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曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」では、安房里見氏初代の里見義実の娘「伏姫」が、母と共に参拝した場所として登場するのが洲崎明神(洲崎神社)です。堂々の安房国一之宮です。「南総里見八犬伝」では、玉梓の呪いによって口が利けなかった伏姫ですが、洲崎明神に参拝して役行者から数珠を与えられると、口が利けるようになり健やかに育っていきました。その役行者に与えられた数珠が、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の「仁義八行の玉」で、後に八犬士となって、里見家の危機を救うこととなります。【彫刻置物】丸玉 水晶20mm (素彫り) 里見八犬伝 【パワーストーン 天然石 アクセサリー】その洲崎神社の拝殿は、階段を何段も登った高台にありました。拝殿から見た参道と鳥居その先には太平洋が広がっています。拝殿「南総里見八犬伝」は史実をモデルにしたフィクションですが、史実でも里見氏第6代の里見義弘によって崇敬され、神領も寄進されています。(洲崎神社の解説板では、里見義弘が「房総里見氏第七代」とされていますが、こちらの方が正しいのかも知れません)解説板によると、安房国に流れ着いた源頼朝も、ここで源氏再興と妻北条政子の安産祈願をしたとありました本殿南総里見八犬伝 全106冊揃 / 曲亭馬琴(滝沢馬琴)/重宣・英泉 他画 【中古】現代語訳 南総里見八犬伝 合本版【電子書籍】[ 曲亭馬琴 ]
2019/01/15
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各地の香取神社の総本宮にして、下総国一之宮に君臨するのが香取神宮です。利根川沿いの「利根水郷ライン」、国道356号線は何度も通っていながら、なぜかこれまで香取神宮を訪れたことはありませんでした。初めて訪れる香取神宮でしたが、さすがは古くから崇敬を集めてきた神社とあって、参道商店街の賑わいにも歴史を感じました。参道商店街入口二の鳥居ここからが表参道です。木々に囲まれ、長く曲がりくねった参道の先には、三の鳥居が見えてきました。三の鳥居の先にある「総門」は、残念ながら修復工事中でした。総門香取神宮に限らず、よくあることなので気にしなくなりましたが、なぜ私が訪れた時に限って修復工事が行われるようです。それでも総門の先にある「楼門」は、その姿を見ることができました。楼門(国指定重要文化財)天下泰平の元禄文化華やかなりし元禄13年(1700年)の造営で、「香取神宮」の扁額は日露戦争の英雄、東郷平八郎元帥によるものです。拝殿に着いてみると、さすがは香取神宮とあって、参拝にも行列が出来ていました。拝殿祭神は「経津主神(ふつぬしのかみ)」です。拝殿の背後にある本殿は、楼門と同じく1700年の造営によるもので、国の重要文化財に指定されています。香取神宮は古来より常陸国一之宮の鹿島神宮と深い関係にあり、地理的に見ても利根川や北浦を挟むように鎮座しています。鹿島神宮と同じく、香取神宮にも置かれているのが「要石」で、鹿島神宮・香取神宮共に、地中に棲む大鯰を抑えるために置かれたとされています。表参道から分岐する「要石道」要石香取神宮の要石は凸型で、鹿島神宮の要石は凹型をしています。鹿島神宮の要石(2013年3月)香取神宮の凸型の要石も、鹿島神宮の凹型の要石も、地表に出ているのはほんの一部分で、大部分は地中に埋まっているそうです。香取神宮の要石と鹿島神宮の要石、その両方を掘り起こそうとした人がいたそうで、それがこの人でした。ご存知「水戸のご老公」、徳川光圀です。(2012年12月、水戸城三の丸にて)
2018/09/09
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上総国の一之宮である玉前神社を擁する千葉県一宮町は、江戸時代に一宮藩が置かれた場所でもあります。一宮藩の藩庁があった一宮城は、城跡よりも陣屋跡といった印象でした。復元された模擬大手門かつて江戸時代にもここに大手門があったようです。すでに戦国城郭の面影はなく、遺構も藩庁の建物があったと思われる削平地が残っているだけでした。一宮藩には武道所である振武館があったそうで、現在はその振武館が再建されて、武道場として使われていました。振武館(再建)振武館の裏側に回ってみると、土塁と思われる跡がコンクリートで固められ、土塀が復元されていました。画像ではわかりづらいですが、九十九里の海岸線と太平洋を望むことができます。一宮城の築城主や築城年代は明らかになっておらず、城主やその歴史も諸説あって判然としていません。しかもその諸説も落城に関するものばかりです。・内藤久長が城主であった1562年、館山城主里見義頼(里見氏第7代当主)・万木城主土岐頼治・大多喜城主正木盛賢に攻められて落城した。・糟谷大炊介が城主であった1562年(または1565年)、勝浦城主正木時忠・時通親子に攻められて落城した。・豊臣秀吉による小田原攻めの1590年、徳川四天王の一人、本多忠勝に攻められて落城した。(小田原攻めの時、北条氏と争っていた里見氏は豊臣秀吉方についたため、これが史実ならば一宮城は里見氏ではなく北条氏の配下にあったことになります)いずれにしても北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあったことは間違いなく、北条氏と里見氏の間で一宮城の支配権が度々変わったことが窺えます。北条氏滅亡後の1592年には、大多喜城主となった本多忠勝の配下になり、江戸時代に入っても大多喜藩の領地でありました。一宮藩が成立したのは江戸時代も後期の1826年のことで、一宮藩が存在したのは約50年ほどでした。里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ]
2018/06/17
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里見義弘が北条氏政を迎え撃った三船山の戦いは、里見義弘にとってはまさに乾坤一擲の戦いだったかも知れません。千葉県君津市と富津市にまたがる三舟山の遠景1563年の第二次国府台合戦で、里見義弘(房総連合軍)が北条氏政に敗北を喫すると、房総各地の豪族の離反を招くこととなりました。特に正木時忠や土岐為頼などの離反が痛手で、それによって房総防衛ラインが崩されると、里見氏は上総の大半を失う結果となっています。そしてついに北条氏政は里見義弘の佐貫城を攻略すべく、水陸両軍を率いて上総へと進出、三船山で激戦が繰り広げられました。その三船山の山頂部を目指して、北条軍と同じ北側から登り始めました。この季節の房総半島らしく、ここでも道の周りににスイセンが咲いています。戦国時代の房総に思いを馳せていると、道の途中に意外な看板がありしました。八重の桜は時々観ていたくらいなので、どのシーンだったのか見当もつきません。房総の命運を賭けた古戦場も、現在はハイキングコースが整備されていて、割と楽に山頂にたどり着くことができました。山頂部には展望台があり、東京湾と対岸の横須賀を見渡すことができます。山頂部には平坦な土地が延々と広がり、砦というより本丸から三の丸が入ってしまうほどの広さがありました。三舟山に陣取った北条軍は1万人とも言われていますが、そんな大軍が駐留するには十分すぎるほどの広さです。北条軍の総大将、北条氏政が本陣を置いていた北側山麓とにかく山頂部は平坦で、城郭を築くにはむしろ不向きかも知れません。唯一の起伏、土塁のような盛土が目立ちすぎるほど、平らな土地が広がっていました。戦死者を弔う塚だとも言われています。そんな広大な山頂部の片隅には、過去の激戦を物語る碑がひっそりと建っていました。1567年の三船山の戦いは、北条氏政にとっては房総制圧のまたとない好機だったと思われます。北条氏照(氏政の弟)が別働隊を率いて、里見義堯(義弘の父)のいる久留里城へ進攻し、さらに北条綱成が水軍を率いて東京湾から進攻するという、まさに総力戦でした。一方、佐貫城の里見義弘軍は2,500人しかいませんが、籠城することなく果敢に討って出て、北条氏政のいる三船山近くまで進出してきました。里見義弘が佐貫城を出てくると、北条軍は三船山を降りて里見軍に攻めかかりました。しかしながら北条軍が攻め寄せると、里見軍は逃げるように退却して行きました。「国府台の敗戦で里見は怖気づいている」と見た北条軍は、逃げる里見軍をさらに追撃していきました。実はこれが里見義弘の作戦で、三船山の周囲にある「障子谷」という沼地に北条軍を誘い込むのが目的でした。障子谷付近霧が立ち込める中、北条軍は沼地に足をとられ、次々と里見軍に討たれていきました。里見義堯・義弘にしてみれば、国府台での北条軍の攻め方を逆手にとって、溜飲を下げたことかも知れません。さらに里見義弘は、正木憲時の別働隊を、北条軍の背後にある八幡山から攻め込ませました。背後も襲われた北条軍は、続々と沼地へとはまって討たれていきました。この「三船山の戦い」で北条軍は敗走、里見義弘は再び上総と下総を奪還しました。一方の北条氏康・氏政にとっては、唯一領土の縮小を伴う敗北であったと言われています。【楽天ブックスならいつでも送料無料】北条氏康 [ 菊池道人 ]価格:740円(税込、送料込)【楽天ブックスならいつでも送料無料】里見義堯 [ 小川由秋 ]価格:740円(税込、送料込)
2015/01/22
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意外にも江戸時代の東京湾には鯨が入ってきたようで、鋸南町の勝山地区は「関東唯一の捕鯨史跡の里」と呼ばれています。かつては鯨の通り道であった浮島付近(大黒山展望台より)いさなとる 安房の浜辺は魚偏に 京といふ字の 都なるらん江戸時代の1805年に太田蜀山人が詠んだ歌で、「いさな」は勇魚と書くのですが、クジラ(すなわち魚へんに京)の意味だそうです。江戸時代の勝山では「鯨組」の組織で捕鯨を行い、里見水軍の血を引く3組57船500人の大組織だったようです。鯨組の統率は代々「醍醐新兵衛」を名乗り、大黒山の中腹には初代醍醐新兵衛の墓所がありました。初代醍醐新兵衛は、日蓮上人や伊能忠敬と並んで、千葉県8聖人に数えられています。醍醐家の菩提寺である妙典寺醍醐新兵衛率いる勝山の捕鯨は、統制された組織で大掛かりに行われていたことがうかがえます。遥か洲崎(館山)に見張りを置き、クジラが東京湾に入って来ると、勝山までは烽火で知らせていました。戦国時代に安房勝山城のあった八幡山は山見方と呼ばれ、館山の烽火を発見すると山見方より烽火やホラ貝で鯨組の船団に合図を送ったと言います。八幡山(山見方)から見た勝山港八幡山の北側にある大黒山山頂には魚見台があり、ここから沖の船団に旗で合図を送っていました。かつての魚見台跡には、怪しげな建造物が建っていますが。戦国時代の房総半島南部では、沿岸警備のために里見義堯が強力な里見水軍を組織化しました。対岸の三浦半島に拠点を置く北条水軍を退け、浦賀水道の制海権を有するまでになった里見水軍ですが、残念ながら江戸時代初期に里見氏とともに歴史の幕を閉じました。それでも勝山の捕鯨史跡を訪ねてみると、その1世紀後になっても、里見水軍の歴史が受け継がれているような気がします。烽火での連携や、クジラを追う操船技術など、まさに安房の沿岸警備隊のスピリットでしょうか。大黒山山頂から見た東京湾潮流はもとより、海底の地形まで熟知していなければ、到底及ばない芸当だと思います。上がったクジラは、食用のみならず燃料や肥料などの余すところなく使われていたようで、可知山神社には鯨の供養碑である「鯨塚」が建てられていました。意外な東京湾の捕鯨史跡に出会い、何となく散策してみた安房勝山でしたが、今も漁師町らしい雰囲気が随所に見られます。いさな通りこういう街並みにノスタルジーを感じるのですが、ふと子供の頃に少し住んでいた瀬戸内海を思い出しました。かつての瀬戸内海には村上水軍、浦賀水道には里見水軍と、何となくかぶる部分があります。そうなるとサカナを食べたくなるのですが、勝山漁港には漁協直営の食堂「なぶら」があります。(釣りをする人間にとっては、ネーミングに魅かれてしまうのですが)勝山漁港では朝・夕と2回のセリが行われるそうで、今回は朝獲れの方にしてみました。どうもこの日はあまり上がらなかったようで。その日によって変わるメニューもあるのですが、時には鯨料理も出るようです。
2015/01/21
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江戸時代の鋸南町には、安房勝山藩1万2千石が置かれていました。戦国時代に安房勝山城があった八幡山の、そのすぐ北側山麓に江戸時代の陣屋が置かれていたようです。安房勝山城から見た「旧陣屋エリア」(きょなんおさんぽマップより)その旧陣屋エリアに降りてみたのですが、江戸時代の藩庁の面影はなく、何となく歩いている感じでした。ちょうど道端で老婦人がひなたぼっこをしていたので、「江戸時代のこの辺りに陣屋があったそうなのですが…」と声を掛けてみました。聞けば、まさにこの「勝山港通り商店街」が陣屋前の大通りだったそうです。そして、現在の美容室のある一角が旧陣屋だったとのことでした。さらに江戸時代、陣屋前の通りは葬儀の列が通ることを許されておらず、浜の方で葬式がある時は、「仲町」を迂回していたそうです。そのため、仲町は「弔い町」と呼ばれていたとのこと。やはり郷土史については、地元のお年寄りに勝るものはないと思います。強いて難を言うならば、耳が遠いことと、同じ話が何度も出てくることでしょうか。仲町のお葬式のくだりが3回目に出て来た時、丁重にお礼を述べて立ち去ることにしました。かつての勝山陣屋の辺りは住宅地に変わっていますが、陣屋のあった裏手には恵比寿山と呼ばれる小高い山があり、古峯神社が祀られていました。北の大黒山に対し、南は恵比寿山と呼ばれているようです。恵比寿山は自然の山だと思いますが、山頂付近には洞穴のようなものも見えていました。江戸時代の陣屋付近だと、物見台や有事の詰め丸にもなりそうです。旧陣屋時代から続くと思われる井戸【楽天ブックスならいつでも送料無料】大名の日本地図 [ 中嶋繁雄 ]
2015/01/20
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大黒山展望台から見ると、安房勝山城のあった八幡山は、戦国城郭に最適な立地にあるように思います。この稜線を見ると、ここに築城したくなるのも納得です。勝山の北側には佐久間川が流れ、天然の水堀の役目をすると共に、背後は岩場の海岸線となっています。佐久間川(河口付近)大黒山展望台を後にすると、今度は八幡山を目指して海岸沿いを行くことにしました。かつては里見水軍の拠点であった現在の勝浦漁港対岸の北条水軍の来襲に備え、里見義堯は南房総沿岸の防衛強化を行うと共に、水軍力の強化に努めました。かつての勝山港も、そんな里見水軍の基地の1つだったと思われます実は7年ほど前にも八幡山を目指したことがあるのですが、その時は崩落の危険ありとのことで、立ち入り禁止となっていました。安房勝山城の遠景道順を尋ねがてら地元の人に聞いてみると、現在は登れるとのことです。遊歩道と書かれた標識に従って行くと、両側にいきなり切岸が現れました。岩盤の斜面を切岸状に削るのは、房総の戦国城郭に特有の築城術ですが、戦国城郭の遺構かどうかまではわかりませんでした。(江戸時代の勝山藩の時のものかも知れません)さらに斜面を登って行くと、今度はもっと巨大な切岸が現れました。人工的に掘削されたようにも見えますが、もしもこれが城郭の遺構ならば、相当強力な防護設備となります。この大切岸から目を転じると、樹木で覆われた向こう側に腰曲輪のような削平地が見えていました。画像にすると何が何だかわかりませんが、肉眼では確かに人工の削平地があります。それにしても、この季節は落葉で城郭の遺構がはっきりとわかるはずなのですが、常葉樹に覆われた南房総についてはそのセオリーが当てはまりません。大切岸の上部は広い削平地となっており、ここは曲輪の跡だと思われます。咲き揃ったスイセンの花に、ここでも南房総の冬を感じました。この曲輪からは西側の眺望が開けていて、浦賀水道の対岸にある三浦半島がよく見渡せます。浦賀水道の交通量がいつになく少ないように感じたのですが、ちょうどNYK(日本郵船)のコンテナ船が中の瀬航路を北上していました。遠目にコンテナを見る限りでは、40フィートコンテナだと思うのですが、積荷も少ないように見えます。北アメリカ西海岸の港湾ストの影響は、まだまだ続くのでしょうか。曲輪から眼下に目を向けると、勝山港に出入りする船舶の様子がはっきりと見えました。対岸は三浦半島、かつての不審船であった北条水軍のスパイ船についても、その動きが逐一見えたことでしょう。曲輪の先には鳥居があって、さらに道が続いていました。先に続く道を登っていると、途中にタヌキのような小動物が現れ、こちらを警戒して振り返りながら、藪の中へ消えて行きました。茶色い動物だったのですが、顔は白くて目の周りが黒く、さらに太い尻尾に縞模様があったのを覚えています。ほんの少しの時間のことで、さらには呆然としていたので撮影はできませんでしたが、「ラスカル??」不思議に思って後で調べてみたのですが、私が見たのはまさにこれでした。なぜ南房総の勝山にアライグマがいるのか、全く意味不明です。その先には物見台のような削平地があって、小さな社殿があったのですが、もはや城跡探訪どころではありませんでした。安房勝山城は、この辺りの豪族で曲亭馬琴の南総里見八犬伝にも登場する安西氏の築城だとされています。源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れて来た時、安西氏が砦を築いたのが始まりとされていますから、平安時代から何らかの城跡があったことになります。安西氏は「安房の西」に由来し、対岸の三浦氏とは友好関係にあったようです。戦国時代になると里見氏の支配下となり、勝山城は対岸の北条氏に対する重要拠点として機能していました。(まさかのアライグマの出現に、城の歴史も吹っ飛んでいます)
2015/01/19
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館山方面からJR内房線または国道127号線を北上していると、安房勝山あたりの左手に怪しげな建物が見えてきます。ピラミダルな頂上部に入母屋の屋根が見え、夜間はご丁寧にライトアップまでされています。この山は大黒山と呼ばれ、標高75mの頂上までは遊歩道が整備されています。南房総は水仙の季節となり、遊歩道沿いに水仙がなびいていました。見た目にも急な斜面を巻くようにして登って行くと、山頂部の作平地に到着しました。「天守」と呼ばないのが良心的ですが、あくまでも「大黒山展望台」です。(万木城にも同じものがあったのですが、あちらも「展望台」だったと思います)それでも安房勝山は城郭と無関係ではなく、戦国時代には里見氏配下の城郭があり、江戸時代には安房勝山藩の陣屋が置かれていました。大黒山から見下ろすと、勝山漁港の向こうに、安房勝山城のあった八幡山を望むことができました。かつて安房勝山城のあった八幡山と勝山漁港すぐ北側を川が流れ、背後は海に面しているため、こちらの方が築城に適しているように思います。さらには天然の良港にも恵まれ、水軍基地としても申し分なさそうです。大黒山も物見台や烽火台として機能していたと思われますが、東京湾の方に目を転じると、三浦半島を間近に見ることができました。里見水軍にしてみれば、浦賀水道を挟んだ対岸の宿敵、北条水軍の動きがよく見えたと思います。三浦半島南部に目を向けると、富士山の雄大な姿を望むことができました。画像にすると迫力はありませんが、肉眼では山頂部剣ヶ峰のギザギザまではっきり見えます。さらには富士山の右側には、雪を戴く南アルプス、農鳥岳・間ノ岳・北岳の白根三山を見ることができました。南房総の標高75mから、高さで日本1、2、4位の山が同時に見えるとは、思ってもいないラッキーです。(一昨年の仙丈ケ岳では、ガスに覆われて北岳が見えなかったので)この日は天気も良く、また周囲に高い山がないため、まさに大パノラマといった感じでした。伊豆半島天城山と伊豆大島観音崎と横須賀の方向房総半島の内陸部に目を転じると、双耳峰を持つ富山の山容があり、伊予ヶ岳の山頂も顔をのぞかせていました。天守型の展望台には閉口しますが、海から近いために標高の割に眺望は抜群で、実は穴場的なスポットかも知れません。
2015/01/18
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梨の直売所が建ち並ぶ松戸市の国道464号線、東京方面に向かってしばらく行った先に「二十世紀ヶ丘」があります。住宅地に囲まれた公園の一角に、梨の木をかたどったモニュメントがひっそりと建っていました。二十世紀梨と言えば鳥取が有名ですが、その誕生地は松戸にありました。二十世紀梨の誕生は1888年のことで、松戸覚之助がゴミ捨て場にあった苗木を育てたのが始まりです。松戸覚之助から苗木を分けてもらった渡瀬寅次郎が、この梨を「二十世紀」と命名しました。まさに新世紀に入った1904年のことです。松戸覚之助の原樹は天然記念物に指定されていましたが、太平洋戦争の空襲で枯れてしまい、現在はその碑を残すだけとなっています。
2014/06/06
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旧船橋宿の宿場町の先、小高い丘陵の上にあるのが船橋大神宮です。大神宮の名前からして、ずっと長い参道を想像していたのですが、意外なことに階段を上がるとすぐに社殿がありました。拝殿ではなく神輿庫のようで、中に神輿が保管されていました。実は参道は街道筋と反対側にあり、京成本線の「大神宮下」駅のある南側が正面になるようでした。船橋大神宮のように古代からある神社の参道は「『気』が強い」とは言います。船橋大神宮の正式名称は「意富比(おおい)神社」で、その名前の由来には諸説があります。中でも最有力とされる説が古代の太陽神説で、「意富比」=「大日」とする説だそうです。平安中期の「日本三代実録」では、貞観5年(863)年の記事ですでに「下総国意富比神」の記載があり、また「延喜式」にも「意富比神社」の名前が登場することから、古くからの由緒を持つ神社だとわかります。拝殿中世以降は「船橋神明」と呼ぶのが一般的だったようで、「神明社」の名前からも伊勢神宮から分祀されたことがうかがえます。平安末期の船橋には伊勢神宮の荘園である「夏見御厨」があったことと、天照大神が同じ太陽神の最高位にあることに関係があるようです。中世以降、船橋大神宮の修造には平将門、源頼義・義家の父子や源義朝などと、キラ星のような名前が続いています。小田原の役の後で関東に入封した徳川家康も、社領を寄進して本殿や末社を造営していました。現在も行われる素人相撲「船橋のけんか相撲」は、船橋大神宮での徳川家康の相撲観戦が起源となっています。奉納相撲の土俵船橋中央図書館にあるステンレス画旧佐倉街道沿いにある船橋中央図書館、立ち寄った理由は他でもなく、船橋西図書館の収蔵品が中央図書館に移されたと聞いたからでした。お目当ては「北條九代記鴻之台合戦」だったのですが、学芸員の人に聞いても要領を得ず、挙句には郷土資料の書棚を案内される始末だったので、あきらめて出てきた経緯があります。「江戸名所図会」に描かれた船橋大神宮の境内も貴重な絵図で、幕末の「市川・船橋戦争」では、船橋大神宮を本営とする旧幕府軍に対し、新政府軍が砲撃を加えたため、社殿は焼失してしまいました。船橋大神宮の境内には、夜間に船橋の沿岸を航行する船舶のため、常夜の鐘が置かれていたようです。その常夜の鐘も戊辰戦争で焼失していまい、明治に入った1880年に「灯明台」が建てられました。灯明台工事中で近寄れませんでした。解説板にあった灯明台の写真船橋大神宮から現在の海岸線「ららぽーとTOKYO-BAY」までは1km足らず、当時の海岸線があったと思われる船橋市湊町までは約500mほどです。この小さな灯明台も、船橋沖を行く船舶にとっては大きなランドマークだったことでしょう。
2014/06/05
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これまで何度も門前を通っていながら、なぜかスルーして来たのが中山の法華経寺です。国道14号線(旧佐倉街道)沿いにある総門総門は黒塗りのため「黒門」と呼ばれています。創建年代はわからないそうですが、高麗門形式であるところをみると、室町時代末期か江戸時代でしょうか。(あくまで城郭建築での話ですが)門の扁額には寛永5年(1793年)の刻銘があるようで、掛川城主太田資順の筆によるものだそうです。(諱からすると太田道灌の末裔なのでしょうが、太田資順は初めて聞いた名前ですし、なぜ掛川から中山に来たのかもよくわかりません)葛飾八幡宮と同じく参道の途中を京成本線が通っており、踏切を渡った先に山門がありました。山門をくぐるといよいよ法華経寺の境内に入るのですが、国道沿いの総門のずっと先にこんな大伽藍があるとは、これまで全く知りませんでした。なによりも本堂である祖師堂が味わい深くて、なんだかすごく素敵だと思います。大祖師堂(国指定重要文化財)創建は鎌倉時代の1325年で、当時は小さな五間堂だったようです。その後は何度か再建され、現在の大祖師堂は江戸時代中期の1678年に建てられたものです。この独特の比翼入母屋造の屋根を持つのは、中山法華経寺大祖師堂と、「吉備津造」の元祖である吉備津神社本殿(国宝)だけだそうです。中山法華経寺の境内には五重塔があり、こちらも国の重要文化財に指定されています。江戸時代の1622年に建てられたもので、本阿弥光室が両親の菩提を弔うため、加賀藩主前田利光の援助で建立したそうです。ところで中山法華経寺に限らず、全国各地の国宝や重文の建築物の横には、あの茶色の立て札があります。「文化財愛護 国宝(または重要文化財) ○○○○ 火気厳禁」そしてその下に「HITACHI」全国共通の看板ということもあり、この茶色の立て札を見ると「国宝や重文があるのか」と、目印になっていいと思いますし、見慣れた看板だけになんだか荘厳な感じがします。中山法華経寺は日蓮宗の大本山で、元々は千葉氏の被官であった富木常忍や太田乗明の館にあった持仏堂が始まりです。初代貫首「日常」となる富木常忍は、日蓮を自宅に保護して執筆を助け、その日蓮の直筆による「立正安国論」・「観心本尊抄」(いずれも国宝)が法華経寺の聖教殿に保蔵されています。千葉氏の事務方であった富木常忍は、千葉氏の行政事務書類を日蓮に提供し、その裏紙に日蓮が執筆したことから、はからずも当時の社会の様子を知る歴史文献ともなっています。
2014/06/03
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佐倉街道八幡宿など、八幡の地名の由来となったのが葛飾八幡宮です。JR総武線の本八幡駅からすぐ先の旧佐倉街道(現在の国道14号線)沿いに参道の入り口があります。参道の途中に京成本線が通っており、踏切を渡った先に二の鳥居があり、並木に囲まれた参道がまっすぐ続いていました。随神門本殿本殿の東側(右側)の「千本公孫樹」は、国指定の天然記念物です。神楽殿にある大絵馬幕末のものですが、神功皇后の三韓出兵を描いたもので、中央に武内宿禰がいます。江戸時代の寛永5年(1793年)には境内から梵鐘が発掘され、元享元年(1321年)の銘文には、葛飾八幡宮の由緒が書かれていたそうです。葛飾八幡宮は寛平年間(889年~898年)に、宇多天皇の勅願によって勧請され、武神として崇敬されてきました。安房に逃れた源頼朝も、下総国府に入った後は葛飾八幡宮に参詣し、源氏の武運を祈願したそうです。境内にある「源頼朝駒どめ石」源頼朝が馬の前脚をこの石にかけ、ひづめの跡を残したと言われています。また、源頼朝が鎌倉で武家政権を樹立した後、千葉常胤に命じて社殿を修復したそうです。そしてわれらが太田道灌も、1479年に千葉孝胤の臼井城を攻めた時、国府台城を築城した時に葛飾八幡宮を参詣しています。江戸時代に入ると徳川家康によって朱印状が与えられ、まさに関東の武家に崇拝されてきたのが、葛飾の八幡宮です。
2014/06/02
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数ある武家の家紋の中でも、星をモチーフにしたものは意外と少なく、毛利氏の家紋である「一文字に三ツ星」(オリオン座の三連星)や、千葉氏の家紋である「月星紋」(月と北極星)が代表的でしょうか。上総の名門千葉氏は妙見菩薩を守護神としており、千葉妙見宮(千葉神社)の本尊として、厚く信仰されていました。妙見菩薩は天の中央に位置する北極星と北斗七星(北辰)の御神霊として、全ての星を司るとされています。(そう言えば、神田お玉が池の千葉周作も「北辰一刀流」の開祖でした)神社では珍しく、門と社殿が一体となった「尊星殿」が正面にあり、内部は「福徳殿」・「日天楼」・「月天楼」・「開運殿」の四つに分かれています。尊星殿元々の千葉妙見宮の山門は昭和20年の空襲で焼失してしまい、現在の門は平成10年に再建されたものです。社殿社殿内部には中央の奥に大きな鏡が置いてあったのですが、社殿内部は撮影禁止とのことでした。内部は撮影禁止なので、賽銭箱を撮影してみました。千葉氏の家紋である「月星紋」が描かれています。星をモチーフにした紋は、やはり輝かしいものです社殿の西側には旧社殿があり、「千葉天神社」となっていました。天神社の「知恵の輪」天神社の名前にある通りこちらは菅原道真を祭神とし、月星紋の「月(ツキ)を呼び、(勝ち)星を拾う」ことから、合格祈願に訪れる人が多いようです。関連の記事亥鼻城(千葉城)→こちら
2014/04/15
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松戸宿から小金宿にかけての水戸街道では、江戸川の左岸に広がる北総台地の丘陵部を登って行きました。標高としては30mほどでしょうが、これまでの平野部から一転して丘陵部に入るため、当時は下総から武蔵方面を一望できたのではないかと思います。戦国時代の下総は里見氏VS北条氏の勢力争いの最前線でもあり、北総台地にも数々の城郭が築かれていたようです。現在となっては城跡の位置を特定するのも困難ですが、それでも高城氏の本拠地であった小金城など、戦国城郭の遺構がよく残っている城跡もあったりします。高城氏が小金城を築城して本拠地とするまでの間、根木内城が高城氏の本拠地となっており、現在は根木内歴史公園となって城跡が残っていました。根木内城遠景旧水戸街道が城の脇を通っており、街道を抑える要衝にあります。街道トラベラーから本職(?)の城跡ハンターに変わり、街道から外れて根木内城跡に立ち寄ってみました。公園の入り口が大手虎口だったようで、空堀に架かる土橋が残っていました。土橋土橋から両脇を見てみると空堀ははっきりと残っており、相当な深さがあるようでした。土橋の先は芝生の公園広場が広がっており、おそらく曲輪の跡だと思われます。公園広場の周囲には土塁の跡が残っているものの、他にはこれといった遺構は見当たりませんでした。土塁跡曲輪の広さを見ても、戦国城郭にしては相当な規模だったと思われます。根木内城は方形の曲輪が並ぶ縄張りだったようで、このあたりにも北条流の築城術の影響を受けているような気がしました。根木内城の城跡は国道6号線によって見事に分断されており、グーグルアースで見ると、まるではんぺんみたいなことになっていました。国道6号線道路の向こう側にも、城郭が広がっていたことだと思います。根木内城の築城時期については諸説ありますが、1537年に高城胤吉が小金城を築城するまで、高城氏の本拠地が置かれていました。高城氏については、名前に「胤」の諱があることから、名門千葉氏の一族だとも言われていますが、その千葉氏宗家を乗っ取った原氏の家臣だったようです。国府台合戦の以前から小田原北条氏の結びつきが強かったようで、根木内城にも北条流の築城術が現れているようにも思います。
2014/03/18
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江戸時代に滝沢馬琴によって書かれた長編小説「南総里見八犬伝」には、実在の人物や場所も登場します。その1つが里見氏初代の里見義実であり、悪政を行う滝田城主山下定包を討って、その後に滝田城を居城としています。滝田城遠景旧平久里街道から近く、集落の地名にも「大手」の名前が見られることから、こちら側が大手だと思われます。大手口の虎口跡でしょうか。わずかに横矢が掛かっていて、里見氏の築城に特有の切岸の跡がうかがえます。登城口脇にある駐車場も、かつての曲輪の跡かも知れません。城郭は山稜の尾根伝いにあったようで、登城口からは急な登りが続いていました。尾根上に曲輪を配したシンプルな縄張りで、前期里見氏の築城だと思われます。尾根伝いには堀切と思われる跡はあるものの、遺構そのものは判然としませんでした。尾根伝いの登城道両端は切り立っていて、前期里見氏の白浜城にも似ている気がします。尾根線上のピークを削平して曲輪が造られ、曲輪の直下は堀切で区切られているようでした。堀切跡?1つのピークを駆け上がったところには、曲輪の跡と思われる広い削平地がありました。曲輪には展望台がありますが、虎口近くにあるのがこちらです。伏姫と八房の像像の下には、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の8つの玉も散りばめられていました。曲輪にある展望台に登って平久里街道をたどってみると、その八房の生誕地である「犬掛」を望むことができました。ここから周囲を眺めていると、南総里見八犬伝がフィクションではなく史実のようにも思えてきます。犬掛にある八房像(2009年10月)史実では里見義堯が里見氏の内紛「天文の内訌」で勝利したのも「犬掛の戦い」であり、ここから眺めていると南総の歴史が甦ってくるような気がしました。展望台のある曲輪を降り、さらに尾根をたどっていくと再び堀切があって、その先に本丸がありました。滝田城址の横には「南総里見八犬伝発祥之地」とあります。滝田城の北西約4kmのところに富山(とみさん)があり、八犬伝とのゆかりで言うと富山の方が深いようにも思いますが、館山から南房総の安房一帯が八犬伝のふるさとでもあることでしょう。富山の伏姫籠穴(2008年11月)富山北峰と南峰の間にある「里見八犬士終焉の地」の碑八犬士のモデルとなった里見八遺臣の墓所(館山城、2009年11月)滝田城の築城年代は明らかではありませんが、前期里見氏の拠点であったことは間違いないようで、史実の安房誌では里見氏4代の里見義豊の妹婿である一色九郎を城代としていた記録があります。里見義堯が1534年の犬掛の戦いで里見義豊に勝利して第5代当主になると、久留里城に本拠地を移すまでの間、滝田城を本拠地としていたようです。
2013/02/13
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タヌキばやしの証誠寺は実在するお寺で、意外にも木更津市の中心部にあります。ここが有名な「証誠寺の庭」です。証誠寺には「狸ばやし」の言い伝えがあり、その伝説を元にしたのが「証誠寺の狸ばやし」の童謡です。証誠寺の一帯は鈴ヶ森と呼ばれ、木々が生い茂って昼でも暗い場所だったそうです。ある夜中に証誠寺の境内が騒がしいので、和尚さんが目を覚まして外を見てみると、月が出ていて昼間のように明るく、よく見ると狸たちが腹を打ちながら踊っていたそうです。和尚さんも面白くなって狸たちと一緒になって踊りだし、その踊りは毎晩続いたとのこと。ところがある夜だけは狸たちが全く姿を見せないため、和尚さんが不思議に思っていると、翌朝リーダーの大狸が腹を破って死んでいたそうです。タヌキを不憫に思った和尚さんは、そのタヌキを懇ろに弔ったとのことでした。証誠寺の狸塚明るくコミカルな童謡とは裏腹に、狸ばやし伝説の方はなんとも悲しい結末でした。
2013/01/31
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上総国には請西藩という1万石の小さな藩がありましたが、この請西藩主であった林忠崇は昭和16年1月に94歳で病没、この人が昭和まで存命した最後の大名でありました。林忠崇が請西藩の藩主となったのは、幕末の1867年、弱冠20歳の時でありました。折りしも新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが勃発し、請西藩も政府軍と幕府軍のいずれに加担するかの決断を迫られました。林家は旗本から大名へ抜擢された徳川恩顧の大名であるため、林忠崇は幕府方に付くことを決意しました。そして居城であった真武根(まぶね)陣屋を焼き払い、家臣とともに領地を去って行きました。当時藩士が身分を捨てて藩を脱走する脱藩行為はよく見受けられましたが、大名が脱藩したのは後にも先にも林忠崇だけではないでしょうか。それでも、陣屋を焼いて領地を去ったのは、領民に迷惑をかけないためだったそうです。その後林忠崇は東北各地を転戦し、1868年に明治政府に降伏しています。また脱藩の罪により、明治政府によって請西藩一万石の領地を没収されてしまいました。ちなみに明治新政府により領地を没収されたのは、請西藩が最初で最後だそうです。その請西藩の真武根陣屋の跡が千葉県木更津市にあります。人里離れた木更津中央霊園の入口近くに、ひっそりと陣屋跡の碑が立っていました。陣屋の跡地
2013/01/30
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太平洋を臨む外房の勝浦の、さらに海に突き出した八幡岬に勝浦城があります。周りは断崖となっていますが、波の洗う海面近くに目を向けると、房総の城郭特有の切岸や船着場のような跡が見られました。(戦国期のものかどうかはわかりませんが、自然に出来たものではないように思われます)現在は八幡岬全体が八幡岬公園となっており、かつての曲輪跡と思われる場所も公園広場になっていました。本丸跡?本丸の周囲は断崖となっており、風もなく穏やかな天気なのに、はるか足元では太平洋の荒波が打ち寄せていました。目の前には太平洋が広がるだけの勝浦城、そもそも「ここに城郭を築く意味はあるのだろうか?」と思いがちです。(海の向こうからやって来る敵と言えばアメリカのペリー艦隊くらいのものですが、それも300年後の話です)それでも里見氏にとって勝浦城は重要拠点として位置づけられており、佐貫城・久留里城・大多喜城・そして勝浦城と、房総半島を横断する防衛ラインで北条氏の侵攻に備えていました。里見義堯は自ら久留里城を本拠地とし、内房の佐貫城には嫡男里見義弘、大多喜城には重臣中の重臣である正木時茂、そして勝浦城にはこちらも里見氏の重臣である正木時忠(正木時茂の弟)を配していたことから、房総の生命線であったことがうかがわれます。その対北条氏の防衛ラインの中で、勝浦城は北条氏の小田原城から最も遠い場所にあり、しかも房総半島の東側にあるのですが、里見義堯はここを北条水軍の上陸地点の1つと読んでいたと思われます。対岸の三浦半島に最も近い内房の造海城や金谷城もさることながら、外房の勝浦城を重視した理由は、黒潮の潮流にあるのではないでしょうか。ところで黒潮について言えば、千葉の「安房」の地名も徳島の「阿波」に由来するとも言われ、房総半島には勝浦は白浜など、紀伊半島と同じ地名も見られることから、黒潮と房総半島は大いに関連があると思っています。そもそも里見氏初代の里見義実が流れ着いたのも南房の白浜であり、石橋山で敗れた源頼朝が流れ着いたのも洲崎でした。黒潮が運んだものは他にもあると思っていて、あくまでも個人的な推測ですが、まずは醤油と、そして鈴木さんだと思っています。醤油については銚子のヒゲタ醤油や野田のキッコーマンなど、千葉県の房総半島北部が有名ですが、元々は紀伊半島和歌山の湯浅が発祥です。ちなみに現在の大豆を発酵させて造る醤油の歴史は浅く、室町時代後期のちょうど戦国時代の頃に湯浅の「径山寺味噌」の溜まりが広がったものとされています。醤油の名産地としては銚子・野田の他に小豆島や竜野(兵庫)が代表的ですが、小豆島や竜野が同じ瀬戸内海にあって湯浅から距離も近いのに対し、銚子や野田については黒潮に乗る以外に考えられないところです。黒潮に乗ってきたもう1つが「鈴木さん」だと思っていて、全国に2番目に多い名字ながら、三重県以東の太平洋側に集中しています。鈴木さんの発祥は紀伊半島の熊野神社に由来していると聞いたことがありますが、その鈴木さんが黒潮に乗って移って来たとすれば、三重県以東の太平洋側に多い理由も納得するように思います。(あくまでも個人的な推測です)話は戻って勝浦城ですが、元々は真里谷武田氏時代の大多喜城の支城として築城されましたが、里見氏の上総進出によって勝浦城も里見氏の支配下となりました。1541年頃に正木時忠が入城し、大多喜城の兄の正木時茂と共に、房総防衛の一翼をになっていました。房総の重要拠点であった勝浦城でしたが、第二次国府台合戦で里見義弘が北条氏康に敗れると、正木時忠が北条氏に寝返える結果となり、勝浦城も北条氏の支配下となりました。里見義堯と里見義弘にとって、この正木時忠の寝返りは相当な打撃であったと思われます。1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時は、徳川軍の本多忠勝(後に上総大多喜初代藩主)によって攻囲され、勝浦城も落城しました。周りを海で囲まれた勝浦城にあって、逃げる先は断崖の先にある太平洋しかないのですが、その太平洋へ逃れたのが、時の城主正木頼忠の娘の於萬の方でした。海へ逃げるにしても周りは断崖で囲まれているため、於満の方は白布を結んで断崖に垂らし、海の小船で逃れたと言われています。その後の於萬の方ですが、伊豆に逃れた後で徳川家康の目に止まり、側室となって徳川頼宣(初代紀伊藩主)と徳川頼房(初代水戸藩主)の母となっています。徳川御三家のうち二人の藩祖が同じ於萬の方を母としており、そのルーツは勝浦城にありました。あの黄門様の徳川光圀も暴れん坊将軍の徳川吉宗も、そのルーツの一端にあったのが勝浦城です。
2012/10/27
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有力豪族が割拠しながらも、同時に里見氏VS北条氏の覇権争いの最前線でもあった戦国時代の上総国(房総半島北中部)、千葉県いすみ市の万木城もそんな上総の中にありました。万木城遠景現在は万木城城跡公園となっていますが、公園に続く道は細くて薄暗い上に人気がなく、とても怪しい雰囲気がありました。ようやく曲輪の跡と思われる開けた場所に出ると、さらに怪しいことになっていました。木々の間に「よくないもの」が見えています。ずっと以前に「ブッシュマン」という映画があり、ヘリコプターからたまたま投げ捨てられたコーラのビンを見たブッシュマン(ニカウさん)が、これを「よくないもの」と言っていたことを思い出しましたので、ここでもニカウさんの言葉を借りて、「よくないもの」と呼ばせてもらいます。全面舗装された本丸広場に来てみると、先ほどの「よくないもの」の様子がようやくわかってきました。「よくないもの」であることに変わりはないのですが、これを模擬天守と呼んでいいのかどうかも悩ましいので、以下「望楼型展望台」と呼ぶことにします。その望楼型展望台の手前、本丸の真ん中にある方形の盛土が気になるのですが、櫓台の跡か何かでしょうか。それにしても戦国城郭にしてはやたらと本丸が広い印象があり、さらには曲輪の周囲に空堀や堀切の跡も見受けられませんでした。「変わった縄張りだな~」と思いつつも、「防御がいささか手薄ではござるまいか」と、余計な心配までしてしまうほどです。望楼型展望台も本丸から一段高くなった場所にあったのですが、その反対側にも一段高くなった切岸状の台地がありました。空堀があるでもなく、いきなり土塁なので奇特な感じがします。興味本位に切岸を登ってみると、まぎれもなく曲輪の跡のようでした。後からわかったことですが、この辺りは粘土質で覆われているため、空堀や堀切を造るのは困難とのことで、この変わった縄張りにも納得しました。それならば「そもそも、なぜここに城郭を造ったの?」と不思議に思うところですが、望楼型展望台に登ってみると、何となくそれもわかるような気がしました。夷隅川が大きく湾曲しながら城郭の周囲を巡っており、さらには所々で蛇行しているので、天然の要害となっていました。土壌の不利はあるにせよ、地形としては最適の場所かも知れません。万木城からは久留里城もすぐ近くに見えるので、これには里見義堯も焦ったことだと思います。(その経緯については後ほど)ついでに望楼型展望台の上からさらに眺めてみると、さすがに万木城の城郭の様子がよくわかりました。本丸櫓台だと思っていた盛土ですが、よく見てみると実は相撲の土俵でした。土俵を見て櫓台だと勘違いする私も悪いのでしょうが、紛らわしいのでせめて城の本丸で相撲をとるのは勘弁してもらいたいところです。搦め手方向こちらに登城道がついており、すべり台やブランコがある児童公園も曲輪の跡だと思われます。大手方向駐車場も曲輪の跡だと思われますが、その先にも曲輪が連なっていたようです。万木城を本拠地としていたのは土岐氏(上総土岐氏)で、美濃の名門土岐氏の一族です。(ちなみに明智光秀や遠山の金さんも土岐氏の流れです)土岐氏本家が斉藤道三によって奪われた時、その時の土岐氏の当主であった土岐頼芸は、一族である上総の土岐為頼の万木城に身を寄せていたこともありました。さらには里見義堯の正室が土岐為頼の娘だったことからも、房総では一目置かれる存在だったと推察されます。その土岐為頼ですが、表では里見氏に従いながら、裏では北条氏とも手を結ぶという、戦国の上総ならではの二面外交を展開していたようです。それでも第二次国府台合戦で里見義弘が北条氏康に敗北すると、ついに土岐為頼も里見氏から離反して北条氏に従うようになり、今度は土岐氏と敵対することになった里見氏との間で激しい攻防戦が繰り広げられる結果となりました。(里見義堯にしてみれば、目と鼻の先の同盟が寝返ったことになります)里見氏の猛攻にも落城しなかった万木城でしたが、1590年の小田原の役においては、討伐軍として上総にやってきた本多忠勝の前についに落城しています。(相手が本多忠勝なので、善戦したというより他に言葉がありません)
2012/10/26
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菱川師宣記念館のすぐ南、内房海岸沿いに妙本寺があります。特に目立つ看板が出ている訳でもなく、うっかりすると見落としそうな感じでした。妙本寺の前に着くと、「大本山 妙本寺」と書かれた立派な門があり、さらに上に階段が続いています。階段を上がって見ると、右手に客殿と奥に本堂と思われる建物があるだけで、意外とひっそりとした佇まいでした。客殿 妙本寺は室町時代の初期に日郷によって開山された古刹で、足利尊氏によって寺領を安堵された記録もあります。戦国時代になると里見氏との結びつきが強くなり、第14世住職であった日我上人は、里見氏第5代当主里見義堯の盟友でもあり、政治的なブレーンでもあったようです。対岸の三浦半島から来襲する北条水軍の攻撃にさらされながらも、妙本寺は常に里見義堯と共にありました。里見水軍にとっても妙本寺が房総防衛の拠点ともなり、その戦火によって伽藍が焼失してしまうほどの激しい攻防戦だったようです。里見義堯と日我の親交と信頼関係を示すエピソードがあります。里見義堯の永年の宿敵であった北条氏康が和睦を申し入れして来た時、北条氏康がその交渉相手に選んだのが日我でした。北条氏康は何度も日我を通じて里見義堯に和睦を持ちかけますが、里見義堯は「いくら日我上人の説得であっても、これだけは応諾できない」と応え、日我は「自分が説得しても無理なので、和睦は不可能」と北条氏康に伝えたと言います。里見義堯が妙本寺を訪れて、妙本寺住職である日我上人と初めて会ったのは1535年、里見義堯29才、日我28才の時です。小説などでは、里見義堯が日我の妙本寺に立ち寄ったのは偶然のことであり、日我電撃的な出会いだとされています。安房は日蓮上人の生誕地であり、妙本寺も同じく法華経の寺院でした。一方の里見義堯は曹洞宗と宗派は違うのですが、初対面での問答を通じて、里見義堯・日我の両人は意気投合し、以後40年間に渡って2人は親交を深めたとされています。里見義堯が68才で生涯を閉じた時、宗派は違えども、日我は妙本寺において100日間の法要で経を唱え続け、里見義堯を弔ったそうです。そして日我が里見義堯を偲んで詠んだ歌があります。隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん里見義堯と日我上人が見続けた同じ光とは、房総半島の平和と安泰だったのかも知れません。妙本寺から見た浦賀水道三浦半島は目と鼻の先です。【中古】afb 里見義尭 北条の野望を打ち砕いた房総の勇 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将 PHP文庫/小川由秋(著者)
2012/10/08
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内房は鋸山の山麓、東京湾に突き出た丘陵の上に金谷城があります。東京湾フェリー浜金谷港から見た金谷城の遠景里見氏の歴史には必ず登場するお城ですが、現在はスポーツセンターの敷地となり、宿泊施設などが建ち並んでいます。金谷城スポーツセンターの「虎口」金谷城の名前が残っているだけでも救われます。それにしても金谷城の名前が残っているということは、建設にあたってここが城跡だったことは認識されていたことかと思います。元から削平された曲輪があったとしたら、山の斜面を造成する必要もないので、おあつらえ向きだったことでしょう。三ノ丸跡(推定)はテニスコートになっていました。改めて東京湾を眺めてみると、対岸の横須賀が目の前に見える感じです。金谷城から対岸の三浦半島までは直線で約7kmしかなく、北条軍は海からもやって来る油断ならない敵であると同時に、里見水軍にとっては金谷城が重要な防衛拠点でもあったことでしょう。全く消えたと思われた金谷城の遺構ですが、宿泊施設の裏手にわずかに遺構が残っていました。二ノ丸虎口の四脚門の礎石跡金谷城の遺構がこれだけとは、悲しい限りです。二ノ丸虎口の位置から推測する二ノ丸の曲輪は宿泊施設の敷地とパターゴルフ場になっていました。然るに本丸があったと思われる位置を推定してみると、斜面を登る階段はあるものの、厳重に施錠されていました。ここで従業員の人に呼び止められ、「おはようございます。何か御用でしょうか」と。御用もなにもないのですが、「金谷城の跡を見たいと思いまして・・・」と応えると、「そうでしたか」とのこと。施錠された先にある本丸跡に入れないものかと思い、「あちらが金谷城の本丸でしょうか?・・・」と尋ねると、「ええ、でも何もないですよ」と、にべもなく返って来ました。金谷城跡を目当てに訪れるのは私だけではないことはわかったのですが、従業員の人にしてみれば「とんだところに施設を造ってしまった」といったところでしょうが、私も全く同感です。元々あったのは金谷城の方なのですが、とりあえず「何もない」と断言された本丸方向を垣間見てみると切岸状の土塁とその先に削平地がはっきりと確認できました。もしも里見義堯が大河ドラマに採り上げられたら、施錠が外れて幟でも立っているのでしょうか。金谷城は15世紀後半に(真里谷)武田信興が、峰上城の支城として築いたと言われ、里見氏第2代の里見成義の時代に里見氏の支配下となり、以後は里見氏の拠点となりました。(近年の里見氏の研究により、里見成義は存在しなかった、すなわち後世になって作られた人物とする説が有力です)いずれにしても一時は里見の内紛に勝利した里見義堯(第5代)が居城にしていたこともあり、里見義堯が里見氏の当主になった犬掛け戦い(天文の内紛)の時、里見義堯が本拠地にしていたのが金谷城でした。この時は宿敵であった対岸の北条氏綱から援軍をもらい、稲村城の里見義豊(従兄弟)を滅ぼして里見氏第5代の当主となっています。(一番近い援軍が対岸の北条氏というのも皮肉な話です)やがて里見義堯が造海城に拠点を移したことで金谷城の役目は薄れましたが、里見水軍の最前線であったことは間違いないようです。
2012/10/07
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♪月の沙漠を はるばると♪有名な曲なのに最初の部分しか知らず、しかも「砂漠」ではなく「沙漠」だそうです。その「月の沙漠」のモデルとなったのが、外房の御宿海岸です。月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました御宿の国道128号線(外房黒潮ライン)の沿道には何かとラクダが登場し、「月の沙漠」のゆかりの地であることは知っていたのですが、これまでは通過するだけでした。それでも御宿海岸に立ち寄ってみようと思ったのは、これまでのラクダと共に沿道に並ぶ「伊勢えびまつり」の幟が目に入ったからでした。「月の沙漠記念館」の前には仮設テントが並び、あの磯の独特の香りが立ち込めていました。テントの中に入って見ると、夥しい数の伊勢えびが水槽の中でうごめいていました。その傍らにはバーベキューコンロがあり、水槽の中で動いていた伊勢えびは、30秒と経たないうちにこちらへ来るようになっています。活きの良さもさることながら、何とも手際が良すぎる気がします。伊勢えびは「キロいくら」なので、1匹あたりにすると1,600円くらいです。少し高めの価格設定かとは思いつつも、食べてみるとさすがに磯の香りが残ったプリプリ感がたまりませんでした。(ちなみに焼き加減は顧客次第です)元々御宿では海女さんによる漁が行われていたようで、伊勢えびに限らずサザエなどの貝類も水槽に並んでいました。その海女さんたちは、今から約400年前にも大活躍をしています。1609年、メキシコのドン・ロドリゴの艦隊が御宿海岸に漂着し、その一行を救助したのが御宿の海女さんたちでした。ドン・ロドリゴはフィリピンの総督としてメキシコからフィリピンに赴任し、フィリピンからメキシコへ帰る途中で遭難して、御宿に漂着したものです。ロドリゴのフィリピン赴任中に日本人居住者による反乱があり、それを鎮圧して本国に帰る途中で日本人に助けられるとは、何とも皮肉な話だと思います。時代は江戸幕府が開かれたばかりで、上総の支配者は里見氏に代って本多忠朝(本多忠勝の次男)でした。ロドリゴは大多喜城の本多忠朝だけでなく、駿府では徳川家康にも謁見し、その滞滞在記を「ドン・ロドリゴ日本見聞録」として著しています。フィリピンでは日本人は敵であったにもかかわらず、さすがは軍人らしいというか、客観的に異国の日本を見ており、大多喜城内の様子や駿府城内の様子など、現在の日本人でも興味深い記録を残してくれています。ロドリゴの艦隊の漂着では、実に317名もの人が御宿の人たちによって救出されたそうです。着物や食料を提供し、中には人肌で乗組員を温めたとも聞きます。御宿の人たちはほぼ全住民にあたる300名が救助にあたったそうで、ほぼ同数の命を救ったことになります。よく考えてみると、いくら漂流してきたとは言え、当時の日本ではロドリゴ一行は全くの異邦人だったことでしょう。太平洋のかなたに人が住んでいるとは想像もできないでしょうし、いくら漂着したとは言え、救助にあたっては勇気のいることだと思われます。さらに考えてみると、外房では黒潮に乗って西洋人が漂着することは、ロドリゴ以前にもしばしばあったのかと思います。そんなことを考えていると、名前は忘れましたが、やはり御宿の近くにも天狗を祭る神社がありました。天狗=赤い顔で鼻が高い=西洋人と考えると、御宿海岸にはロドリゴ以前に西洋人が流れ着いていたとも考えられます。
2012/10/06
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大河ドラマが観光に与える影響がいかに大きいかは、あちらこちらの観光地で実感するところです。大河ドラマの主人公が足を踏み入れただけでも大騒ぎになって、大々的に宣伝されていたりします。ところで千葉県の房総半島においても大河ドラマを誘致する動きがあるのですが、房総の北部と南部では違った題材になっています。房総半島の南部館山市にて房総中部の大多喜町にて同じ千葉県の房総でありながら、旧国名で言うと一方は安房国で一方は上総国です。里見氏にしても本多忠勝にしても、個人的にはどちらも大河ドラマにぜひ採り上げてほしく、毎回必ず見ると思います。それでもよくよく考えてみると、それぞれ一長一短があるように思います。まず「里見氏を大河ドラマに」の方ですが、房総で大河ドラマにするなら里見氏しかないと思います。さらには題名も「南総里見八犬伝」、「原作 滝沢馬琴」で決まりではないでしょうか。現に伏姫の居城であった滝田城や、八犬士の誕生と終焉の地である富山などは、八犬伝ゆかりの地として宣伝されています。さらには南房総ではスーパー銭湯も「里見の湯」などとなっていて、何かと里見ひいきの土地柄です。その一方で「南総里見八犬伝が大河ドラマになるだろうか?」という疑問もあります。ある程度史実が含まれているとは言え、あくまでも曲亭馬琴が江戸時代に書いたSF小説なので、これが大河ドラマの題材になるのかという疑問があります。さらには登場人物が多すぎることがあって、少なくとも8人の主役が必要な上に、伏姫や里見義実などを含めると、オープニングのキャストを流すだけで終わってしまいそうです。(八房役の犬も探してこないといけません)しかも話が長いので、果たして1年で終わるのかという不安もあります。(とは言え、「坂の上の雲」のように3年がかりでやる話でもないので)そんなことは百も承知なのか、「『南総里見八犬伝』を大河ドラマに」ではなく、「『里見氏』を大河ドラマに」となったのかも知れません。それでは八犬伝ではなく里見氏そのものを題材にするとしたら、誰になるでしょうか。里見氏初代の里見義実に始まって第9代の里見忠義に到るまで、里見氏代々を題材にしたところで、時代も長い上にとらえどころがなく、さらには内紛ばかりなので半年もしないうちに放映中止になってしまいそうです。誰かに絞るとすれば、やはり里見氏中興の祖と言われる里見義堯しかいないのですが、同じ時代に覇を争った北条氏康・武田信玄・上杉謙信・佐竹義重などと比べると、知名度に劣ることが泣き所です。一方で本多忠勝の方は、大河ドラマにもピッタリの知名度を誇っています。上杉景勝の家臣である直江兼続が主人公になるならば、徳川四天王の1人で織田信長や豊臣秀吉も賞賛する本多忠勝が主人公となっておかしくないと思います。直江兼続の題名が「天地人」ならば、本多忠勝は「蜻蛉切」で決まりでしょうか。(オープニングのナレーションで、「家康に 過ぎたるものは 二つあり 唐の頭に 本多平八」とか)そうなると、家康に過ぎたるものは2つあったとしても、千葉県には困ったことが1つあって、本多忠勝は転勤で上総大多喜に赴任してきたに過ぎません。大河ドラマかされたとしても、房総主体になるのは10月とか11月の1回か2回くらいでしょうか。戦国武将から為政者となって初めて赴任して来た地が大多喜であり、城下町のインフラ整備には定評があるものの、本多忠勝のテーマからはかなり外れています。三河一向一揆から、三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなど、歴史に名を残す合戦の最前線で名を馳せた人物の半世紀において、大多喜はかなり薄い存在になってしまいます。本多忠勝が大多喜に配されたのには理由があって、徳川家康が安房の里見氏の抑えとするためでした。里見氏と本多忠勝、どちらでもいいのでまずは大河ドラマに採り上げてもらえないでしょうか。
2012/10/03
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国立歴史民俗博物館のある佐倉城は江戸時代になって造られた近世城郭ですが、本佐倉城は千葉氏の本拠地となっていた戦国城郭です。一見するとシンプルな縄張りなのですが、実際にはやや複雑で難解な縄張りでした。普通に考えると東山馬場を大手と見るべきでしょうか。東山馬場から見た本佐倉城丘陵の麓に行くにしたがって曲輪が広がっており、いかにも大手口のような感じですが、実はこちらは大手ではないようです。本佐倉城の大手口は北側の東光寺ビョウの方にあり、丘陵をめぐって北側にまわってみました。(別にどこから登城してもいいのですが、ここはやはり大手から)東光寺ビョウ方面から見た本佐倉城の遠景。何やらよからぬことが書かれた看板があります。実はヘビが大の苦手なのですが、ここに至ってそうも言ってられないので、城郭の方へと向かっていきました。本佐倉城については発掘調査が行われており、現在調査結果を確認中だそうです。東光寺ビョウがどのような用途だったのか、いずれ明らかになることでしょう。東光寺ビョウの曲輪曲輪の名前からすると、寺院が置かれていたのでしょうか。(大手口に寺院があったとしたら不思議な縄張りですが)東光寺ビョウから東山馬場に通じる間は切通になっており、ここに大手虎口があったようです。見事に横矢が掛かっています。本佐倉城の曲輪は、最も低いところにある東山馬場から、最も高い城山まで曲輪が連なっています。ちょうどUターンをするように曲輪が連なっており、曲輪と曲輪の行き来が容易にできるような縄張りになっていました。利便性を求めるとこうなるのでしょうが、それだけに防衛拠点としては手薄な感じがします。東山馬場のすぐ上の曲輪千葉氏の家紋である月星紋が輝かしい。第五郭に相当する東山馬場と第四郭の間は、特に空堀がめぐらされているわけでもなく、段々畑のように曲輪が連なっているだけでした。現地にある解説をよく見てみると、各曲輪間は堀底道で通じていたようです。さらには発掘調査の結果、堀底道には門があって、曲輪は塀で囲まれていたようです。左側が本丸のある「城山」で、右側に第四郭の曲輪があります。戦国城郭にしては防御が手薄だと思っていたのですが、どうやら近世城郭に近いのかも知れません。第四郭からは、三の丸に相当する「倉跡」へとつながっていました。その名の通り倉庫群が建っていたようで、発掘調査の結果では掘立式の建物群が曲輪の広範囲にわたって並んでいたことがわかっています。倉跡。さすがに倉跡の向こう側には空堀がめぐらされていました。三の丸である倉跡からは、Uターンするような格好で、二の丸に相当する「奥の山」、さらには本丸に相当する「城山」の曲輪へとつながっていきます。奥ノ山ここには千葉氏の守護神である妙見宮があったそうです。奥ノ山(二の丸)と城山(本丸)の間には大きな堀切があり、堀底道を通って第四郭からも本丸に行けるような形になっていました。奥ノ山と城山の間の堀切。さすがにこの辺りになると戦国城郭の様相を呈しています。堀切から城山に至る虎口。複雑に横矢が掛かっていて、なんとも念の入ったことです。本丸である城山の曲輪周りは土塁で囲まれており、土塁の跡もはっきりと残っています。さすがに本丸付近は戦国城郭の雰囲気がありましたが、第四郭から下は戦国末期になって改変されたのかも知れません。関東の応仁の乱とも言うべき1454年の「享徳の乱」により、千葉氏も一族が分かれて争うこととなりました。亥鼻城(千葉城)に本拠地を置いていた千葉氏は、一族の馬加康胤(馬加城主)や原胤房(小弓城主)に攻められ、千葉氏本流の千葉胤直と千葉胤宣の親子が自害して、千葉氏宗家は滅亡しています。この時馬加康胤は千葉氏を名乗り、康胤の孫である千葉輔胤の時、本拠地を亥鼻城から移すために築城したのが本佐倉城です。本佐倉城にはマスコットキャラクターがあり、なぜか千葉勝胤がモデルとなっていました。勝っタネくん。。。千葉勝胤の時代には小田原北条氏方についていたのですが、八王子城の北条氏照とは時代が違うため、「うじてるくん」とのツーショットはなかったようです。
2010/09/14
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佐倉城よりも、国立歴史民俗博物館(「歴博」)の方が通りがいいかも知れません。その歴博の入口には水堀と土塁がめぐらされており、明らかに城郭の虎口の様相でした。実際に歴博入口には「田町門」が置かれていました。歴史民俗博物館の建物は「椎木曲輪」の跡に建っており、当時は侍屋敷が建ち並んでいたようです。国立歴史民俗博物館歴史の教科書でしか見たことのないような展示物が並んでおり、ほとんどが複製ではあるものの、見どころはいっぱいです。当時は椎木曲輪の先に椎木門が置かれており、現在は馬出の跡が残っています。馬出跡椎木門跡当時は櫓門が置かれてしました。佐倉城は江戸時代に入ってから築かれた城ですが、他の関東の戦国城郭と同じく、空堀と土塁で造られた掻き上げの城です。公園として整備されてはいますが、ところどころに遺構が残っていました。三の丸周囲の空堀跡二の丸の空堀曲輪そのものは完全に公園の敷地に変わっていましたが、かなりの広さを持つ城郭だったようです。三の丸の曲輪跡二の丸跡曲輪と曲輪の間にはそれぞれ櫓門があったようですが、現在は建物の遺構は残っていませんでした。二の丸の「二の門」跡ここにも櫓門が建っていたそうです。二の丸から本丸に至る場所には、タウンゼント・ハリスの像が立っていました。日米和親条約での、初代アメリカ総領事です。「なぜハリスなんだろう?」と思っていたのですが、となりにある人物像を見て納得です。堀田正睦像幕末の老中ですが、佐倉藩主だったそうです。それにしても、悪いタイミングで老中になったものです。二の丸と本丸の間にも空堀がめぐらされており、やはり櫓門が置かれていたようです。本丸周囲の空堀本丸の一の門跡本丸とは土橋でつながっいたようです。本丸も驚くほど広く、周りを囲む土塁がよく残っていました。本丸跡本丸には天守があったようで、天守台が残っています。石垣ではなく土で造られた天守台。天守ではなく、御三階櫓が建っていました。佐倉城は江戸時代に入った1610年に土井利勝によって築城され、江戸時代には佐倉藩の藩庁が置かれていました。明治に入ると廃城令によって建物は取り壊されましたが、後に陸軍の歩兵57連隊(佐倉連隊)の兵舎となっています。佐倉兵営跡の碑(今村仁陸軍大将の書)1962年(昭和37年)に佐倉城址公園として整備され、国立歴史民俗博物館が開館しました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2010/09/13
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一夜城と言えば豊臣秀吉のお家芸で、美濃攻めの時の墨俣城や小田原城攻めの石垣山一夜城が有名かと思います。もちろん一夜で築いたものではありませんが、いずれも城攻めのための向かい城として急造された城でした。千葉県佐倉市にも上杉謙信が築いた一夜城があり、ここから約1km先にある臼井城を攻めるために築いたものです。上杉謙信の一夜城は京成本線臼井駅に近い住宅地にあり、現在は一夜城公園となっていました。普通の児童公園です。公園の隅に城址碑が建っており、この碑だけが唯一城跡を物語っていました。上杉憲政から関東管領の職と上杉家の家督を継いだ長尾景虎は、関東制覇を狙う小田原北条氏に対抗するべく、三国峠を越えて何度も関東に出陣してきました。1566年には、反北条氏で同盟を結ぶ房総の里見義弘を救援するために下総に出陣し、北条氏方の原胤貞が立て籠もる臼井城を攻め立てました。この臼井城攻めのために向かい城が築かれたのですが、結局臼井城は落城することなく、上杉謙信は撤退しています。関連の記事臼井城(2009年12月)→こちら
2010/09/12
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小弓公方の本拠地であった小弓城から、北西へ約1.5Km行ったところに生実(おゆみ)城があります。「小弓城」も「生実城」も読み方は同じなので、区別するためこちらの「生実城」を「北小弓城」とも呼ぶようです。江戸時代に入ってからは生実藩の藩庁が置かれ、代々森川氏が藩主となっていました。城内には森川氏の菩提寺である「重俊院」が建てられています。重俊院境内には森川氏代々の墓所もありました。本丸は重俊院の北東方向にあったようなのですが、地形の改変が激しく、完全に住宅地に変わっていました。本丸付近道路が不自然に曲がっていたりして、何らかの遺構はあったように思われます。生実城内には生実神社があり、戦国時代の末期に原氏によって創建されたと言われています。生実神社神社の境内を見て回ると、わずかに土塁の跡が残っていました。土塁跡さらに土塁の横には見事な空堀が残っていました。空堀跡明らかにそれとわかるほどの大きさですが、こうして見ると、江戸時代の陣屋跡というより、戦国城郭の名残があります。さらに生実神社から東へ行ってみると、大手口の跡があり、わすかに土塁の跡も残っていました。本丸跡からは500mほど離れた場所にあり、大手口の位置からすると、陣屋にしては相当な規模だったと思われます。大手口からみた本丸方向生実城は、現在地から南にあった小弓城から移転されたものです。戦国城郭である小弓城は、千葉氏の重臣であった原氏の拠点だったのですが、足利義明が小弓城攻略し、小弓公方を名乗って本拠地としていました。1538年に小弓公方足利義明が国府台合戦で討死すると、元々の小弓城主であった原氏が再度入城しています。原氏は小弓城の北西に新たに城を築きますが、それがこちらの生実城(北小弓城)です。その後は原氏と里見氏の間で攻防戦が繰り広げられしたが、1590年に徳川家康の家臣である酒井家次に攻略されるまで、生実城は代々原氏の居城として続いていました。江戸時代に入った1627年には、森川重俊が生実藩の藩主となって、生実藩の陣屋が置かれています。生実池から見た本丸(陣屋)付近平和な江戸時代にあっては、風雅な場所だったのかも知れません。
2010/08/29
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戦国時代の房総半島では、里見氏VS北条氏の2大勢力の争いが繰り広げられ、特に房総半島北部の諸将は里見氏についたり北条氏についたりしながら、戦々恐々と暮らしていました。中には一族が二つに分かれ、同族の中で骨肉の争いを行っていた豪族もいたほどです。その房総の争乱を紐解いて行くと、1人のお騒がせな男に行き当たります。それが足利将軍の流れを汲む足利義明で、自ら「小弓公方」を名乗って小弓城を本拠地としていました。その小弓公方の小弓城は、上総との国境に近い千葉市の南部の丘陵上にあったとされ、現在は千葉市埋蔵文化財調査センターが小弓城跡の一角に建っています。埋蔵文化財センターで小弓城の場所を尋ねると、わかりやすい手書きの地図で場所を教えてくれました。(せっかくなので埋蔵文化財センターも見学させてもらいましたが、基本的に縄文~弥生時代の話です)埋蔵文化財センターからは細く曲がった道が続いており、ところどころ城の遺構と思われるものが残っていました。この道にしても堀切の跡だったのかも知れませんが、周囲には土塁と思われる跡が残っています。こちらも土塁の跡だと思いますが、手前の白い小屋は実は犬小屋で、土塁に近づいた途端に一斉に吠えられました。この道も元々は空堀と土塁だったのかも知れません。さすがは小弓公方の本拠地だけあって、かなりの規模の城郭だったようです。しかしながら本丸付近には畑が広がっているだけで、本丸そのものは墓地に変わっていました。城跡碑の後ろには卒塔婆が建っています。(恐れ多い…)当時は房総半島北部の平野がよく見渡せたことかと思います。上総との国境に近いこともあり、足利義明が房総支配の野望を抱くようになったのもわかるような気がします。元々小弓城は亥鼻城(千葉城)の支城として築城され、千葉氏の重臣である原氏が入城していました。原氏は主家である千葉氏を凌ぐほどの実力を持ち、上総の有力者である真里谷(まりやつ)城の真里谷武田氏を圧倒し続けました。原氏に対抗するために武田氏は房総の諸将を結集しましたが、その総大将に担ぎあげたのが、古河公方足利政氏の次男である足利義明でした。1517年、足利義明を総大将とする里見氏・真里谷武田氏などの房総連合軍は、原氏の小弓城を攻略、ついに小弓城は落城して原氏は滅亡しています。(ちなみにこの時小弓城にいたのが原虎胤で、落ち延びた後に甲斐武田氏の重臣となって、「武田二十四将」にも数えられています)原氏亡き後、「小弓公方」を名乗った足利義明は、真里谷武田氏の相続争いに介入したり、自分の実家である古河公方と対立したりと、房総半島支配へと動いて行きました。その足利義明の進攻に対抗すべく、古河公方などが頼った先が小田原の北条氏です。そして1538年、里見義堯などの房総連合軍は、足利義明を総大将として、北条氏綱・北条氏康の北条軍と国府台で激突、第一次国府台合戦が勃発しました。結果は総大将の足利義明自らが単騎で敵陣に斬り込み、挙句の果てには討死という、あっけない幕切れで終わっています。その後の下総は、足利義明の後に台頭してきた里見氏と小田原北条氏の勢力争いの最前線となり、下総の諸将もこの戦乱に巻き込まれる結果となっています。足利義明は、房総半島を引っかき回しただけのような存在ですが、その震源地こそがこの小弓城でした。
2010/08/28
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「馬加」を普通に読むと「バカ」となってしまうのですが、「馬加」と書いて「まくわり」と読み、千葉氏の一族である馬加(まくわり)氏の居城でした。また「まくわり」が、「幕張」の地名の由来ともなっています。JR幕張駅から北に向かって行くと、丘陵状の台地があり、ここに馬加城があったと推定されます。丘陵部は切岸状になっていますが、果たして城郭の遺構なのかどうか。その台地の上に上がってみると、一面の畑が広がっているだけでした。振り返ると畑の向こうに幕張新都心のビル群が並んでおり、なんとも面妖な光景です。さらにはひときわ高いマンションが建っていましたが、ここが馬加城の本丸部分だと言われています。手前には土塁のようなものが見えています。近づいてみると、土塁の跡に見えなくもないのですが。果たしてこれが馬加城の遺構なのかどうか結局遺構らしいものは発見できないまま、馬加城を後にしました。馬加城は千葉満胤の庶子である馬加康胤が居城としていました。1455年に(古河公方)足利成氏と関東管領上杉憲忠の間に「享徳の乱」が勃発した時、馬加氏の宗家である千葉氏は上杉方につき、馬加康胤は古河公方足利氏方につきました。この争乱で馬加康胤は宗家の千葉氏を滅ぼし、千葉氏の宗家を継いでいます。滝沢馬琴の南総里見八犬伝には、馬加大記なる人物が登場しますが、馬加康胤の同族だとされています。(馬加大記は八犬士の1人である犬阪毛野の親の仇で、また同じ八犬士の犬田小文吾を石浜城に幽閉したりと、大悪人として登場します)やがてこの争乱は千葉氏の内紛を引き起こしたばかりか、北条氏と里見氏の対立に発展し、房総の争乱へと発展していきました。
2010/08/27
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下総(千葉県)の名門である千葉氏、その跡継ぎの元服式は、代々守護神である千葉神社(妙見本宮)で行われてきました。千葉氏の本拠地である亥鼻城(千葉城)から妙見本宮まで、さほど距離はないのですが、さすがに千葉氏に元服式ともなると大がかりなものだったようで、わざわざ離れた高品城が元服式の宿所として使われていました。千葉氏の本拠地が亥鼻城から本佐倉城に移った後も、高品城が元服式の宿所として使われていたようです。(高品城は佐倉街道の途中にあるので、こっちの方は納得ですが…)その高品城の後は完全に住宅地と変わっており、春日神社の周辺にわずかに遺構が残っていました。なぜ妙見神社ではなく、春日神社が建っているのかはよくわかりませんが、この春日神社の境内も城郭の一部だったようです。神社の脇には土塁跡と思われる遺構がありました。土塁跡?(確信はありません)さらには周囲を探索していると、やはり土塁のようなものが・・・盛土と言われればそれまでですが、個人的には100%城の遺構で、土塁だと思います。高品城の築城時期は明らかではありませんが、安藤氏によって築城されたと言われています。安藤氏についてはよくわかりませんが、千葉氏とは密接な関係にあり、里見氏に対する拠点として高品城を築城したのかも知れません。
2010/08/26
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千葉市緑区にあるあずみが丘の住宅地、その南の外れに丘陵部があり、そこが大椎城の城跡です。ようやく城跡の位置を特定できた大椎城でしたが、つかみどころのない城郭で、どこからアプローチしていいのかわかりませんでした。北側は新興住宅地が広がっていますが、南側は昔ながらの家屋が並び、まずは南側からアプローチしてみました。細い道がいくつか丘陵部に向かって延びていたのですが、いずれも民家の敷地に入ってしまい、城郭にたどり着くことができませんでした。(櫓門のある家屋があったのですが、もしかしたら遺構の一部だったのでしょうか)今度は北側の住宅地の方へと回ってみました。大椎城の北側には「ワンハンドレッドヒルズ」、別名「チバリーヒルズ」の敷地が広がっています。チバリーヒルズ側から見た大椎城チバリーヒルズから丘陵へと入って行く細い道があったので、たどって見ることにしました。竹藪に覆われて荒れ放題ですが、土塁のような跡があります。さらに土塁の上を見ると、削平地がありました。竹藪だらけですが、曲輪の跡だと思われます。結局この先は竹藪と倒木ばかりで進むことはできず、土塁と曲輪のようなものを発見しただけで終わりました。(何か違うような気がするのですが…)それでも東側を通る道路を見ると、周囲が切岸状になっており、堀切の跡のようにも見えました。大椎城は平安時代に名門千葉氏の祖である平忠常によって築城されました。千葉氏が亥鼻城(千葉城)に本拠地を移した後も大椎城は千葉氏の支配下にありました。戦国時代になると、すぐ近くにある土気城の土気酒井氏によって、酒井氏の支配下となっています。
2010/06/09
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これまでアプローチを試みながらも、本丸にたどり着けなかった城跡はいくつかあります。そもそも城郭の場所を見失ったケースもありますが、城跡を特定しながらも本丸にたどり着けなかったケースもありました。千葉県富津市にある造海(つくろうみ)城もそんな城跡の1つで、城跡の位置は特定出来ていながら、何度もアプローチに失敗している城跡です。造海城の全景この「城山」に城郭があり、頂上部には堀切跡のようなものが見えています。これまでは海側(西側)からのアプローチを試みて失敗していたので、今度は山側(東側)からアプローチしてみることにしました。城山の東側には灯篭坂大師があり、ここから城山の山頂に向かって尾根が延びています。灯篭坂大師造海城の大手口はこの灯篭坂大師にあったようなのですが、さらには灯篭坂大師の脇から細い道が延びているのを見つけたので、たどって見ることにしました。この道が尾根伝いに城山へ向かう道だと思うのですが、草藪に覆われていて進むことが出来ませんでした。「今度こそは」と思ったのですが、あまりにも荒れていたので途中で断念しました。軽装だったこともあるのですが、この道を発見したことで、次回アプローチのヒントを得たような気がします。次は天敵のヘビがいない季節で、軽登山装備くらいは用意して行こうかと思います。反対側の海側から造海城を見ると、東京湾の海岸線に城郭が張り出すような格好になっています。以前訪れた時、海岸線の岩場に船着き場のようなものがあるのを確認しました。内房の沿岸部にあるため、里見氏にとっては対岸の北条氏に対する重要な防衛拠点であり、同時に北条氏にとっては、房総に進出するための重要な上陸拠点でもありました。造海城から見ると、対岸の三浦半島はすぐ目と鼻の先のような感じがします。また造海城のすぐ北側には、白狐川の河口があります。この白狐川の河口から里見水軍は相模に向けて出航し、北条水軍はこの河口から上総に上陸してきたのだと思われます。造海城は上総の玄関口であり、現在で言うなら国際空港と言ったところかも知れません。時代が時代なら、「Yokoso Kazusa」となるのでしょうか。房総には戦国城郭が数多くありますが、この造海城は中でも屈指の名城だと思います。それだけにこの城山山頂に足を踏み入れてみたいものです。造海城は別名「百首城」とも呼ばれており、元々は真里谷城を本拠とする真理谷武田氏の築城によると言われています。里見氏の軍記などでは、里見氏初代の里見義実と息子の里見成義が真理谷武田氏の籠る造海城を攻め囲んだ時、「里見父子は文武両道に優れていると聞くが、この辺りの景色を詠んだ和歌を作り、手並みを見せてくれれば城を明け渡してもよい」との条件が真里谷武田氏から出されたそうです。この時里見義実と成義はたちまち百首の和歌を作ったのですが、ちなみにその和歌とは里を見よ はげしき春の山嵐 世をつくろみに さはらざりけり夜をこめて 灯篭坂を越えぬれば 味方のひかり 日の出ますますつくろうみ 川瀬定めぬ折なれど 下れる水は入るる大海などです。(「里を見よ」は里見にかけてあり、「灯篭坂」は灯篭坂大師のことだと思われます)百首の和歌が優れていたので、城内の武田氏は感服して造海城を明け渡したため「百首城」の名が付いたそうです。あまりにも美談ではありますが、これは後日里見氏によって創作された話だとされています。(創作は里見氏の「お家芸」ですが、そもそも近年では、第2代里見成義すら実在しなかったとする説が有力です)現代においても、和歌が優れているからという理由で、自分の家を他人に明け渡す人がいるでしょうか。(時代は戦国時代、お人好しにもほどがある気がします)実は百首城の由来にはもう1つ説があるのですが、こちらは生々しいので割愛させて頂きます。(こちらの方が説得力があるのですが)里見氏と房総の歴史には何度も登場してくるお城ですが、海と川に囲まれた天然の要害であり、それだけに重要視された拠点であると言えるでしょう。まず造海城が戦国時代の歴史に登場するのは、1533年に起こった里見氏の内紛(犬掛の戦い)の時です。里見氏当主であった里見義豊が、叔父の里見実堯(里見義堯の実父)を稲村城で殺害したことに端を発し、里見義堯と義豊の従兄弟同士の争いへと発展した有名な内紛です。結果は里見義堯が勝利し、里見第5代の当主となるのですが、この内紛の時に里見義堯が拠点としたのが造海城でした。この時里見義堯が海岸の造海城を拠点とした理由は、援軍を求めるためだったのですが、その援軍を要請した相手とは、なんとそれまで里見氏と敵対していた小田原の北条氏綱です。北条氏綱は里見義堯の要請に応じ、やはりこの造海城に援軍を上陸させています。。さらに1537年、今度は上総の有力豪族である真里谷武田氏で内紛が勃発し、武田氏当主の武田信隆は、異母弟である武田信応(のぶまさ)と争いの中で、真里谷城を追い出されました。この時武田信隆は真里谷城から移って造海城を拠点としたのですが、武田信隆が造海城を拠点としたのもやはり北条氏綱に援軍を求めるためです。この時も北条氏綱は援軍を造海城に上陸させたのですが、はるばる小田原から呼ばれた理由が兄弟喧嘩の助っ人でした。ちなみにこの武田氏の内紛をきっかけに、武田信隆が後ろ盾とした北条氏綱と、武田信応が後ろ盾とした小弓公方足利義明・里見義堯の対立へと発展していきました。そして北条氏綱VS小弓公方・里見義堯(房総連合軍)の、第一次国府台合戦が勃発し、この戦いで小弓公方・里見方が敗北すると、造海城の支配は里見から北条へと変わっています。北条氏綱の後を継いだ北条氏康も、やはりこの造海城を上総への上陸拠点としており、1554年に里見義堯の久留里城を攻めた際も、大軍を造海城に上陸させています。(北条軍にしてみれば、敵地にありながらも勝手知ったるお城だったことだと思います)造海城から見た東京湾房総で従兄弟や兄弟の喧嘩が起こる度に、北条水軍がはるばる渡って来た浦賀水道です。その後1567年の三船山の戦いで里見義弘が北条氏政に勝利すると、再び造海城は里見氏の支配下となり、里見水軍の重要拠点として機能していました。(海岸線の船着き場もこの頃造られたのかも知れません)里見義堯価格:720円(税込、送料別)現代語訳南総里見八犬伝(上)現代語訳南総里見八犬伝(下)
2010/06/08
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佐貫城を訪れるのは2回目なのですが、2年前の前回と比べて、城郭の案内図が変わっていました。南西方向を大手とし、北東方向を搦め手とする縄張りのようです。(前回は手彫りの縄張り図で味があってよかったのですが、とてもわかりづらい縄張り図でした)さらに前回は冬だったので下草は枯れていたのですが、今回は新緑が太陽に照らされて輝いていました。三の丸手前の曲輪三の丸奥の曲輪土塁の跡が残っています。城郭の遺構は割と残っている方でしたが、曲輪は雑木で覆われているため、城郭の様子がなかなかわかりづらい状況でした。二の丸本丸本丸の北西側にはさらに曲輪が続き、物見台のような場所もありました。ここからは東京湾を眺めることができます。宿敵北条氏の動向に備えていたのでしょうか。佐貫城を築城したのは、真里谷城を本拠とする真里谷武田氏だと言われています。その後の里見氏VS北条氏の争いの中で里見氏の支配下となり、里見氏にとっては敵対する小田原北条氏への防衛拠点となりました。佐貫城は房総半島の西の端にあり、房総半島防衛の最前線でもあるため、里見義堯の長男である里見義弘が入城しています。また、佐貫城と共に久留里城(里見義堯)・大多喜城(正木時茂)・勝浦城(正木時忠)の4城で、房総半島を横断する対北条氏の防衛ラインを形成していました。(後に正木時忠の寝返りによって、一時防衛線が崩れたこともありましたが)1590年の小田原の役で北条氏が滅亡すると、里見氏は安房一国に封じられ、佐貫城には徳川家康の譜代である内藤家長が入城してきました。徳川方の城となってからは、佐貫城(内藤家長)、久留里城(大須賀家政)・大多喜城(本多忠勝)と、逆に里見氏に対する包囲網を形成したのは、何とも皮肉な結果です。関連の記事三船山の戦い→こちら
2010/06/06
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房総半島の中央部、千葉県市原市にあるのが池和田城です。いかにもローカルな戦国山城といった雰囲気で、国道297号線(大多喜街道)から分岐する細い道の途中に、ひっそりと登城口がありました。巨大堀切と思われる道路沿いに登城口があります。登城道の途中には古井戸の跡があり、今も水が湧き出て登城道まで流れ出ていました。後述する北条氏政との籠城戦においても、ここで水の手を確保していたのでしょうか。城郭は一面の草むらとなっており、遺構もなかなかわかりづらい状態でしたが、それでもわずかに腰曲輪の跡などが残っていました。途中の腰曲輪やがて草むらが広がる削平地に到着しましたが、ここが本丸の曲輪跡だと思われます。その本丸の先にも削平地があって、こちらには鳥居と祠が建っていました。この天神社の曲輪の方が奥にあるため、どちらかと言うとこちらが本丸のような気もしました。天神社の曲輪の周囲は一面薮と雑木で覆われていましたが、急な斜面となって続いているようで、規模の割には堅固な印象でした。池和田城は、里見方の豪族である多賀氏が拠点としていた城です。城主多賀越後守は、1564年の第2次国府台合戦でも里見側について参戦しましたが、北条軍の前に戦死してしまい、嫡子である多賀蔵人と多賀左兵衛尉の兄弟が池和田城を守っていました。第2次国府台合戦で里見義弘が北条氏康に敗れると、池和田城の隣にある真里谷城や庁南城も北条方の手に落ち、池和田城は北条方の中に取り残されてしまいました。国府台合戦で敗走する里見軍を追って、北条氏政は上総へと進軍してきましたが、その時に格好の攻撃対象となったのが池和田城です。北条氏政は大軍で池和田城を取り囲んだため、多賀兄弟は籠城戦を余儀なくされました。しかしながら、池和田城は意外と堅固で、北条氏政がこの小城を落すのに数ヶ月を費やしたと言われています。最終的に多賀兄弟は城から脱出して逃げ延びますが、この小城で数ヶ月の籠城戦を戦い抜けたのは驚きです。
2010/06/05
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戦国時代の房総半島北部では、地元の豪族たちが時には里見氏に従い、時には北条氏に従いながら、地元に根付いていました。千葉県緑区にある土気(とけ)城の城主、土気酒井氏もそんな豪族の一人で、土気城を本拠地として戦国の上総を生き抜いて来ました。土気城の城跡は畑に変わってしまっていますが、縄張り図を見ると、相当な規模を持つ城郭だったようです。三の丸の曲輪跡林の向こう側が本丸で、本丸との間には空堀があったようです。三の丸と二の丸の間の空堀跡微妙な感じですが、土塁の跡も残っていました。本丸から二の丸にかけては、日本航空の研修センターとして利用されており、二の丸の跡はグランドとして使われていたようです。二の丸跡本丸には研修センターの建物が建っているのですが、現在は閉鎖中で工事用の柵がめぐらされていました。本丸から搦め手方向は狭い道路が通っていますが、こちらも堀切の跡だと思われます。昼間も薄暗く不気味な感じです。ほとんど通行はないのかと思っていたら、ちょうど対向車が来て、対向するのにかなり手間取りました。土気城の歴史はかなり古く、平安時代の鎮守府将軍であり、陸奥国の多賀城を築城した大野東人が、東北の蝦夷に対する軍事拠点として築いたと言われています。当時は貴船城と呼ばれており、三の丸付近には貴船大明神が建っていました。鎌倉時代になると、千葉氏の一族であった相馬胤綱の子である土気太郎が地頭となり、ここを拠点としたと言われています。戦国時代に入った1488年には、上総中野城酒井定隆によって土気氏はこの地を追われ、以後5代100年もの間、土気城が酒井氏の本拠地として続いていました。この間に酒井氏は勢力を伸ばし、本納城にも攻め込んでいます。戦国時代の上総北部は里見氏・北条氏の勢力争いの最前線にあり、土気酒井氏も表では里見氏と手を握りながら、裏では北条氏に通じるような二元外交を展開していたようです。最終的には北条氏に従い、他の関東の城と同じく1590年の秀吉による小田原攻めの際に、城主の酒井氏は北条方として小田原城に参陣していました。そして土気城は豊臣方の浅野長政に攻められて落城し、長い歴史に幕を閉じています。
2010/06/04
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千葉県茂原市の内房線本納駅のすぐ西側に本納城があり、現在は蓮福寺という山寺の境内に城郭があります。蓮福寺本堂自然の尾根を利用したなかなかの城構えで、尾根の切岸には隠れ穴と思われる穴が残っています。尾根の反対側へつながる抜け道かも知れません。城郭そのものは蓮福寺の境内として利用されており、曲輪と思われる場所も墓地に変わっていました。搦め手の曲輪跡だと思うのですが…その蓮福寺の墓地を抜け、さらに斜面を登って行くと、いかにも戦国らしい城跡がありました。堀切跡だと思うのですが、岩を削って切岸状にするところは房総特有で、特に里見氏の城郭によく見られます。斜面に曲輪をいくつも配した堅固な造りで、本丸に至る途中には腰曲輪と思われる削平地がいくつか残っていました。蓮福寺背後の山頂部には、本丸らしき曲輪の虎口は、ご丁寧に横矢まで掛かっています。そしてこちらが本丸です。本丸に建つ城跡碑本丸は東側が一望でき、九十九里の海岸線を遠くに見ることができました。本納城は戦国城郭ではあるのですが、里見氏と北条氏が勢力を争った上総にありながら、とてもマイナーな存在です。本納城は黒熊大膳景吉の居城であったと言われていますが、戦国の房総の歴史において、この人の名前は聞いたことがありません。(本納城はかなりの城郭だと思うのですが、里見VS北条の最前線にあって、この城も名前も聞いたことがありません)黒熊大膳景吉は、すぐ近くに領土を持つ土気酒井氏と争っていたそうで、酒井氏を攻めようとして、逆に攻め込まれて自害したと言われています。(関東の覇権を架けた上総にあって、何ともローカルな話です。)本納城ほどの城郭を持ちながら、全く戦国の房総の歴史の舞台に出てこなかった黒熊景吉とは、いかなる人物だったのでしょうか。
2010/06/03
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里見公園(国府台城)の東に続く国府台の高台に安国山總寧寺があります。「里見城跡」と書かれた總寧寺の碑江戸時代には「関三刹」の1つとして幕府から曹洞宗の支配権を与えられ、總寧寺の住職は全国曹洞宗の総支配権を持っていました。本堂1850年の火災で建物は焼失してしまったそうです。總寧寺は1383年に建立されたのですが、建立したのは近江国の守護であった佐々木氏頼で、建立された場所も近江国左槻庄樫原郷(現在の滋賀県米原市)でした。下総国に移ってきたのは戦国時代の1575年のことで、小田原北条氏第4代の北条氏政が、下総国関宿(現在の千葉県野田市)に移転させました。(なぜ北条氏政が関宿に移したのか、このあたりの経緯はよくわかりません)現在の地に移ってきたのは江戸時代に入った1663年のことで、関宿がしばしば水害に遭っていたため、幕府にお願いして江戸川下流の国府台に移転してきたそうです。やはり江戸時代には高い格式を誇っていたようで、總寧寺の境内は「江戸名所図会」にも描かれています。總寧寺境内の西側(左側)に国府台城があったのですが、曲輪の跡と思われる削平地がいくつか描かれています。関連の記事里見公園→こちら国府台城→こちら
2010/04/13
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江戸川東岸の市川市には、国府台と呼ばれる高台があり、その名の通り下総の国府が置かれていました。国府台の遠景戦国時代には国府台城が築かれ、北条氏と里見氏を始めとする房総連合軍の間で、二度の合戦「国府台合戦」が繰り広げられた場所でもあります。下総の国府の跡は残っておらず、現在の和洋女子大から千葉商科大学のあたりに国府があったと推定されています。その国府があったと思われる場所から、さらに東に続く高台上には下総国分寺が置かれ、こちらは現在も寺院として残っていました。南大門(仁王門)門は最近になって復元されたものでしょうが、仁王像は古いものでした。仁王門をくぐった境内に入ってみると、中世以降に造られた普通のお寺と言った感じでした。本堂奈良時代に建立された当時は、金堂や七重塔のある伽藍配置だったようです。金堂跡には本堂が建ち、七重塔の跡は墓地になっていました。下総の国府と共に当時はここが中心地だったのでしょうが、今となっては繁栄を想像するしかありません。関連の記事国府台城→こちら上総国分寺→こちら
2010/03/24
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手児奈霊堂のすぐ近く、市川の国府台の高台に弘法寺があります。手児奈の霊を供養するために行基菩薩が建立した求法寺が始まりとされ、平安時代になって弘法大師が「真間山弘法寺」として伽藍を建立したとされる名刹です。弘法寺山門国府台の地名が示すように、この辺りは下総国の国府が置かれた場所で、弘法寺も国府と深い関わりがあったと言われています。弘法寺は後に天台宗に改宗したのですが、鎌倉時代の1275年に日蓮の弟子との問答に敗れ、今度は日蓮宗に改宗したそうです。(それでも弘法寺を名乗ったのがすごいところです)戦国時代には名門千葉氏の庇護を受け、徳川家康が関東に入封すると寺領を与えられていました。紅葉の名所として知られ、市川や真間の門前町は大いに賑わったそうですが、明治になって建造物は火災で焼失しています。毎年この時期になると弘法寺を訪れるのですが、目当ては境内にある「伏姫桜」と名付けられた枝垂れ桜です。伏姫桜まだまだ三分咲きといったところでしょうか。「伏姫」の名前は、南総里見八犬伝に登場する里見義実の娘で、八犬士の生みの親である伏姫に由来していると思われます。(伏姫は安房から出たことがないはずなので、同じ千葉県でも下総で「伏姫」の名前を聞くと、違和感がありますが…)さらには滝沢馬琴が南総里見八犬伝を完成させたのは江戸時代末期なので、伏姫桜の名前が付けられたのも江戸時代以降だと思われますが、その時すでに里見氏は滅亡していました。それでも国府台の地は戦国時代の里見氏にとっては因縁深い場所で、北条氏と激戦を展開した国府台合戦の舞台でもあります。南総里見八犬伝と同じく、伏姫桜も里見氏の栄光を偲んで名付けられたのかも知れません。関連の記事手児奈霊堂→こちら国府台城(2008年11月)→こちら
2010/03/23
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一足早い成田山への初詣となりましたが、大本堂の裏手に回ってみると、一段と高くなった場所があり、ここにも江戸時代からの建造物が並んでいました。光明堂(国指定重要文化財)1701年に建立されたもので、こちらが旧本堂です。額堂(国指定重要文化財)奉納額や絵馬を飾る場所で、江戸時代末期の1861年に建立されました。江戸時代の歌舞伎役者である7代目市川団十郎は、成田山の不動明王に帰依して「成田屋」の屋号を名乗っていました。元々成田山には市川団十郎が寄進した額堂があったのですが、昭和40年に火災で焼失してしまい、現在残る第2額堂に市川団十郎の石像が置かれています。本堂裏手の一帯は、「成田山公園」として整備されており、「平和の大塔」という塔が建っていました。「平和の大塔」見た目にも新しい建物ですが、1984年に鉄筋コンクリートで建てられたものです。本堂付近は参詣客で賑わっていましたが、成田山公園まで来ると訪れる人もほとんどいませんでした。それでも成田山公園を歩いていると、ちょっとした山歩きをしているような感じで、人工的に造られたにしては、かなり趣きのある公園です。。沢伝いの登山道みたいな雰囲気です。滝までありました。泉水式の日本庭園成田詣での時は、少し足を伸ばして成田山公園を歩いてみるのもいいかも知れません。
2009/12/26
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江戸時代には参詣のための街道が整備されるなどして、古くから信仰を集めてきた成田山新勝寺ですが、今回初めて成田山に参詣しました。成田山の表参道には昔ながらのお店が並び、成田駅から総門まで延々と参道が続いていました。総門新築のようなきれいさがありますが、平成20年に建立された新しい建造物です。総門の先には本堂へ続く急な階段があり、途中には総門とは違って年季の入った仁王門が建っていました。仁王門(国指定重要文化財)江戸時代後期の1830年に建てられたものです。仁王門の向こう側に建つ大本堂では、すでに新年を迎える準備が整っていました。大本堂。一足早く正月を迎えたような気分です。節分には豆まきも行われ、朝青龍や白鵬もここで豆をまいていました。新勝寺の伽藍を見ると、真言密教の雰囲気を残す建物が並んでいました。三重塔(国指定重要文化財)きらびやかな三重塔ですが、1712年に建立され、昭和58年に現在の姿に復元されています。鐘楼。江戸時代の1701年に建立されました。一切経堂1722年に建立され、今年になって全面修復されています。成田山の縁起は平安時代の940年に遡り、平将門の乱平定の勅命を受けた寛朝大僧正が、弘法大師作の不動明王像を奉じて東国に赴き、護摩祈祷を行ったのが始まりとされています。江戸時代になると、成田山は庶民の信仰を集め、数多くの人が「成田詣り」を行うようになりました。現代でも成田参詣の人気は高く、初詣で成田山を訪れる人の数は、明治神宮に次ぐ全国第2位を誇っています。
2009/12/25
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千葉県佐倉市の住宅地の中に臼井城跡があり、現在臼井城址公園として整備されています。二の丸の曲輪戦国の城郭にしては桁外れに広い曲輪で、犬が駆け回っていました。二の丸の周囲には空堀がめぐらされていたようで、その堀跡も残っています。空堀跡一見するとローカルな戦国城郭といった感じですが、数々の籠城戦をくぐり抜けて来たのが、この臼井城です。二の丸と本丸の間は巨大な空堀があったようで、堀底も駐車場として使われていました。二の丸と本丸の間の空堀こちらは畑として使われていた形跡があります。二の丸から本丸に至る間の道は、空堀に架かる土橋だったのではないでしょうか。土橋だと思うのですが…二の丸ほどではないにせよ、本丸も場違いに広い感じがしました。本丸これだけ広いと防御が手薄になるような気もするのですが…本丸周囲にも空堀や腰曲輪がめぐらされていたようです。かなり念入りに造られたような印象を受けました。それでも舌状台地上にあって、背後に印旛沼が広がる地形こそが要衝だったのでしょうか。臼井城には下総を支配した千葉氏の一族である臼井六郎常胤が居を構え、14世紀中頃に臼井興胤がこの城の基礎を築いたと言われています。さらに戦国時代になると、同じ千葉氏一族の原氏が居城としていました。戦国の臼井城は何度も攻め込まれており、その度に籠城と落城の危機を経験してきました。1478年には、享徳の乱の一連の戦いの中、千葉自胤に敗北した千葉考胤が臼井持胤の臼井城に逃げ込み、太田道灌と弟の太田資忠に包囲されています。大激戦の末に臼井城は落城したようですが、太田道灌の甥の太田資忠が討死していることから、攻め手にも相当な損害があったと思われます。(太田資忠の墓所が臼井城の本丸の隅にありました)その後は小田原北条氏の支配下にありましたが、1561年に上杉謙信が小田原城に攻め込むと、それに呼応した安房の里見氏に攻められ落城、臼井氏は臼井城を脱出して滅亡しています。臼井城は小田原北条氏に従う原氏の支配下となりますが、1566年には反北条の上杉謙信・里見義弘が連合軍となって臼井城を包囲しました。臼井城がなぜこれほどまでに攻め込まれるのか理解に苦しむところですが、上杉・里見の連合軍の前でも、籠城戦を勝ち抜いているのでさらに驚きです。上杉謙信・里見義弘の攻撃にも耐え抜いた臼井城でしたが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時は、城主原氏が北条氏についたため、豊臣方の徳川軍にも攻められて、ついに落城してしまいました。
2009/12/18
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利根川の水郷地帯にある佐原は、江戸時代後期から明治の初めの町並みが保存されており、「小江戸」と呼ばれています。旧香取街道沿いには旧家屋が建ち並び、街全体が当時のまま残っている感じです。小堀屋本店中村屋乾物店これまで旧街道の宿場町をいくつか見て来ましたが、旧家が一軒残っているだけでも貴重な感じがしました。佐原は町ごと残っている感じで、ここまでの宿場町はほとんど見たことがありません。旧三菱銀行佐原の町の中を利根川水系の小野川が流れており、川沿いにも往時を偲ばせる町並みが続いていました。その小野川のほとりには、伊能忠敬の旧宅も残っていました。伊能忠敬邸邸内にある伊能忠敬像対岸には「伊能忠敬記念館」があり、中に入ってみました。改めてその偉業を振り返ってみることが出来たのですが、もはや想像を超えており、「人間離れしている」というのが正直な感想です。
2009/12/05
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流鉄流山線の駅名にもある「小金城址」ですが、現在は大谷口歴史公園として整備されています。冠木門が復元された金杉口の虎口曲輪の跡搦め手と思われる南側には、土塁や空堀の跡も残っていました。土塁の跡しかも空堀は普通の薬研堀や箱堀ではありませんでした。発掘調査の結果、畝堀だったようです。さらには障子堀の跡も出てきました。山中城に代表されるように、畝堀や障子堀は北条流の築城技術です。戦国時代の下総(千葉県北部)は、すでに北条氏の支配下にしっかりと組み込まれていたようです。小金城は水戸街道を押さえるような形の縄張りとなっており、北側への防御に重点を置いているように思われます。すなわち常陸の佐竹義重や越後の上杉謙信に対する拠点となっていたことでしょう。15世紀に高城氏が館を置いたのが、小金城の始まりとされています。高城氏は千葉氏の一族、または千葉氏の重臣原氏の一族とされ、小田原の北条氏に従っていました。1566年、北条氏と敵対する上杉謙信によって小金城も包囲されましたが、高城氏は籠城戦によって、攻略を防いでいます。しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、他の関東の北条方の城と同様に廃城となりました。
2009/12/01
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旧水戸街道の小金宿付近を自転車で走っていると、東漸寺というお寺があって、山門が紅葉に包まれていました。仁王門の向こう側も紅葉に染まっています。境内一面が紅葉に染まっており、芸術的な感じさえもしました。鐘楼もあるのですが、紅葉に隠れてしまっています。紅葉の中にお寺がある感じだったのですが、本堂だけはさすがに普通でした。東漸寺の歴史は古く、1481年の開山の古刹です。春は枝垂桜、夏は紫陽花と四季に応じた自然の美しさがあるそうです。
2009/11/30
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松戸城の跡があるらしいというので、自転車に乗って行ってみました。常磐線の松戸駅の手前に小高い丘陵があり、築城するにはよさそうな地形です。丘陵の一部は千葉大学園芸学部の敷地となっていますが、「戸定が丘歴史公園」にもなっていました。ここには「戸定(とじょう)邸」があり、国の重要文化財にも指定されています。戸定邸は1884年に水戸藩最後の藩主であった徳川昭武によって建設された邸宅です。徳川昭武は尊皇攘夷の親玉徳川斉昭の18男であり、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の弟でもあります。「松戸城はいずこ?」とは思うものの、一応戸定邸の中に入ってみました。客間徳川慶喜も何度かここを訪れています。客間から見た江戸川それにしても松戸城はいずこ・・・戸定邸はやたらと部屋が多く、家の中に蔵までありました。中にある長持は、高松宮喜久子妃殿下が徳川家から嫁いだ時に整えた婚礼調度だそうです。それにしても水戸藩で葵の御紋が登場すると、ついつい頭が下がります。戸定邸の横に松戸市戸定歴史館があったので、松戸城の所在を歴史館で尋ねてみると、「そんな説もある」くらいの話で終わりました。今となっては戸定邸を発掘して調査を行うわけにもいかないでしょうし、戦国の古城跡を見つけるために、わざわざ費用と時間をかけることも許されないことでしょう。松戸城は第一次国府台合戦の時、江戸川を渡河してきた北条氏綱・氏康軍が陣を置いたと言われています。相模台城に陣取った房総軍との間で激戦が展開されましたが、以後は小金城と共に北条氏の拠点となっていたようです。関連の記事相模台城→こちら国府台城→こちら
2009/11/29
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房総連合軍と北条氏の間で2度繰り広げられた「国府台合戦」、その時に里見義堯などの房総連合軍が陣を置き、北条軍との間で激戦が展開されたのが相模台城です。房総連合軍が陣を置いた国府台城の北側に小高い丘があり、そこには「相模台公園」と名付けられた広場がありました。周囲に土塁らしき跡が残っており、曲輪の跡だと思われます。第一次国府台合戦では、小弓公方足利義明が房総連合軍の総大将でした。足利義明は総大将でありながら、国府台の陣を離れて単騎で相模台の激戦地に駆けつけ、結局は北条軍に包囲されて討死しています。相模台公園がその相模台城の跡かどうかはわかりませんでしたが、下総にあって「相模」の地名が残っていることから、北条氏との戦いであった国府台合戦とは何らかのつながりがありそうです。また相模台公園近くの国道6号線の交差点には「陣ヶ前」の地名が残っており、こちらも国府台合戦の名残かも知れません。ちなみに北条軍が渡った江戸川には、現在「矢切の渡し」がありますが、この「矢切」の地名も国府台合戦に由来すると言われています。関連の記事国府台城→こちら
2009/11/28
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千葉モノレールの県庁前駅から見ると、丘陵部の上におかしな建物が建っています。近くで見ると、破風と望楼を備えた4層5階建の「立派な」天守で、切込み接ぎの石垣に支えられています。時代錯誤もはなはだしく、戦国時代の千葉氏の居城に天守や石垣はあり得ません。さらにその横には城に向かって弓を引く騎馬武者像がありますが、敵でも逆臣でもなく、城主千葉常胤でした。千葉常胤もよほどこの天守が気に入らないと見えます。それでも模擬天守内部のパネルや解説は見ごたえがあり、千葉氏を中心に関東の戦国の歴史がよくわかるため、複雑な関東の戦国の歴史を理解するなら、ここはおススメだと思います。(しかも入場料は60円です)その模擬天守のある本丸跡の周囲には、土塁がわずかに残っていました。石垣は後年に造られたのだとしても、少なくとも土塁は約600年前から残るものです。本丸の北側は堀切で区切られており、本丸に続く曲輪の跡には、神明社と亥鼻城址の碑がひっそりと建っていました。堀切跡?神明社の祠と曲輪千葉氏なのに妙見社ではありません。亥鼻城址碑この辺りは「亥鼻台」と呼ばれ、千葉城(亥鼻城)は1126年に千葉介常重により築城されました。騎馬武者像にある千葉介常胤(常重の子)は源頼朝の挙兵の呼びかけにいち早く参加、鎌倉幕府の有力御家人にまでなっていました。以後上総・下総で勢力を振るった千葉氏でしたが、1455年に一族の内紛により千葉城も落城したため、本佐倉城に拠点を移しています。その後の千葉氏は没落の一途をたどり、最後は小田原の北条氏に従っていたため、北条氏滅亡と共に千葉氏も滅亡してしまいした。関連の記事本佐倉城→こちら赤塚城→こちら石浜城→こちら
2009/11/27
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「妙見さま」と呼ばれる妙見信仰の頂点にあったのが、千葉市にある千葉神社(妙見大本宮)です。門かと思っていたら、「尊星殿」と名付けられた社殿でした。楼門と社殿を兼ねた珍しい造りとなっており、祭神である「北辰妙見尊星王」の分霊が祀られています。この「北辰妙見尊星王」が「妙見さま」として親しまれ、「北辰」の名にある通り、北極星と北斗七星の神霊です。尊星殿の中央には、八つの星宮が八角形に並ぶ「福徳殿」が置かれていました。名門千葉氏の祖である平良文は、戦のたびに妙見尊に祈願して勝利を収めてきました。その後は千葉氏一族が代々守護神として厚く信仰し、千葉氏第3代の千葉常忠がここに妙見尊を祀ったのが始まりとされています。社殿が上下2段に分かれた本殿。(平成2年に新たに竣工されました)千葉氏の元服式も、毎回妙見本宮で行われてきました。上総・下総の城跡を訪れると、曲輪の跡に妙見宮が建っていたりして、今もその名残を見ることがあります。千葉氏は房総平氏の流れを汲み、鎌倉時代には下総守護としてこの地に君臨してきました。戦国時代になると小田原の北条氏に従ったことから、豊臣秀吉による小田原攻めの時、北条氏の滅亡とともに千葉氏も滅亡しています。境内から外れたところには、稲荷神社・金刀比羅神社・厳島神社などの末社が並んでいました。さらに本殿の隣には、旧本殿が移築されています。千葉神社旧本殿「千葉天神」(昭和29年再建)元々は1182年に菅原道真を祀ったのが始まりです。妙見尊の神紋である「月と星」に由来して、「ツキ(月)を呼び、星(勝利)を拾う」という縁起の良さから、合格祈願の神様として知られています。千葉氏亡き後も、守護神である「妙見さま」だけは、今もここで人々の信仰を集めているようです。関連の日記千葉城(亥鼻城)→こちら
2009/11/26
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千葉寺と書いて、地名は「ちばでら」ですが、寺院の方は「せんようじ」とも読みます。709年に行基が開山したと伝えられる古刹で、千葉(せんよう)の青蓮に霊を感じ、十一面観音菩薩像を刻んだのが始まりとされています。(これが千葉の語源となったのでしょうか)仁王門江戸時代の1828年に建てられたものです。右側の仁王像(金剛力士像)こちらは左側です。同じく1828年に建てられた鐘楼。1160年の火災によって伽藍は焼失してしまいましたが、境内には709年に行基がもたらしたと言われる大銀杏がありました。高さは30mもあり、鶴岡八幡宮の銀杏よりも高さがあります。現在の本堂は昭和51年に落成したものです。戦国時代には名門千葉氏が代々祈願寺とした場所であり、それだけに一層歴史の重みを感じるお寺でした。関連の記事千葉神社→こちら千葉城(亥鼻城)→こちら
2009/11/25
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