躰道∞(無限) 

2005年09月14日
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 このページは楽天のものなんだが、画像登録の操作がうまくできず、写真を載せることができないのは残念。ひじょうーに!!

 Mキングさんの画像は無料で掲載してよろしいのでしょうか?飛び前さん、みてますかね?


 ということで、社会人大会を振り返ってみます。
 私の成績は個人法形一回戦負け。個人実戦一回戦負け。団体実戦一回戦負け(私は反則負け)。

 前代未聞の成績でしょう。幼いときから一回戦負けは慣れていますが、前代未聞といったのは、例えば法形競技、誤順でした。競馬でいうと、右回りのレースなのに左にまわってしまった。携帯電話は機械なのにお尻をふいてトイレに流してしまった。このような間違いを自動車学校の卒検で決められたコースを走ることのようなルールを無視する形で演技を行ってしまった。
 このときの言い訳をすると、序盤左右に技をだす際に『捻体半月当て』と言う技を行うのだが、この技は犬が体を伏せる状態から天井を見上げ同時に体を半身に開いてオス犬が小便をするみたいにして踵(かかと)を相手に当てて打撃をくらわすのだが、このとき構え(足を準備体操の軽い伸脚のように開いた状態)から技に移るときに一旦伏せねばならない。伏せてから、技をだすのではない。句読点をとったように早く、伏せてから技をだす。けれども私が狙ったのは伏せたと同時、もしくは周囲に伏せを感じさせずに技を繰り出す。だったのだ。それを意識するあまり、その前の動作を省いてしまった。皿の上に食事がのる前に代金を支払い店内から消えていってしまったのだった。



 そのあと、各先生がたに励まされ、そして指導をいただいたことに大変感謝いたしております。私の先生の志摩先生が審判長を務めた大会であったにもかかわらず、このような内容であったことは先生に対し失礼なことをしてしまったと、反省をしております。ただ、その志摩先生は本日の昼に書いたとおり、「ここにいる全選手が勝利者である」とたたえてくださいました。先生の真意までは見えないものの、先生自身も昔を思い出したに違いない、そして今がある。と思ったに違いない、そう確信しました。
 人の話を思い出すときとは映像で覚えた他人の記憶を行った自分の結果に照らし合わせたときに、不思議なフラッシュバックとなり蘇るのだと思う。私は先生の話を一生忘れませんから、これからも何度と無く、未経験のフラッシュバックを感じることになるでしょう。

 三菱のデリカで出発した我々一行は、高テンションのまま関東に入り、温泉ランド?健康ランド?のなかで翌朝を向かえ、ファミレスで食事をすることに。
 時間をみて数分でつく会場へと出陣。このときの運転手は小学一年から共に汗を流した「のり」だった。のりはうちの副理事長の弟で、同級生だ。高校生大会では同じチームで団法を二連覇している。小学のときも全日本の団法で二位までなっている。その彼、のりは躰道からしばらく離れていたが、今回の大会で我々が車で東京へ向かうことを聞いたらしく、運転手をかってでてくれたのだった。
 帰りに選手の怪我があっては運転も大変だろう、寝かせてやりたい、そういった優しさがあってのことだった。もちろん、躰道への熱が冷めることがなかったのがその最も大きな理由だと信じているが。

 さかな大会のビデオをみながら、私の成長を喜んでくれて、こっちのほうが嬉しくなった。彼の兄、私の先輩の浩君は現在の私の兄のような存在で、たぶん、浩先輩も私を弟と思っているにちがいない。そう考えると、「のり」の存在も血のつながりを感じてならない。

 血、とは皿に一滴だけ載った無機物のように見えるが、皿を作るには良い土を探さねばならない。そして、火の力をかりて、出来上がる。出来上がったとしても、人の目にふれなければ、存在を感じられることはない。だったら、なぜ存在したのだろう。
 それは、産み出す者がいたからだ。何枚も焼いているうちに作り手は自分の型をあみだす。すると、どうだろう。同じような仲間が皿がどんどん生産されていく。躰道も皿と同じで、その型の中で比べあいながら次の存在を待っているのである。
 チョンとついた「、」、これは、では、いったいなんなのだ、となったとき私が考えるとこうだと思う。『失敗』もしくは『後戻り』だ。そのような一見して不要と思える言葉でも、他人の優しさを見たり引き出したりするには大変重宝しなければならないことなのだ。
 どれほどの芸術家でも、完璧なものはなく、だからこそ、価値観というものがある。武芸という言葉に完璧はない。ただ、100パーセントはなくても、101パーセントや、2000パーセントがあるのが躰道であると思う。血から皿になるときは頭の上の点をとったときで、逆に皿から血になるときは丸い皿に何かが付着したときだ。受精の形とおなじである。最終的には死という同じものどんな人間も動物も共通して経験するが、誕生もまた同じである。結局は例外はなく、万物が同時進行しているのが自然である。それを欲といったり交渉といったり、型をそれぞれの言葉で作っているのである。血ができる瞬間とは、皿に何か点がついた瞬間なのである。(自論)



  本日、最後に。私だけでしょうか、写真の目が潤んでいたような……動いていたような。





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最終更新日  2005年09月14日 22時02分12秒
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