ライフキャリア総研★主筆の部屋

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2004年03月09日
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 末端ではあるが、マスコミの世界で働いている私にとっては、実に後味の悪い「事件」だ。鳥インフルエンザを放置した「極悪人」として、社会から「断罪」されている浅田農産の会長夫妻の自殺である。

 私がもしも大新聞社の記者をしていて、会長、社長の記者会見の場に加わっていたら、他の多くの記者と同様、あの場で浅田農産の罪を問いただすような質問を投げかけたであろうと思うと、背筋が寒くなる。

 記者たちは言った。「鳥インフルエンザと分かっていて放置したんでしょう? そう考えるのが自然じゃないですか」。あらかじめ「罪人」であると決め付けた言い方だった。

 彼らは庶民の代表として、「ペンの力」で真実を追求しようとしているのだろう。その姿勢自体は、非難されるものではないが、会長夫妻の自殺という不幸な結末を前に、私はなんとも後味の悪い、やりきれない思いがしている。そこまで追い詰める「権利」が、新聞記者にはあるというのだろうか。

 人間に、人を裁く権利があるのだろうか?

 国家には人を裁く権利があるという「前提」がある。だから、裁判官という職責も人を裁く権利を与えられている。また、新聞記者という職責も、社会的に人を裁く権利を与えられているという「思惑」で動いている。

 しかし、職責をとっぱらったとき、ひとりの丸裸の人間に他の人を裁く権利があるのだろうか?

 新聞記者たちは、役割を、職責を遂行しただけのことかもしれない。しかし、社会とは職責の遂行という形式だけで動くものなのだろうか。形式が滞りなく遂行されれば、それで全てよしなのだろうか。

 縊死……その壮絶な情景を思い浮かべると、反論する言葉をもたなかった会長夫妻が、生身をもって、ギリギリの反論を試みたような気がする。



 そんなことを考えるうち、加害者の心のケアに取り組む臨床心理学者の投稿記事を思い出した。被害者ではなく、加害者のケアという視点にハッとさせられ、切り抜いておいたのだった。2月21日の朝日新聞朝刊掲載の記事である。

 読み返してみると、「修復的司法」というキーワードが心に焼き付けられた。

>米国などでは、被害者と加害者双方の癒しと立ち直りを目的とする「修復的司法」という試みが実践されている。日本でも、弁護士らが少年事件の被害者と加害者の対話を試みるなどしている。被害者にとっては、加害者に自分の受けた苦痛を直接伝える機会となり、やり場のない怒りの感情から解放されるきっかけになりうる。加害者にとっては、自分の犯罪がもたらしたものの重さを知り、謝罪する機会となる。

 インターネットの検索エンジンを使って、さらに詳しく調べてみた。「修復的司法」とは、原語では“RESTORATIVE JUSTICE”である。このほうが分かりやすいかもしれない。「正義は修復可能」という考え方だ。

 哲学者の鷲田清一氏は、『修復的司法とは何か』(ハワード・ゼア著、新泉社)という本の書評の中でこんなふうに書いている。

>現在の司法では、犯罪は<法>という国家秩序の侵害と位置づけられる。だから、罪の確定とそれに相応する合理的な刑罰の確定が中心に置かれ、問題のほんとうの解決、つまりは「失われたもの」の回復は、二次的にしか視野に入ってこない。被害者のニーズではなく、国家のニーズのなかで、審理は進められる。

>著者たちの憂慮は、専門家にすべての審理過程を委ねることで、わたしたちはみずから問題を解決する能力を失ってしまったのではないかというところにある。被害者が不在であるだけでなく、加害者にも矯正の機会はあっても赦(ゆる)しの機会はないのだから。現在わが国でも試みられつつある裁判外紛争解決(ADR)の手法の源流にある、この修復的司法の古典は、「裁き」が何の解決であるべきかという、いちばん基本的な問いへとわたしたちを呼び戻す。(「朝日新聞」03年9月7日)

http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4216

 裁きは一方的だが、修復は双方向的である。修復は、「対話」によって行われる。

 私たちの社会は、自由、平等を旗印にしながらも、いつしか、「対話」を喪っているのではないだろうか。

 善か悪か、加害者か被害者かのどちらか一方に決めつけ、その型にはめ込んだ時点で、人々は安心してしまう。しかも、その型にはめ込む作業を、新聞記者やニュースキャスター、司法などの専門家に任せてしまっている。

 しかし、善と悪の間にはグラデーションがあり、ひと続きにつながっているのだ。加害者の多くは、過去に児童虐待などで傷ついた被害者でもある。また、加害者は、悔い改め、謝罪することもできるし、そのことによって被害者や家族が癒されることもあるだろう。



 浅田農産の事件に話を戻すと、悪徳事業者が社会的に抹殺されたという結末を迎えるだけでいいのだろうか。

 両親を一度に失い、資産や社会的地位も全て失いかけている浅田社長の苦しみは、いかばかりか。本人になり代わることはできないが、想像するだに恐ろしい。

 浅田農産の事件によって、壊されたもの、失われたものは、何だったのだろう。修復的司法の立場で考えるとしたら、その中の何が修復可能なのだろう。どうすれば、修復できるのだろう。

 商道徳、供給者と需要者の間の信頼関係、大量養鶏システムの安全性、行政の管理指導システム……。

 あまりにも課題が多すぎ、大きすぎるかもしれない。何かひとつに焦点を絞り、その課題解決のために、当事者意識をもって「加害者」と「対話」することはできないだろうか。私たちが「被害者」であるならば。



 私たちが観客であり続ける限り、同じようなショーが次々に供給されるだろう。





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最終更新日  2004年03月09日 20時57分14秒


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