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May 9, 2013
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 日本の仏教において、無我と訳されている言葉には、二つの意味がある。
ひとつは、バラモン教で使われている輪廻転生している永遠不滅の「アートマン(我)」に
否定の言葉をつけて「アナートマン」としたものを訳した「無我(非我)」である。
仏教では、諸行無常、諸法無我を説いていて、当然アートマンも例外ではないということだ。

 日本において知られているのは、禅における無我だろう。
こちらは、我執(自分自身に対する執着)・我所執(所有欲)としての「我」の否定である。
これらのサンスクリット原語は全く別であるそうだ。

 これから、語るのは禅の無我である。

 さて『人間は無我の境地には絶対になれない』と考えていている者もいるが、


無我とは、
自分のことを考えなくなることでもないし、
何も考えないことでもない。

 そのように捉えていてるから『無我の境地なんてあり得ない』と考えてしまうのだ。

 そもそも、対象としてる「我」が違うのである。

こんな話がある。

馬祖道一(ばそどういつ)がまだ若い頃、伝心院に住んでひたすら坐禅をしていた。
この男は見所があると見た南嶽懐譲がやってきて、問うた。

南嶽懐譲「おまえさんは何のために坐禅をしている」
馬祖道一「仏になるためです」

すると南嶽懐譲は、瓦を拾いあげて庵前の石の上で磨きはじめた。


南嶽懐譲「磨いて、鏡にするつもりだ」
馬祖道一「瓦を磨いてどうして鏡にすることなどできましょうか」
南嶽懐譲「坐禅をしてどうして仏になることができようか」


 論理的に推論すれば
「仏になるために坐禅をしています」という者は、


 『鏡でない瓦をいくら磨いても鏡にはならない』
という単純なことを示すことで
南嶽懐譲が伝えたいのは、
『仏でないものは仏になれない、仏になれるのは仏だけだ』
ということだ。

 つまり、坐禅で悟りを開けるのは、人は本来そのままで仏だからなのだ。
坐禅をすることは、仏になる修行なのではなく、
その人の仏性を露にすることなのだ。

その禅定の心がそのまま仏なのだ。

 坐禅のポイントは、自らの仏を露にすることで、
自分が本来そのままで仏であったことに気づくことだ。

仏になるのではない、仏を露にするのだ、そして、仏で在るのだ。


 ところがここに問題がある。

 それは、本来そのままで仏であるはずの自分を、
『こんなダメな私が尊い仏さまであるはずがない』
という思いだ。

 ここに本来仏であるはずの自分とは別に、もう一人の自分がいる、
これが凡夫の正体だ。

 あなたが一人だと思っている自分とは、
本当の自分と偽りの自分の二人の自分が合体しているものだ。

 このことは、現代の心理学でも明らかにされている。
知りたければ
根本 橘夫著『人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 』 (文春新書)
を読んでみるといい。


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 さて、この『こんなダメな私が尊い仏さまであるはずがない』
という思いはどこから来るのだとあなたは思うか。

 それはあなたが家で、学校で、社会で受けてきたしつけだ。
「~であるべきだ」
「~でなければならない」
「ちゃんとできない子は悪い子だ」

 あなたは社会の正しさを学ぶために叱られ続けてきた、否定され続けてきた。

あなたが認められるのは、社会の正しさに適っている時だけだ。

親が言う。
「良い子でいるのよ」
幼いあなたは親無しでは生きていけない。
そこで親に認められるために、あなたは一所懸命に良い子を演じる。

だが、それでも叱られる。
「足をそんなにぶらぶらさせないの」
『な、なんと、足を動かしてもいけないのか!』

こうやってあなたは気がつく。
自分が相手の期待する正しさに適っているかどうかは、自分では分からないのだ、
自分が正しいかどうかを判断するのは、相手なのだ。
そうやってあなたは相手の顔色を伺って生きるすべを学ぶ。

そうやってあなたは育っていく。
もう、あなたの中は、あなた以外の人間が決めた正しさでいっぱいだ。
自分で選んだ正しさなら自分の意思で手放すこともできる。

だが、他の人から無理やり押し込まれた正しさを手放すのは難しい。
そんなことをしたら、
『周りから見放されてしまう』という恐怖があなたを襲ってくるからだ。

あなたはこの正しさを手放すことができなくなる。
この正しさはあなたの中で絶対の正しさへと変ってしまう。

こうして、あなたは絶対の正しさという枠にガチガチに閉じ込められたロボットになる。

 この絶対の正しさが『凡夫』『我』の正体だ。

この『こうあるべきだ』『ねばならない』という観念が、
あなたを仏ではないと信じ込ませている。

ん、それはそうだろう。
すべての正しさを完璧にクリアできる人間などいるはずがない。
だが、あなたは完璧になることで初めて仏になれるのだと勘違いしている。
『こんなダメな自分が仏であるはずがない』
と信じているのだ。

 この『執われ』こそが凡夫と呼ばれる『我』の正体だ。

この執われを手放し、絶対の正しさを手放すことが、
我を手放すことであり、『無我』ということだ。

 分かってみたら、なにも難しいことではない。
 できてみたら、なにも難しいことではない。

無我即仏である。

 だが、実際に我を手放すことは難しい。

 なぜなら、あなたはこの凡夫という『我』こそ自分だと信じているからだ。
執われを手放すことは、自分の死に等しいからだ。
あなたが悟りを開くためには、あなたは一度死ななければならないのだ。


                        さんた ひかる








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最終更新日  May 9, 2013 09:01:47 AM
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