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826asukaさんについて 続き 思わぬ形でエレクトーンという、およそ今の私の趣味からは縁遠い電子音の世界に入ってしまったのですが、しからば、なぜ私はこうした電子楽器の音を忌避して来たのだろうと思ってしまうのです。これには多分にエレクトリックサウンドに対する偏見と、アコースティックに対する偏愛があったでしょう。 じつは私も若い頃はクラシック音楽の趣味と並行して、かなりエレキサウンドにも傾倒して、ずいぶんブリティッシュ系のロックバンド(クィーンは今もお気に入り)を聴いていたものでした。電子系といえば同じころ冨田勲やキタローのシンセサイザーが花盛りでしたが、私はどちらかというと彼らの電子音には否定的でした。要は二、三曲彼らの音楽を聴くと、どれも皆「同じに聴こえてしまう」ということです。新規な電子音を響かせながらも、その曲作りはいたって保守的というか、従来どおりの技法に添っているというのが見え見えで、まあマーケティングの都合もあったのでしょうが、これでは未来はなかろうというのが当時の感想だったのです。 じつはそれを遡る20年ほど前(1950年代ぐらい)から、クラシック音楽界では電子音を用いたコンポーズがけっこう盛んに行われていたのですが、結局試みばかりに終ってしまい、今でも演奏されるような「古典」は生まれませんでした。むしろ20世紀初頭ごろから始まった音楽技法の展開(12音技法とか無調性音楽など)の成れの果てが、発展というよりも音楽の解体という形で、電子音楽に集約されてしまったと言ってもいいのではないか。 というわけで、現代音楽における電子音楽の流行というのは、案外速く廃れてしまったように思う(私見ですよ)。もちろんそれで電子音楽がすっかり消えてしまったというわけではなくて、いわば「音源の一つ」としてあちこちに(ジャズやロックや映画音楽のサウンドに参加するという形で)使われるという流れだったと思います。いずれにしても電子音が主体の音楽が音楽シーンの表に出て来ることはなかった。 その根本原因は結局のところやはり、その「無機質な音」=「非身体性」ということになるでしょう。シンセサイザーのキーは誰が押しても、厳密に電子的には同一なのです。今回826asukaさん以外にもyoutubeで拾える範囲のキーボードを聴いてみたのですが、やはり面白くない。その無機質性から来る、いかにも乾いた軽い音質は、重厚なクラシックをアナログで聴いている耳には、到底受け入れがたい種類のものなのです。 で、その傾向はとくにエレクトーンの演奏で、露わになっているような気がしてしかたがない。ちょっとキツイかも知れませんが、これでは天気予報とか野球場のBGMみたいな、ごく手軽な場面での音源でしか認知されないというか、居場所がないのではないか。電子楽器が単体でライブを行い、聴衆を集めるというのは、ヴァイオリンやピアノやフルートなどとは違って、永遠に来ないのではないか、という虚脱感に見舞われる仕儀となるのです(まあ冨田やキタローのような例外はあったとしても)。 今回もう一つ、一連の電子楽器の音楽を聴いていて感じたことは、演奏者以上に楽曲の編曲を行ったミュージシャンもしくは音楽技術者の存在感が、非常に大きいということです。エレクトーンの譜面は見たことがないので、いい加減なことは言えませんが、ごく大ざっぱに例えば、リズムセクションはあらかじめ組み込んであるとか、音源の選定、効果音の挿入などは全部前もって作ってあって、演奏が始まれば自動的に切り替えてくれるらしい。もちろん手馴れた奏者であれば、それらをはずして自ら編曲するということも多分可能なのではなのでしょうが、そうなると理屈上は、逆に編曲にまめに手を入れていけば、演奏者オリジナルな音楽を「自動演奏」で行うことも可能だ、ということになってしまうでしょう(たぶん)。 となれば、こんな場合「演奏者とは何やねん」、あるいは「演奏とは何やねん」ということになってしまう。「演奏者のいない演奏会に、聴衆は集まるだろうか」ということなのです。 いささか話が飛躍しています。大事なのは、それでも今回の826asukaさんの動画は、私にとって大変面白かった。これだけ否定的な話を並べてもなおかつ、彼女の演奏からは、例の「歌心」が確かに聴こえるのです。さしあたって彼女の演奏に特徴的なのは、譜面に対して非常に謙虚だということでしょう。ストイックすぎるんじゃないの、という場面も時折りありますが、私などむしろそちらに好感を持ってしまう。 速い話、少なくともクラシックのスコアに自分なりの手を加える指揮者はいません(かつてはあったようですが)。それをやりだすと指揮者の仕事位置が曖昧になるからです。彼らは「そこに置かれた譜面」だけを徹底的に読み込むことによって、そこに託された作曲者の「歌心」を呼び起そうとするのです。 しかし、エレクトーンにかぎらず電子楽器の持つアポリアというのは、上のような厳密性はなくて、まさしくその「何でも出来てしまう」という際限のなさそのものにあるのであって、その自在さは演奏とか指揮とか編曲とか、果ては作曲の部面に到るまで(AIが自動作曲し演奏するという時代も遠からず来そうです)、逆に音楽界全体に「自由」という不自由を強いるという結果を招きかねないのではないか。 エレクトーン(これはヤマハ楽器の商標名ですよね)と言わず、電子楽器が単体としての楽器としては、一般に少しも認知されてないというのは、今だに楽器の説明が必ず入る、というところに現れています。早い話ヴァイオリンとかピアノといった楽器は、絶対そうした紹介のされかたはしない。いきなり演奏、つまり音楽が始まるわけで、その楽器の仕組みをいちいち詮索する人はいないのです。楽器の説明は「音楽の楽しみ」とは別の話でしょう。 「しかし、それをしないと誰にも分ってもらえない(売れない)」という反論は、少しおかしい。エレクトーンって私の子供時代(40年以上前!?)からあって、ヤマハの音楽教室といえばピアノかエレクトーンかというのは、誰でも知っていたでしょう。してみれば、これはマーケティングの失敗というか、過誤のせいではないか?と、これはよそさんの会社の方針だから、どうのこうの言ってもしかたがないのですが、市場を刺激するために新型の性能ばかりを強調するというのは、ちょっと違うんじゃないのという気がする。 要は、誰もが「心を打たれる」優れた演奏者が現れれば、状況は一変するのです。作曲家が霊感を感じ譜面に託した「切迫する何ものか」を、聴き手に確実に届けてくれる、そういう多量に「歌心」を持った演奏者が一人現れれば、楽器の仕組みのことなど誰も詮索しない。シンプルに「音楽の楽しみ」を味わえるのです。 という意味で、「音楽教室」という日本独特の「おけいこごと」というシステムもまた、そこで一体何を「育もう」としていたのか、いたって不分明になって来ますね。少なくとも上に触れたような意味での、「歌心」の醸成という面はあまり意識されなかったのではないかしらん。あまり言いたくはないですが、ほかの「おけいこごと」教室と同じく、ごく安っぽい市場原理で運営されていたのではないか? 「しかしそんなもの、持って生まれたもので、教育で出来るもんじゃない」という声が返ってきそうですが、私はそうは思わない。確かに手指が恐ろしく達者で、何でも弾けてしまうピアニストやヴァイオリニストは何人もいますが、真に聴き手の心に届く演奏をする人はそんなにいません。逆に自身の「歌心」の不足に悩んで、四苦八苦しているプロの演奏家は山といるでしょう。 音楽のミューズはいつも「そこにある」のではなく、ごく気まぐれに舞い降りたり、飛び去ったりする。音楽とは関係ないですが、イチローが四十歳を越えても現役のアスリートであるのは、打撃の神様もまたはなはだ気まぐれであることを彼はよく知っていて、だからこそ降りて来たら確実に受信出来るように、あきれるほどの「準備」を怠らなかったからでしょう。小澤征爾が今だに世界の一流オーケストラから招聘されるのは、彼が楽員の「歌心」を呼び起こすのに秀でているからです。考えてみればクラシック音楽なんて、19世紀から20世紀前半のたかだか200年足らずの間に出来た音楽で、レパートリーは案外限られている。それらを繰り返し、ああでもないこうでもないと演奏していたら、やはり手垢もつくし痩せても来るでしょう。 面白いのは優れた指揮者とか演奏家というのは、いわばそうした使い古された楽曲を「あたかも今そこで生まれつつある」かのように、新鮮に蘇らせることの出来る魔術師なのです。ベルリンフィルとかウィーンフィルなんて、技術がどうのこうのというオーケストラではありません。それでも彼らは楽員全員に「歌心」を招来させ、それを聴衆(他者)に届けるということが、かなりの難物であることをよく知っているのです。 小澤征爾のタングルウッドや松本での有名な「音楽塾」の記録フィルムを観ていると、彼が指し示そうとしているのは、「歌心」の刺激と醸成という一点に絞られている、と言っていいのではないかと思ってしまう。 まあ、よそさんのことですから、余計な話ですけど、ヤマハだって音楽の真の在り処を知っているなら(知っているでしょう)、人の心を打つ音楽家をエレクトーンで一人でも育てていたら、この楽器に対する世間の評価は、ずいぶん変ったんじゃないのという気がしてしかたがない。 話がずいぶん長くなりました。826asukaさんの演奏を聴いていて、そんなことを楽しく考えました。
2016.05.19
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826asukaさんについて 年明けから気鬱なことが多く,大好きな音楽の話もサッパリ興がのらない日が続いていたのですが、久しぶりに語るに足る面白いニュースがあったので話しようとするのです。したがってカラヤンの話もシベリウスの話もしばらくお休みとなりますが、まあ音楽の素性をあれこれ詮索し、その面白味を探るという意味では、以下も同様なのですが。 その話題というのは、5月3日の「情報ライブ ミヤネ屋」で紹介された「天才エレクトーン少女、826askaさん」のことで、年末にyoutubeにアップした彼女の「スター・ウォーズ」メドレーが、欧米のメディアに取り上げられて以来、えらい騒ぎになっているというものでした。まあ十四歳の当時中二の女の子が、フルスペックの映画音楽をエレクトーンで一人でほぼ完璧に再現した、ということであれば確かに話題にはなりそうです。 確かにその演奏は凄いというか、唖然とさせられるのですが、天才ヴァイオリニストとかピアニスト、あるいはアスリートの出現といったようなことは、この年代ではよくあることです。エレクトーンといえば両手両足を自在に操るという点で、ある意味曲芸的な特色が強調されすぎるきらいがあって、私などそれでかえって引いてしまうというか、まったく興味の外にあったのですが、彼女のおかげで生まれて初めて、この電子音の世界をかなり聞き込むということになってしまいました。 826asukaさんの動画サイトをみると、アップされた動画は25、6ほどで最初のは6年前八歳!とありますが、まあこれはよくある発表会のもの。私はその後アップされたいくつかの動画から、とくに気にいったものの話をしようと思います。 4年前十歳の時の「パイレーツ・オブ・カリビアン」メドレー。打鍵の妙もさることながら、私はむしろその卓越したリズム感に舌を巻いてしまう。たんにメトロノーム的に正確ということではもちろんなくて、自然な躍動感があるのです。それとあらかじめプログラムされた効果音と、旋律とのバランスも良くて、まるきり違和感がない。このあたり早くも彼女の感性がよく出ていますね。 さて次に挙げたいのが、その翌年のエルガー「威風堂々 第1番」で、錯綜したリズム進行の中でも、運指がいささかも乱れることがない。しかし私はむしろ錯綜した弦楽器群と管楽器群のバランスの取りかたが面白かったというか、生のオーケストラより、各声部が明晰に聴こえるのが愉快でした。さらに中間から始まるメインテーマへの入り方とテンポが自然で、まさに堂々たる風格となりました。 同じ頃の「大河ドラマ 篤姫」のテーマを聴くと、この各楽器群の音色とかバランスの感覚がよく出ています。フルオーケストラの楽曲を忠実に再現したということでなく、それを超えた非常に明晰な印象を聴き手に与える。この「明晰性」というのが、これまた彼女の大きな特性となっているように私は思うのです。 その一年後(ということは、一昨年のことですが)の「ミッション・インポッシブル3」のテーマでは、先の「パイレーツ・オブ・カリビアン」でみられたリズム感が、完全に自家薬籠中のものになっていて、文句なしに楽しめる。おそらく弾いている本人も楽しかったのではないかしらん。 さて次に挙げるのが、昨年夏にアップされた原曲がリベラ少年合唱団の「彼方の光」で、打って変わってずいぶん叙情的な演奏を聴かせます。その人が持つ音楽の感性とか質は、テクニック的にはごくシンプルなこういう楽曲のときにむしろ現れるので、中間の弦楽のハーモニックスからフィナーレへ向っての盛り上がり、慌てず騒がず見事なものです。普通の人はあるいはひょっとしてプロでも、途中で力が入って速くなったり大きくなったり、要は「嫌味」に聴こえる場合があるのですが、ここではそうしたストレスが少しもない。 で、それを生み出しているのは、たぶん指先のテクニックではない何か、つまるところ例の「歌心」という所に行き着いてしまう。私としてはエレクトーンでそうした音楽が聴けるとは思っていませんでした。先のカラヤンで触れようと思っていた事柄が、期せずしてここに現れているのです。 「その『歌心』とは、いったい何やねん」と言われても、簡単には言えないのですが、要は楽曲に記された中味から弾き手が聴き取ったもの、それもかなりの「切迫性」をもってその楽曲が訴えようとしているものを、奏者がどのように嗅ぎ取り、どうやって聴き手に届けるか、ということなのだと思うのです。「歌心」というのは我が身にもともとあったのではなく、別のところからたまたま舞い降り、とにかく一刻も早く「あなたがそれを人に伝えよ」と迫ってくるもの、たぶんそういうしかたで生まれて来るものなのではないかしらん? 話は少し変りますがここで思い出すのは、例のヴァイオリニスト神尾真由子さんです。ずいぶん以前に取り上げましたが、彼女いわく「本当に調子のいい時は、『自分の演奏を聴いている自分』が、頭の後方30センチぐらいのところにいる」とか。優れた演奏(あるいは作曲も)というのは、たんに熱中とか忘我の中で生まれるのではなく、そういう自分も含めた全体(世界)を一望俯瞰するような、(一種醒めた)別の眼あるいは耳が必要だということでしょう。826asukaさんの演奏には、あるいは自身の奏でている音を、少し高い位置から聴いている耳があるのかも知れず、それがたぶん曲全体の骨格に落ち着きを与えているような気もするのです。 高度なテクニックがあってのことですが、先のスター・ウォーズにしても、例えばダースベイダーのテーマ、金管と打楽器の連打がどうしても目立ちますが、私にはそれを支える弦の「内声」がキレよく聴こえる。ミヤネ屋ではこういうのを「伴奏」と説明していましたが、主旋律と伴奏という理解の仕方は何となく誤解を生むのではないかしらん。私は音楽を専門に勉強したことがないので、あまり迂闊なことは言えませんが、クラシックではこれを確か「内声部」と言っていたように思うのです。伴奏と言えばどうしても「従」というニュアンスを受けますが、「内声」なら主と一体のもの、あるいはそれら一切から生み出されるものこそ、「旋律」そのものなのではないか?どの声部をどんな強度で出し入れし、どんな音色とスピードで奏でるかというのは、クラシックの指揮者がもっとも苦心するところでしょう。 というわけで、そのあたりの特色をよく示した演奏として、今年の3月にアップされた「ジュラシック・パーク」のテーマを聴いてみてください。自信に満ちたテンポと各楽器群の出し入れからは、非常に高い「構築性」を感じさせますね。言うたら何ですが、生のフルオーケストラより面白いというか、美しく聴こえる部分があるのです。 と、久しぶりに話が例によって難しく、さらに長くなってしまいました。でも楽しいじゃないですか。 最後に今私の一番お気に入り「Twilight In Upper West」を聴いてみましょう。T.SQUAREというグループのヒット作だそうですが、それよりここで用いられたアルトサックスの奏でかたのほうに興味がある。 今どきの電子楽器というのは、サックスの音色を(たぶん指定すれば)そのヴァイブレーションから息づかいまで再現してしまうので、誰が弾いても同じに聴こえるように思えるのですが、じつはここでも826asukaさんらしさがよく出ているところがある。開始から1分50秒ほどのところから始まる30秒ほどのフレーズ、彼女は一息でやってのけているのです。これってよく考えてみれば、生のサックスでは不可能でしょう。 もし生の再現に忠実ということなのであれば、途中何回か息継ぎの間を空けたに違いない。でも彼女はそうしない。で、それは意図的にそうしたというよりも、自然にそうなったんだろうという気がしてしかたがない。あえて言うなら生の楽器に忠実というより、譜面に示されたものに忠実だったということなのかもしれません。サックスの音色を充分知悉したうえで、譜面に記された声に一生懸命耳をそば立たせていたら、「私にはこのように聴こえた。だから私はこう奏でる」というような、かなりハッキリした「メッセージ性」があるのです。 メッセージと言っても何かの主張とか意見いうのではもちろんなく、さらには言葉にも出来ない(音楽ですから)。であるにもかかわらず、聴き手は何か非常に明晰なビジョンを、目の前に提示された気分になる。優れた音楽の演奏とか絵画などには、言葉では尽くせないけれど、「間違いなく受け手に届く、明晰で切迫した何ものか」が必ずあるのです。Youtubeのコメント欄には、聴いた印象をどう言ったらよいか分からない、というもどかしさで渦巻いているような投稿も数多くありますね。それはまさしく「言葉では永遠に正確には表わせない」ものなのです。 「歌心」とは、たぶんそうした「言葉には出来ないけれど、確かに切迫して来る何ものか」を、明晰に呼び起こす受信装置のようなものでしょう。この先826asukaさんが、どのような道を進まれるのか想像もつきませんが(十四歳ですよ)、思いっきり両ウィングを開いても、常に「歌心」だけは感度よく磨いていて欲しいと私など願うばかりです。音楽のミューズはいつ舞い降り、いつふっと去っていくか分らないのですから。
2016.05.12
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