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昨年10月に信州伊那谷在住の義妹から名前も草姿も分からない花の種子を貰って植木鉢に播種し、12月になって10㎝ほどに育った苗を山荘の入り口に定植した。 5月になるとどんどん草丈が伸びて、茎の先端に頭を垂れた麦の出穂前のような形の蕾が多数着いた。 後で知ったのだがこの草花は一般的に、ムギナデシコまたはムギセンノウと呼ばれているナデシコ科センノウ属の一年草であることが分かった。 ムギは麦で、センノウはキク科の仙翁である。センノウという名前の語源由来は京都嵯峨の仙翁寺が由来で、この寺にセンノウがあったことによるという。 ムギセンノウは麦に似た草姿と、センノウに似た花の姿から名付けられたものだという。 開花前の蕾はイネ科植物の実の外殻にある針のような毛の禾に似て一見麦を思わせ、直ちにナデシコ科とは判断できない。 しかし開花したその花姿は、まさにキク科のセンノウを彷彿とさせる。 原産はヨーロッパで現地では麦畑の雑草であり厄介者として扱われているが、日本ではアグロステンマの名で販売され観賞用として栽培されている。 名称のアグロステンマは、ラテン語のアグロス(野原・畑)とステンマ(王冠)の合体語で畑に咲く花を意味している。 1877年に渡来したと伝わるが以来150年にもなるのに、瞬く間に道路沿いや河川敷を席巻してしまった特定外来生物のオオキンケイギクなどのように野外で増殖しているのを見ることは無い。 茎は直立して、高さ 60~80cmに達する。細く長い線形または線状披針形の葉を対生する。蕾を付ける前の草姿は、むしろキク科のヤグルマギクを想起させる。全草に長い毛が目立ち、5月中旬頃枝先の葉腋から長い花柄を出し桃赤色の花を1個ずつつける。 ナデシコ科の特徴である萼片5枚が、下部で癒着して筒状になる。花弁も5枚で、萼片より短い。 園芸的に育てられているのはアグロステンマ・ギタゴで、秋播種すると翌春には1mほどに伸びた茎先にピンクの花を咲かせる。 秋に播種して、日当りと水はけのよい場所で育てる。土質は、特に選ばない。草丈が伸びると倒伏することがあるので、早めに支柱を立てる。こぼれ種からも、よく繁殖する。 冬季の最低気温-10℃には耐えるが、これ以下になる場合はフレームで越冬させて春に定植する。 ヨーロッパのフラワーガーデン等で、「ワイルドフラワー・ミックス」の名称で土産用に売られている花の種の袋に入っていることもある。 主に花壇や、切り花として利用される。 別名のムギナデシコ(麦撫子)は、キク科のバラモンニンジンの別名としても使用されている。バラモン「婆羅門」はインドで司祭を意味するサンスクリット語で、ジンは漢語の「參」で根を薬用にするオタネニンジン(朝鮮人蔘)に由来するとの説がある。 日本でもバラモンニンジンの根を、煮たり味噌漬けにして食べる。方やキク科であり一方はナデシコ科で属する科が全く異なるのに、同じ名前が付けられていることが面白い。アグロステンマは一月には全く開花しないのに、なぜか-月 -日の誕生花とされている。花言葉 小国の王 種子にはサポニン配糖体を含み、有毒である。
2019年05月28日

果実を取る桃・林檎・梨などは、その花が美しく目立つ。ところが同じ実を採る柑橘類の花は、むしろ香りで花が咲いているのを認識することが多い。 ♪みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 青い海 お船がとおく かすんでる唱歌「みかんの花咲く丘」は、1946年8月25日に発表された。「みかん花咲く丘」の題で作られたが、発表までの間に「みかんの花咲く丘」に変更されたものである。はたして作詞者加藤省吾がミカンの開花を認めたのは、視覚が先なのかあるいは嗅覚からなのか興味あるところではある。 みかんは5月初旬頃からの、2~3週間ほどが開花時期である。ジャスミンにも似た清烈な香りは、心を落ち着かせてリラックスさせる。 種類や品種にもよるが、植え付け後3~6年で実がなり10~12月頃が収穫期となる。 みかんは、みかん科みかん属の果樹の総称である。花・葉・果皮に、半透明の油点があるのが特徴である。 皮のオレンジ色は「フラベド」と呼ばれる外果皮が、果実の成熟と共に緑色から黄色→オレンジ色へと変化するものである。 皮の下の白い繊維は「アルベド」と呼ばれ、実と外皮の間にあるため外果皮に対して中果皮と呼ばれる。アルベドは根や葉から吸収した水や養分を、果実全体に配分する役割を果たしている。 花は直径3cmくらいの白い5弁花で、5月の中旬ころ開花する。 「冬みかん」または単に「みかん」と言う場合、通常は温州みかんを指している。中国浙江省の温州が柑橘の名産地であったことから温州と名付けたのだが、鹿児島県原産で日本で最も多く栽培されている。酸味が少なく、多汁で糖度が高いのが特徴である。甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記され「みっかん」と読まれたが、やがてつまってみかんとなった。 みかんは皮が薄くむき易く種がない品種が多く、オレンジにはない「シネフィリン」という風邪予防に効果的な栄養素を含むとされる。 みかんに含有される栄養素として、ビタミンA・C、ペクチン、ヘスペリジン、葉酸、カリウムなどが知られている。 ヘスペリジンは「ビタミンP」とも呼ばれるフラボノイドの一種で、ビタミンCの働きや吸収を助け毛細血管を丈夫にして血流を改善する働きがあるとされる。ペクチンは血糖値の急な上昇を防ぎ、コレステロールの吸収を抑える成分として知られている。消化管の壁に貼り着いて胃の消化を遅くするので糖尿病や肥満、高血圧といった生活習慣病の予防効果が期待されている。これらの成分はみかんの果皮の部分に多く、果肉の部分と比べるとペクチンが約4倍、ヘスペリジンでは約10倍含有されている。 温州みかん系の柑橘類にだけに含まれる成分ノシネフィリンは、気管支を広げる作用があり喉風邪の予防に役立つと考えられる。日本で最初に広まった中国原産のみかんは、紀州みかんである。黄赤色の果実は温州ミカンより小ぶりで香り・甘みが強く、種が多いのが特徴である。温州みかんが普及以前は、和歌山の紀州有田が一大産地であった。 柑橘の芳香は、何か寂しさを誘う香りなのであろうか。 別れの宴に漂ってきた柑橘の花の香りを「王昌齢」は、次のように詠んでいる。江樓上醉飲話別橘柚正飄香,江風吹灑細雨帶給小船淒涼。 想象你獨自遠在瀟湘明月下,滿懷愁緒夢裏靜聽猿啼悠長。 [送別魏三 王昌齢] (河辺の高殿で酒宴を開き、酔いの中であなたを送別しようとする時、柑橘の香りがする。 川風で雨が船に吹き込んできて、涼しく感じられる。 別れて後あなたのことを思い起こせば、あなたは遥かな湘山に掛る月の下にあって、猿の長く尾を引く澄んだ鳴き声が、夢うつつの中に哀れに聞こえる。)庭の片隅に数年前に植えたミカンの木が、昨年は20㎏のリンゴを入れる段ボールに一杯の収穫があった。最初の年は年を越して一月半ばに漸く色付いて、収穫した。昨年は11末には色付き、12月始めに収穫して、歳の暮れまで約二週間追熟してから食した。酸味と甘みが調和した、スーパーでは売っていない美味であった。 花言葉 純潔・清純・親愛・花嫁の喜び 「純潔」「清純」は白い花の純粋なイメージを表し、「親愛」「花嫁の喜び」はオレンジの花がヨーロッパで「花嫁の守り神」とされていることに由来している。
2019年05月10日

10連休の二日目の4月28日は大陸から寒気が南下して山荘のある北杜市は、外気が零下を下回った。 デッキに下げた寒暖計は朝6時に、1℃を指していた。 前日の予報で晩霜が下りることが予想され、芽を出したジャガイモに強風に翻弄されながらビニールシートを被せた。しかし日が昇るにつれて、ジャガイモの芽は低温障害を受けて見るみる黒色に変色してしまった。 零度近かった外気は太陽の上昇と共に、ぐんぐん上昇し、正午ころには17℃となってジャンパーも不要となった。 正午過ぎにふと東の空を見ると南の空に浮かぶ雲を彩って、両端がすこし上向きの濃い虹色の帯が伸びていた。 ネットのウェザーニュースでは石川県能美市では10時頃から、岐阜県高山市では11時頃から幻日環が現れ、長野県諏訪市では11時頃には環水平アークが現れたと次のように報道された。「今日4月28日(日)午前西日本や東日本では上空に薄雲がかかり、「環水平アーク」や「幻日環」などの大気光学現象が見られています。水平の虹は「環水平アーク」と呼ばれる現象です。 「環水平アーク」は幻日環ほど珍しくは無いものの、太陽が高く昇る時期・時間帯にしか出現しないため、3月から9月の昼前後が観測しやすい時期となります。 今日は上空の気圧の谷の接近に伴い、中部地方から関東、東北などでこのような薄雲が広るため、このような虹色現象を目撃するチャンスとなっています。」 空を彩るものには虹、彩雲、朝焼け、夕焼け、アークと言われる現象などがある。 このうち「環水平アーク」と呼ばれる現象は、雲の中の氷晶がプリズムの役割を担うことにより見られるものである。 上空の氷の結晶の方向がほぼそろったとき、結晶で屈折した太陽光により見える現象とされ、虹が太陽とは反対の方向に見えるのに対し、環水平アークは太陽と同じ方向にほぼ水平に現れる。 「環水平アーク」を彩雲と呼ぶ場合もあるが、回折により見られる彩雲とは別の現象とされる。本州太平洋岸で見られるのは、夏至を挟んだ半年の間とされる。 環水平アークは高度が低くて視界に入りやすいので見つけやすく、明るく鮮やかに見える場合があるので彩雲より話題になりやすいのだという。 一方の彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象である。瑞雲、慶雲、景雲、紫雲などと言われることもある。 この彩雲現象は雲に含まれる水滴によって太陽光が屈折し、その度合いが光の波長によって違うために生ずるもので大気光象と言われるほぼ水平な虹が見える光学現象の1つである。 巻積雲や高積雲、風が強い場合に千切られた積雲などに発生することが多い 西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる来迎図などにも描かれている五色の雲のことで、瑞相の一つとして知られる。 虹の最長出現持続記録は中国文化大学で観測された約9時間で、正式にギネス記録として認定されたという。 その記録には遠く及ばないが山梨県北杜市の山荘で見られた環水平アークは、濃くなり薄くなりしながら約30分も観察することができた。 日本国内では年に数十回程度観測されるというのに、生まれて以来二回目の体験であった。 環水平アークの出現は関東で降る雪の回数より多いとされる現象である。にもかかわらず雪を見たことのない人は居ないのに、ほとんどの人が環水平アークを知らないというのが不思議である。
2019年05月02日

仏教の「欲界・冥界・六道、また十界」の最下層に位置付けられている地獄は、生前悪行をなした者の霊魂が死後に厳しい責め苦を受ける世界と定義されている。多くは、地面のはるか下に位置するとされていることが多い。地獄はサンスクリット語でナラカといい、漢字の奈落が当てられた。ここから暗い舞台の下の空間を指して、奈落と言うようになった。奈落の底に落ちるという言葉があるが、地面の遥か下のさらにその下の意で、決して抜け出すことのできない底知れない深い場所という意味である。日本で地獄という概念が定着したのは平安~鎌倉時代とされ、釈尊の入滅後時代と共に正しい教法が衰滅することを説いた末法思想の流行以来のこととされている。地獄には①等活地獄、②黒縄衆合、③衆合地獄、④叫喚地獄、⑤大叫喚地獄、⑥焦熱地獄、⑦大焦熱地獄、⑧阿鼻地獄の八つの地獄があるという。仏の教えとは相容れない考えを「邪見」といい、邪見の罪を犯せば焦熱地獄に堕ちるとされている。「観音を悪口すれば、地獄の釜へ流さるべき也」と源平盛衰記に出てくるが、「邪見の罪」の戒めから出たものであろう。ここでは熱鉄の地面に寝かされ、煎餅のように押しつぶされ熱い鉄鍋で炙られるのだという。類推するところ焦熱地獄あるいは大焦熱地獄に、地獄の釜があるという設定なのであろうか。 地獄の釜に蓋がある絵画にお目にかかったことは無いが、「地獄の釜の蓋が開く」の慣用句があるから蓋がある設定になっているのであろう。正月や盆の16日は地獄の釜の蓋が開く日とされ地獄の鬼さえ仕事を休むというところから、この世の者もそれに倣って仕事をしないで休もうという意味でこの慣用句が使われ、使用人や奉公人に藪入と称して暇を与える習慣があった。ただ、釜の蓋があっては、罪人を釜に投げ込むことはできないのにと思うのは考え過ぎか。普通に考えると蓋が開くのではなく閉める方が仕事を休むことを意味すると思うのだが、地獄では蓋を開ける方が休むことになっていて現世と冥界との考え方が逆になっているのは面白い。地獄で無くても古代中国では三本脚の銅製の巨大な「鼎」や大釜に湯をたぎらせ、罪人を放り込んで茹で殺す釜茹でが盛んに行われたという。日本では1594年に京都の三条河原で執行されたと伝わる、安土桃山時代の盗賊の首領とされる石川五右衛門の釜茹が有名である。 「地獄の釜の蓋」の、名前の付いた野草がある。正式にはキランソウといい名称の由来として「き」は紫の古語で「らん」は藍色の意味で花の色からとの説や、咲き広がる様子が金襴の織物の切れはしのように見えるところからとする説などある。全体に毛が多く茎は高く伸びず、草全体がロゼット状に地表に張り付いて円盤状の形になる。イチゴのランナーのように四方八方に伸びる茎は地表を這い、その先端部もまたロゼット状に葉を広げ花を着ける。シソ科では茎の断面が正方形のものが多いが、キランソウでは断面が丸い。 葉の先端側が幅広く、基部は次第に狭くなる。また葉の縁には、波状の鋸歯がある。表面は深緑で艶がある。 3 ~ 5月に開花し濃紫色の唇形花で、上下二つに分かれた上唇は小さい。下唇は平らに大きく発達して三裂となり、中央は長く突出す。 本州、四国、九州に自生し、明るい岩の多い草地や道端でよく見られる。局法には収載されていないが民間療法では筋骨草といい、高血圧・鎮咳・去淡・解熱・健胃・下痢止めなどに効果があるとされ花の時期に採取して利用される。キランソウが地獄の釜の蓋と言われるのは、ランナーを出した茎や葉が円盤状に地を覆う様子から、あるいは薬効によって地獄へ行く釜に蓋をするほどの効き目があるとのことで名づけられたとも言われる。ここでは逆に、蓋を閉めれば罪人が放り込まれないことを意味している。日本に雑草として自生するジュウニヒトエ(キランソウ)の近縁種で、観賞用として持ち込まれた別名セイヨウジユウニヒトエ(セイヨウキランソウ)という植物がある。キランソウは茎が伸びず地面に這うように花を咲かせるが、セイヨウキランソウの花茎は穂状に20~30cmにも花茎を伸ばす。セイヨウキランソウは一般には、「アジュガ」または「セイヨウジュウニヒトエ」などと呼ばれている。ジュウニヒトエの名は花が幾重にも重なって咲く様子を、宮中の女官の正装「十二単」に見立てたものである。群生して穂状の花序に多数の花が咲いている様子は、なかなか見事で華やかある。ただ気を付けなければならないのは、厭地現象が強く現われることである。栽培一年目に一株が1平方m以上にも増殖して喜んでいると、3年目には枯れて殆どその姿を見なくなってしまう。植え替えは非常に容易なので、三年目には必ず土を替えるか植え場所を替えて植え継いで行かないと絶えてしまうことになる気難しい花でもある。
2019年04月10日

新聞やテレビで毎日のように、高齢者の自動車運転事故のニュースが見られる。中でもブレーキとアクセルの踏み間違いや自動車専用道路の逆走などによる重大事故が多い。 我が国では65歳以上の人口が3,459万人と高齢化が急速に進み、高齢化率は27.3%となった。(平成28年10月1日現在)今後総人口は減少するが高齢者人口が増加することにより引き続き高齢化率は上昇し、2036年には3人に1人となり、2042年以降高齢者人口が減少に転じた後も上昇を続け2065年には38.4%に達すると推計されている。(国立社会保障・人口問題研究所の推計) 平成28年末の運転免許保有者数は約8,221万人で,27年末に比べ約6万人(0.1%)増加した。このうち75歳以上の人口の約3人に1人の約513万人が自動車運転免許を保有しており、10年前に比べ7.3%(35万人)増加しており今後も自動車運転免許を持つ高齢者は増加すると推計されている。 平成28年の交通事故死者数は3,904人(前年比-213人)で、昭和24年以来67年ぶりに4千人も下回った。そんな状況の中で人口10万人当たり死者数は高齢者人口の増加に伴い、高齢者の占める割合が平成28年は過去最高の54.8%となっている。 75歳以上の運転者の死亡事故件数は75歳未満の運転者と比較して、免許人口10万人当たりの件数が2倍以上多く発生しているという。75歳以上の運転者による死亡事故について死亡事故件数全体が減少する中、全体に対する構成比は上昇しており平成28年は全体の13.5%を占めた。また75歳以上の運転者による事故は車両単独事故の割合が多く、全体の40%を占めている。これは、75歳未満の運転者による割合(23%)と比べてかなり高い。 75歳以上の運転事故はハンドル等の操作不適による事故が最も多く、次いで前方不注意・安全不確認の順となっている。具体的には道路上を進行中、車線を逸脱し物件等に衝突する工作物衝突が最も多い。さらにオートマチック車のブレーキとアクセルの踏み間違いによる死亡事故は、75歳未満では死亡事故全体の0.7%に対し75歳以上では5.9%と高い。 高齢者の特性として「加齢に伴って視力等が弱まることで周囲の状況に関する情報を得にくくなり判断に適切さを欠くようになる。」、「反射神経が鈍くなる。」、「体力の全体的な衰え等から、運転操作が不的確になったり長時間にわたる運転継続が難しくなったりすることから、状況を客観的に把握することが難しくなる。」ことなどが挙げられこれが死亡事故を起こしやすい要因の一つと言われる。 2017年度中に認知症のおそれがあると判定されたドライバーの数は、57,099人である。認知症は加齢とともに発症することから、75歳以上の運転者を対象とした臨時高齢者講習及び免許証更新時の高齢者講習を適切に行うため「記憶力・判断力」の判定を内容とした認知機能検査が実施されるようになった。(平成29年3月12日施行)認知機能検査は検査員の説明を受けながら、①「時間見当識」、②「手がかり再生」、③「時計描画」という3つの検査項目によって受検者の記憶力や判断力の判定が行われる。 時間見当識は15点、手がかり再生32点、時計描画7点の配点で、正答点数にそれぞれ1.15、1.94、2.97の係数を掛けて加算した数で認知機能の判定を行っている。(得点に係数を掛けて足すと、実際には100.12になる。)その結果総合点が49点未満は記憶力・判断力が低くなっている者(第1分類)、 49点以上76点未満は記憶力・判断力が少し低くなっている者(第2分類) 、76点以上は記憶力・判断力に心配のない者(第3分類)と分類される。 第一分類に該当する場合は、臨時適性検査又は医師の診断書等の提出が必要となる。この場合認知症とされると、免許停止または取り消しとなる。認知症で無い場合は7950円の受講料を払って、自動車教習所で3時間の講習をうけなければならない。第二分類と判定された場合も、同様である。第三分類の場合の受講料は5100円で、2時間の講習を受ければよい。 免許の更新時期が来て、今回初めて認知機能検査を受けた。内容は3年前に受けた、認知機能予備検査と全く同じものであった。 前回もそうだったのだが時間見当識・手がかり再生は満点であったものの、時計描画で1点減点されていた。満点であると思っていたのに、非常に不思議であった。 2ヶ月後の高齢者講習の折に担当者に説明を受け、時計の描画については非常にあいまいな採点をしていることが判明した。 時計描画は、自分で描画した文字盤に1時45分の針を描くものであった。長針を記入するのは簡単だが、短針は1時を指したのでは間違いである。なぜなら長針が45分を指した時角度は270度進み、短針は1時から2時に向かって1時間30度の3/4つまり22.5度動くからである。したがって短針は12時を頂点とした時、52.5度の位置に来る。短針は1時から2時へ3/4進んだ、2時に近い位置を指すのが正解である。 教習所の担当者の説明では本当は指摘される通りだが、このテストでは短針は1時と2時の間にあって1時により近いところを指すのを正しいとして判定しているとの答えであった。より判定の正確さを求めるならば1時・2時・3時…など、正時を描画させるべきであろう。 私の場合第二分類とされる恐れは全く無く1点(1.15)のことで目くじらを立てる必要もないのだが、これが75点の人にとっては1点差によって金も講習時間も余計にかかることになり誠に不合理である。 これから認知機能検査を受ける人は、注意が必要である
2019年01月15日

東京でも最低気温が、10℃を下回るようになった。庭の木々も色づき、気の早い葉は散り始めカリンの実が目につくようになってきた。昔から金を「貸しても借りない。」との縁起を担いで、家の表にカリンを植えて裏に樫の木を植える風習がある。 「樫(貸し)ても、花梨(借りん)」と言う、語呂合わせから出たものだ。 樫の木は何回植えても、とうとう根付かなかった。我が家には幸い借金もローンも無い代わりに、人に貸す程の金も無い。何回植えても、樫の木が根付かなかったせいかも知れない。
2018年12月03日

漢字の大という文字は、人が両手と両足を広げ正面を向いて立っている形からできた象形文字である。「大」は、すべて大きく盛んなものの意味に使われる。音ではだい、訓ではおおである。 大雨・大江戸・大型・大声・大阪・大関・大幅・大家・大人・大安・大意・大尉・大王・大大阪・大火・大河・大河小説・大家族・大会・大海・大概・大学・大寒・大観・大気・大儀・大義・大吉・大規模・大逆・大挙・大虚・大業・大局・大君・大工・大群・大軍・大系・大穴・大言壮語・大口・大工・大綱・大黒天・大根・大佐・大差・大罪・大使・大志・大事・大字・大赦・大樹・大衆・大暑・大将・大小・大丈夫・大食・大食漢・大出血・大豆・大臣・大西洋・大切・大体・大戦・大多数・大胆・大団円・大地・大潮・大抵・大刀・大動脈・大同小異・大脳・大半・大仏・大便・大部分・大名・大文字・大様・大要・大洋・大洋洲・大理石・大陸・大量・大夫・大和・偉大・巨大・誇大・甚大・絶大・尊大・雄大など100を超える。 大を「おお」と読むか「だい」と読むかで、意味が大きく異なる言葉がある。大文字も、その一つである。おおもじと読めば、ギリシア文字やそれから派生した文字体系で文頭や固有名詞のはじめなどに使う大きな字形の文字を指す。 これをだいもんじと読めば京都五山に代表される送り火の一つになり、あるいは下に草(そう)と続けて山野草の名前になる。恐らくダイモンジという言い方は、大文字焼き(大文字山)と大文字草の二つしかないのではないかと思われる。 京都五山の大文字について送り火の興りの記録が無いため定かでなく、行われるようになったのは平安時代とも江戸時代とも言われている。 平安時代初期に弘法大師が始めた 、室町時代に足利義政が始めた、江戸時代になって近衛信尹により始まったとする複数の説がある。 大の字についても青蓮院門主、近衛信尹、僧横川景三などがが画いたという複数の説が存在する。 大文字焼きはお盆の時期に行われることが多く、京都五山送り火をはじめとして奈良市高円山送り火・箱根町大文字焼き・三島市送り火・笛吹市送り火(大文字焼き)・大館市大文字まつり・四万十市大文字送り火・福知山市丹波大文字・池田市池田五月山大文字がんがら火・佐野市大文字焼き・平泉町大文字送り火 などとして継承され実施されている。 送り火の名称を用いるのが多く、「大文字焼き」と称しているのは関東の一部地域に限られている。 ダイモンジソウ(大文字草)は、山地の半日陰の湿った岩場や渓谷の岩上に生える多年草である。変種が多く地域差もあって、変化に富んでいる。 切れ込みのある円い葉は厚みがあって柔らかく、株の中心から枝分かれする花茎を伸ばし花径2~5cmの花を多数咲かせる。 園芸育種が進められた結果、その花形は現在では必ずしも大の文字とはならないで八重咲きや花弁に切れ込みが入るものが栽培されるようになっている。ダイモンジソウは、ユキノシタの仲間の多年草で葉や花の形が良く似ている。 根茎は短く、分枝しない。根出葉に長さ5~20cmになる葉柄があり、葉身は長さ3~15cm、幅4~20cmになる腎円形で葉には長い毛が生えるのが一般的である。9~11月集散花序に、白色・紅色・桃色などの花をつける。花弁は上側の3弁が長さ3~4mmの楕円形で、下側の2弁が長さ4~15mmの「大」の字になるが上向きに咲く花の花弁はほぼ同じ長さである。 名は、花が「大」の字に似ることからついた。北海道から九州にかけての海岸から高山までの広い範囲に分布し、湿気のある岩上に生育する。 箱根千石原の上に位置する姥子温泉入口からロープウェイの姥子に向けて、至る所の石垣に白花のダイモンジソウが自生している。都会人にとってみれば珍しいが、地元の人にはユキノシタ程の興味しかないのだろうか。誰も見向きもしないし、悪戯に摘む人もいないようだ。 宿泊した宿の主人の許しを得て、数株を貰い受けて園芸店で購入した紅花ダイモンジソウと鉢に混植し育ててきた。残念ながら気候風土が合わなかったと見え、自生種の白花ダイモンジソウは2年目で消滅してしまった。6年目となる今でも、紅花ダイモンジソウだけが元気に育って今年も花期を迎えた。本来の紅花に交じって、花弁に裂け目のある装飾文字のような株が出てきた。さらに白花と混植したせいであろうか、零れた種子から芽生えた花が薄い赤い花を咲かせている。 ダイモンジソウは容易に交雑し、新しい葉と花を咲かせるので栽培していて楽しいい野草である。 花言葉は、「情熱」・「好意」・「自由」だという。 仲間のユキノシタは山菜として利用したり、民間薬として子供がひきつけや風邪に用いられてきた。一方のダイモンジソウも全草を煎じて、中耳炎や利尿にも用いられることがある。
2018年10月19日

♪赤い花なら 曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る。 「長崎物語」の、一番の歌詞である。昭和14年に作曲され、多くの歌手がカバーして昭和30 年代頃まで唄われていた。 この詩に出てくる「曼珠沙華」はサンスクリット語マンジュサカが語源とされ、もともとは天上界に咲く白く柔らかな花を指すのだと言う。それが何故か、真っ赤に咲く彼岸花の名前とされた。 暑さ寒さも彼岸までの言葉通り、地獄のような暑さにうだっていた7月から3か月弱の期間が嘘のようにあっという間に秋が近づいてきた。この諺の「彼岸」は仏教用語で、生死の迷いを川・海に譬えたものだという。生の世界は迷いで、その向こうにある死の世界は悟りの岸だと言う。 季節用語では雑節の一つで春分の日と秋分の日を中日として前後3日の7日間が彼岸である。 この季節に合わせて、毎年真っ赤に咲きだす花に「彼岸花」がある。球根・葉・花の全草に、強い毒性の植物アルカロイドの「リコリン」を含有する。散形花序で、6花が横向きに放射状につく。 日本のヒガンバナ科植物には、白花曼珠沙華・ショウキラン・ヒガンバナ・キツネノカミソリ・ナツズイセンなどが知られている。 白花曼珠沙華の花色にはクリームがかった白・うすいピンクがかった白・濃い目のピンクなど、いくつかの変異が見られる。 白花曼珠沙華は、黄色のショウキランと赤の彼岸花の雑種というのが通説である。彼岸花は3倍体のため不稔性であることは間違いなく、どのようにして結実したのか不思議ではある。中国には稔性の彼岸花があると言われているので、中国で交雑したものが渡来した可能性もある。 ショウキズイセンは、漢字で鍾馗水仙と書く。花弁の反りかえった様子を、鍾馗の髭に譬えたものであろうか。遠目には黄菅(キスゲ)の花に似て、鮮やかな黄色をして波打つ花弁は幅が広く反り返りが強く豪華な花姿をしている。ショゥキズイセンを多くの人は、黄色彼岸花と間違えている。 花・葉・球根はいずれも、彼岸花よりひと周り大きい。開花時期は、彼岸花より少し遅い。 ヒガンバナ科の植物は独特で、葉のある時期には花は無く、花の咲く時期には葉が無い。葉見ず花見ずの別名のあることも、頷ける。 ヒガンバナは何も見えないところに高さ30 ~50cmの花茎を地上に突然出し、その先端に苞に包まれた花序が一つだけ付く。苞が破れると5 ~7個前後の花が顔を出す。花には短い柄があって横を向いて開き、すべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は細長く、大きく反り返る。 花茎が枯れた後、線形の深緑で艶のある細い葉を出す葉は翌春になると枯れて、花茎が立ちあがるまで地表には何もない。 ヒガンバナが結実しないのは、中国から渡来するときに雄花ばかりを持ってきたためだとまことしやかに説明している人や書物も目にする。 結実しないのは雄花だけの所為ではなくヒガンバナは三倍体のため、不稔性なのである。そのため、交配して変種を生み出すことはあり得ない。近縁にコヒガンバナがあり、こちらは二倍体のため交配により多様な園芸品種が作出されている。恐らくは、これと混同しているのであろう。 日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であるとされるが、中国から伝わった1株の球根が元になって日本全国に広まったと考えることはできない。持ち込まれた複数のヒガンバナが、遺伝的に同一であったことは充分にあり得ることである。 日本には有史以前に、揚子江上流から持ち込まれたものと考えられている。1万年前稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったとの説の他、ネズミやモグラ除けのために有毒な鱗茎を持ち込み畔や土手に植えたとの説もある。ただモグラは動物食のため、彼岸花の球根は食べない。 猛毒の鱗茎だが水に晒すことで無毒なとなり、リコリンを除去すれば食用が可能ではある。天明の飢饉の際、東北地方ではヒガンバナの鱗茎を毒抜きして救荒食として生き延びたとの話も伝わっている。 しかし如何に山野草の自然食ブームとは言え、無理をして彼岸花の鱗茎を食べることは推奨できない。 田畑の周辺や堤防、墓地などに真っ赤な花列が見られることが多い。特に田畑の縁に沿って列をなす花は、稔りの秋を迎えた稲穂とマッチして見事な景観となる。 鱗茎は生薬の「石蒜」であり、利尿や去痰作用がある。しかし素人が、民間療法で利用するのは危険である。 死人花・地獄花・幽霊花・蛇花・剃刀花・狐花・捨子花・歯欠け婆など、不吉・忌の別名が多くある。花が炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になるとの言い伝えもある。 ヒガンバナの仲間に多くの人がキイロヒガンバナと言って誤って信じている、黄色の花を咲かせるショウキスイセンがある。茎先に花径6cm~7cmの鮮やかな、花被片は6枚黄色いキスゲに似た花を横向きに数輪ずつ着ける。名称の由来は花弁が波打っている様子を、鐘馗の髭に譬えたものといわれる。 24日朝日新聞朝刊神奈川版に、三段抜きで大きく「ヒガンバナ満ちる「浄土」」の記事が掲載された。場所は大和市の常泉寺で、「かながわの花の名所百選」に指定されているとある。 先ず冒頭、「白や桃色など希少なヒガンバナが見ごろを迎えた」とある。本文記事中にも、「希少な白・赤・黄・桃色」が山肌を染めるとある。 一般に黄花ヒガンバナと間違えて思い込んでいる人が多いのは、科は同じだが種が異なるショウキズイセン(鍾馗水仙)である。花の形がヒガンバナとは、大きく異なる。 ヒガンバナの色違いのような白い花を咲かせるシロバナマンジュシャゲは、花弁がヒガンバナほど反り返らず、またややクリーム色を帯びる。葉もやや幅広い。ショウキズイセンと、ヒガンバナの雑種との説もある。実際に4色のヒガンバナがあるのか確認したくて、常泉寺へ出かけて見た。 しかし残念ながら記者の思い込み、勉強不足の記事であったようである。予想通り黄色の花はショウキズイセンであり、そして桃色彼岸花は確認できなかった。 希少種とあるが、どの花もそれほど希少ではなく多くの場所で見られる。知らない人は、誤った新聞の記事を妄信してしまうことになる。記者は記事配信前に、もう少し事実の確認をする必要がある。 その上記事中では9月末までが見ごろと書いてあったのだが、24日現在多くが花の盛りを過ぎていて既に見ごろは終わっていた。
2018年09月30日

山荘を作ってから数年は我が家まで入って来なかったのだが、数年後から70坪ほどの菜園の作物を狙って、猿・猪・鹿・ハクビシン等の野獣が侵入してくるようになった。 恐らくそれらの動物が運び込んだと思われるヤマビルが、我が家のキウイの棚下に定着してしまったようである。 4年前には隣家の住人が庭仕事でヤマビルに噛まれたと話していたのだが、翌年はとうとう自分が被害にあった。 朝起きて布団を上げる際、足元の布団のシーツとカバーが血に染まっており驚いたことがあった。 次に訪れた際、マットレスの折目にビックリするほどの凝血とミイラ状の塊を見つけた。 一晩中吸血し満腹したヤマビルが布団とマットレスの間に潜り込み、乾燥してミイラ化したものと推測出来た。 今年9月にはキウイの棚の下で洗車し、家に上がって安楽椅子でテレビを見ていて左足の甲が真っ赤に出血しているのを見つけヤマビルに吸血されたと判断した。 血だらけの足を水洗いしたところ、糸を引いて止めどなく流血してきた。 創作上のドラキュラやバンパイアなどの吸血鬼は人間の生き血を啜り、血を吸われた人も吸血鬼になるとされている。 吸血鬼は一度死んだ人間がなんらかの理由によって、不死者として蘇ったものとの設定である。 これらの伝承は埋葬されたのに棺の中で蘇生した人や死蝋などで腐敗しにくかった死体、あるいは14世紀のペスト大流行による噂の流布により生まれた話と推定される。 ヴァンパイアはヨーロッパをルーツとする伝説上の吸血鬼であるが、中国のキョンシーなども同工異曲である。 ただ伝承で吸血鬼という名称がついていても、全てが人の血を吸う設定とはなっていない。 吸血鬼は想像上のものであるが、実際にヒトの血を吸う吸血動物が多く存在し場合によっては吸血鬼と呼ばれることもある。 吸血動物の多くは主に血液を栄養源とするものと、産卵するために吸血するものとがある。 カ(蚊)は後者の代表で、産卵のために血液を必要とする。ただし、チカイエカは血を吸わなくても、少数であれば産卵することができる。 普段は他の動物の血を吸っているものが、たまたま異種動物の血を吸う例もある。 山にいるアブやヤマヒルと人が日常的に遭遇することはないため、生息域に近づかないかぎり襲われることはない。 人の生活圏に常在するノミやシラミには、専らヒトだけに寄生する種やヒト以外の動物を宿主とするものがある。 ネコノミはヒトの血も吸うが、シラミは本来の宿主以外での吸血はほぼ無い。 吸血の方法にはカやアブのように動物の体表面に針を刺して血を吸うものと、ヒルのように皮膚を傷つけて出た血を吸うものとがある。 血液は血管の外に出ると凝固して吸い出せなくなるので、吸血に際して多くの場合血液の凝固を阻止する成分を注入することがある。 そのため抗血液凝固物質に対するアレルギー反応等で、刺傷部位に掻痒や腫張を生じることが多い。 カやアブのように対象動物の近くに住んでいるものと、普段は離れた場所にいて対象を探してやってくるものがある。 南京虫の別名を持つトコジラミは人家や動物の巣内にいて、対象者がそこに戻ってきたときに吸血のために接近する。 ノミやシラミは常に動物の体表にいて、必要に応じて吸血する。 ネコノミは普段はネコが対象だが、ヒトに付着すれば血を吸われることも珍しくない。 カの唾液には血液の凝固を防ぐ数種の生理活性物質が含まれていて、これが免疫反応を引き起して掻痒の原因になる。 カは熱帯地域のみならず、温帯でもマラリア・日本脳炎・デング熱など多くの熱病の媒介源になっている。 2014(平成26)年8月に代々木公園等でヒトスジシマカに刺され、我が国では70年振りとなるデング熱患者108人が発生した。 アブ・ブヨ・ヌカカ・トコジラミ・ノミ(ヒトノミは人のみを、猫やイヌノミは偶発的にヒトを攻撃する。)・ネズミノミはペストをコロモジラミは発疹チフスを媒介する。 ツツガムシは幼虫が偶発的に攻撃し、ツツガムシ病を媒介する。 日本でヒトの血を吸うヒルには、水生のチスイビルと陸生のヤマビルがいる。 陸上に生息し前後の吸盤を使って尺取り虫のような動作で獣やヒトの血を求めて素早く移動するヤマビルや、主に湖沼・田など水流の無い停水域の水中で泳いでヒトの血を吸うチスイビルとがいる。 ヒルはミミズやゴカイなどの仲間で、環形動物に分類されている。 チスイビルは水に入らなければ吸血されることは無く、ヤマビルは生息地に入らなければ吸血されない。 ヤマビルやチスイビルは哺乳動物を吸血するがカと異なり、それらの動物から感染症を人に伝播したという事例は報告されていないが気持ちの良いものではない。 ヒルの前吸盤の中央はY字状をした筋肉質の3つの顎を有し、それぞれ70~80の顎歯が並んでいる。 この歯で皮膚を切り裂き、抗血液凝固物質のヒルジンを出しながら血が固まらないようにして吸血する。 フィブリノーゲンを分解してフィブリンに変えることで、血液が凝固し止血する。 血管を流れる正常の血中で血液凝固が起きないのは、アンチトロンビンによって凝固作用が阻害されているためである。 ヒルジンはトロンビンを阻害する点ではアンチトロンビンと同じだが、フィブリノーゲンに対する活性だけを強力に阻害する点が異なっている。 またヒルの唾液は麻酔成分を含んでいるため、痛みや痒みを感じないまま吸血される。 そのため蚊による吸血と異なり吸血痕からの大量出血を見て、初めてヒルの吸血に気がつく場合が多い。 ヤマビルは体重の20倍もの血液を吸うとされるがその量は多くても1ml程度と言われ、場合によっては吸血後の流血量の方が多いように思われる。 脳梗塞患者やその予防としてビタミンk阻害剤ワーファリンを投与されるが、ワーファリン常用者ではより出血が止まり難くいのではないかと推測される。 ヒルの吸血痕からの流血の多さに驚くが、傷絆の貼付など適切な処置をすれば間もなく止血され傷は数日で治癒する。 ヤマビルは動物の呼気に含まれる炭酸ガスや体温を感知して、1分に1m程度の速さで移動する。 大きさからすると、かなりの速さである。 ヤマヒルの攻撃を防止するためにヤマビルキラー(液剤10倍希釈)・ヤマビルエコキラー(粉剤)・DDVP乳剤 (4000倍希釈)・塩水(20%)・マリックスター・ヤマビルジェット・ヤマビルファイター・ヤマビルファイターエコ・ヒルノック・ダウンヒル・ヒル下がりのジョニー・消石灰、木酢液など多くの殺虫剤や忌避剤がある。 ヤマヒルの活動期は4月~11月だが、中でも6月~9月には生息密度も高まり特に雨中及び雨後は活動が活発となる。 ヤマビルの生息域の拡大には、猿・猪・鹿などの野生動物が寄与していると言われる。野生動物を吸血して満腹になると自然に落下しその場所で卵を産む。 そのようにして、生息域を広げている。 ヤマビルを拡散する野生動物の侵入を防ぎ、乾燥、草刈りや落ち葉などの片づけ・風通し・日当たりをよくなど環境を改善することでヤマビルの定着・増殖を抑制することができる。 吸血しているヒルを無理に引き離すと皮膚を損傷するので、タバコや線香の火を付けたり塩をかけることで自然に落下させる。 傷口から血を押し出して、抗血液凝固物質を絞り出せば治癒が早くなる。虫刺さされの毒を吸い出す、「ポイズンリムーバー」の使用も有効である。 ヤマビル除去後は出血が続くので傷バンなどで傷口を塞げばほどなく止血され、傷痕は残るが一週間ほどでほぼ治癒する。 再々吸血されては敵わないので、天気が回復したらキウイの棚下に消石灰を大量散布したいと考えている。
2018年09月21日

未だテレビが無い時代、少年雑誌や活劇映画によく連載され登場した「義賊・自来也(児雷也)」の物語は、今では50歳未満の人のほとんどは知らないと思われる。 自来也は1806年に刊行された感和亭鬼武の読本「自来也説話」に出てくる義賊で、蝦蟇の妖術を使って活躍する物語である。 この物語には、モデルがある。 中国の宋代に実在の盗賊が盗みに入った家の壁に「我来たる也」と書き記したとされる、「我来也」がモデルだとされる。 自来也を翻案し1839年から 1868年にかけて四人の作者によって「児雷也豪傑譚」が刊行されたことから、「児雷也」と表記される場合もある。 実際にはあり得ないが、蝦蟇・蛞蝓・大蛇の三竦み伝説の原点は児雷也豪傑譚が由来とされる。蝦蟇ガエルは大蛇に弱く、大蛇は蛞蝓に弱い。その蛞蝓は、蝦蟇ガエルに弱いというのだ。 ガマガエルは別名「蟇蛙」とも呼ばれるが、大海言では蟇蛙の名前の語源として「気ヲ以テ子蟲ヲ引寄セテ食ヘバ名トスト云フ」と解説している。 その解説で言うように、餌の小虫を捉えるとき手足を用いることなく舌を伸ばして近づく小動物を捕食する。 その他、背中にある疣から「イボガエル」、蝦蟇を略して「蟇」などとも呼ばれる。 江戸時代の儒学者貝原益軒の「大和本草」では「蝦蟇」と「蟇蛙」を別項で扱っていることから、昔は別種として考えていたものであろう。 昔は香具師が大道で「サアーサアーお立ち会い ご用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで…。」と、独特の口上を使って「ガマの油」なるものを売っていた。 「蝦蟇の油」は筑波山の中禅寺の住職が作った陣中薬の効果が評判になったとされ、ヒキガエルの耳腺分泌物、皮膚腺分泌物を集めて乾燥させたものだという。 しかし住職が、ヒキガエルの毒を使って作ったかどうかは定かでない。 ヒキガエルの毒は蟾酥といわれ、現在日本薬局方に生薬として収載されている。 現在ガマの油といって土産店で販売されているワセリンなどを成分とする商品に、蟾酥は含有されていない。 ガマガエルは水の無い、森林・農耕地・都市部にも生息している。 褐色、黄褐色、赤褐などの体色で、白や黒、褐色の帯模様が入る個体もいる。 体側面に赤い斑点のあるものが多く、背に斑点がある個体もいる。 寿命は、10年ほどだという。 ガマガエルは、水域依存性の極めて低いカエルである。 繁殖の際を除いて水域から離れたまま暮らしており、夜間の雑木林の林床や庭先等を徘徊する。 体表にイボや皺のある理由として、陸上での皮膚呼吸の表面積を最大化するためとの説を唱える人もある。 昆虫やミミズなどを、捕食する。 体型の似ている俊敏なウシガエルと異なり動きは鈍重で、昆虫やミミズを待ち伏せして長い舌で捕まえて食べる。 夜行性で、昼は石や倒木の下に隠れている。 カエルの中でも、ずんぐりした体形をしている。開いた口が蝦蟇の口に似ていることから、ガマ口と呼ばれる財布がある。 日本にはニホンヒキガエル・オオヒキガエル・ナガレヒキガエル ・ミヤコヒキガエル の四種が確認されている。 ヒキガエルは後頭部の耳腺から、毒液を分泌するのが特徴である。この毒は主に外敵や寄生虫、細菌から身を守るために分泌するとされている。 犬が蝦蟇にちょっかいを出して、蝦蟇の耳腺から飛ばした毒が犬の目に入ると相当痛がる。 「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」という有名な一茶の句がある。 一茶はこの句の注に、「四月二十日蛙戦ひ見に…」と書いている。 かわず合戦とは産卵に際して、数匹のオスのカエルがメスを巡ってお互いを押しのけ合う様子を指して言う言葉である。 今年の場合旧暦の4月20日は新暦では、3月5日に当たる。 温暖化の日本列島とはいえ3月5日はまだ池に氷が張ることもあり、産卵するには時期が2週間ほど早い感じもする。 アマガエルやトノサマガエル・カジカガエルは、体の大きさに似合わずかなり大きな声で鳴く。 しかし片手を広げた程の大きさになるガマガエルは、ほとんど鳴き声を立てない。 両前足の付け根を掴んでくすぐるようにするとくぐもった小さな声で、「キャッキャッキャッ」または「クックック」などと鳴く。 大きさや体型が似ている北米原産の外来種「ウシガエル」は、ガマガエルと異なり大きな声で「ブオー、ブオー」とウシに似た声で鳴く。 和名の由来になった声は1km離れても聞こえると言われ、騒音問題にされることもある。 「古池や蛙飛び込む水の音」は1686年の春、深川元番書の森田惣左衛門屋敷「芭蕉庵」で詠まれたとされる。 ガマガエルは成体になってからは産卵期以外ほとんど水に入らないので、「ぽちゃん」と池に飛び込んだ蛙はガマガエル以外の蛙であろう。 今年の夏は猛暑のため蒸発で溜まり水が無くなって、蚊の発生が少なかったと言われる。 実際庭に出ても、吸血されることは少なかった。 8月23~24日に20号台風の雨が降ってからは連日の干天で、そのため庭の地面は長い間白く乾燥している。 9月1日の気温は、朝から30℃近くまで気温が上がった。 普通夜間に活動し日中は涼しい草叢や石の下に潜んでいるはずのガマガエルが、早朝の6時半の直射日光の下の庭に這い出して来た。 昭和45年頃から棲みついていたガマガエルは、7年前ほど前雨水桝を清掃する際排水管に流れて行ってしまった。 それから我が家の庭にガマガエルの姿を見なくなっていたのだが、昨日這い出して来た蛙は18cm以上もありそうな大きな個体であった。 我が家の近くに池を持つ家は見当たらず、どこで産卵行動をしているか不思議に思える。我が家の庭は近隣の家に比べて比較的緑が多く鉢物もあるため、毎日水を撒く。 水溜りが無いとは言え、鉢物への散水で適当に湿り気がある庭は何とか蝦蟇が生きていけるだけの水分を保っているのであろう。 寿命10年と言われるガマガエルは、未だしばらくは我が家の庭を棲みかにして生きていくのだろう。
2018年09月02日

一般的には水と混じった液状の土をドロと呼んでいるが、学術的には粒子が1/16mm以下の大きさと決められている。 土と泥は日常的には同じように使われる場合もあるが、土は地球の陸地の表面を覆っている生物活動の影響を受けた物質層と定義されている。 アシナガバチの巣が、樹木や石垣等の営巣場所が地面に近い場合はその年の水害が無いとの民間伝承がある。 今年は、かなり低い場所での営巣が目に付く。7月の初めに台風の雨が少し降った程度で、干天続きである。 その伝によれば、関東甲信地方の今年は、水害が無いのかもしれない。 花後のハスの花托がアシナガバチの巣の形に似ているところから、蓮の古名「ハチス」の名前が生まれさらに「ハス」へ転化したという説が有力である。 アシナガバチは日本に3属11種の生息が確認されているが、蓮の古名となったハチは恐らく「キアシナガバチ」であろう。 コアシナガバチは反りかえった巣を作るので、ハスの花托とはその形が大きく異なる。 はちの中にはドロを使ってトックリ型の極めて小さな巣を作る、ドロバチあるいはミカドトックリバチともいわれるハチがいる。 トックリバチは、わが国では北海道から九州まで広く分布している。 スズメバチ科に分類され、体長 10~15mm。体は黒色でやや光沢があり、第1腹節は細長く基部は柄状に細まり第2腹節は卵形をしている。 泥を用いて岩の平面や草の茎などに徳利形の巣をつくる。 この巣の形がトックリに似ていることから、古くからトックリバチの名前で呼ばれてきた。 ガの幼虫を狩って仮死状態にして巣の中に蓄え、幼虫の餌にする。 近縁種にキアシトックリバチ・サムライトックリバチ・キボシトックリバチ・スズバチなどが日本で確認されている。 巣の天井に一個の卵を糸で吊るし、狩った幼虫の胸部神経球に正確に毒針を打ち込み麻痺させたシャクガやヤガの幼虫を巣に運び込む。 毒針が正確に打ち込まれることで餌の幼虫は死ぬこと無く、孵ったトックリバチの幼虫が育つまでの生き餌となる。 同じドロを使って巣を作る、ドロバチと呼ばれる仲間がいる。 植物の枯れた茎や枝・竹筒・木材の穴・岩石のくぼみや割れ目などを泥で塞いで巣をつくる。 特に細い竹の穴は、彼らの格好の巣作りの場所であり良く目につく。 腹部第2節が、細くなっているトックリバチ類と異なり幅が広い。 多くのものは黒色で,黄色や橙褐色の斑紋や帯紋がある。 その中に麻痺させた獲物を運びこんで、幼虫の餌とするのはトックリハチと同じである。 ドロバチは家の軒下や床下・ベランダなどの家の外側だけでなく、屋根裏や天井裏にも巣を作ることがあり場合によっては、汚染が生じたり景観を害することるもある。 これらとは異なり、ツチバチと呼ばれる種がある。 体は大形で黒色・腹部は長く大きく・金色の毛が密生し、横縞のあるものが多い。 雌は地中のコガネムシの幼虫に、卵を産みつける。 ツチバチはトックリバチやドロバチより無精で、地面に穴を掘って巣穴としここに持ちこんだ獲物に産卵する。 これらのハチはミツバチやスズメバチのように女王蜂を中心としたコロニーを形成することは無く、雌が単独で巣作り・狩りをし、産卵すると巣穴を塞いで飛び去ってしまい幼虫の面倒をみることはしない。 知らない人は素早く飛翔する昆虫は全てヒトを刺傷するハチと思って狼狽するが、ドロバチ・ツチバチ・トックリバチ類は不用意に捕まえたりしない限り襲うことはない。 たとえ刺されても毒力は弱いので、腫れあがるようなことも無い。 むしろ林業被害の元になるコガネムシ類の天敵として、外国から輸入された経緯もある益虫である。 景観さえ気にしなければ、巣を除去しないで子が飛び立つまで放置するのが良いと思われる トックリの形をした巣を作るハチには、トックリバチの他にコガタスズメバチがいる。 巣の大きさが全く異なるので、ほとんど無害なトックリバチと場合によってはアナフィラキシーショツクを起こすこともある強い毒を持つコガタスズメバチを間違えることは無いと思われる。 しかし地方によってはコガタスズメバチもトックリバチの名前で呼ぶ場合があり、注意が必要である。 ただコガタスズメバチは巣に悪戯をしたり不用意にハチに手を出さない限り、人を襲うことは稀でスズメバチながら比較的おとなしいハチである。 また巣の作り始めはトックリの形の巣だが、働き蜂が増えるとやがて徳利の頸がなくなりバレーボールよりやや小さめの円形の巣に変わっていく。 昔から枯れて積まれたススキや竹の穴をドロで塞いだ、ドロバチの巣は多く見てきた。 またなぜか山荘へのエントランスの砂利道が無数のアリ塚のようになって、毎年ツチバチが飛び交っていたが今年は少ないようである。 山荘に通い始めて19年目にして初めて、ニワモモの枝にトックリバチの巣を発見した。 10日前は見事にトックリの形をしていたのだが、昨日みると継ぎ足された産室が4室以上重なって最早トックリの形のかけらも見えない歪な形となっていた。 前回も今回も、暫らく観察していたが親ハチを見ていない。 狩りに、夢中になっていたのかも知れない。
2018年08月13日

クモは家の中や家の周囲・公園・道端・野原・山林など陸地のあらゆる場所に棲んでおり、日本では約1,200種が確認されている。 クモといえば、タランチェラという大型の毒蜘蛛が良く知られている。タランチェラの脚はズングリとして短い。 クモは大顎に毒腺をもち、獲物に噛み付いて毒を注入することで動きを止めて補食する。クモの毒は昆虫や小動物を死に至らしめる程度の毒性だが、なかには人間に害を及ぼすほどの強い毒をもつクモもいる。 クモが出てくる小説は、芥川の「蜘蛛の糸」が有名である。 「釈迦は地獄の血の池に落とされた罪人が苦しんでいる中に、カンダタ(犍陀多)という男を見つけた。 カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に蜘蛛を踏み殺しかけて止め命を助けたことがあった。 釈迦はカンダダを地獄から救ってやろうと蜘蛛の糸を下ろした。糸に縋ってよじ登るカンダダの下にぞろぞろと血の池の罪人が昇って来た。 カンダダは細い糸が切れてしまうと思い、「この糸は俺のだ。みんな手を離せと叫んだ。」途端に糸は手の真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。 遠藤周作の怪談小説「蜘蛛」は、怪談会に義理で出席しなければならなくなった作家が、予期せぬ恐怖に遭遇するという筋だ。 クモには網を張って獲物を待ち構えているイメージがあるが、半数ほどは網によらないで獲物を狩ることが知られている。 クモはその生態から「造網性の蜘蛛」・「徘徊性の蜘蛛」・「地中性の蜘蛛」に大別することができる。 わが国で最大のクモとして知られるアシダカグモは、 人家などの建造物に棲息する大型のクモとしてよく知られている。 徘徊性で、網を張らず歩き回って獲物を捕らえる。肉食性で、成熟後は比較的大型の動物も捕食する。 ゴキブリなど家の中の衛生害虫の天敵としては益虫だが、姿を苦手とする人にとっては不快害虫でもある。 福島県以南の本州・四国・九州地方に分布している。 アシダカグモは夜行性で薄暗い所を好み、昼間は隙間などに隠れているが夜になると壁などに出てくる。 体長は雌で20~30mm、雄では10~25mmもあり、足まで入れると150mm以上にもなる。 日本に生息するクモでは最大で、南西諸島固有のオオハシリグモと同程度の大きさがある。 形はやや扁平で、長い脚を左右に大きく広げる。歩脚は前三脚が前を向き、最後の一脚もあまり後ろを向いていない。 歩脚の長さには、それほど差がない。体色は灰褐色で、多少まだらの模様がある。 雌の頭胸部の前縁に白い帯があり、雄では頭胸部の後半部分に黒っぽい斑紋がある。 原産地はインドと推定され、今では熱帯・亜熱帯・温帯に広く分布している。 日本では長崎県で、1878年に発見されたのが最初とされている。福島県以南の本州・四国・九州地方に生息するが、北海道・東北で確認された例もある。 年に2回(6~8月頃)、産卵を行う。 卵を糸で包んだ卵嚢を咥え、子グモが孵化するまで餌を食べずに持ち歩く。 孵化直前にこれを壁などに貼り付け、暫くの時間近くにいて見守る。 1年で成体の大きさになるがそれまでに雌10回、雄8回脱皮を繰り返す。 巨大な大きさから毒グモと勘違いされることがあるが、人間に影響を与えるような強毒ではなく咬傷を与えることも無い。 人が近寄ると素早く逃げ、走るのが速く捕まえるのは難しい。 捕食中に他の獲物を見つけると新しい獲物を捕食しようとする習性があり、短時間に多数の害虫を捕らえる能力を持つ。 アシダカグモが2・3匹いる家では、ゴキブリは半年で全滅するという。 日本には人体に害を与えるほどの毒をもつ、カバキコマチグモ・アシナガコマチグモ・セアカゴケグモの3種の毒蜘蛛が確認されている。 日本全土の野外で普通に見られる「カバキコマチグモ」の毒は、ハブやマムシ・オオスズメバチよりも強い毒だという。 強毒だが毒の量が非常に微量なため、もし噛まれても人が死亡することは無い。 しかしながら噛まれると患部に激しい疼痛や腫脹があり、ときには頭痛や発熱・嘔吐を発症することもある。 完治するまでに軽症で2~3日、重い場合は2週間ほどもかかる。 ススキなどの葉を巻いて巣を作り、脱皮や交尾・産卵も巣の中で行う。 孵化した子は母グモを餌として、その体液を吸う。母グモは生きたまま食べられ、30分ほどで絶命してしまう。 アシナガコマチグモは神経毒を有し、噛まれると激しい痛みと腫れに見まわる。 カバキコマチグモのように草の葉で、あるいは広葉樹の葉を集めて巣を作る。 カバキコマチグモと異なり、子グモが母クモを食べることは無い。 セアカゴケグモはオーストラリア原産のクモで日本では、1995年に大阪で発見されたのが初見である。 輸入貨物等に紛れて侵入したものと考えられている。現在一部の県では、すでに定着しているとされる。 家屋のトイレや倉庫・郵便箱など、暗くて乾燥した閉鎖空間を好む。 オーストラリアでは、年間2,000~10,000件ほどの咬傷事故が報告されている。 氷点下あるいは40℃の過酷な環境にも適応能力があり、一年間絶食しても生存できるという。 1956年に抗血清が開発されるまでは、死者も出ていた。 人体に無害なアシダカグモ属は、世界に180種確認されている。日本にはアシダカグモを含めて三種のみが知られるが、他の2種のトカラアシダカグモはトカラ列島中之島にホソミアシダカグモは西表島のみに生息しその分布が限られている。 森林の落ち葉や枯れ木の下にいるよく似たクモは、コアシダカグモという別種である。 コアシダカグモは自然環境の保たれた野外に生息し、室内性のアシダカグモとは棲み分けができているとされるが室内に見つかることもある。 孵化した子グモはしばらく卵嚢の周りの壁にたむろしているが、これに触れた瞬間に子グモは一斉に散らばる。 「蜘蛛の子を散らす」という慣用句は、ここからできたとされる。 先日通常うす暗いところを好むのに、猛暑で狂ったのか真昼間玄関脇の白壁にへばりついた巨大なアシダカグモを発見した。 手の平大のサイズで、今まで見た同種のクモの中では最大級であった。 良く見ると、左前三脚の三本目が無い。トカゲの尻尾と異なり欠損した部分が再生することはないから、これからずっと七本脚で生きて行くのだろう。
2018年07月31日

今年の梅雨は、6月29日に開けた。平年の梅雨明けは7月21日頃だから、22日も早い梅雨明けとなった。 平均的には今頃漸く梅雨が明ける頃なのに、東京は既に1か月も雨無し猛暑の連続である。 この早すぎる猛暑に、夏の昆虫のセミも例年よりかなり早く鳴き始めた印象がある。 この時期には早朝4時頃車を運転して月に3~4回山荘に通うのだが、7月3日の早朝山間部ではすでに間断なくニイニイゼミの声が聞こえた。 今年の東京ではすでにアブラゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・ツクツクボウシが、けたたましく鳴いている。 7月中旬というこの時期山形でその声を聞くことが可能なセミは、エゾハルゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・アブラゼミ等である。 エゾハルゼミは「ミョーキン・ミョーキン・ケケケケ…」と鳴き、ヒグラシは早朝または夕方に、「カナカナカナ…」と鳴く。 アブラゼミは、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているとされ五月蠅くけたたましい。 ニイニイゼミは、「チー…ジー…」の繰り返しで鳴く。 芭蕉が新暦の7月13日に立石寺を訪れた際岩にしみ入ると詠んだセミは、ニイニイゼミだという。 蟬という漢字は、「虫」+ 音符「單」の会意形声文字である。單は「ぶるぶる震える」などの意味である。雄セミの腹が伸び縮みして震え、音を出す様子が目に浮かぶ。 セミはほとんど臭いを出さないので、作物の有害害虫でもあり触ると猛烈な臭気を発するカメムシの仲間と聞くと不思議である。 平安時代前期の歌人で逢坂の関に庵を結び、そこから往還する人々を見て「これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」と詠んだ人がいる。 セミを冠した「蝉丸」は平安時代前期の歌人で、百人一首にも出てくるので広く知られている。 昆虫は卵から孵化すると、幼虫と呼ばれる形態となる。 幼虫が、生殖能力を有する成虫になる過程で変態を行う。変態とは、動物が孵化して幼生の形になった後の変化のみに対して用いられる言葉である。 変態では生き残りと成長のために最適化された幼生と、生殖機能を備えた成体の間でその形態が大きく変わることが多い。 昆虫の場合卵から孵化し、幼虫となる。 昆虫類が完全変態を行うようになったのは、古生代の気候の悪化へ対応するため蛹となって寒冷期を乗り切るように進化したためではないかとの説がある。 チョウ・ハチ・ハエ・甲虫などのように、卵→幼虫→蛹→成虫 という段階を経るものを完全変態という。 セミ・カマキリ・トンボ・バッタ・ゴキブリなどは幼虫が直接成虫に変態するので、不完全変態といわれる。 不完全変態は古く,完全変態の方が新しいとされている。 不完全変態をする種では若虫と成虫の形態がよく似ており、数回の脱皮を繰り返して成虫に変態することが多い。 バッタやゴキブリでは若虫と成虫の外見上の違いは、体の大きさ以外ほとんどない。ただし翅は若齢の若虫には見られず、成虫になると一気に完全な翅になる。 セミ・トンボ・チョウなどの羽化は大抵、夜間に行われる。 セミの場合ほとんどの幼虫は夕方地上に出てきて、夜の8時頃から羽化を始める。 天敵に襲われるのを回避するため、夜に脱皮を行うようになったとされる。 空が暗くなった午後8時頃から背中が割れて羽化が始まり、脱皮が終了する午後10時頃には羽が伸びる。 先日午後3時頃外出の途路セオリーに反して日が高いのにもかかわらず、桜の幹をよじ登るニイニイゼミの幼虫を発見した。 かなりのスピードで幹を移動しており暫らく様子を見ていたが用事もあって、その場を離れた。 2時間後に同じ木の下を通りかかって、幼虫がいた辺りを探してみたが見当たらなかった。 フライングで地上へ出てしまったのだが、未だ日が高く脱皮までどのようにして時間を潰そうかと思案していたのかも知れない。 あのセミは無事に羽化して、飛び立って行くことができただろうか。
2018年07月21日

梅雨が明けると、お盆の季節が近づく。 我が家では、家内が東京人であることもあって、実家の例に倣って7月13~16日に盆飾りをする。 この時期には、お中元・藪入・夏解など様々な行事が集中している。 今では単にお盆と呼ばれることの方が多いが、盂蘭盆会・盂蘭盆ともいわれる。 盂蘭盆会の起源は釈迦の十大弟子の一人である「目連尊者」が、釈迦の教えに従って祭壇を設けて母の供養したとする伝説にあるとされる。 三宝(悟りを開いた人・仏の説いた教え・仏の教えに従い成仏を目指す出家者=仏・法・僧)に供養し、餓鬼道に落ちた母を苦しみから救ったと「盂蘭盆経」に説かれているという。 日本には昔から自然や動物・先祖を敬い死者の霊を祀る風習があり魂棚・霊棚・精霊棚を設けて死者や先祖の霊を祀った霊祭りが永く行われていたという。 霊棚に先祖霊を迎えるための容器は昔の言葉で「ボニ」と呼ばれ、それが訛って「ぼん=盆」になったとする説もある。 いずれにしても仏教と日本古来の風習が習合して、今のお盆の風習ができ上がったと考えられている。 推古天皇は毎年4月8日と7月15日に斎(精進料理を捧げる)を設けたとあり、この時代から盂蘭盆会に近い行事が行われていたと思われる。 また推古天皇の時代から約100年後には斉明天皇が飛鳥寺の西に盂蘭盆会を設けたと記されているので、この頃には盆の行事が定着していったものであろう。 盆は旧暦7月15日が中心で、統一的に行われていた行事であった。 これが明治5年の改暦にともない新暦に変わった際地域により対応が分かれたことから、「新暦へ移行・旧暦のままあるいは新暦の月遅れ」と地域・地方によってその時期はマチマチとなった。 また7月15日をお中元と呼ぶが、道教の三元(上元1月15日・中元7月15日・下元10月15日)にその起源がある。 江戸時代に中元の7月15日に先祖への供物と共に商い先や世話になった人に贈り物をするようになり、この習慣を特に中元と呼ぶようになったものである。 盆には火を焚いて先祖の霊を自宅に迎え入れ、送る行事がある。 盆の入りは旧暦の7月13日で、7月16日が送り火である。 東京都内では多くが新暦で行われているので7月13日の午後迎え火を焚き、7月16日の夕方送り火を焚く。 祖先の霊にはなるべく早く迎えて帰りはゆっくり送りだすことが良いとされ、13日の午後早めに迎え火、15日は夕方遅く送り火を焚く。 1977年4月5日に発売された千昌夫の「北国の春」では、 ♪白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の…と歌われている。 作詞者のいではくは、標高1000mの長野県南牧村の情景を描いたという。作曲者の遠藤実は、少年時代を過ごした疎開先の新潟県をイメージして作曲したと伝わっている。 歌の冒頭に出てくる白樺は正式にはシラカンバといわれる、カバノキ科の樹種の1種である。樹皮が白いことからこの名があり、シラカバの別名を持ちこちらの方が一般的となっている。 福井県、静岡県から北海道までの落葉広葉樹林帯に自生する。 我が国の高原を代表する、木の1つである。 明るい場所を好み生長が速いが寿命は樹木の中では比較的短く、耐腐性が弱い。 そのため、柵の材などには不適である。 先駆植物であり適地であれば落ちた種子は一斉に発芽して、白樺林を作る。 不適地の場合、地中で休眠したまま数年耐えうる。 休眠の種子は山火事の熱で休眠打破されて発芽し、湿原に落ちた種子は湿原が乾燥し陸地化した後に発芽するなどがある。 迎え火は一般的に7月13日に先祖が眠る墓の前あるいは家の門口で、皮を剥いだ麻の茎を乾燥させた麻殻、麦や稲藁・松明・白樺の干した皮などが燃やされる。 長野県の北信地方では、お盆の迎え火は白樺の皮を用いる。その時期になると雑貨店やスーパーで、シラカバの樹皮が売られる。 適地に自生する白樺の寿命は70年程度とされるが、低地に植栽した場合幹の中に俗に鉄砲虫というカミキリムシの幼虫が大きな孔を穿ち枯死させてしまう。 そのため山地に自生する本種より短く、精々30年ほどの寿命しかない。 白樺の林の山荘に憧れていたこともあって標高630mにある用地を購入した際、不動産業者のサービスで2mほどの12本の白樺の幼苗12本を植えて貰った。 3年目で数本の根元から鉄砲虫が入り、1/3が枯れてしまった。 残った木も毎年穿孔されるので、その穴にスミチオンの原液を注入し根元にはオルトラン粒剤を散布して予防していた。 そんなに気を使って予防したのに植栽後18年経って、残ったのはたった3本だけとなってしまった。 このうち敷地入り口の角の一本はシンボル的に、一本だけ幹回り60cm双幹で高さ25mほどにも大きく育った。 この白樺だが春先は緑の葉を広げたのに、7月に入って見事に茶色に変色して枯死してしまった。 恐らく無数の鉄砲虫が入って、導管が切断されてしまったものと思われる。 今は菜園に多くの野菜が育っていて倒すことは不可能なので、野菜の収穫が終わって冬を迎える前には伐採してストーブの薪として供養しなければと考えている。 南信州の生家では迎え火に麦藁を使っていたのだが、麦の栽培を止めて久しいので今何を燃しているのか知らない。 我が家は東京式で麻殻を購入してきて迎え火をたくので、白樺の皮を使ったことは無い。
2018年07月09日

バケツは英語のbucketが語源であろうことは、疑いの余地が無いと思われる。 バケツは、主として水などの液体の運搬・貯蔵・ゴミ入れ・石炭入れ・ストーブの灰取りなどの用途に用いられる。 一部には、籠の英語basketが語源だとする意見がある。 籠は一般に植物を利用して短冊状・紐状の素材をくみ合わせたり編んだりして作られた主として固形物の運搬を目的とした容器の総称である。 籠には当然多数の網目があるので、液体を入れることは不可能である。Basketがバケツの語源であることは、恐らくあり得ないのではないか。 バケツに関してネットには、次のような投稿がある。 「そもそも「馬穴」と漢字を用いたのはかの有名な夏目漱石先生のようです。小説「三四郎」の中で「馬穴」と書いてバケツと読ませる、ユーモアのある当て字を使っているとか。」 多分自分で三四郎を検証していないので、他人の誤った説を引いて「…のようです。」あるいは「…とか。」としているのではないだろうか。 我が家の新潮社版現代日本文学大系夏目漱石17(一)・18(二)には残念ながら三四郎が収載されていないので、確認のしようがない。 同じ新潮社の現代日本文学全集夏目漱石(一)・(二)の「三四郎」では、当該個所は片仮名の「バケツ」と編集されてしまっている。同じく新潮社版から引用したと思われる「青空文庫」の当該部分も、バケツと表記されている。 これが講談社版の現代日本文学全集に収載された「三四郎」では、「馬穴」ではなく「馬尻」と表記してバケツと読ませている。 編集者が馬穴を馬尻に校正することは考えられないので、明治41年~42年の朝日新聞への連載では講談社版であったことがうかがえる。 「さっそく箒とはたきと、それから馬尻と雑巾まで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。 「あって……」と一口言っただけである。 三四郎は箒を肩へかついで、馬尻を右の手へぶら下げて「ええありました」とあたりまえのことを答えた。 女は白足袋のまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれの縁がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。女は箒を取った。 「いったんはき出しましょう」と言いながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立っていた三四郎は、突然馬尻を鳴らして勝手口へ回った。 美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾をかける。三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。 三四郎が馬尻の水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきと箒を持って二階へ上がった。 「ちょっと来てください」と上から三四郎を呼ぶ。 「なんですか」と馬尻をさげた三四郎が梯子段の下から言う。女は暗い所に立っている。前だれだけがまっ白だ。三四郎は馬尻をさげたまま二、三段上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。 「なんですか」 「なんだか暗くってわからないの」 「なぜ」 「なぜでも」 三四郎は追窮する気がなくなった。美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。馬尻を暗い椽側へ置いて戸をあける。なるほど桟のぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。 「まだあからなくって」 美禰子は反対の側へ行った。 「こっちです」 三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻に蹴つまずいた。大きな音がする。ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。まぼしいくらいである。二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。 裏の窓もあける。窓には竹の格子がついている。家主の庭が見える。鶏を飼っている。美禰子は例のごとく掃き出した。三四郎は四つ這いになって、あとから拭き出した。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、「まあ」と言った。やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま外面をながめている。そのうち三四郎も拭き終った。ぬれ雑巾を馬尻の中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。」 よほど気に入ったと見えて、短い文章の中に「馬尻」が9回も出てくる。漱石先生はこの第四項の終盤で、よほど馬尻を用いたかったのであろう。 今ではそれぞれの全集でも文字の一部が編集されており、新聞連載の三四郎で馬尻の当て字を使ったか馬穴であったか検証の方法が無い。 バケツとしている新潮社版は論外として、講談社版が元の原稿に忠実に版を組んでいるように思える。 林芙美子はよほど馬穴が気にいったと見えて、馬尻ではなくその著「蛙・魚の序文 ・ 風琴と魚の町 」で馬穴を使用している。 冬季の暖を電気・石油・ガス以外の薪や石炭等で賄う場合、火炉から燃焼残渣の灰を取るために灰取りバケツは必需アイテムである。 山荘のある甲斐駒ケ岳の麓は、年最低気温が-10℃を下回ることも再々である。しかしありがたいことに薪ストーブに前夜9時頃まで薪を入れると、翌朝まで熾き火が残って室温は10℃以上を保っている。 しかし翌朝早めに山荘を後にする場合、熾き火が残っていると非常に厄介である。 次回訪問の際冷え切った室内を直ぐに温められるように、灰を取って薪を入れておきたい。 炉内掃除のためブリキのバケツに灰と黒ずんだ炭を取り込んだ途端、赤々と燃えだしてバケツの底のハンダが熔けてしまいそうになり甚だ危険でもある。 数年前骨董市で、イタリア製で年代物の銅を打ち出した把手付き・猫足の容器を購入した。 売っている人も、これの用途は分からないと言っていた。 形が面白く年代物の風格もあるので言い値で購入して、冬季は灰取りに使用しストーブを焚かない季節には置物として飾っている。 本当はもう少し大きめの、アンティークな「ダルトンの石炭バケツ」が欲しい。 石炭ストーブで暖を取っていたころは必ずどこにでもあったバケツだが、日本一と言われる骨董市に出かけても未だ古色のあるダルトンの灰取りバケツにはお目にかかれない。
2018年06月28日

「コロッケー(コロッケの唄)」という、大正9年に流行したコミックソングがある。 ♪ ワイフ貰って、嬉しかったが 何時も出てくるおかずはコロツケ 今日もコロツケ 明日もコロツケ これじや年がら年中コロツケ アハハハ、アハハハ こりや可笑し 作曲者は不明だが、詩は実業家・劇作家・音楽家・貴族院議員でもあった男爵の益田太郎冠者 (明治8年~ 昭和28年)である。 彼はヨーロッパ留学中に本場のオペレッタ・コントに親しみ、帰国後その経験を生かして喜劇脚本を多く執筆した。 コロッケの唄は、特に有名である。 現代の日本においては誰でもがコロッケの何たるかを知っており、日本人にとってはラーメンと同じように日常的な食べ物となっている。 この食べ物の名前には相当する漢字が無く「ころっけ」または「コロッケ」と表記され、もともとは外国から渡来した食品であろうことは想像がつく。 しかしその名前の由来は何かと問われると、明確に答えられる人は少ない。 語源説についてはポルトガル語や英語由来とするものなど様々あるが、フランス語を正しいとするものが多い。 ポルトガル語であるという説は、安土桃山から江戸時代にかけてやって来たポルトガル人が伝えたとする説である。 しかし江戸時代の我が国の当時の書物には、コロッケに似た食物は出てこない。 昭和初期から一般的になった「コロッケ」という言葉は、江戸時代ではなく明治維新後になってから入って来た言葉であるとの考え方がある。 明治維新後フランスあるいはイギリス・アメリカからこの食物がその名称とともに伝わり、コロッケの名称がその時新しく外来語として定着したと考えるのが妥当であるとしている。 コロッケは英語では、croqutteと表記する。 croqutteはフランスの事典には、クロケットの初出文献は1740年との記載がある。一方イギリスの文献にクロケットが登場するのは、1706年である。 この両者の年代には34年のタイムラグがありクロケットの起源説には謎が残るが、フランス語のCroquetteはcroquer(押し潰す)という動詞から派生したとされるフランス語である。 以上からコロッケを意味する英語のcroqutteは、フランス語のCroquetteが語源であるとしている。 それらから考えると1600年代以前にすでにフランス語には、Croquettesという言葉があった考えられる。 コロッケの表記は英語ではcroquette、フランス語Croquettes、ドイツ語Kroketten、ポルトガル語Croquetes、イタリア語Crocchetteである。 コロッケの原料になるジャガイモは、18世紀末になってロシアから飢饉対策として北海道・東北地方に移入されたとされる。 しかし本格的に導入されたのは明治維新後になってからで、北海道の開拓作物として利用された。 やがて洋食の普及とともに、徐々に家庭料理にも取り入れられるようになっていった。 特に昭和初期から一般的になった「コロッケ」は、ジャガイモの栽培普及の時期と一致している。 日本のコロッケはフランス料理のクロケット(ホワイトソースがベースのクリームコロッケ)を、日本人の好みに合うじゃがいものコロッケに作り変えたのがそのルーツとも言われている。 明治期にコロッケが世の中に登場し、また料理本などに紹介され始めたもののすぐには普及しなかった。 大正時代の「コロッケの唄」の大流行が、庶民の口には縁のなかった洋風料理の名前を日本中に広めることになった。 以来現在でも惣菜として愛され、人気ランキングならびに冷凍食品製造量とも第一位である。 フランス料理のクロケットは、小さな丸い揚げ物料理である。 主な材料はマッシュポテト・挽き肉・魚介類・野菜・および白パン・鶏卵・タマネギ・香辛料とハーブ・ワイン・牛乳・ベシャメルソースまたはこれらの組み合わせであり、パン粉で包むことが多い。 通常円筒形または、円盤型であり油で揚げて作る。 2003年10月1日発売のコロッケの唄( 作詞:浜口庫之助 作曲:浜口庫之助)があり、五月みどりが歌っている。 ♪こんがりコロッケにゃ 口もない 目もない 手もない 足もない だけどコロッケは 知っている あなたとわたしの あの頃を 今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ しかしこの歌の♪今日もコロッケ…以下は、メロディーも詩も大正時代に益田太郎冠者が作ったコロッケの歌そのままである。 ♪ 今日もコロッケ 明日もコロッケ…の歌詞では時系列が正しくない。 明日は未来でおかずがコロッケになるかどうか不確定なのに、明日と入れて年がら年中とどうして続けたのだろうか。 昨日も今日もとすれば、論理的には正しくなると思うのだが。 我が国の著作権の保護期間は死後50年間だから、益田太郎冠者が作ったコロッケの唄の保護期間はとっくに切れており自由に改変して使用しても著作権法上の問題は無いのだろう。
2018年05月30日

富士山の風景を表す言葉に、逆富士がある。 水面に富士山が映り込む姿あるいは、本体とともに生み出される幾何学的景観を指して言う言葉である。 日本人は富士山そのものとともに、水面に映り込んだ逆富士も愛でてきた。 葛飾北斎の「富嶽三十六景」のうちの「甲州三坂水面」で、湖面に映る逆さ富士が描かれている。 新渡戸稲造の五千円紙幣と野口英世の千円札裏面には、本栖湖の逆さ富士が意匠として使われている。 鏡が未だない時代には、池などの水溜まりや溜め水などに自分の姿を映していたのだという。 いつの時代に付けられた名前なのか判然としないが、このように水に映すことによって鏡の代用として用いることや水面に映り込んだ景色の状態を「水鏡」と言っている。 また水がありのままに物の姿を映すことから、行いを正しくし人の模範となることまたその人も「水鏡」と言われる。 味や色の薄い味噌汁に対して、水鏡とののしったり嘲ったりすることもある。 紀元前2800年の頃の古代エジプト時代になって「溜まり水」に映す代わりに、銅などの金属の表面を磨いた鏡が作られるようになったと言われている。 弥生時代には金属で作られた鏡が中国から伝来し、さらに古墳時代になると多くの鏡が日本へ入って来くるようになった。 ただ当時の鏡は姿や形を映す道具というより、裕福な人々の宝物としてあるいは祭祀の器具として扱われた。 3世紀~4世紀になると伝来の鏡を見本にして、日本でも同じような鏡が作られるようになった。 当時の鏡は材質が銅で作られていたことから、銅鏡と呼んでいる。 平安時代になると鏡に神仏の像を彫って宗教儀式に使われるようになり、さらに鏡の裏面に花・鳥・蝶などの自然の風物の模様を入れた「和鏡」が作られるようになった。 室町時代には鏡を持つ柄(取手)を付けた、「柄鏡(えかがみ)」が工夫された。 鏡という名前が付けられた日本の歴史物語の「大鏡・今鏡・水鏡・増鏡」を四鏡と呼び、これらはこの順で成立したとされている。 四鏡のうち最初に成立した「大鏡」は、雲林院の菩提講で講師を待つ間に「世継」と「繁樹」の二人の老翁が青侍やその他の聴衆に語った問答体の形式で物語が進行している。 大鏡という名前の由来は、繁樹の「明らけき鏡にあへば過ぎにしも今行く末の事も見えけり」に対して、世継が返歌した「すべらぎのあとも次々隠れなく新たに見ゆる鏡かも」に出てくる「鏡」から取って、後人が作品に「…鏡」の名前を付したものとされている。 歴史物語「鏡物」の三番目に成立した水鏡は「大鏡」の形式に倣い、大鏡が記述した以前の神武天皇から仁明天皇まで57代約1500年間の歴史を編年体で述べている。12世紀末に成立した。 水鏡の序文には著者独自の歴史観が著わされているが、本文は平安時代の天台宗僧侶皇円が著した「扶桑略記」から抄出したものである。 73歳の老婆が長谷寺に参籠中の夜修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという形式になっていて仏教説話を多く取り入れている。 水田に水が張られた田植え前の田には、木々の濃くなった緑一色の周りの景色が映り込んで素晴らしい。 五月のこの時期にはメイストームの言葉があるように、連日風の強い日が続く。 水田の水面に映り込んだ景色を眺めるには、風が大敵である。 ほとんど肌に感じられないほどの微風であっても、水面に漣が立ってまるで真夏の直射に立つ陽炎を通して見ると同じように映り込んだ景色が揺らいでしまう。 この時期でも日の出前から約1時間の午前6時ころまでは、比較的風も凪いでいる時間帯である。 水田に水が張られると1週間以内には田植えがされてしまうので、一年の中シャッターチャンスは数えるほどしかない。 今年も偶に行く山荘の隣の水田の水面に幸いにも、甲斐駒ケ岳が映り込む初夏の朝の画像を捉えることができた。
2018年05月21日

法的な権利や根拠がなく、家屋や土地を占拠することを不法占拠といっている。 我が家の山荘のデッキの屋根の内側を、迷惑生物に一言の断りも無く突然不法占拠された。 ミツバチは他の蜂と異なり毒針の先に鋸の歯にも似た多数のカエシがあるため、いったん刺すと針が抜けない構造になっている。 そのため刺したミツバチを払うと、針と毒嚢・毒腺を刺した皮膚に残してミツバチの体から抜けることで死んでしまう。 「自分の命と引き換えに、相手に致命傷を与える」という意味から、「ハチの一刺し」という比喩の言葉が使われるようになった。 これはミツバチの刺傷についてのみ使われるものであって、ミツバチ以外のアシナガバチやスズメバチなどに刺された際に「蜂の一刺し」と使うのは本来の用法ではない。 越冬した女王バチは、単独で4月頃から巣づくりと産卵を始める。そのため5月頃に見かける巣は小さく、蜂の数も少なく攻撃性も低い。 駆除する場合はこの時期が、適期でもある。 ハチはすべての種類が、危険と思い込んでいる人も多い。 家の周囲や植え込み・石垣の間等人に身近な場所に営巣し、目にする機会の多いアシナガバチは巣を弄らないか蜂に触らない限り30cmほどに近づいてもほとんど刺すことはない。 植え込み等に営巣する小型スズメバチも、攻撃性が低い。 7月以降になると巣はかなりの大きさになり、蜂の数も多くまた蜂の活動が活発になるため非常に危険となる。 スズメバチでは、ヒメスズメバチも攻撃性が低い。 オオスズメバチに次いで攻撃性の高いのが、キイロスズメバチである。 キイロスズメバチは建物の軒下に、径50cm以上にもなる巣を作る。 夏季からは働き蜂の数がかなり多くなって、巣は働き蜂で覆われていることが多い。 最初家の屋根裏やその隙間木の空の中など、閉鎖空間に巣を作る。 やがて巣が大きくなって手狭になると、屋根の軒下などの目立つところに引っ越しをする。 この時期には蜂の数が相当数になっているため、短期間で大きな巣を作る場合があり突然の巣の出現に驚くことがある。 目に付く場所で営巣するスズメバチの中では、キイロスズメバチが最も大きな巣を作る。蜂の数が多く建物の軒下などにある巨大な巣のほとんどは、キイロスズメバチである。 体全体が黄色の産毛で覆われているのが、キイロスズメバチの特徴である。 飛翔時は太陽光が体毛に反射し見る角度によっては、体全体がオレンジ色に見えるので他種とは区別しやすい。 キイロスズメバチは人の住む環境に適応する能力が高く、果実や飲み残しの缶ジュース・生の魚肉なども餌にする。 凶暴な上神経質で巣の2mほどまで近づくと、これを察知したハチが巣からどんどん出てくる。 日本にはヤミスズメバチ属を除く3属16種のスズメバチの生息が確認されているとされるが、なかでもこのキイロスズメバチによる被害が毎年多い。 攻撃性・凶暴性に加えて、営巣場所が人の生活環境に近い場所であることがその理由としてあげられる。 多くのスズメバチは土の中や木の幹など自然界で巣を作るが、キイロスズメバチは家屋・捨てられたダンボールや公園の遊具など多くの物や場所を利用する。 キイロスズメバチは他の種より活動期間が長く、5月ごろから巣を作り始め新しい女王が誕生する11月ごろまで数を増やし続ける。 そのため一つの巣のハチの数は1000匹以上にもなり、巣の大きさも50cmを超える。 引越しをして新しい営巣場所を決定する際には、複数の候補地の中から生活に最適な場所を決定する。この際同時に、複数の巣を作ることも珍しくない。 スズメバチの成虫が狩りをして昆虫などを捕獲し肉団子にしたものは、全て幼虫の餌にされる。 ハチの胸と腹の間のくびれは非常に細く、消化器官とつながっていない。消化器官を持たない成虫は固形物を分解できないため、成虫は餌を消化した後に終齢幼虫が出す透明な栄養液を口移しで受け取りエネルギー源にしている。 そのため幼虫がいないと、成虫は女王バチを含めて餓死してしまうことになる。 スズメバチの名前の由来として、一般に巣の模様が雀の模様に似ているからだと言われているが、これはキイロスズメバチの巣に限ってのことであり他のスズメバチの巣はあまり似ていない。 キイロスズメバチの体型はスズメバチの中では小さく、大きくても25mmほどしかないので一見大型のアシナガバチかと見間違うことがある。 他人によって不法占拠された場合、法律上の権利・賃金債権・建物明け渡し請求権などを強制的に実現する強制執行という手続きがある。 相手がハチでは法律上の権利・賃金債権・建物明け渡し請求権などの手続きは全く効力が無く自主退去も難しいので、その他の方法で強制退去させる以外にない。 駆除には殺虫剤・裸火で焼き殺すなどの他、一般人には入手が困難だが脱脂綿にクロロホルムを染み込ませたものをスズメバチの巣穴に押し込んで、巣の中で羽音がしなくなるまで待って切り取り厚手のビニール袋に入れて処理する方法もある。 山荘のデッキの屋根の桟に、キイロスズメバチが巣作りを始めた。出入りする硝子戸の上部より僅か上だからデッキからは2.5mほどしかない。 出入りの際直接被害を受けることが十分予測され、8月頃まで放置しておくと非常に危険である。 近日中に殺虫剤による強制代執行の予定だが、要した費用の請求書の宛先が無い。
2018年05月01日

昭和16 年から昭和20年に一年生上期に使用されたヨミカタ一に、コマイヌが出てくる。 アカイ アカイ アサヒ アサヒ、ハト コイ コイに次いで三番目の文章に、コマイヌサン ア コマイヌサン ウンと続く。 狛犬は獅子や犬に似せ、神社に奉納・設置された空想上の守護獣像である。 寺社の入口の両脇や本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、あるいは参拝者と正対するように設置されている事が多い。 「獅子・狛犬」といって向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」の狛犬とが一対とされる。 阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像などは両方とも口を開いており「阿吽」になっていない。 日本に伝来したのは飛鳥時代とされ、この頃の姿は左右とも獅子であったという。平安時代になると向かって右側に獅子、左側に狛犬の像が対で設置されるようになった。 現在ではこの左右別の形式の方が少なく、阿吽共に獅子に近いものが多く見られる。呼び方も「獅子・狛犬」でなく、単に「狛犬」と呼ぶのが一般的となっている。 狛犬は古代オリエント・インドでは、ライオンを象った像を聖なものや神や王位の守護神としたものが起源とされる。 ピラミッドを守るスフィンクスに、その原型を見ることができる。 インド・ガンダーラを経由して獅子座思想が中国に入り、中国でも皇帝の守護獣として獅子像が定着した。 遣唐使によって獅子座思想が日本へ持ち込まれ、その後一対の日本独特の「獅子・狛犬」像という形式が出来上がった。 狛犬の「阿・吽」は、寺院の山門を守る仁王像と同じである。 「こまいぬ」の語源には、魔除けに用いたところから「拒魔(こま)犬」と呼ばれるようになったとする説などがある。 有角の狛犬由来として、「延喜式」に出てくる水牛に似た一角獣で鎧の材料になるほどの硬皮を持ち角は酒盃に用いたという兕(じ)といわれる獣ではないかとの説がある。 10 世紀後半に成立した宇津保物語「女一宮出産」には大きな白銀の狛犬四つに香炉を取り付け、宮中の御帳の四隅に置いて使われたとあり、枕草子や栄花物語には「獅子と狛犬」が対で出てくる。 枕草子二〇八段 …還らせ給ふ御輿の先に、獅子、狛犬など舞ひ…、二六二段は、その冒頭に調度としての「獅子・狛犬」についての描写もあり後半には、…「大門のもとに高麗、唐土の楽して、獅子、狛犬をどり舞ひ…」とある。 獅子と狛犬の配置については第84代順徳天皇「禁秘抄」と寝殿造の室礼と調度を記した「類聚雑要抄」に、獅子を左狛犬を右に置くとの記述がある。 「阿吽」はサンスクリット語の最初と最後の文字であることから、「人の一生の初めから終わりまで」を意味しているといわれている。 仏教ではこの世に生まれて悟りを求め、涅槃に至ることが「阿吽」の意味とされている。 さらにアは口を開いてンは口を閉じて発声することから吐く息と吸う息を意味し、二人以上が一つの事をするときの微妙なタイミングや気持ちの一致を「阿吽の呼吸」と表現するようになった。 寺院の仁王像も「阿形」と「吽形」があり、狛犬と同様の意味を持っている。 鎌倉時代後期になって簡略化された形態のものが出現しはじめ、昭和以降に作られた狛犬は左右とも無角で口の開き方以外外見上の差異がなくなっている。 神道では神之使、または「かみのつかわしめ」と言っている。多くの神社では一神に一使とされており、その種類は狐・鹿・蛇・虎・豬・鳩・想像上の生物など多様である。 厳島神社には複数の狛犬があり、参道鳥居の前・参拝所入り口前・神社の裏門・祓殿と高舞台の間に獅型狛犬が設置されている。 祓殿と高舞台の間の青銅製の狛犬は神社を正面に見て左には角があり口を閉じた狛犬が、右には無角で口を開けた狛犬が設置されている。 普通狛犬を見る際には阿吽の口の形では区別する以外、あまり雌雄に拘ったことは無い。 何対かある宮島の狛犬の中でこの青銅製のものにのみ、外形上雌雄の区別がつけられているのが面白い。 一見して有角で閉じた口から素晴らしい牙が出ていて雄々しく見えるのが何と雌で、角がなくアと口を開け大人しく見えるのが雄だという。 雌雄の区別については確たる文献も見当たらない上に、多くの狛犬には外形状の雌雄の区別が無く有っても逆の場合が存在する。 想像上の獣であることから設置位置・形・雌雄の別などは、結局のところ奉納者や彫刻する人の遊び心次第なのかもしれない。
2018年04月22日

松という名前の由来には諸説あるが門松に見られるように、神の依代として「待つ・祀る」を語源とする説が最も多く支持されている。 ただし依代としての門松の風習は平安時代(794~1185)になってから行われるようになった宮中の「小松引き」を起源とする説からすると、万葉集にはすでに松を詠んだものが75首以上もあることを考えると依代を由来とする説にも無理があるようにも思える。 日本を代表する松には、主に海岸地帯に生育するクロマツ(男松)と内陸で山林を構成するアカマツ(女松)がある。 どちらの松も手入れ次第で美しい樹形を作れるので、盆栽や庭園樹として重要されている。 特にクロマツは亀甲型にひび割れた荒々しい幹・垂れ下り気味の枝ぶり・葉の濃い緑などが好まれ、全国に名松と言われ樹齢300年を超える松が多く知られている。 全国名松100には入らないものの安芸の宮島には、一見の価値がある黒松が二株有る。 そのうちの一株は、厳島神社の出口を出た右側の大願寺の前にある。 大願寺の九本松と言われ、地際の根元から幹が9本に分かれて直立する松である。 案内板では明治時代、伊藤博文が植えたマツだとの伝承があるという。 後藤新平と伊藤博文が明治40年の9月29日、宮島の岩惣旅館で会談している(後藤新平伝「いつくしま夜話」)ので、宮島と伊藤博とは無縁ではなく実際に松植樹の事実があったのかも知れない。 「日本の巨樹・巨木林 中国・四国版」(環境庁)では、樹齢100~199年としている。 先端部分が折れていることもあり、案内板では樹高30mとしているが実際はそれより低そうである。 大願寺左側の茶店の従業員も自然に一本が九本に分かれて成長したのか、纏めて植えたものが合体したのかあるいは接ぎ木したのか意見が分かれていると説明していた。 もう一つは千畳閣前の五重塔左側坂道を下る途中の茶屋の前に、「龍髯の松」と呼ばれる樹齢二百年以上とされるクロマツがある。 茶屋の前には樹高3mに満たないような本来の主幹と見える松が直立しており、地際70cmほどの高さから坂の手すりに沿って上に向かって2本の枝が約20m、下にも10mほどの枝を伸ばしている。 その横枝からさらに上に出た枝が青々とした小さな樹冠を綺麗に並べており、あたかもその一つ一つが盆栽を並べたようにも見える。 因みに日本一の名松として知られる群馬県連取町菅原神社の「笠松」と呼ばれる樹齢300年のクロマツは、「老之松」として知られ樹高5m、枝張りは東西約35m・南北約26mとされる。 宮島塔の丘の「龍髭の松」は主幹から左右に伸びた枝を龍の髭に見立てて付けた名前だと言うが、その名前の妥当性はさておいて今まで見たこともない樹形で見事な松である。 後数十年もすれば、名松の仲間に入るのかも知れないほど見応えがある。 龍髭の松はこの樹の形から付けた愛称だが、「龍髭草」という薬草がある。ジャノヒゲの一般名で知られており、根が球状に肥大した部分を鎮咳・強壮・抗炎症に用いる。漢方では、麦門冬湯・清肺湯・温経湯ほかに配合されている。 この草の場合も、細い葉が龍の髭に似ているとして付いた名前だと言われる。 龍髭の松は料亭の細長い庭に植えられていたため、枝が長くなったとも言われているようである。
2018年04月16日
「春雨」は広辞苑の説明では、「春降る雨。特に若芽の出る頃、静かに降る細い雨。」と出ている。万葉集には雨を詠んだ歌が100首もあリ、その中に春雨を詠み込んだ歌もある。春雨尓 毛延之楊奈疑可 烏梅乃花 登母尓於久礼奴 常乃物能香聞(春雨に 萌えし柳か梅の花 ともに後れぬ常の物かも) …天平12年(西暦740年)12月9日大宰府の梅花宴の歌に追加した歌。詠み人 大伴書持(おおとものふみもち)天平12年(西暦740年)12月9日「大宰府の梅花宴の歌(815~846の32首)に追和した歌」春雨が誘われて萌えはじめたのは柳か、それとも梅の花でしょうか。どちらも遅れまいとするのは毎年のことです。万葉の時代から「春に降る雨で、しかも特に若芽の出る頃静かに降る細い雨」を、はるさめと呼んでいた。小学一年生が習う「雨」の訓読みは、「あま・あめ」であり、音読みは「う」である。小雨は「こあめ」ではなく「こさめ)」で、春雨も同じように「はるあめ」ではなく「はるさめ」と読む。辞書には「あま・あめ」の他の読みとして、「さめ ふる」があげられている。 和歌山県東牟婁郡古座川町に、一雨と書いて「いちぶり」と読ませる地名がある。ここでは「雨=降る」として使われているようである。雨の付く熟語には、時雨 驟雨 雨戸 雨蛙 雨期 雨降り 小雨 梅雨 秋雨 雨漏り 雨水 雨季 風雨 五月雨 雨天 霧雨 豪雨 多雨 雨乞い 穀雨 降雨 暴風雨 大雨 雨傘 雷雨 雨足 雨上がり 熱帯雨林 雨量 雨雲 晴耕雨読 長雨等がある。このうち当て字の時雨・梅雨・五月雨を除くと「う」が16、「あま」が8「さめ」が3で「あめ」が2である。春雨や小雨など「さめ」と読む熟語、は難読漢字に分類されている。複合語では、時として「あめ」が「さめ」になっている。この疑問に対して、ある時期の日本語は母音の連続を嫌う言語であったことから、複合語は母音の連続を避けて間に S が挿入されたのではないかとの説を唱える人がいる。さらに「さめ」は古い時代で、時代が新しくなるにつれて「あめ」になったのだろうと説明している。春雨と書いて多くの人は「はるさめ」と読むが、「しゅんう」でも正解である。行友李風が土佐藩士武市瑞山(通称半平太)をモデルに書いたといわれる戯曲、「月形半平太」がある。1919年に京都明治座での初演で、大好評を得たという。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れて参ろう」は、同じ行友李風の有名新国劇国定忠治の「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになる門出だ。」と並んで有名なセリフ回しである。木の芽起こしとか花に嵐の言葉もあるように、春の雨が必ずしも細くヒッソリと降るとばかりは限らない。値千金と言われる春宵のしかもほろ酔い気分だったら、春の霧のような雨なら傘を差すほどでもないに違いない。金田一春彦は、著作「ことばの歳時記」で、新国劇の芝居で見ると、月形半平太が三条の宿を出るとき、「春雨じゃ、濡れて参ろう」と言うが、今思うと、彼は春雨が風流だからぬれて行こうと言ったのではなく、横から降りこんでくる霧雨のような雨ではしょせん傘をさしてもムダだから、傘なしで行こうと言ったものらしい。」と解説している。ただ作者の行友李風がこの場面のセリフを考えるときに、後に作られた国定忠治のセリフを並べて考えれば、金田一春彦が掘り下げたような意味だと考えるより従来の方が味わい深い。
2018年04月11日

東京では、早くも葉桜の季節になってしまった。咲くのも散るのも、例年より1週間も早かった。江戸期の俳人大島蓼太の句に、「世の中は 三日見ぬ間に桜かな」がある。いつの時代も、世の移り変わりは早いと感じていたことが分かる。また古人が季節の移ろいの早いことを詠んだ歌が、古今和歌集にもある。春霞たなびく山の桜花 うつろはむとや 色かはりゆく(古今和歌集 巻第二 ) (春霞がたなびく山に咲いている桜の花は、色が次第に変わってゆくが散ってしまうのだろうか。)この時期の情景にぴったりの、「おぼろ月夜」という文部省唱歌がある。この歌は高野辰之が作詞し岡野貞一が作曲したというのが定説となっているが、その信憑性について疑問を唱える学者もある。「菜の花畑に 入日薄れ見わたす山の端 霞ふかし春風そよ吹く 空を見れば夕月かかりて 匂い淡し」霞は春に霧や靄などによって、景色がぼやけて見える状態を指す。霧や靄は、空気中の水滴などで視界が悪くなり、視程1km未満であれば霧、それ以上は靄と呼ぶ。霞は文学的な表現で気象学用語には無く、学術的な定義も無い。しかし平安時代から秋の霧と春の霞と区別して、和歌などにも歌われてきた。霞は地上からの蒸散が活発化するなどによって大気中の水蒸気が増え気温の低下などによって微粒子状となり、目に見える状態になったものである。昼と夜の変わり目で、気温差の大きい日に起こりやすい。近年は花粉・黄砂やpm2.5などの微粒子物質の飛来により、日中帯に引き起こされる場合も多い。古い文献にある春霞も、一部は黄砂が原因となっていたことが想像できる。朧月夜にある菜種は搾油して天婦羅油にしたり、燃やして灯明の油としても利用されてきた。戦後暫らくまで、日本の至ところで水田の裏作としても栽培されていた。この唱歌が初めて「尋常小学唱歌 第六学年用」に収載された大正3年(1914年)ころにはあちこちで栽培され、春桜の咲く頃には一面が黄色一色に染まっていたであろうことが想像できる。霞に煙る春の野山と、一面に咲く菜の花畑の上に月が昇る。西洋では「春は三日月のくぼみに水が溜まり、霞がかかって朧月夜となる。秋の三日月には水が溜まらないから、空はすっきりと澄みわたる」と言われている。蕪村も「菜の花や 月は東に日は西に」と詠んでいる。菜の花畑は菜種油を採取するために栽培したもので、そのほとんどは花を愛でるために植えられたものではない。現在では菜種の栽培は衰退し北海道で2490t(68.2%)、青森640t(17.5%)である。したがってこの歌の情景を想い描けない人も多くなっているに違いない。大気中の塵の影響で、月が青く見える現象をブルームーンと呼んでいる。大気中に塵が多いと波長が短い青い光がカットされ、赤い光が多く届くので赤く見えると説明されている。多くは火山の噴火や隕石の落下時に発生するガスや塵などの影響によって、月が青く見えることがあるとされている。実際1883年のインドネシアのクラカタウ火山の噴火の影響を受け、約2年間月が青く変わり文字とおりブルームーンになったと記録されている。ブルームーンには「青く見える月や満月の一つ」などいくつかの定義があるが、月のある種の様相のことである。アメリカ合衆国で最東端に位置しているメイン州の農暦では、秋分・春分と夏至・冬至の二分二至で区切られた季節毎の3か月間に、満月が4回あるときその3回目をブルームーンと呼んだという。1946年に天文雑誌の記事で誤って一か月のうちに満月が2回ある場合に、その2つ目がブルームーンであると掲載した。現在もこの記事の内容をそのまま引用して、ひと月に満月が2回巡ることとしている例が多く見られる。ところで3月は、2日と31日が満月となった。多くの人が信じているように月に二回ある場合後の満月をブルームーンというなら、3月31日の月は「ブルームーン」であったのだろう。今年は2月から昨年に比較して倍以上のスギ・ヒノキ花粉が飛散しているようだ。戸外に駐車しておくと洗車翌日には車の屋根が黄色に変色してしまうほどである。空には春霞がかかって眼前に聳える甲斐駒ケ岳の姿も、心なしかスッキリハッキリとは見えない。30日の16時45分に上り始めたブルームーンの名前に反して橙色をした満月は、肉眼でも甲斐駒ケ岳の残雪を識別できるほどに輝きながら4月1日の4時50分頃には甲斐駒ケ岳の右の稜線に沈んで行った。
2018年04月03日

神社・寺院・教会などの宗教施設が占有している土地を、境内といっている。神奈川県の座間神社には境内社として、伊奴寝子社(いぬねこしゃ)がある。多くの神社では日本神話に登場する神を祭神としている例が多いが、伊奴寝子社の祭神は愛育大神・犬祖大神・猫祖大神だという。神社は通常二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀ることが多く、この形態は寄宮といわれる。座間神社は明治四十二年村内各所にあった、天神社・蚕神社・浅間社・明王社・山王社・道神社を境内に寄宮として移したものが座間神社である。座間神社の由緒には寺院のことは出てこないが、神仏習合により寺院も共に有ったらしい。そのため77の石段を上った右側には享保5年鋳造の鐘が吊られた立派な鐘楼が、神仏分離が行われた後も引き続いてそのまま残っている。神道は元々海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社ではそこに祀られる神には特に名前はなかった。鎌倉時代末期になり地名・社名から日本神話の神に移行したり、稲荷・八幡など有力な神を勧請して主神とすることも行われた。明治の神仏分離で、村社・末社・無格社までがこれに倣うようになった。そのため神社の由緒には疑問の残るものが多く、論社( 似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いものをいう。)においてそれぞれの主張がある。延喜式神名帳に記載された神社とその論社を延喜式内社(式内社・式社)と言って、社格とされている。イヌの語源はイヘ(家)・「イヌ(寝ぬ)」・「家で寝る」などの意味など諸説がある。 一方寝子はネコのことで、猫の語源は「ネコマ」の下を省略した形という説がある他、猫は夜行性で昼間よく寝ることから、「寝子」に「獣」の意味の「マ」が付いたとする説。 寝と熊が「ネコマ」になったとする説などがある。日本書紀の「神産みの段の第十一の一書」に、女神と考えられる保食神(うけもちのかみ)が登場する。「天照大神は月夜見尊に、葦原中国の保食神への使いを命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は陸に向かって口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出したもので月夜見尊を饗した。月夜見尊は汚らわしいと怒り、保食神を斬殺してしまった。それを聞いて天照大神は怒り、月夜見尊と合わないで済むようにした。太陽と月が、昼と夜とに別れて出るようになったのだという。やがて保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生じた。天照大神は、民のためにこれらを種とした。」蚕は保食神の屍の眉から生じたとされることから養蚕の守護神とされ、蚕影明神・おしらさまなどが信仰対象とされた。 おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕・農業・馬の神とされている。2012年(平成24年)に、座間神社境内に「伊奴寝子社 蚕神社」が創建された。小さな赤い鳥居を潜った参道の右に犬、左に猫の石像が向かい合いに配されている。突き当たり奥には、台座を含め2mほどの高さの社殿が設置されている。寄宮として祀られていた蚕神社は時代が変遷しその役割を終えたことから、新たに伊奴寝子社を創建し蚕神社に合祀したのだという。伊奴寝子社の右傍に、移された名残の蚕神社が申し訳のように立っている。案内板によると蚕神社の別名を、伊奴寝子社としている。全国には、犬・猫を祀っている神社数社がある。山形県高畠町には、犬の宮・猫の宮の二つの神社が隣接して祀られている。名古屋市西区稲生町に旧郷社の伊奴神社あり、本殿向かって左側に秋田犬らしき形の犬の石像があり保食神も祀られている。磐田市見付天神矢奈比賣神社・武蔵御嶽神社の犬の像は、オオカミに近い姿をしている。藤枝市鬼岩寺の境内社の黒犬は狼だと言うが、その姿は秋田犬に似ている。 伊奴寝子社の祭神は愛育大神・犬祖大神・猫祖大神 となっているが、神話にその神のルーツを見出すことはできない。したがって伊奴寝子社の三神は、創造神である可能性が高い。由緒書にそそられて、極小さな赤く塗られた鳥居を潜るといきなり違和感に包まれる。秋田犬は体重40kgを超え大型犬の仲間に入るほどの犬で猫はその半分にも満たない大きさであるはずなのに、それに相対している猫の石像の大きさが犬と同じなのである。「困った時の神頼み」という言葉もあるように神社仏閣を訪れる目的には、神の力にすがり・ 神助・ 加護を求めたり頼る心がどこかにあるのだと思われる。毎年神社仏閣にお参りに訪れる多くの人の中、実際に神の力を感じた人がどれ位いるのだろうか。同じように伊奴寝子社に参って、御利益があった例があれば知りたいものである。
2018年03月16日

昨年11月、男女9人が殺害されバラバラにされた陰惨な事件の報道によって座間市の名前が全国に知られるようになったのは皮肉なことでもある。市名の「座間」は、高座郡の郷名伊参(イサマ)が転じたものとの説がある。(新編相模国風土記)この座間市に、神社の創祀は神代とも伝わる座間神社がある。欽明天皇(539~571)の時代に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した。ある夜飯綱権現の化身が白衣の老人の姿で現われ村人に、悪疫封じには崖下の森の中に湧く清水を使うようにと告げたという。村人がその勧めに従うと悪疫が収まったことから、飯綱権現を祀ったという話が伝わっている。飯綱権現は飯綱山が御神体の神仏習合で、長野県の飯綱権現社が本社である。明治になって村社とされる際祭神が日本武尊に改められ、廃仏毀釈により明治九年に「飯綱権現」から郷名の座間神社に改名された。座間神社は相模川の河岸段丘の上にあり、相模川の流れの向こうに丹沢連峰を望むことができ落陽の景色の眺望が良いことでも知られている。そのため神社に行くには、車道から77段の幅3mほどの狭い石段を登らなくてはならない。千葉県浜勝浦の遠見岬神社では60段の石段一面に、1,800体のひな人形が飾られ夜間ライトアップされることで有名だが、座間神社ではこの77段の石段の左片側にひな人形千体が飾られた。ライトアップの設備は見えなく提灯がぶら下がっていたので、夜間は提灯に明かりを入れるのかも知れない。実行委員会主催で多くのボランティアが交代で関わって三月二日から三月四日までの三日間飾られるが、昨年に続き2回目の試みだそうである。「雛祭り」の起源については、複数の説がある。平安時代に貴族の子女の間で紙の人形を用いた、「雛遊び」が盛んになったという。小さな御所風の「屋形」を設えて飾り、子女の人形(ひとがた)遊びとして行われていたとの説が有力である。当初は子女の「遊び」であったことから、今でも「ひなあそび」と呼ばれることがある。江戸時代になると「人形遊び」と「節句の儀式」とが結びつき、「上巳」の節句に「災厄よけ」の「守り雛」として祀られるようになりこの風習は全国的に広まっていった。3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、天正年間以降のことだと推測されている。平安貴族の子女の人形遊びとは異なり、紙で作った人形に穢れ・罪・悪霊を背負ってもらって川に流す「流し雛」といわれる儀式が同じ頃からから行われるようになったとされる。江戸時代初期には立った形の「立雛」や座った形の「坐り雛」が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛だけであった。しかし、飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。そのため次第に人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」や大型の「享保雛」などが作られた。次第に華美な人形になっていくと、やがて幕府は華美を禁ずる「御触書宝暦集成」を出して大型で華やかな人形を禁止した。江戸後期には男雛・女雛に加えて、「有職雛」が作られるようになり幕末ころまでには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案された。三月三日は五節句の一つ「上巳の節句」で、桃の花が咲く頃であることから「桃の節句」ともいわれる。古代より人形(ひとがた)が身代わりとなって、災厄を引き受けてくれると考えられてきた。人形(ひとがた)や形代(かたしろ)と呼ぶ草木・紙・藁で作られた人形に、自分の災厄を移して海や川に流した祓いの行事と、平安時代の人形遊び(ひいな遊び)とが結びついて現在の「ひな祭り」の形ができあがった。草・藁・木や布で作った人形を子供の魔よけにする風習もあり、人の厄を祓うための道具として人形(ひとがた)が使われた。ひな祭りは上巳の日に厄を祓って幸せを願う行事であることから草・藁・紙などの人形に災厄や穢れの身代わりとなってもらい、川や海に流して厄を祓って幸せを願う行事である。その原型は今も一部で行われている「流しびな」の行事に引き継がれ、現代に伝わっている。「雛」には、小さくてかわいらしいものという意味である。ひな祭りは、古語では「ひいなあそびまたはひなあそび」といった。昔は嫁入り道具として婚家へ贈る風習があったので、今でも母方の実家から孫娘の誕生に際してひな人形を贈って初節句を祝う。その娘の災厄を身代わりとなって受けてもらうよう人形を飾って祈願し、健やかな成長と幸せな人生を願うのである。林柳波のひな祭りの歌詞は、「お内裏様は上の段…」とある。お内裏様とは、男雛・女雛の二体を指していることに疑問は無い。ところがよく知られたサトーハチロー作詞の「うれしいひなまつり」の二番の歌詞は、「お内裏様とおひな様二人ならんですまし顔…」となっている。内裏は御所のことで内裏びなは「男びなと女びな」一対を指し、さらにここに住んでいるのは天皇と皇后を意味している。お雛さまとは、小さい人形の意味である。サトーハチローはおひな様をその語感から、女雛を指していると誤って理解していたものであろう。作詞の際間違いを犯し、それが現在も残って伝わっているのである。内裏雛の並びが、関西と関東で異なっていると言われる。古来より左側上位の思想があり右に男びな、左に女びなを飾っていた。昭和天皇は皇后と並ぶ場合、諸外国では男が左に並んでいるのを見てそれに倣ったのだという。このことから昭和初期に関東の人形業界が向かって左に男びな、右に女びなを並べるようになった。ところが京都など伝統ある地域では、日本古来の並べ方を踏襲しているため並びが異なっているのである。雛人形はただ単に飾って楽しむだけのものではなく、祖父母や両親・家族の健やかな成長を願う深い気持ちが込められており、上巳の節句には毎年飾られるのである。しかし雛人形にも、その役目を終える時がやって来る。誕生の際贈られた雛人形の役目は、一般的に成人あるいは嫁ぐことで終わるとの考え方がある。 したがって結婚した時が、雛人形を処分する時期とも言われている。祖父母が心を込めて贈ってくれた雛人形を、ゴミとして処分するのでは心が痛む。そこで多くの人は、神社へ持ち込んで長年守護してくれたことを感謝し御祈祷してもらってお炊き上げで処分する。近年は住宅事情などもあって、神社に持ち込まれるひな人形が増えてきたという。座間神社では従来お炊き上げをして処分してきたが、明治・大正時代の貴重な人形も多くこれらが消滅してしまうのは忍びないとして10年ほど前から神社で保管してきたものが2千体以上になったという。昨年実行委員会が立ちあがり2~4日の雛祭りの期間に、神社の石段に緋毛氈を敷き詰めて千体を飾ったのだという。狭い石段は、右側上りの一方通行で下りることはできない。4日は低気圧の影響で南風が強く暖かくなったのはいいのだが、折角並べた人形が倒れたりコロコロ転がったりとそれを直すボランティアのご婦人方は狭い階段を上ったり下りたりの大忙しであった。各所で不用のひな人形を集めた展示も行われるがそもそものお雛様の由来を考える時、これらの人形にはかつて持っていた人の「念」が籠っているようで一面怖くも感じる。
2018年03月06日

明治44年に尋常小学唱歌として発表された鳩(はと)は、♪「ぽっぽっぽ はとぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなでいっしょに 食べに来い」と歌う。元の曲名はハトだが30年を経て、ほとんどの人が原題と誤って思い込んでいた「ハトポッポ」に変更された。旧約聖書の「創世記」6章-9章に、ノアの箱舟が出てくる。エホバは人間が次第に堕落していく様を見て怒りを覚え、そんな人間ならいっそ全滅させるために大洪水を起こそうと考えた。しかし、「ノア」の一家だけは日々真面目に働いていたので、エホバは洪水を起こす前にノアの一家だけを助けることにした。その際方舟を造って、すべての動物を一対ずつその船に乗せるように教えた。やがて大雨が降り続いて世界が水没し、方舟に乗せられた動物だけが生き残こった。大雨が収まった後上陸できる陸地があるか確かめるために鳩を放したところ、鳩はオリーブの枝をくわえて戻ってきて陸地のあることを知らせたという。ここから、鳩が平和の象徴とされるようになったのだという。 パリで1949年に開かれた国際平和擁護会ポスターのデザインに、巨匠ピカソが鳩を描いたことで鳩が平和の象徴として世界的に認知されるようになった。仏教国である日本において旧約聖書に出てくる鳩が平和をイメージするようになったのは、タバコのピースのデザインが大きく寄与している。ピースの箱に描かれたオリーブの枝を咥えた鳩の図柄は、アメリカの著名なデザイナーであるレイモンド・ローウィのデザインしたものでタバコの売り上げに大いに貢献した。以来長い間平和の象徴とされてきた鳩だが、今では鳩害ともいわれ嫌われ者となり果てている。鳩の害で特に問題とされるのは、休憩鳩・待機鳩・ねぐら鳩・巣作り鳩・餌場等に撒き散らかされるに糞による害が多い。その他ハトは様々な病原体を保有し人にクリプトコックス属真菌感染症や、鳥インフルエンザ・アレルギーや喘息の他オウム病などの健康障害をおこす。「呑舟之魚、不游枝流、鴻鵠高飛、不集汚池」という、「列子 楊朱」出典の成句がある。「呑舟の魚は枝流に游がず…。」と読み、舟を飲み込んでしまうほど大きな魚は常に水量豊かな本流を泳いでいて支流に姿を見せることはないの意味である。この呑舟の成句から「大人物というものは、愚者とは交わらない。また、高邁な志を持つ者は、小事には拘泥しない。」という意味で使われるようになった。9年も前国政を停帯させたとの評価が残る政権が誕生し、二世議員が首相となった。学歴は東京大学工学部計数工学科を卒業しておりかなりの秀才だが、学歴と人物の大きさとは必ずしも比例しない。この人物は自らを「呑舟の魚」と称したのだから、かなりの思い上がりがあったように感じられる。首相在任中の2009年11月の本会議の議場で、議案審議そっちのけで同じ会派の議員から依頼を受けた扇子を広げて揮毫していたというのだ。詳しい情報と写真は27日の読売新聞朝刊に、「26日の衆院本会議中、鳩山首相が審議そっちのけで扇子に揮毫する一幕があった。」報道されている。(写真 読売新聞から転載)以前書いたと思われる「呑舟之魚不遊枝流」の「遊」と「游」が間違えて書かれた扇子に、サインペンで「友愛」と書き足したというのだ。遊ぶと泳ぐでは、明らかに意味も異なる。書き足した言葉の友愛とは友人に対する親しみの情だから友でない者には排除の論理を適用し、重要な本会議中でもその発言を聞く必要などないと考えたのであろうか。退陣末期にはその行いと名前から、「ハトポツポ」宰相と揶揄されるまでになった。はとぽっぽは、親しみのある童謡の歌詞だが、鳩は今や友愛や平和のイメージでは無く都市の有害鳥である。多くの重要な国政の課題を掻きまわし、国政の舵取りを誤り結果派生した諸問題を放置したまま首相の座を放り出して政界を引退してしまった。その後も国の要請を無視して、対外国活動などをしている。「呑舟の魚、支流に游がず」ではなくより適切に言い表すなら、「鈍愚の魚 民心を惑わす」(捕えどころのないのらりくらりとした魚は、民衆の心を乱す。ー造語)とでもなろうか。
2018年02月24日

今年の立春は、2月4日だった。立春は冬季が終わるときで季節の変わる節分であるが、暦には立春の前日を節分として記している。節分は季節の変わり目のことで春・夏・秋・冬の各季節にあるが現在、節分といえば「立春の前の節分」を指している。日本の各地で、このころから気温は上昇に向かう。日足は伸び木々も次第に芽吹いてくるので、春の気配をどことなく感ずる時期とされる。我が国のほとんどの地域気候は温帯に属しているが北海道や東北地方は亜寒帯に属し、南西諸島の気候は亜熱帯といわれる熱帯と温帯の中間のような気候である。気象庁の季節区分では、3月~5月が春・6月~8月が夏・9月~11月が秋・12月~2月が冬とされている。日本の気候は、季節風の影響で四季がはっきりしていると言われる。しかし各季節への変わり目が何月何日であったのか、説明できないことの方が多い。夏から秋への変わり目について藤原敏行朝臣は、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今集・巻4)と、風の音で秋の到来にはっと気づいたと詠んでいる。 また冬から春の変わり目について二条后(藤原高子)は、「雪の内に 春はきにけりうぐひすの こほれる涙 今やとくらむ」(雪の降っている中に春がやって来ました。鶯の凍っていた涙は、今はもうとけるでしょうか。)と季節に冬と春が同居している様を詠んでいる。冬から春への季節の変わり目は三寒四温の言葉もあるように、行きつ戻りつしながら季節が移っていく。藤原敏行朝臣は耳で季節の移ろいを知り、二条后は聴覚と視覚でとらえたのである。「映る顔 おだやかに水温みけり」は山口青邨の句だが、氷が解けて顔が映るほどゆるゆると流れる川の水に視覚で春を感じたものであろう。3月~4月は1か月で5度以上の変動があり、夏から秋への変わり目となる9月~11月も同じ程度の気温差がある。季節の変わり目に自律神経に変調を来し、頭痛・肌荒れ・めまい・耳鳴り・倦怠感・眠気・鬱・腹痛など様々な体調不良に悩む人もある。花粉症を発症することで、季節の到来を知る人もある。体調不良で、春の到来を知るのである。これらの症状の発現は、人によって異なり一様ではない。都会の狭隘な庭では最早お目にかかれなくなりつつあるが、早春に庭の枯れ葉の陰から顔を出した「蕗の薹」を見ると漸く春が来たなと感じる。この時期スーパーの棚にも並ぶがなぜか発泡スチロールのトレイに入ったものを見ても、庭の日だまりに蕗の薹を見つけた程の感動は沸かない。我が家の狭い庭の富裕柿の木の下に、50年以上も前に家内の実家から株分けして植えた「ヤマブキ」が地下茎を伸ばして今では庭一面に広がった。12月には地際に付いた数枚の枯れた葉茎の付け根の真ん中に、極く薄いピンク色の小指の先ほどの芽が付く。この薄いピンク色の芽は1月末頃から次第に大きくなり、立春を過ぎた頃には親指大となる。やがてその名前のように抽薹し、緑の葉にも似たガクを開いて花茎を伸ばす。蕗の薹は春一番に出る山菜であって栽培もされており、多くの家庭では蕗の薹を天婦羅にして味わう。多くの山菜には苦味成分が含まれており、最もポピュラーな山菜の王様といわれるワラビやゼンマイには発がん誘因物質を含むものがありアク抜きは必須である。「苦い」という味覚は古来より敬遠され、「苦々しい」「臥薪嘗胆」「苦虫を噛み潰したよう」などの言葉で比喩される。人は苦味を持つ物を、有毒物として認識するDNAを受け継いでいると唱える学者もある。そのため小児は、苦味のある食品を忌否して好まない。これが不思議なことに有毒な食品でないことが分かる年齢になると、一転むしろ苦味のある食品を好むようになる。佐藤春夫は「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか。」と 、「秋刀魚の歌」で歌っている。多くの人は、コーヒーや魚介類の内臓・茶などの苦味を楽しむためにこれらを飲食する。微かに苦いと感じることを「ほろ苦い」というが、子供の頃忌否していた苦味のある食べ物をいつの間にか逆に好むようになる。これを見て周りの者は、漸く大人になったと評する。好まれる苦味の強弱は人によって異なり、一概に比べることはできない。蕗の薹は油を潜らせることでほとんど苦味を感じなくなって子供でさえ食べやすい味に変化することも、天婦羅にして食される理由の一つであろうか。ボール一杯も収穫できた蕗の薹はアツアツの天婦羅も酒のアテにして旨いが、もう少し苦味を残して山菜としての野性味のある味が好きで天婦羅よりむしろ佃煮にして楽しんでいる。手間さえ惜しまなければ、佃煮の作り方は簡単である。完全に開花する前の蕗の薹を摘んだらがくの間に入った泥を良く洗い落し、枯れ葉などのごみを除く。鍋に洗った蕗の薹とたっぷりの水を入れ、火に掛ける。沸騰して約5分茹でて、湯を捨てよく水気を絞る。苦味が不得手な人は茹で時間を延長し、さらに流水に晒せば苦味を取り除くことができる。絞った蕗の薹を微塵に刻み、好みの削り鰹節を数袋と等量の酒・味醂・醤油を加えて水気が無くなるまで弱火で煮詰める。醤油が少なめなので途中味を見て、足らない醤油を加え好みの味に調整する。出来上がったら瓶詰めにしておけば、10日以上日持ちし長く楽しむことが可能である。今年は今までになく寒く、実際の春の陽気が心待ちにされている。しかし漸く南岸低気圧が定期的に関東沿岸を通過するようになり、3月3日の雛祭り辺りから春めいてくるとの予報である。私は季節の節目を季節より一足早く、庭に頭を出した蕗の薹を眺めほろ苦い蕗の薹の佃煮を食べ目と舌から春の到来を知るのである。
2018年02月20日

1月28日の夜2時間ほどの間に、仮想通貨580億円相当が外部からの不正アクセスで流出したという。この仮想通貨は、約26万人が保有していたとされる。素材そのものに価値のある貨幣を物品貨幣や実物貨幣と呼び、通貨の概念が誕生したころにはその重量が価値の判断とされてきた歴史もある。特に初期の貨幣には、物品貨幣が多い。物品貨幣は貝殻や石などの自然貨幣と、家畜や穀物などの商品貨幣とがある。物品貨幣については非常に理解がしやすいが、現代の紙幣やコインの法定通貨についてさえかなり理解が難しい。これが国家による価値の保証を持たない仮想通貨となると、全く理解の閾を越えた問題となってしまう。目盛りや升目という言葉があるが、この目とは物を測るための標(しるし)である。通貨が物品貨幣であった頃は、重さが単位とされていた。この場合の目は、秤・升などではかった量・重さを表わしている。質量だけではなく、長さを計る物差しにも目盛は使われる。目はまた、百目・一貫目のように数を表す語の後に付いた場合は匁(もんめ)の意味を表わしてもいる。鎌倉時代以降に銀1両を4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。尺貫法では質量の単位である貫だが江戸時代以前には通貨の単位であり、通貨単位の貫は1000文に相当した。文は、現代では全く通用しなくなった。質量単位と通貨単位を区別して質量単位の方を貫目(一貫分の目方の略)、通貨単位の方を貫文(かんもん)とする場合もある。江戸時代の一貫は平均して3.736kgであったが、江戸後期(19世紀以降)になると3.75kgを超えたという。1貫目は1000匁に相当し、明治時代になって 1貫 は3.75kgと定義された。現在我が国では貫を、取引・証明に使用することは禁止されている。ただし真珠の質量の単位として匁が商取引上国際的に使われているので、「真珠の質量の計量」に限定して使用することができるとする例外がある。日本における正規の名称は、明治初期まで「銭」であった。1891年(明治24年)度量衡法令が公布され、メートル法を基準とした「匁」が登場した。「もんめ」は一文銭の質量であることから、「文目」(もんめ)と呼んだことが「匁」の語源由来とされる。「匁」の文字は「文」と「メ」を組み合わせたものであるとする説や、「銭」と同義の「泉」の草書体に由来するとの説などがある。「匁」を国字とする説が多いが、異説もあり本来「銭」の異体字として中国で使用されていた字で日本の国字ではないとする見解もある。日本で本来の銭に代わって「もんめ」の漢字として匁が使われるようになったことから、国字と認識されてしまったのではないかと説明している。江戸時代の銀目において10匁単位(10匁の整数倍)の場合には、匁の代わりに「目(め)」と呼ぶことがある。例えば30匁は三十目、300匁は三百目とも呼ぶなどがその例である。ただし、10匁単位でない場合はこの表現は用いない。たとえば、17匁は17目のようには言わない。この場合の「十目」・「百目」はあくまで10匁・100匁の別の表現なので、143匁は百四十目三匁ではなく百四十三匁である。貫とは大量の銭を携帯するために銭を束ねた道具「銭貫」のことであり、材質によって糸貫と木貫があった。円形の中国貨幣には真ん中に四角形の穴があり、ここに銭貫を通して束ね1000枚を1組とした。これが南北朝時代ころになって、銭貫を通貨単位とした「貫」が出来上がった。日本では、一文銭の目方であることから「匁」(もんめ、元は文目)と呼び、1000匁を1貫とした。先に匁という単位があり、その1000倍を貫と定めたものである。辞書には「目方」(めかた)は、「物の重さ、はかりで量った重さ、重量。」とある。「重さ」とは重いことその度合いとあり加えて、地球上の物体に作用する重力の大きさで、その物体の質量と重力加速度との積に等しい。また地球上の場所により重力加速度の値が異なるので、同一物体の重さも異なることは中学で習う。重力加速度の補正をしないで同じハカリを使うと、場所によって1/千ほどもの差が生じさせるほどにその影響が大きい。精密が必要とされるある物質の質量が測定場所で異なるのでは、往々にして困ったことになる。そこで質量の測定において重力値の影響を除外するしくみが計量法の質量計ほかの分野で規定されており、質量が1kgの肉は必ず1kgと表示されるようになっている。そこで、使用地に対応して補正しているのである。こうした違いを生じさせるハカリの典型は、バネ式のハカリである。両皿天びん方式のハカリでは、測定したいモノと分銅の両方に同じ重力加速度がかかるのでこの影響を受けない。仮想通貨580億円の質量は、恐らく零なのであろう。貨幣通貨と同じように質量を伴えば瞬時に移動させることは不可能である。インターネットで決済が瞬時に行えるメリットがある一方、プログラム保護に欠陥もあり悪意ある者からは常に侵入やアクセスが試みられているともいえる。通貨と秤のように実態の見えるものではない電子上のシステムは、必ずまたヒトによって破壊もされる運命にあるのだろう。ともあれ仮想通貨で数億円を稼いだという人もあるが、大きく損をした人も結構いるのではないかと感じている。
2018年02月05日

芋といえば日本人のだれもが一般的に、ヤマノイモ・サトイモ・サツマイモ・ジャガイモをあげる。その中でも最もポピュラーなのは、サツマイモであろうか。芋の付く食べ物だけでも、「―羊羹」・「―田楽」・「―飯」・「―けんぴ」・「―焼酎」など多くの食べ物飲み物がある。芋は土地を選ばず救荒作物としても利用され、安価な食料として庶民に広く利用されてきた。安価でどこでも手に入れることが可能なところから、蔑視される傾向もある。「イモ」は、「洗練されていない」という意味を込めて蔑む場合にも使われる。料理でも芋料理は、「田舎料理」の代表でもある。干菓子の一種に、「けんぴ」がある。土佐の郷土菓子で、漢字では堅干・健肥・犬皮とも書き表される。室町時代から土佐に伝わると言われているが、現在のけんぴとは材料が若干異なるらしい。小麦粉に砂糖・水を加えて硬めに捏ねた生地を伸ばしてまるめ、棒状にしてから切断したものを焼いて作る。堅く干して作られることから「堅干(けんぴ)」の文字を与えられたとされ、「茶の湯」で用いられることもあるが日常の茶うけ菓子である。小麦粉・白砂糖・クルミ・黒ごまなどを捏ね合わせて薄く伸ばして焼き、丸く巻いて小口切りにしたものが室町時代から作られていたという。一方では唐から渡来したまがりもち環餅(かんぴん)が「巻餅(けんぴん)」に変化したのが語源とする説もある。1601年(慶長6年)に土佐の「白髪素麺」や「麩」の製法を応用して作られた菓子を山内一豊に献上したのがけんぴの始まりだとする説もある。(ケンピの製造元西川屋)。それらの説より700年以上も前の930年(延長8年)に、米麦の粉に蜜、甘酒・鶏卵などを混ぜ小麦色に焼いた菓子を食べた紀貫之貫が、病弱な人でもこれを食べれば肥り健康が増進するとして「健肥(けんぴ)」と名前をつけたとする説や、犬皮語源説もあるがこちらは俄かには信じがたい。また砂糖を加えて練った小麦粉にゴマとクルミを入れ焼いた、「けんぴん」と呼ばれけんぴに類似した菓子が江戸時代の文献に記載がある。名称や発祥について多数の説が存在する中で、唐から渡来したとされる環餅由来説が最も説得力があるように思われる。サツマイモをスティック状に細切して砂糖・糖蜜等を塗して油で揚げた物ものがある。形状がけんぴに似ているところから、その名前を借りて芋けんぴと言われる。砂糖のコーティングにより表面は生の状態より硬い食感になっており、容易に折れ易いが歯応えがある。表面に、胡麻を付けるのが一般的である。製法形状ともフライドポテトに類似するがいもけんぴは専ら菓子として供され、料理の付け合わせや食材として利用されることはない。材料・製法ともけんぴとは全く異なり、類似するのは形状と堅さくらいである。羊羹とは全く異なるのに、芋羊羹の名前が付けられた食べ物と同じである。形状が似ているのに本質が全く異なるいわゆる似て非なる対象物については「梅―」「がんー」など多くが「擬(もどき)」といって区別される。クロウメモドキ・サフランモドキ(ゼフィランサス)・タチバナモドキ・ツルウメモドキなどの植物や、ササキリモドキ・コオニグモモドキ・カミキリモドキなどの動物の例がある。いも羊羹やいもけんぴの場合はその原材料名を頭に付けて、本来の物とは異質なものであることを表わしている。モドキ羊羹でもよさそうだが羊羹には栗蒸し羊羹・昆布羊羹・梅羊羹・柿羊羹・薄荷羊羹・イチジク羊羹・蕗羊羹など多くがあり、「芋」とその原材料名を冠しないとその実態が分からない。女性は芋好きと言われるが、家内も例外ではない。店頭で焼き芋が目に入れば、すぐに買う。干芋やいもけんぴなどの、芋菓子にも目が無い。お付き合いで摘まむうちに、結構いもけんぴを食べるようになってしまった。昔食べ始めると止まらないというエビ煎餅のコマーシャルが流行したが、いもけんぴも次々とつい手が出てしまう食べ物ではある。さつまいもは全国どこでも収穫される割には、けんぴと同じくいもけんぴも高知県が特産のようである。
2018年01月19日

「明日」に「あす」という訓が当てられているが、単字の「明」や「日」に「あす」の要素は無い。 漢語では「明」と「日」を修飾や被修飾の関係で組み合わせることで、新たな意味を作り出している。単字それぞれの字訓で読めば、「あくるひ」になる。これに対して二字に一訓を当てると、「あす」となる。このような漢字訓の用法は、熟字訓と呼ばれる。熟字訓はよく使われる言葉にある場合が多く、訓には和語ばかりでなく外来語も使われる。団扇は「うちわ」と読むが団には、うちわを示す意味は全くない。熟字訓も通常の訓読みと同様に、個人的な使用から生じてそれが定着したものである。この用例が定着しなかった例として、「閑話休題」と書いて江戸時代には「それはさておき」と読ませたが現代はほとんど使われていない。常用漢字表付表には、熟字訓のうちの116種(123表記)が呈示されている。日常生活に欠かせない便所は、古くは川で用を足した頃の名残で厠(かわや)と言われた。その他に樋殿 (ひどの) ・川屋・側屋・雪隠 (せっちん) ・東司 (とうす) ・西浄 (さいじょう) ・後架 (こうか) ・手水場 (ちょうずば) ・ご不浄・憚 (はばかり) などの呼び名がある。現在は、トイレ・お手洗い・化粧室が一般的である。江戸の長屋の共同トイレは「惣後架(そうこうか)」と呼ばれ、屎尿は肥料とするため近郊の農家が買い取り大家の収入となっていた。落語に法華長屋がある。法華宗の熱烈信者を自称する、長屋の大家がいた。店子は全て法華宗の者に限られ、他宗の者には家を貸さないと言う徹底ぶりであった。さらに路地の入口には「法華宗の者入るべからず」の札があって、行商でも何でも他宗の者は長屋の中へは入れなかった。 ある日店子の住人がやって来て、便所が一杯になっているので汲み取ってほしいと言う。今から出入りの汲み取り屋を呼びにやっても、直ぐには間に合わない。そこで流しの汲み取り屋を呼んで、汲み取らせる事になった。来る汲み取り屋の全てが、他宗派であった。昼時飯屋に集まったくみ取り屋の全員が呼ばれて行ったのに、宗派を聞かれ答えると塩をかけられ酷い目に会ったという。その中に法華宗の者だけ居なかったことから、大家は法華に違いない。俺は法華ではないが法華の振りをして、仕返しをして来ようと言う物好きが現れた。 その男は長屋へ行ってあること無いこと並べ立て、お祖師様へのお供えと言って大家に酒と鰻を出させしこたま飲んで酔っ払った。早く汲み取ってほしいとの大家の言葉に、酔っぱらったから大家が肥桶に汲み上げろといい出す始末。一杯になった肥桶を担いでよろめいて、つい「南無阿弥陀仏」と唱えてしまう。大家が血相変えて「お前は法華じゃないな」と詰め寄ると、「きたねえから念仏へ片づけた。」明治期の落語速記本「百花園」(明治二十七年七月二十日刊・十三巻 百二十六号)、四代目・橘家円喬日本書紀によると推古十四年(606)に聖徳太子が法華経を講じたとの記録があり、熱心な信者がいたことも想像できる。法華宗で用いる団扇太鼓を使った、「だんだん良くなる法華の太鼓」という言い回しがある。太鼓が「だんだん良く鳴る」と、物事が「段々良く成る」に掛けたもので物事が徐々によい方に向かっていくという意味である。円形の枠に1枚の皮を張った太鼓で、胴が付いていない。形状が団扇に似ているため、団扇太鼓と呼ばれる。バチで叩くと大きさの割に、残響のある太い音がする。大勢で、題目を唱えながら打ち鳴らすことが多い法具である。
2018年01月10日

正月飾りにはナンテンやセンリョウなど、赤い実の成る花木が縁起が良いとされて飾られる。ナンテンは「難転」でセンリョウは景気よく「千両」のごろ合わせから、縁起を担いだものである。どちらも秋口から実が赤く色付いてくるが、正月以外には花材として用いられているのをあまり見かけない。ナンテンは語感が「難転」に通じることから、特に好まれる植物である。難の対義語は易だが、「難を転じて福となす」と続けて縁起を担いだものである。ナンテンを、鬼門または裏鬼門に植えると縁起が良いなどという俗信がある。福寿草とセットで植えて、「難を転じて福となす」ともいわれる。また江戸の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられたのだという。中国では紅事といって赤を縁起色としており、そんな風習が日本にも伝わったものであろう。また実の赤い色には厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになった。便所の横には「南天手水」といって、葉で手を清めるために植えられた。ナンテンに含まれるアルカロイドは、古くから漢方や民間療法で咳嗽や喘息に用いられてきた。動物・植物・鉱物の全体やその一部に、乾燥などの簡単な加工を施して「くすり」として用いられるようにしたものが生薬と言われる。生薬は漢方薬の原料や民間薬として、または成分を抽出して医薬品原料にもされる。日本薬局方十六版では、276 品目の生薬が収載されている。センブリやゲンノショウコなどを植物性生薬、ジャコウ・ゴオウなどは動物性生薬、石膏・硫黄などが鉱物性生薬である。薬効を期待して使われる植物は、薬草といわれる。南天実にはドメスチン・イソコリジンが含有され、日本薬局方外生薬として「生薬及び漢方処方に基づく医薬品」に位置付けられている。果実は赤い色が一般的で、秋から冬にかけて果実が赤く熟す。僅かながら白実のナンテンも栽培されていて実が白い種類は、シロナンテンと呼ばれている。花材には赤実のナンテンの方が引き立つので、植栽されているほとんどは赤実ナンテンである。シロナンテンの果実の方により多くの薬効があると信じられているが根拠はなく、どちらも含有量は同じとされている。古くから、赤飯にナンテンの葉を添える習慣がある。葉に含有されるナンジニンから発生するシアン化水素に、防腐作用があるとの説を唱える人もある。青酸化合物は劇毒物だがほんの微量のため、人体には全く安全で毒作用を表わすことは無いと説明されている。ただ防腐のために葉を乗せるのであれば、赤飯は腐敗するほど何日間も保管はしないのでほとんど無意味と思われる。また譬え微量であっても猛毒のシアン化水素を、食品の防腐に用いることはあり得ない。防腐のためというのはこじつけで、赤飯は「ハレ」の日の食べ物だからむしろ「難転」の意味あいが強い習慣かと思われる。ナンテンには、ドメスチンやイソコリジンなどのアルカロイドが含まれている。これらの物質は知覚神経や抹消運動神経を麻痺させ、心臓の運動を抑制する作用が確認されている。(国立国際医療センター薬剤部医薬品情報管理室・編) ナンテンの実に含有されるアルカロイドには咳止めの効能があることから、民間療法では咳嗽や喘息に用いられる。ナンテン葉から抽出された「トラニラスト」は、抗アレルギー薬(リザベン)として利用されている。ナンテンは漢名で、「南天燭」あるいは「南天竹」と呼ばれていた。これが日本へ伝わって、燭と竹が省略されて「ナンテン」になったのだという。南天燭の「燭」は南天の実が「ともし火」の形をして赤いところから、また南天竹の「竹」は株立ちが竹に似ているからこう呼ばれるようになったのだという。これが訛って地方によっては、ナルテン・ナッテン・ナピテンと呼ばれることもある。通常は直径2cmほどにしか成長しないが太く育ったナンテンの幹を床柱として使うことがあり、鹿苑寺(金閣寺)の茶室・柴又帝釈天の大客殿に使われている。また房総半島仁右衛門島の平野仁右衛門家には、1704年(宝永元年)に建て直したものと伝わる南天の床縁がある。葉は南天葉(なんてんよう)という生薬で、健胃・解熱・鎮咳などの作用がある。鎮咳作用のあるドメスチンは、多量に摂取すると知覚や運動神経の麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また近年の研究でナンジニンには、気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった。実のドメスチンと葉のナンジニンは有毒成分に分類されており、ドメスチンでは知覚・運動神経麻痺、ナンジニンでは大脳・呼吸中枢の興奮からマヒを起こすとされる。(日本中毒情報センター)
2017年12月25日

カリンはリンゴ・ナシ・桜などと同じバラ科の植物で、漢字では花梨と書き別名では安蘭樹(あんらんじゅ)とも呼ばれる。医聖とも伝わる永田徳本(1513年) は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した異端の医師である。甲州で葡萄栽培などについて指導したことから、「甲斐の徳本」などとも呼ばれた。徳本が諏訪地方に入った時、この地方でカリンの栽培方や改良について指導したと伝わっている。その際地元の人から、「あれはカリンでなく、マルメロだ」と正された。これを聴いた徳本は強弁して、「名前なんか、マルメロでもカリンでもいい。カリンのほうが響きがいい。重要なのは世間に、カリンの産地は諏訪に限るという評判を立てることなんだ」と教えたという。諏訪地方は全国でも有数のカリンの産地として知られるが、カリンの砂糖漬として売られているものはマルメロである。マルメロは、イランやトルキスタンあたりの中央アジアが原産地とされる。マルメロの幼果の表面には白色の細かな産毛がびっしりと生えているが、熟すに従って毛は落ちて無くなる。一方カリンは中国原産で、元禄時代に薬用として持ちこまれたとされている。春先淡紅色の5弁の花を枝先に咲かせ、梨状の果実は晩秋に黄熟して脂粉の香にも似た怪しげな芳香を放つ。果肉は石細胞が多いため非常に堅くて、渋味と酸味が強いので生食はできない。カリン酒・砂糖漬け・ジャムなどに加工して、食用にされる。果実酒は喉に良いとされ、咳止めや疲労回復目的で飲まれる。果実を良く洗浄して芯・種子・皮をそのまま8等分して、砂糖と共にホワイトリカーに漬ける。2ヶ月くらいで淡黄色になり、半年ほど熟成させてからが飲み頃である。生では食べられないが加熱することで柔らかくなるので、ジャムやゼリーとしても利用できる。果実には果糖・ビタミンC・リンゴ酸・クエン酸・タンニン・青酸配糖体アミグダリンなどを含有している。古くから民間療法では、喉の炎症を抑えるとして咳止め・痰切りなどに利用してきた。バラ科植物の種子に含まれるアミダグリンは、酵素分解を受けて強い毒性のシアン化水素 (青酸、HCN) を発生する。カリンの果実のアミダグリンは熟すとともに消失するとされているが、仁(種子)のアミダグリンは遅くまで残るとされ注意が必要である。局方でカリンのことを木瓜といい漢方の「鶏鳴散加茯苓」に処方され、脹脛の緊張・圧痛・下肢の倦怠感に使われる。中国では、酔い覚まし・痰切り・順気・下痢止めの効用があるとされている。日本原産で山野に自生するボケ(木瓜)は生薬の木瓜と紛らわしいが、クサボケと言われ果実はカリンの中国名木瓜から取って和木瓜とか草木瓜と呼ばれる。日本では主に民間薬として咳止め・痰・喘息に使われ、喉飴にも配合されている。落葉する頃になると完熟して、芳香が強くなる。かごに盛って室内に置くと、香りを楽しむことができる。我が家のカリンの木は20年以上も前に庭へ植えたものだが、枝を伸ばし放題にしていた頃には千個近くもの果実がついて処理するのに苦労した。5年ほど前に10mにも伸びた幹を7mほどもバッサリ切って、現在は3mほどに纏めた。当然果実が着くのも50個ほどに激減したが、代わりに一個900gもの巨大な実が成るようになった。以前は毎年焼酎漬け・砂糖煮・ジャムなどを作っていたのだが、あまり家族は好まないので10年以上も前に漬けた焼酎漬の瓶が何個も物置で眠ったままになっている。ここ数年は一切加工しないで欲しい人に分けて、残りはジャガイモの発芽抑制に利用したり室内に置いて妖艶な香りを楽しんでいる。以前従兄会で大石内蔵助が偽りの放蕩の限りを尽くしたと言われる有名な茶屋一力亭で、舞子・芸妓・地方などを呼んで一夕を過ごしたことがある。コンパニオン等の女性は近代的な香水の香を漂わせるが、舞子や芸妓の用いる脂粉の香はカリンの香りに似ているようだ。
2017年12月10日

梅干しや紅ショウガの着色に使われるのは、赤シソである。赤シソの主色素はシソニン・マロニルシソニンでアントシアニン系の色素に属し、酸性で赤色・中性で紫色・アルカリ性では青色を呈する。青梅のphは約2.8とされ強い酸性を示すため、梅漬けに使用すると赤く綺麗な梅漬けができる。春の七草のスズシロは大根で、スズナはカブのことである。スズナの語源には諸説あり、その形が鈴に似ているからあるいは矢の先に付ける鏑に似ているところからとの説がある。またスズナの別名カブの語源には、頭を意味する「かぶり」・根を意味する「株」・またはカブラの女房詞である「オカブ」が語源だとする複数の説がある。カブは漢字で、蕪と書き、カブナともいわれる。万葉集(巻16/3825)には、「あおな」を詠んだ歌がある。蕪は古くは葉の部分を食用にしていたと言われ、あおなの中に蕪も入っていたのではとも考えられる。食薦敷 蔓菁煮将来 梁尓 行騰懸而 息此公食薦を敷いて用意し 青菜を煮て持ってきましょう。 そこの梁に 行騰を懸けて 休んでいらっしゃるご主人さま。※ 行騰(むかばき)・蔓菁(あをな)・食薦(すごも)竹を編んで簀子のようにしたもの カブは痩せ地でもよく育つことから古代中国では、春に芽・夏には芯(葉)・秋には茎・冬には根を食べる野菜として重要だったという。 中国の軍師諸葛亮が進軍の先々でカブをつくらせ兵糧としたという逸話が残り、カブを「諸葛菜」と称することがある。痩せ地でもよく育つことから、蕪の栽培で助けられた農民が感謝を表わしたものだという。カブはアブラナ科でアフガニスタン原産のアジア系と、中近東から地中海沿岸原産のヨーロッパ系との2変種に分かれる。日本へは5000年も前縄文時代に中国から伝わり、持統天皇の時代(693年)には栽培を奨励したとの記録がる。千枚漬けにされる聖護院カブが有名であるが、その他に50種類以上もの品種があるという。大きさや色で区別した、大カブ・中カブ・小カブ・長カブの他色で区別して赤カブなどの呼称がある。赤カブには、抗酸化物質ポリフェノールの一種のアントシアニンが含まれている。こアントシアニン(anthocyanin)色素は赤色~青色系統の色で、その色調はpHで変化し酸性が強いほど良く発色する。科学的論文は見当たらないもののカブが含有するポリフェノールには、疲れ目の改善・視力向上・活性酸素の生成抑制・血液をきれいにし・血圧抑制効果があるという。近年アントシアニンの抗酸化作用が注目され紫イモや赤カブの、コレステロール低減作用やイソチオシアネートの抗菌性についての論文が出されている。肥大した球形の根を可食部として利用するが、この部分は発生学上胚軸(茎になる部分で、下端は幼根になる。)と呼ばれる部位で、本当の根はその下に伸びた髭状の部位で食用とせずに切り捨てる。胚軸及び根は多くの場合球形で白色だが、赤色で赤蕪と呼ばれるものもあり東日本に多いとされる。肺軸が大根のように長く伸びたものは、漬けものに使われる。葉には、カロテン・ビタミンC・食物繊維が豊富に含まれている。アブラナ科に共通する苦味や辛味はあるが、カブは甘味が強く寒い時期ほど甘味が強まる。赤カブ(二十日ダイコンの変種)・血カブ(食用ビート)・カブカンラン・カブタマナ(コールラビ)・スウェーデンカブ、カブハボタン、仙台カブ(ルタバガ)・カブナ(野沢菜)など根が太る類似の形態をもつ野菜に、「カブ」の名を冠することがある。大きな球形となる部位を食用とするほか、茎や葉などの地上部も青菜類と同様に利用されることがある。 肉質が固いため煮物や味噌汁・シチューの具材として利用が多いが、蕎麦の薬味として大根おろしの様に利用しているところもある。加熱すると柔らかくなるため、ダイコンのように煮込む料理には向かない。 日本料理ではフロフキきにも利用され浅漬け・糠漬け・千枚漬け(聖護院かぶら)・酸茎などの漬物に加工される。聖護院カブは京都の伝統的酢漬け食品で関東では好事家の間で、自家製千枚漬けが作られるようだがカブが大根のようには流通していないし作付もされていない。そのため自家製千枚漬けを作るには、自分で育てる他ない。関東一円では種子の入手も困難で、種苗店から取り寄せる以外にない。栽培は大根に比較して、若干難しいのではと思っている。70坪ほどの菜園の一部で何年か聖護院カブと赤カブの栽培に挑戦したのだが、発芽はするのに双葉から本場の時期に大量の害虫に食されて消えてしまうか、発育初期を越しても猿の被害に逢って結局収穫までには至らない。そのため十数年前から、南信州の実家で栽培してもらっている。今年も先日、聖護院カブと赤カブを収穫してきた。赤カブの漬けものは梅漬けの紫蘇と異なり、独特の赤色を鮮明に出すためには触媒として食酢の助けを借りなくてはならない。赤カブ1kgに対して、塩大さじ1+酢200ml+砂糖100g・出汁昆布10cm×5cm・鷹の爪3本・容器を用意する。(塩大さじ1+酢200ml+砂糖100g)を鍋に入れ、火にかけて溶かし漬け汁を用意する。赤カブはスライサーで、3mm厚程度の食べやすい厚さにスライスする。容器にスライスした赤カブをキッチリ詰め、1cmの短冊に切り分けた昆布・種を除いき細切した鷹の爪を置きながら、順番に詰める。詰め終わった上から漬け汁をかけ、軽く重石をする。そのままでは筋っぽくなってしまうので、赤い水が上がったら重石をとる。3~4日で赤く染まったカブを食べることができるが、漬けて一週間後位が最もおいしい。冷蔵庫で保存すれば2週間は、美味しく食べることができる。食べ終わった後の漬け汁は、美しい赤色をしている。家内はワイングラスで少しずつ飲んでいるが、抽出されたカブのアントシアニンに言われるほどの効能があるかどうか人体実験である。
2017年12月03日
社会規範に違背した者にはその罪を償い悔い改めさせるために、懲役・禁錮・拘留などの刑罰が課される。これらは受刑者の自由を剝奪する刑で、自由刑といわれる刑罰である。それらの刑罰を課す場所を刑務所というが、古い時代には監獄・獄・獄舎・獄屋・囚獄・人屋・牢・牢舎・籠舎・牢獄・牢櫃・籠櫃といわれることがあった。外国では13世紀ころから刑罰として自由を拘禁するために施設が用いられるようになったが、その当時は修道院などを一時的に使用する場合が多かった。未決囚や執行を待つ死刑囚などを拘禁する場所は、牢獄と呼ばれた。当時は拘禁の期間が比較的短かったことから、裁判所庁舎などの簡易的非衛生な施設が使われたという。16世紀ごろになって、現代の刑務所に相当する施設が出現したとされる。さらに下がって19世紀になると自由刑といわれる「懲役・禁錮・拘留」の自由の剥奪を内容とする刑罰が中心になり、各地で本格的な刑務所の建設が行われるようになっていった。主な刑務所の制度としては、独居拘禁制と共同拘禁制の2種類がある。アメリカでは前者が、ヨーロッパでは後者の制度が採用された。日本の古い形の刑務所は囚人の脱走防止を図ることを主として敷地の周囲が高い塀で囲まれているのが通例だが先進諸外国では、近代的な工場を持つもの・金網のフェンスのみのもの・ビルディング形式のものなど「監獄」を想像できない刑務所も誕生するようになっている。刑務所は罪の償いを行うべき場所であり、それが前提で運営されている。執行される刑は禁固刑・懲役刑・死刑などいわゆる自由刑といわれ身柄が拘束されるものに限定される。しかし社会復帰が可能と見込まれる者に対しては、そのための支援を行う機能も併せ持っている。刑務所を隠語で、「ムショ」という。ムショという言葉は刑務所の名称が現れる以前からあった言葉で、刑務所の「務所」から派生したものではない。監獄の名前が刑務所と置き換わったのは、1922年(大正11年)である。しかしそれより以前から「監獄」が、「ムショ」の隠語で呼ばれていた。刑務所の名前が使われるようになる以前の1915年(大正4年)に京都府警察部が発行した警察用語集に、「むしょ」は「むしよせば」が語源の隠語であるという記載がある。現在の刑務所の飯は米7麦3の混合だが、当時の監獄の飯は物相飯といわれ麦6米4の麦飯であった。そこから「六四(むし)よせば」となり、「ムショ」となったのだという。「むしよせば」については、江戸時代の牢屋が虫籠のようであったことから「虫寄場」と呼んだのだという説もある。明治41年の法律では監獄という言葉が規定されていたが、2007年(平成19年)に新たに制定された刑事収容施設法によって刑事施設に改められた。これにより長い間旧監獄法によって運用されてきたが、刑事施設の管理運営と被収容者等の処遇に関する事項は刑事収容施設法によって運用されることとなった。一般の刑務所では収容できない専門的医療行為を必要とする病気の受刑者を収容し、治療を行う刑務所は医療刑務所と呼ばれている。薬物やアルコール依存症、摂食障害の受刑者も収容対象とされている。医療刑務所は法務省矯正局が所管し、現在八王子市・岡崎市・堺市・北九州市の全国4か所に設置されている。八王子医療刑務所は法務省矯正局の東京矯正管区に属する刑務所で、「八刑」の通称で呼ばれている。この施設は1893年(明治26年)現在地に移転し、1981年(昭和56年)改修が完了したが改修してからでもすでに40年以上経過しており施設の老朽が進んでいる。刑務所は犯罪者を扱う施設であること、近年事例は全くないが脱獄などの不安や治安の悪化などが懸念されることから迷惑施設として地域住民による建設反対運動が行われることが多い。昭島市への移転新築計画についても、例外ではなかった。当該地が存在する昭島市は平成15年度に国から、5年以内に跡地利用計画を立てるよう求められた。その後平成19年度に法務局がセンターを建てたいと発表、昭島市長がこの受け入れを発表した。地域住民は建設反対運動を起こしたが、議会では反対が否決された。施設建設について地元了解が得られた法務省は立川基地跡地昭島地区土地区画整理事業として工事に着手した。法務局の事業計画は立川飛行場跡地の西側部分約12万平方メートルの敷地に、八王子医療刑務所・八王子少年鑑別所・矯正研修所など9施設を集約し「国際法務総合センター」とする案であった。構想発表から10年をこのほど、八王子医療刑務所移転部分の建設工事がほぼ完工した。それに伴い今月10~11日の2日間、施設見学会が行われた。建設反対運動は大いに盛り上がったが、完成した施設の内覧会に訪れた住民は僅かであった。八王子医療刑務所は高いコンクリートの塀で囲まれているが、新たな施設は金網のフェンスはあるものの広い庭はその内部まで見通せる開放感のある作りになっている。病人が収容者であることもあって、脱走の心配はないのであろう。医療刑務所施設には、成人・少年・少年非行対策センターを含めて800人が収容可能だという。八王子医療刑務所は収容定員が433人であったから、かなり大規模となり国内最大となる。 移転を契機に「医療刑務所」の名称も変わって、矯正医療センターになる予定である。公用開始は当初予定していた時期より遅れて、来年1月になる見通しだという。
2017年11月13日

柿の渋味はタンニンで、タンニンのタン(tan)は英語の「革を鞣す」という意味の言葉が由来である。タンニン (tannin) はタンパク質・アルカロイド・金属イオンと強く結合して難溶性の塩を形成する水溶性化合物の総称で、植物界に幅広く存在する。今ではそれらの成分を総称して、ポリフェノールと呼ばれることが多い。タンニンには、強い渋味がある。その渋味はタンニンが口中粘膜のタンパク質と結合して、タンパク変性が起こるためと言われている。このような変性作用は「収斂作用」と呼ばれるが、厳密には味覚よりタンパク変性によって生じる痛みや触覚に近い感覚とされており渋味は「収斂味」と呼ばれることもある。タンニンによる渋味を感じるためには、タンニンが唾液に溶けることが必要である。不溶性タンニンでは、渋味を感じなくなる。タンニンには粘液の分泌を抑える働きがあり、内服すればこの作用により止瀉作用や整腸作用が現われる。このためタンニンを含む植物の多くは、薬用植物とされているものが多い。タンニンには強力なタンパク質凝固作用があることから、清酒清澄剤や防腐剤などに利用されている。「渋」で最初に思い出すのは、渋柿であろう。その他の食物では、渋茶や栗の渋皮などがある。渋いという言葉は用いないが赤ワインにはタンニンが多く含まれていて、この渋味はワインの味に深みを与えている。ホップは一般に苦味成分といわれるが、渋味成分のタンニンも含有している。未熟バナナにも、強い渋味成分がある。渋さが代表的な果実の渋柿も、熟せばタンニンが不溶性に変わるため甘くなる。さらに渋柿を堅いまま熟柿にならないでも、甘く食べられるように渋さの素のタンニンを、人為的に不溶性タンニンに変化させ甘くする方法が考えられている。皮を剥いてから、吊るして干し柿にする。40℃~42℃の温湯に、12~24時間浸漬する。ポリエチレンの袋に柿とドライアイスが接触しないようにして入れ、密閉して3~4日置く。30~35度のアルコール類を渋柿のヘタ部分に着け、ポリ袋に詰めて5日~7日置く等の方法がある。残念ながら何れの方法でも渋抜きすると幾分果肉が軟化するため、堅い生のままの甘柿の食感は望めない。渋柿には「柿渋」と呼ばれる1~2パーセントもの可溶性タンニンが含まれており、強烈な渋味を示す。外形だけ見て甘柿と勘違いして齧り付き、その渋さに思わず吐き出した経験のある人も多いと思われる。童話「日本昔話」のさるかに合戦では、「…柿の実がおいしく熟すころにサルがやってきて「代わりに登って取ってやるよ。」と言い、柿の木に登ると自分だけ赤い柿を食べ始めました。登れず柿の木の下にいるカニには、まだ青くてかたい柿の実を投げつけました。」とある。ここで出てくるのは、甘柿であろう。柿は甘柿であっても青い中は渋柿と同じように渋いが、成熟し実の色が緑から柿色に変化する頃にはタンニンが不溶性に変化することから渋味を感じなくなる。渋さが余りにも強烈で、熟柿になる前の渋柿をそのまま食べる人はいない。サルも苦味を感じると見えて、赤く色づいた渋柿に群がって齧りつくが数口齧ってほとんど食べないまま樹下に落として行く。齧って傷ついた柿の実は数日間そうして置くと、急激に熟成が進んで柔らかくなり甘くなる。そのころを見計らって、サルの群れが現れて甘くなった柿を食べていく。キウイの堅い実は渋味ではなく強烈な酸味があり、果実を食い荒らすハクビシンやサルにとっても余りにも酸っぱいことから普通には食べない。山荘周辺のサルは10年以上前にはキウイの堅い実には手を着けなかったのだが、近頃は柿と同じように樹から捥いで少し齧り落として行くようになった。齧って落として置くと、数日で熟して酸味が抜けて甘くなる。すっかり学習したサルとハクビシンが、盛んにキウイにも手を出すようになった。今年は晩秋になって台風21号と22号が一週間隔でそれぞれ八王子市と房総沖を通過していった。21号は八王子市から百数十キロ離れた山梨県北部の山荘付近で、猛烈な風を吹かせたらしい。強風は昨年まで白州の爺やさんが耕作していたソフィア農場に植えられた、十数本の甲州百目柿の実を1/3も振るい落として行った。落下してそのままであった柿に、一週間後サルの大群が群がり貪って食べていた。石を投げて追い払ったのだが、畑の向こう端の土手に並んで人が立ち去るのを悠然と待っているサルと何時までも睨めっこしているわけにもゆかず、その場所を離れた途端柿の木の下に蝟集する様子が見えた。木に残った実も、この様子では早晩全てがサルの餌になってしまうことだろう。
2017年11月06日

漸く秋が深まるころ藪や林の辺縁の比較的高い位置に、蔓にぶら下がった直径5〜7cmの卵形の赤い実をが目に付くようになる。タマズサ(玉章・玉梓)・ツチウリ・キツネノマクラ・ヤマウリなど、多くの別名を持つカラスウリである。いつしかと 待つらむ妹に玉梓の 言だに告げず去にし君かも 万葉集(いつかえってくるのかと待っている妻にことづけもしないで、君はいってしまった。)通常カラスウリには、烏瓜の漢字を当てている。カラスが食べるから付けられた名前だともいわれるが、特にカラスが好んで食べるという観察の報告事例はないといわれ実際目にしたことは無い。一方ではカラスウリは、「唐朱瓜」と書くのが正しいとする説もある。唐朱は唐から伝来した朱墨のことでこの原料の鉱石が朱・赤色鶏卵状で、果実の色と形が似ているところから唐朱瓜の名前がついたという。また玉梓は「手紙・便りの美称」だがこれがカラスウリの別名とされるようになったのは、カラスウリの種子が結び文に似ているからとも言われる。日本の、本州・四国・九州に自生している。林や藪の辺縁の、比較的明るい場所の草木にからみついて成長する。キュウリは一本の株に雌花と雄花がつくが、カラスウリは雌雄異株のため結実には雄株と雌株が必要である。4月ころに、地中に残って越冬した塊根から発芽する。花期は夏で、7月〜9月の日没後に開花する。雄花は一か所に花芽を複数着け、数日間連続して開花する。雌花は1個の場合が多いが、複数着く場合もある。花弁は白色で主に5弁(4弁、6弁もある)で、やや後部に反り返り、縁部が無数の白く細いひも状になって伸び、直径7〜10cm程度の網あるいはレース状に広がる。普通は開花時間との関係で滅多にこの花を目にすることは無いが、注意深く観察すると真に優雅・繊細で美しく野に置くには勿体ないくらい可愛らしい。佳人薄命と言われる通り、薄暮に開いた花は翌朝日の出前には萎んでしまう。寺田虎彦はカラスウリの花を「小さな、かわいらしい、夏夜の妖精の握りこぶし…。」と表現している。虫媒花のカラスウリの送粉を助けるのは、長い口吻を持った夜行性の大型のスズメ蛾である。カラスウリの花筒は長いため、スズメガの長い口吻でなければ奥の蜜を吸うことができない。熟する前は緑色の表面に、縞瓜様の縦の線があり光沢がある。色づくころには、次第に縦線は消えてなくなる。この果肉は非常に苦く、人の食用には適さない。果実が朱色にならず、黄色に熟すものはキカラスウリと呼ばれる。花弁の先は糸状になり、長さは多様であるがカラスウリより太い。熟した果実の、果肉部分には甘みがある。カラスウリに似た塊根から出た蔓は枯れずに越冬を繰り返し木質化していく場合もあり、その場合新芽は木質化した蔓から出る。塊根は栝楼根(カロコン)という生薬で、解熱・止渇・消腫などの作用があり、柴胡桂乾姜湯・柴胡清肝湯などの漢方方剤として使われる塊根を潰し水で晒した後乾燥させたものは天花粉といい、古くは白粉の原料・汗疹予防・治療などに用いられた。民間療法ではカラスウリの根を煎じて喘息に用いたり、皹・霜焼の治療に果汁を塗布したりして用いた。「からすうりの花と蛾』寺田寅彦ことしは庭のからすうりがずいぶん勢いよく繁殖した。中庭の四つ目垣のばらにからみ、それからさらにつるを延ばして手近なさんごの木を侵略し、いつのまにかとうとう樹冠の全部を占領した。それでも飽き足らずに今度は垣の反対側のかえでまでも触手をのばしてわたりをつけた。そうしてそのつるの端は茂ったかえでの大小の枝の間から糸のように長くたれさがって、もう少しでその下の紅蜀葵の頭に届きそうである。この驚くべき征服欲は直径わずかに二三ミリメートルぐらいの細い茎を通じてどこまでもと空中に流れ出すのである。 毎日おびただしい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんなつぼんでいる。それが小さな、かわいらしい、夏夜の妖精の握りこぶしとでもいった格好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこのこぶしは堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと目を放していてやや薄暗くなりかけたころに見ると、もうすべての花は一ぺんに開ききっているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度にともると同じように、この植物のどこかに不思議なスウィッチがあって、それが光のかげんで自働的に作用して一度に花を開かせるのではないかと思われるようである。ある日の暮れ方、時計を手にして花の咲くのを待っていた。縁側で新聞が読めるか読めないかというくらいの明るさの時刻が開花時で、開き始めから開き終わりまでの時間の長さは五分と十分の間にある。つまり、十分前には一つも開いていなかったのが十分後にはことごとく満開しているのである。実に驚くべき現象である。花言葉 誠実 よき便り 男ぎらい「よき便り」は実のなかの黒褐色の種子の形が、結び文に似ていることに由来するといわれる。またタネの形状がカマキリの頭部や、打ち出の小槌に譬えられることもある。「男ぎらい」はこの花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことに因むといわれる。
2017年10月31日

黄葉して落葉する銀杏の葉を、「金色の ちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に」と鳥の姿に擬えたのは与謝野晶子である。(恋衣収載)晶子にもイチョウの葉が散る様子は、決して鳥の姿に見えたわけではないであろう。舞い落ちる葉を蝶に見立てるよりも、鳥の方がずっと詩情がある。イチョウは漢字で銀杏・公孫樹と書き表わされるが、葉が鴨の足に似ているところから鴨脚樹とも書く。イチョウの語源については定かでないが、中国で鴨脚をイアチァオ(yājiǎo)と発音することに由来するのではという説がある。 また銀杏ギンナンという名の由来は、中国の植物図鑑「紹興本草(1159年)」などに記載された唐読みのギン・アンが語源ではないかとされている。葉を見る限り幅広くて松や杉の葉のような形をしていないので、広葉樹にも見えるがむしろ針葉樹に近い不思議な樹である。イチョウは日本の至る所に植栽されているが、生きている化石としてレッドリストの絶滅危惧種に指定されている。雌雄異株の風媒花で、植物なのに精子を持つ樹木としても有名である。雄木が半径1km以内に存在すれば、受粉可能といわれる。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。授精した花粉は、雌花の胚珠端部の花粉室に数か月も保持される。胚珠はその間に、直径約2cm程度に肥大する。受精によって胚珠は成熟を開始し、11月頃に種子は熟成する。このころになると、果肉は軟化し臭気を発するようになる。この臭気の主成分は酪酸とヘプタン酸であり、この臭気はカルボン酸類に特有の臭いである。銀杏の並木で有名なのは、東京明治神宮外苑・大阪御堂筋・横浜日吉駅前・渋谷区千駄ヶ谷付近・甲州街道八王子市追分町などである。これらの並木の中には数本の割合で、雌木が混植されていることがある。比較的人や車の通りが多い場所では、落下した実が踏み潰されて異様な臭気の素となる。クルミなどを好んで食べるネズミは、ギンナンを食用にしないがアライグマは食べる。 イチョウの葉について昔から医薬効果があるとの説がありその検証が、国内外で広く行われている。一部には「イチョウ葉だけに含まれるテルペンラクトン類は、血液のスムーズな流れをサポートするなどさまざまなパワーを持つといわれています。」とあり、脳血管性認知症の予防と改善・加齢による記憶力、認知力の改善・末梢血管障害の改善・高血圧の調整・冷え症の改善・精神の安定・抗酸化作用・更年期障害の軽減・耳鳴り・めまいの改善に有効」とされるが現在のところ薬効については医学的に実証はされていない。ドイツではイチョウの成分が医薬品と認められているが、日本ではイチョウ葉は医薬品として認可されていない。むしろ生の葉は、摂取すべきでないとの説がある。雑誌などでイチョウ葉を用いた健康茶の作り方を紹介していることがあるが、こうして作ったお茶には多量のギンコール酸が含まれるとされるので勧められないとしている。 (国立健康・栄養研究所)ギンナンによる中毒も報告されており、特に10歳未満の小児では5~6個程度でも中毒を発症したとする記録がある。中毒発症のメカニズムは、ビタミンB6との関係があるといわれている。籠城の際の糧食にするため、清正が城内に多くのイチョウの樹を植えたとされている。そのため熊本城は、別名を銀杏城といわれる。ただ多くの武士の食料にするほどのギンナンが採れるのか、それほど大量に食べて中毒の心配がなかったのか首を傾げるところではある。今年は秋の季節が無いまま、すでに山野の木々は冬に向かう準備を始めた。たの木々に先駆けて街路樹のイチョウの木が、黄色に変化してきた。昭島市にある昭和記念公園の噴水の両側に植えられた、百本以上のイチョウも例外ではない。ただ多くのイチョウの名所と異なるのは、イチョウの木の四割近くが雌木であることである。ギンナンの形には、丸いのと稜のある実の二通りある。一説には稜のある実が雌だというが、必ずしもそうではなさそうである。人為的操作をしなければ確率からいえばギンナンを植えて雌雄になる確率は50パーセントだろうから、この公園では人為的な選別がされなかったのであろう。今年の多雨日照不足が影響したのか、ほぼ一本置きの木に小さなギンナンがぎっしり稔り既に落下した果実からは独特の臭いが立っている。公園内での草木果実の採取は禁じられているが、人目につかない場所では高齢の女性集団が手に持ったビニール袋に山盛りにギンナンを拾い集めている。こんな小粒な実では、鬼皮・渋皮をむくのに手間ばかりかかりそうである。
2017年10月26日

都会ではススキの株元まで、じっくりと観察する機会はなくなった。ススキが生えている市街地であっても、ススキの株を覗きこんで見て歩く人はあまり多くない。9月から10月にかけて、ススキの根元に寄生するナンバンギセルを見つけることがある。国営昭和記念公園を、先日訪れた。遊歩道脇の一株のススキに葉を持たない奇妙な花のナンバンギセルが群生していた。今では普通には使われなくなった名前だが、万葉集で「思ひ草」と詠まれたのがこれであるとされる。「思い草」という漠然とした名前の植物は、古くは竜胆・露草・女郎花などのうちのどれかだとする説があった。 道の辺の 尾花が下の思ひ草 今更さらに 何をか思はむ 万葉集巻10-2270(路傍のススキの陰の思い草ですのに、今さら何を思い迷うことがありましょうか。私はあなたを信じ、あなた一人を頼りに思っております。)この歌を根拠として、「思い草」がススキに寄生するナンバンギセルだとの説が採られるようになった。1600年代に、タバコがその喫煙具とともに日本へ伝来した。喫煙具は雁首と吸い口が、管の両端についていてキセルと言われた。キセルは、「管」を意味するカンボジア語の「khsier」が語源とされる。煙草もキセルも16世紀後半に伝来したものだが、ナンバンギセルは日本にあったもので渡来したものではない。日本では煙を通す管であることから、当て字で「煙管」と書いてキセルと読ませるようになった。植物のナンバンギセルという名前は漢字で「南蛮煙管」と書き、南蛮渡来のキセルの雁首に花の形が似ているとことが語源とされる。日本全土に分布するナンバンギセルは、ハマウツボ科に属する。この科の植物は例外があるものの、ほとんどが寄生植物であり独自では生育することができない。ハマウツボ科の寄生植物は日本にはナンバンギセルの他、ハマウツボなど数種が分布している。光同化を行わないため葉は退化して、鱗状の痕跡になっているものが多い。ナンバンギセルに良く似た形をしているが、色素を欠くので片栗粉を溶いたような半透明の白色をした花がある。その色姿から、ユウレイタケ(幽霊茸)の別名を持つ植物である。茸の名前がついても、キノコではなく、キノコに寄生する植物である。ユウレイタケはシャクジョウソウ科の多年草で和名をギンリョウソウ(銀竜草)といい、腐生植物として有名でもある。腐生という言葉は一般的にキノコなど菌類に対して使われる言葉で、生物死体などを分解して栄養とする生活形態をとるキノコなどの菌類に対して使われる言葉である。しかしギンリョウソウは種子植物なのだが葉緑素を欠くため、光合成能力を持たない。さらに自ら生物死体などを分解吸収する能力はないので、菌類に頼る他ない。そのため菌類に寄生して、栄養素を菌類経由で得て生活する。地上に、15cmほど茎を伸ばす。色素はなく全体が透けた白色だが、花が咲くと柱頭は紺色である。茎に付く多数の鱗片状のものは、葉である。ナンバンギセルもギンリョウソウも共に寄生植物で科属が全く異なる植物だが、単独で生存できないところや形までよく似ている。ナンバンギセルはススキの他、イネ・サトウキビなどイネ科植物やミョウガ・ギボウシ・ユッカなどの根にも寄生する。 寄主の根から栄養を吸収して生育するため、場合によっては寄主の生長が阻害され枯死することもある。 花の形は特異な面白い形であるが、それほど美しいと感じる花ではない。花が咲くまで姿が見えないので開花時期にいきなり生えてきたような感じがするが、生育期の茎は地中にあって宿主の養分を吸って生長する。花期に花柄を伸ばして、地上に出る。花柄の先端にある萼は、卵形に膨らみそこから淡い紅紫色の花を一輪俯きかげんに咲かせる。第二次世界大戦末期に悲劇の島沖縄渡嘉敷島で、米軍に追いつめられた0歳から95歳までの住民197人が昭和20 年3 月28 日地志布原の谷間で集団自決をした。囲いの門扉を開けて現場に入るとハブが出そうな湿った空気の立ちこめる茂みを下ったところに、暗い谷が口を開けていた。11月に慰霊碑を訪れ参拝したが谷への入り口左わきのススキの土手には、まるで自決した住民の生まれ変わりでもあるかのように大量のナンバンギセルが首をもたげて咲いていた。
2017年10月05日

動物園で飼育されていた動物が空襲によって逃げ出したら危険だということで、8月16日には新任の初代東京都長官大達茂雄から「戦時猛獣処分」の命令が出された。各動物園の職員たちは反対したが、上野動物園で飼育していた猛獣の処分は1943年9月1日14種27頭の処分が一応終了した。3頭のゾウについては毒餌を与えて処分することになり毒餌を与えても吐き出してしまい、目的を達することはできなかった。皮膚は堅く注射針が折れてしまい毒薬の注射も不可能であったため、水と食べ物を与えず絶食させて餓死するのを待ったという。ジョンは8月29日に、ワンリーは9月11日に、トンキーには日本に来てから新たに「花子」の名前が付けられていたが9月23日に餓死した。上野動物園の象舎の傍らに動物慰霊碑が建立され、70年以上経った現在も慰霊祭が継続されている。元タイ国軍事顧問で実業家のソムアン・サラサス氏が発起人となり、「戦争で傷ついた日本の子供たちの心を癒すため」に日本へゾウが送られてきた。終戦後初めて日本にやって来たこのゾウは、2016年まで69年もの長い間生き日本で飼育された中で最も長寿のゾウとなった。ゾウの寿命は60年ほどだから、長命であったといえる。このゾウにはカチャーという名前があったので上野動物園では「カチャー子」と呼ばれていたが、公募により「はな子」の名前が付けられた。名前の由来は戦争中に餓死させられた、「花子」をイメージしたものである。1950年から「はな子」とインドから贈られた「インディラ」の2頭は、移動動物園で日本各地を訪れた。その後武蔵野市や三鷹市から井の頭自然文化園での「はな子」の展示を求める声が上がった結果、1954年「はな子」は井の頭自然文化園に移された。井の頭自然文化園に移されて2年後の6月14日の早朝、ゾウ舎に無断で侵入した中年の男を踏み潰して死亡させる事故を起こした。この事件が、はな子の不幸の始まりでもあった。4年後には飼育員を踏み殺す事故を起こしたことから、「殺人ゾウ」として鎖につながれ来園者から石を投げられる事件も起きて環境の変化などさまざまなストレスを受けたためやせ細ってしまったという。新たに赴任した飼育員が懸命に看護した結果鎖を外し運動場へ出られるようになったが、2006年には飼育員を鼻で転倒させたり獣医師を投げ飛ばす等度重なる事故を起こすようになった。事故防止のため2011年に直接飼育から、飼育員が柵越しに世話をする間接的飼育に改められた。多くの子供に夢を与えたはな子は、2016年5月26日に、呼吸不全により死去した。解剖の結果衰弱して立ち上がることができず横臥したままであったため、2tを超える体重で肺が圧迫され続けたことにより呼吸不全を招いたのでないかと推定されている。遺体は、国立科学博物館に寄贈された。戦後の動乱期から平和の時代を70年近くも生き抜き、多くの日本人の心を和ませたはな子だが先代の花子に似て結末は悲しい最後であった。昭和52年11月30日に完全返還された旧米軍立川基地跡地の一角に、昭和天皇御在位50年を記念して整備された公園がある。広さ165.3haの面積を持つ、国営昭和記念公園である。米軍の基地運用が終わり順次返還され年月が経った今では、かなり大きくなった樹木が生い茂っている。園内の遊歩道から少し入ったところにある樹木の地際から2mほどにできた瘤が、見方によってははな子の悲しげな横顔に見えなくもない。自然が作った、造形である。
2017年10月02日

今年の8月は夏らしい暑さが連続せず、特に関東地方では40年振りに8月1日から21日まで雨の日が連続し記録を作った。菌類の発育・増殖の三大要素として温度・湿度・栄養が上げられるが、今年は8月の長雨がその条件を満たしたようである。8月のうちから其処此処に、多様なキノコが発生を始めた。キノコの王様はマツタケだが昭和16年には1万2千2百22tであった収穫量が、2013年では36tと驚くほど減ってしまった。マツタケも他の雑茸と同じように、今年は何年か振りの豊作になりそうだとの予想が出ている。キノコはその販売を生業としている人でもうっかりすると、毒茸を食用茸と間違えることがある。食用か毒茸か不明な場合には採取しないことが肝要であり、さらに毒茸は比較的種類が少ないのでその種類を覚えることで食中毒を回避することができる。一般に茸の形をしたシイタケやマツタケなど多くのキノコは、担子菌類に分類される。担子菌類のマツタケ目ハラタケ(原茸)科には有用食用茸が多いが、有毒キノコも多い。恐らく最大規模の大きさであろう白色のオオシロカラカサタケ(大白唐傘茸)も、ハラタケ科の有毒キノコである。オオシロカラカサタケは本来熱帯地方に産するキノコで、近年まで日本には存在していなかった。1980年以前の日本では、沖縄県・小笠原地方でしか見られなかったキノコである。本州でも35年前ころからオオシロカラカサタケの発生が確認されるようになった。日本列島へは東南アジや沖縄や小笠原からの、物流物資と共に入り込んだ可能性が高い。近年の温暖化により本州の気候が熱帯地方の気象環境に近づいて、本種キノコの発育可能な環境になったとも考えられている。オオシロカラカサタケの発生は西日本・東海地方に限局されていたが、1980年に大阪・1991年に千葉県・2010年には宮城県で発生が確認されている。オオシロカラカサタケは夏から秋にかけて、芝生や庭などの人工的な環境の草地に群生あるいは単独で発生する毒キノコである。傘の大きさは25cm以上にもなり表面は白いが、多くは傘の頂上には幼茸の名残の茶色の破片が残る。しかし中には茶色の剥片が取れてしまい、白い茸もある。傘を開く前の襞は白いが、成熟するにつれて灰緑色を呈する。20cmほどもある茎は白あるいは淡い汚褐色で、上部に二重の鍔を持つ。名前のとおり、白くて傘が大きい。発生したときは壺型の表面は茶色をしているが、成長と共に茶色の皮を落として白色になり傘を開く。内部も白色だが、傷つけると茶色に変化し腐臭を放つようになる。同属のドクカラカサタケは成熟すると襞がオリーブ色になるが、本種は変色しない。オオシロカラカサタケの有毒成分として、モリブドフィリシンやステロイド類(細胞毒)などが同定されている。強毒性茸に属し、ごく少量でも摂食後1~3時間で腹痛・下痢・嘔吐などの消化系の症状を引き起こす。一部の中毒者には、幻覚症状が現れたといわれる。胃腸症状に続いて、発熱・悪寒・頭痛・痙攣が起こる。平成元年~22年に、14件27名の中毒者が記録されている。これはハラタケ科による中毒例では、最も多い数である。一番新しい事例では本年8月20日に名古屋市港区の公園でバーベキューをしていた30代の男性3人が、公園に生えていたオオシロカラカサタケを採取し焼いて食べたという。喫食後、嘔吐・下痢などの食中毒症状を発症し2名は救急搬送され入院した。愛知県三河三谷の海岸通りの芝生の中に、真っ白なバレーボールより大きめの茸を見つけてその特徴から直ぐオオシロカラカサタケと分かった。子供のころから山に入って多くの茸を見てきたが、オオシロカラカサタケを実際に見たのは初めてであった。この茸を見ても食指を動かされることはなかったが、一見巨大な白いマッシュルームに見えなくも無かった。例年キンモクセイが咲くころに南信州の実家の山へマツタケ狩りに行くのだが、今年は9月初旬からマツタケ発生のニュースもあり大いに期待されるところだ。毒茸のオオシロカラカサタケはその植性から、山林に発生することはないため今まで見ることがなかったのであろう。
2017年09月29日

海紅豆 海紅豆 デイゴ沖縄を5月ころに訪れると街路樹として植栽された3mほどのほとんど葉の無いデイゴと呼ばれる樹木が、真っ赤な穂状花を枝の先に多数咲かせているのを目にする。デイゴ(梯梧)はマメ科の落葉木で、独特な形の蝶形花を見ればマメ科であることがはっきり分かる。20年前に比べると木や花の数が、極端に少なくなったような感じがする。デイゴヒメコバチがデイゴ属の若い葉や茎に産卵し、孵化した幼虫が虫癭(虫こぶ)を作る。花の減少や樹木の枯死は、デイゴヒメコバチの寄生が要因であるとされている。デイゴとカタカナで表記するといかにも欧米から渡来した名前かと勘違いするが、実は漢名表記の「梯梧」をデイゴと音読みして和名にしたものである。デイゴは、学名の「ユリスリナ」で呼ばれる場合もある。ユリスリナとは、ギリシア語で赤を意味している。沖縄を歌った反戦歌は多いが心に染みる哀調が万人に受け入れられた「島歌」でも、デイゴの花が歌われている。♪でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来たでいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来たくり返す悲しみは 島渡る波のようウージの森であなたと出会いウージの下で千代にさよなら島唄よ 風に乗り鳥とともに 海を渡れ島唄よ 風に乗り届けておくれ 私の涙昔からでデイゴの花は、台風など大きな災いを呼ぶといわれてきた。この歌詞にある風と嵐は、米軍の侵攻と爆撃を意味しているという。デイゴの花に隠された伝承を知らないと、島歌の歌詞の意味を理解できない。デイゴは根本や根からも芽を吹きそのため屋敷内に植えると家の土台を持ちあげて家を壊わす(やしきこーさー)と言われ、一般的には庭木として植栽されない。インドやマレー半島が原産で、沖縄県が北限とされ沖縄の県花に指定されている。本花と同属で似た花を咲かせる、アメリカデイゴと呼ばれる花木がある。アメリカデイゴという名前はデイゴと花が似ていて、デイゴが東南アジア原産であるのに対して南アメリカ原産であるところから単に頭にアメリカと付けたものである。しかもほとんどの人は知らないが別名は、今流行のダジャレクイズに似て海を渡ってきた紅色の豆の意味から海紅豆(かいこうず)とつけられている。海紅豆とデイゴを同じ植物の別名と混同している場合があるが、別種であり海紅豆の原産地は南アメリカである。デイゴの北限は沖縄だが、アメリカデイゴは比較的寒さに抵抗力があり成木では零度以上あれば路地植えで冬を越すことが可能で都心では庭植えにされることもある。こちらは花ではなくなぜか木が、鹿児島県の県木に指定されている。樹高はデイゴより大きくなり高さ8mになる落葉木で、江戸末期に南アメリカから渡来した。新梢の枝先に、50~70cmの長さもある花序に深紅色で長さ5cmもある穂状花序の蝶形花を咲かせる。デイゴは初夏だけに花を咲かせるが、カイコウズは初夏から秋までの長期間咲き続ける。沖縄のデイゴは剪定されないが公園や海岸沿いに植栽された海紅豆は、今年伸びた新梢の枝元から綺麗に切り落とされているのを見かける。花は春に芽吹いた新梢の先に着くので、丸坊主にしても翌年もまた花を見ることができる。狭隘な庭には不向きだが、増やす場合は新梢を挿し木すれば簡単に発根する。10月末ころ落葉してから30cmほどに切断して、ビニール袋に密閉して庭に埋めて置く。3月に入ってから鉢土に挿して、保温と防霜のためビニール袋を被せ乾燥しないように管理すれば、五月には発根する。かつてのバブル時代には賑わったであろう三河三谷温泉は、大きなホテルに人影も疎らでかつての熱海温泉の盛衰を見るようである。宿泊した巨大なホテルは、剥きだしの鉄筋が赤く錆ついて補修は最早不可能なほど劣化が進んでいた。そのホテルの眼下の海岸通りに数日前に来襲した台風に傷めつけられた数本の海紅豆が、最後の花を咲かせていた。 花言葉 夢 童心
2017年09月26日

トウガラシ・コショウ・カラシは世界三大香辛料とされ、主役にはなりえないが料理にとってなくてはならない名脇役である。日本には鷹の爪(タカノツメ)と呼ばれる、トウガラシの代表的品種がある。上向きに実を付けるのが、特徴である。トウガラシはカプサイシンというアルカロイド物質を含有し、これが辛味を感じさせる成分である。カプサイシンとは、トウガラシ属の学名Capsicum から採られた名称である。トウガラシに多く含まれるカプサイシンは食欲増進や血行促進、発汗作用による脂肪燃焼効果などがあるとされている。また殺菌・防虫効果もあり、古くから薬用・防虫の目的でも使われている。米の中に入れておくと防虫効果を発揮するほか、金魚や熱帯魚などの観賞魚が罹患する病気の1つである白点病の初期~中期段階までの症状に効果があるとされる。メキシコあるいはアンデス地方が原産とされているトウガラシは、トマトやジャガイモと同じナス科に属する。トウガラシは「唐辛子」であり「唐=外国」の意味であって、我が国への伝播経路が中国を経由したという事実はない。かつて日本には50種類以上の唐辛子があって盛んに輸出されていたが、出入逆転して現在は輸入の方が多くなっている。料理や漬物の薬味として幅広く使われており、そば屋には七味唐辛子や一味唐辛子が必ず置かれている。沖縄にはキダチトウガラシを泡盛に漬けた「コーレーグス」が、沖縄ソバの香辛料として使われる。幅広く使われる香辛料だが国民一人当たりの消費量としては、それほど多いものでは無い。タカノツメといわれる我が国の代表的トウガラシは、全長6cmほどの大きさで先が尖ってやや曲がった紡錘形をしている。この果実の形から猛禽類の鷹の爪を連想し、鷹の爪の名前が付けられたとされる。ただ今年我が家で栽培したタカノツメは、鷹の爪状に曲がらず真っすぐなものがほとんどである。完熟すると、鮮やかな赤色に変わる。赤くなった果実は乾燥させて丸のまま、あるいは輪切りや粉末にして香辛料として使う。粉末にした鷹の爪は、一味唐辛子と呼ばれる。芥子・陳皮(乾燥した温州ミカンの皮)・胡麻・山椒・麻の実・紫蘇・海苔・生姜などを加えて調合したものは七味唐辛子と呼ばれる。種子が非常に辛いと言われるが、実際に辛いのは種子を包むワタの「胎座」と呼ばれる部分である。生の鷹の爪から胎座を取り除いた種子や果肉には、辛いと感じるほど多量のカプサイシンは含有されていない。しかし乾燥させると、乾燥の過程で辛味成分が胎座から種子や果実に移行するので全体に辛みがまわる。唐辛子の辛さは「スコヴィル値」で表わし、辛さが強いほどこのスコヴィル値が高く辛さが強いことを示す。タカノツメのスコヴィル値はおよそ40,000~50,000だが、超激辛唐辛子として有名なハバネロのスコヴィル値は100,000~350,000で如何に辛いかが想像できる。因みに世界一辛い唐辛子キャロライナ・リーパーはスコヴィル値3,000,000といわれ、目に入ると失明の危険があるという。2013年に世界で最も辛い唐辛子として認定され、ギネスブックに載った。タカノツメは開花後1か月ほどすると、青い未熟な実ができる。4~5cmほどの大きさになったら収穫し、柚子胡椒やトウガラシ味噌を作る。開花後2か月ほどで実が赤く色づいたら、収穫する。収穫方法には株を丸ごと引き抜くか、色付いたものから一つずつ順次摘み取るかの二通りの方法がある。株ごと引き抜いた場合は逆さにして雨や夜露に当たらない場所に吊るし、実がカラカラになるまで天日干しする。摘み取って収穫したものは笊や網に入れて、風通しが良く夜露に当たらない場所で表面にシワができ振ってカラカラと音がするようになるまで乾燥させる。乾燥させた実は密封容器に乾燥材と一緒に入れ、保管する。関西の種苗店から取り寄せたタカノツメの種を、3月彼岸前から育苗箱に蒔いて育て晩霜の心配が無くなった5月10日に定植した。今年の5月から6月は少雨・強風で、夏野菜の苗の多くが捩れ風に吹き飛ばされて枯死した。それでも10数本が生き残り、8月頃から急激に成長してきた。青柚子の皮と未熟なタカノツメに塩を加えて煎った柚子胡椒はあまり使わないので、採取した青トウガラシの全てで唐辛子味噌を作ってみた。以前青唐辛子を包丁で縦に割って素手で種を取り除いたことがあったのだが、手が燃えるように痛くなりその手で顔を触ったため目が開けられないほど痛くなったことがある。無粋な話だが、トイレで用足しするにも難儀した。今年は種を取り除かず、丸のままフードプロセッサにかける方法を選んだ。流石に文明の利器だけのことはあって、ほとんど手や目に痛みを感じることは無かった。唐辛子味噌の作り方は至極簡単でフードプロセッサで粉砕した青実のタカノツメと信州味噌の等量に、味醂と砂糖をそれぞれタカノツメの1/3量、胡麻油を適量加え弱火で煮詰めて完成である。ご飯のおかずやおにぎりの具としても利用でき、食欲が進む。瓶に詰めて冷蔵保存すれば、一年間は保存可能である。先日アメリカからラインで、完成品の唐辛子味噌を欲しいと連絡があった。
2017年09月14日

7月初め 9月現在里芋は最初に植えた親芋の周りに子芋・孫芋、場合によっては曾孫芋が発生する。このようにイモが付くことから、子孫繁栄の象徴とされ正月のお節料理には欠かせない食材となっている。里芋の旬は秋から冬の期間だが乾燥させないことと低温に当てないようにすれば、収穫から翌年4月位までの長期貯蔵が可能である。ただ収穫直後は簡単に剥くことができた皮が月日の経過とともに堅くなり、包丁で剥かないと擦ったくらいでは剥けなくなる。一般的に流通しているサトイモの多くは、「土垂」という品種である。粘質で、ねっとりとして旨いが、粘り気を嫌い粉質の八つ頭を好む人もいる。山野に自生していた芋はヤマイモと呼ばれ、里で栽培されることからサトイモという名が付けられたとされている。サトイモの栽培品種には、2倍体のものと 3倍体のものがある。2倍体品種は開花し着果するが、同じテンナンショウ属のウラシマソウやマムシグサの種子に比較してかなり小さい。サトイモは熱帯アジアの主食とされているタロイモ類のうちでは、北限が最も北の地域で栽培されている。栽培は比較的容易であり、湿潤な土壌で日当たり良く温暖であれば特に土質も選ばず栽培可能である。一般に畑で育てるが奄美諸島以南では、水田で育てる。湛水状態で育てた場合、畑で育てるより収穫量が2.5倍も多くなるとされる。日本への伝播はイネよりも早く、縄文後期には伝わっていたと考えられている蓮葉はかくこそもあれ おきまろが いえなるものは 宇毛之葉にあらし(長意吉麻呂)「蓮の葉は、このような葉の事をいうのだろう。我が家にあるものは、どうもサトイモの葉のようだ」※古語ではイモは「宇毛」と言われていた。…万葉集 巻16-3826和名抄(平安時代 辞典)には里芋が葉柄とともに食用になることが記されており、「延喜式」にはサトイモの栽培方法が記載されている。江戸時代までは「いも」といえば里芋を指していたが、甘藷や馬鈴薯などが新たに伝わるとイモは里芋だけを指す言葉ではなくなった。この三種のイモは、それぞれ植え付け方法が異なる。サツマイモは親イモからふいた蔓を切り取って土に挿して、ジャガイモはイモを切り分けて植える。サトイモの場合は傷が付くと腐敗するので病菌に侵されていなくて、傷の無いイモそのものを植え付ける。煮物の材料として極一般的な存在で、芋煮会・芋焚きの主食材である。澱粉が主成分で、低カロリーで食物繊維も豊富である。独特の「ぬめり」は、マンナン・ガラクタンで、マンナンは便秘予防・ムチン様物質には消化促進・ガラクタンには免疫力向上作用があるとされる。ある種のタンパク質が結合したシュウ酸の針状結晶が多数あるため、強烈なエグ味と渋味があり生食は不可能である。加熱でタンパク質が変性して、エグ味と渋味は無くなる。古くから親しまれてきた身近な作物であり、身近な食品でもあるため各地にさまざまな伝説が残っている。田子の木集落には葱・葦草・里芋・胡麻・蓮等を植えてはならないことと、井戸を掘ってはいけない・天窓を設けてはいけないという七つの忌事がある。昔、田子の木集落にある栗の大木の洞の中で、呻き声を上げている病気の山伏を見つけて家に連れ帰り看病した。全快した山伏が村を去るお礼に村に悪病が入らないために、七つの禁物を示した。山伏の言いつけを守ったところ悪病が入って来なかったことから、今もこの七つの戒を守っているという。 (仙北郡北協和村上淀川 蓮西寺発行)西馬音内では里芋畠の芋にすべって転んだため里芋を植えなかったといわれている。(雄勝郡羽後町教育委員会)千屋字大屋敷の某家に旅の僧が来て畑の里芋を分けて欲しいと言ったが、家婦は家の芋は石芋なので煮ても焼いても食べられないと言って追い返した。里芋を収穫したところ、石芋になっていて食べることができなかった。翌年以降もまた石芋になってしまったという。僧は弘法大師であったと伝わっている。(仙北郡北協和村上淀川 蓮西寺)目久尻川の流れで芋を洗っている老婆に、通り掛かった弘法大師が「サトイモを恵んでほし」と言ったのに対して、「これは水芋だから食えないよ」と言って見向きもしなかった。 その晩煮た里芋は本当の水芋で、固くて食べることができなかった。その時、捨てた残りの芋が水辺に自生するようになったのが亀島の水芋だと言い伝わっている。(海老名市)弘法大師が一軒の裕福そうな家の前を通りかかるとその家の軒下には、収穫したばかりの里芋が山のように積まれていた。 軒先にいた若者に、「これは、美味しそうな里芋ですね。一つ、わけて頂けませんか?」と訊ねると若者は、 「これは、里芋ではない。石だ。石だから、食べられないよ」 それを聞いた大師様は、「石なら、仕方がありません」こう言い残して立ち去りました。弘法大師が立ち去ったあと里芋はすべて石に変わっていたのでした。(室戸岬にある24番札所最御崎寺) 沓掛温泉は温泉尻で冬季でも水温が高いという好条件に恵まれて、縄文時代からの野生サトイモが絶えることなく今に生き残っており、青木村では野生里芋を石芋又は弘法芋の名前で呼んでいる。昔、旅で沓掛村を訪れた弘法大師が、川で美味しそうな里芋を洗っているお婆さんに出会いました。お腹を空かしていた弘法大師がお婆さんに「2、3個恵んでください」と頼んだところ、お婆さんは「この里芋は、石のようにかたくて食べられない」と断わりました。 お婆さんが家に帰り夕食に食べようとしたところ、里芋は本当の石のようにかたくなり食べることができなくなっていました。それからこの里芋は石芋・弘法芋とも呼ばれています。(小県郡青木村)サトイモの栽培には、土地の乾燥が何よりも影響する。7月から8月の成長期に日照りが続くと、成長が止まったりときには葉茎が茶色に変色し枯死してしまうこともある。今年の関東地方は7月に夏の太陽が数日出たが、8月は連日降雨が続いて日照時間は平年の4割以下しかなかった。日照不足によって、キュウリやトマト・ナスなどの夏野菜の出来が悪かったという。しかしこんな天候が逆に幸いして、今年はどこの畑でも株が大きくなったサトイモの茎葉が青々と大きく育っている。我が家ではサトイモ栽培を20年以上続けているが菜園に植えた63株のサトイモの株と茎葉が、今までにない大きさに成長している。茎は2m近くになり、葉の大きさは大人が両手で作った輪より巨大である。恐らく10月末の収穫期には曾孫芋までが着いて大豊作になり、あちこちから芋煮鍋の話題が聞こえてくるのであろう。
2017年09月12日

鰻の蒲焼は日本の食文化の中で、寿司と同じくらい知名度の高い食べ物である。「蒲焼」の語源については諸説あるが、「蒲の穂」に由来するという説が最も説得力がある。今の蒲焼の調理方法が確立する以前の鰻は丸のままブッ切りにして縦に串刺しにし、醤油と酒で調味し焼いていたと伝わっている。この焼き上がった状態が、蒲の穂に似ていたことが蒲焼の語源由来と説明されている。現在のように割いて骨を抜きタレを付けて焼く調理法は、1700年代の江戸中期になって確立されたといわれる。江戸が開発された当時大量に捕獲できた鰻を、屋台で安く労働者に提供したのが蒲焼が庶民の間に広まった始まりとされる。同じ割き方で焼いても醤油タレをつけないものは、白焼と呼ばれている。長野県との県境に位置する山梨県北杜市に、うなぎ専門料理店「井筒屋」がある。90年の歳月を経た、趣のある古い建物である。この店舗は1927に建築され「井筒屋」の名前で和菓子店を営んいたのだが、戦争のため廃業したのだという。東京には古くは江戸・安永年間から100年以上も続く鰻老舗の名店が、10指以上存在する。今ネット上で人気沸騰中の小淵沢うなぎ「井筒屋」は、菓子店当時の屋号をそのままに1996に「鰻屋」として再出発し漸く21年を経過したところである。鰻屋で開店前3~40分前に30人以上も並ぶ店は、山梨県内には恐らくこの井筒屋以外にはないのではないかと思われる。「丁寧な仕事と確かな味」だとして、人気が高い。国産うなぎを使っていて店頭にその日の産地表示がされるが、実際のところ産地によってどのように味が異なるのかその差を明確には説明できない。ウナギ(鰻)は、世界中の熱帯から温帯にかけて分布する。ニホンウナギ・オオウナギ・ヨーロッパウナギ・アメリカウナギなど世界で19種類が確認されているが、そのうち食用とされるのはニホンウナギ・ヨーロッパウナギ・ビカーナ種・ロストラータ種・タスマニアウナギの5種類である。日本では主としてニホンウナギが、蒲焼や鰻丼などに用いられている。日本では奈良時代の「万葉集」にすでに「武奈伎」とあるが、これがウナギの古称である。平安時代末の11世紀後半から鎌倉幕府成立期以降には、ムナギが「ウナギ」となり定着した。うなぎの語源にも、諸説ある。天然ウナギの胸の色が黄色いところから、「胸黄(むなぎ)」と呼ばれていたものが、やがて鰻に変化したという説があり一番もっともらしい。江戸小咄の「薬缶」には、「鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀→うなんぎ→うなぎ」とある。一方落語ではウナギを食べる習慣がなかった頃の話として、小料理屋でウナギ料理を出したところ美味だったので「お内儀もうひとつくれ、おないぎ→おなぎ→うなぎ」になったというのもある。平賀源内の丑の日と鰻の話は巷間に広く流布されているが、源内の活躍した1700年よりずっと以前の万葉の時代にすでに大伴家持が夏バテに鰻を捕って食べるように勧める歌を詠んでいる。痩人をあざける歌二首石麻呂に 吾もの申す夏やせに よしといふ物そむなぎ取り食せ(3853)痩す痩すも 生けらば在らむをはたやはた むなぎを捕ると川に流るな(3854)今年の6月井筒屋の主人が大けがで入院したことから、帳場が手薄になったことと一年の間で最も鰻の需要が増える時期とが重なった上余りにも店の名前が有名になったこともあって夏休みの間は井筒屋の予約を取ることが不可能であった。8月末になって漸く電話が通じて、席の予約ができた。井筒屋は同じ市内にあって山荘からは24kmの距離で、20分ほどあれば行くことができる。11時の開店前には外の縁台に、30人ほどが並んだ。20台ほど入る駐車場には、関東地方のナンバーを付けた車が多く入っていた。隣で並んでいた若い夫婦は、子供を学校に出してから鰻を食べるだけを目的に小金井から飛ばして来たと話していた。幸い予約してあったので2番目に名前を呼ばれたが、注文を取ってから割き・焼くためにさらに40分ほど待たされる。キンキンに冷えた竹筒に入った「筒酒」の冷酒を楽しみながら、焼き上がりを待つ時間はそれほど長く感じられなかった。店頭には席に付いてからの待ち時間が待てない人と、騒ぐ子供の入店を控えてくださいとの看板があった。待ち1時間40分で食事は30分、それでも家内はまた来たいと言っていた。
2017年09月07日

マンゴー(檬果・芒果)は、ウルシ科に属する果樹である。死語に近いが、別名に菴羅(あんら)または菴摩羅(あんまら)がある。マンゴーはすでに4000年以上前からインドで栽培が始まったとされており、仏教経典に「聖なる樹」としてその名が見られる。ヒンドゥー教では、万物を支配する神の化身がマンゴーだといわれている。原産地はインド~インドシナ半島周辺とされ、現在インド・メキシコ・フィリピン・タイ・オーストラリア・台湾が主な生産国である。日本での栽培は、沖縄県・宮崎県・鹿児島県・和歌山県・熊本県が主産地である。品種改良もあって世界では、500以上もの品種が栽培されるようになっている。マンゴーは常緑高木の果樹で自然放置の場合、樹高は40メートル以上に達する。枝の先端に、薄黄色の複総状花序を多数付ける。マンゴーの花は、強烈な腐敗臭を放つ。フルーツの王様といわれるドリアンは果実そのものが強烈な腐臭を発し、インドネシアやシンガポールの店頭で山積みされたドリアンにはキンバエがたかっている。虫媒花のマンゴーだが栽培地沖縄では年間を通じて気温が高く、受粉を助けるミツバチの飼育が困難である。したがって、この臭気に集まるクロバエ科のキンバエを利用している。ハエはミツバチと異なり集団営巣生活をしないため、バケツなどの容器に魚の腸などのアラを入れたものをマンゴー栽培ハウスの裾に30cm四方ほどの開口部を設け入れて置くだけでよい。魚の腐臭に引き寄せられたハエは、ハウスの中に入るとマンゴーの花を渡り歩いて受粉に寄与する。果実は系統によって、長さ大きさ・形に大きな違いがある。果皮は緑色・黄色・桃紅色など種類によって様々だが、果肉は何れも黄色から橙紅色で多汁である。キウイのように未熟果は強い酸味があって食べることができないが、完熟すると濃厚な甘みに変わり独得の芳香を発するようになる。マンゴーはウルシに似たかぶれを、引き起こすことがある。ウルシのかふれは樹液に含まれるウルシオールが原因となるが、マンゴーのかぶれは果実や果皮に含まれるマンゴールによる。マンゴーを食べてから1~2日後に口唇・手指や頬・耳などに水泡や紅斑や丘疹などの症状が出現し、ときには胸部・陰部・頸部・喉の周囲が痒くなる場合もある。ごく稀にアナフィラキシーショックや、気管支喘息の発作を起こす場合もあるので注意が必要である。稀にこんな症状を現すマンゴーだが、食品アレルギー表示27品目の中には入っていない。普通はマンゴーと聞くと、赤くて卵型をしたアップルマンゴーが思い浮かぶ。沖縄には県民でさえもなかなか口に入らない、「幻のマンゴー」の名前で呼ばれることもある緑色をした2kgもの大きさになるキーツマンゴーKeitt mangoがある。キーツマンゴーの生産者は非常に少なく、生産地の沖縄でも入手困難であるため「幻のマンゴー」と呼ばれる。 幻のマンゴーだから、その実物を目にしたことのある人は極めて少ない。 アップルマンゴーの3~4個分もの大さがあり、皮が緑色なのが特徴である。追熟しなければ食べられないが、追熟してもほとんど緑色なのでアップルマンゴーを見なれた人には甘くなさそうに見える。実際には完熟のキーツマンゴーはアップルマンゴーより繊維質が少ない分、濃厚なプリンのような舌触りがあって甘味が強い。 アップルマンゴーが終わる時期の、8月から 9月の半月ほどが旬である。 国内生産マンゴーの9割以上はアップルマンゴーでキーツマンゴーは沖縄県以外に流通していないため、手に入れるには収穫時期に予約して通販によって求める以外に方法はない。キーツマンゴーの栽培は比較的容易とされるが、1本の木からの収量が少ないためあまり栽培されず生産量も少ない。アップルマンゴーは一つずつ網を掛け、熟して網の中へ落下したものを収穫する。キーツマンゴーは枝から収穫し、2週間ほど日光を避けて室温で追熟しないと食べられない。追熟しても果皮はほぼ緑色のままなので、食べ頃の見極めが難しい果実とされる。追熟が進むと収穫したばかりのキーツマンゴーに付着しているブルーム(果皮表面の白い粉状の蝋物質)がなくなり、表面につやが出マンゴー独特の甘い香りが強くなる。さらに果実がしっとりとして、柔らかくなれば食べごろである。今年は沖縄の学友から8月始めにアップルマンゴーが、さらに9月に入ってすぐ完熟キーツマンゴーが冷蔵便で送られてきた。沖縄県に住んでいてもなかなか口に入らない貴重なマンゴーを、ありがたくご馳走になった。送料まで入れると一個5000円にもなる1kgほどもある大きさのマンゴーのため、家内と二人ではマンゴーだけで満腹となってしまった。マンゴーをゲップが出るほど食べてみたいという人もいるが、文字とおりでマンゴーで満腹とはまことに勿体ないほどの贅沢さではある。
2017年09月03日

太陽系には、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星の8つの惑星が存在する。我々の世代は中学の理科の時間に冥王星を加えて記憶させられたが、2006年に冥王星は純惑星に格下げされた。地上から視認できた木星は、古代から知られ馴染み深い星であった。古代バビロニアでは、木星は神マルドゥクと同一視されていた。英語では木星を、ジュピター (Jupiter) と呼ぶ。ジュピターの語源は、ローマ神話の神、ユーピテルである。イギリスの作曲家ホルストは、太陽系惑星を主題にした大管弦楽のための組曲「惑星」を作曲した。この組曲は地球を除く7つの楽章から構成されており、それぞれにローマ神話の神の名が付けられて副題が付いている。火星は、戦争をもたらす者。金星は、平和をもたらす者。水星は、翼のある使者。土星は、老いをもたらす者。天王星は、魔術師。海王星は、神秘主義者で木星は、快楽をもたらすものである。「木星」の第4主題は、ホルスト自身によって管弦楽付きコラールに改作編曲された。イギリスでは愛国賛歌として、「我は汝に誓う、我が祖国よ」の歌詞で広く歌われているのでそのメロディーを聞いたことのある人は多い。さらに平原綾香 のデビュー曲「Jupiter」は、第4主題に新たな歌詞が付けられたもので2003年にリリースされ大ヒットしたので一層この第4主題が知られることとなった。木星の黄道に沿った公転周期がほぼ12年であることから、木星の天空の位置によって年を指し示すことが考案された。中国の戦国時代の中ごろになって木星は、十二支を司る最も尊い星の意味で「歳星」と呼ばれるようになった。地球上から見ると木星は、太陽・月・金星に続いて4番目に明るく見える天体である。しかし、時に火星が木星よりも明るく見える場合がある。これは、太陽と木星と地球の相対的な位置が関係し、木星が太陽との衝にあるときは−2.9等級、合にあるときには−1.6等級と明るさが移り変わるためと説明されている。木星と土星はガスを主成分とする惑星で、巨大ガス惑星と呼ばれる。木星は発熱する惑星であり、太陽から受ける熱量の二倍もの熱を放射しているとされる。そのため木星は年間 2 cm づつ縮んでいて、誕生時の木星は現在よりも2倍程度の大きさがあったと考えられている。8月25日は月齢4の細い月と木星が接近したので、多くの人が晩夏の宵の空を眺めたに相違ない。山荘の日中の空は相変わらずの雷雲が掛って、観天には不向きと思われた。ところが午後7時前から西の空の雲が取れて甲斐駒ケ岳が夕闇に浮き上がり、細い三日月の左に小さな光る星が観測できた。記憶にないが公転周期がほぼ12年であるから、12年前にも同じ時刻に同じ様に月と木星が並んだに違いない。当日はおとめ座の星スピカを加えた3天体の共演が予告されていたのだが、残念ながらこちらは確認できなかった。26日は大曲の花火大会で、BS103で実況中継がされた。その中継画面では月齢5の三日月と木星ならぬ豪華な花火とが共演していた。甲斐駒ケ岳の上にはうす雲の間から時折テレビの画像と同じ月が覗いたが、当然のことながら木星の姿は見えなかった。次回の月と木星との接近は、9月22日だという。秋の空は今よりもっと澄んでおり、天気さえよければより鮮明な天体ショーが楽しめると思われる。
2017年08月28日

左エンマコオロギ 右オカメコオロギ (標準原色図鑑全集)40年振りとされる連続降雨で夏が無いまま秋になるのかと思っていたが、22日を過ぎたころから猛烈な残暑がぶり返した。異常気象にも関わらず鳴く秋の虫も季節を忘れずに月遅れのお盆を過ぎたころから、庭の植木の下で盛んに虫の鳴く声が聞こえるようになった。童謡「虫のこえ」では、 ♪あれ松虫が 鳴いているちんちろ ちんちろ ちんちろりんと歌っている。この歌の歌詞に出てくる鳴く虫の名前は松虫の他、鈴虫・こおろぎ・くつわ虫・馬おいである。この他にも鳴く虫には、ヤブキリ・コロギス・カンタンなどがいる。今の時期夕方から日の出直後まで、「リッリッリッ、リッリッリッリッ」と盛んに鳴いているのはオカメコオロギである。エンマコオロギ・ミツカドコオロギ・オカメコオロギ・ツヅレサセコオロギなどが日本にいるコオロギの代表的な種類として挙げられるコオロギはほとんどの種が雑食で、植物質の他にも小動物の死骸などを食べる。小さな昆虫を捕食する。動物性の餌を食べない期間が長く続いたような場合には、脱皮中で動けない同種個体を共食いすることもある。女性で丸顔・鼻が低くて丸く、小さいで頭で額が広く・頬が丸く豊かに張り出した女性の仮面をオカメの面といい、このような特徴要望をした女性もまたオカメという。オカメは、お亀・阿亀と書く。別にお多福・阿多福の呼び方もあり文楽人形では同じ容貌をお福、狂言面では乙御前とか乙といわれる。オカメの冠を貰ったオカメコオロギは、雄の顔面が切断されたように平たくその面が下後方に傾いている。顔面の輪郭は、丸に近い。これらの特異な顔の特徴から名前がついたもので、漢字では阿亀蟋蟀と書く。オカメコオロギは、オオオカメ・ハラオカメ・タンボオカメ・モリオカメ・ネッタイオカメなど生息地で5種に分類されている。ハラオカメコオロギは生息分布地が原っぱであるところから、ハラオカメコオロギと呼ばれる。体長は13mm内外とエンマコオロギ25mm~30mmに比べて小型で、本州・四国・九州・南西諸島に分布している。雄の顔面が特異な形状をしているミツカドコオロギも、この仲間である。ハラオカメコオロギは農耕地や空地草地などに出現し、8~10月に「リッ・リッ・リッ・リッ・リッ…」とミツカドコオロギより弱くゆっくりしたテンポで鳴く。モリオカメコオロギの鳴き方とよく似ているため、慣れないと区別がつかない。鳴き声はモリオカメと同様に、「リッ・リッ・リッ…」と繰り返す。昼間は茂みに潜んでいて、夜に餌を探す。羽化したばかりの個体にはすでに後羽が付いており、この羽を使って良く飛ぶ。都市に近い低地から山地まで、明るい草原や枯れ草の集まった場所で多く見られる。身近に見られるものは、ほとんどハラオカメコオロギだといわれる。「少し強い音」・「少しはやい感じの鳴き方」などで区別するというが、単独で一種類の声を聞いても区別をつけ難い。虫の中で最も大きな音をだすと思われるセミは、羽で腹を擦るとき出る摩擦音と発音膜という音を出す器官を震わせて出した音を共鳴室で大きくしている。コオロギ類の出す音を虫の声というが、実際には右側の羽の裏にあるギザギザと左側の羽の尖がった部分を擦ることで音を出している。したがって実際には声ではなく、羽の摩擦音なのである。
2017年08月25日

今の時期山間部をドライブすると、真っ白に咲いた草花の群れを目にする。この植物の名前は、センニンソウである。花の時期はひどく目立つが、この時期を過ぎると周りの緑に同化してこの場所に白い花を咲かせた植物が存在していたことも分からなくなってしまう。この時期の花だけを見ていても、名前の由来はわからない。センニンソウ(仙人草)は、キンポウゲ科の多年草である。同じ仲間のクレマチスはクレマチス属に独立分類することもあるが、センニンソウ属とする場合が多い。属の名称になったセンニンソウ(仙人草)は、日本各地の日当りの良い山野に見られる。蔓植物で節ごとに卵形の葉を対生し、葉の表面に白い模様を出すことがある。葉柄が他の植物の枝や葉に絡み付き、巻き上がる。8~9月に茎の先端付近の葉腋から三出状の散房花序を出し、多数のキンモクセイに近い芳香のある白い花をつける。花弁に見えるのは4枚の萼片で、花弁は持たない。4枚の顎片は、十字型に開く。花は群生して咲き、遠くからもセンニンソウであることがよくわかる。花後の果実には白い毛を有しており、これを仙人のヒゲに見立て仙人草と名が付いたのだという。有毒なので、取り扱いには注意を要するセンニンソウ属は日本に20種以上があり、クレマチスと呼ばれて栽培される外国種も同属である。センニンソウとよく似た花を咲かせるものに、ボタンヅルがある。ボタンヅルの葉は卵形ではなく三出複葉で、ボタンに似た鋸歯の多い葉をつけるので見分けがつく。キンポウゲ科の植物は有毒のものが多く、センニンソウも毒草に分類されている。草食動物は本能的に、本種を食べない。中国で生薬の威霊仙(イレイセン)といわれるのはボタンヅルの根を乾燥したものだが、同属のセンニンソウや園芸用に栽培される中国原産のテッセンの根は「和威霊仙」の名前で生薬とされている。中国漢方では威霊仙は煎じて服用して神経痛やリューマチなどの痛み止めに用いるが日本では服用としては利用されず、外用のみが民間療法で用いられている。葉茎に薬用成分ポロトアネモニンを含有しており、皮膚に触れると発赤や水泡を生じる。誤って口中に入ると、下痢・嘔吐などの食中毒を発症する。扁桃炎の治療法として夏から秋にかけて葉茎を採取して、生のままで用いる、民間療法がある。生葉をよく揉み手首の内側に貼り着けて、軽い痛みを感じるようになるまで放置する。発赤~水泡が生じるころには、扁桃炎の痛みが寛解するという。神経痛やリューマチなどにも患部に生の葉を貼付するという民間療法があるが、効果・効能については実証されていない。リンネの植物分類法を最初に採り入れ草木図説を出版した江戸時代の医家で本草学者の飯沼慾斎(いいぬま よくさい、1782年7月19日~1865年6月27日)が、センニンソウを用いた扁桃炎の治療法について述べている。シャープテレビの亀山モデルと同じ三重県亀山の出身で、蘭学を修めた後大垣で蘭方医を開業し名声を博した。岐阜県大垣市俵町に、慾斎の銅像がある。飯沼慾斎の全20部に及ぶ「草木図説」の木部は、死後120年たった昭和52年(1977年)に漸く刊行された。この「草木図説・木部巻6」に、「原野ニ多キ蔓草ニシテ、衆ヨク通知シ、往々以テ外伝シ泡ヲ発シテ諸患ヲ治スコトアルモノナリ・・・・・」というセンニンソウの記述がある。 キンポウゲ科の植物はアルカロイドを含有していて生薬としても利用されるが、センニンソウは毒草に分類されている。センニンソウには馬食わずとか、牛の歯零れ(ウシノハコボレ)の方言がある。ウシノハコボレの異名は牛が他の草に混ざったセンニンソウを食べると歯が抜け落ちてしまうからだというが、そんなことはあり得ないと思われる。そんな強い毒を持つ草なのに、「安全・無事・あふれるばかりの善意」などの矛盾した花言葉がある。同属のクレマチスを素手で取り扱っても発赤や水泡ができたとの話はそれほど聞かないことから、センニンソウを触っても驚くほどの毒性を現わすことはなさそうである。
2017年08月20日

南信州の妹から、段ボール一杯のプルーンが送られてきた。5kgを超える量では、とても全てを生食で消費することは不可能である。多量に手に入った果実は何でもジャムにして保存することにしており、今回は初めてだがプルーンジャムを作って保存することにした。プルーンはスモモの近縁種、セイヨウスモモの改良種だという。セイヨウスモモはコーカサス地方が原産地とされ、古代ローマ時代から食べられていたという。プルーンはフランスで普及し、アメリカ大陸発見後になってアメリカに伝えられた。アメリカでのプルーンの栽培が盛んになったのは、1800年代中期以降になってからとされる。現在のカリフォルニアプルーンは、フランス人がカリフォルニアに移植したセイヨウスモモの苗木から品種改良したものだという。日本へは明治時代に伝わったが収穫期の多湿・多雨の日本の気候に合わなくて、なかなか定着しなかった。プルーンは雨に弱く成熟期に雨に当たると裂果したり、かび病などに罹りやすいため栽培が難しかったことも原因とされている。70年ほど前まではかなり酸っぱい小振りなスモモ、ちょっと大きめのハタンキョウ(巴旦杏)や牡丹杏(ボタンキョウ)しか無かった。プルーンはハタンキョウや牡丹杏より少し大きめの果実で鈴なりに成り、濃い紫色をした実である。日本産の多くは生食に回されるが米国産のプルーンは、ドライフルーツや半生状のドライフルーツ・プルーンシロップに加工されたものが輸入されている。国内では比較的雨の少ない長野県で、およそ6割が栽培されている。カルフォルニアではプルーンを、「命の果実」とか「ミラクルフルーツ」といわれているという。テレビなどで加工商品が、貧血予防・高血圧予防・動脈硬化予防・脳梗塞予防・心筋梗塞予防・疲労回復・便秘改善に効くと宣伝されていることもあり今では多くの人が文字とおりミラクルフルーツのようにそれを信じ思い込んでいる。さまざまな媒体では「プルーンには、他の果物に比べると格段に多くの栄養素が含まれていて滋養・強壮に効く。また他の果実と比較して鉄分が多く、ビタミンとともに貧血予防となり豊富なカリウムは高血圧の予防になる。 手術前後は低タンパク血症・貧血を伴い食欲不振になりがちなので、消化吸収のよいプルーンを食べることで体力回復には最適である。特にドライプルーンは葉酸やポリフェノールを効率よく摂れるので、貧血や生活習慣病の予防などにおすすめです。」などと記載されていて、プルーンに薬事法に抵触しそうな薬効に関する文句が並べられている。日本食品標準成分表によるとプルーン100g中に、水分30.92g・熱量49Kカロリー・炭水化物12.6g・食物繊維1.9g・糖類38.13g・Fe0.2mg・мg7mg・K220mg・βカロテン480μgなどとなっている。鉄分ではイチジク・キウイ・バナナなどの0.3mgと比べても少なくカロテンは多いが、含有栄養素を比較して見た場合特に突出して多く含有しているわけではなく極平均的な果物だといえる。プルーンには鉄分が豊富であると宣伝されそう信じられているが、実際には喧伝されているほど多く含有されてはいない。茹でたほうれん草(100gあたり0.9mg)よりも多いが、日本食品標準成分表に掲載されている他の果物と比較すると最下位クラスであり干しアンズや干しぶどうの半分にも満たない。プルーンはまだ固く未熟な場合は室温で追熟させ、乾燥しないようビニールの袋に入れて冷蔵庫で保存する。完熟プルーンは水洗いしてから皮のまま保存袋などに入れて、冷凍で保存することが可能である。冷凍したプルーンは、凍ったまま水に晒すと皮が綺麗に剥ける。沢山手に入った場合は、ジャムに加工した方が場所を取らないうえ長期に保存も利く。プルーン500gに対し砂糖150g、レモン果汁2分の1個を目安とする。先ず洗ったプルーンを縦に半分に切り、種を除く。次に切ったプルーンを琺瑯引またはステンレス製の鍋に入れたら、分量の砂糖をまぶして1時間ほど放置し浸透圧で果汁液が浸出してくるのを待つ。レモン汁を加え中火で焦げ付かないように掻き回しながら凡そ、1時間ほど煮詰める。途中で味を見で、甘さが足らなければ、砂糖を加える。シャモジに付いた液汁が全体にトロッとして、ポタリポタリと垂れるようになればプルーンジャムの完成である。今回は2kgのプルーンで6本の瓶に、赤色のジャムができた。プレーンヨーグルトに乗せて食べると、色合いもきれいである。
2017年08月09日

シクラメンは、葉芽1に対して花芽も1本発生する。日本におけるシクラメンの発育開花適温は15度から20度とされており、開花時期は10月25 ~ 翌年 4月20頃に掛けて秋から春に花が咲く。温度が高い場合花茎が伸びすぎて倒れたり、全体的にぐったりとして萎れることがある。球根は茎が肥大したもので、分球しない。この種の球根は表皮がコルク状で、乾燥にはよく耐える。球根が、地上に露出した状態を好む。元々鉢物は病院見舞いには不向きとされるが、シクラメンの呼び名には「死」と「苦」が付くことから病気見舞い花としては忌み嫌う人もある。地中海沿岸地方が原産地とされ、我が国へは明治末期に渡来したと伝わっている。 シクラメン原産地は雨季と乾季のある地域で雨季に花を咲かせ、乾季は球根だけとなって乾燥に耐える。湿度が極端に高い日本では夏に腐ってしまうことが多く、年間出荷鉢数が2000万を超えるというが、そのほとんどは夏越しができず昨年購入された鉢のほとんどは一年草の扱いで処分されてしまう。ただ上手に夏を越すことができれば、購入したものより見栄えは悪くなるが花を咲かせることが可能である。シクラメンは花が咲き終わり気温が高くなると、自然に休眠したり休眠に近い状態となり成長を休止する。夏越しをさせるには強制休眠をさせる方法と、休眠させない方法がある。 休眠させる方法が簡単で手間がかからず夏越しの確率は高いが、それでも夏越し成功の確率は50%程度といわれる。6月以降は水も肥料もやらず、日陰の涼しいところで管理する。休眠させた塊茎は、8月下旬~9月中旬までに土はあまり落とさないように注意して新しい用土に植え替える。 マニュアル本には休眠させない場合の水やりは花のある時期と同じように行い、夏の日差しは強すぎて葉焼を起こすので夏は50パーセント遮光の半日陰で管理するとある。昨年の12月に貰った大株のシクラメンが、5月になっても勢いを失わず次々と咲いた。今年の梅雨入り前の6月下旬の関東は少雨カンカン照りで、30度を超える日が何日も続いた。シクラメンも流石に暑さに脱帽したのか、新たな蕾を上げてくることは無くなった。今年は休眠させない夏越しに挑戦しようと給水をそれまで通りに腰水で行って、午前中太陽の直射が当たる鉢棚に置いて管理してきた。8月に入って新葉の間から次々と蕾が上がってきて、真夏日の昨日今日だが両手の指に余るくらいの花が咲いている。シクラメンの夏越しの常識を破るできごとだが真夏の太陽の下で見るより、やはり寒い冬に室内で見る方がこの花には合っているような気がする。
2017年08月06日

火災報知機 火災報知器住宅火災による死者数の急増から消防法が16年6月改正され、既存住宅についても寝室・階段・台所の3か所への住宅用火災報知器の設置が義務付けられた。(神奈川県・平成23年6月から)当然のことながら住宅用火災警報器は火災を未然に防ぐことを目的にしたものではなく、逃げ遅れて死亡しないように小火のうちに火災の発生を知らせるための小型器機である。住宅火災による死亡者は平成17年1220人で、平成26年は1006名となっている。この数字を見る限り火災報知器設置義務後の住宅火災による死亡者が、年間200人以上も減っている。単純に考えれば火災報知機の設置は、大きな効果があるといえるのだろう。火災を逸早く知らせるための器機には、公共施設や会社などに付けられているものと個人住宅など小規模建物に付けられるものとがある。前者は非常ベルと消防署への自動通報などとを兼ね備えた機能を持ち「火災報知機」とよび、後者はほとんどが電池式で煙か熱を感知してブザー音を発する機器で火災報知機とは区別して「火災報知器」と呼ばれる。公共施設や大規模施などの防火施設としては、火災報知機の他に防火扉や空調ダクトや換気ダクト内に設置される防火ダンパー(羽根状の扉や板状の扉)がある。 先月29日の午前零時頃寝静まった夜の静寂のなかに、突然大音響の火災報知機のベル音が鳴り響いた。9階建て集合住宅が立ち並ぶ自宅から300mほど離れた場所の、9~11階建て都市住宅公団の何れかの建物が発生源であったと思われる。10数分して消防自動車数台がサイレンの音を響かせながら、団地方向へ駆けつけて行った。暫らくすると報知機のベルが鳴りやんで、やがて消防車のサイレンも聞こえなくなった。所が数分でまたけたたましいベル音が5~6秒鳴っては止まる繰り返しが、10分以上続いた。火災でもないのに報知機器をうっかり鳴らしてしまったことが、今までに2回ある。現役時代都の出先機関の事務所が新築されてすぐ、三宅島から届いたクサヤを湯沸かし場のガスコンロで焼いたことがある。当然換気扇は回したのだが立つ煙を排煙仕切れなくて、濛々と立つ煙に煙探知機が反応して火災報知機が鳴り響いた。火災報知機の操作盤は事務所の隅の壁面に設置されていたのだが、落ちたダンバーの遮蔽板を戻さないとベルの音は止まらない構造になっているので操作盤のスイッチで非常ベルの音を止めて再セットの操作を行ってもベルは鳴り止まなかった。とりあえず操作盤の電源を切って消防署へ電話で誤作動であることの連絡を取ったのだが、火災報知機作動の際は現場確認の義務があるとのことで消防署員が駆け付けて来て天井裏に入って遮蔽板を復旧してくれたことがあった。またカナダのバンフでロッジに滞在した時には9月であったのに夜間摂氏10度を下回る寒さで、暖を取るため室内に設置された暖炉に薪を入れて火を付けたことがある。ところが一向に煙を吸いこまず、室内に逆流して部屋に煙が充満してしまった。突然天井に取り付けられた非常ベルが、大音響で鳴り響いたのには心底驚かされた。窓を全開して煙を追い出してもベルは鳴りやまず、ロフトの手すりによじ登って天井に設置されている煙感知器を外して音を止めたことがある。先夜の火災報知機の発報は翌日ネットで市の広報など見ても、何も触れられていなかったことから誤発報であったに違いない。真夏の夜は窓を開けて寝る家も多く、火災でもないのに真夜中に響く大音量の非常ベルの音を迷惑に感じた人もいたに違いない。このような器機では点検していても誤作動が多く、面倒なので作動しないようにスイッチを切ってしまうことがある。譬え誤作動があったとしても、機器を停止したままにするなどは言語道断である。またこれらの機器は日ごろしっかり点検をしておかないと、「狼少年」になるなどの弊害を生み折角の機器が何の役にも立たないものになってしまう。イギリスでは高層集合住宅が全焼して、多くの人が犠牲となった。わが国でも、高層集合住宅の火災が多い。誤発報で発せられた高音のベル音には腹が立つが、今回の深夜の非常ベルが本当の火災で無かったことは何はともあれ良かった。
2017年08月02日
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