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2005.12.03
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2006年には第10回菜の花忌シンポジウムが、2月25日(土)午後2時から、東京・日比谷公会堂で開かれます。忙しい時期ですが何とか都合をつけて参加したいと思っております。

記念館は、司馬遼太郎さんの自宅の隣に、安藤忠雄さんが設計されたもので、扇形をした日差しがいっぱい入る、コンクリ-トの打ちっぱなしの温かみのある建物です。

年配のおじさんが玄関前で案内をしておりました。正門を入れば雑木林風の庭がつづき司馬遼太郎さんが好きだった四季折々の自然をイメージした演出をしています。

途中、生前のままに保存された書斎を窓越しに拝見できたときは感動がこみ上げてきました。

記念館に入ると、そこは蔵書のパノラマ。高さ11メートルの吹き抜けの壁面に書棚が張り付いており、約2万冊の書籍が収まっているそうです。

自筆の原稿、絵などの展示コーナーがあり、また150余席のホールでは映画も上映できるほどの立派なものでした。

壁に「21世紀に生きる君たちへ」の碑を拝見したときは、目頭が熱くなってきたことを覚えています。

21世紀を生きる君たちへ

私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして歴史を愛している。 

「歴史とはなんでしょう」と聞かれるとき、
「それは大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこに詰め込まれている世界なのです。」と、答えることにしている。

私にはこの世に幸いたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。 

そこにはこの世ではもとめがたいほどにすばらしい人達がいて、私の日常を励ましたり、なぐさめてくれているのである。

だから私は少なくとも二千年以上の時間のなかを、生きているようなものだと思っている。

ただ、さみしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。
未来というものである。私の人生は、すでにもち時間がすくない。
たとえば二十一世紀というものを見ることが出来ないに違いない。

君たちは違う。
二十一世紀をたっぷり見ることが出来るばかりか、その輝かしい担い手でもある。
もし未来という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。 

「田中くん、ちょっと伺いますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしよう」 
そのように質問して、きみたちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その未来という街角には、私は、もういない。

だから君たちと話ができるのは今のうちだということである。
もっとも、私には、二十一世紀のことなどとても予測できない。

ただ、私に言えることがある。
それは歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。

そこに空気と水、それに土、などという自然があって、人間や他の動植物、
さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。

自然こそ普遍の価値なのである。
歴史のなかの人々は、自然をおそれ、その力を崇め、自分達の上にあるものとして身をつつしんできた。

この態度は近代や現代に入って少し揺らいだ。人間こそ一番偉い存在だ、という思い上がった考えが頭をもたげた。

二十世紀という現代は、ある意味では、自然への恐れがうすくなった時代といっていい。

同時に、人間は、けっして、おろかではない。思い上がるということとはおよそ逆のことをあわせ考えた。

つまり私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。

ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々のまえに繰り広げてみせた。

二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、ふたたび自然をおそれるようになった。 
おそらく、自然にたいし威張りかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくに違いない。

「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と中世の人々は、ヨ-ロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。

この自然への素直な態度こそ、21世紀への希望であり、君達への期待でもある。

そういう素直さを君たちが持ち、その気分を広めてほしいのである。

そうなれば二十一世紀の人間はより一層自然を尊敬することになるだろう。

そして自然の一部である人間どうしについても前世紀にもまして、尊敬しあうようになるだろう。

そのようになることが、君たちへ私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。
君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。自分にきびしく、相手にはやさしく。という自己を。
すなおで、かしこい自己。

私は「人]という文字をみるとき、しばしば感動する。
ななめの角が、たがいにささえあって構成されているのである。
そのことでもわかるように、人間は社会をつくって生きている。
社会とは支え合うしくみということである。

原始時代の社会は小さかった。
家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、けっして孤立して生きられるようには作られていない。

助け合うという気持ちや、行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人のいたみを感じること、といってもよい。
やさしさ、といいかえてもいい。いたわり、他人の痛みをかんじること、やさしさ、みな似たようなことばである。 

この三つのことばは、もともとひとつの根からでているのである。
根といっても、本能ではない。

だから私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは簡単なことである。
たとえば友達が転ぶ。
「ああ痛かったろうな」 と感じる気持ちを、そのつど自分のなかで作り上げていきさえすればよい。

この根っこの感情が自己のなかでしっかり根づいていけば他民族へのいたわりという気持ちも湧き出てくる。

君たちさえ、そういう自己を作っていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるのに違いない。

 「君たち・・」

君たちはつねに晴れ上がった空のようにたかだかとした心をもたねばならない。

同時にづっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。

私は君たちのこころの、もっとも美しいものを見続けながら以上のようなことを書いた。

書きおわって君たちの未来が、真夏の太陽のように輝いているように感じた




安西節雄





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Last updated  2005.12.04 00:05:32
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