祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

May 23, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険

11

 しかし――

――何故、塩野健は犬瀬を車ではねてしまおうなんて思いついたんだろうか?

 屋上での塩野健の告白は、じょじょに核心に近づいていた。
「――俺、あの人を見てて、心底自分が嫌になったんスよ。なんか俺ってスッゲエつまんねえ人間だなって思って。俳優になりたいって言ってんのに何か努力してるわけじゃないし、慶子さんのことも、俺、犬みたいに付いて回ってるだけだったし、でも、そのくせ自分だけは他の奴らとは違うんだとか、テキトーな感じでいっつもそう思ってて、でも、物足りなくて――あの人は一言で言って、なんつうか、マジで有意義そうだったんスよ。そっくりそのまま意味があるって感じだったんスよね。それが妬ましいんじゃない、悔しいんじゃない、別にあの人自体は悪くないんスよね、あの人はあの人を生きてるだけだし、でも、俺、あの存在が何か無性に怖かったんスよ、もう、それは今まで感じたことがない恐怖だった、腹の底がすぅって冷たくなっていくみたいに感じて、――それで、あの朝車で家を出て、俺、あの人が池袋に来るってことは知ってたから――」
「――ねえ、ちょっと待って」と慶子が突然口を開いた。
「いや、俺はあの人を轢いちまおうと思った――」
「違う――」と僕は言った。
「轢いちまえって思ったんだ!」

「ハハ、別のトラックがあの人を先に轢いたんで――できなかっただけッスよ」
「嘘でしょ?」と慶子が言った。かすれ声だった。
「君はだって、ちゃんと正気に返ったんだよ」と僕は言った。
「ええ、もちろん――でも、それは事故を目の前で見てから正気になったんです」
その時、慶子がさっと立ち上がった。一瞬もっと大きな影が動き、その場の空間をかき乱したように感じた。
「どこへいくの?」僕は訊いた。僕の声もかすれていた。しかし、慶子は何も答えずに、屋上から降りようとしていた。ここで慶子が何も言わなければ、僕は手に余る、と思った。
その時、
「混乱してるのよ!」と慶子は叫んだ。そして、振り返らずに足音を響かせながら階段を下りていった。振り返ると、玉が何故か泣きそうな顔をしていた。一瞬のことだったが、不意にその表情がひどく気に障った。そのことに自分でも驚いているうちに、嫌な感情はすぐさま消えていった。玉は立ち上がり、
「私行く」と言って、慶子の後を追った。
 塩野健はひょろ長い何かの柱のようにその場所に立っていて、太陽がやけに熱かった。そしてゆっくり日時計が動くみたいにベンチまでやって来て、僕の隣に座った。僕は何度も右目を閉じたり開いたりして、世界が白っぽく濁るのを見つめていた。そしてたぶん、自分でも何かを考えるのが面倒になったからなのだろうけど、いつの間にか、赤羽から鳩ヶ谷までのバス停を一つ一つ頭の中で思い出していた。

 それは地下鉄が走るようになって以来、随分と乗っていないバスの路線だった。そしてそれはひどく遠い世界の出来事のように思えた。僕の脳裏で、バスは東京都と埼玉県の境界をこえ、ゆっくりと加速しながら荒川大橋を渡っていこうとしていた。橋の下をたくさんの水が流れた、と僕は思った。物事がどんなふうに変化したとしても、それを押し留めようなんていう気はない、と心の中で呟き、しかし、僕は誰にも邪魔されることのない場所で、ゆっくりと時間を掛けて、もはや変更不可能な過去を再現したいという欲求の中に沈んでいった。荒川大橋、それから何だっけ、――そうだ、川口中央公民館、それから――坂口、樋の爪、それから、中居、変電所、昭和橋・・・しかし、全てを正確に思い出すことはできなかった。当たり前のことだけれど、記憶は薄れ、やがて消えてしまう。


「君が育った街の話だけど――なんだってあの時君はそんな話を僕にしたんだい?」

 しかし長い間、塩野健は黙っていた。そしてうっすらとした雲が太陽を隠し、再び太陽が姿を現したときに、
「あの朝、池袋の交差点にいたとき、フロントグラスの向こうにね――」と彼はゆっくりと、僕との間に横たわる五月の穏やかな空気の上に言葉を置いていった。「――何故だかずっと、その風景だけが見えてたんスよね」
――塩野健がそう呟くのを聞きながら、僕は、それは本当に風景だったのか?それはただの白い背景に浮かぶ黒い文字だったんじゃないか?あるいは、もっと他の何かだったんじゃないのか?と彼に聞き返そうかと思った。でもそうはしなかった。かわりに僕が考えていたのは、名古屋の街並みのことだった。でも、それが今殊更重要なことなのかどうか、僕にはよく解らなかった。もっと何か他に考えるべき大切な事柄があるような気がした。だいいち、それは現実に存在する街すらなかった。

 僕はさっき目にしたばかりの、小さな閉じた街のことを思い出していのだ。

今日の午前、僕が森田の部屋を訪ねたとき、彼は指先ほどの小さな細工人形をピンセットを使って配置しているところだった。
 彼は僕に気づくと音もなく手招きした――

 僕の実家の最寄り駅――神宮前駅――の北口を出て、踏切を挟んだ参道から脇道を入って行くと、そこには僕の実家が、とても小さいけれど精密な設計で見事に再現されていた。屋根瓦、ガラス窓、板塀、庭のタタキに至るまで、模型にはしっかりと彩色が施され、道を歩いている小さな人の姿までが、そこには配置されていた。さほど深くないその箱の中には、我々が学校帰りにぶらぶらした市街地の一角や、玉の実家である神社の境内(ここには何故か雪を模した白い綿が敷き詰められていた)、森田の暮らしていた坂の上の高層マンションもあった。競技場の模型のなかにはぽつりぽつりと人が立っていて、その脇を流れる川にそって街路樹のミニチュアまでもが何本も配置されていた。通りにはミニカーや、通行人がそれらしく立っていたし、一際高いビルの中には上下運動を繰り返すエレベーターまでもがあった。ブリューゲルの描いた絵のように、そこには様々な人間がいて、様々な生活をしていた。
「すごい」と僕は言った。ほとんど地理的には無秩序な感じで、場所と季節が混合し、まるで森田の頭の中身をぶちまけたようなミニチュアだったけれど、好きか嫌いかと聞かれれば僕は多分好きだと答えるだろうと思い――こういうの好きだな、とふと胸が痛んだ。奇妙に拡大された夢のような街だった。ある部分は異常なほど精密に再現されていたし、ある箇所はすっかり忘れ去られ退化していたように、まったく存在していなかった。まさしく森田の中だけにある、森田のためだけの架空の街といってよかった。
「よく、見てご覧よ」と森田が言った。
――建物や路地だけではなかった。そこにはちゃんと、我々をかたどった小さな人物までもが配置されていた。僕とおぼしき人間がそこにいた。それを見つけたとき、僕の胸に不思議と暖かい安堵のようなものがこみ上げた。が、同時に僕は得体の知れない気分の悪さも感じたのだった。それは何だったのだろう。僕は何かムカムカする感情を覚えた。何のためにこんなことをする必要があるのだろう?何のために?僕は森田に訊いた。
「だって、これを見ていると心が落ち着くんだ」と森田はぼそりと答えた。


                      つづく





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Last updated  May 23, 2005 01:52:31 AM コメントを書く
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