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カテゴリ: 虚  第一章
場面は変わり、時は少し溯る。
咬(ぜん)はふと夢から覚めた様に文学書から顔を上げた。
空調が利いて適温が保たれた図書館の室内は居心地が良く、人は居たが程よい静寂さを持続している。
その心地よさに咬はほっと息をついた。
読み終えた本を閉じ、思い出した様に窓の外へ目を向けた。
美しい青に染まっていたはずの空は今は夕暮れの茜に潤んでいる。
いつの間にか朝が夕方に取って代わられている。
どうやら昼食を摂るのも忘れて熱中していたらしい。
御蔭で気になっていた本をかなりの数読めたが。

既に四時半を回っていた。
早朝、担任と話した時の苦虫を噛んだ思いは跡形も無く消え去っている。
未だ貧血のせいで身体はだるいが、無責任な他人のいらぬ御世話にずっと頭を使うほど咬は繊細でも無く、学習能力が無くも無い。
そんな馬鹿馬鹿しい事はしない。
何より、咬は本に向き合うこの空間と時間が好きだった。
人の肉声の言葉は咬の心を打ったことは無い。
声に乗せられる言葉はいつも何か嘘臭く、体面と偽善とエゴを含み、咬の内をすり抜けていった。
けれど本は違う。
同じ言葉なのに何故、と咬は不思議に思う。
語る人の違いだろうか、それとも自分が向き合う度合いが問題あるのだろうか。
本はいちいち咬の内奥を抉り、今まで見たことも無い世界を眼前に広げる。

読むのが“痛い”と感じさせる文章もあれば、呻くほど生々しいものを綴ったものもある。
本の影響で自殺した人もあると言う事も頷ける。
自分が知らないほどの己の内奥を暴かれる心地がするのだ。
本からは肉声よりも力のある、もっと血の滲んだ皮膚の様な生々しいものを感じる。
だから、何よりも興味深く、面白い。

自然、其の空気が最も感じられる此処には、一度入ると何時間も居てしまう。
だが今日は少しのんびりしすぎたかもしれない。
閉館が近い。
咬は立ち上がり、机上の本を手に取った。
其の本たちを元の棚に戻しながら、未だ読んでいない文豪の本を棚から抜いていく。
全部戻し終え、本棚から四冊抜いた所で受付に向かった。
残念ながら、ハードカバーを何冊も買う余裕は咬には無いので。
聞き慣れた手続きを終え、図書館を出た。
外に出た途端柔らかい暮色が街を包んでいるのが目に入る。
同じ姿勢をとり続けた身体は少し動き辛く、身をほぐす様にして家への帰路を歩いた。
重度の貧血から立ち直っていない身体は重く、度々眩暈が襲う。
人の流れが更に眩暈を誘発する。
少しふらついた。
「・・・・・・・ふ、・・・・うっ・・。」
浅く息をつき、家へは少しほど遠くなるがビル街を離れた。
いつもの通学路にある、海の見える高台の坂道を思い出す。
今の時刻ならとても美しいだろう、と少し悔しく思う。
尤も、其れに気づいたのもつい最近で、気づいた其の時に刺桐(しどう)達に会ってぶっ倒れたので其の日以来見ていないが。
(そうか・・・・・・、俺はまだあの美しい景色を一度しか目に映していない。)
何故か其れが悲しかった。
自分はもうあの景色を二度、見る事は無いだろうことを知っていたから。
“私”は帰るだろう、あの恐ろしくも懐かしい処へと。
夜の水淵に浮かんでくる様な不気味な想いに咬は支配された。
(“刻”は近い。)
怨気が己が身を探し狂っている。
もう、遅い。
見つかる。
一瞬淡く、咬の瞳に黄金の炎光がよぎった。
けれど其れは海の泡のように虚しく消えていく・・・・・・・・・・。
“見ツケ・・・・・・・。”
「・・・・・・・・・。」
後に残るのは陰鬱さを孕んだ沈黙。
そして咬は“咬”から自らの支配下の身体と精神を取り戻した。
「・・・・・・何・・・・・・・・?」
驚愕する心からの声に応える者は、無い。
分けの判らぬ焦燥にどっと疲れる。
何故だか判らない“此れ”はもう幾度も体験した・・・。
毎日昼夜問わず訪れる狂夢と同じ様に。
(怖い。)
恐ろしいのは奇妙な事を不思議にも思わない自分に対して。
(どうして・・・・・。)
この問いはもう飽きて腐ってしまうほど。
疲れに足を止める。
見るとも無しに傍の壁に寄りかかり、キツく眼を閉じる。
じんじんと吐き気がした。
と、生ぬるい風が夕闇の昏さを含んで何処からか流れ込んできた。
眼を開けもたれていた壁から身を起こす・・・・・視線を転じると、直ぐ横には細い路地があった。
影が暗く夕闇のせいで奥までは見えない。
温度を感じないぽっかりとした世界はこの街には余りにも不自然だった。
其れでも其処は此方より多少涼しげに見えた。
当たり前だ、影しかない。
家の近くだという気安さもあっただろう。
少しでもダルさと吐き気を冷ましたい咬は何も頭に浮かばず其の世界に足を踏み入れた。
・・・・・・いや、本当は分かっていたのだ。
無意識下で、其れは陽炎の様に不確かで、実の無いものだったが。
咬は知っていた。
砂漠で渇いた旅人が水を求めるのと同じ切実さで、咬は其れを求めていた。
もう、ずっと長い間。
咬は意図せず其れを見つけたのだ。
咬は更に足を進めた。
暗い路地裏が束の間の邂逅の場所だった。





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最終更新日  2005年09月10日 16時03分19秒
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