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2005年11月26日
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慎ましくも和やかな村のすみずみまで橙に染まる頃合。

淡く美しい橙に空が染まり始めたと思うと、次の瞬間には夕日の暮色は温かなどこかまろみのある朱(あけ)の色にしたたるように潤んでゆく。
そしてしばらく、夢のような間(あい)の時間が過ぎると、空と夕日は同時に血の如く赤い“深紅”の残照にそのままの色の絵の具をお湯に溶かさずに落としたように一面に染まり、夕空と村の景観が溶け合うような心地がする・・・・・・・・。
そして後には夕闇の美しい“藍”が残る。
「いつもながら美しい・・・・・。」
氷翠王【シャナオウ】は、柔らかく息を呑み、笑ませた。
静かに透る声が周囲の空気を心地よく震わせる。
その声に、一歩下がって後ろを歩いていた男が静かに言葉を乗せて返してきた。

いつもは切れすぎる利刃が一閃するような、と言われ、続く間に散って咲く血の花まで見えるようだと言われた男の武人の声は、けれど今は暖かでまるで守るように、村を包み込むように響いた。
それを男自身も自覚し、夕日が美しいとゆう言葉に頷きながらも、その劇的な変化を与えた人の後姿だけをその目に映し続けた。
その視線はいつものことだったが、その人は振り返った。
「九鬼【クキ】。」
どうした、とも何だ、とも聞かずにその人は柔らかく唯一人の男の名を呼んだ。
何かを聞こうとしている九鬼の様子をその視線に感じ取ったのだろう、静かで柔らかい口調にうながされる。
「氷翠王様・・・・・・・・大事ありませぬか?」
「・・・・・・・・・・。」
村の子供たちが童歌を歌いながらそれぞれの家に帰るのを、柔らかに瞳を笑ませながら見ていた主君(氷翠王)がそれを聞き、わずかに首をかしげる。
「大事、とは?」
子供たちから視線を外し、こちらに向けられる瞳は淡く微笑してその輝きを強めた。

と、九鬼は心の中でつぶやく。
気になるような儚さが、この若い主君には付き纏っている。
それでいて、常に利剣の如く鋭い光を宿すのだ。
『例え一時であっても朱樺【シュカ】の指揮官が入れた者は我が家の子だ。ましてや、お前たちは朱樺家に心血を注ぎ尽くしてくれたいた。お前たち在っての朱樺家だ。・・・・・・・成人し、国に帰れることが許されれば、私は全てを捨てよう。この身も心も全てお前たちのために生きると誓う。・・・・・許せ。辛いことを言っていると分かっている・・・・・・・、だが、・・・・・今しばらく、堪えてくれ。』
それは切るような真剣さと血を吐くような切実さで、この人が告げた言葉。

この言葉を氷翠王が告げたのはまだたったの十四の時だったと思う。
長い間続いた朱樺家も氷翠王の祖父と父の死で滅びかけていた。
その際、氷翠王はまだ四歳だった。
それから氷翠王は十二年間もの間人質として、蒐【シュウ】家に送られていた。
この間の朱樺家の家臣の状況は悲惨だった。
すでに氷翠王の父が亡くなった今、当主は氷翠王だったが、その幼い当主すらも蒐家に奪われ、なまじ勇猛と唄われる朱樺家の武将だったばっかりに、ほぼ毎日のように戦に駆り出された。
敬愛し、忠を尽くした御当主の御形見である氷翠王が成人し、再び帰参することだけを希望にし、日々多くの者が戦で死んでいった。
土地に残されたのは、若い男を除く、老人や女、子供で、田畑を耕すことすら覚束無かった。
その朱樺家代々の土地すらも、大半を蒐家に奪われながらも、『氷翠王様の御為。今は堪え忍ぶ時ぞ。氷翠王が御成人なさるその時こそ・・・・・・・。』と、激しい飢えと貧困、身体を酷使することに十二年間堪えてきた。
皆、文字通り、血と泥にまみれながら、死に物狂いで生き、姿を見ることさえ叶わぬ氷翠王に希望を繋いできた。
そんな中で与えられたのが氷翠王のこの言葉だ。
会う事もできぬ中で、かなりの苦労を強いて氷翠王が送ってきた文だった。
この言葉が、氷翠王の自筆のこの文がどれだけ朱樺家の家臣の心を支えたか・・・・・・。
我らの心は氷翠王様に届いていた、と家中の者は皆一晩中男泣きに盛大に泣いた。
これが、さらにその後強く強く、家中の者を支えてくれた。
よくもここまで立派に育ってくれたと。
初めて氷翠王に会ったことを思い出す。
九年前だった。
『氷翠王様でございまするか・・・・・・?』
言いながら声音が震えた。
否、声だけではなく、全身が震えていた。
(・・・・・・・ようやく・・・・、ようやく・・・・・我が願いが・・・・・。)
あまりの感情の高まりに、気さえ失いそうだ。
相手はそれに応えず、
『其は何者ぞ。』
と、よく透る涼やかな声で言った。
九鬼は、この子供の声、姿に、空に鳴る北国の雪の嵐のような凛冽さを感じ、
(なんと御子柄の優れたることよ。)
とひたひたと感じつつ。
なかば祈るように、これがもし、ずっと探し求めていた御方ならばどれほどか・・・・・・・・。
(どれほどか嬉しいであろうか。)
と、心中で何度も請うた。
『九鬼、と申しまする。』
言い、面を上げる。
そして、その稚児の視線を正面から受け止めた。
『・・・・・・・・・。』
九鬼は言葉を失った。
(・・・・・・・・・なんという・・・・・・。)
血の青いすじが透けて見えるような薄く、白い肌が、烏の濡れ羽のような漆黒のその中に蒼ささえ含む髪に映え、凄まじいばかりの清らかさ・・・・・・。
九鬼は呆けたように稚児を見つめた。
鮮やかなまつげがしっとりと潤む朱(あけ)の瞳を縁どり、白い柔肌の清やかさがこの稚児を非常な美貌に見せている。
(・・・・この清やかさは一体何であろうか・・・・・。)
九鬼には戦慄が芽生え始めている。
『・・・・・御子の名は・・・・・・。』
自然と請うような眼差しで聞いた。
やがて、稚児の声が聞こえた。
『氷翠王。』
で、あった。
現か、と自分を疑い、“もう一度”と請う。
その御子は拒まず、再びその名を重ねた。
その声の涼やかさは、九鬼の耳には天上の御声のように聞こえた。
その時にはもう、九鬼は両膝を折り、御子の前に身を伏せてしまっている。
泣いていたのかも知れない。
「どうか、したか・・・・・・・?」
やはり、同じく涼やかな声に過去の記憶から引き上げられる。
「・・・・・・いいえ、随分とお疲れのようなので・・・・・・。もうお休みになられては。」
「そうだな・・・・・・・・、皆はもう休んだか?」
「いえ、まだ数人は事後処理に。」
言いながら、九鬼はしまったとほぞを噛んだ。
この方は臣下の誰よりも朝早くから仕事を始め、夜は皆が休むまで眠らない。
これが破られたことは一日たりともない。
気の荒い朱樺の武者を“鉄の結束”とまでいわしめたのは、こういう氷翠王の心があってこそのものだ。
一見目立たず、簡単に見えるこれらの事は、実は何より得難く、困難なことか九鬼は知っている。
そしてそれが家中の者の心にどれだけ沁み渡り、激励し、誇りに在らせたか。
では、氷翠王はどうだろうか。
決して氷翠王は自分の身体のことを疎かにすることは無いが、その心は果たして一人で心労を抱えていることはないだろうか。
この村には氷翠王にとって臣下しかいない。
自分たちは氷翠王の後ろをついて走ることはできるが、氷翠王には其れは許されない。
一人走り続けなければならない。
弱さや孤独は臣下の前ではさらけ出すことはできない。
それでも九鬼は、氷翠王の身だけではなく、その心を、その志を守りたかった。
氷翠王を守るために自分で切り落とした利き腕の部分を見る。
そこには何も無かったが、あの瞬間から自分はもっと大切なものを得た事を知っていた。
「九鬼。明日は獅吼【シコウ】と外に出る。」
涼やかな声がそれでも柔らかく気遣うように九鬼を包む。
だから大丈夫だ、とでも言うように。
九鬼の考えていることなど、とうに察しているのだろう。
獅吼が、捨て置けば休みもしない氷翠王のことを気遣って、息抜きだ、と村の外に何回か連れ出しているのを知っている。
「だから、後のことはお前に任せるぞ。」
そのどこまでも九鬼を気遣う言葉に、目が熱くなる。
故に、九鬼は打てば響くような返事を返した。
「はっ。」
その応答に、氷翠王は輝くばかりの笑みを、向けた。





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最終更新日  2005年11月29日 14時03分46秒
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