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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ ここに一人のヤコブという孤独な男のことが書かれています。彼は、今、両親の家を離れて、家のない孤独な放浪者であり、ホームレスです。このヤコブという人は、狡猾で悪賢い方法で兄のエサウをだましてその相続権を手に入れたような罪深い男であります。ヤコブは、兄エサウに憎まれ殺されそうになったので、母リベカが彼を逃がしたのであります。そして、自分の妻をめとるために母の故郷へ一人旅をしていたのですが、その日はもう太陽が沈みかけたので、その寂しい荒野に伏して夜を明かすことにしたのであります。 その夜は、そこに野宿することに決めたヤコブはただ一人、石を枕にして、荒野に伏して横になりましたが、なかなか寝付かれなかったに違いありません。後ろを思えば恐怖があり、行き先には不安があり、その孤独な姿は、罪人である私たち一人一人の姿でもあります。疲れきった体と心。流浪の旅の寂しさ。天涯孤独のルズの旅。まさに、これは、現代の私たち人間の姿そのものではないでしょうか。世の中の繁栄と、文明の進歩について行くことができず、情報化社会に翻弄され、社会の歯車の一つとしてはめ込まれてしまって疲弊しきっている自分の体と心。この人生の流浪の旅で、多くの人々が癒しがたい孤独感を味わっているのではないでしょうか。 しかし、このような我がままで罪深い男にも、神の愛の眼差しが注がれていたのであります。そして、現代の私たちのような何の価値もないと感じているような孤独な者たちにも神の愛の眼差しが注がれていることをあなたはご存じでしょうか。あなたは、「自分を理解してくれる者はだれもいない。私は一人ぼっちだ!」と、将来を悲観したりすることはありませんでしょうか。しかし、聖書が示す愛の神はあなたの理解者であり、あなたのすぐ近くにおられる御方なのです。聖書の神は愛の神であり、どこにでもおられる遍在の神でもあり、また全能の御方であります。 ヤコブが孤独と寂しさの中にあり、無力と困窮のどん底にあったときに、神はご自身を彼に啓示してくださったのであります。ヤコブが神を求めたのではなく、神がヤコブを求めておられるのです。もし、神がご自身を現してくださるのでなければ、人はどうして神を知り得るでしょうか。あのエデンの園で、アダムが罪を犯して木の間に身を隠していた時、神はアダムを捜し求めて、彼に呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか。」と尋ねられたのであります。これは、決して神が人(アダム)を見失ったのではなく、人を捜し求めることばであります。愛の神様は、いつも、人生の道に迷っている孤独な人たちを捜し求めておられるのであります。 新約聖書のルカの福音書15章には、イエス様が語られた例え話ですが、100匹の羊を飼っていた羊飼いがたった1匹の迷い出た羊を血眼になって捜し求め、ついに発見して肩にかついで連れて帰る感動的な話が書かれています。また、家出をした放蕩息子に対する父親の愛の話もあります。父親は、来る日も来る日も断腸の思いで、息子の帰りを待っていたのですが、お腹を空かして乞食のようになって、ボロボロになって、帰って来た息子を父親は走りよって抱き寄せ、何度も何度も口づけして抱擁する感動的なシーンもあります。人は多くの場合、孤独の中で、あるいは逆境と苦難の最悪の状況の中で神に出会うのであります。 ヤコブは、その夜、石を枕に寝ていた時、夢を見ました。彼のそばには高い梯子が立てられ、その頂は天に達していたのであります。救いとは、苦しい現実から逃れて空想の世界に行くようなものではありません。人間はだれでも苦しい現実から逃避したいという思いがありますが、聖書が語る「救い」とは私たちの今の現実の中に天に達する梯子が立てられることであります。神は空想の神ではなく、天地を創造され、私たちを日々生かしておられる力強い生ける神であります。この神との出会いを経験する時に、人生は180度の転換(好転)をするのであります。 さて、ヤコブが見た夢の中の梯子は、実はイエス・キリストを示しているのであります。この梯子は天と地、神と人を結ぶものであります。イエス・キリストは受肉によって、神を人にもたらし、その十字架と復活によって人を神に導かれたのであります。ヤコブがこのような不思議な夢を見たのは、それは単なる夢ではなく、神と人との間に道が開かれる時代が必ず来ることの予表(予告)として起こったのであります。そして、それは新約時代において、イエス・キリストによって成就したのです。 今、天の門はすべての人に開かれています。神が人のところに下られ、人が神のところに上って行けるように天の門(入り口)があり、人が神と出会う道が開かれているのであります。ですから、ヤコブの時と同じように、今も、天へ行く梯子(すなわち道)が私たち罪人の足下に立っているのです。それが、今の新約時代の恵みなのです。神と人を結ぶ道はキリストであります。神の救いはあなたの前にすでに備えられており、その現実の中で見出すことができるのです。聖書はすばらしい書物です。是非、お読みになってくださいますようにお勧めします。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/26
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2010/04/25
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2010/04/23
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2010/04/23
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2010/04/22
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2010/04/21
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○八百万(やおよろず)の神と言いますが、日本では神様と言えば、随分いろいろなものを神様として拝んでいます。ある所に、毎朝必ず東の方角を向いて太陽に手を合わせて拝んでいるお爺さんがいました。ある晩、そのお爺さんが、提灯(ちょうちん)を手にして、一人の知人(実は、この知人は真の神様を信じていたのですが‥)の道案内をしました。しばらく歩いて、ようやく目的地に着いたときに、その知人はお爺さんには一言のお礼も述べず、いきなり、わざと提灯にひざまづいて「提灯さん、ありがとうございました。お陰で、この暗い夜道を無事に来ることが出来て本当に助かりました。」と、お礼を言いました。それを見て、人のよいお爺さんも、自分が馬鹿にされているような気持ちになり、ひどく立腹して、その知人に文句を言ったのだそうです。 すると、その人はそのお爺さんに言いました。「お爺さん、あなたも実は同じようなことをしているのですよ。あなたは、毎朝太陽を拝んでいますが、太陽は言わば、神様が世界を明るくするために宇宙にぶら下げてくださった提灯(ちょうちん)のようなものなんですよ。太陽が神様ではないのです。だから、私たちは、太陽をお与えくださった造り主であられる神様にだけ感謝とお礼をささげなければならないのですよ。」・・・・・・・ このお話でもお分かりと思いますが、太陽はすばらしくできていて人間に必要な熱や光を与え、また、植物の成長にもどうしても必要なものであり、私たちは大変な恩恵を受けているわけですが、太陽は神ではありません。ですから、太陽は拝んだりする対象ではないのですね。また、動物や、人間にかたどって作られた木や石や金銀、また、紙や板に書かれたり刻まれた文字を拝んだりすることは愚かなことです。また、生きた人間を神として拝むことも愚かなことですが、人間の手で作られた偶像や宮を拝むことも愚かなことです。真の神様は、人間の手で造られたものではなく、天地宇宙だけでなく、人間をも造られた偉大な御方であり、日々恵みの中に生かしてくださっておられるのです。 今から約二千年ほど昔、偶像がいっぱいに満ちていたギリシャの首都アテネで、使徒パウロは心に憤りを感じて偶像の空しさと真の神について次のように語って、悔い改めて神に立ち返るように人々に迫ったのであります。 預言者イザヤは、神の聖霊に導かれて、次のように偶像を造ることの愚かさについて語っています。これを説明すれば、低学年の小学生でも理解できます。それなのに、大学を出た大人でも、この単純な真理が分からない人が多いのです。サタンによって霊的な目が曇って見えなくなっているのですね。高等教育を受けて創造者である神の存在を否定する者が、人間の手で作った偶像に手を合わせて、「どうぞ、守ってください。救ってください。」と祈ったりすることに何の矛盾も感じないことは、本当に不思議なことと言わざるを得ません。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/20
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○万有引力の法則を説明したニュートンはある時太陽系の立派な模型を造ってもらいました。太陽を中心にして六つの惑星の速度の割合は実物と同じような比率で加減され、お互いの惑星間の距離も実物と同じ比率で造られていました。ただHandleを廻すことだけで、ちょうど実際の太陽系のように動きました。ある日、無神論者である友人A氏が部屋に入って来ました。彼は、驚きの目をもって模型の方へ行ってハンドルを廻しました。非常に感嘆した彼は言いました。「おぉ~、これはすばらしい!!一体だれがこれを造ったんですか?」とA氏は質問しました。それに対して、ニュートンはある意図があって「だれが造ったのでもありませんよ。その材料は自然に集まって来て、この模型が出来たのですよ。」と答えました。 「君、私をからかわないでくれないか。私は馬鹿ではありませんよ。もちろん、だれかがそれを造ったはずです。造った人は天才です。是非、造った人を教えてください。」と、友人のA氏は言いました。それから、ニュートンは彼の肩に手を置いて、「これはあなたのよく知っている広大な『太陽系』のつまらない模型に過ぎません。このおもちゃのような物には、設計者も造り主もいないとは信じられないでしょう。しかし、この模型よりはるかにすばらしい太陽系が自然に出来たとあなたはいつも言っています。どうしてそんな非常識なことを考えるのですか。」と天地万物の創造主を信じていたニュートンは尋ねました。その話を聞いて、その時まで無神論者であった彼は、すぐ今までの考えを捨てて聖書に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)ということばを堅く信じるようになったというエピソードが残っています。 みなさんも、今までの先入観を捨てて宇宙の神秘的な事実を真正面から正直な心で考えましょう。地球のことを研究すると不思議な事ばかりです。まず、太陽からの距離はちょうど適当な距離になっています。今の二倍なら、水はすべて凍ってしまうし、その半分の距離なら、あまりにも暑くて動物も人間も生存不可能です。また、地球の自転の速度を10分の1に減らした場合、昼と夜の長さは10倍になり、やはり生きることができません。地球の表面積の陸と海の割合を逆にしたなら、雨はほとんど降らず、地は砂漠になってしまうのです。地球に23度の角度の傾きがなければ、春、夏、秋、冬の四季もなくなってしまい、赤道に近い所だけに野菜や果物が出来るのです。地球と月との間の距離を4分の1にすると、非常に激しい海の潮によって陸はなくなってしまいます。 このように書くならきりがありませんが、私たち人間は広大な宇宙、地球のすばらしい景色、美しい花、五感を持っている不思議な人体などを見て、これらのものがすべて進化論者が言うように「偶然の産物」であると考えることができるでしょうか。これは、まことに非理性的、非科学的な考えです。適当な例えではないかもしれませんが、印刷所が何かの原因で爆発して、それによって、偶然にすばらしい百科事典が百冊もできるなどということがあるでしょうか。また、ピアノの鍵盤の上を猫が行ったり来たり往復しているうちに、すばらしい名曲が生まれるというようなことがあるでしょうか。しかし、この広大な宇宙や霊魂があり思考力を持った人間が偶然に出来るということを信じることはそれよりもはるかに困難なことです。創造者の存在の事実を認めるということは、人生のすべての問題に優先して真剣に考えるべきことです。 人々は人間に命を与え、人間を生かしておられる神に背を向け神に反逆しているために現在の世の中は何もかも狂ってしまったと言えるのではないでしょうか。国家間の争い、人命を軽視する風潮、凶悪犯罪の急増、地球環境の悪化、目を覆うばかりの不道徳、人間は神中心に生きるべきであったのに、人間の自分勝手な自己中心の罪の結果、今のような堕落退廃した汚れた世の中になってしまったのです。みなさんも今までの人生を振り返ってみて下さい。なすべき正しいことを知りながら、何度もそれをしなかったことがありませんか。また、してはいけないとよく知りながら、それをしてしまったことはないでしょうか。聖書によると、そのことは罪なのです。人間には良心がありますから、当然それを知ることができるはずです。 しかし、神様はこのような罪深い人間に救いの道を開いてくださいました。自分の努力によって自分を救うことはできませんが、約2,000年前、神はご自分のひとり子であるイエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちが受けるべき刑罰の身代わりだったのです。それによって神はご自分の大いなる愛を人間に示してくださったのです。キリストは十字架で死なれましたが、預言通り、死後三日目の墓よりよみがえられました。神の前に、自分の罪を認め悔い改めて、キリストを個人的な救い主として信じ受け入れるならば、だれでも例外なく救いを受けることができるのです。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/19
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○人間は、ある一つの知識を持つと、知らず知らずのうちに自分は何か他人よりすぐれているような錯覚に陥ってしてしまう存在ではないでしょうか。私たちは、しばしば「この目で見なければ、信じられない。」ということばを聞くことがあります。しかし、一人の人間がどんなに世界中を廻って、いろいろなものを見たり聞いたり勉強したりして見聞を広めても、そこには必ず限界というものがあります。人間の目は確かにすばらしく出来ていますが、すべてのものを見ることができるわけではありません。人間の持っているすべての器官には限界があり、能力にも限界があります。目と同様に耳もそうであります。私たちの耳はどんな音でも聞くことができるわけではありません。ある限られた周波数の音しか聞くことができないのです。 たとえば、昆虫のトンボや海中を泳ぐ魚の目は、かなり広角に見えるらしいですが、人間の目で見える範囲は、360度に対して120度くらいだと聞きました。そういう意味においては、人間の目はトンボより劣っていると言えるかもしれませんね。また、あまりにも速度(動き)が早すぎるものや、遅すぎるものも(その動きが)見えませんし、あまりにも大き過ぎるものや小さ過ぎるものも見えません。それでも、人間は「私はこの目で見るものしか信じない。」という人がいます。そして、いろいろなものを見たり聞いたり学んだりしながら成長し、ある年齢に達すると、その限られた知識の中で自分の思想や人生観や哲学を持つようになるのです。 そして、ある一つの知識を持つとそれだけが正しいと思い込み、その虜(とりこ)になってしまうのであります。ここに、人生の落とし穴があるのではないでしょうか。その人は他の人の話に耳を傾けなくなるのであります。この世の中には多種多様な考え方がありますが、絶対を振りかざす権利はどこにもありません。若い頃、人生の先輩に「客観的にものを見なさい。」と、よく言われたことが何度かありますが、たとえ、客観的にものを見たとしても、あるいは見る角度を少し変えたとしても、それが人間の目で見るのであれば、やはりそこには限界があり、これが唯一正しいものであるとは言い切れないのであります。たとえ、視点を変えても、人の目から見たものでありますから大差ないのです。 しかし、絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。パウロが聖霊に導かれて書いた冒頭の「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」という聖句は、人はどんなに知識を蓄えても、私たちは、神の前に謙虚になる必要があることを教えているのではないでしょうか。ですから、自分が見聞して得た僅かばかりのスプーン一杯ほどの知識で「神の存在」を否定してしまうのは、実に愚かなことであると言わざるを得ません。次の聖書のみことばは厳粛であり、事実そのとおりなのです。 宇宙の存在を考える時、現代の進化論には、多くの矛盾があることが分かります。「ゼロ」から宇宙は存在しません。したがって、現代の進化論者は、初めを「ゼロ」としないのです。エネルギーか、微粒子か何かが宇宙に存在したところから始めざるを得ないのであります。とすると、その最初のものは、どうして存在したかを説明しなければならないのですが、それを説明し得ない矛盾があります。現在、地球の周囲には、2万個近い人工衛星が遊泳していると言われています(正確な数字は分かりません)。そして、人間は宇宙や地球について多くの知識を持つようになりました。また、コンピューターの技術も驚くべきものがあります。現在の卓上で使うパソコンの機能は、以前であれば四階建てのビル一杯になるだけの機械がなければ計算できなかったものだと言われています。 しかし、現代の多くの人は、科学によって人間を無限に幸せにするかのように考えている人はほとんどいないと思います。科学は決して人間の罪や死などの根本的な問題を解決することはできないのです。科学の進歩は決して人間を救うことはできないのであります。人間の脳は、140億に上る細胞から出来ています。その一つ一つが記憶装置の役割を果たしていて、人間が作り出したどんなコンピューターも及ばないのであります。人間の脳の記憶量は、「100万の記憶素子を持つコンピューターの一億台分ほどもある」と聞いて驚いていしまいます。そして、現に活動している人間の脳の構造と機能は、まだその2%ぐらいしか分かっていないのです。人間は自分の脳のことすら、これくらいのことしか知らないのです。 ですから、人間は自分自身のことですら、まだほんの少ししか知らないのです。その僅かな知識で神の存在を否定することは決して賢いこととは思われません。ですから、かつての謙虚な科学者の多くは神の存在を認める敬虔な人たちであったのです。彼らは、謙虚に真理を探究したのであります。たとえば、ガリレオや、地動説を体系づけたコペルニクス、惑星の運動を研究したケプラー、そして著名な物理学者ニュートンなど、みな創造者(神)の存在を認めた敬虔な人たちであったのです。彼らは、自然界の背後にあってそれらのすべてを貫いている神の美しい秩序と法則があることを認め、また、それらを読み取ることこそ神に仕える道であることを確信していたのであります。創造者の存在を知ることは、人間が最初に知らなければならない知識であり、人が生きるための知恵なのです。 どうか、あなたも人間の知識にも、経験にも、能力にも限界のあることをお認めになられて、謙虚に神の存在を神じるところから始めなければ、人生の根本的な問題も悩みも何一つ解決し得ないことをお知りになられますように。人間の知恵によっては、愚かに見える「キリストの十字架の福音」のことばにこそ、人間の真の救いがあることを、どうかお知りになってください。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/18
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ ところで、あなたは夏の夜空を仰ぎなら「宇宙旅行ができたらすばらしいなあ~・・・」と考えたことがありませんか?でも、人工衛星には訓練された宇宙飛行士など限られた人しか乗ることができませんし、そのためには莫大なお金がかかります。また、宇宙は無重力ですから体がフワフワと浮き上がって、逆さになったりするので、コップの水を飲むのにも舞い上がってしまって、うまく飲めないので、チュウーブに入ったものか固まったものしか飲むことができません。また宇宙は真空で、空気の圧力がありませんから、一着が二億円もするような重くて窮屈な宇宙服を着なければ生きて行くことができません。だれでも一度は宇宙旅行にあこがれるとことがあると思いますが、実に不便で不自由な旅行であることは確かです。 ところが、みなさん驚かないで下さい。実はあなたは今、既にもっとすばらしい、快適な宇宙旅行を実際にしているのです!! 「えっ!あなたは何を言っているのですか?」と、あなたは怪訝(けげん)な顔をされるかもしれませんね。この広大な宇宙を、あなたは「地球」というすばらしい宇宙船地球号に乗って、なんと毎秒30キロメートルという物凄いスピードで、太陽の周りを宇宙旅行しているのです。この地球号からは、夜になると、宇宙にあるたくさんの星をながめることができます。また、ちょうどよい強さの引力があるので、地上に立って歩くこともできますし、暑苦しい宇宙服など着なくても快適に過ごすことができます。地上の空気は音を伝えるので、自由に話をしたり、音楽や小鳥のさえずりの声などを聞くこともできます。 地球は太陽のまわりを回る惑星の1つであります。直径は約1万3000キロメートル、赤道のまわりは約4万キロメートルあります。地球はよく「水の惑星」と呼ばれ、太陽系の中でも地球にだけ液体の水が存在します。その水である海は地球の表面の7割を占め、このおかげで生物が住みやすい環境ができているのです。今までの調査でわかっているかぎりでは、太陽系9つの惑星と61以上の衛星のなかでも、生物が存在しているのは地球だけなのです。私たちは、このすばらしい環境が整えられた地球号で宇宙旅行しているのです。 月の世界では、日中は110℃という焼けつくような暑さになり、夜になると氷点下120℃という凍る寒さになりますが、地球には空気がありますから昼と夜で温度の差が少ないので、生きて行くためには、ちょうど良い温度になっています。人間が科学の先端の技術を用いて作った人工衛星は、6,7人で満員になりますが、地球はなんと60数億人以上の人々の他に、多くの動物も乗せることができるばかりではなく、青い海や山脈、河川、また、人が生きるために必要なたくさんの食べ物、果樹や野菜、私たちの目を楽しませてくれる季節が変わるごとに咲き誇る美しい花々など、すばらしいものが満ちあふれています。 人工衛星が偶然に出来ることはないように、その人工衛星よりもはるかにすばらしくできている地球が、偶然にひとりでに出来るわけがありません。実は、地球は創造者なる神がお造りになられたすばらしい「神工衛星」と言ってもいいかもしれません。この神が創造された「宇宙船地球号」に乗って、私たちは毎日快適な生活をしているのですが、そのことに気づかないで生きている方が大部分ではないでしょうか。そして、この地球には、すばらしい環境と美しい自然界が満ちているではありませんか。この地球は決して偶然の産物でないことは、真面目に考えれば誰にでも分かることです。次の聖書のことばにあるように、この地球は神が人の住む場所として環境を整えて与えられたのです。 また、ロボットがひとりでに進化して出来ることがないように、そのロボットよりも100兆倍以上も精密に出来ている私たち人間の体や心が、ひとりでに進化して出来るわけがないのです。あなたも私も母親のお腹の中で、わずか10ケ月の間に、微小な受精した卵子から体のすべての器官が出来上がり、生まれて成長して来たのです。偶然に進化して出来上がったのではありません。人間の祖先は、決してアメーバーやトカゲやワニや猿のようなものではないのです。神はすべての動物や生物を種類によって造られ、人間は最初から、神が愛し給う「人間」として造られたのであって、偶然の産物ではないのです。 聖書が示す天地万物を創造された神は、私たち人間をも創造され、体と命と霊をお与えになられ、日々太陽の熱や光、そして地から生産される食物を与えて生かしてくださっておられる愛に満ちたお方です。しかし、最初に神が造られた人間の始祖アダムとエバが罪を犯して神に反逆してから、その子孫は今日に至るまで、みな神に背を向けて自分勝手な自己中心の罪の生活を送っているのです。そして、今日の世界を見ると、確かに科学が進歩し、文明が発達し、世の中は便利になりましたが、人間は神を忘れ、「自分さえ良ければそれでいいのだ‥!」と、地球の陸も海も空も益々汚染し続けているのです。地球の温暖化により、世界中の気象に異変と異常が起こり、それがファクターとなっている災害も増加していることは事実です。 愛の神様は、親が自分の子供たちが仲良くすることを望むように、人類が互いに愛し合うことを望んでおられますが、罪に満ちているこの地球上の人類は、互いに憎しみ合い、テロや殺戮(さつりく)をくり返しており、国家間の戦争の危機が常に存在します。今日、世界には地球を50回以上も焼いて破滅させるだけの核があると言われています。しかし、みなさん、希望を持ってください。聖書は人間に希望を与えるために書かれたものです。それは、今から約2,000年前に、神の御子イエス・キリストが地上に来られ、私たちに救いの道を開いてくださったのであります。キリストは、人間の罪のために、身代わりに十字架に架かられ、三日目によみがえられたお方なのです。どうか、あなたも救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、救われて天国に入る方となって下さい。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/17
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2010/04/16
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2010/04/15
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○昔、ある英国人が、旧約聖書の出エジプト記2章3節に「瀝青」(アスファルト:石油からの蒸留残留物・古代には壁面のつぎ目に使用した・ギリシャ語で asphalton)ということばを見て、エジプトの地下に石油があることを確信し、掘削するためにエジプト政府の許可を求め、友人に出資を求めました。友人は、彼の無謀を止めようとしたのですが、彼は、「神のことばたる聖書に誤りがあるはずがない。私は聖書を確信している。モーセの母が『瀝青』を用いたからには、この附近に石油があるに違いない。」と言って友人の忠告を拒み、試掘し、石油層を掘り当てて莫大な富を得たという話があります。これは、フィクションではなく、実話なのです。 しかし、あなたは彼よりも更に幸福な人になることができるのです。彼は「瀝青」ということばを聖書中に見い出して、エジプトに石油があることを確信したのですが、聖書には、もっともっと重大な価値のあることばがあることに気がつきませんでした。それは、「永遠のいのち」ということばです。死ぬべき人間にとって、「石油」と「永遠のいのち」とどちらが大切でしょうか。ちなみに、過去に繰り返された戦争の多くが石油を奪い合う争奪戦であり、現在、世界で起こっているいくつかの戦争は石油をめぐる争いであるとも言われています。 イエス・キリストは次のように語られました。全世界の富よりも尊いものは、人のいのちです。そして、そのいのちは、この地上だけのいのちではなく、死後も天国で、神様との親密な交わりの中で永遠に生き続ける「永遠のいのち」こそ、もっとも価値のあるものなです。あなた自身が永遠のいのちを得るために、神様が聖書を全人類への贈り物として与えられたのですから、あなたも、どうか真剣に、この聖書を買い求めて、お読みになって下さい。聖書は、読めば読むほどにすばらしい書物であることが分かります。そして、永遠のいのちをご自分のものとなさってください。これは、イエス・キリストを救い主と信じる者に無代価で与えられるのです。●「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」 (マルコ8:36,37)。 聖書の中には、全人類の罪のために身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じる者に与えられる「永遠のいのち」について、多くの記述がありますが、その一部だけを紹介しましょう。どうぞ、ご自分で聖書をお読みになってお確かめになってください。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/14
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○さて、日本人はよく日常の挨拶で、「今日はいい天気ですね!」とか、「暑い日が続きますね!」とか、「今朝はシバレますね~!」(北海道弁)などと言います。ちなみに、中国人は挨拶で「飯は食いましたか。」と尋ね ることが多いと聞きました。また、日本人の手紙の書き出しは、まず「時候」の挨拶から始まるのが普通ではないでしょうか。初対面の人と、何から話を始めたらよいか分からないような時にも、天気の話から始めることが多いのが日本人です。 また、日本では、マイクの感度のテストをする場合にも、たとえ雨天であっても、「本日は晴天なり。本日は晴天なり・・・・」を繰り返すのが一般的です。このように、日本人ほど、天気を気にする民族、天気を話題にする民族も珍しいのではないかと思います。テレビやラジオでは、一日中繰り返し、「天気予報」を流します。これは、日本人の民族性や気候風土と何か関連があるのかもしれません。 かなり古い新聞に面白い記事が載っていたので、私のスクラップブックに挟んでおいたのですが、それによると、天気予報が日本で初めて登場したのが明治17年(1884年)6月1日であったそうです。その歴史的な第一回天気予報は、「全国一般、風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変ワリ易シ、但シ、雨天ガチ。」というものであったそうです。「風ノ向キハ定マリナシ」と言っているので、どの風向きでも心配はありません。また、「天気ハ変ワリ易シ」と断っているので、どんな天気になっても誰も苦情を言うこともできません。全天候型の天気予報なのです。 このような天気予報であれば、あってもなくてもいいようなものですね!しかし、現在のように科学が格段に進歩して、気象衛星を使い、コンピューターを駆使して、行われている現在の天気予報でも、時々、その予報が外れる事があります。最近は、地球環境が温暖化し、急激に変化しているので、これは私の推測ですが、特に長期予報の場合は、益々、高い確率で天気予報を出すのが困難になって来ているのではないでしょうか。 さて、神のことばである聖書は、人間の意志によって書かれた書物ではなく、神の霊感によって記された書物であります。ですから、聖書はこの世界と人類の未来について多くのことを語っていますが、その預言(神のことば)が外れるということは絶対にないのです。聖書の預言は100%の確率で成就するのです。キリストの生涯について、旧約聖書には108位の事柄について預言されています。そして、現在までに成就すべきことは、確実に成就しているのです。 また、イスラエルの民が離散する事や再び故国に帰って来ることなど、イスラエルの長い歴史についても、数々の多くの預言があります。例えば、旧約のダニエル書には、世界の四大帝国(バビロン・メディアとペルシャ・ギリシャ・ローマ)の興亡についての預言が記されていますが、すべてその通りに成就したのであります。その他、聖書に書かれた時点ではまだ起こっていない未来についての多くの記事(預言)がありますが、それらは確実に成就し、聖書は真実であることを証明しています。また、世界の終末についても、人間の死後のことについても、聖書は明確に断定的に語っています。また、「預言」とは神のことばのことであり、「未来の予言」の意味だけでなく、過去のことも現在のことも含んでいます。 人間は時間に拘束され、それに従属しています。時間に対して、人間はどんなに抵抗しても無力です。ですから、人間は、未来のことを知ることはできません。人間は、時間の流れの中に生かされているので、常に「現在」というものを起点として、「未来」と「過去」というものを考えるわけです。しかし、神は時間の外におられる方であり、時間を超越して存在されるお方です。ですから、神にとってはすべてが現在であるが故に、人間の側から見て未来に属することも正確に予知できるわけであります。未来について正確に予知するのは、全知全能の神以外には決してできないことであり、また、「聖書」によってそれを人類に知らしめることができるお方なのです。 神様は、人の口を通して未来に起こることをあらかじめ、人々に知らせることができる方です。そして、その預言者が真の預言者であって、神からのことばを語っているかどうかのテストは、その語ったことばがその通り実現するかどうかによって、判別することができるのであります。しかし、悪魔は預言を実現させたり、不思議なことをしたりして人々を偶像の神々に導こうとします。終末の時代には、サタンは何か不思議なことを行って、人々を惑わそうとすることが聖書に予告されてあるので、十分に注意しなければなりません。今も、多くの異端者や偽教師が現れているのは事実です。今の時代は、聖書が完結され、聖書の中に神のみこころがすべて啓示されているので、聖書と矛盾するようなことを語る「預言者」(?)が表れたら要注意です。イエス・キリストは次のように言われました。 聖書は神のみことばであり、その中心は、イエス・キリストです。キリストはあなたの罪のために十字架上で身代わりに死んでくださり、三日目(日曜日の早朝)によみがえられました。どうか、あなたも、偽りの教えに騙されることのないように、神のみ前に自らの罪をお認めになられ、悔い改めて、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じて救われるようにお勧めいたします。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/13
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○人間の歴史は、今まさに最終段階に向かって恐ろしいスピードで突進している感じがあります。私たちはどうしたらいいのでしょうか。私たちに希望があるのでしょうか。この暗闇の世界に私たちが安心して歩める真理の道があるのでしょうか。もがいてもどうすることもできない絶望の人生から救い出してくれる、すばらしい人生の扉を開く鍵がどこかにあるのでしょうか。私たちがどこから来て、なぜここにいるのか、そしてどこへ行くのかを知ることのできる何か手掛かりがあるのでしょうか。結論を申し上げましょう。「あります!」それは「聖書」であると断言することができるのであります。 「もし、あなたが無人島で暮らさなければならなくなって、ただ一冊の本を持って行くことを許されたたら、どんな本を選んで持って行きますか。」という質問をされたとしたら、あなたは何と答えるでしょうか。その質問に、ある人は「万葉集」と答えたそうですが、しかし、無人島でたとえそれがどんなにすばらしい歌集であるとしても、それを口ずさんで、毎日、毎日、押し寄せて来る恐ろしい寂しさを紛らわすことができるでしょうか。これは有名な話ですが、文豪ゲーテは「私が獄に繋がれて、ただ一冊の本を持ち込むことを許されたら、躊躇せずに聖書を選びます。」と言いました。 デフォーの名作「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなったアレキサンダー・セルカークという人は、航海の途中、あまりにも手のつけられない無法者のゆえに、荒くれだった水夫仲間からも見放されて、ある無人島に置き去りにされてしまいました。彼は、最初のうちは一人ぼっちの寂しさと絶望的な前途を想い、気も狂うばかりであったといいます。しかし、彼の母が何とかして息子に読んでほしいと願いながら、航海前に彼の荷物にしのばせて置いた一冊の本がありました。それは、言うまでもなく「聖書」であったのです。 彼は、何もすることがないので、無人島で聖書を手にして読み始めました。聖書は何と大きな慰めと力を彼に与えたことでしょうか(私も、灯台職員として働いていた若い頃、北海道の松前小島の無人島で、無心になって聖書に読み耽ったのを思い出します。)。長い年月が流れたある日、彼はたまたま近くを通った船に救助さたのです。そして、そのときの彼は、以前とはうって変わった全くの別人のような人格になっていたということです。聖書の力は、彼自身を根底から変えるほどの絶大な力を持っている書物であります。まことに聖書は、今日に至るまで、数え切れないほどの人たちを変えて来ました。聖書の影響力は実に世界の歴史をも動かして来ました。聖書は驚くべき無限の力と人をとらえて離さない不思議な魅力を持っている本であります。 聖書は日本では、毎年数百万部が売られており、世界においては、その数は数億冊に及ぶことでしょう。まさに聖書こそ、古今無二の超ロング・ベストセラーであります。そればかりか、聖書ほど多くの国のことばに訳されている本はありません。どんな本でも十数ケ国語に訳されていれば、その本は特別に有名な本と言えるでしょう。聖書は何と、1,500以上の言葉に訳されているのであります。現在の世界の国の数は、191ヶ国(?)ですから、聖書は一つの国でも地方や部族によって言葉が違っておればそのその言葉に訳されていることが分かります。聖書は、このように、あらゆる意味で他の本と比較して、桁外れにスケールの大きい本であると分かります。 BIBLE(聖書)の語源であるギリシャ語のビブロスは「本」という意味です。英国の作家、ウォルター・スコットは、死ぬ間際に、子供に「本を持って来ておくれ。」と言うと、子供は「お父さん、どの本ですか。」と尋ねました。スコットは、「本と言えば、聖書に決まっているではないか。」と言ったという話があります。日本では、世界のうちでも、書物の出版数においては最も多い国の一つであると言われています。しかし、それらの書物のほとんどは、生きておられる真の神様の喜ばれないものであります。活版印刷術の発明のきっかけは、聖書を何とかして多くの人に読んでもらいたいという願いから、グーテンベルクが考案したのであります。 さて、それでは、この聖書はどのようにして出来上がったのでしょうか。聖書は、BC1,500年頃から、実に1,600年の長きに亙って、40人ほどの人々によって書かれました。その著者には、王、大臣、官吏、学者、漁師、医師、詩人、羊飼など、いろいろな身分や職業の人たちがいます。これらの地位や環境の違った人たちが、風俗、習慣の異なった広大な地域と1,600年という気の遠くなるような隔たりの中で、お互いが何の連絡もなしに書いたのですが、その内容は完全な統一と調和と均整が保たれています。その理由は、その背後で、永遠から永遠にいます唯一の神がおられ、彼らの書くこと一つ一つを聖霊によって導いたからであります。すなわち、聖書は神が40人の記者を用いて書かれたことを示しているのであります。 いつの時代にも、聖書が神のことばであることを否定する人がたくさんいます。聖書が神によって書かれたものであることを証明するため、ジョン・ウエスレーは次のように説明しています。「聖書は次の三者のうち、だれかが書いたに違いありません。なぜなら、それ以外には考えられないからです。」(1) 善人か天使。(2) 悪人か悪魔。 (3) 創造主(神)。 まず、「聖書」は善人や天使の創作と考えることはできません。もしそうであったら、自分の書いたものに、「主なる神はこう言われる。」などと、ご丁寧にも3,000回にも亙って、ウソを書き連ねることはできないはずです。次に、「聖書」は悪人や悪魔の創作と考えることもできないことです。なぜなら、自分の魂が永遠の地獄に行くことを何度も繰り返し、はっきりと宣言するような本をわざわざ自分で書くことはあり得ないからです。それゆえ、残された唯一の結論は、「聖書」は神によって書かれた書物であるということであります。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/12
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2010/04/11
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2010/04/10
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2010/04/09
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ あなたがとても辛く苦しい時、また何か大きな過ちを犯してしまって周囲の人たちから冷たい視線を浴びている時に、あなたを励ましたり、慰めたりしてくれる友人がいるでしょうか。また、あなたが明日の生活の不安と心労のために疲れ切って、疲労困憊している時なに、あなたのことを心配し、温かいことばをかけて慰め、現実に助けてくれる友人がいるでしょうか。 あなたは、「自分のことなんか、誰も関心を持ってくれる人もいないし、心配してくれる友人なんて誰もいないに決まっているよ!」と嘆いたり、孤独感に陥ったりしたことがありませんか。他人には言わなくても、心の奥底ではみんなそんな寂しい思いをしたことがあるのではないかと思います。 でも、「あなたが、今どのような状況にあったとしても、本当にあなたのことを愛していてくださる方がおられるのですよ!」と言ったら、あなたは驚かれるでしょう。でも、これは紛れもない事実なのです。聖書の中で、真の神様はあなたに対して、次のように個人的に語りかけておられます。もちろん、あなただけでなく、全世界のすべての人々に向かって個人的に呼びかけておられるのです。 人間の罪のゆえに、永遠の死と滅びの危険に晒されているあなたを命がけで愛しておられる方、いいえ、あなたのために実際に身代わりに死んでくださった方がおられるのです。「そ、そんな馬鹿な!!」とあなたは思われますか? でも、これは歴史的な事実なのです。そのお方こそ、神の御子イエス・キリストなのです。聖書の中で、一番有名で大切なことばは次のみことばです。このみことばには、聖書全巻を凝縮して要約したような神の愛が表されているのです。 聖書が語る神は、全宇宙を創造された偉大なお方であり、あなたを造られ、あなたを日々、恵みのうちに生かしておられるお方ですが、人間は一人残らず、みな神に対して罪を犯してしまいました。しかし、愛なる神は、ご自身のひとり子をこの世にお遣わしになられ、神の御子イエス・キリストはすべての人の罪のために身代わりに十字架で死なれ、死後三日目に墓からよみがえられました。 御子を信じる者はだれでも罪が赦され、本当の平安を持つことができます。あなたを生かし、愛しておられる真の神を認め、神のもとに立ち返るところに真の幸福があるのです。愛なる神様との交わりの中にこそ、本当の安らぎがあるのです。その時、あなたは、決して自分はひとりぼっちではないことを知るでしょう。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/08
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ この箇所には、「真の神」と「偶像」との違いがはっきりと書かれています。ベルとかネボというのは、ともにバビロンの偶像であり、これらは征服者の前に伏し屈み、これらの偶像は分捕り品の中に加えられて運び去られるというのです。征服者に負い、運び去られるバビロンの偶像の無価値なことを言っているのであります。これらの偶像は、民の重荷を負ってくれるのではなく、むしろ、民の重荷となってしまうというのです。真の神様は、「負う神。かついでくださる神。」であり、偶像というのは、「負われる神。かつがなければならない神。」であります。日本の多くの偶像の神々は、祭りのときに神輿(みこし)で担がれていますが、これは、何か日本の神々の無力さを象徴しているのです。 人間が作った多くの宗教は、人間の重荷を負ってくれるのではなく、逆に人間の重荷となるものが多いのです。多くの日本人は、ある信仰宗教に入ったために、心が安らぐどころか、その反対にそれによって苦しみ、大きな苦しみと負担を抱え込むことになるのです。ここで、「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」と書かれているように、真の神様は母親の胎内にいるときから、白髪の老人になるまで、背負ってくださる神であるというのです。神は、私たちの人生の全生涯において、ご自身のみ力で責任をもって支えてくださる方なのです。何と偉大な愛に満ちた神ではないでしょうか。 イスラエルの民は、彼らの不従順のゆえにたびたび神の試みを受け、苦難と試練を通ったのですが、神は彼らと共に苦しみ、イスラエルの民の歴史の中で、ご自身の愛とあわれみを表してくださたのです。「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。不従順なご自身の民に対して、神はこのようにわが子を背負い抱く母親のように真実の愛を示してくださいました。人間には、生きている限り必ず、苦しみがあり、悩みがあります。しかし、愛なる真の神は、その苦しむ人間の側に立って、いっしょに苦しんでくださる御方なのです。そして、私たちの生涯の間、私たちを背負ってくださるというのです。 ここに、人生の重荷のゆえに苦しみ、疲れ切っている人たちを招いておられる神の御子イエス・キリストのおことばがあります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。」との徳川家康の遺訓がありますが、波乱万丈に満ちた生涯を送った徳川家康の心中が察せられる重みのあることばではないでしょうか。現代の私たちも同じように、人生は苦しみと悩みに満ち、重荷を負いながら、遠い道を歩み続けているのです。孤独で寂しい道であります。そして、その行き着くところは「死」であることを考えると、人は不安と恐れに満たされます。その重荷は益々重く感じられるのではありませんか。しかし、イエス・キリストは、私たちの重荷も私たち自身もいっしょに負ってくださる方なのです。 私たちの人生において最も大きな重荷は自らの「罪」と「死の不安」であります。しかし、主はこの耐え難い重荷を負って解決してくださる方なのです。神の人類救済の方法はただ一つ、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の贖罪のみわざによるものであります。これ以外に救いの道はないと、聖書は明確に語っているのです。キリストは、全人類、すなわち私たち人間一人一人の数え切れないほど多くの罪をご自身が十字架上で身代わりに負って死んでくださったのであります。どうか、信仰によって、真っ赤な血潮に染まったイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様はあなたの身代わりとなられたのであります。これは、神話でもなければ、フィクションでもありません。歴史上の事実なのです。 イエス様が語られたこの例え話において、この羊飼いは迷ってしまい、疲れ果てている羊を肩にかついで帰って来たのです。私はこの箇所を読むたびに、この羊飼いの愛と優しさに触れて感動を覚えるのです。この迷い疲れ果て、傷ついた羊の首に縄をつけてグイグイと引っ張ったり、杖で追い立てて来たのではありませんでした。優しく腕(かいな)に抱き、肩に担いで連れ戻したのであります。当時のユダヤの律法学者たちについて、イエス様は「彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。」(マタイ23:4)と言われましたが、今日の多くに宗教家は同じように疲れている人たちを勧誘し、彼らにさらに重い荷を背負わせるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような人たちとはまったく違う愛に満ちた御方です。どうか、あなたも偶像ではなく、本当の真の神様の愛の中に安らぐ人生に導かれますように切に祈ります。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/07
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ 終戦直後は、日本中が飢餓の時代でした。誰も彼も日本人みんなが、来る日も来る日も空腹を満たすことだけを求めてさ迷い歩いたのです。そして、経済成長の時代には、物質的な豊かさを求めて一生懸命に働きました。物質的に繁栄し、豊かになることが幸福とバラ色の未来を約束するものであると信じたからです。そして今、日本人は物質的に恵まれ、食べたいものを食べ、したいことは何でもできるような飽食の時代を経験しているのです(しかし、今日世界の各地で一日に何万人もの子供たちが飢餓のために死んでいることもまた事実です)。 しかし、日本人の多くは物質によってお腹を満たすことだけが人生の幸せではない、「心の満たし」こそが必要であることに気づき初めているのです。ある人は、今の時代を「心の時代」と呼んでいます。心の時代に入った日本人は、音楽や絵画などの芸術やスポーツ、旅行などによって満たされた人生を送ろうと思って、いろいろ試しています。そして、お年寄りたちは、自分たちが若かった頃、貧しさのためにできなかったことを楽しもうとしていろいろなことを試し、挑戦していることが分かります。若者たちもまた、常に新しい趣味や娯楽やレジャーを求めてあちこちと歩きまわっているのです。 しかし、食べ物や着物によって埋めることのできなかった心の空洞は、果たして、芸術やスポーツや旅行などによって埋めることができるのでしょうか。あなたは、心の中に何ものによっても埋めることのできない、ぽっかりと空いた空洞を感じることはないでしょうか。「人生の意味が分からない。死にたい。」と悲痛な叫びを上げている若者が日本中にあふれているのです。若者だけでなく、定年を迎えた高齢者も毎日のように自殺しています。何と、日本の一年間の自殺者は3万人以上にも達しているのです。隠れた自殺志願者は、その10倍もいるのではないかと推測されています。人々の心は非常に病んでおり、いろいろな歪みが生じているのです。 孤独感や寂しさを紛らわすために、主婦が台所の片隅でお酒を隠れて飲むところから名づけられた「キッチンドリンカー」が増えていると言われています。 最近では核家族化が進んでいるため、母親が1人で育児や家事に追われることも少なくないのです。また、育児に関して相談できる人もなく、マニュアル本しか頼ることが出来ずに、育児ノイローゼになる若い母親も急増しています。それと共に、子育てが終わって目標が無くなったための喪失感、家庭内の事情によるストレスなど、これらのことが原因でお酒で空虚な気持ちを解決しようと飲み始めるパターンで20歳代後半から50歳代の主婦に多いと言われています。この日本は今、一体どこに向かって進んでいるのでしょうか・・・・。 あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と言いました。真の神(創造者)との交わりによってしか埋めることのできない私たちの心の空洞を埋めて下さるために、神の御子イエス・キリストは天から人となって下って来てくださいました。そして、神と私たちの交わりの障害となっていた人間の罪を取り除くために、罪人の身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったのであります。イエス・キリストだけが、あなたの心を喜びと平安と希望で満たすことのできる御方なのです。 神は創世の初めに、人(アダムとエバ)を造られ、「エデン(歓喜)の園」を設け、人が住むために必要なあらゆる環境を整えられ、そこに彼らを住まわせられたのですが、彼らはサタンの誘惑に負けて、神のご命令、すなわち「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)との禁令を破ってしまったのです。そして、アダムとその妻エバは主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したのです。そして、冒頭の聖書のみことばは、その時に神が人に語りかけられたことばなのです。 「あなたは、どこにいるのか。」との神の語りかけは、神が盲目になって人間を見失われたのではありません。人間が神との交わりから脱落したので、愛なる神は人との交わりの回復を切に求められて、人に呼びかけて言われたおことばであります。聖書は、実に、人がもう一度神との交わりを回復するためにあらゆる面から記されているものであって、この長い長い聖書66巻のすべては神の人類に対する偉大な愛の手紙であり、人類救済のために神がどのようなご計画を立てられ、また、それを実現されたかを語っているのです。 人類の歴史は、アダムの罪以来、神に対する反逆と罪の歴史であると断言しても過言ではありません。しかし、神はその神から離れてさ迷い、神に帰る道を捜し求めている人間を、今日までずっと捜し求め続けておられるのです。今日も、神はあなたの心に、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けておられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりに十字架につけて罰しなさったのです。この救い主イエス・キリストは、死後三日目によみがえられ、今も生きておられる御方なのです。 あなたに必要なのは、「私は何をするか?」ではなく、「私はどこにいるのか?」を真剣に考えることではないでしょうか。神から遠く離れた危険なところにおられますか?それとも、救い主イエス・キリストを信じて、神様の近くにおられますか?神様の近くにいることこそ、心の空洞が神で満たされた喜びと平安に満たされた幸いな生活なのです。 旧約聖書の小預言書アモス書の中に次(下記)のような警告のことばがあります。パン(食糧)の飢饉よりも、もっと恐ろしいのは、「心の飢餓」すなわち、「主のことばを聞くことの飢饉」ではないでしょうか。今こそ、心を静めて聖書のみことばに耳を傾ける時ではないでしょうか。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/06
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2010/04/05
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2010/04/04
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2010/04/03
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2010/04/02
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ 私たちの人生には、多くの悲しいこと、辛いこと、予期しないような試練に直面することが度々ありますね。そのような時に、私たちは、意気消沈し、失望落胆してしまうことが多いのではないでしょうか。私たちは何度、涙を流したときがあったことでしょう。そして、「もう、私は駄目だ。これ以上この苦しみに耐えられない。死んでしまいたい。」などと考えたことはありませんか。 しかし、聖書には、私たちに対する慰めに満ちたことばがあふれており、人生のどん底から立ち上がらせてくださるのです。聖書は私たちに生きるための真の希望と勇気、励ましを与えてくださる書物でもあります。絶望の淵から救ってくださり、もう一度、生きる力を与えてくださるのです。これは、私自身も経験して来たことであり、決して偽りではありません。今、人生の大きな壁に直面しておられる方も、どうか、聖書の神を見上げて、生きる希望をご自分のものとなさって下さい。 英語で、FOOTPRINTS(足跡)という詩がありますが、多くの方がこの詩を読んで大きな慰めを受けていますので、ご紹介したいと思います。英文では、主人公が「私(I)」であったり、「彼(he)」であったり、また、いろいろと表現が違う個所があり、実のところ、私にはどれが最初の作者のものかよく分かりません‥‥。★ 足跡(Footprints)★ある晩、私は夢をみていた。夢の中で私は、神と並んで浜辺を歩いていた。そして空の向こうには、私のこれまでの人生が閃光のように、映し出されては消えていった。どのシーンでも、砂の上には二組の足跡が残されていた。 一組は私自身のもの、もう一組は主(神)のものだった。人生の最後のシーンが映し出されて目の前から消えていくと、私は振り返り、砂上の足跡を眺めた。そして、私の人生の道程には、一組の足跡しか残っていない場所がいくつもあることに気づいた。 しかもそれは、私の人生の中で、最も辛く、悲しいときであったのだ。 私の心は、疑いと悩みで乱れ、神にそのことを尋ねてみた。「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私と共に歩いてくださるとおっしゃられました。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつも一組の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。」神はやさしく答えられた。 「わが子よ。 愛するわが子よ。 わたしはあなたを愛しており、 あなたを決して、ひとりにはしなかったのだよ。あなたの試練や苦しみのときに、一組の足跡しか残されていなかったのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだよ。」 (訳:筆者) Author Unknown (作者不詳)★この詩の作者は、マーガレット・F・パワーズさんと言われていますが、他にも自分が作者ですとおっしゃる方が四人ほどおられるそうです。それで、一応、「作者不詳」ということにしました。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/01
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ みなさんの中に、今、辛い悲しい試練に遭遇して、失望と落胆のうちに沈んでおられる方がおられるでしょうか。でも、そのような方に少しでも励ましと慰めを与えることができればと心から願って書いてみました。 熱帯地方は一年中暖かく、植物を育てるには理想的な地域だと考えていましたが、実際はそうではないことが最近分かりました。ほとんどの温帯性の木は、熱帯ではそれほどよく成長しないのだそうです。同じことが、スイセン、チューリップ、ヒヤシンスといった春咲きの球根植物にも言えるのです。これらの植物は、熱帯だと最初のシーズンはうまく育つように見えますが、葉や花が散ってしまうと、一種の冬眠状態に入り、それっきり再び目覚めることはほとんどないのだそうです。 もし、ナシやモモの木を冬の間、暖かい室温にずっと保っておいたとしますと、致命的な害をこうむってしまうのだそうです。このことは、温帯植物にとって「寒さ」が重要な意味を持っていることをはっきり示しています。温帯植物は明らかに寒さを必要としているのです。落葉樹や球根類は、秋に葉を落としたあと休眠に入りますが、再び成長を始めるには、必ずその前にある程度の寒さにあわなければならないのです。 私たちの人生においても「厳しい試練の冬」を経験することがあります。試練の寒さもいろいろです。難病に苦しみつつ病床に伏しておられる方もあれば、癌を宣告されて途方にくれておられる方、他人から酷い中傷を受けて傷ついておられる方もおられるでしょう。私の知人(まだ、30代半ばの女性ですが)で、最近二度の離婚を繰り返して、今、二人の子供さんと三人でこれから生きて行こうとされておられる方がいます。ご本人にとっては、とても辛く悲しい寂しい経験だと思います。これから先のことを考えると、私も同情の涙を禁じ得ません。 しかし、聖書の中には、かつて五人の男性と結婚し、その後、6人目の男性と同棲している女性の話が出て来ます。砂を噛むような空しい日々を送り、人目を避けるようにして生活していたその女性は、ある日、水を汲みに行った井戸の側で休んでおられたイエス様と出会うのです。しかし、イエス様は、彼女を一人の女性として暖かく受け入れ、接してくださいました。そして、イエス様はその女性にやさしく言われました。 彼女は、イエス様を信じて永遠のいのちを受け、幸福で、積極的な女性となりました。そして、イエス様と出会ってから、彼女の人生は180度変わってしまったのです。イエス様による救いの喜びを周囲のみんなに証しする人に変えられたのです。人生の試練の冬は、神に立ち返る絶好の機会として、神様が備えられた恵みではないでしょうか。新約聖書の中に次のようなみことばがあります。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/01
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