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6日目 昨日の夕食に初めて食べた豆乳粥の感触を思い出しながらの朝の目覚め。清清しい! 外はまだ薄暗い。いつものように本堂へ。この頃になると参加者同士の非言語的なコミュニケーション(ジェスチャーではありませんよ)もよりスムースになっているのを感じる。 無言でも、また眼を合わせなくても交流があるのだということがわかった。 朝の勤行のはじまりのときに【発願回向の詞】を読む。十数行の短い詞なのだが、この詞の中には仏教の全ての生きた教えが凝縮されているのだ。 発願回向の詞 本師法王阿弥陀如来の御心と完き(まったき)一体の御方は、天にも地にもかけがえなき、私のの中に深く宿りた給う親様一人であります。 有漏(うろ)のわが身を下がらせて頂くことにより、胸の親様はすべての御印をお示しになり、十方世界に遍く(あまねく)光明を放たれます。 自己を捨て自己を空無にするとは、自ら持たされあたえられているもの、そのすべてを利他の正善と喜びの為に捧げ、欣然(きんぜん)と自己を解き放つことであります。 外なる如来の光明が、内なる親様を通して現界に現れ、すべての宇宙に智慧と愛と平和の光が遍照されます。 ヽ ヽ ヽ 末法世界人類が光の御手に救いとられますように、至心に回向奉る。 最後の詞で世界人類の平和を祈っているのだ。 これってマザー・テレサのいってたことと同じじゃない。【有漏の我が身を下がらせて】たどり着くのはもしかしたら、【胸の親様】って《真我》ってこと・・?源かもしれない。ヒンドゥー教では、アートマン、ブラフマンっていうよね~。 ちなみに【有漏の我が身】現在の私の在様・・煩悩を抱えている自分 のことだと解釈したのだが。 <おんなじだ!!!> 高い山があり、その頂上が【悟り】と呼ばれる場所だとする。 頂上目指して沢山の人々が登っている。あっちの登山口、こっちの登山口と、先を急ぐ人たちは険しい道(近道)のんびり行きたい人々は時間がかかってもゆるやかな道、リーダーにひたすらついていく人たちもいる。自分の道を探し求める人もいる、、、。いずれにしても頂上へはたどり着くだろう。 しかし、マザー・テレサに限っていえば、彼女は【道】を考えていただろうか・・・?マザーは極限の国インドで沢山の不幸な人々をみて【求道の道】を選ばなかった。ただひたすら神をみて、神の手足となり働いた。 この意味するものは・・・・? などと、この日は一日中【有漏の我が身】を忘れて考え続けたのだった。 『夢』 身体が楽になったころから、夢を覚えていられるようになった。日常の生活では、なんか夢をみてたなーとか、駄夢(無駄?)が多くあまりおもしろくなかったが、ここに来てから明晰夢をみられるようになっているのに気づいた。 明らかに他人の心理状態(悩みの原因)について、実にシンボリックな夢をみるのだ。そして、夢という自覚があり、覚えておこうとする自分の意識があり、実際目覚めてからも細かく記憶していた。夢の中での努力がみのったわけだ。 とても、おもしろい夢もみた。 お腹が奇妙な感じなので、触ってみるとおへそに穴があいている。ワー大変!どうしようと不安になりいじっているとナントその穴から舌が出ているのだ。不気味だ。 怖くなって病院にいくと、〇〇〇結サク症(〇〇〇は分からない)で手術をしなければ・・と女医が言ったので、私はこの穴を塞ぐための手術と舌を元のところに戻す手術もしてもらった。 これは完全に私自身に関する夢だ。肉体の病気を示唆しているのではなく、【気】の流れのことだ。 話すという行為は、時として【気】を漏れさせることになる。私たちは無駄なおしゃべりをすることで大事なエネルギーを無駄に使っている。どこから漏れるのかはおへそのところにあるチャクラだ。だから、【沈黙】なんだね。 夢に教えられた。 【時間】 ここでは時間の流れが異様に遅い。ゆったりとながれるのだ。 1分の長さが私の日常の1分とは全く違うのだ。 最初のうちは日常とかけ離れての生活がそう感じさせるのかなと思っていた。そのうちにどこか次元の違う場所に居るんだと思うようになった。以前ヒマラヤで過ごした時、また、屋久島で短い休暇を過ごした時も同じようにゆったりとした時の流れを感じたことを思い出した。 この宇宙の息吹き、雄大な時の流れ、その中に点として存在している自分。説明しにくいフィーリングだ。なんて不可思議な世界なんだろう! 最後の日最後の朝の勤行だ。心をこめてお念仏を唱える。上人の法話でご自身の修行体験(+人生経験)をお話してくださった。仏様の懐にとびこむことになった経過がドラマティックで、熱心に聞き入った。 なかでも、修道院での1週間の最初の修行のお話は、断食こそしなかったが一日の大半を念仏(瞑想なしで)を唱えるというもので、そうとうハードだったという。 そんな中で、アミダ世界に出会った。お寺の住職さんでありながら、しがらみを断ち、仏様の手足となり、行き場のない人に居場所を提供し、身体によいものを食べさせ沢山の命を救っている。上人はそんな人だ。念仏という一本柱が通っている。 法話の後に、御礼礼拝の五体投地の仕方を習い、やってみる。 チベット仏教のやり方と違う。腹ばいにならず、両膝、両肘、額を地につけるのだ。心地よい節で、南無阿弥陀仏を唱え、その音程も上音、中音、下音と3段階に変化するのだ。 実に優雅だ。ゆったりとした動作を繰り返しているうちに感謝の念が自然に湧き上がってくる。 いよいよ下山だ。終わってみるとアッと言う間、とはよく言うけど今回は、ながーい、ながーい一週間だった! 『わからない』ことを『不可思議』というらしいが、私にとってこの一週間は不可思議だった。不可思議な場所で不可思議な体験をした。 この庵の桟敷で、昼下がりの太陽を全身に浴びながら念仏をとなえたときの不可思議な体験も忘れがたい。 【有漏のわが身はそのままに、慈愛の朝日の融け合うて今日も感謝に生きましょう。 今日一日の出来事は、みな自業自得の相(すがた)なり、潔く約束ごとを果たしましょう。 不平不満や貪瞋痴、暗い想念ひるがえし、わが身勝手はさようなら。三輪体空葉宝船、内なるミオヤに導かれ守護霊、守護神加護のもと、この世の使命はたしましょう。】 ― 一日の感謝のことば― 【有漏のわが身】を自己嫌悪することなく、知ることができたことに感謝! 【有漏のわが身】のままで慈愛の朝日に溶け込めることに感謝!
2006.12.16
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11月18日(土)~25日まで沈黙断食合宿に参加した。 夫に老いた義母の世話、3匹の猫、一匹の犬を託し、出かける前は、留守にする不安のほうが強く、修行のきつさまで気が回らない私だった。 目的地までの3時間のドライブを楽しみ、到着は夕方。夕飯はなし、ということで覚悟がまだできてない私は失望の極み。 その日の夜は自己紹介などで和やかに過ごし、いよいよスケジュール発表。エッ!と内心不安になる。 ちなみにスケジュールとは 6時 起床 6時30分~8時 朝の勤行 8時~9時 朝食(林檎、人参ミックスジュース) 9時~12時 念仏三昧 12時~13時 昼食(ジュース) 13時~16時 念仏三昧&法話 16時~16時30分 休 16時30分~18時 夕の勤行 16時~19時 夕食(勿論ジュース) 19時~20時 念仏三昧 ズーと以前にインドのダージリンのチベットの寺にいたときもこんなに厳しかったかなーなんて思ったり、その経験があるから大丈夫と思ったり、こころは千路に乱れたままその夜はそなえつき3段ベッドの一番下で眠りについた。 一夜が明け、6時の版木の音でベッドからでる。同室の3人とも無言のうちに着替え、洗顔を済ませ本堂へ。外はまだ薄暗くしかも雨。晩秋の空気が肌に冷たい。山間の静けさも今日の私には心細く感じられる。 朝の勤行では寒い!! 声が出ない!全員の念仏の調子が合わない!などで集中できず、さらに離れたところのまきストーブの暖かさが感じられず、傍らにあったストーブのスイッチを勝手に入れてしまった。しかし10分ほどで消された。 ジュースはおいしい!本当においしい。ゆっくり口の中でこ ろがすようにいただく。昨年の夏の断食合宿に参加したときに、お作法は学習済みだったので、これはクリア。 いよいよ3時間の念仏三昧。場所は離れにある弥山堂という小さなお堂。瞑想から始まる。雑念が山のように湧き上がる。4,50分経っただろうか・・・。尼さんの美しい念仏の声とリズミカルな木魚の音に誘われ、恐る恐る後に続く。 南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏・・・・・。 皆の調子が合わないと落ち着かない。合わせようと頑張ってしまう私。それに終始し、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。 疲れた!それに脚が痛い。 瞑想はそうした私にとってしばしの休息。 午後の念仏三昧も展開は同じ・・。 しかし、尼さんの法話には感ずるものがあり、我に返る。 かくして1日目、2日目は過ぎ、空腹はさほど感じられなかった(ジュースを一日3杯飲んでいたためと思われる)。しかし体の調子がおかしい。 自分がなにか重大な病に冒されているのでは、という妄想が夜布団に入ると湧き起こってくる。健康な感じがしないのだ。 臭いに非常に敏感になり、十分睡眠はとっているはずなのに(9時には眠っている)頭がボーとしたり、眩暈とは違うがクラッとするような心もとない感じとでもいおうか・・・。 3日目 法話の時間。尼さんがなにか語りたいことがある人はお話ください、と言ってくださったので一人一人が心の内を話しだした。一人一人の話すことが貴重で、重々しくって、いとおしくって泣けてしかたがなかった。全員が話しながら、聞きながら、泣いていた。 そして、再び沈黙。 この法話の時間の後ぐらいから、自分がここの〔場〕に〔居る〕ということを受け入れる気になったんだと思う。念仏を唱える間も頑張らずにできるようになってきた。 不思議なことに、瞑想しているときと、念仏を唱えているときの心の状態は変らない、ということに気づきはじめた。 瞑想ー沈黙 念仏ー沈黙 そして活動ー沈黙 故に、瞑想=念仏=活動 なんですね。 沈黙するとエネルギーの向かう先は自分自身になるのか。 自分について考えた。 4日目 所要のため不在だった上人(浄土宗の住職さん)が到着。さっそく、午後からの念仏三昧をリードしてくださった。 法話も念仏も瞑想も長い!せっかく高揚しかけた気分がさがりかけたほどだ。皆の念仏の声も心なしか元気がない。 また私の心が抵抗を始めるのを感じた。 その日はあきらめて寝ようと布団に入ってちじこまっていた手足、背筋を伸ばしゆったりとあくびをした途端、体の内部が楽になっていることに気づいた。〔私は健康だ、輝くばかりに健康だ!〕という喜びが湧き上がってきた。昨日までの不安がうそのように消え去り、心底安心した。 昨日までの体の不調は解毒作用のせいだったのか・・・。 そうは聞いていたが、結構スゴイ。 5日目 今日は夕方から復食の開始の日。まだジュースだけで大丈夫のような気がしたが、それはそれで非常に楽しみ。 空も快晴。雲ひとつない。 まるで私の心のようだ、、なんて思った。 すこし、上人の厳しさがこわかったが、念仏三昧にはいった。また自分との対面だ。 家族の中、学校の中での違和感、孤独感、結局このフィーリングは長ずるまで付きまとっていた。 (現在のわたしを知る人はエー!って感じでしょうけどね。) 結果、あっちで打たれ、こっちで打たれ苦労させらるわけで、ますます自己中心的になり、自己防衛の世界にはいっていった。 自分も傷つけ、人も傷つけ闇の中。 <フー、なんて業が深い!!> 結局、この日も自分をみせつけられ、一日は終わり。 だが夜は爽快な気分でよく眠れたのが不思議。 ー【続く】ー
2006.12.01
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