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最愛の兄の思い出
再録・自転車のペダルが急に軽くなった夜 2025/12/08 開始
〇掲載初出 2004 年 9 月 25 日〇
私は、昭和 43
年 (1968)
に、高校に進学したが、その時、三つ上の兄は、医学部を目指して、浪人生活に入るところだった。
当時、大学受験の浪人は珍しくないどころか、むしろ一浪を冗談に「ひとなみ」と読んだくらいだから、当たり前のことで、更に二浪もかなりいた。
私のように現役合格する者はガキ扱いされる風潮だったが、これも決して悪意ではなかった。年の違う同士が集まる大学は、それまでの中学・高校にない、年齢を度外視した、格別な環境だったと言える。私は少林寺拳法部にいた頃は、前年の 1971
年にパニック障害で休学したので、一年遅れで大学復帰し、同い年の、本来なら同学年の人にさん付けで敬語を使い、逆に私より一つ下の奴らと名前を呼び捨てで交流するという大学に特有の関係にもあった。これはくどいが、大学に縁のない者にはついぞ味わえない独特の人間関係世界だ。
私の兄は予備校の類いを嫌い、俗に言う宅浪、自宅浪人生活に、はやばや生活を切り替えた。
先に、亡き愛犬ジョイに八つ当たりするほどストレスがたまることがあったと書いたが、兄はジョイを死ぬまでおびえさせたわけではなかった。
何といっても、あの巨大犬をしつけた人間だ。私一人では、とてもグレートデン一頭を手なずけることは不可能だった。後足で立てば身長ほぼ 180cm
または
それ以上だった。兄は、ジョイの小屋に寄って、誘うことがあった。初めおびえるジョイも、兄の顔つきを読み取って、すぐに近寄って甘えた。 

「よーし、よしよし。なあ、ジョイ。よーし、よしよし。いい子だ、いい子だ」と、あっという間に、自らの手でしつけ、いつくしんだ愛犬を再び三たびなつかせた。
この姿を見て私は、兄とジョイのあいだには、とても入り込めないと悟り、それがうれしくもあった。
私もまた、どこか優しい雰囲気をたたえた兄に、弟ながらほれていて、ささいなことが原因で二人全く口をきかなくなる「冷戦」の如き兄弟げんかの時を除いて、兄とはよくいろいろ話を交わして、楽しんだものだ。
兄はおじいちゃんっ子だった。その祖父の感化大なるものを受けて、幼い頃から兄は、講談に名高い英雄豪傑、妖怪変化となじみになった。無類の読書好きは、これも祖父に由来するとしか思えなかった。
親類のおばさんが来て幼い兄を街に連れ出してくれた時も、ちょうど往来をはさんで、菓子屋と本屋が向かい合っているあたりへ来て、欲しいものを何でも買って上げると言った時も、本が欲しいと言って、おばさんを驚かせたことがあった。
長じて兄は、文京区、小石川高校のとなりにある会社に就職したが、あれほど快活だった兄も、この会社で対人関係の悩みを抱えることとなる。同じ研究室に、兄に対して陰に陽にいやがらせをする男がいた。兄は大学時代の仲間からも温厚だと評価されていたほどだから、この男の根性がひねくれていたと解釈するほうが妥当だろう。例えば廊下で兄とすれ違う時、この男は兄を足払いで転ばそうとしたという。
兄は、北区赤羽の社員寮に入っていたが、ある時から、私の下宿に寝泊りするようになった。当時の私の下宿は、東京都の文京区千石 (
せんごく )
というところにあり、周囲は閑静な住宅街だった。もしも大都会東京の雰囲気を味わいたければ、一歩外へ出て、大通りまで出れば良い。私の下宿は兄の会社からは目と鼻の先だった。
四畳半一間の狭い部屋だが、私は兄と起き伏しを共に出来るつかの間の喜びを感じていた。
兄の弱音をそれまで全く聞いたことがなかったが、兄は時おり私に、件 (
くだん )
のいやな奴の話をした。私は激怒して、よく言った。
「俺が少林寺拳法で、そやつをたたきのめしてやる ! !
」
兄は一笑に付し、「なに、いざとなったら、俺も柔道の有段者だ。心配するな」とはねのけたが、心の痛みは決して軽いものでないことは察しられた。 
私は自転車を一台持っており、これを日常の足にしていた。当時はなぜか人より酒が強く、特に日本酒を熱かんでやるのが好みだった。
近所に「大名うどん」というのれんを掲げた小料理屋があり、同じ下宿の東大の大学院の人に教わったこの店を一時期気に入り、自転車で週に一度ほど、出かけた。
食後数時間たって小腹がすいたころ出かけて、とっくりをわずか二本あけると、ちょうど良い気分になった。そしてそのあと、関西風をうたう、薄味の大名うどんを食べると、ずいぶん腹がくちくなった。なお、この店には座敷もあり、鉄板が置かれていて、お好み焼きも食べることが出来た。
ある晩私は、珍しく大学の講義の予習をしていた。兄は会社から帰ってまもなく、ごろりと横になったまま、知らぬまに、一寝入りしたらしい。名前を呼ばれたので振り向くと、
「厚 (
ひろ )
、俺もずいぶん弱気になったのかな・・」とポツリ言う。どうしたのと聞くと、
「ジョイの夢を見たよ。それから目が覚めて、あいつのことを思い出していたら、なんだかほろっと来ちゃってな・・・俺、精神的に危ないかな、なあ厚 (
ひろ )
」と、しみじみ話したから、私は兄の疲労を悟ったが、
「なに、お兄ちゃん、それ言われたら、俺なんか、神経症やって以来、女々しいことの連続だったよ。お兄ちゃんは医学部目指して、地獄の三浪生活乗り切ったろ。
俺には偉そうに言う資格はないけど、世間の荒波にもまれれば、いやなことのいくつかはあるさ。ジョイだって、お兄ちゃんに夢を見てもらって、天国で喜んでいるよ」
「そうかな」兄はそれだけ返すと、ふとんの上で伸びをして、枕に突っ伏して、黙ってしまった。その目に光るものを確かに見たとき、兄はだいぶ参っていると確信した。
「お兄ちゃん、まだ、おなかいっぱいかな・・。もし良ければ、俺の行きつけの店があるんだけど」と、誘いかけてみた。
「そうだな。お前と一献 (
いっこん )
傾けるか」と、二つ返事でオーケーとなり、私は自転車、兄は徒歩で、ゆっくりと小料理屋へ向かった。
カウンターで兄と酒を酌み交わしながら、何を話したかは覚えていない。
帰り道、私は自転車のペダルをゆっくりこいで、兄に歩調を合わせていた。
その時、兄の姿が視界から消えた。すると、自転車が急に速度を増した。
兄がにわかに私の後ろにまわって、自転車を押していた。
「それーっ ! !
」と一声かけると、兄は前にも増して、私のこぐ自転車を力を込めて押し、いつまでもその手をゆるめなかった。ペダルをこぐ必要がなくなった。とうとう、あっというまに、下宿の玄関に着いていた。
この間 (
かん )
、私は、最前の兄の目にわずかに光った涙を思い出して、今度は私がたまらぬ気持ちになり、兄とは違って泣き虫の私は、懸命に自転車を押してくれる兄の気配を背中に感じながら、涙を両目から流して、こみあげるおえつをこらえていた。
「お兄ちゃん、なんとか耐えてくれよ」と同時に心に叫んでいた。
その後兄は茨城県土浦市にほとんど新築同然の中古住宅を買ったが、運命のいたずらか、 30
代終わりに白血病に罹患し、 46
歳の夏にこの世を去った。罹患後の兄は勤務していた製薬会社の土浦の工場長勤務をしていたが、仕事の要領をつかんだと言って、よく昼前後に私に電話をかけて来た。余命いつまでか常に不安につきまとわれる立場ゆえに、雑談の相手を欲していたと察するほかない。
兄との想い出もまた数多くあるが、弟に弱音を語った兄の姿を見たのはあの晩だけである。今懐かしく思い出して涙ぐむのは、相変わらず泣き虫の私のほうだ。
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