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数年前、有機野菜農場を経営する息子から相談されたことがあります。近々グランドオープンする大型商業施設で良い区画をもらった飲食店に自分たちが生産している野菜や蜂蜜を全面的に提供しようと思うがどうだろう、と。彼はこのお店にかなりコミットするつもりという話でした。「ひとつだけ懸念材料がある。飲食店リーシングが下手な大手不動産会社がディベロッパー、おそらく飲食店は集客ままならずうまくいかないと思うよ」とアドバイスしました。先日、その飲食店の閉店告知SNSに目が留まりました。昨秋私も周年行事にお邪魔したことがあるユニークな飲食店、早々の閉店は残念であり気の毒とも言えます。鉄道や地下鉄の駅から雨に濡れることなく入れる好立地大型商業施設、鳴り物入りでオープンしながらも期待通りに集客できないテナントがどんどん退店する、そんなケースは都内にいくつもあります。中には早々と運営を諦め第三者しかも外国資本にビルごと売却した東急プラザ銀座(GinzaNovoに名称変更)のような例も。Ginza Novo(旧東急プラザ銀座)この東急プラザ銀座が2016年にオープンしたとき、会社の月一度の朝礼で私は全社員に言いました。「商品分類ができていないから絶対失敗する。賭けてもいい」と。駅ビルや百貨店あるいはショッピングセンターなどの新設または大改装で一番重要なことは、顧客になりうる方々の顧客分類とどこにどんな売り場を作るか商品分類(および展開分類)。これをしっかりしないとどんなに資金力がある大企業であっても失敗しますから。これまでマーチャンダイジングで商品分類、展開分類を教えるとき、なぜそれが小売業にとって重要なのか説明してきました。また売り場を設計するときは大分類(各階の位置付け)、中分類(フロア内の方向性)、小分類(個別ブランド編成)の順に検討すべきであり「大分類と中分類は経営マター、現場責任者に任せてはならない」と。大型商業施設のリーシング、ゾーニングの失敗は分類を徹底的に議論せず安易に出店交渉したことに起因しています。東急プラザ銀座オープン直後視察したときも(関係者には申し訳ないんですが)商品分類なきリーシングにびっくりでした。素晴らしい立地条件にもかかわらず館内あちこちに化粧品コーナーが点在、フロア違いにもあって意図がわかりません。インバウンド消費を想定したのでしょうか(韓国ロッテの免税フロア招致あり)、外国人が喜びそうな小さなお皿類と和風ハンカチを販売するショップがあちこちにあり、「なんで同じようなものばかり売ってるんだろう」と疑問でした。ここが開店直後、当時建設中だった近隣の銀座シックス開発に参画していた大手不動産会社副社長がわがオフィスに。「東急プラザ、どう思いますか。うちも近々オープン予定なので心配」とおっしゃったので、「東急はリーシングを早くやり直さないと存続は難しいでしょうね」と分類が中途半端である点を説明しました。「御社もちゃんと分類やってくださいよ」という意味を込めて。かつて東京メトロ副都心線が開通する際、すぐ下に新宿三丁目駅がある伊勢丹本店は婦人服フロアの大改装を計画していました。横浜からも埼玉方面からも乗り継ぎなしで新宿三丁目にお客様が来てくださるのですから、理想はメトロ開通に合わせて改装完了でした。が、改装案答申がなかなか武藤信一社長(当時)に及第点もらえず、結局大改装は大幅に遅れました。その間婦人服部長クラスには大分類、中分類改装案が全く漏れて来なかったと聞きますが、最良の案がまとまるまで現場に下ろさない、さすがマーチャンダイジングに定評ある百貨店です。百貨店も含め大型商業施設の大改装は経営者が大きなヴィジョンを示し、館全体の大分類と各フロアの中分類は経営トップが主導して計画を進め、案がまとまった時点で現場に下ろしてどのブランドにどの区画をどれくらいの広さで交渉するのか小分類を決めるべきです。概して現場責任者はいくつかの主要お取引先と密な関係にあるので、大きなディレクション議論に最初から入れてはニュートラルな計画は完成しません。息子たちが協力した飲食店が入居する大型商業施設、もしもディベロッパーが緻密に戦略的に分類してリーシングしていればもっと集客でき、テナントは当初の期待通りの売上計上できたのではないかと思います。これとは別の新しい駅ビル物件も館内ガラガラ、この先退店するテナントがおそらく増えるだろうなあ。インバウンドが急増したからか東京の新規開発はイケイケどんどん、「商品分類を軽く見るな」と言いたくなります。大手不動産会社のリーシングチームにマーチャンダイジングの原理原則を教えたいな。
2026.05.15

CFD(東京ファッションデザイナー協議会)時代、パリコレ出張のときはヨウジヤマモト広報担当にお願いして同社スタッフが宿泊するレアール地区のホテルを予約してもらいました。ホテルからヨウジヤマモト現地事務所まで徒歩数分、あの頃お邪魔すると山本耀司さんの母上がスタッフのために料理した食事をご馳走になりました。ショーと展示会のため東京から出張するスタッフも現地法人スタッフもほとんどが全身ヨウジブラックの黒装束、ブランドのことをよく知らない一般人が見たら新興宗教の信者集団かと勘違いしたでしょう。その中でひとりだけ雰囲気が全く違う中年男性がいました。ファッション屋さんとはちょっと違うビジネスマン然とした人、それが現地法人ヨウジヨーロッパを立ち上げた斎藤統(おさむ)社長でした。斎藤統さん私はパリコレ取材するプレスでもなければ小売店バイヤーでもありませんし、パリ在住でCFDのことはよくご存知ないからか斎藤さんはいつもムスッとした表情、目は「あなたは何をしにうちに来るの」でした。斎藤さんは1973年大学卒業してすぐ留学のため渡仏。1980年から約15年間ヨウジヨーロッパ社長を務め、ヨウジヤマモト海外進出時から親交のあるロンドンのJOSEPH(セレクトショップ)のオーナーに頼まれて1997年ジョセフジャポン社長に就任。その頃はパリと東京を年に何回も行き来していました。私が斎藤さんと再会したのはジョセフショップ導入交渉(セレクトショップ運営とは別にジョセフはオリジナルブランド商品を世界の小売店に卸していた)でした。再会したときはヨウジ時代とは別人、優しく丁寧に対応してもらい、我々の要請を受けて百貨店にジョセフショップを作ってくれました。私の元部下たちと斎藤さん(斎藤さんのSNSより)その後大手アパレルのオンワード樫山グループがジョセフ本体を買収、日本でのビジネスもオンワード直轄となったので斎藤さんはジョセフジャポンから身を引きました。ちょうどその頃私はブランド企業の社長、海外ビジネスの健全化に苦心していました。日本企業の多くはかつてのトヨタなど大企業もそうですが海外子会社の赤字を補填するために現地法人に何かと理由をつけては支援送金、時には日本の国税庁から利益隠しと疑われ、大企業が追徴金を請求されるケースは頻繁でした。日本的な護送船団方式、これでは大企業でもいつまでたっても現地法人は自立しません。我社は早く現地法人を自立させるに大手術が必要、海外ビジネスは卸売業中心から小売業への転換しかないと考えていました。が、現地法人の幹部は代金をなかなか支払わない有力セレクトショップや百貨店との取引を切ることができません。有名店で商品展開することがブランド価値を高めると信じていましたから。真面目に支払わない有力店を全部整理し、自分たちで小売事業を軸に据えるよう提案してもなかなか動かない。そこで私は経営体制にメスを入れるしかないと思い、斎藤さんの携帯電話に連絡を入れました。このときたまたま斎藤さんは日本出張中でした。早速時間をとってもらい、EU市場を統括するパリ法人の経営を3年間だけ担ってもらえないか、ご自分のショールーム事業はそのまま兼務で結構ですとお願いしたのです。こうして3年間斎藤さんに改革協力してもらいました。卸売から小売への転換、卸売事業に携わる社員の整理(フランスではこれが難しい)、収益の悪い直営店舗の閉店も。当然新しいリーダーの出現に現地社員は戸惑い、かなり抵抗もあったようです。イメージ優先、不採算店であっても残すべきと考える人は本社サイドにも少なくなかった。しかし現地法人の自立化のためにはいつまでも放置できません、斎藤さんとは密に連絡をとりながら短期間で結果を出せるよう大ナタを振るってもらいました。不採算店舗を全てスクラップ、その代わりパリの中心地に大型の旗艦店をオープンすることになりました。幸い斎藤さんが手配してくれた大型店舗は珍しくキーマネー(日本では保証金のようなもの。ただし価値は変動する)が不要な物件、さらに不採算店舗のキーマネー価値がオープン時よりかなり上昇していたおかげで新店舗の工事費はこれを当てるというおまけ付き、初期投資がかからない新規開店でした。オープンした新しい旗艦店のオープニング、それはリーマンショック(米国大手投資銀行リーマン・ブラザース経営破綻を引き金に発生した世界金融危機)とピタリ重なるタイミングでした。オープニングレセプションに来てくれた英国経済紙フィナンシャルタイムズ記者に私たちは「このタイミングで大きいショップを開店するとは、あなたたちは正気なのか?」とキツイ質問を受けました。リーマンショック時のオープニング(2008年9月撮影)私たちは不採算店を全て整理したこと、そのキーマネーの評価増で予想外の利益が出たこと、そのおかげで施工費がかからなかったこと、新店舗はキーマネーがない契約などを細かく説明、胸を張って「No Problem」と記者に返しました。リーマンショックの不安よりも、思い切った改革をやっと実現できた満足感の方が強かったのです。斎藤さんはヨウジヨーロッパを立ち上げ長く社長を経験したビジネスマン、単なる数字に明るい財務畑の人ではありません。ヨウジ時代からパリコレ主催者オートクチュール協会幹部と親交もあり、クリエーションをビジネス化する難しさも熟知しています。だからブランド企業の海外ビジネス改革を断行できました。これまで私に海外ビジネスの相談に来る若手デザイナーたちには、卸売をいつまでも続けていてはずっと利益は出ない、初期投資は必要だが直接お客様から代金いただける小売とネット販売をリンクさせるべきとアドバイスしてきました。代金を期日内に払う気がない海外有名店が扱ってくれることをステータスと思ってはいけないのです。そして私は「パリの斎藤さんに相談してみては」と付け加えます。斎藤さんは年2回の東京コレクション開催期に合わせて来日、若いデザイナーのショールームを回ってアドバイスしています。海外市場を攻めるのであれば斎藤さんのような現地在住の経験者に指導を仰ぐ方が良いと思います。斎藤さんの著書(角川マガジンズ刊)斎藤ご夫妻にはお子さんが3人、しかしご長男を早く亡くされたそうです。亡くなったご長男と同い年だからか、私の息子を我が子のようにかわいがってくれ、最近は私抜きで頻繁に交流、時にはご夫妻で彼の自宅で会食したり彼の農場が出店している青山ファーマーズマーケットを必ず訪ねてくれます。だから我が家では斎藤さんは「パリジージ」、ありがたいご縁です。
2026.05.14

日頃からファッションデザイン系のネット検索をしているからでしょうか、ここ数日私のFacebookや Instagramには今年のMET(メトロポリタン美術館)コスチューム・インスティテュート(服飾研究所)のガラパーティー関連情報が嫌と言うほど大量に頻繁に入ってきます。正直、ちょっとお腹いっぱい。メトロポリタン美術館有名な音楽界、映画界、スポーツ界のスターたちが主にビッグメゾンの特別仕様ドレスとラグジュアリー宝飾ブランドの高価なジュエリーを身につけて登場、エントランスでは多数のカメラマンが撮影、写真や映像と共に絶賛する記事、皮肉る記事が世界各国に配信されます。それを受けて一般のネットユーザーがそれぞれSNSに勝手にアップしますから、広告換算すればとんでもない価値あるファッションイベントと言えます。今年が例年とちょっと違うのは、アマゾン創業者のジェフ・ペゾス、ローレン・サンチェス夫妻が多額の寄付をして「名誉共同議長」に名を連ねたこと、それによって生じた波風ではないでしょうか。「文化、芸術の領域に莫大な資本力で介入している」という論調がかなり多いように感じます。ペゾス氏が離婚後にテレビなどで名をなしたローレン夫人と5千万ドル(70億円余)かけて大規模結婚式をイタリアで挙げたことも批判の背景にあるのかもしれません。多額寄付をする名誉共同議長夫人なのに彼女のドレス姿をアップするメディアは非常に少ないように感じます。ローレン・サンチェスさん公式共同議長は、このイベントの顔とも言うべきアメリカンヴォーグ元編集長で映画「プラダを着た悪魔」のモデルとされるアナ・ウィンターのほかに、映画界からニコール・キッドマン、音楽界からビヨンセ、スポーツ界からはテニスのヴィーナス・ウィリアムズの4人、バランスをとった人選なのでしょう。ほかにも名誉職として共同委員長が数人いるようですが、みなさんそれぞれ華麗なドレスでカメラにおさまりネットに次々アップされています。ニューヨークのファッション界を象徴する美の祭典のはずなんですが、近年ネットを見る限り仮装大会のような印象、中には単なる露出狂のお披露目パーティーなのかと言いたくなる有名人も過去何人もいました。が、今年のドレスコードが「Fashion Is Art」だったからか例年より露出姿は少なかったかもしれません。そもそもMETガラは服飾研究所の活動資金集めのため第2次世界大戦後1948年に始まりました。音頭をとったのはファッション関係のパブリックリレーションズの草分けエレノア・ランバート女史です。当初のチケット料金は50ドル、いくら貨幣価値が違うと言っても現在の3万ドルと比較すればかなり格安でした。ダイアン・ヴリーランドさんそして、ヴォーグ誌やハーパーズバザー誌で編集長として活躍したダイアン・ヴリーランド女史がMET服飾研究所のコンサルタントに就任した1972年、METガラはニューヨーク社交界を代表する華麗なイベントになりました。研究所がたくさんの収集物をオークションで購入したり、ファッションデザインを顕彰する大規模展覧会を開催するための資金集めが開催趣旨でした。この頃からガラの社会的注目度は上がり、ニューヨーク社交界の頂点となりました。1995年にアナ・ウィンター編集長が服飾研究所の所長に就任してからはよりセレブ感が増し、映画界のアカデミー賞授賞式並みに華やかな衣裳を纏ってセレブがレッドカーペットを歩く全世界注目イベントになりました。寄付金も2億ドルを超えているそうですから、ウィンター女史の果たした役割はかなり大きいと言えます。ダイアン・ヴィリーランド女史が監修した「インベンティブクローズ 1909〜1939展」が開催されたのが就任の翌年1973年でした。おそらくMET服飾研究所の歴史に残る内容が充実した展覧会だったと思います。同展を現地で視察して感動した三宅一生さんは京都商工会議所の副会頭兼ファッション委員会委員長に就任したワコール創業者塚本幸一さん(のちに会頭)に京都開催を提案、ヴリーランド女史らMET側と交渉を開始しました。2年後の1975年、日本語タイトル「現代衣服の源流展」が京都国立近代美術館で開催されました。「三宅さんが素晴らしい展覧会だからやれやれと言うのでやったんだよ」、後年塚本さんから直接伺った話です。この京都開催展覧会は私の人生を変えました。1930年代に創作された「ドレープの女王」マドレーヌ・ヴィオネのドレス、接近して見れば高価なオートクチュールなのにステッチが歪んでる。生地は劣化して悪く言えば美しいとは言えない代物。だが、展示室を出るとき遠くから見れば彫刻作品のような美しさと力強さがありました。大袈裟に言えばヴィオネのドレスは私を呼び止めました。現代衣服の源流展ポスター接近してドレスを見ると古びた服、離れて見ると彫刻作品、この落差の中にファッションデザインの奥の深さがあるのかもしれない、男子一生の仕事としてファッションやってみるか、とここで腹が決まりました。三宅さんと塚本さんの尽力で開催された展覧会が大学生だった私の人生を決めたのです。わが人生の転機となった展覧会はMETガラで集める資金があるから実現し、京都でも開催されたから学生の私は見ることができました。塚本さんに「ヴィオネのドレスもポスターのデザインもいまもはっきり覚えています」と話したら大変喜んでいらっしゃいました。京都開催の後、ワコールは京都服飾文化研究財団を設立、各国のオークションで多くの歴史的衣裳を購入、当時フランスのルーブル美術館でさえできなかった「華麗な革命展」(1989年開催。ナポレオンのフランス革命以前と以後の衣生活の大きな変化を顕彰)や「モードのジャポニスム展」(1996年開催。日本のキモノがパリオートクチュール黄金期のデザインにいかに影響を及ぼしていたかを顕彰)などファッション界には重要な展覧会を開きました。とりわけ「華麗な革命展」は視察したルーブル美術館キュレーターがルーブルでの開催を要請、パリ市民は日本側が監修したフランス衣生活変化を見ることができたのです。マイケルコースを着たアン・ハサウェイ話は戻って今年のMETガラ。カメラにおさまった有名ゲストの多くはサンローラン、ディオール、シャネル、グッチなど人気ヨーロッパブランドに提供された服を纏っていましたが、その中で個人的に品があって素敵だなあと思ったのは映画「プラダを着た悪魔2」が公開されたばかりの女優アン・ハサウェイ。彼女は米国デザイナーのマイケルコースの黒いドレスを着ていました。ニューヨークで開催されるファッションの祭典でゲストのほとんどがパリ、ミラノのブランドではあまりに情けないと思います。GAPの仕事をしているザック・ポーセンの特注ドレス(GAPスタジオ制作)を着たトップモデルのケンダル・ジェンナーやラルフローレン、マークジェイコブスを着用したゲストも中にはいましたが、ニューヨークコレクションで毎回新作発表している米国デザイナーにはMETガラでそのデザインが話題になるようもっと頑張って欲しいですね。
2026.05.12

パリコレ出張の際、パリで必ず呼び出してディナーを共にした仲間がいます。パリ在住ファッションジャーナリスト村上新子さん、流暢にフランス語を話す人でした。毎回面白いレストランを予約してくれました。ダイアナ妃があの事故の夜予約していながらパパラッチがホテル前に待機していたのでキャンセルせざるを得なかったBenoit(ブノア。元々は家庭料理のビストロ、のちにアラン・デュカスが買収)。シャネルが毎シーズンコレクション会場にしているグランパレの横のMini Palais(ミニパレ。ミシュラン星を獲得した若手シェフが手がけた)。フランス南東部ヴァランスの父親のレストランを2つ星から3つ星に復活させた女流シェフのLa Dame de Pic(ラダムドゥピック。日本で修行経験あり)。エッフェル塔の夜間照明がガラス張り天井から客席に降り注ぐLes Ombres(レゾンブレ。ケ・ブランリー美術館最上階)。その後もこの4つのレストランには部下たちを連れて何度も足を運びました。ケ・ブランリー美術館37, qual Branly-portil Debilly, 75007 Paris最上階レストランLes Ombres(レゾンブレ)レストランからの眺めという点ではキ・ブランリー美術館のレゾンブレが最も印象的でした。この美術館はポンピドゥ大統領がポンピドゥセンターを、ミッテラン大統領がバスティーユ新オペラ座を推進したように、シラク大統領が在任中の代表的な文化プロジェクトに据えて強力に後押しして建てた美術館、設計はフランスを代表する建築家ジャン・ヌーヴェル(カルティエ財団現代美術館や汐留電通本社ビルなど設計)。最上階レストランの天井はエッフェル塔のような鉄骨に総ガラス張り、エッフェル塔のチカチカピカピカ照明の光が流れ込む光景は圧巻です。私の記憶が間違っていなければエッフェル塔は1999年からチカチカピカピカ光るミレニアム仕様が始まり、日没後毎時00分から数分間派手に点滅、パリの夜を彩っていました。2000年1月1日を迎えるまでこの照明プレゼンテーションは続くと聞いていましたが、どうやら好評につきその後も毎時00分の点滅は継続されているようです。光り輝くエッフェル塔エッフェル塔の照明点滅が始まった頃、私たちはちょうど松屋銀座店大改装を計画しているところでした。フロア構成を大きく変え、ルイヴィトンはじめヨーロッパの有力ブランドのショップを一気に導入、できれば古くなった外壁にも手を付けてイメージチェンジしようと議論していました。パリコレ出張時、たまたまエッフェル塔がよく見える三宅一生さんのパリアパートに招待され、そのテラスでエッフェル塔を眺めながら三宅さんが「百貨店も光を取り入れてはどうですか」とアドバイス。確かに百貨店の外壁はどこも無機質、夜景が美しいなんてことはほとんどなく、特に日本では記憶がありません。このアドバイスはガツンと響きました。帰国した私はすぐ宣伝装飾部の社員、内装工事をお願いしていた乃村工藝社の担当者に3泊5日パリ出張を持ち掛けました。視察目的は2つ、エッフェル塔の照明点滅とボンマルシェ百貨店ファッション雑貨平場の什器。特にエッフェル塔のミレニアム照明をじっくり視察して、百貨店の外壁に光をセットするならばどういうことができるか提案して欲しいとお願いしました。早速彼らは建物改築に関わる大成建設の担当者も連れて3泊の弾丸パリ出張に出かけました。かつての松屋銀座改装工事のための仮囲いデザインは原研哉さんLED照明ガラス張りの外壁に彼らの帰国後アートディレクター原研哉さん(大改装時のグラフィックデザイン全般を依頼)も交えみんなで議論、スライド点検のホワイトボックスのようにぼんやりと銀座のワンブロックを照らす柔らかな光にしよう、と。そのため外壁は総ガラス張り、内側には光を乱反射させるために凹凸を付けた白い鉄板を設置、そこに当時最新だったLED電球を多数セット、光の色彩コントロールはコンピュータ制御(1700万色に変更可能)となりました。閉店後畳1畳ほどのサンプル壁をクレーン車で吊り上げてどのように光が反射しどんな見え方なのかチェックして最終施工に入りました。松屋銀座大改装は1999年12月計画開始からオープニングの2001年春までトントン拍子で進みましたが、外壁工事にはかなり時間が必要。現在のガラス張り外壁を完成させるにはさらに1年かかりました。コンピュータ制御で1700万色に色彩変換は可能ですが、基本的にはぼんやりとした白っぽいブルー照明、クリスマス期間くらいは緑と赤のクリスマスバージョン、何か特別なプロモーションがあるときも基本色以外の多色使いはありと決めました。クリスマスシーズンの外壁こうして現在の松屋銀座の外壁は総ガラス張りLED照明になりましたが、その原点はエッフェル塔ミレニアム仕様の照明、三宅一生さんの一言がきっかけでした。閉店後ぼんやり光る外壁を見上げるたび、パリアパートのテラスで三宅さんと交わした会話のことを思い出します。あの一言がなかったらただのガラス張り外壁になっていたかもしれません。ちょっとおのぼりさんツアー案内みたいですが、パリにお出かけの皆さんにはトロカデロ広場から見上げるエッフェル塔チカチカピカピカと、キ・ブランリー美術館最上階のレストランで天井に降り注ぐ光の体験をお勧めしたいです。感動しますから。
2026.05.07

東京ファッションデザイナー協議会から百貨店のシンクタンク部門に移籍した直後、館内のイッセイミヤケショップは販売スタッフ4人、売り場面積22坪、全国百貨店インショップでは売上3位でした。すぐ上のポジションにいたのはスタッフ7人、面積45坪の西武百貨店池袋本店、スタッフ数が多く売り場も広いから簡単には抜けそうにありませんでした。われらのイッセイミヤケ男性店長Sくんには大胆な発注方法を伝授しました。Sくんに「これまで1マークで最大何枚発注したことあるの?」と訊いたら、おそらく松屋銀座では1マーク30数枚程度と答えたので、展示会場で1マーク150枚、しかも2マーク発注してくれとお願いしました。Sくんに「これまで最高いくら売上があったの」と訊ねたら、月に2,000万円に少し満たない、と。そこで大胆な発注を試みたのだから月3,000万円の売上を目指せ、超えたら自腹でショップスタッフ4人をフグ屋でご馳走すると約束しました。月2,000万円未達のショップにいきなり3,000万円超えを賭けたのです。1997年11月でした。ありがたいことにお客様に支持され売上は順調に伸び、11月中旬を終えたところで私はフグ屋の出費を覚悟しました。ところが11月最後の週末、大手証券会社山一證券が経営破綻、あの有名な涙の社長記者会見がありました。この会見ニュースからデパ地下高級食材の売上は急ブレーキ、天然マグロも蟹も高価格商品は売れません。婦人服フロアの売上もピタッと止まりました。そして最終的に過去最高2750万円を達成しましたが、目標の大台3,000万円には届かず、フグ屋というわけにはいきません。フグはまた次の機会、それでも過去最高売上なんですからご褒美にすき焼きレストランに招待しました。この話をイッセイミヤケグループの母親役だった小室知子さんに話したら、「あんたケチやな。私がおごるからみんなでフグ屋に行こう」となって私も含めみんなで小室さんにフグをご馳走になりました。この月以降百貨店ショップ売上第2位になったのです。フグ屋でご馳走になって2年半後、私は当のグループのアパレル企業経営者に。このとき一番最初にグループ移籍のことを打ち明けたのはS店長でした。「キミに教えた発注方法を全国の店長に教えてみないか」、私は彼を本社に異動させました。もうひとり館内のメンズショップ店長だった男性店長Ḿくんものちに本社に異動させ、マーチャンダイジング指導の補佐を命じました。Ḿくんは7年間私の社内ゼミに立ち会わせ、ときには講義を担当させて育てました。私が退任したあと社内ゼミを継続し、私に代わってḾくんが講師となり社員にマーチャンダイジングの基本や意図ある発注を指導しました。私が抜けたあとも高いプロパー消化率を維持できたのは継続した社内ゼミのお陰、そして若手社員でさえ「定数定量」を普通の会話の中で口にする会社になりました。私がマーチャンダイジングを教え始めた当初、幹部社員は顧客分類や定数定量の話をすると下を向いてクスクス笑っていました。たぶん「うちはミヤケだぞ。この人、何を言ってるの」という意味の笑いだったでしょう。就任2年後プロパー消化率が劇的に改善すると彼らは笑わなくなり、3年後には社員の多くがやっと「定数定量」を当たり前に使うようになりました。Ḿくんは私の後継講師としてその後8年ほど社内ゼミを続け、次に子会社に出向してマーチャンダイジングの指導を継続、グループに大きく貢献しました。再び百貨店に復帰した私は、今度はお取引先の店長たちから希望者を募って百貨店営業本部主催MDスクールを始めました。化粧品、外資ファッションブランド、大手アパレル、国内ブランド企業の店長たちに加えファッション専門媒体の記者さんにも門戸を開きました。ショップの店長が定数定量や顧客分類を考えて仕事する会社はほとんどなく、宿題を与えるとイッセイミヤケ社の店長だけが満足な回答を持ってきました。当然と言えば当然なんですが。お取引先店長に向けたマーチャンダイジング指導は2年続けました。しかしながら私は政府系投資ファンド経営者に転籍することになってしまったので指導継続はできなくなりました。もしもお取引先の店長たちにマーチャンダイジングの指導を継続していたら、発注やVMDでもっと精度の高い仕事をするブランドショップが増えていたのではと思います。もう一点、百貨店に復帰してすぐ私は店舗開発担当だったSくんを呼び出し、館内4箇所に分かれてショップを構えていたグループ婦人服4ブランドを大型ショップひとつに集約するよう提示、百貨店売り場では珍しいブランド統合大型ショップを立ち上げました。売上目標は既存4ショップの合計金額ではなく大幅な予算アップ。目論見通り4ブランド合計売上はすぐ1.5倍になり、現在は3ブランドながらかつての約3.5倍に。前職政府系投資ファンドで親交のあったH2O(阪急阪神百貨店)椙岡会長が上京された際、私はこの統合ショップを案内し、外資ラグジュアリーでなく日本ブランドでもやり方ひとつで大化けする、外資トップブランドにも売上は負けていない、大阪でもお考えになったらどうですかとアドバイスしました。もちろん売り場をただ大きくしただけではこんな効果は出ません。百貨店側もショップ側もマーチャンダイジングの基礎を理解していなければ結果は生まれませんが。かつてスタッフ4人、売り場面積22坪だったショップは、現在スタッフ約30人、売り場面積80坪、ブランド3つで全国でもダントツ優良店舗になりました。同時に百貨店側にも全商品カテゴリーすべてのお取引先の中でもトップランクのベンダーに成長し、ウインウインの関係になりました。行動目標を与え、地道に人材育成すれば企業は変わります。多くの経営者の皆さんには考えていただきたいですね。
2026.05.02

1964年日本で初めてオリンピックが開催された頃、日本はようやく戦後期から抜け出して新しい生活価値観が芽生えました。欧米のライフスタイルや生活文化がどんどん導入され、若者たちは日本にはなかった新しいモノやコトに熱狂。アメリカから入ってきた不思議な飲料コカコーラを愛飲し、ザ・ビートルズの新しいサウンドに痺れ、VANが紹介したアイビールックに染まり「みゆき族」が生まれました。我々の地方都市でも私たちよりちょっと年長のお兄さんたちはビートルズのLPレコードを学校に持ち込み、雑誌平凡パンチやメンズクラブを脇に抱え、カバンにはVANのステッカーを貼り、学校の木製学習机には彫刻刀でVANの文字を彫りました。受験前に読んだ全国大学紹介本、VANのカリスマ経営者石津謙介が明治大学出身と知って私は明治大学に興味を持ちました。将来家業のテーラーを継ぐことになっていたので大学に行くなら経営学部もしくは商学部を受験するつもり、明治大学経営学部は私が生まれた年に誕生と知って親近感を持ちました。明治大学経営学部に入学すれど5月連休明けには過激派学生がキャンパスを占拠、学校封鎖で授業はずっとありません。入学後授業を受けられたのは1ヶ月足らず、「授業料返せ」と叫びたいくらいでした。数回だけ講義があった経済学概論、当時はフォード大量生産方式の事例がテキストに記載されていました。おそらく現在のテキストはトヨタかんばん方式でしょう。トヨタかんばん方式を世に広めたトヨタ大野耐一副社長は我が家のお客様、私のオヤジが洋服を作って納品していました。必要なものを、必要なときに、必要なだけ生産するジャスト・イン・タイム方式、在庫や無駄を極限まで減らす大野さんの理論はフォード大量生産方式で育った幹部にはあり得ない考え方、最初は社内でさせ広めるのに相当苦労されたそうです。縫製工場はいまやフォード式生産ではない学生時代にフォード式を学んだ世代が戦後急成長したアパレル業界経営者ですから、概ね日本のアパレルメーカーは大量生産で原価を下げる考え方が定着、その結果売れずに大量に在庫が積み上がって苦労するのが常でした。素材調達や縫製現場では大ロットで生地値や工賃を下げてもらう、特に定番的な商品は大量生産して作り置きする、これが業界のスタンダード。創業30年のアパレル企業の経営を担ったとき、各ブランド部門長に全ての在庫明細の提出を求めました。会社の実態を把握したかったからです。ところが誰も在庫明細を出してくれません。前任社長に叱られるのが怖くて在庫実態を明らかにしなかったのか、それとも会社ぐるみで在庫データを改竄していたのかは不明。そこで部門長の下にいた社員に「みんなに内緒で全ブランドの在庫明細を持ってきてくれ」と頼みました。彼が作成してくれた全ブランドの商品在庫明細を見てびっくり仰天、想像を遥かに超えるしばらくものづくりできない在庫がありました。決算書とは明らかに違う数字、コンピューターの在庫欄に記載はなく、中には巧妙に品番を変えている商品がいくつも。さらに完成品以外に大量の生地在庫もありました。とりわけ大量の在庫があった3品番の服を持ってくるよう彼に頼みました。異常に在庫が多い3品番、実は同じ素材、同じデザイン、色は黒、白、ライトグレー無地の3色。ベーシックなデザインと色ですから大量に在庫を持っていても売れるだろうと考えて大量生産したのか、それともあまりに多過ぎたので意図的に3つに品番変更したのか、あるいは部門長たちの意思の疎通がなかったからそれぞれ勝手に同じ商品を作ってしまったのかは分かりません。アパレル業界ではよくやる手ですが、私は愕然としました。ベーシック商品なので時間をかければ完売できるかもしれませんが、ジャスト・イン・タイム生産であるべき近代経営の視点から言えば、これはやらない方がいい旧生産方式なのです。すぐに黒無地には箔を乗せてデザイン変更、白は上からプリント、ライトグレーは良い方法が思い浮かばずそのまま店頭投入するよう命じ、私も個人的に買い上げて友人知人に配りました。ほかにも意図的に品番振替した商品が何種類もあり、数シーズン前に製造した古い商品は山のようにありました。ファミリーセール、百貨店の催事場セールなどで販売するつもりだったのでしょう。一般的にアパレル企業は「在庫は財産」「倉庫は金庫」と考える風潮があり、幹部たちの気持ちはわかないでもありません。高度成長期「在庫は財産」には一理ありましたが、バブル経済が崩壊した後この考え方は危険。大量生産方式で経営してきた米国自動車メーカーはみな破綻したことからも明白です。さらにびっくり仰天商品をマジソン街バーニーズニューヨークで発見しました。白い無地の定番メンズシャツ、どういうわけかボタンとボタンの間に一度ボタンを付けたであろう4つの小さな針穴がありました。シャツを広げて原因がわかりました。左見頃と右見頃のサイズ違い、これをシャツ下部からボタン付けしたら襟の位置が左右チグハグになったので縫製工場はボタンを外し、シャツ上部から縫い直したのです。縫い直したシャツの裾は左右サイズが違います、シャツの長さが左右違いました。海外市場向けに製造原価を下げるためイタリアの有名な縫製工場で作ったシャツでした。こんないい加減な仕事をしていたら世界で高く評価されてきた創業デザイナーの名前に傷が付きます。「自分たちの手の届くところで生産すべき、海外生産は中止しろ」と命じました。いくら製造原価が安くてもイタリア製のシャツも定番プリーツ商品も生産中止、海外向けも国内縫製工場に切り替えました。同時にもっと商品のことを熟知している人材を登用する必要を感じました。当時私の弟が企画生産部長をしていた競合他社から出戻ってきた男性社員がメンズMDでした。「キミは弟の下で何年働いたの?」と質問しました。出戻って3年の社員に「弟はもっと上質の服を作ろうとこの3年間で3回縫製工場を変えているよ。キミは3年間で工場を何回変えたの?」。答えはゼロでした。いつもの工場に何の疑問も持たずずっと仕事を出している、私に言わせれば怠けています。どう業務革新したのか拙著でも触れています就任時に在庫明細を持ってきてくれた生産部長に「同じ生地とパターンを手縫い工程のある縫製工場数社に出してサンプルを作れ」と命じました。同じ生地とパターンですからほぼほぼ同じようなものが上がってきますが、よく見ると細部は微妙に違います。弟同様私も高級テーラーの倅ですから服はよく知っています。6工場6点の中から我が社のデザインに合う縫製工場を使うよう指示しました。値段勝負の大手アパレルであろうとデザイン勝負のブランド企業であろうと、お客様にもっと信頼していただけるクオリティーを追求すべき、ロングセラーになりうる定番商品であっても古いフォード方式でなくジャスト・イン・タイムのトヨタ方式に切り替え必要以上のものは作らないことを肝に銘じるべきです。こうやって悪戦苦闘しながらものづくりは強化することができたと自負していますし、退任後も部下たちはもっといい商品を作ろうと努力してくれています。とんでもない大量在庫は3年間で全て綺麗にしました。処分最終年の就任3年目は大量処分で赤字決算、その責任は私が被りました。そして退任挨拶の朝礼で社員たちに大量在庫の存在も黒、白、ライトグレー3色定番品をいかにゼロにしたか初めて説明しました。多くの社員は知らないことだったのでキョトンとした表情でした。最後に「今日現在わが社の旧在庫はほぼゼロ。私が退任しても作り過ぎない、在庫は残さない、この方針だけは絶対に守ってください」と言いました。近年は中国アパレル経営者に在庫問題などをセミナー後継者たちが頑張っているのでその後業績はすこぶる好調、お客様に胸を張って商品をお勧めできるいい会社になりました。旧在庫大量処分で私には辛い数年間でしたが、元部下の何人かは私がやったことを評価してくれます。それが私の勲章です。<追記>コロナ禍を経験し、今度は極端な少量生産にシフト、売り切れたら追加生産するアパレルメーカーやSPAが増えました。大量生産で在庫過多ではなく、少量過ぎて欠品売り逃しという事例も増えてきたように思います。これをジャスト・イン・タイムとは言わないのではないでしょうか。適時適品適量を計画できるマーチャンダイザーが育つといいんですが。
2026.04.30

創業から270年以上続く名古屋の名門繊維会社タキヒヨー、滝一夫社長と双子の兄弟祥夫さん(学校法人滝学園副理事長)は小室知子さんのことを「オカン」と呼んで慕ってきました。実の母上が早く亡くなったこともあって彼女は母親代わりでした。兄弟の父上は同社元社長、米国でダナキャランを起業して上場した滝富夫さんです。在米の富夫さんは長くイッセイミヤケUSA会長、私もいろいろアドバイスをいただきました。滝富夫さん(中央)出版記念会にてかつてタキヒヨー東京支店は原宿のとんかつ屋まい泉の前にありました。CFDから東京生活研究所に移籍した私が商談に行ったとき、オフィス内でひときわ大きな声でテキパキ仕事する若い女性の存在が気になりました。「元気な子ですね」と東京支店伊藤茂秀さんに言ったら「小室知子さんの娘です」、オカンそっくりパワフルでした。小室登子さんはオカンが三宅デザイン事務所を自宅で起業した翌年1971年生まれ、誕生日は三宅一生さんと1日違いの4月23日です。ボストンの大学に留学中彼女は一度病で倒れ、さすがの小室さんも心配でボストンに飛んで行きました。「登子が白眼むいてたからもうあかんかと思ったわ」、このときだけはごく普通の母親でしたね。創業の翌年三宅一生さんはニューヨークでデビューコレクション開催、新人デザイナーがいきなり海外デビューですから資金繰りは大変。登子さんがお腹にいるとき小室さんは大きなお腹をかかえて資金調達に大阪出張した話は前述しましたが、小室さんの顔を見るなり大手資材メーカー幹部のHさんは「要件はわかってる、言わなくていいよ」とすぐに融通してくれたそうです。このHさん、のちにハナエモリ取締役に就任した方でした。三宅さんに誘われイッセイグループの仕事をすることになった私は小室さんに「娘さんを会社に引き抜けないか」と相談したら、「それだけはあかん」、幹部の縁故関係は採用できない不文律があり断念しました。デザイナー企業ですが、1本筋が通ったちゃんとした会社でした。晩年の小室さん小室さんにとって男性社員は息子、女性社員は娘、みんなの面倒をよく見ていました。時々自宅に呼んでご馳走を振る舞い、彼らの悩みを聞き、相談に乗っていました。また彼らの人材育成にも非常に熱心、わが私塾「月曜会」にも私が指導していたIFIビジネススクールにも若手社員を派遣していました。CFD設立1年後、私はニューヨークで身につけたマーケティングやブランド戦略を実学形式で後進に伝えようと私塾を開きました。毎週月曜日夕方開催、授業料は無料、社会人であれ学生であれ参加希望者は論文試験、外部からデザイナー、編集者、ビジネスマンら一線級の特別講師を招聘、中身の濃い勉強会でした。小室さんから若手社員を参加させもらえないか相談があり、特別に毎回1名だけ受け入れました。日頃CFD運営でお世話になっていたので。のちに独立してバッグデザイナーを始めた伊藤卓哉さん、イッセイミヤケで主に雑貨デザインを担当していた小此木達也さん、インテリアデザインでいまや有名人になった吉岡徳仁さんなどみなデザイン事務所の若手社員。大ヒットのバオバオ・イッセイミヤケの松村光さんも受講生でしたが、彼はまだ三宅デザイン事務所に入社前の武蔵野美術大学助手でした。IFIビジネススクールにはイッセイミヤケや関連会社エイネットの若手社員を毎回送りましたが、デザイナー系企業で外部の勉強会に社員を積極的に参加させるのはイッセイグループだけでしたね。グループから離れた元社員の展示会には頻繁に顔を出し、励ますために個人オーダーを入れ、外部の方を紹介するなどあれこれ支援。エイネットから独立した桑原直さん(元I.Sやsunao kuwaharaデザイナー)、前出バッグの伊藤卓哉さんや松村光さんの展示会にマメに出かけていました。だから多くの息子たちはオカンの訃報を聞いてかなりショック、悲痛なメールが私にも届きます。最晩年彼女は体調が悪くひとりで元部下の展示会を回ったり散歩に出るのはややリスキーだったのでしょう、元エイネット幹部の帯川正之さんが息子のように寄り添っていました。帯川さんは現役時から彼女が特に可愛がったひとりでしょうが、実の母親でもそこまで面倒見切れないところ献身的、帯川さんには頭が下がります。10年間アパレル事業を率いて退任した後も私は小室さんによくご馳走になりましたが、現役時代に大量の在庫処理やプロパー消化率の向上、百貨店から主導権を取り戻すなどいろんな業務改革をしたことを説明すると「私、そこまでは知らんかった。色々苦労させてたんやね」。諸先輩への批判と取られたくないので当時会社で起こっていたネガティブな話は報告しないようにしていましたから。生前、ひとつだけ褒め言葉をいただきました。「社員に自腹切ってご馳走してたんはあんたと私だけやった」、ちゃんと見ててくれたので嬉しかったです。資生堂池田守男さんと小室さん@丸亀市猪熊弦一郎現代美術館仕事一筋で離婚2回。享年84歳、考えたら三宅さんも同じく84歳でした。三宅さんよりも長生きしたらあかんと思って息を引き取ったんじゃないか、と私は思います。登子さんによれば、この秋にしんみりお別れ会ではなく、明るく「オカン大あっぱれ会」を開くつもりだそうです。オカンに世話になったみなさん、秋に集合ですよ。
2026.04.29

天才CM作家杉山登志さん(1936-1973年)のことを調べていたとき、小室知子さんが杉山さんの顔写真が表紙になってる書籍を貸してくれました。一連の資生堂コマーシャルのほか日産自動車フェアレディ、モービル石油などを手がけ、数多くのCM関連の賞を受賞しているクリエイター、赤坂の自宅マンションで自殺していたところを発見されるという衝撃的な亡くなり方でも有名です。リッチでないの リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません 「夢」がないのに 「夢」を売ることなど・・・・・とても 嘘をついてもバレるものです。人気絶頂期の自殺、この遺書はかなり話題になりました。死後37年後、業界団体ACCはクリエイターズ殿堂の第1回殿堂入りに杉山さんを選出していますから業界内に信者、信奉者は相当多い仕事人です。借りた書籍の中に黒縁メガネをかけた杉山さんと小室知子さんのツーショット写真が挟んでありました。インスタント証明写真ボックスで撮影したモノクロ写真、杉山チームのスタイリストをしていた1960年代撮影、インスタント写真ながら小室ファミリーにとって歴史的なツーショットだと思います。CM制作現場のスタイリストは映像作家や有名カメラマンらクリエイターを補佐する仕事ですが、当時から三宅デザイン事務所を引退するまでずっとクリエイターを支えるいわば裏方マネージャーでした。三宅デザイン事務所には三宅一生さんを頂点に天才肌だったデザイナー毛利臣男さん(のちに市川猿之助スーパー歌舞伎の衣裳デザイン担当)、ZUCCaデザイナーに就任した小野塚秋良さん、世界的に有名なテキスタイルデザイナー皆川魔鬼子さん、現在社長の北村みどりさんなど多士済々、みなさん個性が強烈で一筋縄ではいかない集団、それをマネージするんですからまるで猛獣使いみたい。小室さんとカラオケに行ったことが数回ありますが、彼女が歌うのは初期の湘南サウンドの人気者ザ・ワイルドワンズのヒット曲「想い出の渚」(作詞:鳥越繁樹、作曲:加瀬邦彦)でした。君を見つけたこの渚に一人たたずみ思い出す小麦色した可愛いほほ忘れはしないいつまでも水面走る白い船長い黒髪風になびかせ波に向って叫んで見てももう帰らないあの夏の日三宅デザイン事務所は一時帰国中の若き三宅一生さんと小室さんが湘南海岸で遭遇したことから物語が始まりました。だからでしょう、小室さんはマイクを渡されると必ずこの「想い出の渚」を歌っていましたね。ご自分の人生の転機となった出会いを懐かしんでこの歌だったのだと思います。再会したとき三宅さんはどんな印象でしたかと訊いたら、「カッコええ男やな」、確かに三宅さんはずっとカッコ良かった。事務所を設立してすぐ三宅さんは世界で頭角を表し、その分資金繰りも大変だったでしょうし、外部の企業との連携、ライセンスビジネスの交渉など元スタイリストでビジネス経験がほとんどない若い女性には荷が重かったと想像します。アパレル事業会社イッセイミヤケ・インターナショナル(現在のイッセイミヤケ)は初代社長多田裕さんが仕切っていましたが、個性軍団のデザイン事務所のやりくりは小室さんでした。一度だけブランド営業の場面で小室さんが登場したことがあります。コレクションブランドのイッセイミヤケからプリーツプリーズ・イッセイミヤケが独立する際どうやって市場投入するかの相談でした。三宅さんはイッセイミヤケの売り方とは違う展開方法はないものか、フランスパン(最初のショッパーはバゲットを入れるような細長い紙袋でした)を売るように多くのお客様に売りたい、という話でした。私は「フランスパンみたいにと言うのであればブランドショップではなく百貨店の婦人服平場でカッコ付けないで売ってみては」と助言、当時伊勢丹MD統括部婦人服部門のトップだった武藤信一さんを小室さんに紹介しました。武藤さんには「ショップでなく平場展開で検討してみてください」とお願いしました。伊勢丹新宿3階婦人服平場スライス・オブ・ライフにハンガーラック1本でプリーツプリーズは販売開始、いきなり記録的売上でした。パリコレ出張から戻った三宅さんは早速伊勢丹の売り場に飛んで行き、ショップでなく雑然とした平場展開にびっくりしたのでしょう、すぐ車の中から電話がかかってきました。「太田さん、この売り場で良いんでしょうか?」。「フランスパンみたいに売りたいって話でしたから、私はこれで良いと思います」と返しました。現在プリーツプリーズはショップ展開フランス業界紙ジャーナルテキスタイル紙デザイナー人気ランキングのジャーナリスト部門でデビュー以来初めてトップに立ったイッセイミヤケ、いくら別ブランドとは言っても平場展開はいまひとつピンとこなかったのでしょう、伊勢丹から帰社してすぐ小室さんにちょっとネガティブな感想を漏らしたようです。今度は小室さんから電話、「これでええんやと三宅に言ってやって」。「さっき三宅さんから電話もらったんで、これでええんですと言っといた」と返しました。おそらくその後も三宅さんと小室さんとの間ではプリーツプリーズの展開方法をめぐって議論が続いたでしょう。福岡ダイエーホークスのユニホームのときと同様このプリーツプリーズ平場展開も私に責任が少しあるかもしれません。私の FEC賞受賞記念の宴会、ピンクのトップスが小室知子さんルーブル美術館展覧会の資金集め、福岡ダイエーホークス、プリーツプリーズ平場展開もまだ私はCFD東京ファッションデザイナー協議会の責任者、イッセイミヤケグループ側の人間ではありません。その後まさか自分が声をかけられグループ側になるなんて全く想像していませんでした。にもかかわらず小室さんとはいろんなエピソード、思い出があり、まだまだいっぱいあるんです。コロナ禍でキャンセルにした元部下たちとオカンを囲む夕食会、強引にやっておけば良かったと悔やまれてなりません。最も尊敬する大先輩、みんなの喪失感は大きいです。
2026.04.28

われらがオカン、小室知子さん(三宅デザイン事務所副社長、創業者)とは1985年CFD設立準備段階からの長い付き合いでした。二人だけで会話するときはいつも関西弁、東京人からすれば品がないやりとりに聞こえたかもしれません。「三宅の夢の実現」、これが小室さんの行動指針でしたから私がCFD責任者だった頃はいろんな相談されました。パリ・ルーブル美術館での「A UN展」や野球の福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンク)ユニホーム制作のときも。ISSEY MIYAKE A UN展ポスタールーブル美術館から展覧会開催を持ちかけられたとき、非常に名誉なことですから三宅さんはじめデザイン事務所関係者は大喜び。しかしルーブル美術館は会場無償提供はするものの展示会場設営から作品運搬まで必要経費は全額展示者側の負担、これがルーブルの決まりでした。世界でも有数のミュージアムでのハレ舞台、プロポーズされた三宅さんはなにがなんでも実施したい、しかし経費負担は大きくイッセイグループにのしかかる。そこで小室さんから資金集めの良い方法はないか相談がありました。私はいくつかアドバイスし、背後での協力を約束。まず日本の政府機関の「後援」を取り付ける。そのお墨付きを持って財界人や文化人にお願いして「実行委員会委員」になってもらう。いわゆる財界資金集め方式です。実働部隊の委員会は実行委員会の下に置く。そのスキーム作りと根回しなら私にも協力できますから。日本のファッションデザイン展あるいは複数の日本人デザイナー展であれば政府機関の後援は比較的取りやすいが、ひとりのデザイナーとなると簡単ではありません。社会から批判されないそれなりの大義名分が必要でした。私は親交のある通商産業省幹部に相談、1デザイナーの展覧会であってもそれが日本のファッションデザイン全体のイメージアップになるので後援して欲しいと交渉しました。理解のある官僚のおかげで通商産業省(現在の経済産業省)後援が決定、お墨付きが出ました。次は実行委員会の委員長を誰にお願いするか、広く資金を集めるにはここが肝心です。私は文化事業に意欲的な資生堂社長福原義春さんが最も相応しい、しかも秘書室長池田守男さん(のちの社長)の経済界での人脈は半端ない、彼が頼めば某大手広告代理店も背後で動いてくれるはず、と小室さんに提案しました。文化人の代表は世界的知名度から考えても建築家の安藤忠雄さんがベスト、しかも安藤さんの双子の弟である北山孝雄さんと小室さんはツーツーの仲でした。安藤さんは快く委員を引き受けてくれました。通商産業省の後援と実行委員会の顔ぶれの影響力は大きく、資生堂池田さんの全面的サポートもあって「イッセイミヤケ A UN展」開催に必要な資金のほぼ2倍の協賛金が集まり、三宅一生さんの夢は実現、その展覧会は世界のファッションデザイン界に大きな足跡を残しました。小室知子さんともうひとつはプロ野球新球団福岡ダイエーホークスのユニホーム制作。三宅さんと代々木上原の小さなおでん屋に行ったとき相談されました。今度誕生する福岡ダイエーホークスからユニホーム制作の依頼されているけれど、引き受けて良いものかどうか迷っている、と。同じパリーグには西武ライオンズがいる、デザイン事務所創業時から支援してくれる西武セゾングループ堤清二さんとの関係を考えて三宅さんは断ろうか悩んでいました。西武ライオンズは西武鉄道の堤義明さんがオーナー、世間では堤兄弟の仲は微妙と言われていましたから、私は「引き受けたらいいじゃないですか。それよりも三宅さんは野球ご存知ですか。プレイヤーの動きを束縛するようなデザインだと困りますよ。今週末東京ドームで日米野球があります。米国メジャーリーグの多くの球団ユニホームも見れますからチケットあげましょうか」と言いました。翌日小室さんからさっそく電話。「悪いけど三宅を東京ドームに連れてって」。私はたまたま招待券2枚持っていたので「2枚ともあげるからあんたが一緒に行きなよ」と返しましたが、小室さんに懇願されて私が同行することに。しかもデザイン事務所内でデザインコンペにしたいのでアシスタントデザイナーの分まで数枚チケット手配を頼まれました。日米野球を一緒に見に行った三宅さんと私は、やっぱりクラシックなピンストライプのニューヨークヤンキースが一番カッコいいね、ここは同意見でした。そして小室さんから「プロ野球のユニホームって初めてやから契約金いくらぐらいが妥当か教えてよ」と電話がありました。単にユニホームデザイン料ではなく、ファンにも広くグッズ販売するはずなので一般的なライセンスビジネスのミニマムギャランティー方式で契約しては」とアドバイスしました。新球団福岡ダイエーホークスのユニホーム三宅デザイン事務所が手がけた福岡ダイエーホークスのユニホーム発表のあと、思わぬことが起こりました。西武ライオンズと同じパリーグでもセゾングループの堤清二さんとは関係ないからいいだろうと私は勧めましたが、セゾングループ傘下には量販店の西友ストアがありダイエーとは競合関係、堤清二さんは面白くなかったようでクレームが入りました。私が余計なアドバイスしたことがまさかの事態、小室さんに迷惑をかけてしまいました。三宅さんと小室さんと3人で会食したのは2回だけ。2000年春先イッセイグループ移籍を勧誘されたとき、三宅さんの自宅に招待されました。おそらく最終面接みたいなものだったのでしょう。シャンパン好きな私のためにドンペリ2本、でもお二人はほとんど飲まないし、緊張した私は飲むしかないので大半を平らげてました。帰ろうと思ったら酔いが足に来てフラフラ、ちゃんと立てないくらい酔っ払ってしまいました。「ほんとにこの人で大丈夫かなあ」とお二人は不安になったでしょうね。もう一度はグループに移籍2年ほど経過した頃ホテルオークラのレストランでした。絶対的カリスマの三宅さんの社員への叱り方が時にはかなり激しいこともあったので小室さんに会食をセットしてもらいました。「今日は言いたいことぜーんぶ言ってええよ」と小室さんが言うので、お二人が若かった頃の徒弟制度的時代と違っていまは上司が従業員に対して言葉遣いも気をつけなくてはならない世の中、オーナーであろうとも気をつけて欲しい、と。言いにくいけれど言わなければならないとき、小室さんは間に入って空気を緩和してくれました。まるで議論白熱する討論会の空気読めるファシリテーターのように。側で仕事して実感しましたが、三宅一生さんは天才デザイナーに間違いありません。アシスタントたちが創作した駄作サンプルでも三宅さんがハサミを入れるとみるみるサンプルは劇的にカッコよくなります。その卓越したクリエーションとデザインに賭ける情熱がグループ成長のエンジンでした。そして「三宅の夢の実現」のために半生を賭けた優れたマネージャーがいたこともグループ成長の要因。グループを離れたアシスタントデザイナーたちを陰で励まし続けたからこそ業界に多数のクリエーターを輩出したと言っても過言ではありません。いつも裏側に引っ込んでいたので小室さんの存在を知らない人が多い、それが私はちょっと悔しいです。オカン、あんたはほんまに偉かった!
2026.04.27

いったいどこから書いたらいいんだろう、いろんなことがありすぎて頭の整理がつきません。三宅一生さんの背後にいてほとんど表舞台に出てこなかった三宅デザイン事務所創始人の小室知子さんが4月13日亡くなりました。ファッション業界で一番尊敬してた大先輩であり、姉のような母親のような大きな存在、私にはとてもショッキングな訃報です。コロナ禍中に突然呼び出され、ホテルオークラの山里でランチをご馳走になったのが最後でした。三宅一生さんの背後にいてほとんど表舞台に登場しなかった人、その存在すらご存知ない業界人は多いでしょうし、社歴の短いイッセイミヤケグループの社員たちは名前くらいしか聞いたことない人でしょう。ちょっとだけどんな人だったのかここ記します。娘さんのSNSに上がったご遺影小室知子さん(1941年生まれ)は若い頃美容関係の学校に留学したくてロサンゼルスに渡りました。が、いまで言う留学詐欺にひっかかり、現地に到着したもののそんな学校はなかった。せっかくアメリカに来たのだからと1年間西海岸遊学、帰国後当時伊勢丹のオーダーサロンデザイナーだった母上の口利きで講談社の女性誌で仕事を始めました。雑誌「若い女性」巻頭カラーページのファッション担当、このとき多摩美術大学を卒業したばかりの若き三宅一生さん(1938年生まれ)と出会います。その後三宅一生さんは業界リーダーのひとりだったアミコファッションズ鯨岡阿美子さん(毎日ファッション大賞初代選考委員長)の勧めでパリオートクチュール組合の学校に留学、就業後吉田ヒロミさんがアシスタントをしていたジバンシィーに入り、のちにギラロッシュに移ってアシスタントとして働きました。資生堂サンオイルの伝説ポスター一方の小室知子さんは天才CM作家とも言われる杉山登志さんやカメラマン横須賀功光さんのスタイリストとしてコマーシャルや宣伝ポスター撮影をサポートしていました。貼っても貼っても盗まれることで話題となった前田美波里モデルの資生堂サンオイルのポスター(アートディレクションは石岡瑛子さん)は横須賀さん撮影、動画CMは杉山さん演出、スタイリストが小室さんでした。旭化成のベンベルグも確か同じチームだったと思います。旭化成CMロケのとき、小室さんに「どうやったらスタイリストになれますか」と尋ねた若い女性がいます。当時旭化成宣伝部勤務だった川久保玲さん、コムデギャルソンを立ち上げる前のことです。パリ五月革命で時代の変化、生活価値観変化を実感した三宅一生さんは富裕層相手のオートクチュールの将来に疑問を抱き、既製服の本場ニューヨークに渡ります。その頃三宅さんは一時帰国、湘南海岸に海水浴に行ったところで小室さんとばったり遭遇。このとき三宅さんは彼女に近々帰国して自分のブランドを作りたいと夢を語りました。小室さんはさっそくカメラマン仲間に出資を求め、1970年自分のアパートで株式会社三宅デザイン事務所を起業、海外から戻る三宅さんを待ちました。三宅さんが帰国して赤坂に物件を見つけ引っ越したマンション、その上階には偶然にもすでに旭化成を退職してコムデギャルソンをスタートした川久保さんがいました。「どっかで見た顔の人やなあ」と思ったそうです。御三家ファッションブランドの2つ、出発点は同じ赤坂のマンションでした。どちらの部屋も相当狭くて生地屋さんとの商談はマンションの階段でやったと聞いています。会社設立の翌年早くもイッセイミヤケはニューヨークでショー開催、1973年にはパリコレデビュー、創業時は相当資金繰りに苦労したはず。当時既婚者の小室さんは妊娠中で大きなお腹を抱えて大阪まで出張、某大手資材メーカーに資金の融通をお願いに行きました。他方コムデギャルソンのパリコレデビューは1981年、こちらは国内市場でしっかり経営基盤を固めてからでした。三宅デザイン事務所の社長は三宅さん、裏方の副社長は小室さん、社長はシーズンを追うごとに世界で才能を認められますが経費概念はほとんどありません。三宅さんの評価が上がるにつれ事務所の出費はどんどん膨らみますから、当然実務担当副社長はやりくりに苦労します。創業直後は資金稼ぎのため一般企業とライセンスビジネスをいくつも締結、子供服、紳士フォーマルウエア、タオル、ハンカチ、ネクタイ、水着などいろんなジャンルの商品を専業メーカーと協業。また、サントリーのCMに三宅さんがジャズの渡辺貞夫さんと出演したこともありました。資金集めの策として小室さんはCMの話を進めざるを得なかった。当の三宅さんは渋々出演、「小室が言うから出ましたが、もう二度とCMには出ません」、三宅さんから直接聞いた話です。「パリコレが終わるたび小室に電話して、会社は潰れずにまだありますか」と毎シーズンこんなやり取りをしていたとも聞きました。デビュー直後からパリコレ参加、しかもシーズン追うごとに評価上昇ですからどうしても規模はどんどん大きく経費は膨らみます。マネージャーの小室さんにはかなりのプレッシャーがかかったと想像しますが、「三宅の夢の実現、これが私たちの仕事」、三宅さん本人には苦労する姿をなるべく見せずケロッとしていました。六本木ミッドタウンのデザインミュージアム構想も「三宅の夢の実現」でした。防衛庁跡地を獲得した三井不動産とは商業施設開発で関係が深かった北山孝雄さん(建築家安藤忠雄さんの弟)と小室さんの二人は構想の具体化で奔走、ようやく三井不動産がミュージアム建設を了解しました。六本木の21_21デザインサイトは三宅一生さんと設計をした安藤忠雄さんが初めから動いていたかのように世間に伝わっていますが、実際には北山さんと小室さんが根まわし勉強会を始め、構想が実現しそうになった段階で三宅さんと安藤さんが登場したのです。私は北山さんから呼び出され、「あんただけは誤解せんといてや」と直接建設経緯を伺っています。とにかく「三宅の夢の実現」、これが副社長小室知子の行動指針でした。私が初めて小室さんとお会いしたのは1985年5月、果たして東京に欧米のようなファッションデザイナー組織が設立できるのかどうか疑問を感じながら業界を奔走していたとき。私に帰国を促した三宅さんは私の帰国とすれ違うように海外出張、「あとはうちの小室と話し合ってください」と言われ、当時六本木にあった三宅デザイン事務所を訪ねました。現れた女性の名刺のタイトルは副社長、「初めてお会いするのであなたのことはよく存じ上げません。しかし三宅は時々面白い人を連れてきます。三宅が信用しているのなら私も信用します」と冒頭に挨拶されました。ややこしい言い方するおばはんやなあ、これが第一印象でした。「私にやれることがあったらお手伝いしますから何でもおっしゃってください」と言われ、「私は東京に住んでいないので事務所物件を探すのは無理です。物件探しはやっていただけませんか」とお願いしました。すると小室さんはワイズ(現ヨウジヤマモト)林五一専務(山本耀司さんの小学校からの同級生)と新組織の事務所物件探しを連日やってくださいました。途中良さそうな物件があると電話で呼び出され、のべ数十軒をチェックしてくれました。かなりの時間と労力だったと思います。CFD東京ファッションデザイナー協議会が正式に活動開始すると小室さんはいろんな場面で私を支えてくれました。小室さんが主導して出版された唯一の書籍(1985年旺文社)1985年11月第1回東京コレクション最終日前日夕方、私はちょっとしたことで三宅さんともめていました。三宅さんに連れていかれたレストランで「こんなところでのんきに晩飯食べている場合じゃないんです。私は早く特設テントに戻って舞台美術の作業員たちに温かいご飯を作ってやりたい」ときつく話したら、三宅さんは店内公衆電話で秘書に差し入れを命じていました。夕食を早く済ませて特設テントに戻ったら、翌日のイッセイミヤケショーのステージ施工作業していたスタッフにたくさんの差し入れが三宅デザイン事務所から届いていました。翌日本番後CFD東コレ全体の打ち上げで小室さんに声をかけられました。「あんた、昨日三宅に説教したらしいね。三宅は偉くなってもう私たちでさえ強いこと言えなくなったから、これからも間違ってるときははっきり間違ってると三宅に言ってやってちょうだい」と薄っすら涙を浮かべて。このとき初めて「日本に帰ってきて良かった」と私は実感しました。4年後三宅さんとショースケジュールの件で激しくやりあったあと、夜9時過ぎに三宅デザイン事務所を訪問。現れた三宅さんは素直に「ごめんなさい」と詫びてくれまたので和解しました。が、翌朝小室さんから電話があり、「あんた昨夜うちに来て三宅を許してやったの。私はあかん、なんで太田さんをいじめるんか問いただすわ」。小室さんは副社長辞表を持って三宅さんと面談したそうです。また、三宅さんと二人で会食した際「うちに来てくれませんか」と誘われたもののお断りして帰った翌日、小室さんが勤務先の松屋の売り場に現れ、「昨日三宅に変なこと言われたやろ。あんたも知っての通り三宅とは意見違うこと多いけど今度は一緒なの。早くうちにおいでよ」、尊敬する小室さんに説得されたら私は断れません。私は素直に「考えてみるわ」と返しました。CFD時代もイッセイミヤケ時代も、私が三宅さんと衝突するたび小室さんは創業パートナーではなく私を守ってくれました。「三宅の夢の実現」の実行責任者ですが、3人の間では常にニュートラルなスタンス、私は何度も救われました。概してデザイナー企業の幹部スタッフは内外問わずカリスマデザイナーの方を見て仕事をする人が多いのですが、小室さんは違いました。カリスマに全く忖度しない、ときには辞表を懐に忍ばせて対峙する強いパートナーでした。逆に言うと三宅さんはそんな忖度なしの面倒なパートナーをうまく使った、だからクリエーションに専念して世界的ポジションを築くことができたとも言えます。イッセイミヤケグループの扇の要でありみんなのおっかさん、会社を去ったたくさんのデザイナーたちを叱咤激励し続けた優しい人でした。業界に元イッセイミヤケのデザイナーが多いのはこの方の存在が大きいんです。まさしく業界の真のメンターでした。心よりご冥福をお祈りします。合掌
2026.04.25

前々項で三宅一生さんのことを書きましたが、CFD東京ファッションデザイナー協議会を設立するとき三宅さんからはっきり言われたことがあります。「僕たちのことはどうでもいいんです。僕たちは道のないところを拓いてきたのでしなくてもいい苦労もしましたが、若手デザイナーに同じ苦労はさせたくない。太田さん、若手を育ててください」。三宅さんは自身の名誉や利益のためにCFD構想に乗ったわけではありません。利他の精神が強かったのです。三宅一生さんいわゆる御三家(イッセイミヤケ、コムデギャルソン、ヨウジヤマモト)は当時すでに世界で高く評価され、市場でしっかりポジションを得ていました。自分たちの力で世界のトップバイヤーやジャーナリストをショーや展示会に呼ぶことは可能でしたからわざわざ日本にデザイナー組織を作る必要はなかった。世界のファッション界との窓口機関を東京に作り、若手にチャンスを提供してどんどん世界に送り出す、そのためには海外を拠点に仕事している人物が適任と三宅さんは考えたのでしょう。日本の業界事情を全く知らないニューヨークの私に声をかけた理由がそこにありました。三宅さんに託されたミッションは単に短期集中型の東京コレクションをCFDが自主運営することのみならず、新人デザイナーを世に送り出す、彼らを育てる、経営基盤の弱い若手デザイナーを支援すること。だからCFDの責任者として、また後年JFW日本ファッションウイーク推進機構理事コレクション実行委員長として、私は新人発掘、若手支援を積極的に進めてきました。CFD時代最初に手がけたのは「東京コレクションANNEX」、資金が潤沢でない若手デザイナーに無償でコレクション発表の機会を与えるプログラム。CFDは外部に資金提供を求めず自主運営してきましたが、ANNEXは池袋開催を条件に東武百貨店と池袋ターミナルビル(現在の池袋ルミネとメトロポリタンホテルを経営)に協賛をお願いし、CFDとしては初めて大手代理店(博報堂)を頼ってトヨタの特別協賛も得ました。清家弘幸さんANNEXではミラノ在住の小川健一さん、パリ在住のミキミアリーさん、ピカピカの新人清家弘幸さん(セイケ)等にコレクション発表のチャンスを提供しました。いまでも印象に残っているのが清家さん(現在は東京造形大学教授)。セイケのコレクション記事を新聞で読んだ三宅さんと川久保玲さんから偶然にもほぼ同じタイミングで「いいデザイナーが出てきたね」と電話をもらいました。光るものがあったからでしょう。次に、子会社から伊勢丹本体に復帰した直後の武藤信一さん(のちの社長)に若手デザイナーを買取り条件で集積するセレクト売り場の設置をお願いしました。そして半年後に生まれたのが年2回期間限定ショップ「解放区」、バイヤーとして私の前に現れたのが藤巻幸夫さん(のちに参議院議員)でした。伊勢丹の武藤信一さん私は若手デザイナーのリストアップとメディア対応で伊勢丹に協力、武藤さんと小柴和正社長には1970年代ニューヨークのHenri Bendelがインキュベートストアとしてどれくらい新人発掘に貢献したのか、どのようにデザイナーに門戸を開いたのかを説明しました。解放区のオープンに合わせて「毎日が新しいファッションの伊勢丹」というキャッチコピーが伊勢丹から発表され、小さな売り場にも関わらず会社四季報の伊勢丹欄に解放区の記述がありました。規模も売上も小さいけれどインパクトは大きかったということでしょう。解放区はその後日本のみならず海外の新進デザイナーにもアプローチ、この売り場で取り上げられて一気に有名になったのがニューヨークの当時若手だったアナスイ。アナスイは伊勢丹子会社マミーナが日本展開を担うことになり、全国の百貨店に売り場が誕生しました。住友信託銀行が神戸六甲アイランドに建てた神戸ファッションマートには、東京の若手デザイナーが関西方面で販路を拡大できるよう「デザイナーズ・コンポーズド」という合同展示会を持ちかけました。ベージュショップ(デザイナーは嶋崎隆一郎さんと佐藤ヒサコさん)などがファッションマート側の支援で出展。彼らの新作を見た私はすぐ伊勢丹藤巻バイヤーに連絡、解放区で扱ってくれないかと頼みました。こうしたCFD若手支援事業は三宅さんに託されたことを遂行したから。ありがたいことに一連の支援策が評価され、私はFEC(日本ファッションエディターズクラブ)賞をいただきました。主要メディアの編集長たちが選ぶファッション業界の功労賞、しかもその年の選考委員はCFD発足時に若輩の私にかなり批判的だった編集長もいたので非常に嬉しかった。CFD議長退任後はアドバイザーとして後継議長の久田尚子さんをサポートしましたが、直接私自身が東京コレクションに関わったわけではありません。私が再び東京コレクションを直接お手伝いするようになったのは東コレがCFDからJFWに移管した翌年からですが、19年間若手支援と取り組みました。まずコレクション実行委員長として着手したのは、資金のない新進デザイナーの参加登録料の免除。少しでも負担を軽くしてコレクション発表のチャンスを提供しようと2006年に支援を開始。イッセイミヤケから独立したソマルタ(廣川玉枝さん)等が支援1号でした。翌2007年は「ヨーロッパで出会った新人たち展」。ロンドンのセントマーチンズ校とアントワープ王立芸術アカデミーを卒業したばかりの若者が相談に来たとき「ファッションショー形式でなく何か面白いことをやるんなら応援するよ」と伝えました。鉄道コンテナを六本木ミッドタウン21_21デザインサイトに持ち込み、参加デザイナーがコンテナごとに自分の世界観を表現したインスタレーション。「ヨーロッパで出会った新人たち展」ミキオサカベ展示アキラナカ中章さん、ミキオサカベ坂部三樹郎さん、リトゥンアフターワーズ山縣良和さんと玉井健太郎さん、タロウホリウチ堀内太郎さんや現在グッチのデムナ・ヴァザリアもステレオタイプというブランド名で参加。ファッションショーではありませんが、なかなか面白いイベントでした。さらに、JFW産みの親である経済産業省繊維課宗像直子課長に追加予算をとってもらって実現した新人発掘事業が「シンマイ・クリエイターズ・プロジェクト」、役所との約束は3年間補助でした。私がセントマーチンズ校の学部長を訪ねたとき目に留まったのが日本人の若者のニット作品。それを創作した川崎祥央さん、ちょうど同大学院を卒業する寸前でした。ヨーロッパのメゾンに就職せず帰国してデビューしてはどうかと勧め、彼はシンマイプロジェクトにエントリーしました。サチオカワサキはその後来日したレディガガが作品を着てくれたことでちょっと話題になりましたが、資金が続かなかったのでしょう自身のブランドは5年後に廃止、現在はアパレル企業の契約デザイナーをされているようです。第2回、3回はアカネウツノミヤ宇都宮茜さん、エズミ江角泰俊さん、自身のブランドとは別にハナエモリも担当したことがある天津憂さん、このプロジェクトからデビューしました。EZUMi(江角泰俊デザイナー)2026SS経済産業省の補助が終了、JFWは外部の企業に冠スポンサーになってもらって東京コレクションを開催することに。メルセデスベンツ、アマゾンと続き現在は楽天の名が付いたファッションウイークになりました。経済産業省に代わって様々な支援をしてくれるのが東京都、かつてクールビズ運動を指揮した小池百合子知事が意欲的に取り組んでくれます。パリ合同展示会参加を支援する「東京ファッションアワード」、パリコレデビューを支援する「ファッション・プライズ・オブ・トーキョー」、この二つの支援策から多くのデザイナーが巣立っていきました。パリコレデビュー後東京で発表したCFCL東京都パリコレデビュー支援策で注目されたマメクロゴウチ黒河内真衣子さん、ターク森川拓野さん、CFCL高橋悠介さんはイッセイミヤケ出身デザイナーですが、選考は現役バイヤーに委ねており、JFW実行委員長だった私は一切関与しておりません。誤解されると困りますので。東京コレクションANNEX以来、いろんな新人若手デザイナー支援プログラムが誕生し、中には海外メディアやバイヤーから支持されるブランドも誕生しました。が、その原点はCFD設立時に三宅一生さんから託されたミッション。三宅さんが果たした役割は後世に伝えたいです。
2026.04.24

先週末、三重県桑名市立益世小学校6年B組クラス会と光風中学校の学年同窓会に参加するため帰省しました。小学校は実に34年ぶりでしたがクラス40人中10人が出席、担任の森谷栄市先生は93歳ながら「おうちはテーラーだったね」とボケの気配なく安心しました。小学6年時の社会見学、上段右端が森谷先生中学校同窓会はここ数年毎年4月第3日曜日開催、3年連続出席しました。こちらは生徒約240人中47人、何人かは東京、横浜からも参加。同窓会はいずれもランチタイム開催、夜は2日ともガキの頃から付き合いがある友人たちとの飲み会でした。ひとつ感動したことがありました。久しぶりに立ち寄った市内のスナック「しじみ」、着席してバーボンソーダを注文したところスッとマイボトルのバーボンが登場、これは2017年帰省時に入れたものでした。9年前に入れた古いボトル、地元住民ではなくいつ来るのかあてにできない客のボトルをキープしてくれていたなんて。東京なら9年前のボトルなんて処分ですよね。故郷の温かみが嬉しかった。実はこのお店のママさん、毎年常連客に伝統的な日本手拭いを銀座の老舗から取り寄せて年始挨拶として配っていました。その銀座の老舗和装小物店が数年前にショップを閉鎖したため、松屋銀座の売り場から取り寄せていました。松屋時代に7階売り場で確認したら担当者は「桑名のしじみさんからご注文をいただいております」。わざわざ松屋に注文くださるママさんなのです。翌日会食した仲間たちに9年間キープしてくれたボトルのことと年始手拭いの話をしたら、「あの人は律儀なんだよ」と言ってました。桑名は狭い田舎都市なので評判はすぐ広がります。この店が40年近く営業できるのもママさんの人柄でしょう。次回帰省時は必ず行かなければ。スナックしじみ(桑名市吉津屋町42)桑名と名古屋の間は揖斐川、長良川、木曽川の3つの一級河川が伊勢湾に流れ込むので旧東海道は熱田(名古屋)と桑名の間だけは陸路がなく海路でした。伊勢湾の奥はミネラルが豊富、だから「その手はくわなの焼き蛤」というキャッチコピーがあるくらい蛤の名産地であり、鰻も美味しいし、松坂牛産地に近いので牛肉店「柿安」は全国的に有名。都内デパ地下お惣菜売り場の「カキヤスダイニング」は桑名の柿安が経営しています。近鉄とJRの桑名駅柿安本店(桑名市江戸町36)はすき焼きの名店ですが、これ以外にも桑名には美味しいお店が何軒もあるのでいくつか紹介します。NHKブラタモリ伊勢路シリーズで紹介された影響もあるのでしょう、最近全国から美味しいものを求めて桑名にいらっしゃる旅行者は増えています。私の秘書だった女性も友人たちとグルメ旅行、蛤で有名な割烹店「日の出」を予約して出かけたと聞きました。私もよく利用していましたが、最近はなかなか予約が取れません。日の出(桑名市川口町19)蛤割烹日の出の並びには毎回帰省するたび幼馴染みと一緒にお邪魔するステーキレストラン「江戸川」があります。今回もこちらで会食。シェフは私の弟の中学時代の同級生。料亭風でなくカジュアルなレストラン、料金はリーズナブルですが料理は美味しいお店です。江戸川(桑名市川口町23)江戸川と日の出のすぐ近くには新宿伊勢丹会館にもお店があるうどん店「歌行灯」本店があります。ブラタモリで番組進行役のタモリさんが蛤を食べたのはここ。私はいつも釜揚げうどんに天ぷらがついたセットをいただいております。歌行灯(桑名市江戸町10)桑名に到着した日はやはり幼稚園時代からの友人と鰻の「新城」に。ランチタイムは行列覚悟の店、とにかく人気店です。場所はわが母校光風中学校の真ん前、今回は写真の白焼きと鰻丼を友人にご馳走になりました。食べながら改めて3つの河川の恵みを感じました。近年は予約を受け付けているようなのでぜひ予約してお出かけください。新城(桑名市中央町2-21)もう一軒長くお世話になった寿司店があります。実家の近所にあった「平和寿司」、子供の頃オフクロは住み込み職人の世話で忙しかったので学校の遠足時はいつもこの店のお稲荷さんと海苔巻きを持たされました。息子さんが他店で修行して家業を継ぎましたが、東京都心に出てきても十分勝負になる腕と料理のクオリティー。行くたび「東京に来たらもっと高く料金取れるよ」と言ってました。そして数年前にミシュランガイド東海地方版で星1つ獲得、以来名古屋方面からも予約殺到、私たちが気軽に行けない人気店になってしまいました。ミシュランに掲載されると一気に人気上昇して常連は予約できなくなると聞きますが、こちらもその通りになってしまいました。現在は店名を「すぎもと」(桑名市江戸町25)に変更しています。歌川広重の東海道五十三次「桑名」はかつてあったお城と港が描かれています。ここに伊勢神宮1の鳥居があり、そのすぐ側が美味しい飲食店が並ぶ川口町、江戸町があります。名古屋、伊勢方面にお出かけの際はぜひ桑名の味をお試しください。春日神社前の石取祭なお、ユネスコ世界遺産にも採択された「石取祭」(いしどりまつり。全国で最も喧しい祭りと言われています)は8月第1土曜、日曜日に寿司すぎもとのお隣にある春日神社(=桑名宗社)周辺で行われます。たぶん石取祭期間近隣レストランは休業だと思いますので事前にネットでお調べください。今日は郷里のグルメレポートでした。
2026.04.23

今日4月22日は三宅一生さんの誕生日、1938年生まれなのでご存命なら88回目のハッピーバースデー。私はこれまでたくさんの方に支えられいろんな立場でファッションビジネス界で仕事をしてきました。大学卒業後すぐニューヨークに渡ってフリーランスのファッションジャーナリスト、これは私自身が選んだ道でした。 が、それ以降は皆さんに導かれて所属組織やタイトルが変わり、大げさに言えば波乱万丈の人生でした。8年後帰国してからいろんな立場で業界と関わりましたが、わが人生の転機に大きく関わった人が二人います。百貨店松屋古屋勝彦社長とデザイナー三宅一生さん、お二人の導きと信頼があって面白い経験をすることができました。私が初めて三宅一生さんと二人きりで会ったのはニューヨークから短期帰国した1985年3月、パリコレ直前でした。突然東京の自宅に電話をもらい、西麻布の小料理屋で食事することに。当時三宅さんは44歳、ネットに上がっている三宅さんの多くの写真の中ではちょうどこんな表情の頃でしたね。出会った頃の三宅一生さん私は年長の偉い人と面談するとき、先方に同行者がいればそれなりに遠慮しますが、誰も交えずサシのときは遠慮なし、正直に向き合います。この日はサシだったので既に世界的に名声を得ていたデザイナーに遠慮せず思っていることをストレートに話しました。「服はお客様が着て街を歩いてこそ意味があります。マネキンに着せて展覧会で見せるものとは思っていません」。三宅さんはこれまでいろんな展覧会を手掛けていたので当時の私はちょっと違和感を感じていました。それを話したら三宅さんはムッとした表情になる瞬間もありましたが、若造の言うことに耳を傾けてくれました。それから1週間後パリコレ公式会場だったルーブル美術館中庭の特設テント横でばったり、「今晩ディナー後に飲みませんか」と誘われ、三宅さんが滞在するホテルのバーに出かけました。おそらくこのお誘いを受けなければ私の人生は別のものになっていたでしょう。このときパリからニューヨークに戻らずに東京のイベントを見に来てはどうかと勧められました。読売新聞創刊110周年記念「東京プレタポルテコレクション」、初めて多数のデザイナーが揃って参加、2週間連日ショー開催という話でした。私の航空券はニューヨーク〜東京〜パリ〜ニューヨークの世界一周特別割引、一方方向に乗り継いでニューヨークに戻るのが絶対条件、パリからもう一度東京に立ち寄って戻ることはできないのでパリからニューヨークに帰りました。しかし読売イベント視察を強く勧められ、私はのこのこ東京に。この一時帰国がその後の人生を大きく左右するなんて想像だにしませんでした。東京プレタポルテコレクション前半1週間だけ視察する予定での短期帰国でした。そのオープニングレセプション終了後三宅さんらデザイナーと会食、ここでニューヨークのCFDA(米国ファッションデザイナー協議会)やパリコレ主催のサンディカのようなデザイナー団体を東京にも設立し、その団体が東京コレクションを主催する構想が持ち上がりました。ニューヨークを引き上げて日本に帰国するならマーチャンダイジングで身を立てたいと常々考えていましたから、構想そのものには賛同、しかしその世話人に就任することはできないとお断りしてニューヨークに戻りました。国際電話で何度も三宅さんに口説かれた私は「まるで蛇に睨まれた蛙みたいですね」と言ったら、「そうです、あなたは蛙です」、私は覚悟を決めました。2、3年東京ファッションデザイナー協議会を運営して組織が固まったらほかの人にバトンタッチすればいいやと考えて引き受けましたが、何度辞任を申し出ても承認されず、結局想定外の10年間私は東京コレクションの運営とデザイナー支援業務を続けました。ところが1994年4月盟友市倉浩二郎(毎日新聞社編集委員)が急逝、人生には限りがあると実感した私は三宅さんら幹部に辞任を申し出てやっと承諾を得ました。翌年古屋勝彦社長に誘われて松屋に転職、やっと念願のマーチャンダイジングの仕事ができる立場に。それから数年後のある日三宅さんと西麻布で飲んでいたら思いもよらぬお誘いを受けました。「うちに来ませんか」、と。毎日コムデギャルソンを着てる私ですからちょっと無理があると思ってお断りしました。翌日三宅デザイン事務所創立パートナー小室知子副社長が松屋にやってきていつもの関西弁で、「昨日三宅から変なこと言われたやろ。三宅とは時々意見違うけど、今度はおんなじなんよ」、小室さんの殺し文句は強烈でした。松屋では古屋社長に重用されるものの保守的な古参幹部の抵抗もあって百貨店改革は思うように進まず、最終改革案と共に辞表をセットして古屋社長に提出したばかり。古屋社長が最終改革案を採択してくれ、二人三脚で改革案を実行に移し始めたところで約束の退職予定日(辞表提出時に約束)が来ました。忘れもしない松屋の決算日2000年2月末です。「明日からパリコレ出張ですが、次に行く会社が出張経費を払ってくれます。うちの総務には来月から私の給料を止めてもらいました」と古屋社長にお別れの挨拶をしたら、「(私が進言した)改装プランに沿ってこれから工事着工するところじゃないか。工事終わるまで折半にならないか三宅さんに聞いてくれ」。折半という予期せぬ提案はびっくりでした。三宅さんの答えは「両方やったらいいじゃないですか。IFIビジネススクール(当時松屋以外に関わっていた)も続けてはどうですか」。3つはとても無理なのでビジネススクールの指導は断念、しばらく2つの会社で仕事することになったのです。古屋社長と三宅さんが顔を合わせたとき「太田さんをもらってすみません」と三宅さんが挨拶したら、古屋社長は「いいえ、折半ですから」、面白いやり取りでした。こうして寛大なお二人の理解があって私は2社の業務改革を同時併行することになりました。2009年の三宅さんバースデー私は最初に三宅さんに言いました。「世間一般の計数に強い社長になれませんが、マーチャンダイジングを教えて社員を育てることだけは任せてください」。縦割りの各ブランド事業にそれぞれマーチャンダイザーを立て、それを横ぐしにマーチャンダイジング本部長を社長兼務、週1回のMDスクールを10年間開講して人材を育てました。引き受けた以上は、将来創業カリスマデザイナーにもしものことがあってもびくともしない強い会社にする、これが私の目標であり責務でした。9年目にもう大丈夫と感じたので翌年の退任を宣言、約束通り1年後に身を引きました。10年間いろんなことがありました。カリスマデザイナーに依存してはいけないし言いなりになってはいけないという思いから、三宅さんには細かい業務改革の説明はしなかったし、何度も衝突しました。意見の違いから電話口に数週間出ないこともあれば、食事の場ではっきりクレームを言ったことも度々ありました。稀代のデザイナーと出会ったことで私の人生は大きく変わりました。4月22日はその大恩人の誕生日、生涯忘れることはありません。
2026.04.22

私は子供の頃からみんなに母親似と言われてきましたし、オフクロと並ぶ写真は誰が見たって親子とわかるほどよく似ていました。一方弟は父親似、写真で見る若い頃のオヤジとそっくり、兄弟はほとんど似ていませんでした。ところが、最近朝の歯磨きタイムで洗面所の鏡を覗くと、自分はオヤジの表情に似てきたなあと実感します。オヤジは大地主の息子、経済的には何不自由なく育ちました。祖父は小作人たちに田んぼを貸し、自分は紺屋(和服の染め物業)を営んでいました。染料を同業者に売っていたとオヤジから聞いていますからそれなりの紺屋だったのでしょう。祖父が糸へんだったことがオヤジの進路に大きく影響を及ぼしました。祖父父戦前名古屋の大きな注文紳士服店(テーラー)で修行、東京の日本洋服専門学校でパターンメーキングを学び、その直後に召集令状が来て激戦で知られるビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦へ。祖父はオヤジが戦地から戻ったらすぐテーラーを開業できるよう大量の生地を買い込んで蔵に保存していました。本当は息子の戦死通報を受け取っていたのですが、「あいつは要領が良いから絶対生きている」と無事帰還を信じてました。終戦後2年ほどビルマの収容所でBC級戦犯の審査を受けてからオヤジは帰国、息子の帰還にホッとしたのでしょう祖父は帰還直後にポックリ。オヤジがお風呂で背中をゴシゴシ洗ってあげたら翌朝布団の中で亡くなっていたとか。「背中を擦りすぎたかもなあ」とオヤジは笑ってその日のことを私たちに話してくれました。開業後の父(写真中央ぼかしのない男)オヤジは自らテーラーを開業する前にビジネスを経験しなければと名古屋の松坂屋紳士服部に企画技術者として就職、数年後私の誕生を機に退職して地元桑名市にてテーラーを開業。太田家ゆかりのお寺が町中にあったので住職から土地を分けてもらってお寺の真横でテーラーを開業しました。松坂屋時代に贔屓にしてくださった名古屋の名士たちは彼らの好みも体型も知るオヤジに洋服を作って欲しかったらしく、松坂屋の外商部からお客様を何人か引き継ぎました。その中のおひとりがトヨタ看板方式(トヨタ式サプライチェーンマネジメント)で有名な大野耐一トヨタ副社長です。地元桑名市でテーラーを営むだけでなく、紳士服作りには必需品である毛芯の製造特許を申請して名古屋市で毛芯メーカーを起業。が、数年後伊勢湾台風の大洪水で毛芯工場は被災、ミシンも何もかも水に浸かってしまってこちらは廃業。その代わり今度は東京神田岩本町(かつて紳士服メーカーがたくさん集まっていた街)の紳士服メーカーに依頼されて顧問デザイナー契約を結び、月に1回数日間東京出張。当時はまだ新幹線がなかったので名古屋の小牧空港から羽田空港まで全日空フライト利用でした。ひと月の顧問料で我が家の若い職人10人ほどの給料が払えたといいますから契約条件はかなり良かったのでしょう。このとき契約先のアパレル企業とその取引先の百貨店などから、桑名のテーラーをたたんで上京し紳士服デザイナー1本でやってみないかと勧められ、オヤジは相当悩んだようです。住み込み職人の大半は岐阜県高山市南側の山間部から中学卒業して修行に来た若者たち、親御さんから預かっているので簡単に廃業というわけにはいきません。しかも自分は大学へ行ってないので外国語のファッション雑誌が全く読めない、そんなデザイナーは尊敬されないかもしれないと考え、結局デザイナー契約を打ち切って家業のテーラー専念を決断しました。また、戦後働いた松坂屋の納入業者として栄の本店のほか大阪店(すでに閉店)にも社員を売り場に派遣して注文を取り、イージオーダー紳士服の製造卸をしていました。さらに東海地方の有力テーラーと共同経営で他の都市にもテーラーの店舗を構え、多角経営の大きなテーラーとして活躍しました。デザイナー断念からオヤジは突然教育パパになりました。息子を有名大学に行かせ、卒業後はロンドンのサビルローに修行に送り、そののち家業を継がせようと計画。小学生高学年から私にはいつも「勉強しろ」、放課後同級生と遊びたい私にとってはイヤなオヤジでした。オヤジは絶対的支配者、正面から逆らえません。成績がちょっとでも下がればオヤジに罵倒される日々でした。反抗期の中学時代私は遠方の薬局で劇薬を買ってきて黒色火薬を作って空き缶を吹っ飛ばす、あるいはわけのわからない理科実験をしてイタズラばかりでした。晩年の母大学受験で合格した名古屋の南山大学に進めばずっとオヤジの傘の下、自由な学生生活は送れそうにありません。もうひとつ合格した明治大学へ入ればオヤジの傘から逃れられる。そう思って親戚に根回し、どうにか明治大学入学許可が出ました。ただし、サビルロー修行のために英会話の訓練とパターンメーキング技術の修得が上京の交換条件でした。私は英会話セット一式、パターンメーキング用道具と紳士服専門書を何冊も持って上京、明治大学とは別に夜間はオヤジが戦前学んだ西新宿の日本洋服専門学校夜間部のダブルスクールで東京生活がスタート。夏休みにはオヤジが信頼するパターンメーキング指導者の個人教授を受け、新宿東口オカダヤで生地を買って自ら作成した自分サイズのパターンを実家の職人に送って縫ってもらいました。このままならばオヤジの期待するサビルローまっしぐらでした。でもオヤジと親交がある東京の業界人を訪ねたとき、「キミは将来テーラーの経営者になるんだろ、自分が洋服を作ってどうする!」とアドバイスされて心が揺れました。そしてオヤジの勧めで全国各地の大きなテーラー経営者と共にヨーロッパ視察ツアーにも参加、昭和天皇の型紙を保存するサビルローの老舗テーラーやマンチェスターの毛織物メーカー、パリ高級ブティックなどを視察、さらに心が揺れました。ロンドンのサビルローもパリのフォーブルサントノーレ(当時は軒並みオートクチュールメゾン)もお金持ちの紳士淑女を相手にするビジネス、将来このビジネスモデルは続くのだろうか、ここで疑問を感じたのです。そして次にホノルル郊外ショッピングセンターやニューヨークを視察したとき、大型チェーン店で安価なポリエステルスーツや合成皮革シューズの整然とズラリ並ぶ陳列を目撃して「これからファッションは大衆相手の時代だ!」と実感。大学卒業後はニューヨークに渡ってマーチャンダイジングを修得してその道のプロになりたいと決意。もちろんサビルロー修行と家業継承を期待していたオヤジはかなりショック、勘当ではありませんが長男ながら「分家」を言い渡され、わざわざ親戚を集めて分家儀式までさせられて渡米しました。私が渡米したあと弟は無理やり家業を継がされました。オヤジは私が大学受験直前に大病で倒れたあともあって無理がききませんが、弟の力を借りてしばらくテーラーを続けました。そしてたまたま一時帰国した折にオヤジが上京、「おまえは高級テーラーの将来性をどう思う」と質問されました。その頃はジョルジオアルマーニを筆頭にイタリアのソフトスーツ全盛期、カッコいい既製服が市場に溢れている中で注文から納品までに1ヶ月ほどかかる注文服の限界を説明、「店はオヤジ一代で閉じてくれ。弟は東京に出せ」と言いました。完璧なテーラーの技術を身につけた弟を私はブランド企業に紹介、弟は上京してファッションメーカーに就職、その技術を活かして生産管理のプロとして活躍しました。オヤジが亡くなった2001年、私は弟の会社のライバル企業経営者、商社筋から弟の仕事ぶりを聞くたびにスカウトしたくなりましたが、わが社のルールで幹部の近親者は採用不可欠だったので断念。もしも弟がいてくれたら製造原価はもっと下がっていたはずです。3月杭州セミナーでの私オヤジの葬儀、兄弟の関係で日本の名だたるデザイナーや商社、小売店から送られた献花がズラリ式場からはみ出るくらい並び、たくさんの方がわざわざ東京から来てくださいました。地元の花屋も葬儀屋も献花の数にびっくりだったので、オフクロは「私のときは誰にも告げずひっそりと身内だけにして。皆さんに迷惑かけては申し訳ない」が口癖でした。遺言通りオフクロは家族のみで2022年静かに葬りました。私がニューヨークへの道を選んだのも、帰国してずっとマーチャンダイジングの基本を後進に教えてこれたのも、経営者の割には社員以上に洋服のクオリティーをよく知っているのも、生まれ育った環境、オヤジの影響が大きかったから。オヤジはテーラーとパターンメーキングの技術を伝えるため韓国、台湾によく出向きました。いま私も中国によく出かけて現地経営者やデザイナーたちにマーチャンダイジングの重要性を指導しています。自ら修得した技術やノウハウを世界に広めたい、思いはオヤジと同じ。オヤジと弟は器用、職人的粘り強さと根気があります。私は何かにつけ不器用、でも経営者、指導者として多くの人材を育て、業務に活かしてきました。タイプこそ違いますが、オヤジの血が自分に流れていると最近つくづく思います。毎朝洗面台の鏡に映る自分にオヤジの面影を感じますが、そのたびオヤジに感謝しています。
2026.04.20

昨日ジュンコシマダの展示会に出かける直前、お世話になった業界人の訃報を受け取りました。ご遺族からしばらく伏せておいて欲しいと言われているので、公表されるまでしばらくの間私はこの先輩の名前は出せません。訃報で大変ショックの中、展示会場に足を運びました。今年はブランド創設45周年。京都ルシアン野村直晴社長がパリ在住の島田さんを発掘、同社でファッションデザイナーとのプロジェクトに関わったことがある人材という理由から岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業の責任者に抜擢され、同事業のルシアンプランニング専務取締役に。その後野村直晴社長の急逝、岡田さんの退社、ルシアンからの独立、そして再び岡田さんが島田さんに託されて新会社を立ち上げ、その後大手クロスプラスに事業譲渡、といろいろありました。数ヶ月前ジュンコシマダに半生を賭けた岡田さんが亡くなりましたが、ご遺族と業界にほとんど接点がなく、旧知の私たちは見送ることができませんでした。島田順子さんとはまずその話から。創業当時はボディコンの代表的ブランドだったジュンコシマダですが、近年はボディコンとは趣が異なるコレクションを発表し続けています。以上、2026年秋冬ジュンコシマダ島田さんとの最初のツーショットは1988年、CFD特設大型テントで開催された東京コレクションのときでした。次に撮影したのは2018年松屋銀座で開催された特別催事のあと屋上で。そして3枚目の写真は昨日撮影したものですが、島田さんお変わりありませんね。1988年2018年背景ポスター写真左のモデルはお孫さんパリのご自宅はモンマルトルの坂道、石畳の坂道を歩くにはヒールの革靴はちょっと危険なので最近はもっぱらスニーカーを愛用されているそうです。私も長年愛用してきたトッズの靴を止めてスニーカー、お互い「楽ですねえ」と話が弾みました。身体が動く間はずっと創作活動を続けると力強くおっしゃってました。岡田さんはじめ同世代の方々が次々亡くなる中、島田さんにはこのまま引退せず現役デザイナーでいて欲しいです。朝の訃報にしょんぼりしていた私、島田順子さんから元気をもらって帰りました。
2026.04.17

金曜日の夜、元部下だったNさんの退職送別会があり、70人余が集まりました。送別会と言うよりはむしろ結婚式の二次会のノリ、販売員のほかにパタンナー、人事担当、ブランド営業など本社スタッフやこの送別会のためにわざわざ大阪からやってきた社員、海外出張からトランクさげて空港から直行した幹部などと賑やかな会でした。送別会参加者全員集合Nさんは2009年入社の新卒、当時社長だった私が採用した人です。色気のない男の子みたいなルックス、社長の私に友達感覚で話しかけてくるおかしな子だったのでよく覚えています。最近はわが職場から歩いて数分の場所にあるショップの店長、たまに彼女らと飲みに行きました。ある晩ご飯を食べていたら「会社辞めようかと思っています」とポツリ。転職先は決まっているのか訊いたら、これから職探しすると言う。ここまで頑張ってきたんだから再考してはと言いましたが、一度切れた心の糸は修復できませんでした。2009年入社組、後列中央が主役のNさん彼女と同期2009年採用のT店長からお別れの寄せ書きメッセージを私は求められ、そのメールには送別会の日時と場所、会費情報が書いてありました。Nさんへのお別れメッセージを返信したので送別会出席と考えてくれるだろうと思っていましたが、私は欠席と判断されていたようです。会場に着いたらかなりの大人数、来ないだろうと思っていた元社長が現れたのでちょっとした騒ぎに。でも大半は私が知らない若者たち、名前がわかる社員は10数人のみでした。私の退任後に入社した若手社員にとっては「このおっさん、何者?」だったでしょうね。仲間言葉に涙を流す主役先日もSさんが退職したばかり。入社2年後に私が新店長に抜擢した彼女は出産、子育てしながら仕事を続けたベテラン社員、後輩のNさんと同じショップで彼女をサポートしてきました。が、お子さんの中学受験が終わって勤務形態の変更を申し出たところ、会社規定の前に継続を断念せざるを得なくなり退職してしまいました。Sさんは最後に「もう一度就職するなら同じ会社を選びます」と仲間に挨拶したそうですから会社愛が強い社員でした。しかしそんなS先輩が退職の道しかなかったこともN店長の心にぽっかり穴があいた要因かもしれません。勿体ないです。社長時代私は販売員の業務改革と処遇改善に力を入れました。店長自ら売らなくていい、売りすぎる店長は不要と教えてきました。販売業務は若手販売員に、店長はスタッフが仲良く元気に働けるようショップのマネジメントが役割、そしてバイヤーとして意図のある発注、これが店長の仕事。優秀な店長あるいは店長補佐には本社勤務を打診、本人が嫌と言わなければ本社総合職であるブランドMDや販促担当に多数抜擢しました。つまり総合職、販売職と分ける必要があるのかという考えでした。多くの社員にマーチャンダイジングの基本と大胆な発注方法を教え、販売職の待遇改善を推進しました。販売員は簡単に育つものではなく、会社が時間をかけて育成すべきなのです。意図のある発注と綿密な販売計画を立てることができる販売員はマーチャンダイジングを修得したプロ、会社にとって貴重な戦力です。簡単に退職されては困ります。結婚、出産、子育てをしながら仕事続けてくれる女性社員が働きやすい環境を整える、企業としてとても重要でしょう。金曜日の70人もの仲間が駆けつける大きな送別会の場にいてつくづく思いました。先日のSさんといい今回のNさんといい、新卒採用からずっと経験を積んきた会社愛の強いスタッフは退職する以外に道はなかったのか、と。まして自分が「面白い人物」と思って採用した人たちが退職していくのは悲しいです。最後に主役がご挨拶現在のマネジメントは私の元部下たち、販売重視政策を貫いてきた私のやり方を肌で感じているはず。しかも販売職から役員に4人も大抜擢している経営陣、素晴らしい会社になったと思います。だからこそ優秀な販売員は定年退職まで安心して働けるような仕組みを作り上げて欲しい。新卒予定の学生さんに向けた会社説明会では10年間毎年言い続けました。「創業者にもしものことがあってもびくともしない会社」と。びくともしない会社にするため問題点の改革をいくつも進めました。プロパー消化率の改善、半端ない数値を維持できるようになりました。在庫をため込まない、旧在庫は全部処分、とにかく在庫を積まない会社にしました。海外は卸売中心から小売業中心に事業転換、代金を払う気のない小売店との取引を止めました。国内は脱百貨店(全ショップ自社販売員が販売)、百貨店に主導権のある取引を是正。雑貨構成比率を上げる、爆発的なヒット商品が軌道に乗りました。これらの改善策を進めることができ、私は安心して退任しました。おそらく一般社員は業務改革の詳細は知らないでしょうが。販売重視策は定着しるはずなので送別会に参加してちょっと複雑な思いでした。これ以上退職連鎖が続かないことを期待しています。<追記>送別会のことをSNSに3本アップしたら、なんといずれも過去最高の閲覧数トップ3。彼女の仲間がアクセスしてくれたんでしょうが、それだけみんなに人気があった社員だったということだと思います。こういう人が退職ってのはほんとに勿体ないなあ。
2026.04.12

今日原宿駅前のビルで開催されていたテキスタイル合同展示会「TNジャパン」に立ち寄りました。長年にわたって織物の基礎知識を若手業界人に指導している野末和志さんが関わっている展示会、でも残念ながら野末さんは会場で見かけませんでした。特別展示にはみやしんの名前もこの合同展示会は今年30周年、会場入口には30年を振り返るパネルと素材展示。撮影禁止と貼り紙がありましたが、生地をアップで撮影しないから良いだろうと無断で撮影。同展発足当時の新聞記事が何枚か掲示されていましたが、繊研新聞の松尾武幸さんはじめ懐かしい顔ぶれの座談会もありました。生地展示の中にこれまた懐かしい「みやしん」の文字あり。TNジャパンはそもそも八王子のテキスタイルメーカーみやしん宮本英治さんらが全国産地の仲間に呼びかけ、自分たちの手で独自の展示会をやってみようとスタート。掲示された新聞記事を読むと、この展示会を立ち上げた方々の心意気、熱意、そして誕生の経緯が伝わります。当時全国の繊維産地は補助金漬け状態と言っても過言ではありませんでした。日米繊維交渉(沖縄返還の交換条件に日本の繊維製品の対米輸出はストップ)によって対米輸出できなくなった繊維事業者に政府が膨大な補助金を提供。いつの間にか繊維産地の事業者の多くは政府や地方自治体の補助金でイベント参加するのが当たり前、中には低レベルの繊維事業者も参加するのでテキスタイル見本市は玉石混交でした。そこで宮本さんたちは補助金がなくても合同展示会に参加する気力がある事業者を集めました。それぞれ得意技を持った世界的ブランドにも採用されそうなハイレベルのテキスタイル職人の集まり、それがTNジャパン展でした。展示会規模こそ小さいけれど、いい意味でクセのある事業者たちが集められたイベント。宮本英治さんみやしん宮本英治さんは法政大学卒業後旅行代理店に勤務、普通のサラリーマンでしたが、のちに家業を継承することに。独自技術で織ったテキスタイルをすでに世界的存在だった三宅一生さんに売り込み、イッセイミヤケのパリコレにも多数採用されました。八王子の事務所を訪問したとき、棚には初期のイッセイミヤケのロゴ(三宅さん予備校時代の友人、在ニューヨークグラフィックデザイナー金井清さんがデザインした丸い文字。現ロゴとは全く違う)が入った段ボールが何個も置いてありました。あれは私が百貨店に復帰した直後のことだったと思います。宮本さんの弟子のテキスタイルデザイナーから連絡がありました。なんでも大手コンバーターに制作を依頼された強い縮絨の膝掛けが微妙に長さが違って商品検査をパスしない、コンバーターからクレームがあってみやしんが引き取ることになって困っている、と。強い縮絨をかければ当然できる微妙な差、しかし発注側から受け取り拒否されて困っていました。そこで私は商品サンプルを取り寄せてチャック、百貨店が販売する商品として全く問題はなかったのでうちの婦人服自主編集売り場とリビングフロアで販売するチャンスを提供しました。コンバーターは商品検査データから不良品と判断したのでしょうが、下請けの織物メーカーに引き取らせるとは酷い話。のちにこの融通が利かないコンバーターは倒産しました。その後、今度は宮本さんご本人から直接電話が入りました。廃業のお知らせでした。突然廃業に至った理由を尋ねると、言いにくそうに「うちに最近やってくる若いファッションデザイナー(アシスタントデザイナーなのかブランドのテキスタイルデザイナーなのかは分かりません)はまず最初に値段から話を始めるんです。うちみたいな会社に技術やクリエーションでなく値段の話、そして値段高いから使えない、と。そういう世の中になってしまったと思うとアホらしくてものづくりを続ける気力がなくなりました」。私にわざわざ電話がかかってきたのは、ひょっとして自分が直近まで経営者を務めた会社のデザイナーかもしれないと思い、怖くて「その若いデザイナーは誰なんですか」と質問できませんでした。素晴らしい技術を持った唯一無二のテキスタイル職人の悲痛な声、私はショックでした。みやしんが創作するあの独特の風合いと複雑な織りの二重織、三重織ストールはもう手にすることはできないのか、私は海外出張のお土産によくみやしんのストールを持参していましたから余計ショックでした。みやしん廃業後は文化学園の研究所にみやしんの技術はもう継承されないのかと諦めていたら、文化学園の大沼淳理事長が設備など一式を買い上げてここを文化ファッションテキスタイル研究所として残すとニュース、ホッとしました。宮本さんが元気なうちは文化学園の学生たちがここでテキスタイル作りを教えてもらえる、大沼さんの英断でした。数年後、matohu(堀畑裕之さん、関口真希子さん)のファッションショーを視察したとき、私はオヤっと思いました。みやしん製そのものといった服がステージに登場したのです。ショー後バックステージに取材に行くという若い新聞記者に「みやしんの生地を使ってなかったか訊いてみて」と頼んだら、「そうでした」とメールが届きました。文化学園の研究所ではありながら宮本さんは数人のデザイナーには生地を提供している、嬉しくなりました。もうひとつ宮本さんのことで思い出すことがあります。八王子から若いデザイナーをデビューさせる企画。私がCFD時代開講していたファッションビジネス塾「月曜会」受講生だった文化服装学院の内村寛治くんが宮本さん手掛ける若手デザイナー合同展でデビューする、私は八王子まで出かけました。右の記事見出し「若手デザイナーで合同展を」たまたま内村くんのすぐ隣のブースにいたのがミナペルホネンを始める寸前の皆川明さんでした。ハンガーラックからハンガーを外してコートの重さを確かめた私が最初に放った言葉は「重いね」、そして「男っぽいね」。現在のミナペルホネンからは想像できない、私の目にはどこか男っぽいコートでした。八王子産地のバックアップでなんとか若手ファッションデザイナーを世に送り出したい、これが宮本さんの夢でした。みやしんのサポートを受けた若き皆川さんのようなデザイナーが宮本さんとの打ち合わせの冒頭から値段の話をするはずがありませんよね。みやしんを廃業に追い込んだデザイナーは一体誰なんでしょう。
2026.04.09

これまでブランド路面店、百貨店やファッションビルでブランド衣服や雑貨のショッピングしていて「この接客はないだろ」と気分を害したことが何度もあります。ファッションビル内の人気ジャパンブランド、オフホワイトのハンドニットプルオーバーを試着しようとしたら「試着できません」と若い女性販売員に止められました。手編みだから試着で首まわりが伸びて緩くなるからなのか尋ねたら、ただ「規則です」としか答えない。このファッションビルの規則なの、それともあなたの会社の規則なのと尋ねても、ただ「規則です」。カチンときました。私は、購入するからとクレジットカードを販売員に渡し、その場で試着して鏡を見ました。ニットのシルエットは思ったよりも丸いシェープでちょっとブカブカ、鏡に映る自分の姿に納得いきませんでした。が、カード決済を約束したので購入。ほとんどこのニットを着ることはありませんでしたが、以来このブランドで買い物したことは一度もありません。愛用ブランドの地方店、ショップに入るやずっと若い男性販売員がピタリと私の後ろに張りつきました。白無地の普通のシャツを手に取った瞬間、「お客様、それは定番です」。愛用しているブランドですから「知ってるよ」と答えたいところですが、私は黙ってました。男性販売員はその後もずっと私の背後についてきて商品を手に取るたびにひと言解説、落ち着いてショッピングできないので何も買わずに店を出ました。販売員がブランドの社員なのか販売代行のスタッフなのか分かりませんが、買い物客と距離を取らずいちいち商品説明する接客スタイル、私的にはあり得ないです。ハンガーラックに少なく商品を並べるミラノブランド都内店では、ラックからコートを抜いて一点ずつディテールをチェックしたあとラックにハンガーを戻すと、後方にいた女性販売員がすぐにハンガーの間隔をキチンと正します。店頭を美しく守りたい気持ちはわかりますが、どれを試着しようか迷っている客のすぐ横でハンガーの間隔を正すのはあまりに几帳面というか失礼というか。クールな表情でこれをすぐ横でやられて興ざめでした。都内百貨店ラグジュアリー系バッグを集積したオープンスペース(ブランドごとに壁を立てない売り場。昔の用語では平場)ではこんなことが。百貨店女性社員にイタリア人気ブランドバッグの色違いの在庫を尋ねたら、彼女はストック場に消え、しばらくして別の販売員が色違いの商品を持って現れました。しかし私はこの色に満足できなかったので、今度は隣の棚にあったフランスブランドのバッグを手に取って別色の在庫を尋ねました。販売員は百貨店社員ではなくイタリアブランドから派遣された人だったのでしょう、露骨にイヤな顔されました。同じ売り場の競合フランスブランドのことを質問されても彼女は答えようがなかったんですね。ここでも何も買わず退散しました。複数の人気ブランド商品を集積する売り場には百貨店社員のほか各ブランド側から派遣された販売員が売り場に立っています。私が最初に声をかけた百貨店社員がずっと接客してくれたら私は気分を害することはなかったし、自社以外の商品ストックを尋ねられたイタリアブランドの販売員がイヤな顔することもなかったはず。百貨店がこの売り場形態で複数ブランド展開するのであれば、全て百貨店社員かアルバイトが対応すべきでしょう。一般のお客様には販売担当の仕組みが分かりませんから、接客トラブルのもとです。販売最前線のちょっとした振る舞いでお客様は心地よく買い物する気分にもなりますし、逆に嫌気がさして帰ってしまうこともあります。販売員はそれぞれのブランド創作者の化身、代弁者、とにかくお客様からブランドそのものが嫌われないよう注意を払って接客すべきです。良い店長が育ちました@最後の全国店長研修私は在職中「お客様の方を見て仕事しよう」、「お客様の目線で考えてみよう」、会社のスローガンとして「お客様本位の企業目指して」と何度も訴え続けました。自分がショッピングで嫌な気分になったことが自社の店頭で起きて欲しくないから。概して人気ブランドの販売員は新規のお客様から見ればなんとなく上から目線を感じさせがち、これはあってはならないことです。そのためにまず接客で心がけるべきはお客様との間の取り方。お客様が商品説明を求める前に一方的にグチャグチャ説明してはいけない。お客様が商品に手をかけたりハンガーを抜いたあと整理整頓するのはお客様がその場を離れたあと、決してすぐ横からハンガー間隔を正してはいけない。試着室から出てきたお客様になんでもかんでも「お似合いです」なんて心にもないこと言わない。なんとか売上を立てようと何度も何度も商品をお勧めしない。そしてもうひとつ大切なことは最初に接客に入った販売員が最後まで接客し続ける、ストック場やレジに走るのは接客しているスタッフではなく手の空いている別のスタッフがやるべき。「接客中のお客様の前から姿を消すな。販売はチームでやれ」とよく言ったものです。だから店頭のスタッフ個々の売上データを本社サイドは一切管理しない、賞与などの査定には使わない、査定はショップ全体の成績重視、チーム全体の評価を基準に査定する仕組みに変えました。こうすることで店長の仕事は自ら売ることではなく、チームワークをリードするマネジメント力評価に改善しました。もちろん最初は一部社員に反発もありましたが、お客様にちょっとでも失礼のない接客を推進するにはチームを査定する制度に変え、店長の仕事領域を明確にすることが不可欠です。NYセレクト店JEFFREYは間の取り方がうまかった訪日中国人経営者に視察を勧めている南青山CALL(ミナペルホネン)中国出張時にVMDをアドバイスしたブランドLovete以前にこのブログで触れたことありますが、全国店長研修で成績優秀ショップ店長パネル討論会でステージに上がった若い地方店店長は「何も特別なことをやっているわけではありません。社長に教わった通り仕事してます。私とサブはなるべく後方の仕事(ストック場や集合レジに走る)を、接客して売るのは主に若いスタッフがやってます」と発言。会場の後ろで討論会を聞いていた私は涙が出そうになりました。目指してきた店頭の姿がやっと実現したと嬉しくなりました。それから数年後私は百貨店に復帰、今度はお取引先(ファッション、雑貨、化粧品など)店長の希望者に向けてMDスクールを始めました。ここで人気ジャパンブランドの店長が言いました。「あの店(私が10年指導したブランド企業)はスタッフの動きがどこか違うと前から疑問だったんですが、やっとその理由がわかりました」、と。このときも嬉しかったですね。先日の中国杭州セミナーで日本でよくお買い物される女性経営者からお客様との間の取り方をお褒めいただきました。どうして店頭重視の経営をしてきたかを書きました。
2026.04.04

昨日は前職の元部下たちと久しぶりの会食、旧交を温めました。たった5年間の社長業でしたが、メディアを含めいろんな方向から矢が飛んでくる仕事だったので苦労話などで盛り上がりました。同じ釜の飯を食った仲間たち、みんな苦労したので懐かしい話に盛り上がりました。最近、元部下との会食が増えました。これまでいろんな職場で仕事をしてきたのでどの会社にもいまだ慕ってくれる元部下がたくさんいてありがたい。数日前も私が新卒採用したKさんとご主人と面会、現在お二人はそれぞれフリーランスで活躍しており、フリーランスで仕事する上で重要なことなどお話ししました。KさんはたまたまSNSで繋がりがあり、10数年ぶりに連絡をもらいました。下の懐かしい写真は私が優良店舗を表彰したときのもの、賞状を持つのがKさん、現在はファッション業界を離れグラフィックデザイナーとして頑張っています。左のSさんは表彰したショップの店長、新米店長に指名して半年後に初めて月予算を達成し、それから2年間ひと月も落とすことなく連続月予算を達成した経験がある優秀な販売員です。右からKさん、私、S店長アパレル社長時代はよく社長賞などを販売現場に贈りました。売上が優秀というだけでなく業務革新してくれた店舗や店長を表彰。時にはポケットマネーで商品券を買って贈呈、気前の良い社長でした。今日のブログのテーマはこれまで折に触れ書いてきた販売現場の業務革新です。給与体系の違いもありますが、米国では優秀な販売員がブランド企業やセレクトショップの幹部よりも収入が多いというケースがあります。ニューヨークで取材活動をしていたとき、小売店経営者たちから何度も聞きました。ポールスチュアートなどの有名店ベテラン販売員はプロ意識が高く、お客様が自らラックから選んだジャケットを試着しようとしても「あなたには似合わない」ときっぱり反対、別のジャケットを勧めることがよくあります。しかも販売員が持ってくる試着オススメのジャケットはお客様の体型にぴったりサイズ、お客様が別のサイズの試着を求めることはほとんどありません。「あなたに似合う」という服を勧められ、ドンピシャのサイズを試着室で着せられお客様はこの販売員を信じ、その後もこの販売員を頼りにご来店されます。常連のお客様とプロ意識の販売員との信頼関係、これがお店の売上に直結、販売員は厚遇されるので長く勤めます。欧米で有名小売店や有力ブランドショップで高年齢販売員が多いのは当然でしょう。2枚ともNYマジソン街ポールスチュアート本店日本に戻ってデザイナー組織を立ち上げ、ブランド関係者とやりとりするなかで常に違和感があったのは販売員の処遇でした。どうして日本は販売員が厚遇されないのか、どうして販売員の離職率が高いのか、米国で経営者からプロの販売員の処遇を聞いているので不思議でした。ファッション業界でどうしても理解できなかったのは、事務系の総合職と販売職の新卒初任給が違うこと。同じ学校を卒業予定の学生が同じ会社を受験しても、販売職で採用されるのと総合職で採用されるのと初任給に差があることに疑問を感じました。将来自分が経営者になったら販売職の業務そのものを改善し、処遇格差を是正しようと考えていました。皆さんは店頭でこういう経験ありませんか。ショップに入って一番キャリアのなさそうな若い販売員に声をかけ、何着か試着を経てそろそろ購入を決めようとするといつの間にか接客が若手から店長らしきベテラン販売員に入れ替わり、決済時はベテランさん。私は何度も経験があります。個人売上を重視しているショップでは、この売上は最後に接客してくれた店長らしき人の業績にカウントされます。多くのブランドショップで店長売上構成比が極めて高いのはこういう若手から店長にバトンタッチがあるから。4〜5人の販売員がいるショップなら店長の売上が5割以上でしょうね。そもそも店長は自ら売ることが仕事なのでしょうか。私の考えは違います。店長すなわちストアマネージャーの一番の仕事はお店のマネージ、お客様に心地良いお買い物シーンを提供する、そのために店長はショップスタッフに気を配り良好な人間関係を構築するのが役割。なのでショップ店長の個人売上が50%を超えると店長を外れてもらうことにしました。言い換えれば、売る店長はいらない、自分は売らない店長を重宝しました。若いスタッフが仕事できるよう指導する、それが店長の役割。そして、ショップのお客様の特徴や好みを熟知している店長以下のスタッフが品揃えに関与する、つまり店長は精度の高い発注をするバイヤーになるべきなのです。お客様の顔の見えない本社担当営業が適当に商品を各ショップに振り分けていてはプロパー(正価)消化率は上がりません。店長に発注権を委ねるなら、店長にマーチャンダイジングの基礎とバイイングのスキルを教育しなくてはなりません。私はビジネススクールでも専門学校でもマーチャンダイジングの基本を教えてきました。誰に、何を、どのように、いくつ販売するのか仮説を立てる。商品の品番別、色別を横並びにせず意図のはっきりした大胆な発注にチャレンジする。その発注をもとにあらかじめ全員で販売計画を立て、それを全員が共有する。毎月末には販売計画と1ヶ月の販売実績の誤差を検証する。予想通りに商品が動かない場合は早めに担当営業に報告して速やかに商品移動する。実際経営者になって毎週1回社内マーチャンダイジングゼミでこれを徹底指導したおかげで発注の精度は上がり、販売計画を緻密に立てるようになり、営業担当の商品移動は迅速になって売上もプロパー消化率も一気に上昇、毎月連続して店頭予算をクリアするショップは急増しました。中には1年間も2年間も連続して月予算達成店舗が現れたのです。そして、目に見えて貢献度の高い店長あるいはそのサブ(店長補佐)は次々本社のMD担当や販売促進担当などに抜擢します。もちろんずっと店頭で仕事がしたいと希望する場合は本人の意志を尊重しました。彼らはずっと店長職に留めず、テコ入れが必要な店舗を助けるスーパーバイザー、あるいは地区ごとのエリアマネージャーとして活躍してもらいました。その結果、若くして店長になる社員は増えました。販売現場の業務革新、最初はかなり反発もあり、多くのベテラン販売員は私の考えにはついていけないと退職しました。売る力のあるベテランの離脱は大きな戦力ダウンでしたが、彼らが抜けたあとを社内ゼミで学んだ若手店長らがしっかりカバーしてくれ、業績は著しくアップしました。杭州セミナー主催者の鐘さん先月中旬杭州市で中国の若手アパレル経営者300余人に終日研修しました。セミナー主催者の女性経営者鐘さんは東京出張するたびに直営店に立ち寄ってくれるそうですが、いつも接客の間の取り方に感心しますと話してくれました。社内ゼミでは販売計画に基づいて戦略的な販売を奨励、しかし「売らんかな見え見えの接客」はしないよう訓練してきました。彼女の話を聞いてそれがまだ店頭で生きている、嬉しかったです。私が求めたのは米国で厚遇されているプロの販売員ではありません。店長としてショップをマネージでき、お店に相応しい品揃えをするプロのバイヤー、言うなれば店頭で仕事する総合職です。だからどんどん店頭から本社MD担当などに抜擢しました。こういう人材が育つと企業は強くなる、私はそう信じています。
2026.04.02

2007年にJFW(日本ファッションウイーク推進機構)が若手デザイナー支援策として開催した「ヨーロッパで出会った新人たち展」、ここで英国セントラルセントマーチンズとアントワープ王立芸術アカデミーを卒業した新人たちがインスタレーション形式でデビューしました。ミキオサカベ、アキラナカ、タロウホリウチ、リトゥンアフターワーズの4ブランドが日本人、ほかに海外の新ブランドが2つ、彼らはヨーロッパの新人デザイナーコンテストでしのぎを削った仲間でした。6ブランドそれぞれが貨物用コンテナの中を思い思いに空間演出、そこに新作コレクションを展示しました。海外からの参加者のひとりは現在グッチのクリエイティブディレクターのデムナ・ヴァザリア(ブランド名はステレオタイプ)です。ヨーロッパで出会った新人たちのポスター今回の東京コレクション(楽天ファッションウイーク)会場で開演待ちしているとき、たまたま若いエディターさんと会話、ちょっと驚いたことがあります。JFWがあのユニークな合同展を開催したことも、ミキオサカベの坂部三樹郎さんやリトゥンの山縣良和さんが同展からデビューしたことも全くご存知ありませんでした。東京コレクションを立ち上げたCFD(東京ファッションデザイナー協議会)のことを知らない若者は業界内にたくさんいるでしょうが、「シンマイクリエーターズプロジェクト」などJFWがこれまでいかに若手デザイナー支援と取り組んできたのかをご存知ない。正直言って、ファッションエディターならばもうちょっと東京コレクションの歴史やデザイナーのことを勉強して欲しいですね。おそらく20代の若いエディターたちは、1970年代のパリコレで高田賢三さんや三宅一生さんがどれほど世界のバイヤーやプレスに評価され、日本人の次世代デザイナーたちに勇気と希望を与えたか知らないでしょう。ショーの最後はいつもスタンディングオベーション、観客の熱視線は半端なかった。世界に扉を開いた彼らがどういう経緯でパリに渡ったのか、どのような時代背景があって脚光を浴びることになったのかも。1970年代ケンゾーは世界のトレンドセッター西洋と東洋の融合美を高く評価されたイッセイミヤケ高田賢三さんと三宅一生さんのジョイントショー1980年代初頭のコムデギャルソンとヨウジヤマモトの「黒の衝撃」も同じ。彼らの与えたインパクトがどれほど大きかったのか、世界各国の若手デザイナーにどのような影響を与えたのかもよく知らないでしょう。世界中がモノトーンになり、左右非対称のデザインが一斉登場、そのことを不快に思う一部メディアに紙面で攻撃されたのかもぜひ知って欲しいモードの歴史です。4半世紀あまり人気トップの座にいたジャンポールゴルティエのアンドロジナス(両性具有)、アズディアンアライアのボディコンシャス、ジョルジオアルマーニのソフトスーツがファッションの流れに多大な影響を及ぼしたことも、パリオートクチュール全盛期の1920から30年代のトレンドが日本のキモノ由来だったことも、若いエディターには掘り下げて勉強して欲しい。また、無名の若きゴルティエを発掘して後押ししたのは日本の大手アパレル企業オンワード樫山だったことも、そのオンワードに米国パーソンズデザイン学校を卒業したマークジェイコブスが入社したことも、予備知識として知って欲しいです。コムデギャルソン「黒の衝撃」ヨウジヤマモト「黒の衝撃」例えて言うなら、連日大リーグのドジャース大谷翔平選手を頻繁に取り上げるスポーツ担当記者が、日本プロ野球黄金期の長嶋茂雄さんや王貞治さんの活躍どころか、野茂英雄さんやイチローさんの大リーグでの活躍も知らずに記事をせっせと書いているのと同じではないでしょうか。エディターとしていま起きていることを報道するのを職業としている人は、それぞれの分野の歴史もしっかり勉強して欲しいです。次世代にちゃんと伝承していない我々にも責任あるはあるでしょうが。これまでパリ業界情報は比較的日本に伝わっていますが、私が活動していたニューヨーク情報はそれほど日本に伝わっていません。ここで後進エディターの皆さんに伝えておきたいニューヨーク事情をあげます。ニューヨークファッション業界には「スポーツウエア」(スポーツとは関係ない)というカテゴリーがあります。かつてはトップスとボトムをセットアップ販売でしていましたが、女性の社会進出が急増して働く女性のために考案されたのがトップスとボトムをバラバラに販売にし多様な組み合わせを可能にする「スポーツウエア」。この考え方を業界に広めたのはダナキャランの師匠であるアンクラインです。ロゴの中にマンハッタンを入れたDKNY20世紀後半働く女性のためのアメリカンスポーツウエアは飛躍的に市場を拡大、ラルフローレン、カルバンクライン、ダナキャランは3大ブランド、彼らのセカンドラインのラルフ、CKカルバンクライン、 DKNYも含めて米国市場のみならずパリやロンドンでも大きく展開されました。とりわけDKNY(ダナキャランニューヨークの略。ダナキャランは日本のタキヒョーが出資)は世界のデザイナーにセカンドラインの重要性を知らしめたお手本ブランドと言っても過言でありません。米国3大ブランドとほぼ同じ時期にニューヨークコレクションにはもう一人有力デザイナーがいました。1977年デビューからたった9年しか活躍しなかったペリーエリス(1986年急逝)、当時ニューヨークのトレッドセッターでした。彼は小売店バイヤーとして全盛期の高田賢三さんのケンゾーに出会い、多大な影響を受けてデザイナーとしてデビュー。シーズンを重ねるたびにグイグイ急成長、米国有力百貨店にはラルフローレン、カルバンクライン、ペリーエリスの婦人服、紳士服のショップがあり、セカンドラインの売り場がありました。ペリーエリスはトレンドセッターだった人気絶頂期のペリーエリスはジーンズ最大手リーバイスとペリーエリスアメリカというカジュアルラインを立ち上げました。そこでデザイナーを務めていたのがトムフォード、のちにグッチに移籍して不動の地位を確立、グッチ退任後は自らのトムフォードを始めました。また、ペリーエリス急逝後ブランドの後継デザイナーとして採用されたのが若きマークジェイコブス。が、同ブランドの業績は戻らずコレクションブランドとしては消滅。その後マークジェイコブスはルイヴィトンに抜擢され、ルイヴィトンをファッション商品を含むフルコレクションブランドに成長させました。マークジェイコブスのルイヴィトンは外部デザイナーとのコラボを仕掛けました。日本のアーティスト村上隆さんとニューヨークのパンクファッションのスティーブンスプラウス。スプラウスは1980年代後半ほんの数年だけ活躍したファッションデザイナー、その強烈なネオンカラー使いとグラフィティープリントはインパクト大でした。スティーブンスプラウスルイヴィトンの落書きバッグマークジェイコブスがルイヴィトンに抜擢されたほぼ同時期、セリーヌはマイケルコースを、ロエベはナルシソロドリゲスをクリエイティブディレクターに起用。グッチのトムフォードを含め、ヨーロッパの老舗ブランドがどうしてニューヨークのデザイナーを起用したのか、次世代エディーターには研究して欲しいです。ニューヨークにはもう一人忘れてならないデザイナーがいます。スウェットの女王ノーマカマリ、裏起毛のスウェット素材で婦人服フルコレクションを発表、一世を風靡しました。米国はデニム中心のカジュアルウエア天国ですが、スウェット素材をファッションに持ち込んだ彼女の役割は大きい。老婆心から嫌味なことを書きました。各国ファッションウイークを取材するメディアの若いエディターの皆さん、150年前に始まったオートクチュールからとは言いません、せめて戦後の欧米と日本のファッション史くらいはもっと勉強しませんか。
2026.03.30

「松屋を変えて欲しい」、古屋勝彦社長に請われて松屋に移籍した私は改革のためにはまず人材育成が重要とバイヤーゼミとアシスタントバイヤーゼミで若手社員の育成に着手、毎年秋には受講生らを連れニューヨーク研修に行きました。1日中マンハッタンや郊外ショッピングモールの売り場を歩き回って時代変化の方向性を感じてもらう研修でした。視察必須店舗は、古くておんぼろだった店を全館改装して大変身を遂げたバーグドルフグッドマン百貨店、こちらは全フロアをくまなく見る、何度も足を運ぶ。郊外ショッピングセンターに店を構える(当時はまだマンハッタンに店がなかった)顧客満足経営のノードストローム百貨店は、靴売り場でその丁寧な接客を自ら体験する。リビング雑貨店クレイト&バレルではシーズン感あるダイナミックなVMDを、ソーホーウエストブロードウェイにあったポロスポーツ(ラルフローレンの1部門)ではブランドの垣根を超えた編集力を、当時絶好調だったバナナリパブリックでは大きな承りカウンターと試着室を調べるよう参加者に指示しました。VMDのお手本だったクレイト&バレル個人的に最も参考にしたのは、クレイト&バレルとポロスポーツ。大量に整然と商品を積み上げていまお客様に勧めたいものを強烈にアピールするクレイト&バレルの手法はこれまでの小売店の陳列方法とは違っていまし。グループの最上級ブランド「パープルレーベル」に「ブラックレーベル」、主力の「ポロバイラルフローレン」、セカンドラインの「ラルフ」、スポーティーな「ポロスポーツ」と「RRL」と他社LEEのヴィンテージデニムをミックスしてラックに陳列するポロスポーツ店の手法はとても新鮮でした。クレイト&バレルの量を積んで旬を感じさせるVMD、どうしてファッション業界でこれができないんだろう。自社ブランドを因数分解してラックごとにストーリーを作るポロスポーツの見せ方をどうして日本のブランド企業はできないんだろう、いつも視察するたびにそう思いました。ニューヨーク視察から戻った直後たまたま三宅一生さんにクレイト&バレルの話をしました。ファッションブランドでも量を積んで旬を見せる、在庫の大半は店頭に整然とたくさん並べてストック場でキープしない、極端に少ない品番数で大量品出しする、もしもイッセイミヤケでできるなら1階エントランスの一番目立つ場所に売り場を作りたい、実験してみませんかと言いました。三宅さんは「1か月ほど時間ください」とすぐサンプル作りにかかりました。1か月後三宅さんから連絡をもらって出来上がったサンプルを見に行ったら、なんとパリコレに行けるくらいのすごいコレクションがありました。1百貨店の提案に充実したコレクションを作ってくれたのはありがたいんですが、これは私の意図したこととは違いました。品番数は思い切り絞り込む、陳列枚数はどーんと大量、お客様が買うと決断されたら5分以内に商品をお渡しする、ベテランの販売員は不要、なんなら試着室なしでも構わない、これがやりたかったことでした。作ってもらったサンプルからほんの数点だけ選び、品番数は一般的ブランドの5分の1でデザインは同じまま、これを繰り返し多色展開する、ショップに在庫のほとんどを出して通常の3倍の商品を綺麗に並べる、これらを確認してもう一度サンプルを整理してもらいました。そして1階エントランス付近に誕生した売り場が「ミーイッセイミヤケ」、ブランドではなく「ミーイッセイミヤケ」はショップの名前、数ある候補の中から私が選びました。13坪とそんなに大きなショップではありません。品番は極端に少なく、同じようなトップスのみの展開、商品バリエーションがないと感じるお客様は中にはいたでしょうが、予想以上の反響でした。クレイト&バレルに刺激されて初めて服で極端な定数定量にチャレンジした実験、十分成果をあげることができました。その後私はひょんなことからイッセイミヤケ社で仕事をすることになり、この松屋1階の実験ショップをブランド事業化しました。商品を透明プラスチックの筒状容器に入れて本当は自動販売機をショップ内にセットしたかったのですが、あの頃1万円札を投入できる自動販売機が日本にはなかく断念。仕方なく透明の容器を積み上げて服を販売することにしました。ハンガーに掛かっている服をお客様が選んだら、中に服が入った筒状プラスチックごとお渡しする、つまり商品をおたたみする必要はありませんから決済手続きでお客様をお待たせすることはありません。あれから2随分月日が経過した現在も「ミーイッセイミヤケ」の縦横プリーツ加工を施したTシャツはほぼデザインを変えずに継続しています。毎シーズン新色新柄は出ますが。三宅一生さんが晩年に唱えた「プロダクト」そのものと言ってもいい日常の服、多くのファンに支えられ、現在は海外でも大人気。おそらくこのブランド誕生の経緯を知らない関係者がほとんどになりました。出発点の私たちの思いをずっと忘れず、プロダクト服としてさらに発展して欲しいです。注 服の写真は中国で一般人サイトにあがっているものから抜粋しました
2026.03.28

昨日は西武百貨店渋谷店9月末閉店のニュースをメディアが大きく取り上げましたね。東京を代表する繁華街のひとつ渋谷エリアの百貨店はこれでゼロになるんですから、ちょっとした事件扱いでした。銀座地区にはかつて7百貨店の店長たちの「七店会」という親睦会がありました。最初に銀座有楽町から消えた百貨店は有楽町そごう、2000年同社経営破綻で閉店し現在はビックカメラになっています。建物持ち主は読売新聞グループ。同じ読売新聞グループのビルにあったプランタン銀座、同百貨店は解散になって現在はユニクロに。東急プラザ銀座数寄屋橋阪急が入居していた東芝ビルは東急不動産の東急プラザになりましたが、海外投資ファンドに売却、これからテナントを総入れ替えするのでしょう現時点で館内は空き店舗だらけ。東急プラザ開店直後の会社の朝礼で社員たちに「この商業施設が成功したらここで逆立ちするよ」と話しましたが、やっぱり続きませんでしたね。銀座で最も歴史のあった松坂屋銀座店、大丸との合併を機に方向転換、周辺の土地を有する会社と共同でG SIXに変身、百貨店業態から脱しました。有楽町マリオンにあった西武百貨店もJR東日本系のルミネになりました。現在銀座地区でフルアイテムの百貨店としてこれまで通り営業を続けているのは松屋本店と三越銀座店だけ。有楽町阪急はメンズ館として営業しています。つまり銀座に7店あった百貨店はこの20余年の間に2つになったのです。新宿でも三越新宿店はビックロになり、小田急百貨店はビル建て替え中ですが百貨店業態終了をすでに表明しています。小田急のビルが完成したら次は京王電鉄が建て替えると思いますが、果たして京王百貨店を続けるのか、それとも小田急のように業態変更するかもしれませんね。池袋は三越池袋店が閉店、西口の東武百貨店、東口の西武百貨店の2店になりました。西武セゾングループが経営破綻、西武百貨店を引き取ったセブン&アイはもの言う株主の圧力なのか西武百貨店を海外投資ファンドに売却。ファンドは西武百貨店を傘下のヨドバシカメラに業態変更する計画だったようですが、豊島区長はじめ反対意見におされてかヨドバシカメラはビルの一部になりそう。西武百貨店はかろうじて残ります。が、池袋西口再開発に絡んで東武鉄道が高層ビルの建設を予定しているようなので、場合によっては新宿小田急百貨店のように改装を機に業態変更になるかもしれません。豊島区住民の私としては西武も東武も池袋駅に百貨店として残って欲しいです。特にデパ地下はありがたい存在なので。東京の繁華街からどんどん百貨店が消え、もう百貨店業態ではビジネスを継続できないのではという声があります。同じように私が住んでいたニューヨークも多くの百貨店が廃業しました。その事例をご紹介します。五番街の名店Bonwitt Tellerは現在トランプタワーに1978年だったと思います。日本のアパレルメーカーから出張でニューヨークに来た方をいろんな小売店にお連れしたときのこと。「アメリカの衣裳箱」とまで言われた名門百貨店Bonwitt Teller(ボンウィットテラー)で私は「このお店はきっと近いうちに破綻しますよ」と説明しました。マーチャンダイジングの基本「分類」がなっていないからでした。そして約1年後ボンウィットテラーはチャプターイレブン(連邦第11条。日本の会社更生法に相当)を申請、事実上の倒産でした。五番街と東57丁目の角にあるティファニー本店(映画「ティファニーで朝食を」で有名な店舗)にカギ型で寄り添う建物の五番街側はトランプ大統領のトランプタワーになったのです。東57丁目側にはフランスのギャラリーラファイエットが進出、しかし数年後呆気なく閉店しました。エンパイヤステートビルお膝元にあったB. Altman観光名所エンパイヤステートビルディングのお膝元、五番街東34丁目にあった老舗店B. Altman(ビーオルトマン)もボンウィットテラーとほぼ同じ時期に破綻、閉店しました。倒産後の財産処理がスムーズに行かなかったのか、この後しばらく空き家のままで倒産した百貨店の惨めな姿をずっとさらけ出していました。老舗Lord & Taylorも消滅ビーオルトマンから五番街を4ブロック北上した西38丁目角にはLord & Taylor(ローダンテイラー)というコンサバリッチ品揃えの百貨店がありました。他百貨店の常務執行役員ファッションディレクターに比べるとこの店の担当役員はほんとに品の良いお金持ちの奥様のような方でしたが、まさにこういうタイプの女性客が多かった店。悪く言うと刺激がない店でした。ここものちに経営破綻、五番街から消えました。ニューヨークの風物詩11月後半のサンクスギビングデーのパレードと7月4日独立記念日の花火大会は世界最大売り場面積を誇るMacy's(メイシーズ)と隣接するGimbels(ギンベルズ)の2大大衆百貨店がスポンサーでした。が、ギンベルズもビーオルトマンとボンウィットテラーと同時期に破綻して六番街旗艦店を閉鎖、1987年完全に全米市場から消えました。流通業界では「ブルーミング詣」と言う言葉もあったBloomingdales私がマンハッタンに住み始めた1970年代後半、ファッションと言えばBloomingdales(ブルーミングデールズ)百貨店がダントツの存在、流通業界には「ブルーミング詣」という言葉があったくらい。紳士服のラルフローレンを後押し、婦人服売り場でもこのブランドを育てた百貨店でした。「売り場は劇場」と名物社長が形容したくらい売り場は行くたびに変化、私もここでいろんなことを教えてもらいました。しかし、当時五番街東49丁目Saks Fifth Avenue(サックスフィフスアベニュー)も、そこから五番街を10ブロック北上したBergdorf Goodman(バーグドルフグッドマン)も、ブルーミングのような刺激がほとんどない高級百貨店でした。特にバーグドルフは斜め前のボンウィットテラーとほぼ同じ様相、商品は保守的、お客様はかなりの高齢、売り場にはエスカレーターがなかった。ボンウィットの次に倒産するのはおそらくバーグドルフだろうと思っていました。世界で最もラグジュアリーなBergdorf Goodmanところがバーグドルフグッドマンは数年かけて全館改装の大手術。指揮したのはのちにイタリアのグッチを立て直したことでも知られるドーン・メロー社長でした。マンハッタンの北方の郊外店を売却してまず改装資金を作り、初めてエスカレーターを設置、ブランドのほとんどを入れ替え、トレンディーなデザイナーコレクションを一斉導入したのです。たった1店舗しかない百貨店、世界の主要デザイナーはこぞって別注を喜んで創作してくれる格別なお店に変身しました。私が一番びっくりしたのは、お得意様であろう高齢ご婦人が販売員に向かって「バーグドルフはこんな店じゃなかった」と怒鳴っている場面を見たときでした。このとき私は社運を賭けた大改装は成功したと実感しました。ボンウィットのようなただコンサバな老舗百貨店がファッションを前面に出した新感覚のお店になるのを目撃、後年私は松屋銀座に移籍したときの記者会見で「バーグドルフグッドマンをお手本に松屋銀座を変えたい」と発言。古屋勝彦社長(=当時)はこの提案に賛同してくれ2001年銀座本店の大改装が実現しました。経営体制が何度も変わったSaks Fifth Avenue同じ五番街のバーグドルフが見事に大変身、サックスは慌てたのでしょう。シーズンごとに新しいデザイナーブランドを導入、同じく店の奥にエスカレーターを設置、高級コンサバ店からファッションストアを目指し始めました。バーグドルフがたった1店舗なのに対してサックスは全米各地に30店舗ほど構えていましたが、正直言ってバーグドルフと同じ信頼関係がブランドとの間にあったとは思えませんでした。1990年頃サックスは会社が売りに出され、中東バーレーン政府系投資ファンドと現経営陣によるバイアウト計画(背後には日本の富士銀行と東武鉄道グループ)が競争入札、結局グッチを創業一族から買収したことで知られるバーレーンのインベストコープが買収しました。その後もサックスは度々経営体制が代わり、最終的にカナダの巨大企業ハドソンズベイ(北米大陸で最も歴史がある企業。元々は英国の国営企業だった)傘下になり、同業ニーマンマーカス百貨店グループも買収して巨大化。でも今年破綻してチャプター11を申請しました。世界最大級売り場のMacy'sも経営破綻を経験かつて10社以上の百貨店がマンハッタンに店を構えていましたが、淘汰や吸収合併もあって現在百貨店として営業しているのはバーグドルフ、サックス、ブルーミングデールズ、メイシーズ、そして数年前にマンハッタンに初めて店を構えたシアトルの顧客満足経営のノードストロームの5つです。ノードストローム以外は過去に一度はチャプター11つまり経営破綻を経験していますから、百貨店は時代から取り残されている業態と言えるでしょう。911同時多発テロで崩壊したワールドトレードセンターの跡地にサックスは新規出店しましたが、すぐ退店しました。傘下にバーグドルフグッドマンがあるのでなかなかマンハッタンに出店しなかったニーマンマーカスも、再開発地に初出店したものの数年以内に撤退しました。また百貨店のような大型店舗を構えたBarney's New Yorkも二度経営破綻して消滅しました。顧客満足経営のNordstromマンハッタン店百貨店に未来はないと発言する経済専門家は少なくありませんが、地球上から全ての百貨店が消滅するとは思えません。決して簡単ではありませんが、しっかりお客様の方を向いて常に売り場革新、業務改革を進める百貨店数社だけは残る、と私は信じています。百貨店は消費者のNEEDSを満たす小売業ではありません。お客様のWANTSを提供できるか否か。それがたとえテナント集積の不動産業的になろうとも市場に残る館はあるのではと思います。楽観的過ぎると批判されるかもしれませんが、そう信じて後進のマーチャンダイジング指導を続けたいです。
2026.03.26

先ほど読売新聞オンラインでショッキングなニュースを読みました。西武百貨店渋谷店が今年9月末をもって閉店する方針を固めた、と。土地、ビルの所有者との賃貸契約が合意に至らず、A館とB館は閉店、自社物件のロフト館と無印良品が入るモヴィーダ館だけは営業を続けるそうです。いろんな思い出がある渋谷西武閉店、ついにこの日が来たのかとショックです。左が渋谷西武A館、右がB館大学入学で上京した私は同じ明治大学4年生の従兄弟が勧める井の頭線浜田山駅近くで東京生活を始めました。井の頭線ですから出かけるのはもっぱら渋谷、上京後最初に買った洋服は西武百貨店渋谷店「ビーイン」という売り場のニットでした。男性用なのに半袖キャップスリーブ、見頃はネイビー、袖部分は白。1ヶ月後のゴールデンウイーク、私はこのニットを着て最初の帰省。私を見た瞬間オフクロはいきなり「そんな格好して帰ってくるな」、と泣きそうでした。女性用のような短い袖のトップスだったので「桑名でそんな格好をしてる男はおらん」とおかんむりでした。当時の渋谷西武は東京のダントツのファッションリーダー。西武百貨店婦人部長三島彰さんがプロデュースしたセレクトショップ「カプセル」ではデビュー間もない三宅一生さん、山本寛斎さん、菊池武夫さんら若手ファッションデザイナーの服を販売、斬新なショップデザインはインテリアデザイナー倉俣史朗さんでした。私たちスネかじり大学生にはカプセルが展開するデザイナー服はお値段高過ぎてとても手が届きませんが、ビーイン売り場の服ならちょっと食費など我慢すればなんとかなりました。ここで買った東京ファッション、おしゃれしたつもりで帰省したんですが、不評どころか猛反対でした。渋谷西武A館エントランス考えてみれば、1980年代のD Cブランドブーム以前に時代の先端を切っていた百貨店は間違いなく渋谷西武でした。そのあと本店である池袋西武に輸入ハイエンドブランドがズラリ並ぶフロアが誕生しましたが、ヤングファッションという点では池袋よりも渋谷西武にパワーがありました。新しくLOFTもSEEDSもここで始まり、渋谷西武は若者ライフスタイルの情報発信拠点でした。東急ハンズの後発ながら発信力あったLOFTしかしながらビル所有者がなかなか外壁などを改装する気配がなく、この前を通るたび、ひょっとしたら近い将来渋谷西部を追い出してビルをスクラップし高層ビルを建てる計画があるのでは、と心配していました。今日のニュース、やはり西武百貨店側と賃貸契約が合意しなかったんですね。すでに東急百貨店本店も東横店も渋谷の街から消え、今度は渋谷西武が街から消えますから渋谷全体が一気に寂しくなります。先ほどFacebookにニュースのことをアップしたら、元西武百貨店社員の知人から「自分が勤めていた店舗がなくなるというのは、自分がやってきた過去の仕事や経験の一部が消えてしまうような虚しさ、なんともやりきれない気持ちになりました」とメールが届きました。学生時代一消費者だった私でさえそうなんですから、ここで働いていた方々はもっとショックでしょう。今年アメリカでは高級百貨店グループ最大手サックスが倒産(営業は継続しているようですが)しました。国内でも地元百貨店や大手の地方店が次々閉店、百貨店ゼロ県が増えてきました。世界の潮流として百貨店ビジネスは昔のようにはいかない斜陽業態なんでしょうが、生き残っている百貨店には自ら業務革新して頑張って欲しいです。日本中から百貨店が全て消えないことを祈ります。
2026.03.25

昨年の高市総理の発言から日中関係は一気に悪くなり、中国での日本がらみの文化的イベントはことごとく中止、中国人の訪日も激減。アニメの上映やコンサートもできなくなり、秋に予定していた私たちの中国セミナーも出発直前に中止となりした。が、中国の人材育成会社からファッションビジネス研修会での講演要請があり、3月15日から2泊3日で婦人服拠点杭州市に出張、午前中3時間、ランチを挟んで午後3時間終日セミナーに。講演タイトルは「ブランドビジネスの成功条件」、創業してからあまり年数が経っていない中小アパレル企業の若手経営者ら330人にお話しました。終日立ちっぱなしで講演2回の休憩時間とランチタイムには会場ホテルの中庭に長い行列、受講者らひとり一人と記念撮影を頼まれてほぼ全員とツーショット。また講演中は何度も拍手喝さいを浴びました。これまで内外でたくさん講演してきましたが、講演中に何度も拍手喝さいなんて初めての経験、まるでアイドルのような扱いでした。この研修プログラムは広東省深圳市に拠点を置くマーケティングとディスプレイ指導会社「陳列共和」、代表の鐘(シュウ)さんは西武百貨店深圳店の元社員だったそうです。上海浦東空港から車で2時間かけて杭州市郊外のホテルに到着したら、鐘さんらが花束を抱えてお出迎え。聞けば3月13日から4日間の合宿、最終日は私の特別講義が組まれていました。ホテルロビーで陳列共和代表の鐘さんがお出迎え私は1994年秋にIFIビジネススクール(ファッション産業人材育成機構)第1期夜間プログラムで授業を開始して以来、学校の講義でも社内研修でもマーチャンダイジングを教える際は必ず3つの文字をホワイトボードに書きます。merchandisemerchandisermerchandisingそして、最初のmerchandiseの日本語の意味は何でしょうと受講者に質問します。多くの受講者は難しく考えていろんな答えをしますが、「意味は商品。自動車、食品、衣料品、いかなるジャンルでも同じです。マーチャンダイジングにはまず商品そのものを掌握することが基本」と言ってこれまでマーチャンダイジングの講義を始めてきました。今回の中国研修、久しぶりにこの3文字を書きました。いつもの3文字を説明今回の講演は「ブランドビジネスの成功条件」、クリエーションとビジネスの正しい関係、ブランドDNAの重要性、DNAをいかに作るのか、シャネルの成功要因と近年グッチの迷走、カルバンクラインが一度ブランド廃止になった例などを解説しました。デザイナー交代するたびコロコロとディレクションやブランド世界観が変わるのは決して良くない、不動のDNAブランドが重要、と。午後の部ではマーチャンダイジングの原理原則にちょっとだけ触れましたが、今回のテーマとは違うのでさわりのみ話しました。セミナーの最後に鐘さんが登場してまとめをすると、「近々太田さんのマーチャンダイジング講習をしたいがその場合皆さんは参加しますか」と発言したら、受講者たちから大歓声。おそらく今度は鐘さんの本拠地深圳市でマーチャンダイジングの基本を改めて教えることになりそう。セミナーの様子日中関係が冷えている中での終日セミナー、大丈夫なのかなあと少し心配していましたが、皆さん日本人講師の話に熱心に耳を傾け、会場の雰囲気はとてもフレンドリー、握手攻めと記念撮影にはびっくりでした。若者がたくさん集まる新しいショッピングモールでも、雑貨店の目立つウインドーには大型のウルトラマンが飾ってあり、政府はともかく一般人の間では日本文化排除ムードはありませんでした。研修スケジュールの最後は古い中国式建物ながらモダンなレストラン兼ペンションに移動して数人の参加デザイナーらと共に会食。ここでシャンパンのモエエシャンドンとドンペリの面白い話を披露したら、いつの間にかドンペリがテーブルに登場、しかも二次会にはこのレストランからドンペリ数本テークアウトして都心部のカラオケ店に。シャンパンの話をしたばかりに気を遣わせてしまいました。中国人は客に対して過剰なほどもてなしてくださるので、次回から気を付けないといけないと反省。これまで私を何回も中国に呼んでくれた佐吉事業コンサル金時光さんが主催するセミナーでも感じることですが、中国の若い実業家はとにかく熱い、受講態度は熱心で質疑応答は打ち切るまでエンドレス。しかもセミナーや会食時に触れたことにはすぐリアクション、行動力は半端ないです。日本でやるセミナーとは空気が違いますね。受講者と記念撮影1970年代初頭三宅一生さんがパリコレ初参加したとき日本人デザイナーは少数派、それがいまではたくさんの日本人がコレクションを披露、メンズに至っては日本人デザイナーがパリコレの主力になっています。近未来中国人デザイナーがパリコレに続々登場し、一大勢力になる日が来るのではないでしょうか。なんたって人口多いし、人の話をしっかり聴いてすぐ行動する人たちですから。
2026.03.21

昨日は年に一度東京で開催される「桑名人ネットワーク」懇親会でした。伊藤徳宇市長もかけつけ、在京桑名出身者に故郷の最近の取り組みや新しい施設の説明などがありました。伊藤市長から新生児増加の説明今年一番のニュースは、全国各都市が頭を悩ませる少子化問題の中なんと桑名市は新生児が前年より11名微増したこと。ほとんどの都市が新生児減少が続いているのに微増ながら増えたことはめでたい。近距離名古屋で働く人々が県をまたいで桑名市に住まいを構え、お子さんが生まれているようです。行政が積極的に支援すれば、若い人たちは子供を産んでくれるのではないでしょうか。今日はファッションビジネスではなくわが故郷について書きます。昔からセミナーやインタビュー時に略歴をお渡しする際、私は出身地を「三重県」ではなく「三重県桑名市」と必ず表記してきました。それは桑名の歴史と大きな関わりがあります。桑名市は三重県最北幕末、桑名藩のお隣の高須藩(現在の岐阜県海津市。県境の小さな藩)藩主の子供たちは「高須四兄弟」と呼ばれ優秀だったそうで、尾張徳川家、会津松平家、桑名松平家にそれぞれ養子に入りました。会津藩主となった松平容保(かたもり)は徳川将軍を補佐する京都守護職(京都の治安と御所警護)、その実弟桑名藩主松平定敬(さだあき)は京都所司代(現代の警視総監のような職)に就任、彼らの下部組織が新選組や見廻組でした。長州藩の過激派が朝廷に改革断行を迫って京都御所で蛤御門の変を起こしたとき、御所守護が任務の会津藩と、これに加勢した薩摩藩は長州藩を追い返しました。このことがのちの薩長同盟がなかなかまとまらなかった原因。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で会津藩、桑名藩、新選組は薩長軍に追われて最後には北海道の函館五稜郭まで行きました。高須四兄弟、左から桑名藩主、次が会津藩主薩長主導の明治新政府は会津や桑名出身者を登用しなかったんですが、山口県(長州)の佐藤栄作総理大臣のときに初めて桑名人が要職につきました。内閣の要である官房長官に木村俊夫氏(田中角栄内閣の外務大臣)が抜擢されたのです。前例がない桑名人の登用、それは佐藤さんが官僚時代課長職のとき直属の課長補佐で支えたのが木村さんだから。私は木村さんご本人から教えてもらいました。新潟県長岡市のセミナー講師に呼ばれたときもびっくりでした。受講者の大半は地元金属加工業や農業系経営者、セミナー終了後の慰労会でファッションビジネスに関係ないみなさんは固まり、私たちはちょっと離れたテーブルで食事をしていました。「先生はどちらのご出身ですか」と幹事さんに質問され「私は三重県桑名市です」と答えたら、幹事さんが「先生は桑名だってよ」と大声。すると全員がド~っと私の席のまわりに集まってきたのです。長岡藩は京都から北上する薩長軍相手に北越戦争で戦い、長岡藩の河井継之助がリーダーとなって徹底抗戦、河井はあえなく戦死しました。長岡の経営者たちの多くはいまも自社の名刺と共に「河井継之助友の会」の名刺を渡すくらいの河井ファン。そんな経営者たちにですから「桑名だってよ」は刺さったようです。北越、戊辰戦争からもうかれこれ150年経過していますが、長岡市民はいまだ長岡藩のままなのかも。長期政権だった佐藤栄作総理は後継者に長岡出身の田中角栄氏ではなく群馬の福田赳夫氏を応援。が、田中氏が自民党総裁選で勝利して総理大臣に就任しました。長岡市民はさぞ大喜びだったでしょう。また田中総理以前では真珠湾攻撃を指揮した山本五十六大将も長岡出身です。15代将軍徳川慶喜は大阪港から幕府の軍艦に乗ってさっさと江戸に逃げたのに会津と桑名藩の兵隊は律儀に薩長軍と戦いながら東へ北へ移動、結局北海道まで行くことになりました。会津藩では途中で白虎隊の悲劇もあり、新選組は大人気の土方歳三が戦死したので皆さんよくご存じですが、桑名藩士たちも参戦していたことはNHK大河ドラマで触れられません。会津も桑名もよく言えば義理堅い、言い換えれば融通きかない、時代の空気読めないおバカ。その血が私にも流れているのでしょう。私は長年マーケティングとマーチャンダイジングを後進に教えてきた人間、時代の空気読めないとは思っていませんが、桑名藩士のように妙に義理堅いおバカであると自覚しています。もうひとつ桑名と薩摩には因縁が。1754年琉球や中国との貿易で薩摩藩が収益を上げていると間違った情報をもとに,徳川幕府は桑名と名古屋の間に流れる揖斐川、長良川、木曽川の三川普請工事を薩摩藩に命じます。いわゆる宝暦の治水工事、将来幕府に反旗を翻すかもしれない薩摩藩の財政を圧迫するのが狙いだったというのが定説。この大工事に多額の出費をした責任をとり、薩摩藩の普請奉行平田靱負は工事終了直後に責任をとって自害、また多くの薩摩藩士が難工事で命を失いました。薩摩義士の墓がある市内のお寺位牌には島津家の家紋も普請奉行平田靫負の像桑名市内には治水工事をしてくれた薩摩藩士を祀るお墓がたくさんあり、岐阜県との県境には平田靱負を祀る神社があります。私が小学生時代には社会見学でこの神社を訪問、卒業時に「尊敬する人」として私は平田靱負の名前を書きました。東京に出てきてから多くの鹿児島県出身の方全員に宝暦の治水のことを鹿児島県の社会科授業で教えているかどうか訊いたところ、皆さんよくご存じでした。つまり桑名市でも鹿児島県でも宝暦の治水工事のことを子供たちにちゃんと教えているんですね。工事を薩摩藩に命じたのは徳川幕府、恨むなら幕府をと言いたいところですが、工事によって恩恵を得たのは桑名市とその上流の岐阜県、反対側の愛知県、単純に幕府のせいにはできません。これは勝手な推測ですが、宝暦の治水のことがあるので幕末桑名藩は薩摩藩の仲間には入れてもらえそうになかったでしょう。また桑名藩主は京都所司代、配下の憲兵みたいな存在の新選組が長州藩士や脱藩過激派浪人をたくさん暗殺したので長州藩も桑名藩とも仲良くできるはずはない。桑名藩士は五稜郭に行くしか選択肢はなかったでしょう。最後の将軍に見捨てられ、薩長の官軍には入れない、なんとも哀れな藩なのです。桑名で生まれ、桑名で育った私は宝暦の治水と幕末戊辰戦争の顛末を社会科で習っているのでどうしても哀れな桑名藩に同情、だからいつも略歴にわざわざ桑名市出身と明記しているんです。もうひとつ話を。旧東海道は大きな三川があるので名古屋=桑名間に陸路はなく、船で行き来していました。江戸前期まだ大阪城に豊臣が居座っていた頃、万が一大阪方が江戸を目指して攻めてきたら桑名は間違いなく前線の砦になる、だから徳川四天王の暴れん坊本多忠勝が初代城主に任命されたのです。そして大阪夏の陣で豊臣秀頼は自害、その奥方だった千姫(徳川家康の孫)が次に嫁いだ先は本多忠勝の孫の本多忠刻(ただとき)、のちの姫路城主でした。初代城主本多忠勝江戸時代フェリーもなければ高速艇もありません、天候悪いと旅人は桑名港で足止めを食らいます。桑名港の周辺には旅館や飲食店が建ち並び、ここで地元特産の身がプリプリの蛤を旅人に提供していました。「その手はくわなの焼き蛤」のフレーズはここから生まれました。このフレーズは子供のころからよく耳にしましたが、私が生まれて初めて焼き蛤を食べたのはなんと上京してから、実家では蛤を焼かず酒蒸しにして食べていました。歌川広重の東海道五十三次「くわな」は桑名港がある七里の渡し、ここの大鳥居は伊勢神宮詣の一の鳥居です。鳥居の先の川口町の蛤料理店「日の出」は最近なかなか予約が取れない人気店、だからNHKブラタモリでタモリさんが番組で蛤を食べたのはこちらではなく、その先にあるうどん店「歌行灯」(新宿伊勢丹会館にも支店あり)でした。房総の蛤よりちょっと肉厚プリプリ。梅雨入り前の頃がシーズン、ぜひお試しあれ。
2026.03.14

1929年ウォールストリートの株価暴落で始まった世界大恐慌、そして景気対策としてニューディール政策が始まり、大規模な公共土木事業が行われたことは小中高校生の社会科や世界史の授業で教わりました。私も長い間ニューディール政策イコール公共土木事業と思ってました。が、ニューディール政策にはもう1つの柱がありました。失業対策として始まった第2期ニューディール政策、推進母体はWPA(雇用推進局)でした。大不況で職を失った芸術家や文化人を支援する「フェデラル・ワン」(連邦計画第一号)という名のプロジェクト、なぜか日本の教科書には出てきませんがこれも立派なニューディール政策だったのです。WPAがアーティスト、ミュージシャン、作家や脚本家、映画監督に仕事を与えた国家政策を推進することによってたくさんの音楽祭やコンサートが開催され、全国に多数のオーケストラが組織化され、演劇界や映画界を支援したことが戦後のブロードウェイミュージカルとハリウッド映画の発展に繋がりました。画家のジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、ウイレム・デ・クーニング、ベン・シャーンをはじめ劇作家アーサー・ミラー、映画監督オーソン・ウェルズやエリア・カザンらはフェデラル・ワン傘下の「連邦美術計画」「連邦音楽計画」「連邦作家計画」「連邦劇場計画」の支援を受けて不景気時代に創作活動を続けることができたと言われています。当時のフェデラル・ワン傘下各種プロジェクトのポスターがこちらです。パソコンもフォトショップもなかった時代に制作されたものですが、なかなか味のあるデザインじゃないでしょうか。連邦美術計画(アートプロジェクト)の依頼で制作された政府ポスター連邦美術計画(アートプロジェクト)連邦美術計画(アートプロジェクト)連邦美術計画(アートプロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦劇場計画(シアタープロジェクト)連邦作家計画(ライターズプロジェクト)連邦音楽計画(ミュージックプロジェクト)連邦音楽計画(ミュージックプロジェクト)大恐慌で社会が混乱していた1930年代、米国連邦政府は公共土木事業だけでなく、芸術文化(近年の言い方ならコンテンツ)産業に力を入れて芸術家や文化人に仕事を与えていたのです。ネット検索でこれくらいポスターが出てくるんです、すごいと思いませんか。日本でコンテンツ産業を育ててもっと世界に販路を広げようと政府の支援が始まったのは安倍政権の2013年、米国より80年も遅いスタートでした。いまもクールジャパン戦略担当大臣はいらっしゃいますが、アニメ、漫画、映画、音楽、ゲームソフト、ファッション、アートなど柔らかいジャンルを国の産業政策として積極的にプッシュしているようには見えません。担当大臣には自ら動かせる予算がありませんから。昨年中国との関係が悪化してから、やれレアアース増産だの次世代半導体開発だのという声は聞こえてきます。イラン戦争が始まると、今度は石油調達と備蓄の話、クールジャパン路線の産業カテゴリーの話はほとんど聞こえてきません。新聞テレビなど主要メディアは力を入れてクールジャパン事業を報道しませんよね。モノの話は出てきてもコトの話がなかなか話題にのぼらない、これが日本の現状です。これではいつまでたっても外貨を稼ぐ次世代産業は育たない。今日経済産業省のエンタメ・クリエイティブ産業政策研究会の一部である「デザイン・ファッション委員会」が開かれ、委員の一人として参加、ちょっとだけ発言する機会がありました。デザインもファッションも国家の産業政策としてもっとテコ入れしてグローバルな活躍できるデザイナーや企業を増やそうという趣旨の会議だと思います。会議に出席して思いました。日本のデザイン、ファッション産業の関係者はどれくらい米国ニューディール政策のことをご存知なのか、90年も前から米国が柔らかい産業を後押ししたことが後年花開いたことをどれくらいご存知なのかと。まず米国ニューディール政策から学び、高度情報化社会の時代に日本はいかなる政策をすべきなのかをみんなで考えねばならないと思います。コンテンツ支援で言えば日本は韓国の足元にも及びません。韓国映画はすでにアカデミー賞作品賞を受賞しています。K-POPは世界に通用する強力なコンテンツ、その人気者たちは世界に冠たるラグジュアリーブランドのアンバサダーに起用され、その広告やCMは各国で多数流れています。韓国政府の支援もあって育てられたK-POPスターのほとんどは英語や日本語に堪能、国外で活躍できるベースができています。一方日本はどうでしょう。パリ、ミラノコレクションブランドのゲストとして招待された日本人スターの席を取り囲んでカメラマンがバチバチ写真撮影しているでしょうか。せいぜい日本メディアのカメラマン数人だけ。彼ら、彼女らはほとんど日本語以外の言語は話せませんし、世界の知名度は超〜低い。正直日本人として悔しいです。昨年映画「国宝」は記録的興行成績、映画自体も素晴らしいと私は思います。もしも封切り時点で数カ国語の言語で配給する戦略立てて準備していたら広く世界で上映され、アカデミー賞の作品賞にだってノミネートされるくらいの力作ではと思います。国内興行成績記録更新で喜んでいては韓国を超えることはできませんし、いつまでたっても日本映画がアカデミー賞作品賞を受賞することは期待できません。芸術文化産業を政府もメディアも本気で後押しする気があるのか、当事者側には世界に打ち出す勇気、覚悟、準備と勝てる仕組みがあるのかどうか。昨日の会議でも申し上げました。かつて予想できなかったほど日本のサッカー選手が海外クラブチームに移籍して活躍していますが、Jリーグは衰退なんてしていません。J−1どころかJ−2もJ−3もどんどん人気上昇、魅力的な次世代選手が次々登場しています。ファッションブランドも世界にもっと打って出るべき、ただしそのためには先輩たちの失敗(海外では儲からない)は困ります。時代に合った海外戦略を持たねば危険です。政府支援で実現したJFWの新人デザイナー発掘イベントのひとつ40年前CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が東京コレクションを開始してからその責任者として私は若手デザイナーに「どんどん世界に挑戦しては」と励ましてきました。政府補助は全くありませんでしたが。政府の支援によってCFDからJFW(日本ファッションウイーク推進機構)に東京コレクションが移管され、約20年間今度はJFWコレクション担当理事としていろんな新人若手デザイナー支援を進めてきました。ありがたいことにJFW設立当初は政府支援がありましたから。これまでと同じやり方ではダメ、業務革新と意識改革せねば海外で野垂れ死するだけ。政府とメディア関係者にも、当事者のデザイナーとアパレル経営者にも米国ニューディール政策をしっかり勉強し、海外で成功するための戦略をしっかり立てて欲しいです。
2026.03.13

ニューヨーク五番街サックスフィフスアベニュー百貨店が集客が難しいはずの上層8階に高級婦人靴ブランドをズラリ並べた10022-SHOE売り場(10022は同店郵便番号)を作るというニュースを聞いたとき、百貨店フロア構成の常識を超えてはダメだろう、正直そう思いました。Saks本店8階婦人靴10022-SHOEさっそく現地視察、「なるほどこの手があったのか」でした。数台のエレベーターの1基を8階直通に設定、スムーズな集客は可能でした。エレベーターを降りたらワンフロア全部ハイエンド婦人靴、クリスチャンルブタン、ロジェヴィヴィエ、ジミーチュウ、セルジオロッシ、プラダ、グッチ、フェンディなどマロノブラニク(当時バーグドルフグッドマンが独占販売)以外の主だった婦人靴ブランドが揃っていました。午前10時の開店直後からいかにもお金持ちという中南米系女性が靴箱をいくつも積み上げソファに座って試着、その光景は圧巻でした。「ハイエンド婦人靴の時代が来るな」と思いました。それからすぐパリ、ロンドンでもサックスのような巨大高級婦人靴売り場が続々誕生、バーグドルフ、バーニーズらニューヨークの競合店も既存の高級婦人靴売り場を大きく拡張しました。3枚ともSaks10022-SHOEサックス視察直後、百貨店課長に宿題を出しました。美しいピンヒールを手がけている高価格帯婦人靴を一気に導入しよう、と。すでに日本法人があったジミーチュウとはすぐに交渉、クリスチャンルブタンにはジャパン社設立を持ちかけて日本1号店を作ってもらう、ロジェヴィヴィエとマロノブラニクとは時間をかけて交渉することに。昔から海外生産の靴を輸入するにはクオータ(割り当て輸入枠)が義務付けられているので百貨店が海外ブランドを買い付ける場合は国内靴問屋かクオータを持っている商社を経由するしかありません。ルブタンジャパン社を設立するにはパリ本社との交渉のほかクオータをしっかり持っている日本企業の協力を得なくてはなりませんでした。クリスチャンルブタンに特別入れ込んだ理由はそのクリエイティブなデザインだけではありません。靴エッジのギリギリに極細ステッチで丁寧に縫製する優れた仕事、そして別注商品のミニマムが少量から受け付けてもらえることも大きな要因でした。クリスチャンルブタンのプロモーションところが、多くの日本企業はユニークなデザインが多く価格の高いクリスチャンルブタンは日本で簡単に売れそうもない、となかなか賛同を得られず交渉は難航しました。やっと輸入ブランド業アオイ(かつてフェンディやブルガリの日本代理店)が賛同してくれ、ジャパン社新設と1号店オープンの話がまとまりました。社内ゼミでバイヤーたちにマーチャンダイジングの基本を指導してきた私は常々「誰に、何を売るのか順番を間違えるな」と言い続けてきました。既存の富裕層のお客様を想定顧客にするなら商品分類はせいぜい7センチほどのヒール、ファッション好きな若い女性のように11センチハイヒールではないだろうとバイヤーは判断、7センチヒール中心に発注。私もその仮説に賛同しました。赤い靴底のクリスチャンルブタンクリスチャンルブタン日本1号店@松屋銀座しかしオープンしてびっくり、11センチのハイヒールが飛ぶように売れたのです。ルブタンのトレードマーク赤い靴底をチラリ見せたいという心理もあってか、この売れ筋傾向が続けば11センチヒールはすぐ欠品しそう、バイヤーは慌てて追加発注しました。みんなが考えた仮説、「誰に=うちの富裕層お客様」、「何を=極端に高いヒールではないパンプス」は間違ってはいませんが、他店のルブタンファンが多数ご来店とは想定外でした。クリスチャンルブタンが自らのブランドを立ち上げる前に修行したメゾンはロジェヴィヴィエ、前述しましたがイタリアのTODSがヴィヴィエさんが亡くなって同社を買収しブランド再興しました。ルブタン1号店の次はヴィヴィエ都内1号店、TODS本社とは2年がかりの交渉の末に実現しました。ロジェヴィヴィエ@松屋銀座ジミーチュウ、クリスチャンルブタン、セルジオロッシュ、ロジェヴィヴィエ、そしてマロノブラニクと順次ショップをオープンしたあとのニューヨーク出張、ここで思いがけないスタイルの女性たちをたくさん見かけました。ヴィヴィエやルブタンの高価なスニーカー(当時は日本円換算15万円以上)にルルレモンのピタピタフィットのヨガパンツ姿、この格好で出勤する女性も増えていると友人から教わりました。近未来日本も上質ピンヒールから高価スニーカーに主役の座が移る、そんな予感がしました。あれから数年後、ハイエンド婦人靴ブランドのショップでは美しいピンヒール需要は減少、ニューヨークのようにスニーカーの時代が到来しました。世の中ファッション全体がカジュアル化しているからでしょう。ヨガパンツに高級スニーカー姿で出勤する日本の女性はまだ多くはないでしょうが、ハイエンド婦人靴売り場の主役は完全に装飾性あるスニーカーになりました。ロジェヴィヴィエクリスチャンルブタンその後もずっと既存のハイエンド婦人靴に肉薄あるいは追い越しそうな次世代婦人靴ブランドを探してきましたが、なかなか現れません。人気ファッションブランドとナイキなどのスポーツブランドとのスニーカーコラボは急増していますが。これはコスメの世界でも同じ。MACやボビーブラウン、NARSなどコスメアーティスト系が人気急上昇してからもう20数年、トップブランドを追い越しそうな次世代コスメブランドはなかなか登場しません。サックス本店に婦人靴10022-SHOEが誕生しておよそ20年、婦人靴の世界にも時代に合った魅力的なデザインをするニュースターがそろそろ現れて欲しいですね。
2026.03.09

ニューヨークに渡って1年目だけロングアイランドの北岸ポートワシントンに住んでいました。マンハッタン7番街33丁目地下ペンシルべニア駅から出ているロングアイランド鉄道ポートワシントン線で約50分、駅を降りるとすぐ海岸線が広がり、プライベートヨットクラブや公営船着場が連なるのどかな町でした。途中駅には「華麗なるギャッツビー」の舞台となったエリアもあります。終点ポートワシントン駅のふたつ手前が高級住宅街マンハセット、ここには全米で最も古いアメリカーナショッピングモール(通称ミラクルマイルに所在)があります。現在ここにはシャネルやエルメスはじめラグジュアリーブランドのお店がたくさん並びますが、このモールの発展に最も寄与したセレクトショップがHershleifers(ハーシュレイファーズ)、そもそもシャネル、プラダ、アルマーニなどを展開してきた高級店です。近隣富裕層に人気のハーシュレイファーズ百貨店の若手社員を引率してニューヨーク研修に出かけた際、郊外に住む東海岸富裕層の住居とこの高級モールを見せようとチャーターバスで立ち寄りました。このときハーシュレイファーズでたまたま履いてみたのがTODSのドライビングシューズ、足に全く圧を感じないまるで足袋を履いているような靴でした。少年時代サッカーに夢中だったので私の右足の甲は腫れあがったまま、左右形が違うので靴選びにはずっと悩まされてきましたから足を包むようなドライビングシューズにすっかり魅了されました。足を圧迫しないドライビングシューズそれ以来海外出張するたび足が痛くならないTODSを買い続け、いつの間にか100足以上のコレクションになっていました。同型色違いもあれば、全く同じ型で同色を数足ってことも。TODSがフランス婦人靴ロジェヴィヴィエを買収して再興、このブランド導入交渉で出会ったTODS三代目ディエゴ・デッラヴァーレ会長に「日本でTODSの一番の顧客は私。私のコレクション写真を送りましょうか」と言ったくらいです。コインローファーは何足も手元に「そんなに好きなら今度ぜひイタリアの本社工場に来てください」と会長がおっしゃったので、私はイタリア半島東部マルケ州の小さな町を訪ねることに。パリコレ出張を3日早め、ドイツミュンヘンを経由して小型機でマルケ州アンコーナ空港に降りました。本社工場の外観はまるで美術館のよう、庭に植えられたたくさんのオリーブの樹は丁寧にカットされて人の顔オブジェ、敷地内には従業員のお子さんのために幼稚園、親子がランチをとる社員食堂はレストランのような様相、親子に無料で提供されるランチのモッツァレラチーズの大きさはすごかった。従業員思いのなんていい会社なんだと思いました。TODS本社本社敷地には従業員のために幼稚園本社工場で60年ほど働くベテラン社員トニーさんがバッグや靴に使う各種動物の革や靴づくりには欠かせない多数の木型を見せながら、ものづくりの詳細を説明してくれました。このとき初めて教わったのは、TODSは欧州市場、北米市場向け、アジア市場向けそれぞれ木型を替えて生産していること。北米用は欧州向け標準形より甲が低く、アジア向けは甲を高くしている、と。この話で合点がいきました。私が米国出張時にTODS店に立ち寄るとなぜかパリよりもワンサイズかハーフサイズ大きめの靴を買っていました。アメリカ人の多くは足の甲が低いので甲が低い北米木型だったのです。店頭で靴を履くと甲が当たって痛いので私は大き目サイズをいつも買っていたんですね。右足の甲が腫れている私は北米木型ローファーを買ってはいけなかったのです。トニーさんから教えてもらって以降、私はアジア木型の靴を販売する日本国内ショップでTODSを買うようになりました。パリ路面店の方が価格は日本より安いんですが、木型の話を聞いた以上もう海外店では購入しなくなったのです。TODS傘下のロジェヴィヴィエ販売員に私の体験を話したら、木型のことはご存知ありませんでした。ロジェヴィヴィエもTODS本社工場で製造していますが、もしもロジェでもアジア木型を使っているならばセールストークに使えます。欧州木型の婦人靴をヨーロッパ旅行の際にお求めになるよりアジア木型の靴の方が日本人のお客様にはフィットします、と。ロジェヴィヴィエ展示会にて欧米ラグジュアリーブランドの中には元々洋服中心からフルラインに発展したケースもあればバッグ中心から発展したところもあります。概して洋服出身ブランドの靴はいくぶん履き心地が悪いようにも感じます。実際「足が痛くなった」とお客様から不満の声が出るブランドも中にはあります。全てのラグジュアリーブランドが日本市場に合わせた木型で生産してくれるとフィット感は良くなるんですが。その点靴からビジネスを広げたブランド企業は足のフィットに配慮して作っているので靴は安心。でも、あれほど買い続けた私でもいまは革の靴は敬遠、もっと楽チンなスニーカー愛用者になってしまいました。生活価値観って年齢とともに変わりますね。
2026.03.07

このBLOGの交友録でご紹介してきた方々のほとんどは私よりも年長、ファッション流通業界でも比較的知名度のある先輩たちですが、今日は私よりずっと若い元部下、高橋直子さん(旧姓飯田)のことを書きます。かつて日本橋堀留町界隈には織物販売会社がたくさんありました。京都の室町、東京の堀留、伝統のキモノ卸売から次第にビジネスの軸をテキスタイル事業に移して大きくなった会社がいくつもありました。が、いまはその多くが廃業あるいは倒産、かつての堀留の面影はありません。その堀留の織物商組合で後進にテキスタイルの基礎を実学形式で教えていたのが野末和志さん、ファッション専門学校や大学でも指導されていました。その野末さんから紹介された女子大生、それが高橋さんです。彼女は大学卒業後ロンドンに留学、そして私が経営者だったブランド企業に新卒入社しました。留学経験者ゆえ海外事業部で長く活躍しました。同じ職場の男性と結婚、二人のお子さんにも恵まれましたが、お子さんのひとりは身体の一部に障害があって母親のサポートは不可欠。幸か不幸かコロナウイルスの数年間は自宅リモートワークだったので側にいられましたが、通常勤務に戻るとお子さんに十分寄り添う時間が取れず、残念ながら退職しました。野末さんが長年応援しているテキスタイル見本市「テキスタイルネットワークジャパン展」の視察時に私は久しぶりに彼女とバッタリ、そこで退職に至った経緯を告げられました。その後我が子にも着れる子供服ブランドを立ち上げたいと相談がありました。ものづくり部署ではなかったので、私は独立してものづくりに携わっている元部下たちを紹介しました。やがて子供服ブランドzutto matsurikaを立ち上げたと連絡があり、数日前には品川区創業支援事業の補助を受けて武蔵小山駅前の路面スペースで販売開始しますとメールがきました。新卒採用した元部下が家庭の事情もあり思い切って起業、区の補助を受けて小さな売り場を確保できたというので、私は初めて東急目黒線武蔵小山駅下車、路面店に向かいました。午前中とは連絡したものの正確な時間は伝えてなかったのに、律儀な彼女は表で私が来るのを待っていました。品川区小山3.27.5 (駅から徒歩2分)品川区が提供するポップアップスペース、武蔵小山ゆえ「MUSAKO HOUSE」という名称。この小さなスペースをほかに2人の女性たちとシェア、開店時間から閉店時間までずっと店頭に立てない事情がそれぞれにあります。ひとりは午前中自宅で洋菓子を仕込み、お昼頃からここで洋菓子を販売しています。高橋さんはお子さんが帰宅する前にはどうしてもおうちに戻らなければなりません。3人で協力し合って交互にここのお留守番と接客する仕組みです。開店時間直後でまだお客様もいなかったので、高橋さんとはいろんな話をしました。ネット時代のブランドビジネスは卸売主体ではなく、ネット販売も含めて小売を軸にすべき。小売なら直接お客様からいろんな意見も聞け、代金回収は確実。ネットのお陰でかつてのようにショップを目抜き通りに構える必要はなく、裏通りでもビルの上層階でも集客できる。その好例がミナペルホネン、南青山スパイラル5階Call店の衣食住をトータルに提案する方法は参考になります、と。また、前日「FABRIC NIPPON展」に参加していた村松啓市デザイナーが主宰する知的障害者らの手編み機ニットプロジェクト「AND WOOL」のことも説明、その活動がどんどん拡大している話をして村松さんにコンタクトしてみてはとアドバイスしました。さっそく高橋さんから村松さんとコンタクトが取れ近々彼自身のブランドmuucの展示会にお邪魔しますと連絡ありました。村松さんのAND WOOL活動と何か新しい試みが生まれたら良いなと思います。高橋直子さんと社長退任してからもう随分時間が経ちますが、これまで何人もの元部下たちの相談に乗ってきました。「退職しようか会社に残ろうか悩んでいます」の進路相談、「バイヤーさんを紹介してもらえませんか」、「ポップアップできそうな小売店はないでしょうか」、高橋さんのように「新しくブランドを立ち上げたいんですが」など相談内容はさまざま。先日もかつて新卒採用した元部下から突然SNSにメッセージをもらいました。退任してかなり時間が経過していても声をかけてくれる元部下がたくさんいるのは本当にありがたいことです。私のアドバイスが少しは役に立ってそれぞれの道で活躍してくれるといいなと思います。zutto matsurikaはお子さんのために子供服から始まりましたが、親子お揃いで着られるよう最近は大人女性服も手掛けています。「私は専門的なファッションデザインの勉強をしていないので」と彼女は謙遜しますが、「コムデギャルソンの川久保玲さんだって最初は旭化成の一般社員だよ」。専門的な勉強をしていなくても努力すれば素敵な商品企画は無理ではないので頑張れ!、と言って帰りました。まだ世に出たばかりの小さなブランドですが成長を期待しています。ブランドサイトはこちら↓https://zuttomatsurika.com/
2026.03.06

政府の言うことに従わないから名門大学への補助金を止める。突然同盟国にも一方的に高い関税を通告する。地球温暖化対策のパリ協定やWHO世界保健機関からは脱退。昨年はイラン核工場のピンポイント攻撃、直近ではベネズエラ電撃作戦で大統領を拉致しました。何をやらかすわからない大国の大統領、今度は核武装問題を交渉していたイランを一気に空爆して最高指導者ハメネイ師を殺害、中東は戦争状態に入りました。いかなる理由があろうとも政治には何の関係もない小学生が米軍とイスラエル軍のミサイル攻撃によって学校内で多数死亡するなんて状況は許せない。遺族の心の傷はずっと残り、憎しみは消えることはないでしょう。911のような米国本土への報復テロが近未来起こらなければいいんですが....。最高指導者を殺されたイランは湾岸諸国にある米国大使館や米軍基地を報復爆撃、さらにはホルムズ海峡を封鎖、世界経済は混乱状態に陥り日本の株式市場は急降下。日本のメディアは原油の出荷が止まるからガソリン価格が上昇するとマイナス要因ばかり報じますが、こうした報道に私はちょっと違和感を感じます。それは前職で中東に出張した際に現地政府関係者からいろんなことを教わったからです。ご存知ようにアラビア半島の大半は砂漠、ここでは農産物の自給は難しいし食糧確保は湾岸諸国にとって最重要問題。そこでサウジアラビア、クウェート、カタール、アラブ首長国連邦、バーレーン、オマーンの湾岸6カ国の政府系投資機関が連携して日本の高度な農業技術を導入、農産物や卵、食品の生産を促進するプロジェクトを何本か立ち上げたいと私たちに相談がありました。この農業プロジェクトへの投資交渉で現地視察したとき、湾岸諸国の政府系投資会社の幹部たちから何度も聞いた話が「オマーンの地政学的存在価値」でした。オマーンは遠く離れた日本の私たちにはあまり馴染みのない国ですが、湾岸6カ国の中で唯一外海に面した国、つまりアラビア半島の国々の玄関口なのです。アラブ首長国連邦の「プリンス」たちと記念撮影湾岸諸国の住民はアラブ人、アラビア語を話します。隣国でもイランはペルシャ人、ペルシャ語です。人種も言葉も違えば文化、風習、価値観も違います。イランは湾岸諸国にとっては異邦人なんです。もしもイランが暴れたら、ホルムズ海峡は通行不能になってペルシャ湾の航行はマヒ、湾岸諸国の海上サプライチェーンは狂います。その場合アラビア海に面するオマーンの存在が意味を持ちます。外海に面するオマーンを経由すれば、湾岸諸国は輸出も輸入も可能、アラビア半島内の陸上輸送はおそらく支障ありません。出張時のミーティングで湾岸諸国政府系の皆さんが共通して口にしたセリフ「オマーンの地政学的価値」、遠い日本に住む私たちはほとんど意識したことはなかったけれど、地図を見ればなるほどと納得できます。首都マスカット(恥ずかしながら出張で私はその名前を初めて知りました)郊外の立派なホテルに宿泊したとき、裏庭の目の前には海が広がり、ここで地政学的価値は理解できました。部屋のドアの前に大嫌いなヤモリがウヨウヨいることだけは理解できませんでしたが。首都マスカットの中心地にある市場郊外のホテル裏庭の目の前は海サウジアラビアでは砂漠の強い日差しを利用した太陽光発電システムをドイツが協力していると聞きましたが、最大の産油国でありながら地球環境のため太陽光発電で電力供給しているという話はちょっと意外です。砂漠ゆえに肥えた農地が少なく農産物の生産向上は各国共通の重要課題、ここに技術がある日本が積極的に協力できれば日本と湾岸諸国の関係はより強固なものになる。それを実現するためのオマーン出張でした。アメリカ、イスラエルのイラン空爆以降、日本の主要メディアは一斉にタンカーが自由に航行できなくなる、原油輸入が止まる、ガソリン代が高騰する、日本の備蓄は何日あるとネガティブな報道ばかりで一般国民の不安を煽ります。もちろんホルムズ海峡封鎖で世界経済は混乱しますが、オマーンの地政学的存在価値を詳しく報じる日本のメディアはほとんどありません。内陸クウェート辺りからオマーンの海岸まで原油パイプラインはまだ完成していないようですが、イランがホルムズ海峡を封鎖しても物資は陸上輸送でオマーンまで運べばなんとかなります。湾岸6カ国の利害は共通していて関係はかなり密接、そういう報道はあまり見かけません。湾岸諸国に特派員を派遣する日本のメディアは少なく、中東事情に詳しいジャーナリストや専門家は他の地域に比べると決して多くありませんから日本に届く情報は偏りがちだと思います。しばらくイランの報復と米軍イスラエル軍のイラン空爆は続くのでしょうが、日本のメディアには戦況とネガティブな経済解説だけでなく、湾岸諸国の協力体制や政治的背景についてもわかりやすく報道して欲しいです。そして、1日も早く中東に平和が訪れることを願います。
2026.03.05

あれは2007年春だったと思います。ロンドンのセントラルセントマーチンズ校とアントワープ王立芸術アカデミーを卒業したばかりの若者たちが私のオフィスを訪ねてきました。帰国して日本でブランドを立ち上げたい、そのプレゼンの相談でした。当時私はJFW(日本ファッションウイーク推進機構)三宅正彦理事長に頼まれて理事・コレクション実行委員長としてかつて自分が手がけたCFD(東京ファッションデザイナー協議会)から移管した東京コレクションのお手伝いをしていました。ファッションショーをするデザイナーを陰からサポートする立場、でも「ファッションショーなんてやらずにもっと面白いことやりなさいよ。資金は用意するから」と伝えました。自分たち日本人だけでなく、ヨーロッパの新人デザイナーコンペでよく顔を合わせる外国人も一緒にイベントをやらせて欲しいと言うので、「いいじゃない、協力するよ」と承認、「ヨーロッパで出会った新人たち」というタイトルのミニ展覧会開催が決まりました。会場はJFW開催中たまたま企画展がなくて空いていた21_21 DESIGN SIGHTにお願いし、鉄道のコンテナを搬入しブランドごとにその中で個性的な空間を演出してそれぞれの服を見せるという構想になりました。1週間の会場費やコンテナ代などはJFW側で負担しますが、広報宣伝用ビジュアルを新たに写真撮影し制作する予算までは出せません。そこで彼らに何か使える写真はないか尋ねたら、リトゥンアフターワーズの山縣良和さんがセントマーチン卒業時に作った写真を見せてくれ、「これで行こうよ」、と。ところが画像が粗くて大きく拡大するには耐えられない写真、なので小さめのポスター(下の写真)を制作するしかありませんでした。山縣良和さんの卒業コレクション写真でビジュアル制作開催会期は東京コレクションに合わせて2007年8月30日から9月5日までの7日間、参加ブランドは6つ、デザイナー数は11人、日本人以外に台湾、ドイツ、イスラエル、グルジアのセントマーチンズ及びアントワープの卒業生でした。以下は台東デザイナーズビレッジのホームページに掲載された展覧会後の展示会案内の抜粋です。●HUI-HUI (フイウイ)Designer: Anne Schwatzler (ドイツ)/ Katharine Trudzinski (ドイツ)/Johanna Trudzinski(ドイツ)2002年にハンブルグでファインアートを学んでいたアンとカタリーナそしてアントワープ王立アカデミーでファッションデザインを学んでいたヨハナがHUI-HU (フイウイ)をスタート。生活の中を彩るというコンセプトを持ち、ファッションという枠にとらわれない自由な発想でコレクションを表現している。ドイツ、オーストリア、日本などでのエキシビジョンをはじめ、様々なデザインプロジェクトに参加している。HUI-HUI●MIKIOSAKABEDesigner: 坂部 三樹郎 / Shueh Jen-Fang(台湾)坂部 三樹郎2002年ー2006年 アントワープ王立芸術アカデミーファッション科主席卒業 2007年2月 PARISコレクションにプレゼンテーションの形で公式参加。日本とヨーロッパで発表を続け、将来的に新しい世代の日本人デザイナーとして世界に発信していくことを目標とする。Shueh Jen-Fangベルギー・ブリュッセルのアートスクール、ラ・カンプル在学時に坂部 三樹郎と出会い、一緒にMIKIOSAKABEを立ち上げるために来日。日本在住。MIKIOSAKABE●POESIE(ポエジー)Designer: AKIRA NAKA アメリカ留学中にリテイラーと出会い服飾を学び始める。アントワープ王立アカデミー在学中にイェール国際フェスティバルに参加。その後アントワープ在住のニットデザイナーに師事する。2007年ポエジーをスタート。POESIE●STEREOTYPES(ステレオタイプス)Designer: Helena Lumelsky (イスラエル) /Demna Gvasalia (グルジア)アントワープ王立芸術アカデミーで出会ったデムナ・グバサリアとエレナ・ルメルスキーが卒業後デザインデュオを組みステレオタイプスを立ち上げる。アカデミー在学中にイッツコンペティションでグランプリを獲得。紳士服メーカー、スキャバルのコマーシャルデザイン、ニューヨークのビジョンフラグメンツへのデザイン提供、アントワープ市モードエキシビションに参加。現在は欧州の大手メゾンのデザインディレクターとしてもその才能を発揮している。STEREOTYPES●TARO HORIUCHIDesigner: 堀内太郎14歳で渡英し語学を学んだ後、キングストン大学にて写真を専攻。21歳にベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーに入学。2007年6月に主席で卒業。ベーシックなガーメントに新しい美しさ、世界観を展開し将来的には服のみでなく生活全般におけるプロダクトも発表していきたいと考えている。TARO HORIUCHI●Writtenafterwards(リトゥンアフターワーズ)Designer: 山縣良和 / 玉井健太郎山縣良和:2005年セントラル・セント・マーティンズ美術学校ウィメンズウェア学科卒業。インターナショナルコンペティション『its#3』3部門受賞。ジョン・ガリアーノデザインアシスタントを経て、株式会社リトゥンアフターワーズ設立。玉井健太郎:2004年セントラル・セント・マーティンズ美術学校メンズウェア学科卒業。 マーガレットハウエル UK. マーガレットハウエル JP.メンズデザインを経て、株式会社リトゥンアフターワーズ設立。Writtenafterwardsこの展覧会でデビューした日本人デザイナーはその後それぞれの方法でクリエーション活動を続け、現在の東京ファッションシーンでは欠かせない存在になっています。さらに山縣さん、坂部さんは後進の指導のためデザイン塾を運営、そこから次世代デザイナーがどんどん巣立っていますからあのとき彼らに展覧会のチャンスを提供して良かったなあと思います。STEREOTYPES海外参加若手の中でグルジア出身デムナ・ヴァザリアさんはSTEREOTYPES(ステレオタイプス)デザイナーのひとり。そうです、バレンシアガでの活躍はみなさんご存知の通り。デムナはバレンシアガと同じグループのグッチに移籍、数日前ミラノコレクションでグッチ新作を発表しました。ショー最後にランウェイに登場したケイト・モスが背中丸見えのロングドレスを着ていたのでこの写真は広く世界に配信されました。正直言って、あの展覧会で作品を見たとき特別目立つ存在とは思えませんでした。私の目がふし穴なのかもしれませんが、日本人デザイナーの展示の方がはるかに面白かったと記憶しています。GUCCI 2026年秋冬グッチは米国人トム・フォードがコレクションを手がけて一時代を築きましたが、彼の退任以降デザイナーが交代するたびに彼が確立したグッチの世界は徐々に薄くなり、あのクールでセクシーなグッチはどこへ行ったのかと心配していました。が、新たにクリエイティブディレクターに就任したデムナは再びトム・フォードが作ったクールでセクシーなグッチに戻したような印象を受けました。ランウェイで観ていないのではっきり断言はできませんが。あのミニ展覧会に参加したほかの外国人デザイナーのその後は分かりませんが、あのときの新人のひとりが世界が注目するビッグブランドのデザイナーとして華々しく活躍しているのはちょっと嬉しい。デムナのグッチ、SNSを見る限りでは賛否両論あるようですが、これからもトム・フォードのグッチ世界観を守りつつ新しいコレクションを続けて欲しいです。<関連サイト>https://www.rakutenfashionweektokyo.com/archive/2007_2/jp/report/europe.html
2026.03.03

CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立したとき、霞が関からも経済界からもしっかりした組織にするため社団法人化を考えみてはと勧められました。しかしエゴの強いデザイナーがメンバーの組織はいつ仲間割れするかもしれないし、どことも組まずにずっとニュートラルな立場でいたかったので「みなし法人」のまま運営しました。(最近社団法人にしたようですが)一方、パリコレの主催団体の通称サンディカは19世紀末から続くフランスオートクチュール協会内の部門、協会メンバーには既得権意識があり政治色を若干感じました。それを感じたのは東京パリ友好都市行事として1989年東京で開催されたモードフェスティバルFIMAT(主催者は東京都、東京商工会議所、社団法人東京ファッション協会、CFD)のときです。当時フランスはミッテラン政権が文化省中心に文化行政を積極的に進め、ルーブル博物館地下にファッションショーができる多目的ホールを数か所建設する構想があり、ルーブル博物館の一部に装飾美術館としてファッションやデザインのイベント開催する空間を持ち、映画のアカデミー賞授賞式のようなデザイナーを顕彰する華やかなイベントをオペラ座で開催。文化省のカウンターパートはオートクチュール協会でした。一方、社会党フランソワ・ミッテランと対峙するパリ市長ジャック・シラク氏はパリ市立モードミュージアムをわざわざ作り、シャンゼリーゼ大通りに長いランウェイをセットして一般市民向け大ファッションショーを開催、カウンターパートは婦人服アパレル工業組合でした。そのシラク市長が次のフランス大統領選挙に出馬する、しかもミッテランに勝利するだろうと言われてました。もしもシラク市長が大統領に就任すればミッテラン大統領寄りだったオートクチュール協会は微妙な立場になる可能性があります。そこで、オートクチュール協会を預かるジャック・ムクリエ会長(理事長はサンローラン社長ピエール・ベルジェ氏)は万が一のためシラク市長に急接近したようです。パリと友好都市関係にある東京でシラク市長らが進めてきた大ファッションイベントを開催しよう、と。パリコレ会場でたまたま臨席だったムクリエ会長からフランス訛りの聞き取りにくい英語でこう話しかけられました。「これまで私たちは日本人デザイナーのパリコレ参加に協力してきた。今度は日本が我々に協力してくれないか」と。その目的は単純にパリモードをもっと日本市場で広めたいのだろうくらいの解釈でしたが、違いました。次の大統領選挙を睨んで、当選が予想されるシラク市長に急接近するためのディールの1つでした。文化省(ジャック・ラング大臣)に近いオートクチュール協会はミッテラン落選の場合の保険として東京でのモードフェスティバル開催を持ち掛け、しかもショー演出はシラク選挙キャンペーンのイメージディレクターであるM氏を起用、忖度ですね。多くの日本人デザイナーがサンディカ公式及び非公式スケジュールでパリコレ参加しているのは事実、いろんな意味でオートクチュール協会のお世話になっています、簡単に拒否というわけにはいきません。かと言って大きな予算のイベントをみなし法人のCFDが背負い込むのは無理。ムクリエ会長には東京商工会議所傘下の東京ファッション協会(五島昇東京商工会議所会頭が会長)に相談するよう勧めました。FIMAT(東京モードフェスティバル)パリ市は東京都と、オートクチュール協会は東京ファッション協会と話し合い、モードフェスティバル東京開催が決定、CFDは東京ファッション協会の提案で共同主催者に入り、私が現場責任者になることが決まりました。当初予定した会場は完成間近の東京ドーム、総予算8億円のうち東京都から2億円の補助が出るという話でした。ムクリエ会長は事前にフジテレビに働きかけて特別協賛の約束を取り付けていましたが、日本側が資金を出し東京で開催するイベントを全てフランス側に仕切られてはいかがなものか、私はあえてムクリエ会長が根回ししたフジテレビではなく電通が連れてきた日本テレビに協賛をお願いしました。構成演出打合せのためにフランスからイメージディレクターM氏が来日。有力な大統領選候補シラク陣営のディレクターでありオートクチュール協会のお墨付きもあるからでしょう、我々には上から目線の態度、お金のかかる要求を次から次へと出してきます。電通は現場の仕切りをSUNデザイン研究所に依頼していました。SUN所長大出一博さんはあまりに態度がデカいM氏に腹を立て、私に「早くあいつを切れ」。が、パリ東京友好都市イベント、私の口からクビとは言えません。「俺からクビと言ったら外交問題になります。相手がやってられないから手を引くと言うまで待ちます。絶対に言わせてみせるので待ってください」と返しました。来日スケジュール最終日の深夜ミーティング、赤坂プリンスホテルのバーだったと思います。フランス人M氏は自ら「手を引く」と発言、待ってましたとばかり私は「ご縁がなかったですね。さようなら」と言いました。2日後オートクチュール協会ムクリエ会長からFAX、緊急会議をパリでやりたいので来てくれ、私はパリに飛びました。オートクチュール協会オフィス、私の目の前でムクリエ会長はM氏を怒鳴りつけ、日本側の支配下で仕事するとこの場で約束しろと命じました。私はM氏に「日本の資金、東京で開催、だから私がボスです。日本のチームと仲良く仕事してください」と伝えました。8年間ニューヨークでシビアなユダヤ人に囲まれて仕事してきた経験がこの場面で活きました。こうして仕切り直しをすませ、東京ドームで初の大ファッションショーの準備が始まりました。が、ここで大試練、なんと天皇陛下がお倒れになり、政府筋から得た情報では万が一ご逝去ともなれば派手なイベントは全部中止。その場合寸前までにかかった制作経費に対する保証は一切ない。特別協賛日本テレビ、代理店電通とはギリギリまで様子を見ようとなりましたが、昭和天皇の容体は一向に良くなりません。私はここまでに出費した制作費を集計、万が一政府からイベント中止命令が出た場合に出るであろう損失を計算、作業の継続はあまりにリスキーと判断してFIMAT実行委員会坂倉芳明会長(三越社長)と福原義春委員長(資生堂社長)に現場プロデューサーとして中止を提案しました。翌日坂倉会長から東京都知事に中止報告、東京都からパリ市に使者が派遣され、事情説明してもらいました。こうして東京ドームでの大ファッションショーは幻となったのです。1989年1月昭和天皇ご崩御、年号が平成に。当初は派手なイベントは自粛でしたが、世の中が落ち着いた頃に再びFIMATをという話になって会場規模を縮小して日本武道館で開催しました。このイベントに参加するため当時大人気のジャンポール・ゴルティエさんも来日してくれました。このときは演出家M氏ではなくSUNデザイン研究所が演出から制作まですべて仕切ってくれました。大出さんと一緒に仕事をしたのはこれが初めてのことでした。余談ですが、オートクチュール協会が心配した1988年の大統領選挙、大方の予想を覆してミッテラン大統領が再選されました。構想通りルーブル美術館地下に多目的ホールが完成、1994年3月パリコレから主会場となりました。しかしながら同じ共通会場を嫌がるデザイナーたちが多く、パリコレ会場として使用されたのはほんの数シーズンだけ、いまここでショーを開催するデザイナーはほとんどいません。
2026.02.28

大出一博さん(1942-2023年)は栃木県生まれ、野球の江川卓で有名な作新学院からスポーツ推薦で強豪国士舘大学柔道部に入りました。国士舘柔道部はオリンピックのメダリストを多く輩出する名門、全国各地から高校柔道で活躍した有望選手が集まってきます。柔道部の寮に入った大出少年は柔道の世界では軽量級、全国から身体の大きな重量級選手が多数入部、彼らに囲まれたらとても勝てるわけないと寮を脱走、スポーツ推薦ですから当然退学処分に。そして東洋大学柔道部に移りました。柔道部合宿所の寮長からいまで言うパワハラ制裁を受けたのでしょう、大学4年生のとき寮長と喧嘩して相手をぶん殴って再び退学処分、今度は法政大学に転校。大学時代に学校を3つも経験するとは稀有な学生でした。大出一博さん法政大学卒業後地元栃木県の建設会社に就職しましたが、どういうわけか心機一転上京してスタイリスト養成学校SUNデザイン研究所を設立。まだスタイリストという職業がまだ世の中で一般的でなかった時代ですから先見の明があったと言えますが、硬派の柔道少年がスタイリスト養成とはちょっと意外ですね。私は学生時代に学校の枠を超えてファッションマーケティング集団を主宰していましたが、このとき仲間のひとりがSUNデザイン研究所生でした。彼女は一般消費者対象のファッションショー有料チケット(当時はよく販売してました)を友達に販売していました。1970年代中頃デビュー間もないイッセイミヤケやカンサイヤマモトなどショーの制作を担当し、研究所の学生をモデルの着替えを手伝うフィッターに派遣、まさに実務教育おん先駆者でした。のちにファッション専門学校大手の文化服装学院がスタイリスト科を創設するとスタイリストの育成は同学院に委ね、SUNデザインはスタイリスト養成事業を止めてファッションショーやイベント制作に専念することに。大出さんは文化服装学院で長く講師を務め、同学院スタイリスト科やその上級クラス3年制の流通専攻科から新卒者を多数採用していました。余談ですが、うちの息子は高校卒業時「将来大出一博になりたい。そのためには文化服装学院流通専攻科を卒業しないとSUNデザインには入れない」と文化服装学院進学を希望。小学生のとき大出さんに会って感化されたからでした。高校時代に頭を金髪に染め、夜中に抜け出しては連日喧嘩ばかりしていたヤンキーは目標とする大出さんの言うことには忠実でした。「文化に入ったら絶対喧嘩するんじゃないぞ。もし喧嘩して騒動になったらオヤジとオヤジの会社に迷惑がかかる」と釘を刺され、1年間は挑発に乗らずじっと我慢していたようです。が、1年生の最後私がパリコレ出張中に事件は起こりました。下町育ちで腕に覚えのある文化の学生から深夜隅田川の橋のたもとに呼び出され、のこのこ出かけました。相手は下町の少年が数人、呼び出した少年は息子の一撃に失神、救急車とパトカーが本所吾妻橋に駆けつけて大騒ぎに。出張中の私の携帯にショートメール、「オヤジ、やっちゃった。呼び出したのは向こうだから正当防衛だよ」。帰国した私は1年間数々の挑発に耐えてきたことを知っているので「ここまでよく我慢したな」、叱りはしませんでした。この一件で呼び出した少年側から慰謝料を請求され、なぜか息子だけが自主退学処分に。呼び出した学生の責任は問われず、喧嘩両成敗じゃないのかと私は思いましたが....。このとき大出さんからSUNに来いと誘われましたが、息子はもうちょっと勉強したいからと目白デザイン専門学校に転校、卒業後はニューヨークに渡りました。これも将来音楽に強いファッションプロデューサーになりたいという思いからでした。隈研吾さん設計の葉山文化園ちょうどその頃、大出さんは華やかなファッション界とはひと区切りつけ、高度情報化社会ゆえにもっとヒューマンな人と自然を繋ぐ活動をしたいと葉山文化園に打ち込んでいました。「ゴルフ場にクラブハウスがついてゴルフ会員権を販売しているように、有機栽培農場にクラブハウスを建てて会員制サロンを作る」と。パソコンとネット社会だから人と人の関係はどんどん希薄になる、もう一度自然に触れて人間性を取り戻そうと熱っぽく構想を語ってくれたことを思い出します。場所はヨットクラブが軒を並べる神奈川県三浦郡葉山町、前述の北山孝雄さんが建築業者を手配し、隈研吾さんが設計した宿泊できるクラブハウスを建て、広い有機栽培農場を借り、ファッション流通業やメディア経営者たちを会員に葉山文化園はスタート。ここで葉山文化塾を開講、会員でもある名だたる経営者たちがゲストスピーカー、企業の中堅社員を対象に少人数でじっくりゲストの話を聴いて一緒に夕食する贅沢な研修プログラムも始まりました。三宅デザイン事務所創設者小室知子副社長、ワイズフォーリビング林五一社長、シャネル日本法人リシャール・コラス社長、資生堂池田守男社長、伊勢丹武藤信一社長、オンワード樫山廣内武社長、トリンプ日本法人吉越浩一郎社長、米国ブランドセオリーを手がけたリンクセオリーホールディングスの佐々木(リッキー)力さん、心臓外科の名ドクター須磨久善先生などメンバーは多士済々。作詞家阿久悠さんや映画監督篠田正浩さんもここでそれぞれ体験談をお話しされました。少人数の葉山文化塾はここで開催ファッション関連図書が並ぶ居間私も会員の末席に加えてもらい、数回文化塾講師として呼ばれ、会社の部下たちを受講生として派遣、講師と密に交流できるので部下たちには好評でした。会員は年に一度農場に集まり、自ら鍬を持って畑仕事、その後はクラブハウスで収穫祭でした。息子はよく仲間を連れて畑仕事の手伝いに出掛けましたが、それがのちに有機栽培農場経営に転じることになった要因です。ヤンキー高校生が将来ファッションプロデューサーになりたいと文化服装学院に進学したのも、5年間ニューヨーク遊学で現地でDJをしていたのも、一度はファッション業界に飛び込んだものの有機栽培農業に転じたのも、全て大出さんの影響でした。建設関係の仕事からどういうわけか突然分野違いのスタイリスト養成校設立、ファッション黎明期のファッションプロデューサーとして高田賢三さんやユーベル・ド・ジバンシィさんらと深く交わり、ファッション史に残る数々のビッグイベント(以下4枚の写真)を手掛け、最後は「自然に帰ろう」と葉山文化園。スケールの大きな、そしてとんでもなく人脈ネットワークの広いプロデューサーでした。イッセイ+ケンゾー(毎日新聞社創刊110周年事業)コムデギャルソンとヨウジヤマモトの合同ショー「6・1 THE MEN」KENZO夢工場(フジサンケイグループ主催)
2026.02.27

2023年8月、予期せぬ電話を受け取りました。日本のファッション業界黎明期から長きにわたってファッションプロデューサーとして活躍したSUNデザイン研究所の大出一博さんの訃報でした。CFD東京ファッションデザイナー協議会設立時からアドバイザリーボードのメンバーとしてお世話になった、私には頼りになる兄貴のような存在でした。不健康なことはいっさいしないスポーツマンでしたから信じられないことでした。すぐこのブログに生前の親交と人物像を書きましたが、まだ訃報は一般に公開されておらず私の勇み足、慌ててブログを削除したので交友録70はずっと不記載のままです。あれから2年以上経過、そろそろ書いてもいいだろうと改めて熱血ファッションプロデューサーのことを記します。エイズ救済チャリティー時の大出さん(右)と私1985年5月私はニューヨークから一時帰国、恒例の繊研新聞ニューヨークセミナーの傍らデザイナー諸氏と相談しながらCFD設立準備に奔走していました。前月に開催された読売新聞社創刊110周年記念「東京プレタポルテコレクション」の特別アドバイザー久田尚子さんと小池一子さんに挨拶するようデザイナー諸氏に勧められましたが、同イベントの実質的プロデューサーだった大出さんに挨拶に行けとは誰も言いません。ジャーナリスト仲間にアポを取ってもらい、当時SUNのオフィスがあった代々木駅前に出かけました。ひょんなことからパリやニューヨークのようなファッションデザイナー組織を東京にも設立する話になり、どういうわけか自分がその準備をすることになったと経緯をお話しました。私の説明中はずっと黙ったまま、最後に「集めた情報と説明に誤差はないからあんたを信じよう。何がして欲しいのかはっきり言ってくれ」と言われました。そして、「怪文書やおかしな電話が飛び交っているのをあんたは知ってるか」と。怪文書が出回っているなんて初耳でした。日本の業界事情に疎いニューヨーク在住のフリーランスジャーナリスト(繊研新聞社とは契約通信員で契約していましたが)、しかもデザイナー諸氏より10歳以上若い男が突然現れたんですから、私のことを詮索する電話や誹謗中傷文書が出回っていたのでしょう。大出さんに言われて初めて怖い舞台裏を知りました。デザイナーの組織化を頼まれて2か月後の7月CFDは正式に発足、読売イベントのアドバイザーコミッティーだった久田さん、小池さん、大出さんに原由美子さんと三島彰さんを加えた5人がアドバイザーとなってCFDは活動開始。読売イベントを仕切ったSUNデザイン研究所の方たちからはいろんなアドバイスをもらい、舞台美術、音響、照明業者も紹介されました。読売新聞社主催イベントのポスター私はニューヨークコレクションを8年間取材してきましたが、ショーは招待状をもらって取材するだけ、自分がショーを運営した経験は一度もありません。全くのど素人、ベテランの業者スタッフになめられては困ります。なんといっても協賛企業なし、緊縮予算しか手元にありませんから。そこで読売新聞イベントに関わった業者は起用しませんでした。私が依頼したのは大きなテント会社ではなく成田市隣接の冨里町にある中小企業、舞台美術は主にスポーツイベントやコンサート会場設営を手掛けてきた会社、照明と音響はSUNデザイン研究所のライバル制作会社と親密関係にあったグループ、当然読売新聞イベントに関わった業者は面白くありませんし、大出さんの部下たちもメンツ丸つぶれだったかもしれません。SUNの部下から報告を受けた大出さんは「いまは黙ってろ。太田のやりたいようにさせてやれ」と言ったそうです。大出さんはCFDアドバイザーのひとりですが、業者選定に関して私に発言することは全くなかった。だから私は信頼しました。こうして1985年11月国立代々木体育館バス駐車場に300坪の大型特設テントを建てて第1回CFD主催東京コレクションを開催。渋谷区建築課や消防署に届けた入場人数は約800人程度でしたが、参加ブランドはとんでもない数の招待客を動員、2000人が入場したショーでは仮設の床が重さに耐えられず抜けたこともありました。最終日夜のイッセイミヤケのショー終了後、私はテント両サイドの出入口を封鎖して正面2つの出入口から観客を退場させるようスタッフに命じました。ここで血相変えて飛んできたのが大出さん、「サイドの扉を封鎖したら危険だろっ、やめろ!」。封鎖にはワケがありました。正面出入口には照明で照らされた大看板、ここに低予算でも協力してくれた施工業者の社名一覧を表記、観客にどうしてもこれを見せたかったと説明。大出さんは理解してくれました。ショーのど素人の私を初めて認めてくれた瞬間だったと思います。左から大出さん、北山孝雄さん、廣内武さん朝日、読売、毎日、フジサンケイグループなど大手メディアのファッションイベントもシャネルなど海外ビッグメゾンのショーもSUNデザイン研究所が制作していたので大出さんの人脈は半端ではありません。ジャンポール・ゴルティエを発掘したパリ在住の中本佳男さん、のちにオンワード樫山の社長を務めた廣内武さん、シャネル日本代表のリシャール・コラスさん、資生堂元社長の池田守男さんや電通の幹部たちなど、大出さんは次々私に紹介してくれました。ゴルティエの中本さんが一時帰国中に急逝した直後、大出さんは廣内さんと私を西新宿のレストランに呼び出し説教を始めました。仕事で宴席も多くタバコもたくさん吸う私たちに「酒もタバコも止めろ。中本みたいになったらどうするんだ、もっと健康に気をつけろ」、続けて「身体にいいから有機野菜スープを飲め」、中本さんのことがあったので説教は長かったです。その翌々日、私は出張先のニューヨークで体調異変、帰国してそのまま大病院で手術をしたので素直に有機野菜スープを飲み始めました。その次は田七人参粉末を飲む勧められ、私は言いつけを守って不味い中国産の田七人参をいまも飲んでいます。ひょっとして大出さんより私の方が長く飲んでいるかもしれません。CFDの運営を巡ってデザイナーらと揉めたとき、業界媒体に記事で刺されて悔しい思いをしたとき、慰めながら一緒に泣いてくれたのは大出さんだけでした。およそひとまわり年少の私を弟のように可愛がり、周囲から守ってくれ、仕事の面でいろんなアドバイスをもらいました。書きたいエピソードは山ほどあります。熱血プロデューサーの面白いエピソードを2つ、いずれもご本人から伺った話です。山本寛斎さんはよく黒装束姿でステージに上がって自らショーを演出していましたが、これには大出さんが関係しています。寛斎さんのパリコレ本番前日、現地レストランで会食していた大出さんと寛斎さんはどういう経緯か「表に出ろ」となって殴り合い、寛斎さんの顔は腫れ上がりました。翌日その顔でショーフィナーレに登場できず、寛斎さんは歌舞伎の黒子のような衣装を纏ってステージに登場したそうです。海外出張中に殴り合いの喧嘩、二人とも若かったんですね。もう一人は安藤忠雄さんの双子の兄弟北山孝雄さんとのエピソード。どういう経緯か知りませんが、大阪で有名なヤンキーだった元ボクサーの北山さんと柔道特待生で国士舘大学に入った大出さんが決闘に。それぞれ武器に自転車のチェーンと木刀を携えて待ち合わせ場所に行き、寸前のところで和解。以来ふたりは親友に。大出さんが葉山文化園を建てるとき北山さんはまだ無名だった隈研吾さんを紹介、考えられない低予算で建物は完成、まさに友情出演でした。大出さんは武闘派でありながらとても繊細なタッチのイラストを描く器用で不思議な人でした。日本のファッション業界黎明期に彼がプロデューサーとして手がけた多数のイベントによって多くの一般市民や学生がファッションショーを観て感化され、のちにデザイナーになった若者はたくさんいます。また文化服装学院スタイリスト科と流通専攻科では熱血講師として学生を指導しつつSUNデザインに多数正規採用、たくさんのプロ人材を育てました。顔の広いリーダーなのにご本人の遺志で大きな告別式はなく、お別れの会の類は一切ありませんでした。が、その存在は後世まで伝えたいです。
2026.02.26

コロナ禍以来健康のために1日1万歩を目標にできるだけ歩くよう心がけています。私は基本的に日曜日は安息日、ファッションショーや展示会など業界イベントにも出かけないようにしていますが、日曜日午後9時頃は寒かろうが雨天であろうが1万歩目指してご近所を散歩します。日曜日ちょうどこの時間帯は商業施設や百貨店で働く販売員が帰宅の途につく頃、散歩コースにあるコンビニ、ミニスーパー、弁当店から夕飯らしきビニール袋を下げて出てくる販売員らしき女性を頻繁に見かけます。彼女たちの装いは近隣の一般住人とは違うのですぐにわかります。丸1日店頭での接客に疲れ切って帰宅後夕飯を作る気力がない人も少なくないでしょうね。散歩中足取りの重い彼女たちとすれ違うたび「日曜日なのにご苦労様です」と声をかけたくなります。私がアメリカから帰国して日本の業界で働き始めた頃はバブル経済の真っ只中、ファッションビル、駅ビル、百貨店にはたくさんのDCブランドショップが並び、誰が名付けたのかは知りませんが販売員は「ハウスマヌカン」と呼ばれ、彼女たちのことを揶揄した「夜霧のハウスマヌカン」というヒット曲も登場しました。バブルが弾けてから、販売員の確保は一気に難しくなりました。新卒採用でも販売職志望は激減、販売員不足で中途採用の募集を求人誌に載せても人気ブランド企業でさえ悪戦苦闘、なかなか良い人材は集まらなくなりました。特に地方都市では深刻でした。アメリカのファッション業界と比べ日本の販売職の待遇の低さを感じ、私はことあるごとに販売員の処遇改善とキャリアアッププログラムの整備を業界に訴えてきました。自分がブランド企業の経営者になったとき、業務改革に最も力を入れたのは販売職の処遇と仕事のさせ方でした。「商品を売るだけなら自動販売機でもできる」とよく社内研修でも言いましたが、お客様が手にされた商品を売る受動的な仕事ではなく、意図的な発注を心がけ、みんなで販売計画を練ってどういうお客様に何をどれくらい売るのか能動的戦略的に仕事するよう指導しました。そしてブランドMDや販売促進担当は店頭事情に明るい人材の方が適しているので販売員を次々本社業務に抜擢。時間はかかりましたが総合職と販売職の処遇格差是正にも着手しました。また、店頭でユニホームとして着用する自社の服を社員割引で販売員が買うのが当たり前でしたが、売上を上げるためのツールを販売員個人が自己負担するのはおかしい、販売員の負担をなくしました。もちろん会社の商品が大好きで個人生活で着るため社員割引を利用するのは自由ですが、ユニホームを販売員に買わせてはなりません。このブログを始めた当初、地方にお住まいの見ず知らずのご婦人から突然メッセージが届きました。彼女の息子さんは都内有名私立大学を卒業後大手アパレル企業に入社、やっと仕送りから解放されたと思ったら、試着販売用の服を社員割引でたくさん購入しなければならず、給料から天引きされて手取りが極端に少ないので仕送りを続けて欲しい、息子さんが頼んできたそうです。「アパレル業界はどこも同じなのでしょうか、私には理解できません」とメールにありました。想像はつきますが他社のことなのでどうしようもなく、「少なくとも我が社はそんなこと社員にさせていません」と返信。いまでもこんなこと社員にさせてる会社があったら社名を公表しましょう。販売職を募集してもなかなか良い人が集まらない世の中なんですから、販売前線の雇用形態ももっとフレキシブルに考えるべきでしょう。私は部下の結婚式で新婦側主賓として挨拶するとき必ず言いました。「結婚しても定年まで働いてください。新婦が仕事を続けられるかどうかは新郎とお母様のご理解にかかっています。新婦がもしも新郎より遅く帰宅する場合、新郎が夕飯の支度をするか、お弁当を買ってください」と。ご自身も仕事しながら子供を育てたお母様は挨拶の後すぐに私にビールを注ぎに来てくれますが、専業主婦のお母様から無視されることもありました。結婚、出産しても働き続けるにはご主人の理解と協力、会社側が彼女たちが働きやすい環境を整えてあげないと無理。特にお子さんのケアをしながら女性販売員が働き続けるには周囲の理解がないと不可能、子育てから卒業するまで特別なマザーシフトも考えてあげないと難しい。子育て期間は早番勤務や早上がり、週末休みも容認してあげないといけません。相互理解が前提ですが裁量労働など雇用形態変更も考えてあげないと。先日小耳に挟んだこと。子育てのためマザーシフトで所得が減少しても良い、雇用形態変更でアルバイトも構わないから働き続けたいと希望する販売員の話。彼女の要望に対して「社員は平等であるべき」と人事部に却下され、退職しか選択肢はなかったという話、残念ですね。ひょっとするとその企業は人員削減中だったのかもしれませんが。かつてのように自社商品を着てお客様に「これ素敵でしょ」とお勧めすることしかできない販売員はプロとは呼べません。が、能動的に戦略的に仕事できるキャリアを積んだ販売員はもっと大事にせねばと思います。プロと呼べる販売員はそう簡単には育てられません、どんなに求人募集してもなかなか集まりません。結婚後、出産後も働く意志のある社員をちゃんと評価し、裁量労働など提案してでも引き止める、アパレル経営者にはぜひ考えて欲しいですね。
2026.02.25

私と銀座の付き合いは大学2年生のときから。地方の高級テーラーだったオヤジは取引先だった東京の輸入紳士服地問屋高橋商店に頼んで私を同グループ高橋洋服店(銀座4丁目晴海通りで現在も営業中)にアルバイトとして送り込みました。家業継承の修行ということでした。学生の私でも知っている有名政財界人がお客様のほとんど、ときには誰でも知っているプロゴルファーがタキシードの注文にふらりご来店、さすが伝統ある銀座の名店でした。学生時代お世話になった高橋洋服店(3階)https://www.ginza-takahashi.co.jp/高橋洋服店サイトのこの写真、中央の眼鏡をかけた方が4代目店主高橋純さん、当時まだ名門大学の学生でありながら日本洋服専門学校でもパターンメーキングを習っていたはず。銀座生まれの銀座育ち、あの頃からおしゃれな方でした。私はバイト先が老舗高級テーラーゆえ身なりを整えるためネクタイを買いに行ったのが、徒歩3分ご近所の松屋でした。当時銀座4丁目と3丁目を区切る松屋通りにあった普通のラーメン屋がランチをするお店、この界隈はラグジュアリー感はまるでなく、学生の私でもぶらぶら歩くのに気おくれすることはありませんでした。が、近年ビル改築とショップの入れ替えで銀座中央通りも松屋通りもマロニエ通りも大きく様変わり、学生にはちょっと居心地の悪いエリアになったかもしれません。銀座には地元商店街の約束事で「銀座ルール」があります。建物の高さ自主規制です。かつては地上8階建て相当の高さまで、現在は少し緩和され地上12階のビルが建設可能に。現在このエリアはビルの建て替え工事が増えました。松屋銀座店のある銀座3丁目、銀座中央通りの東側はワンブロック松屋ですが、西側には10棟ほどビルが並んでいます。最初に12階に改築したのは銀座2丁目交差点角のシャネル、ここは以前ワーナーブラザースのキャラクターグッズ販売店がありましたが、ビルごとシャネル日本法人が購入、リシャール・コラス社長(=当時)は建て替えました。当初シャネル本社は建て替えない方針でしたが、コラスさんが改築を提案したと聞きました。シャネルのクリスマス装飾シャネルの隣のビルは現在パリ在住で元フジテレビアナウンサーだった中村江里子さんの実家が持ち主、1階テナントは長い間大和証券支店でした。現在は12階建てビル、時計ローレックスが入居しています。シャネル自社ビルのマロニエ通りを挟んだ場所(銀座2丁目)は旧大倉財閥の大倉本館、現在カルティエです。カルティエの反対側は元々三共製薬の薬局があったビルですが、現在はブルガリが丸ごと借りています。ローレックス、シャネル、カルティエ、ブルガリ、松屋のルイヴィトン、ラグジュアリーブランドメガストアがここにズラリ並んでいます。銀座3丁目に戻ってきたアップルストア中央通り銀座3丁目角12階建ての新ビルにはアップルストアが戻ってきました。アップルストア日本1号店、ここは以前住友銀行の支店。アップルファンの私はこの1号店でパソコンやスマホの購入や修理などで大変お世話になっています。このビル、銀行退店後に入居コンペがあり、名だたる外資ブランドなどが参戦、破格の高家賃でアップルが落札したのです。以来銀座全体の賃貸料が跳ね上がったという噂もあります。アップルストアの隣にはかつて婦人服専門店があり、その後は大手ワールドの小売店オペークが営業をしていました。ここもビルを建て替え、時計ウブロが店を構えるビルとカシミアのロロピアーナのビルに分かれました。その先にはすき焼きレストランらん月がありましたが、現在こちらは改築中です。ロロピアーナ隣は旧らん月があったビル現在改築工事中マロニエ通り角シャネルビルと手前ローレックス入居ビル旧らん月の横は上品良質のアクリスが入居、その横も現在改築中です。その先には宝飾ショーメ、時計タグホイヤーとLVMHグループ傘下のブランドショップ。代々ご先祖から土地を受け継いできた銀座の地主さんたちは12階建てビルを着工していますが、数年以内に中央通りに面した全てのビルが12階で高さが揃い、どのビルも路面は外資ラグジュアリーブランド店になるのでしょうね。2001年松屋銀座が大改装を行った際、工事用の大型パネルにただ「銀座三丁目」と大きな文字を書きました。国道1号線の工事ではパネルに会社名や宣伝の類いは許可されないので、グラフィックデザイナー原研哉さんらと相談してあえて「銀座三丁目」、近未来銀座3丁目を最も銀座っぽい一画にしたいという願いを込めた表記でした。松屋大改装から4半世紀が経過、向かい側のビル群は次々建て直しが進んで高級ブランドストリートになりました。1995年私が松屋グループに移籍した当時、界隈には東京銀行、住友銀行、大和銀行の店舗があり、ラーメン屋、牛丼店など低価格飲食店も並び、松屋自体も外資ラグジュアリーブランドの扱いは皆無に等しく、外壁も古くて決して美しいとは言えませんでした。地名は銀座でありながらこの界隈はまだ昭和の空気感、私をスカウトしてくれた古屋勝彦社長からは「店を変えてくれ」という命題をいただきました。社長の勧めで移籍記者会見をさせてもらったとき、私は抱負として「松屋を銀座らしい百貨店にしたい」、そして参考例としてニューヨーク五番街バーグドルフグッドマンの名前をあげました。この発言が悪かったのか「ニューヨークかぶれに何ができる」と週刊誌に意地悪な記事を書かれました。スカウトされて移籍したのにショックでした。当時多くの日本の流通業界人はバーグドルフグッドマンが貧相な古いだけの百貨店から大手術して生まれ変わったことを詳しくご存知ありませんでした。ニューヨークで取材活動をしていた私は、古臭いとしか形容できないほど酷かったバーグドルフが社運を賭けた大胆な全館改装を敢行、一気に高級ファッション店に生まれ変わった様子をつぶさに見てきました。だから、勇気と知恵があれば日本でもやれるはず、そう信じて記者団に言ったのです。改装前の松屋改装後の松屋社長の決断で松屋も社運を賭けた大改装を行い、扱いゼロだったラグジュアリーブランドを一挙に導入、LED照明を付けた現在のガラス張り外壁になりました。そして近隣は多くのラグジュアリーブランドが次々店を構え、移籍記者会見当時には考えられない銀座3丁目になりました。今日お天気良かったので歩行者天国を歩きながらビル群を眺め、改めて「銀座3丁目は変わったなあ」と実感。まだビル改築は続くでしょうから数年後には学生さんが居心地の悪い「大人の街」が誕生するでしょう。ニューヨーク、ロスやロンドン、パリには大人の街が必ずありますから、そんな街がひとつくらい東京にあってもいいのではと思います。
2026.02.21

一昨日、毎日新聞社元出版局長だった仁科邦男さんがセットしてくれ、30年ぶりに大住広人さん(元社会部記者)と上杉恵子さん(元ファッション担当記者)と4人で会食しました。大住さんはかつて毎日新聞社が経営危機に陥り、旧会社と新会社に分離して再スタートを切る非常に厳しい時期に毎日労働組合委員長として経営陣とやり合ったリーダー、カーリング競技で有名になった北海道北見市出身です。上杉さんは北見北斗高校の大住さんの後輩、仁科さんは大住さんの部下だった社会部記者、3人とは私の盟友だった市倉浩二郎さん(毎日新聞編集委員)繋がりです。右から大住広人さん、私、仁科邦男さん、上杉恵子さん話は直近の総選挙結果、高市内閣の方針、中国政府の動向、32年前に急逝した市倉さんや毎日新聞OBのことなどで大変盛り上がりました。そして32年前の出来事が克明に蘇りました。1994年4月1日金曜日、わがCFD(東京ファッションデザイナー協議会)が主催する東京コレクション初日、イッセイミヤケのプレゼンは小田急線代々木上原駅の同社オフィスでした。初回は主にマスコミ関係者向け、私は2回目のプレゼンに出かけました。終了後私は渋谷に移動、西武百貨店B館脇にあるカフェを通りかかったらたまたまそこに帽子デザイナー平田暁夫ご夫妻と市倉さんらの姿が見えたので合流しました。海外出張中ストレスからお尻に大きな腫れ物ができて切開手術したばかりの私は、健康のため有機野菜だけを煮た野菜スープを飲み始めたところだったので市倉さんと平田さんに「絶対に飲んだ方が良いよ」と勧めました。市倉さんは「あんな不味いもの飲めるか」と却下でした。カフェのあと私たちは次のユキトリイのファッションショーに向かいました。このショーの数ヶ月前に行われた鳥居さんの紳士服コレクション発表のとき平田さんを各席からエスコートして市倉さんは素人モデルのひとりとしてステージに上がりました。このときの写真がこちらです。メンズショーに素人モデルとして参加した市倉さんユキトリイのショー終了後関係者の打ち上げがあり、市倉夫妻、平田夫妻も参加するはずでしたが、美登子夫人(元文化出版局ミセス編集長)に「寒気がする」と告げたので市倉夫妻は打ち上げに向かわずそのまま帰宅しました。翌2日土曜日夕方は羽田空港整備場でコムデギャルソンのショー。ところがどういうわけか出席するはずの市倉さんは欠席、私はどうしたんだろうと思いました。後日聞いたら、ショー開催時間の頃市倉さんは意識を失って西国分寺の府中病院に救急搬送されていたのです。入院数日後奥様から連絡をもらい、私はこの日の予定を全てキャンセルして府中病院に飛んで行きました。なんと市倉さんは集中治療室、意識不明でした。原因は風邪の菌がどういう経路か脳に入ったらしい、それ以外のことはわかりませんでした。それから連日私は朝一番に病院に駆けつけ快復を待ちました。このとき集中治療室前を通る看護師さんを呼び止めて容態を取材し私たちに教えてくれたのが、社会部記者時代の市倉さんの上司だった大住広人さんでした。4月24日、奥様の許可を得て私は集中治療室に入りました。意識不明のままベッドに横たわる市倉さんに声をかけると、微動だに動かないけれども彼の目から涙が溢れました。「わかってるぞ」というサインでしょう、私の呼びかけに精一杯応えてくれました。4月25日夕方、私は馴染みの寿司屋に奥様への差し入れにお寿司を握ってもらい、府中病院に向かいました。集中治療室前に到着したらドクターから全員病室に入るよう指示があり、数分後に市倉さんは息を引き取りました。テレビドラマのご臨終シーンと全く同じ、脈拍数がどんどん低下、最後に0になったところでご臨終宣告でした。享年52歳、あまりに若すぎる死でした。市倉さんと私社会部記者としてロッキード事件を取材、当時の三木武夫総理大臣を降板させようと策を練る田中派と福田派幹部がホテルの一室で密談している場面をスクープし、田中角栄事務所から猛烈な抗議があったことで社会部から異動せざるを得なかった生粋のジャーナリストは原因不明のまま亡くなりました。私は大住さんと話し合って奥様に提案しました。「自分の死因もわからないなんて新聞記者として絶対に納得していないはず。奥様は辛いだろうけど司法解剖して原因追求してみませんか」と。美登子夫人の了解のもと死因を探るために解剖しましたが、結局原因不明のままでした。翌日からお通夜と告別式の準備。毎日新聞関係は大住さんが、ファッション関係は私が担当。大住さんから「毎日新聞は社長が弔辞を読む、ファッション村からはあんたがやれ」と命じられましたが、私にはしっかり弔辞を読む自信がありません。そこで平田暁夫さんにお願いしたところ、「あんた、(心臓の悪い)平田を殺すつもり!」と平田夫人に叱られました。でも平田さんが引き受けてくださり、大勢の参列者にも来ていただいた立派な告別式でした。亡くなった翌日、ユキトリイのショーを長年演出してきた木村茂さんから恒例の木村家での誕生会を中止した方が良いだろうか相談がありました。「市倉だったら絶対にやれと言うに決まってる」と助言、私も参加しました。このとき酔っ払った私は「なんで市倉が死ななきゃいけないんだ」と人生で一番の大号泣、参加者の皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。市倉さんはパリコレ出張の直前に取材のためCFD事務局に来ました。このとき「今回を最後にパリコレは後進に譲り、俺は国内でデザイナーを陰で支える技術者や生地屋、縫製工場を取材して本を書きたいんだ。おまえ、手伝え」と言われました。編集委員歴が長いのにまだ1冊も本を書いていない男がやっとその気になったと思っていたら時間は残されていませんでした。友人としてはせめて1冊著書を残す時間を与えてやりたかった。私は自分自身のことも考えました。マーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後渡米したのに、帰国してずっとデザイナーのサポート業務と東京コレクション運営、もしこのまま死んだら死にきれない。市倉さんのように人生の終わりは突然やってくる、その前にやりたい仕事をやらなければとCFD議長辞任を決意。その決意のほどを書いたレポートをたまたま読んだ松屋の古屋勝彦社長に誘われ、1年後私は百貨店に移籍しました。CFD議長退任記者会見当日、市倉さんの1周忌に合わせて私が編纂した遺稿集が記者会見場に届き、あのご遺影を表紙に配した本の最終チェックをしてから壇上に上がりました。直前に市倉さんの遺影を見たものですから涙が溢れ、言葉に詰まってまともな記者会見は無理でした。壇上で泣き崩れる私に集まった記者団から「がんばれ!」の声援が飛ぶなんともおかしな記者会見でした。遺稿集1周忌の遺稿集「新聞記者市倉浩二郎さんはこんな人」、執筆を嫌がる大住広人さんに「あなたは書かなきゃいけないだろっ」と言って書いてもらいました。部下思いの大住さんから預かった原稿を読みながら、私は涙を流して赤ペン入れたことをいまも覚えています。
2026.02.20

まず、今年バレンタインデーに私ごときにチョコレートを贈ってくださった皆様に心より御礼を申し上げます。伝統ありそうですが1977年創業のメゾンショコラずっと不思議に思っていたことがあります。1月下旬から2月14日のバレンタインデーまで多くのチョコレート職人(ショコラティエ)がフランス、ベルギーなどから来日、百貨店の特別イベントに参加しています。あまりに大勢なので自国のお店はバレンタインデー期間留守にして大丈夫なのか、と。日本のバレンタインイベントで有名ショコラティエはアイドルの如き扱い、それぞれのお国でこんな扱いなんだろうかとずっと疑問でした。先日伊勢丹OBの方と会食した際教えていただいたこと。何年前なのかは失念してしまいましたが、かつて伊勢丹新宿本店は日本のチョコ製造販売会社メリーチョコレートとバレンタインデー企画を立ち上げ、そこから全国各地でバレンタインデーにチョコを贈ることが習慣化され、他の百貨店でもチョコイベントを大々的に開催するようになった、と。そうだったんですね。謎がひとつ解けました。メリーチョコレートそのことをSNSで上げたら、フランス在住の友人や海外生活事情に明るい方からメッセージ。フランスではバレンタインデーに日頃お世話になっている人にお花を贈ることありますが、チョコレートを贈る習慣はないそうです。やっぱり、です。私がニューヨークで暮らしていた頃もバレンタインデーに向けてチョコレートのプロモーションなんてやってるお店はありませんでした。最近は日系のスイーツ店がチョコを贈りましょうとイベント開催しているかもしれませんが。だから、バレンタインデーにお花を贈る習慣のフランスから大挙してショコラティエが来日できるんです。百貨店特設会場でお客様の目の前でいろんなチョコレートを創作する様を披露し、お客様は大喜びでショコラティエをまるでアイドルのように持ち上げるのでしょう。「愛する人に」というのはおそらく日本だけ、フランスでは「お世話になっている方に」ですから、ちょっと意味が違うようです。もう一点チョコレートに関して疑問に思っていたこと。パリ出張時、一定レベル以上のクラス感あるホテルに宿泊すると、ベッドメークのあと枕元には必ずと言っていいほどチョコレートが数個置いてあります。寝る前にチョコレートを食べたらもう一度歯磨きをしないといけませんし、そのまま眠ってしまったら虫歯になるのではと思って私は手をつけたことがありません。あれはどういう意味なんでしょう。海外出張のお土産に現地のチョコレートを家族や友人に買って帰る人は少なくありませんよね。これまで私もニューヨークから、ハワイから、サンフランシスコから、あるいはフランスやベルギーから戻る人にお土産チョコをもらったことがあります。もちろん私もパリ出張の帰りには友人や会社スタッフにたくさんチョコレートを買って手渡ししてきました。パリの定宿だったサントノーレ通りのホテルロッティにはゴディバのお店がありましたし、サントノーレ通りを歩いてすぐの場所にもジャンポールエヴァン、ピエールマルコリーニ、メゾンショコラの店舗がありました。時間がないときはよくホテルのご近所のチョコレート店で大量に買ったものです。時間に余裕があるときは、ファッション店やブランド直営店の市場調査を兼ねてマレ地区やサンジェルマン地区に足を伸ばし、そこでチョコレート店を見つけるとお土産用に大量購入、帰国して配りました。1761年創業世界最古のひとつMEERT(メール)マレ店MEERTのパッケージデザインはクラシック皆さんにもれなく「美味しい」と喜ばれたのは、フランス北部の町リールで1761年創業世界最古のチョコレート店とも言われるMEERT(メール)マレ支店のチョコ。味よし、値段よし、お店は庶民的なインテリアで高級店然としていないので入りやすいオッ店。ベルギーのブリュッセル中心部のアーケードでもお店を見つけました。まるでファッションストアのような佇まいのPatrick Rogerパッケージにも高級感とクリエーションを感じます「おしゃれねー」と褒められたのはマドレーヌ広場に店を構えるPatrick Roger(パトリックロジェ)、初めてこの店の前を通ったとき「新しいファッション店ができたのかな」と思ったくらいおしゃれ。パッケージデザインもしっかりしたショッパーも一流ファッションブランドに負けていません。値段は高めですが、とにかくおしゃれ。現在パリでも多店舗化、日本ではamazonでも購入可能、それくらい人気なんですね。ほかにサンジェルマン界隈にもヴィクトルユーゴ界隈にもおしゃれなチョコレート店はいっぱいあります。20年前は日本市場に登場していなかったし、バレンタインデーイベントにも参加していなかったのでパリ土産としての希少価値はありました。いまではほとんどが百貨店イベントで来日、あるいは代理店と結んで販売中、amazonでもコンビニ店でも買えるものもあって最近は希少価値がなきに等しいです。日本ではクリスマスの苺たっぷりケーキもバレンタインチョコも消費者は熱狂的。お客様が喜んで買い物なさるのは小売店にとってありがたいこと。ただこれがキリスト教圏では当たり前の習慣と思ってはいけなようです。真偽のほどは定かでありませんが、伊勢丹とメリーチョコレートが仕掛けたバレンタインイベントはいまは日本ならではの風物詩、近年はちょっとヒートオーバー気味ですね。
2026.02.16

幸か不幸か私は入社試験の経験がありません。大学卒業したら海外に行くつもりだったのでどこか企業に就職しようと活動したことがなく、また転職時はいつも先方からお誘いがあったので中途面接の経験もありません。人生で二度社長職を経験、これまで多くの希望者を面接しました。面接時に気をつけたことは、性別、国籍、学校名は不問、中途採用でも社名は重視せず。学生がどういう学部で何を学んできたか、社会人がこれまでどんな経験なのかもあまり気にしませんでした。とにかく人物本位、他の人と違う何かがあるかどうか個性を重視して採用を決めてきました。ブランド企業時代、事前に新卒予定者には「リクルートスーツの着用はやめてください」と通達。我が社の服をわざわざ購入して面接に来る学生さんが何人もいました。応募学生はプラスに働くだろうと着てくるのでしょうが、忖度するような人は要警戒ですから逆効果。ファッションメーカーなので装いがチグハグでセンス悪そうな人も減点、こういう学生さん案外多かったですね。社長面接の前に二度も面接するので最後の面接で志望動機や我が社の印象を質問しても意味なし。最終面接は短時間で応募者のキャラを発見しなければなりません。以前にも書きましたが、10年間新卒採用社長面接の質問は1つだけ、「あなたがこれまで映画館でもテレビ放送でもフライト中の機内画面でも観たことある映画の中で友人に観賞を勧めたい映画1本は何でしょうか。勧めたい理由も教えてください」でした。面接に立ち会う幹部にはあらかじめ「映画のタイトルが何であろうが構わない。勧めたい個人的理由をわかりやすく短く話す人は採用、映画ストーリーなど長々と話す人は不採用」と伝えました。学校の就職課の入社試験マニュアルになさそうな質問を振られたら気が動転するかもしれないので、面接直前に応募者には質問を渡しました。応募者4、5人一緒に面接しました。他の学生の発言にどういう反応をするかチェックしたかったので。就職課マニュアルにはなかった質問だったのでしょう、単純な質問の裏に何か特別な意図があるのではないかと深読みして回答する人は少なくありませんでした。男子学生の多くがあげたのはスタンリー・キューブリック監督のSF映画「時計じかけのオレンジ」(1971年公開)。単なる娯楽映画だと減点されるとでも考えたのでしょうか、非常に難解な映画をあげる学生は多かった。彼らは長々と映画のストーリーを話し、どこに感動したのか、なぜ友人に勧めたいのか肝心な答えはなかなか出てきません。個々の感想を質問しているのに長々ストーリー説明、こういう学生は不合格。多くの男子学生があげた「時計じかけのオレンジ」女子学生の一番人気はオドレイ・トトゥ主演のフランス映画「アメリ」(2001年公開)と第二次世界大戦下のホロコーストを優しく描いたロベルト・ベリーニ監督主演のイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(1999年日本公開)。女性に人気があったヨーロッパの秀作、何となくわかる気がしました。だからと言って採用したわけではありません、あくまでどう感動したのか、なぜ友人に勧めたいのかを明瞭に答えた応募者だけを採用としました。女子学生があげた「アメリ」同じく「ライフイズビューティフル」中には映画ファンの私にはどうにもピンとこない天海祐希主演「千年の恋 ひかる源氏物語」(2001年公開)や人気アニメ「ドラえもん」〇〇編をあげる学生もいました。大学生の感動映画としてはどうなんだろうとは思いましたが、学生は理由を熱っぽく語ったので採用に。また「社長のこの1本は何ですか」と緊張の中思い切って質問した男子学生も採用。こういう元気のある人、私は好きです。こうして自分の思いをはっきりしかも明瞭に述べる若者をたくさん採用したので会社には面白いキャラクターの人がたくさん集まってきました。もしかすると彼らは他社の新卒採用試験で落とされていたかもしれませんが、成績よりも個性重視だったのでファッション企業としては良かったと思います。個性重視は新卒採用だけではありません、中途採用もとにかく個性でした。さらに販売職で採用しようが、本社業務にマッチしそうと思えばどんどん総合職に切り替えて働いてもらいました。特に各ブランドのマーチャンダイザーと販売促進担当は売り場経験者を当てました。販売現場重視の経営者を目指していたのでよく売り場を歩いて販売前線の様子を細かくチェックしました。社内MDゼミでは発注の仕方、定数定量管理やVMDを教えたのでそれを活用しているかどうかをチェック、優秀な販売員には次々本社勤務を提案。総合職採用であれ販売職採用であれ同じ社員、適材適所に人材抜擢する方針でした。札幌地区忘年会で販売スタッフと記念撮影よく覚えている販売員は何人もいます。ある若手女性社員は新卒採用して2年、まだ経験不足を承知の上で小さなショップの店長になってみないか訊ねました。本人はまだ早いのではと固辞しましたが、「期待しないからまずやってみなさいよ」と説得しました。店長就任して半年あまり、予想した通り売上は低迷続き、そろそろ様子を見てみるかとショップに足を運んだら、明るく元気のいい新米店長の顔面から笑顔が消え、このまま放っておくとストレスから顔面神経痛になるのではと心配でした。社に戻って人事部担当者に「そろそろ君たちが出番。笑顔が消えた原因は仕事なのか個人的事情なのかヒアリングしてやって」と頼みました。その数日後の月末、深夜0時をまわる時間に私の携帯電話に彼女からメールが入りました。「店長になって初めて月予算を達成できたのでみんなと祝杯をあげていま電車で帰るところです。あまりに嬉しくて深夜ですがご報告いたします」。メールを読んだ瞬間私は涙が出そうになりました。新米店長はここからずっと2年間毎月連続して予算達成、見事な成績でした。その横には店長経験の長いベテラン指導員がいて、新米店長の悩みを聞き良いアドバイスをしてくれたことも成功要因でした。経験不足の若い店長であっても社内ゼミで教えたマニュアル通り仕事すれば絶対に好成績をあげられると信じていましたが、まさに彼女は絵に描いたような活躍でした。そこでまた彼女を呼び出しました。「店長になって最初は毎月予算達成できずどん底を味わい、初めて予算達成したら連続24か月好成績で喜びも経験した、今度は全国の店長たちにキミの経験を話し育ててくれないか」と本社人事部への異動を打診。時間が欲しいと言うので数日待ちましたが、結局「このまま販売の仕事を続けさせてください」でした。その後産休もありましたが、今日までずっと店頭で仕事を続けています。中途採用でも記憶に残る販売員がいます。彼女は九州の某百貨店社員、わが社の店舗を担当する店長でした。毎シーズン立ち上がり初日、このショップは都心大型店並みの売上を記録していたので、「立ち上がりに何か特別なことしているの?」と質問。「特別なことをしているとは思いません。初日雨天の場合、ご来店くださるお客様の濡れた靴を乾いたタオルでお拭きするくらいですね」。素晴らしい、そんなこと販売研修で触れたことありませんが、自分たちでお客様のために行動していたのです。その後この百貨店は経営破綻、百貨店社員の販売員全員をわが社で雇用することに。人事部には「もしも東京勤務が可能であれば九州から異動させろ」と命じました。のちに上京を促し、都内で最も売上の多い百貨店ショップに配属、次に直営路面店に異動、次に外部商品も仕入れる旗艦店のバイヤーを命じました。靴を拭くサービスの話を聞かなかったら、彼女はいまも九州在住かもしれません。現在は役員のひとりです。別の女性役員も私が新卒採用した人です。東北地方出身の彼女、新卒面接のとき履歴書の学校名欄を見ずに採用したので入社後しばらくの間は地元の学校を出てきた人と私は思い込んでいました。が、都内の学校卒業でした。土地柄なのか素朴でしかも元気で明るい性格、親切丁寧に接客する好感度抜群の販売員、売上が期待通りに行かないときにもめげずに明るく振舞って仲間を元気づけるムードメーカーでした。数年ぶりにショップでばったり遭遇したとき「役員になったんだね」と話しかけたら口に指1本当ててシーっ、「恥ずかしいから大きな声で言わないでください」と𠮟られました。役員でありながら店頭に立つ、素晴らしいです。もうひとり男性役員も販売員採用でした。その年は春に学生に内定を出したものの販売員不足だったので秋に二次募集、追加採用した専門学校生です。ファッション専門学校に通っていた私の息子に「おまえのクラスメイトにファッションが大好きって子はいないか」と訊いたら、「ひとりいるよ」と紹介されました。正規の二次募集採用試験を経て入社したこの男性、私は売り場視察するたびに仕事ぶりを観察しました。しっかり育てないと旧知の校長先生に申し訳ないですから。彼は寡黙でコツコツ仕事するタイプ、販売員を経験したのち本社勤務となり、私が社長退任したあと上司たちの評価は高かったのでしょう、いつの間にか役員になっていました。たまたま会社ホームページを久しぶりに覗いたら彼の名前が役員欄にあるのを見つけ、嬉しくて飛び上がりました。もう社長を退任して16年経過しましたが、現社長は販売経験者を何人も役員に抜擢しています。私がやりたくてまだ時期尚早でできなかったことを実行しているので偉いなあと思います。梅が咲くいま頃は内々定を早くも出す会社が少なくないでしょう。まだ会社が決まっていない学生さんは焦りがそろそろ出始める頃でしょうか。昔の終身雇用と違っていまや日本も転職が当たり前、女性は仕事をずっと続けられますから、かつてのように新卒採用試験を特別重要視しなくても良いのではないでしょうか。高度経済成長期は職場で欠員が出てもすぐスペアを補充する金太郎飴人材が一番でしたが、そのことで日本企業の多くは従業員の個性軽視となり、面白い発想の人は除外されて企業の活力が失せたとも言えます。均質より個性にシフトして欲しいですね。
2026.02.15

小池百合子さんが東京都知事になってから東京都は若手ファッションデザイナー育成プログラムを数々スタートさせました。日本ファッションウイーク推進機構との取り組みでは海外合同展示会(TOKYO FASHION AWARD)やパリコレ参加(FASHION PRIZE OF TOKYO)が継続開催され、これまで多くのファッションデザイナーが海外発表する機会をもらいました。そして昨年から新たにFashion Designers Accelerator Tokyo(略称FDAT)が始まり、現時点ではほとんど無名に近い若者たちを育成する事業も。彼らに対する業界メンターのセミナーも組み込まれ、私も講師のひとりとして参加、昨夏海外ビジネスをいかに進めるべきかをお話ししました。支援対象デザイナー5人が発表されました。詳細は以下のサイトをhttps://fdat.metro.tokyo.lg.jp/一昨日、主催者からこのFDATプログラムとして合同展示会などでサポートする対象デザイナー5人が発表されました。彼らは来月原宿駅前で合同展示会を開きます。詳しくはFDATのサイトをご覧ください。AS YET UNNAMED(稲葉明季さん)HOMMENA(加藤大地さん)POI(神本麻希子さん)MIDTHINGS(近藤晃裕さん)KANEI(山岡寛泳さん)対象デザイナー発表イベントの締めの挨拶で私は「先輩たちがやってきたビジネスモデルとは違う形を」、「広い世界市場を目指しましょう」、「消費者と生産者が背中合わせになるようなビジネスモデルを考えて」と激励。日本のアニメ漫画が世界で高く評価されているにもかかわらず、海外事業者は儲けているものの日本側は儲け損なっている、どうして制作現場はいまもて低賃金のブラックのままなのかを説明。20世紀後半パリコレに進出した先輩たちの時代はネットがありませんでした。なので莫大な経費のかかるファッションショーを開き、ファッション雑誌に広告宣伝を打ち、目抜き通りにショップを構えるしかなかった。が、いまは世界からネット検索され(楽天が協賛する東京コレクションのサイトには海外から多数のアクセスがあります)、東京に居ながら情報発信できます。ネットで効果的発信できれば、お店は目抜き通りでなくビルの上層階や路地裏物件でも集客できます。だから多数のアクセスが得られるよう魅力的なサイトを作る必要があります。そんな話をして激励しました。FDAT発表イベント終了後、会場すぐ隣の台湾料理店で若手デザイナーらと交流、ここでもブランドビジネスに必要なことは何かを説明しました。まだ粗削りな若手デザイナーたちですが、将来立派なファッションブランドに成長して欲しいです。
2026.02.12

ファッションの世界で長く働いてきた者のひとりとして毎回気になるのが夏季と冬季オリンピックのユニホームデザイン。一番の思い出は1980年ニューヨーク州北方の小さな町レイクプラシッドで開催された冬季大会と1992年の夏季バルセロナ大会です。ミラノオリンピック開会式の日本チーム(アシックス製)1977年3つの会社が合併して誕生したアシックスは社名の知名度をあげるため1980年冬季オリンピック公式ユニホーム(聖火ランナー、メダル授与式コンパニオン、大会役員や審判団のウエア一式)サプライヤーコンペに勝利し、当初はパリコレで高く評価されていた高田賢三さんか三宅一生さんにデザインをお願いするつもりでした。ところが、米国メディアがファッションは基幹産業のニューヨーク州開催なのにどうして日本のスポーツメーカーが落札したのかと批判的記事を掲載、アシックス幹部を慌てさせました。公平なコンペを経ているのに感情論で日本を批判(当時は自動車日米摩擦がありました)、そこでアシックスは米国デザイナーを起用することで騒ぎをおさめようと日本人デザイナー起用を諦めました。当時ニューヨークでファッションジャーナリストをしていた私に東レ駐在事務所経由で「騒ぎをおさえるために米国デザイナーを紹介して欲しい」と連絡が入りました。面倒な作業がいっぱいなので大御所デザイナーは避けたい、できればオリンピックプロジェクトに参加することを名誉に感じて一生懸命働いてくれそうな若手デザイナーを探して欲しいと要請がありました。そこで私はデビューしてまだ間もない4人のデザイナーを推薦しました。ユニセックスのイージーなデコントラクテ服を作る人、急成長中の婦人服新進デザイナー、ニューヨークならではのアメリカントラディショナル派の4人、その中からアシックスはトラディショナル派サル・セザラーニ(元ポロバイラルフローレン)を選びました。ニューヨークとは言ってもレイクプラシッドは保守的な小さな町、町民がオリンピック運営委員なので斬新なデザインは煙たがれるだろうという判断でした。サル・セザラーニが担当した公式ユニホームサル・セザラーニ家族サル・セザラーニはアシックスの期待通り熱心に各種ユニホーム作りに参画、冬のアルプスなどで防寒テストにも立ち会い、トラディショナル派らしいユニホームを創作してくれました。ところが、オリンピックプロジェクトに没頭、自分の会社のことがお留守になり、アシックスがユニホーム一式を記者団に披露した数日後セザラーニ社はチャプター11(日本の会社更生法のようなもの)を申請、私は社員から「あんたがおかしな話を持ち込んだから」と嫌味を言われました。でも、セザラーニ本人はやりがいがあったと非常に喜んでくれました。1992年夏季バルセロナオリンピックもとても印象に残っています。この時代、冬季大会は2月頃、夏季大会は同年8月開催でした。ベルリンの壁が崩壊、東ヨーロッパの混乱のあとソ連から独立したバルト3国のリトアニアは冬季アルベールビル大会に国名リトアニアとして初参加。まだ独立したばかりで十分な準備ができなかったので選手団はたった5人、開会式の選手ユニホームもない参加。リトアニア国民の期待は世界中の人に国名を覚えてもらうことでした。しかし、放映権を持つ米国大手テレビ局NBCはこの小国の選手入場時にテレビコマーシャルを入れ、全世界に入場映像は配信されませんでした。これにショックを受けた在米リトアニア人医師でありチームドクターは三宅一生さんに手紙を書きました。なぜなら彼はイッセイミヤケのお客様だったからです。旧ソ連の小国、選手たった5人の参加、しかもユニホームはなかったのでコマーシャルを入れられ、リトアニアの名前を広めることができなかった。もしもあなたのような世界的デザイナーがユニホームを作っていたらNBCはここでコマーシャルを入れなかったかもしれない。祖国リトアニアのためにぜひバルセロナオリンピックで力を貸して欲しい、と訴えました。バルセロナ大会リトアニア選手団のプリーツユニホームその手紙を読んで三宅さんは準備期間が短いにもかかわらずデザインを無償で引き受け、スポーツメーカーのミズノが制作費を受け持ってあのプリーツユニホームが完成したのです。プリーツをかけた後に五輪マークが完全に丸くつながるよう何度も試作を繰り返した苦労話を三宅さんから聞いたことありますが、あれは世界が絶賛したこれまで見たことがないユニホームでした。開会式翌日、ニューヨークタイムズ東京特派員からCFD議長の私に電話がかかってきました。「リトアニア選手団のユニホームは素晴らしいが、CFD議長として日本選手団のユニホームをどう思いますか。なぜ三宅一生は日本のユニホームをデザインしないのか」。この特派員、大相撲の大関小錦から問題発言を引き出し外国人力士への差別について記事を書いたことで有名、変な回答すれば小錦関の二の舞になると思いました。「個別のユニホームデザインについて私はコメントする立場にありません。リトアニアのユニホームは顧客でもあるドクターから直訴され、リトアニア国民のお手伝いをしたいと三宅さんが特別に引き受けたからでしょう。それ以上の詳しい話はわかりません」と返しました。が、特派員は執拗に「日本選手団のユニホームにはどういう感想を持っていますか」と何度も訊きました。私は「答える立場にはありません」と繰り返すしかありませんでした。国名プラカードを掲げるコンパニオンはモンクレールのロングコートさて今朝(日本時間)のミラノオリンピック開会式、素晴らしい選手団ユニホームもあれば大会関係者の衣裳も素敵でした。最初に入場したギリシャ選手団、先頭はイタリア語表記の国名プラカードを持った女性コンパニオンでしたが、カメラが彼女をとらえた瞬間「これはモンクレールだな」とわかりました。白っぽいシルバーのロングコート、実にカッコよかった。モンクレールですから生地は福井県の第一織物製でしょうか。ブラジル選手団の黒いダウンコート、こちらもモンクレール製、1着わけて欲しいですね。ブラジル選手団は光沢のあるモンクレールのコート開催国イタリア選手団のユニホームはもちろん昨年に亡くなったアルマーニ(エンポリオアルマーニ)ですが、選手入場前のパフォーマンスの衣裳の一部もアルマーニが手掛けていました。イタリア国旗掲揚時に折りたたんだ国旗をもって登場したダンサー(それともモデル)が着る緑、白、赤それぞれのセットアップ、バランスといい艶といい素晴らしいセットアップでした。国旗掲揚の儀式はアルマーニのセットアップいつもイタリア選手団がアルマーニならアメリカ選手団はラルフローレン、こちらも毎回カッコいいです。トップデザイナーの威信にかけても下手なユニホームは供給できません、毎回デザイナーブランドらしいレベルの高いユニホーム、今回もアメリカチームはカッコよかった。アメリカ選手団はラルフローレン、個人的にワンセット欲しい日本選手団オレンジ色ユニホームはアシックスが担当。全く個人的な思いなんですが、一度は見てみたいコムデギャルソンの日本チーム。川久保玲さんにこれまでデザイン打診(もしくは依頼)したことがあったのかなかったのかはわかりません。が、一度で良いからコムデギャルソンがデザインする日本チームを見たい。スポーツメーカーもしくはJOCは打診して欲しいし、川久保さんにはぜひ引き受けて「さすがコムデギャルソン」ってユニホームを作って欲しい。欲張りですかね。スウェーデン選手団はユニクロ製
2026.02.07

ファッションビジネスで大事にしたいことは、値引きしない「プロパープライス」でお客様に買っていただくこと、プロパー消化率をいかに上げるかが重要、と学校の講義でも社内研修でも教えてきました。アパレル企業社長になってから「プロパー消化率を上げろ」とハッパをかけ、具体的にどうやって上げるかマーチャンダイジングの基本を教えました。プロパー消化率を上げるには、精度の高い発注とサプライチェーンのコントロールが欠かせません。発注権を与えたショップの店長には、「自分のお店のお客様に相応しいもの、胸を張って売ってみたいものを思い切り発注しなさい」、「色別の構成比は極端なほど全体の消化率は上がる」、「売れないだろうと色を簡単にゼロにするな」と意図のある極端な発注を奨励、プロパー消化率75%目標を掲げました。社長就任から2年で社員はこの高い目標を達成しました。就任当初私の指令に対して下を向いて「無理だろ」と何人かはクスクス笑っていましたが、立派に達成できたのです。私は75%と言いながら70%なら及第点のつもりでしたが、2年後みんなの力で75%を超えました。やればできるのです。この話を大手アパレル企業幹部たちとの会食時に話したら「プロパー消化率75%なんて滅茶苦茶なこと言うね」と笑われました。でも、発注の指導をちゃんと受け止め実践してくれたら達成可能、無茶苦茶な指令ではありませんでした。その後退任するまでの8年間プロパー消化率70%未満ということはありませんし、退任後も高いプロパー消化率を維持しています。これ、アパレル事業者にとってはものすごい強みです。お客様に届くセール案内状もうひとつ業務改革したこと、それはシーズン末のバーゲンセールの時期。社長就任時多くのファッションブランドのシーズン切り替えは業界カルテルなのかと幹部に質問したくらい私には不自然に映りました。正月明けの新年第1週は年末のまま秋冬物を展開、次に新しい春夏物に切り替え、1週間後に新作を撤去して秋冬物をセールを1週間ほど実施、再び春夏物に戻していました。秋冬プロパー〜春夏展開〜秋冬セール〜春夏展開、つまり閉店後に販売員は3回も残業して店頭商品を全部並び替え、はっきり言って無駄な労力でした。そこで、他社がどうであろうと我が社は構わない、年初から秋冬物一斉セールを1週間開催、次は春夏新作を立ち上げたらそのままずっと春夏展開にしようと変更しました。これなら商品の総入れ替えは1回だけ、閉店後の販売員の労力は軽減され、無駄な残業(当時はサービス残業のブランドがほとんど)は必要ありません。このとき伊勢丹本店の担当部長さんから「大変ありがたいです」と声をかけてもらいました。セール品を通路に雑然と並べていたSaks Fifth Avenueビバリーヒルズ店さて、本題はここから。それはファッション業界はセールというものをどう捉えているのか、です。百貨店のインショップでセールすると、当時プロパー販売時のショッパー(紙袋)ではなく、無地のビニール袋に商品を入れてお客様にお渡ししていました。正規ショッパーの制作費がバカにならないからかもしれませんが、プロパーであれセールであれ両方ご利用の方であれ、皆さんブランド側には大切なお客様なのです。セールのお客様には市販の無地ビニール袋に入れてブランド商品をお渡しすることに疑問を感じました。セールでも整然と商品陳列していたスイスのセレクトショップ米国のアウトレットモールを最初に訪問したとき、各ブランドのアウトレットショップは正規の分厚めショッパーではありませんが、ちゃんとロゴ表記した薄い紙のアウトレット専用ショッパーを使っていました。アウトレットショップの商品はセール同様プロパープライスの30%から50%(あるいはそれ以上も)値引き、これにコストの高い正規ショッパーを使うわけにはいかないでしょうが、市販の無地ビニール袋を使っているブランドは見たことありません。だから、セール時に無地ビニール袋に商品を入れてお渡しするのは失礼、それなら百貨店のオリジナルショッパーに入れてお客様に商品を手渡しするよう命じました。つまりセールのお客様も大切なお客様、失礼のないよう接客するのがブランドビジネスのあるべき姿だと思います。もう一点、セール時に安っぽいデリバリーハンガーのままショップのラックにかけて洋服を販売するのはどうなんだろう、と。販売員やセール応援の本社スタッフの手間はかかりますが、できればデリバリー時の安っぽいプラスチックハンガーから外してブランド専用のオリジナルハンガーに掛け直すべきではないでしょうか。シーズン切り替えのため数日間お休みしていた青山本店社員によく言いました。「セール自体は恥ずかしいことでもなんでもない、セールだからいいじゃないかと商品を汚らしく売ることが恥ずかしい。たとえセールのときしかお店にいらっしゃらないお客様でもお客様であることに変わりないんだから丁寧に接客しようよ」と。社長在職10年間、何度も「お客様の方を見て仕事しよう」と社員に呼びかけました。会社ホームページにも「お客様本位の企業を目指す」と表記、とにかくお客様目線で仕事することの重要性を執拗に訴えました。業界にはセール自体を低く見る傾向がありますが、これは大きな間違い。もちろん1点もセールにかけない、アウトレットショップも持たないのがブランドビジネスにはベストですが、セールでも通常のプロパー販売と同じレベルのサービス、恥ずかしくないファッション販売を心がけるべきです。そろそろブランド企業の店頭は全て新作を揃えてSPRING HAS COME、訪日中国人は激減していますが盛り上がりを期待したいです。
2026.02.06

マーチャンダイジングのプロになりたい、と大学卒業後ニューヨークに渡った私はデザイナーやアパレルメーカーの多くがオフィスを構える7番街のど真ん中にあったパーソンズ・デザイン学校(当時の名称はParsons School of Design)夜間バイヤー講座で半年間マーケティングとマーチャンダイジングを学びました。受講生は大手百貨店バイヤーになる一歩手前のアシスタントバイヤーや独立して自分の小売店を開業しようとする人たち、主任講師は大手量販店の雑貨担当ゼネラルマネージャー、先生は講義ごとに自社の通販事業マネージャー、ファッションコーディネイターやバイヤーの不正を調査する人事部弁護士などを連れてきて丁寧に指導してくれました。先生も受講生もほとんどユダヤ人、講義中ジョークがヘブライ語だったので私にはチンプンカンプンという場面もありました。毎回実際に売り場に行かなければできない宿題が出されます。きっちり売り場調査して発表すれば褒めてもらえますが、中途半端な調査は先生に見抜かれ「どこを見てきたんだ」と叱られました。講座ではいろんなことを学びましたが、最も身についた授業は敵情視察、competitive shoppingでした。最も足を運んで売り場調査したBERGDORF GOODMAN同じ商品カテゴリーの2つの店舗、片方が想定自社売り場、もう一方を想定競合企業と仮定し、陳列方法、商品内容、商品量、価格設定などを徹底的に調べ、2店を比較分析して想定自社の改善点はどこかを発表します。ジャケットに小型レコーダーを忍ばせ調査開始時にスイッチオン、一般客を装って独り言を録音しました。「シルク100%はスカートが250ドル、ちょっと高いな」、「こっちはポリエステル100で85ドル、安いな」、「シルクは2色だけ、ポリエステルは5色もある」、「サイズ8(標準サイズ)は欠品してるから売れてるんだろう」などと売り場で見たこと気になったことを録音、帰宅してレポートにしました。この宿題を何度も繰り返すうち売り場調査の要領を覚え、その後売り場を歩くのが速くなりました。これをぜひ日本でも広めたい。帰国して私塾「月曜会」をはじめファッション専門学校やI.F.I.ビジネススクール、社内MDゼミで最重要マーケティングとして「敵情視察」を指導。パーソンズ式の同カテゴリーまたは同ブランド2店舗比較調査のほか、同じ百貨店内の2競合ブランドの宿題も。例えば、メンズで自社J・プレスvs競合ブルックスブラザーズ、レディースなら自社アンタイトルvs競合ICBという事例も。時には「試着室には監視カメラはないから、試着してしっかり商品を調べろ」「気になる商品のタグは千切ってこい」と教えました。米国バイヤーが他店の品揃えを調査するとき気になる商品のタグをよく千切ります、それくらい徹底して調査しなさいと教えました。試着室で忘れないうちにメモを取る、あるいは時間をかけて織物や着心地を徹底的に調べるよう勧めました。文化服装学院はバーニーズ新宿店に近かったので、学生は私が出す宿題のためよくバーニーズに行ったようです。ある日仲良しだったバーニーズジャパン初代社長田代俊明さんから電話があり、「商品タグ千切るの止めさせてよ。タグのバーコードがないと困るから」とクレームがありました。学生がそんなにタグを千切ってるはずはなく、同業他社のバイヤーらがやったことだと思いましたが、授業で教えていたのは事実なので「バーコード部分はダメだよ」と学生に伝えたこともありました。学生や若い業界人がラグジュアリーブランドを試着するのは販売スタッフの視線もあってちょっと弱気になるものですが、「ハンカチ売り場で1枚でいいからを購入して百貨店のショッパーを手に入れたらもう立派なお客様、堂々と試着してきなさい」と教えました。シャネルスーツの裾ににどうして金属チェーンを入れているのか、ラルフローレン最上級パープルレーベルの着心地の良さも試着したら理解できますから。BERGDORF GOODMAN視察後歩いて出かけたSAKS FIFTH AVENUEこれまで何千人と敵情視察を教えましたが、最も記憶に残っているのは月曜会受講生で当時丸井の若手社員だったSくん。自社新宿店と伊勢丹、小田急百貨店の婦人傘売り場のそれぞれ千本以上の傘をことごとく調べ、自社の品揃えの改善点を発表したことがありました。3店の婦人傘は全部で数千本、これを主力商品の特徴から価格帯までしっかり調査してきたのでびっくりでした。また松屋のバイヤーゼミでは、当時食品部の女性アシスタントバイヤーが自店とお隣の三越銀座店で販売しているかしわ餅を食べ、中のアンコの量、甘さ、その形状、餅の甘み、大きさ、厚さ、そして価格帯を細かく調べ、自店松屋のかしわ餅の改善すべき点をレポートにまとめてきたときもびっくりでした。なかなかできることではありません。彼女はのちにお菓子メーカーに一目置かれる名物バイヤーになりました。BARNEYS New Yorkマジソン店も必見でしたそして、講義の最後に私は必ず言うことがあります。流通業あるいはアパレル業界で働く者は退職するまで売り場視察を続けなさい、と。視察を重ねるうち、そのショップが好調か否か瞬時にわかり、時代変化の予兆や次に来るヒット商品の予感がしたりするものです。売り場のマーケティングは才能ではありません、場数を踏めば誰でも売り場を読む達人になれるのですから。服以外の売り場も歩こうと伝えてきました(EATALY NY)最近、売り場を歩く人が以前より極端に少なくなりました。なんでもかんでもネットで検索でき、デスクにいながら簡単にいろんな情報を収集できるからです。が、売り場に足を運んで五感を使って生きた情報を集めるのが一番重要、と声を大にして呼びかけたいです。売り場は日々変化し、売り場は嘘をつきませんから。
2026.02.02

20年ほど前、海外出張時のANA便でエンタメチャンネルを回していたら、映画ではなくビデオ番組「AFI トップ100」を見つけました。米国ハリウッドの映画関係者の組織A.F.I.(American Film Institute)が選出した20世紀を代表するアメリカ映画ランキング100本、何度もビデオを巻き戻して英語タイトルを全部書きとめました。ここから私のアカデミー賞映画のDVDコレクションが始まりました。1929年の第1回以来過去のアカデミー賞作品賞全ノミネート作品のDVDを集め始め、日本で販売されてない映画は米国出張の合間に大型DVDショップ(かつてはヴァージンレコードやHMVの店舗がたくさんありました)に出かけて吹き替え字幕なしのオリジナル版を買いました。アカデミー賞黎明期、作品賞ノミネートは毎年10本、その後は5本が候補に上がってアカデミー賞授賞式を迎えますが、作品賞全ノミネート映画を集めるとなるとかなりの枚数でした。A.F.I.は1967年設立、米国映画制作者を教育し、映画芸術の遺産を顕彰する非営利団体です。1981年にはAFI映画学校を開校、映画製作の実践教育に力を注いでいます。卒業生の中には「ツイン・ピークス」のデヴィット・リンチや「アメリカン・ジゴロ」のポール・シュレイダーら映画監督もいます。そもそも米国連邦政府は世界恐慌後のニューディール政策で大規模な公共土木工事だけでなく、失業者対策の一環として芸術家支援計画「フェデラル・ワン」を進め、その傘下に「連邦劇場プロジェクト」、「連邦音楽プロジェクト」、「連邦美術プロジェクト」などクリエイティブ産業(近年はコンテンツ産業と呼ぶ)をテコ入れ、国家予算で優れた人材を支援を支援しました。3点とも連邦劇場プロジェクトのポスターこのプロジェクトで育った人材には「市民ケーン」のオーソン・ウェルズ監督(主演でもある)、「欲望という名の電車」や「波止場」のエリア・カザン監督、マリリン・モンローの夫でもあった劇作家アーサー・ミラー(代表作は「セールスマンの死」)などがいます。戦後西海岸ハリウッドで映画が、東海岸ブロードウェイでミュージカルが黄金期を迎えられたのは、ニューディール政策の芸術家支援計画があったからです。日本でも小泉純一郎政権でコンテンツ産業のテコ入れが議論され始め、第二次安倍晋三政権で新たにクールジャパン戦略担当大臣が任命され、民間事業者を資金面で支援するクールジャパン機構が誕生しました。現政権でも改めてコンテンツ産業をもっと海外に強く打ち出そうという発言は出ていますが、米国ニューディール政策のようにもっと強力なバックアップ体制を確立しなければ成功しません。韓国が日本に先駆けてアカデミー賞を受賞(映画「パラサイト 半地下の家族」は外国語映画として史上初の作品賞を受賞)したり、K-POPスターが次々登場して世界のポップスシーンをリード、ヨーロッパのラグジュアリーブランドのアンバサダーに韓国スターが起用されているのも、韓国政府がクリエイティブ産業に全面的な人材育成支援を行っているからです。韓国に比べたら日本は相当遅れています。民間企業の海外販路開拓にただ出資するだけでは不十分、もっと政府が積極的に直轄支援事業を推進しないことには日本のクリエイティブ産業は世界に広まりません。米国ニューディール政策は具体的にどのような果実をクリエイティブ産業にもたらしたのか、しっかり研究すべきではないでしょうか。さて、A.F.I.の映画研究員たちが選んだ20世紀米国映画ベスト100の中で上位トップ10は次の映画です。このうち皆さんは何本ご覧になりましたか。第1位「市民ケーン」オーソン・ウェルズ監督 1941年第2位「ゴッドファーザー」フランシス・F・コッポラ監督 1972年第3位「カサブランカ」マイケル・カーティス 1942年第4位「レイジング・ブル」マーティン・スコセッシ監督 1980年第5位「雨に唄えば」スタンリー・ドーネン&ジーン・ケリー監督 1952年第6位「風と共に去りぬ」ヴィクター・フレミング監督 1939年第7位「アラビアのロレンス」デヴィッド・リーン監督 1962年第8位「シンドラーのリスト」スティーヴン・スピルバーグ監督 1993年第9位「めまい」アルフレッド・ヒッチコック監督 1958年第10位「オズの魔法使い」ヴィクター・フレミング監督 1939年タイトル太文字はアカデミー賞作品賞作品ですが、A.F.I.のベスト10のなんと半分だけなのです。時代時代のアカデミー会員の選択とA.F.I.映画研究員の顕彰の視点には開きがありますが、映画や演劇は人々の主観によって時代背景によって評価は左右されますからこういうことはよくあると思います。因みに私の個人的な「この1本」は第8位スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」、感動のあまり映画終了後しばらく座席を立てなかったことを覚えています。皆さんの「友人に観賞を勧めたいこの1本」は何でしょう。
2026.01.31

昨日Dover Street Market Ginzaからいつもの冊子が届きました。前回、前々回は20世紀の米国を代表する女流画家ジョージア・オキーフの作品満載でしたが、今回の裏表紙は懐かしい1988年コムデギャルソン発行のSix(=写真)でした。巻頭にこんな表記があります。1988-1991"Six"マガジン発行5感は見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触れる という5つの現実的な感覚第6感は現実的に表現できない感覚"Six"は第6感-Sixth Senseの意味2026-2027再び新しく1988年秋冬コレクション、コムデギャルソンのシーズンテーマは「エスニック」でした。黒のイメージが強かったブランドが、ショー1点目からフィナーレまで全点どこかに必ずトマトレッドの赤を配したコレクション、その徹底ぶりに驚かされましたが、そのエスニックを着たモデルの写真がSixに載っていました。1988年秋冬コレクションあのシーズンのパリコレ、ちょうど私の隣の席には当時全面的に同ブランドのテキスタイルデザインを担当していた松下弘さんが座っていたので「テーマは何だったんですか?」と質問。「私のエスニックって言われたんだわ」、コレクション制作に入る前に川久保玲さんから松下さんに伝えられたキーワードはただ一言エスニックでした。二人の間はいつもこんな禅問答のような言葉の交換、これを松下さんはどう解釈してテキスタイルを創作するか悩みに悩みます。そしてエスニックという言葉を受け止めて出した答えがこれまで使ったことがなかったトマトレッド、ランウェイを赤い服を着たモデルが次々登場、見ていて圧巻でした。別のシーズン、ショー開始前に「今度は光るんだわ」と松下さんから聞いたこともありましたが、このときも1点目から最後まで全点どこかが光るコレクションでした。「手のひらに収まるドレス」のときは、超薄手で軽いシースルー布の連続、全点モデルの肌が透けて見える服がズラリ。概して多くのデザイナーは全点テーマに沿ったコレクションというわけではなく、リスク回避なのか欲張りなのかあれもこれも盛り込みがちですが、コムデギャルソンは徹底的にテーマを追求します。久しぶりにいただいたSixを眺めながら、1988年当時のことを思い出しました。パリコレ発表して数ヶ月後に届くSix、これは作り手から顧客に向けた禅問答のようでした。もらった私は冊子の中にあるコレクション服ではない写真を眺めながら、川久保さんの意図するものは一体何なのかを読み取ろうとします。これが我々凡人はすぐにはわからずSixと向き合ってあれこれ考えたものです。1989年Six一番覚えているのは「青い鳥」のSix。登場するのは、青いものを見ると本能的に集めてくる野生の鳥と集められた青い小さな物体の写真ばかり。ストイックに青い物体を自分の巣に集めてくる鳥の写真にどんな意味、メッセージが込められているのかしばらく悩みましたが、「多分こういう意味なんだろうな」と結論出すまでの間の一種の知的緊張感が心地良かったです。私が初めてコムデギャルソンと出会ったのは1981年春、バーニーズニューヨークのバイヤーたちとジャパンブランドの買い付けに来たときでした。まだ穴あきセーターのボロルックを発表する前、一見トラディショナルな服のように見えるけれどどこか違う、ほかのブランドでもありそうなんだけどほかにはないデザイン、私はコムデギャルソンの買い付け額を増やそうとみんなに提案しました。それ以来、コムデギャルソンのファンになりました。その4年後帰国して東京ファッションデザイナー協議会を設立した直後、とりまとめ役の私が1ブランドだけ愛用しては批判されると思って複数のジャパンブランドの服を買いました。しかし自分としてはどうもしっくりしない、会員デザイナーに気をつかうのはやめようと決心、以来ずっとコムデギャルソンの服を着てきました。また、同業他社の社長になったときも、月に一度の全体朝礼の日以外は10年間ずっとコムデギャルソンで通しました。社員はきっと気分悪かったでしょうが....。長年のコムデギャルソンファンとしては、昨日届いたSixの中にあった「再び新しく」の文字にワクワクしてしまいます。Sixがしばらく続きますように。
2026.01.30

1995年春、どうしてもマーチャンダイジングの仕事がやりたくて東京コレクションを運営する東京ファッションデザイナー協議会を退職、当時松屋社長だった古屋勝彦さんにスカウトされて百貨店に転職しました。古屋社長から求められたのは若手社員の育成とお店の改革でした。すぐに週1回のバイヤーゼミでマーチャンダイジングを教育開始、受講者のニューヨーク視察を引率して現地小売店を回って研修しました。そして2018年、ニューヨーク研修を止めてシアトル研修に変更しました。顧客満足経営のノードストローム百貨店本店とアマゾン本社隣接の新業態amazon goを若手社員に見せたかったからです。アマゾンはシリコンバレーからシアトルに本社を移転、そのすぐ近くで無人レジなしコンビニをうたい文句にamazon goを開店した直後でした。AMAZON本社近くに開店したamazon go1号店入店前にQRコードを読み込んで個人登録退出ゲートの機械が自動的に商品を読み取り買い物客はまずエントランスでQRコードを読み込んで登録してショッピングします。私も買い物カゴにあれこれ商品を入れ、レジはありませんからそのまま出口ゲートを出ました。通過の瞬間、商品についているチップをゲートの機械が読み込んでアプリ登録したクレジットカード決済。本当にもれなく機械がチップを読み込むのかどうかちょっと不安はありました。このとき棚の商品はちゃんと決済できましたが(後日カード明細で確認)、オリジナル布製エコバッグはどういうわけか決済漏れでした。たまたま私が手にしたエコバッグにチップが付いていなかったのか、それとも全エコバッグに付いていなかったのかはわかりません。エコバッグのラックには価格表示がありましたから、開店無料サービスではなく単なるミスだと思います。オープンしたばかりなのでおそらく流通業界やIT業界関係者の視察者も多く、このレジなしコンビニは大変賑わっていました。体験ショッピングしながらひとつ疑問に感じたこと、陳列棚に追加商品を補充するのは機械ではなくスタッフ、しかも忙しかったのでかなりの人数が商品を補充していたのです。レジなしですからレジ要員の人件費は不要ですが、商品補充をスタッフがやっていたら意味がない、違和感を感じました。棚の商品補充は人間でしたあれから7年半が経過、収益モデルを描けないとamazon go事業を子会社の高級スーパーマーケットWhole Foods Market(1980年創業の自然食品スーパー、2017年アマゾン傘下になる)に移管するとアマゾンは発表しました。もともと書籍通販事業からスタートして米国を代表する巨大企業に成長しましたが、さすがのネット通販の巨人でも無人レジなし小売事業は成功させることができなかった。amazon books書籍ネット通販の巨人の出現、発展によって米国のみならず日本でも多くの書店が店をたたみましたが、2015年アマゾンがリアル店舗の新業態amazon booksをオープンしたときも話題になりました。amazon booksニューヨーク店舗の視察、レジカウンターはなく決済では現金を扱わず、お客さんがiPad決済する仕組みでした。通常のネット通販で得た人気書籍情報を店頭に反映、子供向け本棚では年代別ベストセラーを棚ごとに並べ、大人向けにもネット人気書籍をコンパクトに陳列、悪く言うなら売れる書籍をズラリ並べた効率重視の本屋でした。ネットの人気上位本を並べた新刊コーナー2022年にamazon books全ての店舗を閉鎖とネット記事にありますからリアル店舗での書籍販売はビジネスとして軌道に乗せられなかったのでしょう。ネット販売とリンクさせたリアル店舗は運営効率面ではそれなりの成果はあったでしょうが、本来お客さんが本屋に求めるモノやコトは提供できなかったかもしれません。amazon booksでは立ち読みやりにくいんです。amazon booksに続いてコンビニamazon goからの撤退、米国を代表する優良企業であっても万事うまくいくということではありません。無人化、機械化で効率面で意味はあるのでしょうが、お客様はロボットではなく人間です。モノを買うことにプラスアルファの何か、消費意欲をかき立てるヒューマンな触れ合い、心温まるタッチポイント、これ抜きで単純にモノが売れるというわけにはいきません。今日amazon go事業からの撤退ニュースに接し、正直ちょっと安堵しました。いくらネット通販全盛の世の中とは言え、やり方次第でリアル店舗の存在価値はまだまだあるとずっと私は説いてきましたから。オンラインであれオフラインであれ、高価なものであれ安価なものであれ、商品をお客様に売る上で最も重要なことは、売る側がお客様目線を持ち、お客様第一で仕事することです。アパレル企業の社長時代の10年間、社員に向けて「お客様本位の会社を目指そう」と口酸っぱく言ってきましたが、やはりこれを忘れては流通ビジネスはうまく行きま
2026.01.28

百貨店の松屋の前身松屋呉服店が1913年(大正2年)和服裁縫部としてスタートした東京ファッション専門学校恒例のファッションショーが昨日松屋8階催事場で開催されました。きもの着付け教室ではなく、きものの創作をいまも教える学校は少なくなりました。きものは日本の伝統文化、いくら洋服全盛とは言えきものはなんとか後世に伝えたいですね。きものファッション科の学生さんたちがこのショーのために考案したきもの(=写真4点)は日本古来のものとはちょっと違い、きもの専門家の方々には批判されそうです。が、これでもいいじゃないかと思います。きものと布のデザイン、パターンの作り方と縫い方、品質維持など伝統文化として継承していかなくてはなりません。およそ100年前、パリオートクチュール黄金期にマドレーヌ・ヴィオネはきもののカッティングを徹底研究、直線断ちシンプルなパターンながらも布をバイアスカットして女性らしい揺ぎを表現、「ドレープの女王」と評されました。私は学生時代に「現代衣服の源流展」でヴィオネの1着のドレスに出会い、ファッションの世界で働いてみようと決意しました。その頃はヴィオネのクリエーションの原点が日本のきものにあったとは全く知りませんでした。また、明治維新の前年パリで開催された万国博覧会に日本初参加以降、会場で日本の出品物に魅せられた西洋人が増えて「ジャポニスム」が生活様式やアートシーンの大トレンドになり、ヴィオネやココ・シャネルが活躍した時代のファッショントレンドもジャポニスムだったということも後年知りました。20世紀前半パリコレで活躍する多くのデザイナーがきもののデザイン、テキスタイルや色柄を取り入れコレクションを創作していたのでパリモードはジャポニスムだったとファッション業界人はご存知でも、一般消費者はご存知ありません。きものが戦前のように復活するとは思えませんが、日本の美意識が初期パリコレの原点だったという点はもっと世間に広めたいですね。
2026.01.28

昨日、ジュンコシマダ岡田茂樹さんのことを書きました。関係者の皆さんに早くお知らせしなければとFacebookにも訃報を書いたところ、新潟県五泉市で絹織物製造をなさっている横野弘征さんから以下のコメントが入りました。(一部を抜粋、原文のまま)「絹のみち広域連携プロジェクト」で右も左も分からぬ私にたいして「ディスプレイは下手すぎるが、一番目が輝いていた」と目をかけて頂き色々とご指導頂きました。山形の鶴岡に行く途中、新潟で打合せさせて頂き「白生地で売るのではなく、自分たちでブランドを立ち上げるなら俺は手伝う」とおっしゃられ、その場で自社ブランドを決意。日本橋三越のバイヤーさんを紹介頂きスタートしました。「生地で売るな」「自分たちで主導権をもて」「安売りするな」「売場は選べ」とブランドマネジメントのノウハウをお聞きし、今でも実直に守り直販にこだわり10年継続できたのは岡田さんのご指導あってこそだと心から思っています。毎年末にブランドの状況報告をさせていただいていましたが、2024年の際には「もう俺は長くないし施設に入るからこれを最後にしよう、頑張ってな」と言われ涙にくれました。地方の繊維事業者に対してファッションブランドを育てた岡田さんらしい的確なアドバイスをされていたんですね。横野さんのコメントを読みながら私も業界同志だった故人を思い出して涙が込み上げてきました。そして、このコメントを読みながら、息子が運営している有機栽培農場「青梅ファーム」(東京都青梅市)誕生時を思い出しました。かつて息子は日本のファッション商品をアジア各国へ売り込み、アジアの若手デザイナー商品を日本に導入することに奔走しておりましたが、ファッションの世界から転じて有機栽培のビジネス化をしたいと言い出しました。農業の高齢化は日本の社会問題ですが、同時に次世代がやり方を変えれば農業にはまだまだポテンシャルがあるはず、農業の新しいBtoCビジネスつまり生産者が中間業者を通さず直接消費者に農産物を販売する、さらには自分たちが生産する安全安心野菜料理を提供する飲食ビジネスには可能性があるのではと思いました。 青梅ファーム有機人参は特に味が濃いファームの収穫祭ファーマーズマーケット@青山通りにはバンタム級世界チャンピオンの姿も「やるなら青果市場は通さない、農協にも頼らない、消費者ダイレクトの農業ビジネスを作ったら」と私は有機栽培農業への転向に賛成しました。彼らが生産する有機野菜は青果市場を通さず都内の有名レストランにもたくさん届けていますが、主に毎週末のファーマーズマーケットで一般消費者に直接販売、都内の自社レストラン(青梅ファームキッチン)でもお料理として提供しています。農場には欧米の超有名レストランシェフが訪ねてきますし、身体が資本のボクサーなど格闘技選手(中には世界チャンピオン)もマーケットや農場の収穫祭にやってきます。 ある3つ星フレンチレストランのシェフ曰く、「有機栽培は値段が高めだけど野菜の味がしっかりしているので塩とオリーブオイルの消費が減る分コストは変わらない」。言われてみれば確かにそう、プロの意見には説得力あります。全米総合格闘技チャンピオンが年末の試合に来日した際はその奥様が「日本のスーパーで売っている野菜は安心できない」とファーマーズマーケットで野菜を購入、チャンピオンに毎日料理を作りました。 同じことは漁業にも言えます。漁師が海で釣ってきた鮮魚を魚市場に卸さず自らの魚料理店や寿司屋でお客様に提供すれば究極のBtoC魚ビジネスができます。遠海物は自ら調達できないので魚市場調達するとして、近海天然物は冷蔵運送時間が短縮できて美味しく提供でき、きっとお客様に喜ばれるでしょう。農業であれ漁業であれ、従来の流通の仕組みの中で考えれば一次産業に進化はありませんが、やり方を変えれば特別な価値をお客様に提供できます。 繊維事業もしかり。生地を製造している会社がクリエイターと組んで自社ブランドのアパレル商品を販売すれば面白い事業が成立するはずです。イタリアのロロピアーナ、エルメネジルドゼニア、チェルッティ1881、それぞれ本業は素材メーカーでしたが、近年は上質ファッションブランドとしての認知度が上がり素材メーカーであることをご存知ないお客様が増えています。 先日最終発表会があった経済産業省グローバルIP創出プログラムの中にも、尾州の歴史ある毛織物工場がオリジナルブランドを手がける事例がありました。今後生地メーカーが最終アパレル(あるいはリビング)製品を自社生産しブランド商品として市場展開する事例が増えればいいなと思います。 前職クールジャパン機構時代、私は全国各地の地方新聞や商工会議所が主催する講演会で地場産業経営者や一般市民の皆さんにクールジャパン事業について何度もセミナーをさせていただきました。「クールジャパンは単に日本のコンテンツや日本製商品を海外に売り込むことではありません。日本の美味しい、カッコいい、優れものをもっと世界に広め、且つ事業者がしっかり利益を上げなければなりません」、「概して日本企業は海外エージェントや総代理店を儲けさせるだけ、自らはあまり儲けていないケースが少なくありません」と説明してきました。 これまで日本企業の輸出ビジネスは「品質良い割には安いんです」「性能いい割には安いんです」と主に価格訴求してきましたが、「カッコいいから高いんです」「美味しいから高いんです」と高い価格で押し通してきた企業はほとんどありません。戦後しばらくの間「日本製=安かろう悪かろう」時代が長かったからか日本酒はじめ食料品、テキスタイルや洋服、漫画アニメやキャラクターグッズなども値引きせず自信を持って高く売った経験がほとんどなかった。これでは「クールジャパン」と言えません。 特にいろんな蔵元にお邪魔した際は日本酒をどうしたら海外で高く売るかを考えるべき、と申し上げました。中身のクオリティーはそのままで十分。問題は安っぽく見えるボトルと外国人には意味不明のラベル表記の改善です。高級シャンパンのようなボトルに替え、ラベルの筆書きはそのままでいいのでブランド名と生産地くらいは英語表記すべきでしょう。和食がユネスコ認定され海外で評価は高まっているのですから日本酒の海外需要は増えますし、ワイン王国の現地企業が美味い日本酒を簡単には醸造できませんから日本の蔵元は自信を持って高く販売すべきです。岡田茂樹さんの横野さんへのアドバイス、「安売りするな」は衣食住いかなる日本企業にも響く言葉ですが、安売りしないために作り手はどんな創意工夫するのかが課題。世界に売るならばクールに売りたいですね。
2026.01.23

年初、お送りした年賀状が転居先不明で数枚戻ってきましたが、その中にジュンコシマダ事業を育てた岡田茂樹さんがありました。流山市のご自宅にいつも通りお送りしましたが転居先不明、嫌な予感がしました。晩年岡田さんは経済産業省繊維事業者自立支援プログラムで接点のあった山形県鶴岡市のキビソ事業者(従来捨ててきた絹玉の堅い外側を柔らかくして利用)を支援してきましたが、そのキビソのポップアップイベントで担当者に年賀状のことを話したら「ケアハウスに移られたようです」と伺いました。心配になって今度はジュンコシマダのショップに出向き、長年働いているベテラン販売スタッフに岡田さんの消息を尋ねました。数日前のことです。が、ここでもはっきりしたことは分かりませんでした。そして気を利かせた販売スタッフは同ブランドの広報をずっと続けているNさんに問い合わせしてくれたようです。そして今日Nさんから連絡が入り、岡田さんは先月11日に病死されたと知りました。残念ながら嫌な予感は的中してしまいました。岡田茂樹さん岡田さんとの最初の出会いは1985年春CFD東京ファッションデザイナー協議会設立趣旨を多くのデザイナー宛に送ったとき。ジュンコシマダ事業を展開するルシアンプランニング専務だった岡田さんは突然受け取ったCFD設立趣旨と参加呼びかけにどう対応していいのかわからなかったのでしょう、岡田さんから私に電話が入りました。一方的に文書を送ったのでちょっとおかんむりだったのでニューヨーク時代の私の兄貴分だった三越の山縣憲一さんに事情を話して岡田さんとの仲介を頼み会食に出かけました。以来40年あまり岡田さんは私にとって業界同志と呼べる仲でした。80年代後半、墨田区役所がビジネススクールを設立する構想があったとき「俺もやるから業界のためにあなたも一緒に参加してよ」とファッション産業人材育成戦略会議のメンバーになってもらい、育てる人材像、教育方針、カリキュラム概要など一緒に議論しました。のちに墨田区内に財団法人ファッション産業人材育成機構(通称I.F.I.ビジネススクール)が誕生したときも一緒に教育方針などを議論しました。組織は誕生したけれど教育方針をめぐって連日会議ばかり、なかなか前に進みません。しびれを切らした私たちは山中理事長兼学長(東武百貨店社長)に試験的な夜間コースの開催を迫りました。「議論よりもまず開講してカリキュラムや教え方を改革すればいいじゃないですか」、と。こうして岡田さんがアパレルマーチャンダイジング、私がリーテルマーチャンダイジングを受け持つ夜間プロフェッショナルコースが始まりました。それぞれ定員25名、講義は週に一度夕方6時から2時間、コース担任の私たちはカリキュラムを作り、外部講師を決め、講師の皆さんに何を話して欲しいかを説明、私たちは講師と受講生をつなぐコーディネーターとして講義に立ち会って試験的プログラムは始まりました。週1回半年間の試験的講義は無事終了、山中理事長から慰労の会食にお誘いいただきました。当日念のため岡田さんの会社に確認の電話を入れたところ岡田さんはお休み、千葉県のどこかでゴルフしていますと聞いて私は慌てました。おそらく岡田さんは今日の会食を忘れているに違いない。わがCFD事務局スタッフに千葉県(全国で最もゴルフ数が多い県)のゴルフ場に片っ端から電話をかけ「そちらにダンロップスポーツ岡田専務がプレーされていませんか」と問い合わせてもらいました。何件か電話をかけるうち、岡田さんは茂原市のゴルフコースでプレー中、会食のことはすっかり忘れていました。ここでプレー中断、岡田さんは車を飛ばして東武百貨店のある池袋にギリギリ間に合いました。慌てて駆けつけた岡田さんの面白おかしな話に会食は大いに盛り上がりました。経済産業省繊維課長に頼まれて同省が進める繊維事業者自立支援プログラムの委員を引き受けたときも、「俺もやるからあなたも業界のために参加してよ」と委員仲間に引っ張り込みました。全国の中小繊維メーカーが申請する新事業の審査は大変でした。事務局から送られてくる申請者の事業概要、過去3年間の決算書ファイル50件あまりを読んで採点し、上位得点者を個別に面接して採択する作業は肉体的に大変でした。そして採択した会社の個別指導も必要だろうということになり、面談して採択する審査チームと現場に足を運ぶ指導チームに分かれ、岡田さんは後者の専門委員として地方の繊維事業者の現場に入り込んでアドバイスしました。そのひとつが冒頭に触れた鶴岡市キビソ事業。岡田さんは自らのネットワークを使ってこの新事業にテキスタイルデザイナーや若手ファッションデザイナーらに協力要請し魅力的な商品を開発しました。岡田さんが指導したキビソ事業岡田さんはどういうわけか自身の路線変更を計画しているときいつも私を訪ねてきました。島田順子さんを最初に口説いたルシアン野村の野村社長が急逝した直後、ジュンコシマダ事業をこのまま継続するか他社に移すか迷っていたときも、他社移管が途中で発覚して自分がダンロップスポーツに移籍するときも、島田さんに頼まれてジュンコシマダ社を設立するときも、「太田さん、どう思う?」と。しかしいつも「どう思う?」と私に意見を求めたのではなく、もう決意しての訪問でした。バブル経済時代多くの若手デザイナーとアパレル企業との協働プロジェクトが誕生しましたが、そのほとんどは失敗、嫌気がさした企業側は若手とのブランド事業からほぼ撤退しました。しかしルシアン野村と島田順子さんのジュンコシマダ事業は最盛期売上90億円余と数少ない成功事例でした。その成功要因は島田さんのクリエーションを受け止める岡田さんのマネジメント、イメージ戦略を担ったプレスのベテラン小笠原洋子さんの存在があったからです。東京コレクションをCFDからJFWに移管する話が持ち上がったとき、役所と業界幹部は3代目CFD議長に岡田さんをと主張、彼の体調のことを考えて私は無理をさせられないと反対しました。が、岡田さんは引き受け、時々カテーテルを打ちながらデザイナーの取りまとめと繊維事業者とデザイナーのマッチングに奔走しました。初代議長の私と東京コレクションをJFWに移管させた3代目議長の岡田さん、不思議なご縁でした。またひとり業界同志が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
2026.01.22

昨日京都洛北の国際会館会議室で経済産業省グローバルIP創出プログラムの発表会が行われました。明治時代の殖産政策によって発展してきた全国の繊維産業とクリエイティブな仕事をしている新興企業やデザイナーとの協業を世界市場に押し出そうという支援事業の試みです。採択された10チームは同プログラムに委託されたアドバイザーに相談しながらプログラムを形にし、昨日はその成果物の商品をお披露目する会でした。経済産業省グローバルIP創出プログラム発表会私もアドバイザーとして4チームにあれこれアドバイスしてきました。これまでの経験から何度も助言したのは、商品企画する上でのマーチャンダイジングの基本「誰に、何を、どのように、いくつ売るのか」を順番間違えずキチンと守ることが重要、そしてネット時代のビジネスとしてBtoBではなくBtoCにシフトすることでした。特に海外に販路を求めるのであれば、従来の卸売ビジネスではなくお客様からダイレクトに代金をいただく小売ビジネスを考えた方が良い、と。昨日の発表者の1チームは今日からパリに出張、来週のメンズデザイナーコレクション期間中サンジェルマンとマレー地区のセレクトショップでポップアップを開催して直接現地のお客様に販売するそうです。彼らにはメンタリングの際に「海外有力店は支払いが極めて悪く代金回収が難しいのでBtoCを目指した方が良い」とアドバイスしました。それを受けて卸売ではなくポップアップイベントでお客様に直接販売するそうです。初めての海外販売ゆえ知名度はなく簡単には売れないないかもしれませんが頑張って欲しいですね。昨日の発表会後も会場で彼らに再び説明しました。「数日前米国大手百貨店サックスグローバルが連邦破産法を申請したでしょ。サックスフィフスアベニュー、ニーマンマーカス、バーグドルフグッドマンと傘下に3つの高級百貨店を有する巨大企業が倒産申請したのは、もう古いビジネスモデルが通用しないということ」。時代が大きく変わって、ブランド企業は小売店に卸すよりも自社店舗網を整備した方がリスクがないんです。SAKS FIFTH AVENUENEIMAN MARCUSのN.Y.進出は失敗だったBERGDORF GOODMAN私がニューヨーク時代にジャパンブランドを米国小売店に紹介した頃はブランド側からの仕入れ金額のおよそ2倍の小売上代を付けるのが一般的でした。下代(FOB)に輸送料と輸入関税を足した原価が仮に米ドル200ドルであれば、小売店は2倍の400ドルで販売。競争力のあるアイテムであればこれにもう少し上乗せした値段で販売したものです。当時は完全買い取り、しかもベンダー側には着払いよりもリスクのないL/C決済でした。ところが年々米国有力小売店は自分たちの取り分を増やし、原価の2倍ではなくハイマージンを取るようになり、2.5倍から3倍の小売上代を付けるようになりました。しかもシーズン末のセールで売れないと買い取りにもかかわらず条件にもかかわらずベンダーに返品を要求、もしくは代金をなかなか支払わない。私の経験で言えば、有力店、有名店ほど支払いは悪く、ブランド側は米国小売店から早く代金回収できなくなったのです。つまり買い取りビジネスだからとありえないマージンを乗せて販売、売れないと返品受け取りを求め、代金は支払ってくれない、これが近年の米国百貨店や有力セレクトショップの実態。これは米国内ブランドに対しても同じ、支払いの悪い小売店を有力ブランドが訴える事件が起こるようになりました。こんな横暴なビジネスが長く続くわけありません。こういう姿勢の小売店に対してブランド企業はどうするか。当然卸売ビジネスを抑え、自ら小売店網を広げてダイレクトにお客様に販売します。ニューヨークのマンハッタンであれば、サックスやバーグドルフが店を構える五番街のみならず、ブティックが多く建ち並ぶマジソン街、ダウンタウンのソーホー地区やミートマーケット地区などに直営店をいくつも構えるようになりました。直営小売店は家賃と人件費はかかりますが、取引先小売店が乗せるマージンはありませんからブランド側の取り分は増えます。しかも直接お客様に販売するので代金は必ず回収でき、何か月経っても代金回収できないリスクはありません。私がブランド企業の経営をしていた頃、いつまでも支払う気配のない海外取引先を整理し、自ら大型店をつくって卸売業からの脱却を進めました。「有名店から撤退するとブランドの格が下がる」と反対する声が社内の一部にありましたが。BERGDORF GOODMAN3階日本国内のビジネスはちょっと事情が違います。まず日本の百貨店の支払いが遅延することはありません、キチンと期日内に払ってもらえます。米国小売店のようにとんでもないマージンを勝手に乗せることなんてこともありません。なぜなら米国は下代取引ですが日本は上代ベースの取引、米国のように小売価格を百貨店が決めるのではなくベンダーが全国統一価格を決めます。米国は巨大百貨店の弱肉強食の構図、日本は共存共栄なのです。N.Y.早期撤退したNEIMAN MARCUS婦人靴売り場サックスフィフスアベニューが経営不振に陥ったときカナダ大手のハドソンズベイが買収しました。ハドソンズベイは北米大陸で最も古い会社組織、かつてその代表者は英国王室または政府に任命されたのか「社長」ではなく「提督」と呼ばれたとか。単に小売事業だけの会社ではありません。コロナウイルスが影響して競合店ニーマンマーカスが破綻したとき、ニーマンとその傘下のバーグドルフグッドマンはサックス傘下に組み込まれ、3つの高級品販売百貨店が1つのグループになりました。HUDSON'S BAYはアムステルダムに進出したが失敗ところがこの強大な高級百貨店グループが多額の債務を抱えてチャプター11(事実上の倒産)申請、百貨店がハイマージンを稼ぐビジネスモデルはもう完全に時代遅れになった証でしょう。チャプター11申請しても営業そのものは可能なんですが、近年のハイマージン百貨店モデルが元通り続くとはとても考えられません。ラグジュアリーブランドの多くは巨大グループにどんどん買収され、いまは数グループが市場を支配するようになりました。彼らは3つの高級百貨店が米国市場から消滅しても十分ビジネスできる小売店網をすでに確立しているので影響は軽微です。かつてバーニーズニューヨークはチャプター11を2回経験して市場から消えてしまいましたが、サックスグローバルも業務革新しないといずれバーニーズと同じ道をたどるのかもしれませんね。
2026.01.17
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