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カテゴリ: 虚  第一章
不吉な名に踏み出した足が凍りつく。
白炎(びゃくえん)、と言わなかったか・・・・・・。
(嘘だ・・・・・・。)
強い拒絶は疑心という鬼を呼び覚ます。
頭の芯が冷えていくのを感じる。
(そんなはず、ない・・・・・・・・。)
たかが夢だ。
・・・・・・・・朝目を覚ますと枕元が血でべっとり濡れていることがある。
そんなことは知らない。

ありえ、ないっ。
・・・・・・・・感触も、覚えている。夢には香りも鮮やかな痛みも快楽もある。
・・・・・・・・はっきりと、覚えている。
やめっ・・・・・・・!!
・・・・・・・・夢だと思うから、お前は正気でいられる。
夢だと思うからっ、俺は正気でいられるっッ!!
疑心の声と、咬(ぜん)の精神の叫びが重なる。
ギリギリだった。
ほぼ水面張力の危うさの中にあったのだ。
自分が自分ではない・・・・・・その感覚が常にあった。
夢を見る度にそれは強くなっていく・・・・・。

『あんた、俺が邪魔だろう・・・・・刺桐(しどう)。』
『思い出されたのかっ、元虎ぎみ!』
『違う、俺が入り込んだときに逆に意識を読んだんだ。そうだろう?』
(あれは俺じゃない。)
名も知らない男を咬は余裕を交えて呼んだ。

他の誰かが言ったのかと思った。
けれど声も言葉への感情の込め方も咬自身のものだった。
「咬」と咬の交感はごく自然に違和感なく行われた。
「君に、話がある。咬。」
『貴公に話がある、元虎殿。』
踏み出した足が凍った咬の隙を、まるで今の今まで狙っていたとばかりに背後から言葉の刃が襲う。
刺桐だった、・・・・・・振り返らずとも判る。
次いでカチッと奇妙な音がする。
(あのクセ、か。)
咬ではない「咬」はおかしな冷静さの中で自覚する。
武器を持っていない時の刺桐の悪癖だ。
無意識に手が武器を探して、爪をかち合わせる。
その回数は対峙する相手への警戒と不信の高さに比例する。
それは一見弱点のように見えるが、その実、これは明らかな威嚇と示威行為なのだ・・・・・・この賢い獣の。
「咬」はそれを知っている。
だから本人にも知れず、そっと艶めかしく微笑った。
「咬」は振り返りはせず、そのゾッとするほど美しい微笑を声のみに乗せた。
春の夜風がその音色を運ぶ。
「“私”が恐ろしいか。」
咬の背後にいる刺桐たちは思わず身じろいだ。
内臓をゆっくり剥いていかれるような、人の劣情を引きずり出していくような“魔性”の声だった・・・・・・・声だけで欲情すらしそうだ。
明らかに先程までの咬の声ではない。
刺桐は一瞬でカラカラに渇いた喉の奥から声を振り絞った。
「元虎、殿か・・・・・?」
その言葉に咬は我に返った。
「・・・・・・あっ・・。」
咄嗟に指で己の唇に触れる・・・・・・そしてそのまま凍りつく。
震える身体をなだめる術を咬は知らなかった。
「あ・・・・ああぁ・・・・い、・・・やだッ・・・・・・・・やああぁ・・・・。」
怯えに、助けを求めるように喘ぐ。気が狂いそうだった。
だから、甘く凝った闇が己の傍らでとぐろを巻いているのに、咬は気付けなかった。
「違、う・・・・俺じゃな・・・・・・俺は知らな、いっ・・・・。」
息が上がる、血流がザアッと音を立てて巡る、頭に錐を刺したような激痛が間断なく襲う。
息ができない。
瞳には何も映らない。
『元虎様・・・・・。』
女の淫靡な呼び声が聞こえた。
やめ・・・・・て、くれ・・・・・・・“俺”じゃなくても、いいくせに・・・・・。
(呼ばないで。)
「どう、して・・・・・。」
堪え切れず地面に膝をついたことも咬は自分で気づかなかった。
驚いたのは刺桐たちの方だった。
急にくず折れる様にうずくまった咬に慌てて駆け寄る。
弾城(だんじょう)が咬を抱き起こすと、ムッと濃い血の匂いが広がった。
(何っ!?)
何が起こったのかと青ざめながらも弾城は、咬の身体をざっと調べる。
すると咬の太腿の部分の服の布地がぐずぐずに血濡れていた。
「元虎様っ!」
切羽詰った声で呼ぶが咬は応えない。
けれど苦しそうに喘鳴している。
と、ブツッという異様な音がした。
同時に咬の右腕が激しく震える。
その腕から間をおかず、見る見る血がしみてくる。
「元虎・・・・元虎さまッ。」
焦りが弾城の身を焼いた。
元虎の死の際が思い出された。
血の気を失った唇に、生前の覇気の欠片すら見当たらない、・・・・けれど今まで見たどの顔より安らかな表情・・・・・、かすかに微笑んですら見えたその顔は菩薩の様に見えた。
顎から首筋、肩までの滑らかなラインは無惨にもおびただしい血が散っていた。
それが泣くに泣けなかった彼の最初で最後の精神の涙に見えてならなかった。
ちょうど今と同じように。
(冗談ではないッ。)
そう、冗談ではなかった。
あの時の想いだけで自分は何回も死ねた。
それでも今生きているのは・・・・。
(貴方がここに在るからだ。)
二度と失うことなどさせない。
血を吸って重くなった黒い学生服を弾城は引き裂いた。
夜の闇のせいでよく見えないのに構わず、手で直接患部を確かめる。
自分の気を咬の身体に直に叩き込むつもりだった・・・・・・が、弾城の手は途中で困惑を表し、止まった。
「どうした。」
ただならぬ様子に刺桐が隣に膝をつき、尋ねた。
「・・・・・傷がない。」
「傷が?」
それ以上何も聞かず刺桐は咬の腕に触れ、確かめるように血の出ている部分を撫でた。
「・・・・・確かに、ないな。」
確かめてみると、太腿の方にも傷はなかった。
けれど血は皮膚から湧き出るように流れ出ている。
止まる気配はない。
他に血が流れている箇所はなかったが、すでに半身が血に沈む様になっている。
その上にこってりとした闇が凝っていた。
咬の身体に異様な念が絡みついている。
「血が・・・・、止まらんぞッ。」
(どういうことだっ、この波動は・・・・・・白炎殿か!!)
どうする、と刺桐に視線をやる。
刺桐はこちらを見て軽く肩をすくめ、そして苦々しくため息をついた。
白炎は直接の主ではないが、一応刺桐と弾城の主筋に当たる。
そのため、白炎が相手では下手に逆らえない分動きにくい。
(だが・・・・・・。)
自分の腕の中の人物を見る。
咬は熱にうかされているように喘いでいる。
その指が痛みの他に縋るものを求め、わずかに宙を掻いた。
それを躊躇わずに握ってやりながら、弾城は咬の左腕に視線を走らせる。
先程咬に呼応した数珠が接触を拒んでいるはずだ。
(上手く順応していたから余人は近づけまいと思ったが・・・・・甘かったか。)
覚悟は決まったとばかりに動く弾城を見やり、同じ事に思い至ったのだろう刺桐が咬の左腕を取った。
そして次の瞬間、鋭く目を細める。
刺桐の片目だけ青い眼が、抜き差しならない笑みを深めた。
「弾城、仏影が五体死んでいるぞ。」
馬鹿な、と思わず言葉にし、咬の腕の数珠を見る。
すると仏の御姿を彫り込んだ数珠玉の大方半分がひびが入り白濁していた。
(まさかっ・・・・!)
弾かれたように咬を見やる。
苦しげに喘鳴し、瞳はほとんど閉じるように伏せられている。
はっと胸を突かれるほど痛々しいその姿に、放心した虚ろな瞳だけがどこか異様な光を宿している・・・・・そう思えてならなかった。
(確かめねば・・・。)
「咬様・・・・・・。」
元虎ではなく、今際の名を呼び、咬の手を一層強く握った。
・・・・・と、それに応えるように、伏せられ、まつげに隠れていた瞳が、ゆるゆると上げられた。
その瞳は黄金の美しい光炎に染まっていた。
(やはりっ・・・・・!!)
<喚魂者>としての力が目覚めかけている。
いくら白炎でも、十二もの仏の眷属の宿った数珠玉を殺すなど不可能だ。
それを成すには、これらの眷属と血の誓約(うけい)を結んだ者が内側から喰らうしかない。
つまり咬しかいない。
白炎の接触を自力で拒んでいるのだろう、自らを守る力すらも拒絶して、今にも食い殺さんばかりに容赦なく責めたてている。
区別がついていないのだと、と弾城は青くなった。
ならば、このおびただしい出血は咬自身のせいだ。
敵味方の区別もつかず、力のコントロールもできぬまま、自らの精神を守るために、自らの身を焼いているのだ。
気付いて然るべきだった、精神的にまいっていない筈がなかったのだ。
自分の情けなさに臍を噛む。
同時に咬の凄まじい拒絶に肝をつぶした。
血は止まらない、どころかどんどん出血の激しさを増している気がした。
まるでその血で全てが洗い流せる、とでも言うように。
堪らず、咬の身体を掴んで揺さぶった。
「しっかりなされよッ、咬様っっ!!」
しかし咬の瞳は弾城の眼を捉えない。
ただ虚ろに宙を見つめるだけだった。
「貴方はまたッ、また死ぬおつもりか!白炎殿の元でここ一ヶ月貴方に接触していたのは、有家 清綱(ありえ きよつな)ですぞっ。同じ人間に二度もその御命くれてやるおつもりなのかっ!!」
血を吐く思いで叱責する。
もはや自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
「・・・あり・・・・、え・・・?」
掠れた声で咬が呟いた。
(反応した。)
弾城は思わず眼を見張った。
「ありえ・・・・・きよ、つな・・・。」
咬の瞳の黄金の炎光が徐々に消えていく。
逆にその瞳に凛々しい意志の光が戻って来た。
「違う。あいつが俺を殺したんじゃない・・・・俺が・・・俺が追いつめたから・・・・。」
無理矢理喉から声を出し、強い瞳で咬が弾城を見据える・・・・・が、徐々に続ける声に疲れと苦痛が宿り、途中で言葉は途切れていった。
そしてそのまま、咬は疲れ果てたように気を失ってしまった。
当たり前だ、あれだけ力を使い、出血もおびただしい。
これで生きている方が謎だった。
後ほんの少し遅ければ、実際死んでいただろう。
その咬を繋ぎ止めたのは、元虎を殺したはずの男の名だった。
憎んでいるのか・・・・、いやそんな感じではなかった。
弾城は密かに驚きに堪えていた。
たかが名一つであの状態の咬を引きとどめたのだ・・・・・・まるでその言葉こそが楔だと言うように・・・・・。
「・・・・・・・・・。」
咬を見る。存外、幼い顔で眠っている。
(己を殺した敵ではないのか・・・・?)
咬の血は完全に止まっている・・・・・・・・・。







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最終更新日  2005年09月10日 16時06分22秒
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