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「よし。身体機能異常なし。発育も良好だ。」
朝の清々しい風が窓から入り込む音を聞きながら、その澄んだ音に混じる医者の声を確認し、伸びやかな素足と上半身を惜しげもなく晒していた若すぎる人物は、眩いばかりの純白のシーツの上に無駄の一切ない動きで体を起こす。
そしてその強すぎるばかりの綺麗な眼差しをその人物は促す様に医者に向けた。
その眼差しを受け、医者の助手は呆気にとられた様にその人物をぼんやりと見つめていたが、医者本人の方はさすがにそんな様子は見せず、プロフェッショナルな冷静な面をその人物に向けた。
「もう行っても構わないぞ。後は一ヶ月に一度検査をするから覚えておいてくれ。」
その医者の言葉が済むと、その人物は脱ぎ捨てていた衣服を羽織り簡単に整えると、
「ありがとうございました。」
若々しい澄んだ声と軽い、けれど姿勢の綺麗な会釈を残し、隙のない身のこなしで部屋を出て行った。
微かに残るドアの開閉の音の余韻が完全に消えると、医者の助手を務める十分に若い女性は、感極まった様にゆっくりと吐息を漏らした。

医者の男はそれを見て、内心またか、と苦笑した。
その言葉に、十分に思慮と分別のある筈の女性は微かに頬を染めた。
「あら・・・・・いいえ。お若いのにずいぶんと雰囲気のある方ですのね。今まで貴方に付いて高貴な身分の方々をたくさん診てきたけれど、患者さんにときめいたのなんて、これが初めてですわ。妙に色気が御有りというか・・・・。」
彼女が礼儀と敬意を持って言う“お若い”と言うよりあの人物はまだほんの子供だったが、彼女らしい妙に律儀な言い様に医者は今度ははっきりと面に出して苦笑する。
稀なる“貴”の血を継ぐ蒐【シュウ】家専属の医者であり、蒐家の敷地内に現代の財力の粋を尽くして作られた研究所兼医療所である此処に来て診療を受けられるのは蒐家の血を継ぐ稀なる者か、よほど身分が高く蒐家に所縁の深い者だけだ。
それだけに、彼女もまたあの人物のことを同じ様な身分の者と思ったのだろう。
間違いではない、だが、あの人物の場合は著しく他と事情が異なる。
ついでに、彼女がもう一つ勘違いしている事を指摘した。
「“彼”は男ではないぞ?」
惨砂【サザ】の言葉に彼の助手である美女は目を丸くした。
「は・・・・・、けれど彼と言ったではありませんか。それに、あの子の上半身は・・・。」

惨砂が男と女性、と丁寧に区別をつけた事から彼のこれまでのスタンスが如実に表れていたが、今それを指摘する余裕が彼女にはない。
その事に惨砂は面白げに眉を上げたが、彼女はそれすらも気づかない。
「!・・・・無性体、ですか・・・?では、あの子が・・・・・・。」
「そう。神の子だ。」
「あの子が・・・・、朱樺【シュカ】の・・・。」

どちらにしろ、その呼び名はあの子の今置かれている窮地を救いはしないが、と惨砂は胸中で毒づく。
むしろどちらもが、あの子を地獄に追いやるであろう。
今置かれている状況も、あの子にとって良いとは口が裂けても言えない。
「しかし、それはおかしくはありませんか?あの子が“そう”なら、彼は蒐家にとって生かさず殺さず、の人質のはず。重症で死にそうだ、というならまだしも、見るからに健康体の、それも検査のためだけに彼にこのような高額をつぎ込むなど、これまでの蒐家の彼における仕打ちを考えれば、こんな裏を表にひっくり返したような待遇はおかしいわ・・・・・・。」
それは彼女の言う通りだった。
長い間続く朱樺家は宗主であった男とその父の死で滅びかけ、その両名の死後朱樺家と盟友であった蒐家は朱樺家を裏切り、当時まだ五歳であったその宗主の子を奪い、今までの九年間人質としての生活をこの蒐家の敷地で送らせていた。
この間の朱樺家と家臣の状態は悲惨で、宗主とその父が亡くなった今、唯一の跡継ぎである幼い当主すら蒐家に奪われ、なまじ勇猛と唄われる朱樺家の武将だったばかりに、ほぼ毎日のように蒐家の戦に借り出された。
敬愛し忠を尽くした御当主の形見である時期宗主を人質に取られているため刃向うこともできず、その時期宗主の御子が成人し再び自分達の領地に帰参することだけを夢見て、日々多くの家臣が戦で死に、土地に残されたのは若い男を除く、老人や女、子供で田畑を耕すことすら覚束なかった。
その朱樺家代々の土地すらも大半を蒐家に奪い取られていた。
それだけではなく、かつて朱樺家の臣下であった蒐家の者の朱樺家への侮りは凄まじく、蒐家の武将など戦帰りに夜中、朱樺家の参謀であった重鎮の屋敷に土足で大挙して踏み込み、女を物色する有様だった。
挙句の果てに朱樺家古参の重鎮の実の娘にまで手を出す有様だ。
唾を吐きかけられるのも稀ではなかったと聞く。
その重鎮の屋敷までこうなのだから、他の朱樺の者の元は想像に難くない。
普通なら『勇猛果敢でありかつ、獰猛』と謳われる、もしくは嫉妬と羨望、嘲りを込めて『猪武者』と囃される朱樺衆の武将たちのこと、反撃に血の惨劇が待っていても可笑しくはなかったが、朱樺の武将達は有り得ない程沈着に冷静さと大人しさを引っかぶっていた。
否、内心は腸が煮えくり返る思いであっただろう。
だが、それを朱樺の武将は表に出しはしなかった。
皆が半ば畏怖を持って謳う言葉の通り沸点があまり高くなく凄まじい反撃をすぐさま討つと知られていた朱樺の武将にしては不気味な程大人しかった。
何の報復もせず、朱樺の者は蒐の者の仕打ちに従順で一言も逆らいはしなかった。
武将の矜持を何より大事にする朱樺の者にしてはそれは有り得もしないほどの許容だった。
惨砂の聞く所によれば、宗主の御子が人質に取られたその日に朱樺の者全員に戒厳令が走ったらしい。
曰く、『己を犬と思え。』、と。
『常に腰を低く這い蹲り、面を地に伏せよ。激怒と憎悪を彼奴等(きゃつら)に曝すことはない。蒐家の者共は我らに如何なることをも要求するであろう。だが怒らず、逆らうな。憎き蒐家に足を舐めろと言われれば、足と言わずナニでもしゃぶってやれ。何も考えるな。今日から我らは犬だ。畜生でなければならぬ。我慢ならぬと思う時は“己は犬だ。畜生だ。”と言い聞かせろ。そして“人でありながら獣の精神である目の前の奴等よりは何よりマシだ”と思え。我らが今は亡き君といまだ幼き宗主、御子の御為ぞ。皆、今は忍ぶ時ぞ。・・・・・御子が御成人なさるその時こそ・・・・・・。』、と。
そして今、それから九年も経つが未だ蒐家に無礼打ちされた朱樺家の者もいなければ、朱樺の地を逃げ出した者もいなかった。
そしてその鬱憤を晴らしているのか、捨て駒のように連日続けて戦に投入される朱樺家の働きぶりは修羅か羅刹、鬼神の如く凄まじかった。
あの戦闘兵器である“守人”と比べても遜色なく、憎悪でも振り撒いているかの如く血溜まりの中を走り、共に戦っていた蒐家の武将の死体すら踏み躙り、己の武器が折れれば敵の得物を奪い取り・・・・・・・。
なまじそれだけに、美しい人形然とした守人は畏怖を感じさせるが、朱樺の武将の戦いぶりはそれより失禁するほど恐ろしかったと見た者は言った。
現に敵に回った者は戦から引き上げれば二度と戦場に立てぬほど精神をやられていたし、敵方の死体の数は戦を始める前の兵の数の六分の五以上ほどにも上った時もあった。
反して蒐家と朱樺家の陣営はほとんど被害は少なく、死人は大半が蒐家の者だった。
もしかしたら、戦のどさくさに紛れて朱樺の武将が背後から蒐家の者に切りかかったり、盾にしていたりするかもしれない。
朱樺の武将の戦いぶりは、蒐家の者が『これが普段、あの子猫のように大人しい朱樺衆か?』とのたまうほどであった。
惨砂も戦に従軍していた医者であるからその様子は良く知っている。
また、あの戒厳令の話を聞いた時は朱樺家のあまりの忠義に声も出なかった程だ。
これほどに忠義に厚い臣下を持つことがどれほど奇跡のようなことか、いやよほど亡くなった宗主が素晴らしかったのか。
その宗主の御子が、今、ほんの少し前までこの診察室に居た“彼”である。
名は、氷翠王【シャナオウ】・・・・。
だが、この場所ではその名が呼ばれる事は滅多に無い。
蒐家の宗主が“王”の付いたその名を蛇蝎の如く嫌ったからである。
他の者が“彼”のその名を呼ぶのさへ嫌った。
そして侮蔑を込めて、蒐家の宗主は氷翠王に他の呼び名を与えたのだ。
恙【ツツガ】、もしくは小鳥遊【タカナシ】、と。
恙の意味は、禍つ事。
古の話の中で『事に触れて、我が身に恙ある心地する』と出ているのを揶揄したもの。
鬼念が宿り毒気を振り撒くようになった“彼”の朱金の色に変わった瞳のことを悪意を込めて言い換えたのだろう。
小鳥遊は・・・・・・・・・。
そこまで思い返し、惨砂は助手である彼女に目を向けた。
ここ数週間で蒐家における“彼”の立場はかなりの変化を遂げたのである。





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最終更新日  2006年06月19日 18時12分34秒
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