歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年09月29日
XML
カテゴリ: 週間法話
この法話は浄土真宗的考えの法話を私なりの形で作成したものです。もちろん、参考にしている文献などはありますが、あくまで私の法話としてちゃんとアレンジしたオリジナルです。

第1回としてこの季節は『永代経』が各地で行われていることもあり、私も永代経法話をさせて頂きます。

私が実際に本堂にてするような話から開始します。

皆さん、こんにちは。
ご多忙の中、お越しいただけ誠にありがとうございます。

私はまだ修行中の身ですので、面白い話とまではいかないでしょうが、お耳を貸して頂ければ幸いです。

さて、本日は、永代経法話というテーマでお話をさせて頂きます。

皆さん、永代経ってどんなものかご存知ですか?
永代経というお経はございません。


つまり、分かりやすく言いますと「いつまでも」ということです。

浄土真宗以外の宗派においては、永代に追善供養をするというのが「永代供養」の意味で知られています。
では、浄土真宗ではどのような意味で永代経をつとめているかと申しますと、「歎異抄」第五章に「親鸞は父母(ぶも)の孝養のためとて、一返にても念仏もうすたること、いまだそうらわず」という有名な言葉がありますように、追善供養ということを否定しています。

釈尊(お釈迦様のことです)のお説きになられた経典には、追善供養あるいは追善回向による功徳のことが各所に述べられていますが、親鸞聖人がこれを否定されたのは次のような理由からだと思われます。

1.追善供養は不必要というものです。
これは阿弥陀如来の大きな救いの力(弥陀の本願)をわが身にわが心に受けますと、自分の小さな追善供養など全く必要がないことを知らされます。
昼間の太陽の光の下で、懐中電灯を灯しておく必要がないのと同様です。

2.わが身は自力の善根をつめない身であるから真実の追善供養が出来ないのです。
如来の救いの光の中に照らし出されあるがままのわが身を知らされますと、善根をつもうとしても何一つつめないわが身であることが知らされます。
泳ぐことが出来ない人が、溺れている人を助けようとしても一緒に溺れてしまうというのと同様です。
助けることが出来る身になることが一番肝要ということになります。



ちなみに、永代経に進納された御懇志は教法を護持し、人々に伝えるための拠点である寺院の維持と機能が存分に発揮出来るようにするための資金として使われています。

本日は、つたないお話ではございましたが、ご清聴ありがとうございました。



と、言った感じで私の20~30分用の法話をさせて頂きました。

60分用では、更に前述の三部経について詳しくお話をさせて頂きますよ。

それについてはまたの機会に。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年09月29日 21時54分18秒
[週間法話] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: