ひこじいさんのブログ

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2015年04月02日
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岩壁や露岩あるいは巨石の表面を磨いて文字・画像などを陰刻または浮き彫りにしたものを磨崖といい、彫られたものが仏像であれば磨崖仏と呼ばれる。
磨崖の磨の字は石と麻から成り立っており、麻から繊維を採るとき「こすってはがす」ことから「こする」の意味になったもので、摩も同意である。垂直に近い、険しい傾斜地形を崖という。

アジアの仏教圏では自然の岩や石に仏像を刻むことが広く行われ、大規模な遺跡は石窟とか石窟寺院などと呼ばれる。

これに対して比較的小規模なものは、「磨崖仏」と呼ばれているが区別は必ずしも明確ではない。

切り出した石から像を彫り出して造った移動可能な仏像を「石仏」と呼ぶが、「臼杵の石仏」のように磨崖仏も「石仏」と呼ぶことがある。このように実際には、石仏と磨崖仏は厳密に区別されていない。

日本で磨崖仏が作られ始めたのは平安時代初期と言われ、狛坂寺址の三尊磨崖仏(滋賀県栗東市)が最も初期のものとされている。
時代が下がって平安中期から後期になると各地に多くの磨崖仏が造られるようになり、九州・近畿・関東から東北へと広がった。

日本全国磨崖仏の6~7割は大分県にあり、観光バスに乗ったまま道路脇にも見ることができる。

列島の中ほどに位置する長野県や山梨県には何故か磨崖仏は少なく、山梨県には天目山山中標高1,050mの棲雲寺(栖雲寺)に一か所あるだけである。



天目山は甲州市木賊と田野に位置し元は木賊山と呼ばれていたが、栖雲寺が創建されたことによりその山号を採って天目山と呼ばれるようになった。

天目山は、甲斐武田氏の二度にわたる滅亡の地としても知られている。
応永24年(1417)室町幕府に追われた第13代武田信満は木賊村で自害して果て、その遺骸はこの寺に運ばれ葬られたとされている。

武田信満の自害により、甲斐武田氏は一時断絶する。武田氏は後に再興されたが165年後の天正10年(1582)、織田に追われた第20代武田勝頼が奇しくも同じ山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡した。
天目山は、武田氏にとっては悲劇の山でもある。


栖雲寺の庫裏東側には、多くの巨石や巨岩で築造された石庭がある。
一般に石庭は平坦な地に造られているが、栖雲寺の石庭は谷筋の急斜面に巨岩・巨石で造られている。夥しい巨石の中には、地震で転がり落ちるのではないかと思われるものもある。

この庭園の中の巨大な石英閃緑岩に開山の祖、業海が彫ったとされる線刻の地蔵菩薩と文殊菩薩の二体の磨崖仏がある。
文殊菩薩像は龕の中にあり、高さは90cmでやや左方に涼やかな面を向けていて美術的価値も高いと評価されている。
その下部にある地蔵菩薩磨崖仏は総高70cmの正面向きで、貞和4年(1348)の刻銘がある。露出し風雨に晒されているため、表面の剥落が進んでいてかなり薄く見えにくい状態となっている。

無住時ではあるが栖雲寺境内からは富士山を眺望することができる素晴らしい場所で、新緑と紅葉の時期には訪れる観光客も多いと思われる。





武田氏の墓所は当主毎に別々で初代武田信義は韮崎市願成寺、武田信満は栖雲寺、武田信玄は恵林寺、武田勝頼は景徳院に墓がある。





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最終更新日  2015年04月02日 09時42分29秒


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