真田丸。
この豊臣時代大阪城には「三ノ丸」が描かれていない。自分の死を予期した秀吉が死んだ年1598年のことだったか、「三ノ丸造営」を命じた。と若いころに読んだ本に書いてあった。三ノ丸の造営は秀吉の死後も続けられた。大阪城の西だった。
今日の夕食。とても美味しかった。主菜はシャケのムニエル。
2016年11月13日、日曜日。6時27分起床。体重72 . 7kg。
晴れ。
体重が毎日漸増している。
『気を付けなければ』
今朝、 『ブラタモリの大阪編2 真田丸』 を見た。しかも2回続けて。
今年の2月松江市で、
《江戸時代の初期に、実際に真田丸跡地を訪れて、実写した古地図》 が発見された。それを元に超音波を使って地下の様子を調べる等の調査が行われた。
まだ仮説の域を脱しないが、かなり信憑性の高いものとして、
《これこそ真田丸 !!! 》
という扱いで、すでに3回ほどテレビで取り扱われた。
私もこの仮説に大賛成。もう信じ込んでしまった。
私は中学生時代から20代半ばまで「豊臣秀吉」が大好きだった。それ故、豊臣家を滅ぼした家康が大嫌いだった。
高校受験生でありながら、嫌いな家康のことに触れた関ケ原以降の社会の教科書はページを開けることもできないくらい憎んでいた。
当時、誰にも負けないと自負していた記憶力を持っていた私だが、中3の3学期の 業者の実力テストの社会科では46点。同じクラスのW男もN男も96点を取っていたにも関わらず・・・だ。
今はかなり穏やかになっているが、家康の命でしっかりと改修された姫路城もあまり好きではない。城好きの私だが、姫路城を扱ったものは余り見ない。もうかなりの知識は頭に入っていることもあるが。
ただ、現在の大阪城は秀忠の時代に築城された。巨大な石垣、堀を持つ名城だ。姫路城にしろ、岡山城にしろ、松江城にしろ、どの城の石垣に使われている石は小さい小さい。その点で、秀忠は結構好きな将軍となっている。でもそれも60歳になってからのことだ。
『妥協したのかな?』
高1か高2の時、自由参加で 「安土城祉見学」 というのを社会科の教師先導で計画していた。私はそれに参加した。信長の名前は知っていたが、安土城に関してはそんなに詳しくは無かった。今は山頂部分の郭の形、大まかな石垣の配置まで記憶している。
信長に関心を持ち出したのは30代になってからである。
幸村にとっての 大坂の陣 は、
《これこそ天が与えてくれた最高の果実》
今の私ならそう思える。
真田家単体としては、徳川に2度も勝ったのに、父とともに高野山、そして九度山に幽閉されてしまった。
歴史に埋もれてしまい、一部の専門家にしか名前を知られない、そのような生涯を送るだろう最後の瞬間に『眩いばかりの未来』を開いてくれた。
可哀そうなのは、嫡男の大助だろう。若い命を散らしてしまった。でも、当の本人はそうは思っていないと思うのだが。
似たようなことを忠臣蔵でも考えてしまう。「嬉しや」という気持ちに浸りながら切腹できた大石内蔵助と違い、嫡男の力は、若い命を散らせてしまった。
新資料に基づいた雑誌が出るのはいつだろう。すぐに見てみたい。
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