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Yahooのコンピュータニュースに<「評価されない」悩めるエンジニアへ──来年は「まず一歩前へ」>と題されたニュースが載っていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041220-00000001-zdn_n-sci その中で、Tech総研の編集長がこんなことを言っているのでそのまま引用:(引用開始) 「将来への不安を解消するのは難しい。変化のスピードが劇的にアップした今、数年前まで通用していた処方箋も役に立たない。「ほんの5年前までは、キャリアに悩む人に対して『5年後、10年後の自分の姿を想像して今の自分の能力をたな卸しし、足りないものを一つ一つ埋めていけばいい』とアドバイスしていたが、今は5年後すらどうなるか分からず、将来像は描きにくい」。 解決策は、とにかく一歩進んでみることだという。「なんとなく面白そうとか、ハッピーになれそうな匂いがしたら、まずはそこに向かって一歩進むことが大切。少しでも前に進めば視界が変わり、新しい人に出会ったり、新しい才能に気づいたりする」。 この処方箋は、前川編集長の経験則に基づいている。「キャリアを極めた人に何人もインタビューしたが、はじめからビジョンや目標があった人はまずいない。やりたいことを、がむしゃらに頑張ってきたら、知らない間に今の位置にたどり着いていたという人がほとんど。10年後のあるべき姿を求めて自分を追い詰めないほうがいい」。(引用終了) 前に「計画された偶然」理論のことを書いたが、それとかぶっている内容だ。確かに今の時代、見通しがききにくいということは自分のまわりや会社の状況を見ても実感する。しかし、とにかく一歩、まず一歩、それはわかってはいるんだけど、その一歩が踏み出せずにいる人が多いのだ。見通しのない霧の立ち込める道で、むやみに一歩踏み出せば崖に落ちてしまうかもしれない。「未知の道」は恐いのだ。 それでも、そのままその場所に立ち尽くしてしまえばそのままだ。霧が晴れることもあるかも知れないし、ないかも知れない。霧の立ち込める中で、少しでも明かりを見つけることができたら、あるいは足元に少しでも道があることが見えたら、そちらに歩いていくほうがいいのかも知れない。 大袈裟な目的やビジョンは必要ないのだろう。というよりも、そんなモノすらも掲げたところで陳腐化し、変化の波にさらわれてしまう危険性があるんじゃないだろうか。遠くの灯台の光に向かって進むことは必要かもしれないが、もっと足元の明かりを見て進むことのほうが、より大切なんだと思う。
December 20, 2004
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同通(同時通訳)はやっぱコンスタントにやらねば勘を戻すのが大変だ。今回はパートナーの人は初めての人だったけれども、なかなか明るい感じの人で話も弾み、ブースの中でのストレスはなかったんだけど…。最近してなかったので、やはりエンジンかかるのに時間がかかったのだ。しかも、今回は日本語が流暢な英語ネイティブの日本語を英語に同時通訳したりして、何やってんだか途中でわかんなくなったり(笑)軽く後味の悪い仕事になってしまった。同時通訳というのは一種のスポーツみたいなもんだ、体育会系だって昔師匠が言ってたのを思い出す。ピアノなんかと一緒で毎日の練習が必要なんだろうな。でも最近はモチベーションも下がりまくりなので、していない。そして、やはりそれが現実に反映されているという有り様か(笑)。ところで、英語ネイティブの人の日本語を通訳をするという機会はあまりないのだけど、やっぱり妙な感じがする。だって、オリジナルでその人がしゃべったほうが、どうしたっていい英語がでてくるわけだから、なんか申し訳ないような…。その人にしたって、流暢とはいえやはり日本語は完全ではないので、もどかしさが残るでしょう。しかし、日本に長く滞在してる外国人のなかには、どちらの言語にスイッチするかというポイントが、話に熱中してる間にすっとんでしまって、いつのまにか自分がどちらの言語を話しているのかわからなくなってしまうようだ。なかなか興味深い現象ではある。一緒に参加した日本語を解さない英語人達も神妙な顔つきをしていた(笑)。会議翌日は、国際フォーラムで行われている「人体の不思議展」に寄ってみた。これはねぇ、一応お勧めと言っておくべきか。仕事柄というか何というか、どうしても展示物の説明書を逐一読んでしまうために、時間のかかったこと。それだけで消耗してしまったという感じ。しかもその説明が結構専門的で、一般の人がみてもよくわかんないよーって感じだったのだが、案の定ちゃんと読んでる人は殆どいなかった。もう少しわかりやすく書けばいいのに…。それに入場料1500円はあまりに高いんじゃありません?しかしまあ、ああいうものは写真ではなくて立体的に見たほうが理解が早いので、この分野に関心がある人にはやはり貴重だ。もともとはドイツで医学生向けに作成されたもんだもんね。展示人体のほとんどは、死刑になった人の献体と聞く。現世で罪を犯した人が、こうして現代版ミイラとなって蘇り、我々に惜しげもなく体内を披露してくれて、学習の機会を与えてくれる。そう考えれば、「あなたたちも社会に貢献したのだ」と言ってあげたいような気もするが(恐らくこの人体剥製を開発したドイツ人やら展示会の主催者はそんな風に思って自分を納得させているのではないかと思うが)、本人達にしてみれば、死んでから(殺されてから)死に恥晒したくねーよ、と思っているのかもしれない。何せ、いくらここまで精緻な再現ができても、結局話はできないのだからわからない。そう考えてみると、人体とはやはり器に過ぎないのだなぁと改めて思うのだった。
December 16, 2004
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世界観。この世の中をどうみているか。そして、その中で自分はどうしたいのか、どういう貢献をしてみたいか。職業や、資格や、役職や、勤め先。それらは全てツールに過ぎない。自分の世界観を実現していくための。世界観といっても、そんなに大袈裟なものではないと思う。今自分が、どうしてこの場所にいて、どうしてこの仕事をしているのか。それには自分の世界観が、大なり小なり反映しているだろう。その世界観と、現実とのギャップが大きくなると悩みに変わり、そこから逃げ出したくなる。どこへ?それがわからないからまた悩む。そんなとき、もう一度基本に立ち返る必要があるのかもしれない。きっと、自分は何者かになりたかった。なにかをしたかった。非力ではあるけれども、世界に何らかの影響や貢献をしたいと思ったはずだ。世界とは自分の身の回りのことから地域のこと、日本のこと、世界のこといろいろあるだろう。でも、自分を取りまくWorld全てが、それにあてはまるのだろう。小さな自分を感じながら、それでも自分の思いから目を逸らすことなく、考えていかなきゃいけないんじゃないか?
December 3, 2004
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