Tarsha's Trace

Tarsha's Trace

2008.08.14
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類




本当に深い研究はできないのではないかということ。

そして自分にはその1人がいないこと。

そしてもうすでに、多くの作家たちが多くの研究者たちによって論じられていること。


私は結局、1人の読者であり、評論や研究を行うには、あまりに底が浅すぎること。

日本文学を論じようとしながら、その背景がすっぽり抜け落ちており、自分の手が届く貧弱な情報で補うには、あまりに無理があること。

そして、特定の1人の作家に打ち込めない私は、普通の生活人として、これから本当に良い文学作品だけを楽しめればいいこと。


必要性はどこにある? 


今まで板挟みだった。「古い」方法と「新しい」方法の。日本では前者。フィリピンでは後者。



一方で、「古い」あり方には変わらず、息詰まりを覚える。それでも、新しさには欠けがちな、作家と作品に対する「誠実さ」がある。


文学研究がこれからどうあるべきか。私はまだよく分からない。「文学」というカテゴリーが相対化されている今。

しかし、その研究方法が古いものであれ、新しいものであれ、「文学」を研究しようとするならば、やはり、足場となる1人の作家が必要なのだということを、痛烈に思い知った―


改めて江藤淳の漱石研究を読み直して。


作家が生きた「時代」とその生涯をよくよく、底の底まで知らなければ、本当の意味で、現実の生活に生きる「私達」に還元される読み・研究は展開できないのだということを。


流行している現代思想や現代理論を応用する読みに永遠性はない。普遍性もない。


江藤淳の漱石研究は違っていた。そして彼の研究をそうならしめているものは、何よりも、漱石に対する深い尊敬と愛情だった。

普通の読書に終わるなら、作家に対する徹底的な知識と思い入れは必要ないだろう。

でも、研究であれば違う。違うのだということを思い知った。

作家を、特定の時代に生きた、血の通った一人の人間として、立体的に現前に蘇らすことができなければ、作品研究においても、致命的な何かが欠ける。


文学理論では、すでに作家の、作品に対する権威は失墜している。そこから、作家を無視して作品のみを見ていこうとする方法論もある。でも作家は無視できない。作品を、そして人間を理解するということに誠実であろうとするならば。


何より人々に「読まれる」ことを前提とする芸術ならば―

どんなに新しい読みが展開できたとしても、

それが、ほんの一握りの専門家の間でしか受け入れられず、その他大勢の、一般の読書人には理解されない「読み」、活かされない「貢献」であるならば、

不毛だ。

「文学」研究が生み出す結果に、人々の「共感」が伴わないのであれば、一体、その存在理由は何なのだろう。作品と作家と読者は、相互関係にあるのだから。






絶望じゃない。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008.08.15 03:59:46
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

プロフィール

tarsha1

tarsha1

カレンダー

カテゴリ

バックナンバー

2025.12
2025.11
2025.10
2025.09
2025.08

キーワードサーチ

▼キーワード検索


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: