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おいしいものが食べたいから、以前人から聞いたある店の場所と地図を調べて、わざわざ車や電車に乗って出かけていく。お母さんに褒められたい一心で子供が一生懸命勉強してテストでいい成績をとる。評価や報酬を得るために仕事で成果を出そうとする、etc...人がなにかをしようとするとき、原動力となるのは動機だ。動機がないと朝起きるのもおっくうになる。登校拒否や出社拒否の原因も多くは動機の欠如かもしれない。評価や報酬といった、目に見えてわかるものが動機の源泉だとするのは一番分かりやすい。先日テレビでラーメン屋のチェーン店で若手の店長候補を競争にのせ、やる気を出させるために必要なものは何かと聞かれた幹部が、「報酬とポスト」と言っていた。この人が本当に心からそう思っているのであれば、あまりこのラーメン屋には行きたくないなぁと違和感を持った。報酬とポストには、確かにある程度人を引き付ける魅力があり、動機になりうる。報酬はいわばイルカショーでイルカに与える魚みたいなもの。ポストは自尊心や名誉欲を満たすもの。どちらも典型的なモチベーターである。しかし、ポストバブルの世代にとって、この二つは旧来の価値観を反映した典型的なモチベーターなのではないか。いずれ報酬は頭打ちとなり、ある一定以上までいけばポストも限られているという現実に直面したとき、その若者はどうなるのか。いや、ポストバブル世代に限らず、今旧来の価値観の転換が言われている時代に、上記の言葉はなんとなく時代錯誤な違和感を感じてしまったのだ。目に見える評価や報酬は、ある程度まで行けば自ずとマンネリや満足感を行動するものに与え、強力なモチベーターでは有り得なくなるのではないかと思う。例えば、年を取ってなお、報酬やポストが欲しい欲しいと言いつづける人は、政治家や天下り官僚の一部を除けばそんなにいないのではないか(と思いたい)。では、本当に人を動かす動機とはなんだろうか。子供の頃を思い出すと分かりやすいのかもしれない。人の評価を気にすることなく、自分の興味に向かって生きていた日々。好きかどうか、なんてことを考える間もなくやってしまっていたこと。つまり、そこにある動機とは、「それがただやりたいから」。そこにここが面白いからやる、という余計な理由づけはない。もちろん、社会に出て人と交わり仕事をしていけば、自分のやりたいことだけやってりゃいい、なんてわがままができる人は限られてくるだろう。でも、周りを見渡せば、やりたくないことを多く抱えている人が結構多いような気がする。それって必然なのだろうか。もっと抱えている荷物を減らすことはできないのだろうか。年間最多安打記録が間近に迫ったイチローの言葉より:「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい。」「これでいいやってならない理由は、ぼくの場合は、野球が好きだから、です。」「ヒット一本って、飛びあがるぐらいにうれしいんですよ。2003年のときの200本安打なんて、涙が出ましたから。」「苦しいシーズンで、経験できなかったことをくぐり抜けると、もっと野球を好きになる。野球の魅力っていうのは、終わりがない。」「畑違いのことは、やるべきではないでしょう。」「妥協をたくさんしてきたし、自分に負けたことも、いっぱいあります。ただ、野球に関しては、それがないというだけで。」「これ以上やっても抜きんでることはできない。だから勉強を捨てました。」「決して、人が求める理想を求めない。人が笑ってほしいときに笑わない。自分が笑いたいから笑う。」嬉しい、楽しい、わくわくする。もちろんその中でも苦しいこともあるし、ちょっと嫌なこともあるだろう。でも基本は、こうした気持ちが動機の源泉になったとき、永続的なモチベーターが生まれるような気がする。報酬やポストはそれに付随するおまけに過ぎないのだと思う。
September 30, 2004
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友人の一人が独立してフリーになったのは、今年の春。最近は会っていないので直接話はしていないが、HPを持っているので覗きに行った。まだまだ日本では浸透していないような分野の仕事なので、なかなかストレートに収入には結びついていないようだけど、傍目にはそれなりに順調にいっているようにみえる。しかし、内情はやはり本人にしかわかり得ないだろう。日記にはそんな複雑な心情の吐露が垣間見えて、ああがんばって欲しいなあ!って瞬間思った。しかし、思い直した。この「がんばって」って言葉も、簡単に使ってしまってはだめなのかもしれない。基本的にあまり好きな言葉ではないが、何気なく出てしまう。ものすごく適当な言葉だと思う。いまがんばってる人に使うと、これ以上どうがんばればいいの?っていうプレッシャーにもなってしまう言葉だ。多分、友達は今「がんばって」いるのだと思う。でもあんまりがんばりすぎても欲しくない。がんばらねばならない社会って一体なんなんだろうか。人生とはがんばらねばならないものなのだろうか。がんばりを必要以上に要請される社会は、やはり健全ではないような気がするのだけれど。資本主義自由社会とは、自由の名のもとに「がんばり」を強制されてしまう構造になっている気がする。そんな社会がこの先続くとも思えない。疲れるもの。共産主義が否定され、資本主義の勝利が叫ばれて10年以上経ったけれど、人間が幸福にならない社会はやっぱり成功した社会とは言えないと思う。もちろん「がんばり」とその「見返り」に達成感や幸福感があるのも認める。でも「がんばる」という価値観は、人を根本的には疲れさせるものだろう。がんばる人が増えれば増えるほど、社会全体としてはストレス過多となり、歪みが生じてしまうのではないか。休憩室で休んでいる人を観察していると、多くの人が疲れた切ったような表情をしている。楽しそうではない。なんでそんな暗い顔をしているんですかと、一人一人に問い掛けてみたい衝動にかられた。がんばらずに楽しんでいれば、そんな顔にはならないはずなのに。がんばらずに楽しむ。この方向でなんとなくいいような気がしている。社会のシステムもこの方向に沿って変わっていってくれればいいんだけどな…。ただのわがまま、絵空事だろうか。
September 29, 2004
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プロとアマの違いを分けるのはなんなのだろうと考えてみるに、やはり基本は、それが続けられるかどうか、につきると思う。自分の思い描いていた仕事も、現実にはうまくいかないことがたくさんでてくるだろう。その時に、「もうこりごり、絶対いや」と思うか、「それでも続けたい」と思うかどうか。どんな分野でも10年続ければ、いっぱしのプロになれるというのは本当だと思う。続けられないということは、もともと適性や能力がなかったからということだろう。千里の道も一歩から。コツコツ積み上げていくしかない。ただ、だらだらと時間だけ10年過ぎてもあまり身にはつかないというのも確かだろう。自分が納得できるよう、懸命にやってみるという気持ちを持って続けるという意志が大事だ。ただ、こうして努力を続けていても、道が開けないこともあるという自覚はしておいたほうがよい。その10年の経験や出会いを通してまた違う道が開けていることもある。だから、10年やったこと自体は決して無駄にはならない。そう考え、いさぎよく「あきらめ」て、次の扉を叩くことも必要だろうと思う。
September 28, 2004
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最近読んだコーチング関係の本の中のことば。通常、我々は「しなかった」ことや「言わなかった」ことを後悔するものだ。人を許さなかった、謝罪しなかった、愛する者と一緒に時間を過ごさなかった、一生に一度の機会を逃してしまった、など。そうとわかれば、山のようなお金を節約することができる。自分にとって本当に重要なものはなにか、望んでいるものはなにか。欲しいものはたくさんあるようで、ない。試しにここに1000億円自由に使えるお金があるとして、何でも好きなことをしてよいので100項目あげてみてと言われる。30までで途端に苦しくなってくる。本当に欲しいものは、そんなにないのかも知れない。そう考えると余計なことに心を煩わせることも少なくなるのではないだろうか。
September 27, 2004
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糸井さんと欽ちゃんの対談の中で、「不本意こそが人生だ」というようなことを言っていた。本意というのは、何でも自分の思い通りになるということ。しかし、これはおもしろくないという。例えていうなら、仇役のいないドラマのようなものであると。人はみな不本意の中で生きている。周りを見渡せば、皆自分より幸せに生きているように見える。しかし、殆どすべての人が不本意な中を歩いている。それが人生。でもその不本意の中にいる人生こそが、一番おもしろいんだと。「今日も不本意だった。おもしろかったなあ。」と言える強さ。たくましさ。それがあれば、きっと人生の大半のことは乗り切れてしまうんじゃないかなぁと思った。子供のときに、欲しいと思ったおもちゃを何でも手に入れられた、という思いを巡らせた人は多いと思う。でも、あの時、ホントになんでもすぐに買ってもらえてたとしたら、お金を貯めてものを買うという経験、それを達成したときの嬉しさ、やっと手に入れたおもちゃを大切に大切に宝物みたいに扱ったこと…こういうった感動を味わえただろうか?オリンピックの選手が死にもの狂いでがんばって金メダルを目指す。勝てない。どうしてもあのライバルに勝てない。必死でまた練習する。また負けた。そして背水の陣で望んだオリンピック本番。奇跡の逆転勝利。ずっと勝てなかったアイツに勝てたんだ!かたや、生まれてこのかた誰にも負けたことがなく、出る試合はすべて一番。オリンピックでも無敵。楽勝。感動は、どちらのほうにこそ多いだろうか。自分にとっても、それを観ている観客にとっても。もしも金メダルが取れなかったとしても、どちらの人生のほうがストーリーとしておもしろいだろうか。同じストーリーであれば、なるべく面白いほうがいいに決っている。ウルトラマンには怪獣がいたり、時にはカラータイマーを取られて死んじゃったりするから面白いんだ。恋だっていつもうまくいくとは限らないから面白いんだ。テストだってなにも勉強せずにいつも100点ばっかりとれたら、どんなにつまらなく思えるだろうか。だれもが不本意な人生を歩んでいる。それを楽しみながら、寄り道しながら歩くか。ずっと腐った顔をしてうつむきながら歩くか。その違いだけなんだと思う。そしてやっぱり、どっちにしても不本意な人生なら、楽しみながら歩いたほうがいいんだと思う。メモ:ふほんい(不本意)本意でないこと。望むところでないこと。「―ながら従う」「―な成績」不本意な成績[結果] a disappointing [an unsatisfactory] result[record, performance]不本意ながら against one's will; unwillingly; reluctantly甚だ不本意ながらこの処置を取らざるを得ません。We have been obliged to take this step(though it is) very much against our will.我々は不本意ながらその提案に同意した。We gave our reluctant consent to the proposal.不本意入学 involuntary attendance
September 16, 2004
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外注した翻訳のチェックをしている。これがとーーっても面倒くさい。ああ、だれか代わってよ~。と世界の中心で叫びたいくらい。(ベタですな 汗)そもそも人の翻訳を校正するというのは、自分が初めから翻訳するよりも手間がかかるものだ。それに何が正しいかという基準は、個々人によってバラバラなので、ある翻訳がいいか悪いかという客観的な基準を決めるのは、とっても難しい。それに今回は量が膨大で、最終的には何百ページ、いや何千ページにもなるので、原文と比較して細かくチェックしていたら、全く他の業務ができなくなってしまう。幸い今回の資料どもは、直接お客様の手にすぐに届けるような類のものではないので、チェックの方法を短縮化することにした。どうしたか。とりあえず原文を読まないようにした。完全に文章の「読み手」となって、まずはざざっと通読し、あれれという部分を赤でマークしていく。最近はすべてデータ納品なので、フォントを赤で変えていくわけだ。こういうやり方は、基本的にはしないほうがよいとは思う。あくまでも原文と比較しながら、情報の漏れがないか、内容理解は正しいかどうかを逐一チェックしていくのがいいのだろう。もちろん、翻訳された資料が、契約書その他お客様の手元に直接届くような類のものであればそうするだろう。いや、そうしないといけないと思う。でもね。結局翻訳されたものを読む人間は、原文を念頭に読むのではない。翻訳を普通の文章として読む。だから、その普通の文章としてすんなり頭に入ってくるような、理解できる翻訳でなければいけない。そういう観点から、翻訳文のみの通読でチェックしていくことにした。専門用語のチェックはもう一人の専門家に任せる体制だ。通訳もそうだが、「訳の評価」は概ねアウトプットできまるものだ。そもそも理解がきちんとしていなければ、アウトプットもきちんとしたものにはならない。中には理解がめちゃくちゃなのに、アウトプットが非常に美麗な場合もあるが、それは業界用語でいうところの「不実な美女」というやつで、内容がわかる人には、デタラメな訳であることはたいていバレてしまう。というようなスタンスで、「読者」になりきってチェックを進めていこ~、って思った矢先に、いきなり次の第1文に出くわした。「…を使用する前に、以下の警告を記憶してください。」あらら、いきなりかよ(笑)。ああ、多分原文はremember to read the following warningとかkeep in mindとか、もしかしてmemorizeナントかとか、書いてあるんだろうな、というのがまざまざとわかる好例(否、翻訳の悪い例その1、みたいなやつ)ではないか。こういうのを直訳と言って、プロとアマを見分ける一番わかりやすい部分なんだけども、パッと読んだ瞬間に「へっ?」って思うでしょ。これですよ、これ。このアウトプットの日本語としての違和感。警告を記憶するって、あなたそんなもの暗記できる量じゃないし(笑)これって、ああ、こういう場合は、普通は日本語ではこう言うよね、っていう等価表現(例えばこの場合だと、「よくお読みください」とか「ご注意ください」のような表現で十分)で移しかえたらいいのだが、原文の単語の意味に思いっきり引きずられて直訳してしまっているのだろう。こういうのを「英文和訳」といい、「翻訳」でやってはいけない基本中の基本である。と、基本中の基本で最初にコケている文章。この時点ですでにこの翻訳に対する信頼度はかなり、というか殆どゼロにまで下がっている。いや、でもここだけかも?後はちゃーんとできてるかも、という、うっすい期待を胸に読み進めると…「それらの原因および意味を対象としている項をお読みいただき」「手で感じられる収縮より微妙な収縮」それぞれ、「(それらの)原因および意味について述べた項を参照」とか「手で感知できない程の微妙な収縮」などと、なぜすっきりできないのか?こういうのがずーーーーっと続く続く…。ね。原文読む必要ないでしょ?もちろん訳抜けの可能性はあるが、たぶんあまりないだろうと予想している。なぜならここまできちんと「英文和訳」してる=単語の一つ一つの意味にとらわれいるということは、「木を見て森を見ず」的に、個々の木(単語)への執着はすごいものがあるだろう、だから情報の漏れはないだろう、と思えるからである。しかし、日本語の文章としては不自然。翻訳として売り物になるレベルではない。上の例のとおり、何も業界知識とか専門用語とか、そういうことは関係のない普通の日本語の文章の常識として、おかしい文なのだ。たしかにね。比較的安いんですよ、この翻訳会社。でもね業界ではイチニを争うとこなんだぜぃ。やっぱ翻訳駆け出しの人にやらせて、コスト下げているんだろうな~。結構専門的な分野なんですけどね(笑)。もう少し様子を見てから、価格引き下げの要求を出すことにしようかな。なんてね。
September 15, 2004
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1999年にスタンフォード大学のクランボルツ教授により「計画された偶然理論」(Planned Happenstance Theory)という理論が発表された。その基本概念は、変化の激しい時代には、キャリアは基本的に予期しない偶然の出来事によって、その8割が形成されるというものだ。ただし、何もかも運まかせというのではなくて、個人が自律的にキャリアを切り開くためには、自分にとって偶然の出来事がより起るように、能動的かつ継続的に自ら仕掛けていくことが必要になってくるという。つまり、『キャリアは作りこもうと思っても作れない。自分に好ましい偶然を必然化するような動きをし続けることが大事である』さて、自分にとって好ましい形で偶然を必然化するには、次の5つの行動・思考パターンを持つ事が重要であるらしい。1.好奇心(Curiosity)自分の直接的な目標に関連するしないに関わらず、多様な事柄に幅広く好奇心をもつこと。→好奇心は成長の源だと思う。新しいものに対して抵抗を持たないって大事だ。しかし、新しいもの=いいものとは限らない。その辺の目を養うことも重要。なんでも飛びつけばいいというもんではないだろう。 2.こだわり(Persistence)自分の考え・価値観にこだわりを持ち続け、簡単にあきらめたりしないこと。かといって意固地なのはいけない。→要するに「譲れないもの」を持てということか? 3.柔軟性(Flexibility)環境の変化に対応し、自分の計画のみにとらわれずに想定外のチャンスを活かすことができること。→環境の変化にことごとく反応していては自分というものを見失ってしまう危険もありそう。2.とのバランスが必要ということか。4.楽観性(Optimism)どのような結果になろうとも、自分のキャリアにとって、それなりに役立つ部分があったと、ポジティブにとらえることができること。→これはよくわかる。仕事って無駄なことはあまりない。全ての経験はつぎのステージで活きてくることがある。5.リスクを取る(Risk Taking)変化が激しく、先行きの見えない時代には、自らリスクを取ることができること。受身でもリスクは向こうからやってくる。→そう。リスクは避けていても勝手にやってくる場合もあるよね。 まとめると、「好奇心を持って幅広い視野で物事を捉え、基本的な自分の価値観はしっかりと持ちながらも環境の変化に応じて柔軟に対応し、全ては自分の糧になると前向きな姿勢で生き、リスクを取ることも厭わないこと」ということですね。って、そりゃこれだけのパワーとマインドがあれば、なにかしら成功できないほうがおかしいよ(笑)これって結局成功した人の特質を並べてるってことだと思う。なんかキャリアを形成するためにというよりは、あらゆる職業においてこれがあれば成功するだろう、みたいな条件ではないだろうか。それって、ちょっと個々人のキャリアプランニングにおいては、あんまり直接的に関係ないような気が…。しかしまあ、キャリアというものは自分の描いた通りにはなかなか行かないし、行ったとしてもそれが本当にその人にとってそれでよかったのか、っていうのはわからない。仕事って、他人がいてこそ成り立つものだから、一人よがりにこうしたい、ああしたい、っていっても周りがそれを認めなければ仕事として成り立たないわけで。こういうことを考えてないと、「やりたいこと探し」のトラップからいつまでも抜けられなくなるんだろうね。
September 9, 2004
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通訳が仕事の大きな一部を占めいる。同時通訳の場合、一番の難関は猛烈なスピードで話すスピーカーに振り落とされないようについていって、聞き取りながら即訳す、というアクロバティックな動作を一定時間続けなければならない、という点に尽きるだろう。 しかし、通訳を聞いている人はそんな通訳者の影の努力など、なかなか心が及ばない様子。 通訳を評価する場合、特に同時通訳のときに聴衆が通訳を評価する際の大きな基準のひとつは、「訳されて耳に入ってくる言葉が正確でわかりやすいかどうか」だろう。例えば英語から日本語に訳している場合は、その日本語がいかにわかりやすいかということがポイントになる。 でもこの「わかりやすい」というのもクセもので、わかりやすくても当然不正確であってはだめだから、わかりやすい日本語を話す人が必ずしも有能な通訳者だとは限らない。しかし、今までの経験上、通訳を評価する聴衆の反応として、もっとも好意的な評価を集約すると「日本語がわかりやすい。上手。」ということになることが多い。 聴いてわかりやすい…つまりそれは、耳に心地よい日本語が入ってくるということだろう。耳に心地よい、すんなり入ってくるのは、ゴツゴツした論文調の書き言葉ではなく、平易な話し言葉である。それを心地よい落ち着いた声調で聴いたときに、人はそのコトバを心地よいと感じるのではないだろうか。 「わかりやすい」の中身を分ければ、適切で平易な語彙選択、落ち着いて比較的ゆっくりしたスピード、耳障りのよい音(高すぎず、低すぎず)、適切な間のとりかた、などがあげられるだろう。特に、日本人は胸式呼吸で発音する人が多いためか、若い女の人はキンキン声で話す人がいる。これは非常に聞き手をいらいらさせるもので、通訳する場合、意識して複式呼吸で声を落とすよう指導されるくらいである。テレビの同時通訳などを聴いていても、時々ものすごい早口で声もキンキンな人がいるが、いくら正確であっても通訳を聞いてる人にとっては苦痛以外の何者でもない。 人は何か難しい言葉を覚えると、それを使ってみたくなる、というクセがあるような気がする。自分にもその傾向があるからそう思うのかもしれない。しかし、それを他の人が知っているとは限らないし、自分がたまたま知った言葉を得意げに使ってしまうのは、ただの自己満足・自慢みたいなもので、相手とのコミュニケーションを全く念頭に置いた行為とは言えないと思う。 もちろん何事もTPOというのがあるから、非常に格式ばった会議の場で、出席者のほとんどが難しい格式ばった言い回しをしているのに、通訳の日本語だけが、井戸端会議のおばちゃんみたいな話し方では困るが、一般的にはそれほど高尚な物言いを必要とする場はごく希である。それに、わかりやすい=幼稚、稚拙、下品な言葉、では決してない。 一般に言葉、特に語彙を増やそうと思えば、英語であれ日本語であれ、新しく覚えた単語なりを、様々な文脈で使ってみることが重要であるとされている。それはその通りだ。しかし、人とのコミュニケーションの手段として言葉を使う場合は、状況と相手のレベルを見極めて、多くの場合できるだけわかりやすい話しかたをするよう心がけるべきだと思う。これはなにも通訳だけに限らず、一般のコミュニケーションに関わる人すべてに言えることだろう。適切でわかりやすく耳に心地よい話し言葉は、大変有効なビジネスコミュニケーションのツールになり得ると思う。
September 8, 2004
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「○○さんがあなたのことXXだって言ってたよ~」という会話。 そもそも人のことをあれこれ言ってみたくなるのが人間の性みたいなもんだと思うんだけど、昨日このことでちょっと考えさせられた。 ある人曰く、「“○○さんがあなたのことXXだって言ってたよ”っていうけれど、たぶんそれを言っている本人がXXだって思っているからこそ、そんなこと言えるんだよ」と。 つまり、AさんとBさんとCさんがいるとする。AさんがBさんに対して、「CさんてBさんのことXXだって言ってたよ」と言う場合、実はAさんもBさんのことをXXだと思っているから易々とそうBさんに伝えられるのではないかと。 XXがいい事なら全然OKなんだけど、悪口だった場合(まあ大体こういう場合は悪口だよなぁ)、AさんがXXと思ってないなら、自分の口からBさんを不快にさせるようなこと言いたくないから言わないんじゃないか、ていうこと。なんか自分で書いててわけわからないけど(笑)、そういう意見。んー、どうなんでしょう? そこまで深く考えてしゃべるのかな。でも、確かにAさんがCさんの意見に合意しないのであれば、Bさんを不快にするようなXXは言わないような気がするし、AさんがCさんの名を借りてBさんの悪口を言っているという図式は成立するかなぁ。 とまあ、ここで言いたいのは、「他人の言葉を伝えることがいかにリスキーか」 ってことなわけです。他人の言葉を伝えるのが職業の身にとっては、これは心しなければならないこと。それがいい事であれ悪い事であれ、受取る側の反応はわからないし、もし上記のような感受性(というか猜疑心)の強い人が受け手である場合は、「ふーん、そうなんだ。あの子そんなことを。でもあんたもそう思ってんだろうね。」という風に取られて、三者間の信頼関係が崩れてしまう危険性があるのかも知れない…。 そう考えると、あの人がこう言ってたよ~などと、ゆめゆめ口に出すものではないのかもしれない。自分の意見じゃない、と本人は思っていても、受け手はそうは思っていないかもしれないから。要は相手に対する気遣いがあれば、こんなことは起こらないんだけどね。 ま、でもやっぱ褒め言葉は、逆にどんどん伝えていいと思うんですけどね。
September 3, 2004
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努力すればなんでもできる!自分を信じてがんばれば道は開ける!…というもんでは、ないのかも…。 実は某職能系スクールで時々講師をしているワタシなのですが、昨日テストの採点をやっていてつくづく思ったのです。何年も勉強・訓練しているのに、確かに最初と比べれば上達はしているものの、多分この先その道で大成し得るかどうかと聞かれると、うーむ(汗)と言わざるを得ない人がやっぱり多いのだ。もちろん、才能ある人でも努力はしなくちゃだめだよ。でもね、最初から才能(適性といってもいいかも)のある人と全くない人がいた場合、同じ量の努力をしたら、数年後はやっぱり才能のある人のほうが上にくるわけで…。んじゃ、才能のない人はある人の何倍も努力したら凌駕できるじゃん、って思うんだけど、その「人の何倍も努力できる」っていうのもある種の才能みたいなもので、平均的な人はやっぱり平均的な努力しかできないから、結局才能ある人の何倍も努力する、ってこと自体が現実的ではないのかもしれないよね。…ってなことをウダウダ考えていました。だって秀才努力型で東大入る人って、一日10時間とか勉強できる人みたいだし。これがいいか悪いかは別にして、これって「忍耐力」という名の才能じゃありません? で、ですね。その才能とかっていうのは「向き不向き」にも大きく左右されるのではないかと思うのです。その人が基本的に持っている特性というか、強みや弱み、志向、その他もろもろの要素ね。資格とか取るのが相変わらずはやっている昨今ですが、この部分を良く考えてから勉強を始めたほうがいいのかもしれないし、勉強している過程で「あ、ちょっと違うかも」って感じたら、早めに撤退したほうが時間とお金と心の健康のためにいいんじゃないかなって思います。個人の特性や志向って、殆ど変わらないらしいんだよね。 ギャラップ社が行っているストレングスファインダー(strengthfinder)っていう、自分の強みを発見するテストがあるんだけど、この各個人が持っている強みというのは、殆ど生涯に渡って変わらないという研究結果に基づいているらしいです。だからね、その強みがいかせるものを考えること。それはつまり、自分に向くかどうか、ってことだと思うんです。自分を客観的にみながらその上で適切な努力をするってことが大事なんじゃないかな…。 試しに、たくさんの人がやっていると思われる某サイトの「志向検査」を受けてみました。こういうテストってその時の状況に左右され易いとは思うんだけど…んで、結果です。↓ここからあなたは「自律志向」や「創造志向」や「注目志向」や「変化志向」が強い傾向にあります。あなたは、他人にあれこれ口をはさまれるのを好まず自分のやり方でものごとを進めたがり、オリジナリティにこだわりこれまでにない新しい価値を生み出したいと思い、表舞台に立って多くの人から注目されることを好み、たえず刺激に富んだ変化のある環境に身を置くことを好みます。また、あまりものごとを複雑に考えたがらないほうでしょう。あなたのパーソナリティタイプに合う仕事は、対人面では、「人前に出る」傾向が強く、「折衝調整する」傾向がやや強く、「深く接する」傾向や「顧客に働きかける」傾向がどちらかといえば強い仕事です。「広く接する」傾向はやや弱い仕事です。また、課題面では、「アイデアを生み出す」傾向や「成果が見えやすい」傾向が強く、「複雑な問題を分析する」傾向や「臨機応変に対応する」傾向がどちらかといえば強い仕事です。「手順どおりに進める」傾向が弱く、「時間に厳密に行う」傾向や「責任が大きい」傾向がやや弱い仕事です。対人面では、人前に出て多くの人から見られる仕事があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、満足感を得やすいでしょう。そして、社内外の関係者との交渉や利害調整を行う仕事においては、比較的満足感を得やすく、特定少数の人と関係を深める機会が多い、顧客に対してこちらから働きかける仕事では、どちらかといえば満足感を得やすいと思われます。一方、不特定多数の人と接する機会が多い仕事では、どちらかといえば満足感を得にくいと思われます。また、課題面では、発想豊かにアイデアを生み出していく、自分の成果がはっきりとわかる仕事があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、満足感を得やすいでしょう。そして、複雑な課題を分析し構造を把握していく、状況の変化に臨機応変に対応していく仕事において、どちらかといえば満足感を得やすいと思われます。一方、決められた手順に従って課題を処理していく仕事では、満足感を得られない可能性があり、締め切りや納期が厳しく時間に正確に行う必要がある、会社全体の業績や多くの関係者に及ぼす影響が大きい仕事では、どちらかといえば満足感を得にくいと思われます。あなたのパーソナリティタイプに合う会社や職場は、「変革志向性」や「ビジョン志向性」や「共同体志向性」が強く、「情報開放性」がやや強い組織風土です。「規律志向性」はやや弱い組織風土です。現状を改革する取り組みに積極的である、組織のビジョンや将来像が描かれ語られている、メンバーの仲がよく仲間意識が重視されている組織風土があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、あなたの持ち味を活かせる可能性が高いでしょう。そして、社内の情報やノウハウを積極的に共有していくことが求められる組織風土においては比較的なじみやすいと思われます。一方、ルールやマナーを守ることが重視されている組織風土には、どちらかといえばなじみにくいと思われます。↑ここまで… まあ、あたってるとこも、そうじゃないなあと感じるところもあるわけですが、要は資格にしても勉強にしても、要求されるものはそれぞれ違うわけなので、そのrequirementsに自分が適合するかどうかを見極める目を持って努力する。しかしそれだけではだめで、その努力の過程で「運」と出会ったときにマッチングが起こって、成果なり仕事なりで好循環の波に乗ることができる、ということでしょうか。なかなか人生、思うようにはいかないもんですねぇ~。
September 2, 2004
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