Tarsha's Trace

Tarsha's Trace

2008.02.06
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『明暗』・・・Yabeeh... (こんなばっちぃ言葉を使ってごめんなさい)

本当に論文で扱えるのか・・・

考えろ、考えろ・・・







さきほど、Tarsha's papa と Pagasa より、メールの返信が届いた。今日の午後、ターシャがちょっと寂しくなって、2人にメールを送ったのだった。fufufu, 本当に面白いわ また明日にでも?ブログで紹介しましょう。







漱石神話を崩した評論家・江藤淳氏に学ぶことは、本当に多い。江藤氏に心から感謝である。もしも彼が生きていて、会うような幸運があったならば、

江藤先生のおかげで、漱石が、「大」好きになりました!!

と、言うだろう。


初版へのあとがき(『決定版 夏目漱石』)の中で、こう言われていた。


英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象になっている漱石に我慢がならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えれた精神の動きは、常に生きているからである。





一人の人間が描いた、苦しみに満ちた偉大な生の軌跡―それだけで、心を震わすような感動と共感を与えるものなのに。神という超越的な権威によって、人間を権威づける必要はないのだ。



江藤氏はこのようにも語っている。


出来るだけはっきり漱石の生ま生ましい姿が見たかったので、そのためには余事はどうでもよかった。しかし、この航海で発見したものは少なくない。地球というものに全く無知だった近代初期の西欧の航海者のように、ぼくは、次々に出現する未知の陸地に、昂奮しつづけたといってもよい。

このことは一つにはぼくがいかに無知であったかということを、もう一つには、当然のこととしてうちすてられているもののうちに、いかに多くの根本的な問題が眠っているかということを示している。現在のぼくは、自分の眼の前にあるような未知の陸地のかずかずを前にして、いささかぼう然としている。その気持の中には、自分の向う見ずと、一人の人間を理解することの至難さに対するいくらかの感慨がないわけでもない。




これは、1956年に書かれた言葉だ。今から50年以上前に語られた言葉。

読んだとき、美しい言葉だと思った。


「一人の人間を理解することの至難さ」・・・ このたった一点を真に理解するために、わたしは、自分の中にあるどれほどの傲慢さを乗り越えなければいけないだろう。


存在意義の否定は、絶望しかうまないことを、フィリピンで学んだ。その反対にあるものは何だろうと考えたとき、それは、消極的な「受容」よりは、「理解」ではないかと思った。

人間なくして文学も、文学研究もないのであるならば、私の論文執筆の過程も、論文そのものも、人間に対する理解を深めるものでなくてはならない・・・、決して、人間を抽象化するのではなくして。


江藤さんは、「冒険者」だったのだ。漱石という一人の人間の内奥を、その作品の宇宙を、冒険したのだ。彼の切り開いてくれた道を通りながら、わたしはどれだけの宝の居場所を教えてもらい、恩恵を被っただろう。

江藤さんが通らなければ、知ることはなかったのだ。ほんとうに、心から有り難いと思う。






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最終更新日  2008.02.07 02:14:13
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