感想も視聴者から出るけれども、結局は、一つの時代空間を創る壮大なプロジェクトなのだ。
その為に、心血注いだスタッフや俳優さん達の1年間の努力は、いついかなる時でも、賞賛されるべきなんだと心から感服している。
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