売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.12.18
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日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までの51ヶ月。株式取引に全く縁のなかった一般市民が電電公社民営化で売りに出されたNTT株に群がり、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収して世界を驚かせたのも、バブルの象徴的な出来事でした。過剰な経済拡大期のあとには当然大きな反動、バブルがはじけて資産下落や不良債権処理が一斉に始まりました。

ファッション業界におけるバブル崩壊は日本経済のバブル崩壊よりも一足早く起こりました。

1980年代前半デザイナーブランドを扱う百貨店、ファッションビル、セレクトショップが急増。大手から中堅アパレルメーカーまでがこぞって有力デザイナーブランドの下で働くアシスタントや装苑賞などコンテストで認められた学生を青田刈り、ブランドデビューさせるケースが増えました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した頃が青田刈りデビューのピーク、ファッション業界はバブルそのものでした。

経験がほとんどない若手デザイナーに高額ギャラを約束、それなりの規模のファッションショーでデビューさせる。港区、渋谷区に立派なプレスルームと立派な直営店舗を開設。ブランド立ち上がりから素材の大半はオリジナル、先駆者たちが生地屋でありもの素材を調達してブランドを開始したことを考えると随分贅沢でした。

しかし世の中そう甘くはありません。デビューして2年ほど経過すると、出費だけが増え、在庫が膨らみ、売上がついてこない企業側は焦り、デザイナーとの関係はギクシャク、ブランド閉鎖が始まりました。

CFDが誕生すると、どういうわけかブランドの後始末相談に来る企業や若いデザイナーが増えました。彼らが持ってくる当初事業計画書を見ると、デビュー3年後には売上10億円程度でちゃんと利益が出るプラン。しかし実際には売上は計画の半分以下で在庫は7~8億円、しばらく黒字化が見えない「机上の空論」ばかりでした。

このときつくづく思いました。日本にはファッション専門学校が才能あるデザイナーをたくさん輩出してきたけれど、デザインマネジメントやマーチャンダイジングできる人材がいない。日本にもファッションビジネスのプロを育てる教育機関を作らないといけない、この思いがIFIビジネススクール設立に向けて走り出した大きな理由でした。

青田刈りで失敗した例はたくさんありますが、その中で個人的に最も印象深かったのは文化服装学院出身の石川ヨシオさんです。1981年の第50回装苑賞を受賞して注目された石川さんは大手アパレルのイトキンからブランドデビュー。ところが、デビューしてすぐプロジェクトは打ち切られました。

文化服装学院の小池千枝学院長に石川さんの再デビューを頼まれたのが、新規デザイナーブランドで急成長した中堅アパレルN社でした。石川さんとの交渉がとんとん拍子で進んで契約寸前になって、N社の下で既にブランドデビューしていた文化服装学院の同級生デザイナーがオーナー社長に直談判、結局石川さんの再スタート計画は見送りになりました。このブランドの責任者になるはずだったN社幹部から頼まれて、私は石川さんと面会することに。



野性のライオンは束縛されることなくどこへ行くのも自由だが、日々のエサは自分で獲得しなければならない。一方、動物園のライオンにはオリの外に出る自由はないが、エサは毎日提供される。どちらのライオンになりたいのか、この本を読んで自分の進む道を考え、次回答えを持ってきてください、と。

当時CFDを訪ねてくる若手デザイナーや専門学校生は、行動の自由は欲しい、エサの提供も受けたい若者が少なくなかったので、私はテキストとして「一生たち」を渡していました。

石川さんの思いを聞いて、私が業界人に出資をお願いして小さなデザイン会社を作り、あとは周囲を説得してアパレル販売事業を計画してください、となりました。1口100万円で業界仲間に呼びかけ、石川デザイン事務所は西麻布に誕生しました。中立でいなくてはならないCFDの私自身は出資できませんから、親交のある小売店、メディア、アパレル工場、繊維商社の幹部たちを説得して資本金を集めました。

この交友録13に登場するリッキー佐々木氏からは「(アパレル会社は)俺にやらせてくれないか」と声をかけられました。旧知のビジネスマンからは「息子をこのプロジェクトで育ててくれるなら」とアパレル会社に出資する話もありました。が、石川さんがアパレル事業のパートナーとして連れてきたのは、日本橋堀留町の織物会社国洋の奥井新一社長(ファッションコーディネイター西山栄子さんのご主人)でした。

クリエーションを発信するデザイン会社を母体に、商品化して販売する別会社を起こすのが私の構想でしたが、奥井さんは発足したばかりのデザイン会社を買い取ってアパレル販売会社と一本化する形を希望。石川デザイン事務所に出資してくださった方々には私から事情を説明、奥井さんへの株譲渡をお願いし、私がお手伝いする必要はなくなりました。

それから1年後だったでしょうか、久しぶりに石川さんと奥井さんが訪ねてきました。「僕たちは別れることになりました」、私の目の前で両者は互いに目を合わせることなくブランド事業からの撤退を宣言したのです。やっぱりダメだったか、と思いました。

デザイナーが代表になるデザイン会社と、ビジネスマンが代表になるアパレルメーカーとは利害もスタンスも違います。両社を一本化して経営権を出資者が握るとどうしても軋轢が生まれます。互いに我慢の限界を超えたのでしょう、石川ヨシオの事業化はまたしても実を結びませんでした。

その後石川さんはパリに移り住み、帰国してからは専門学校で指導しているらしいと聞きました。才能のあるデザイナーでしたから、正直もったいないと思います。石川さんと学生時代にファッションコンテストを競い合ったデザイナー予備軍には才能ある人が多く、アパレルメーカーに次々とスカウトされましたが、そのほとんどはブランドビジネスとして成果を上げることなく表舞台から消えました。


​​​(成功事例の1つマイケルコース)​​​

欧米ではデザイナーとビジネスマンが団結して売上を伸ばしている例がいくつもあります。マイケルコースのようにマネジメント側が提示した「雑貨90%、服10% 」の商品構成比(それまでは服90% )をデザイナーが理解し、大きく成長してジミーチュウやヴェルサーチを傘下におさめた成功事例もあります。

ダナキャランやラルフローレンのように株式上場を達成、創業時に共に苦労した仲間に利益還元した例もあります。経営側のデザインマネジメントとお互いが立場を尊重し合う構図、クリエーションとビジネスのいい関係が日本でも増えると良いんですが。





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Last updated  2022.12.30 11:19:41
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