歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年09月19日
XML
第一章にて、「ただ念仏」という言葉についての話がある。

筆者は、「ただ念仏」の仏法を貫きとおさしめたものは何だったのだろうか。それは実はそこに横たわっていた名もなきものの死屍そのものではなかったであろうか。
ということで、念仏を唱えたのは時代背景だということを言われている。
多くの授業や私が読んだ多くの歎異抄がらみの本では、これは法然(師)を信じるからこその念仏であり、自らが出来ることはただ念仏しかない。救われるために自分が出来ることはこれだけだというものであった。
時代背景から見たこの話はとても新鮮に感じた。
しかし、我々現代社会人が歎異抄第二章で言われるような「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと~」を肌で感じることは困難と考える。それは、あまりに時代背景が異なること、現代社会という根本を見つめなおすと、

~以下一部略~

本文中にて、度々書かれていたのは、聞思、他力、回心についてであった。

まず、仏教が広く一般の人に受け入れられるには、仏教がいわんとしている「中道」「縁起」の思想である。
それをさとらしめるのに、まず自己の存在を突き詰めて考える必要性がある。
人間存在の真実を考えるというのが根本にあるからだと考える。
そういう思想の元に釈迦の教えを展開していくと、結局他力思想、本願思想へと帰結してくる。
仏教の根本的思想を知らしめるために自利利他思想が生まれてきた。
自己存在を追及していくと、生かされているという自覚に至らざるを得ないからである。
それが他力であると考える。

次に聞思についてだが、この言葉は修練での最大のテーマであり課題であったことからも興味をひかれた。筆者は、聞と思に分けて詳しく説明してくれている。
聞とは、「ただ念仏、の教えを聞く」こと。
思とは、「ただ念仏、の教えに聞く」ことであると。
これこそが自覚なのだと考える。


私はこれからの学びの中でもこの聞思は特に重視していきたと思っている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年09月19日 21時50分59秒
[レポート・宿題関係のネタ] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: