asahi.com:道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ(2007年3月30日)
「政府の教育再生会議は29日の学校再生分科会(第1分科会)で、「道徳の時間」を国語や算数などと同じ「教科」に格上げし、「徳育」(仮称)とするよう提言する方針を決めた。「教科」になれば、児童・生徒の「道徳心」が通信簿など成績評価の対象になる可能性があるうえ、教材も副読本でなく教科書としての扱いとなって文部科学省の検定の対象となりうる。ただ、反対論も予想され、再生会議での議論は過熱しそうだ。」
asahi.com:道徳の教科化、文科相が慎重姿勢示す(2007年03月30日)
「伊吹氏は再生会議の1次報告を受け、中教審で審議した教育関連3法案の例を示し、「再生会議はいいことを言っているが、現実の流れや国会の論戦とかを考え、中教審でどうするかを議論して、今回も3法案を国会へ出した」と説明。教科にすべきか否かについて「突き詰めていくと、価値観というか、その人の思いのようなものになる。それによって評定をするのがいいかわるいか、ということまでさかのぼる」と慎重な姿勢をとった。 」
私は、もともと「道徳」の時間の必要性について懐疑的です。
また、伊吹文科相のことを支持しませんし、中央教育審議会も支持できませんけど、
この二つのasahi.comのニュースを読んで、
この点だけは、文科省と中教審にがんばってほしいと思いました。
というか、ここくらい踏ん張って「抵抗」しきって下さい!と心から思います。
もちろん、現行の学習指導要領についても全面賛成というわけではありませんが、
「国を愛する」心を育てる・・つもりならば、
「徳育」(仮称)の教科化は、「心を育てる」どころか
「心を潰してしまう」契機になりかねない、と思いませんか?
形だけの「抵抗」ではなくて、本気で政治生命をかけて、
国家百年の計である「教育」を、
目先の人気とりとか、選挙対策ごときの目的で
にわか議論でいじっていくことに「抵抗」して欲しいです。
「徳育」(仮称)として、教科に「格上げ」して何が変わるのか。
メディア・リテラシーの教育は確かに必要だし、
「奉仕活動」・・自分達の活動が誰かの役にたって感謝してもらえる体験・・なども、
それ自体があって悪いことではない。
でも、「徳」を教科にして「教える」ということの意味は、
むしろ、「徳」を「知」「情報」として処理・消費していくことを学んでしまうことに
なるのではないか・・・そんな風に考えるのです。
先生方にとっては負担が増えるばかりだと思うし、
生徒たちは、目先の効く子だったら、
内申書が悪くならないように、
良い点数が取れるように、
うまく立ち回ることを覚えていくでしょう。
「徳」がその材料になるというのはおかしいと思います。
テキストに書かれている「あるべき徳」をテストで、
あるいはなんらかの発表の形でなぞること・・
場合によっては「『心にもない言葉』を書いておけば先生が喜ぶ」ことを学び、
まさに、オーウェルの「1984」に書かれた「ダブル・シンク(二重思考)」を
トレーニングしていくわけです。
すでに、2002年から文科省が作成・配布した 心のノート
を「活用」した「道徳の時間」を参観したときに、中学校の生徒たちは、先生の問いかけに自分の言葉ではなくて、「心のノート」に書いてある言葉を「正解」として捉え、印刷されている言葉を自分の記入する欄にあらためて書き込んでいく様子が見受けられました。
「正解」を当てることが適応していく上で必要なこと、という刷り込みを、
すでに、私たち親世代が持ってしまっていますから、この問題はとても根が深いと思います。
私自身の考え方は、またおいおいまとめていきたいと考えていますが、
とりあえず、今晩は、以前の日記、
せっかくだから原著を読もうよ・・「君たちはどう生きるか」
でご紹介した、
岩波文庫版「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)の
「解説」・・丸山真男先生の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」から、
再度引用して問題提起に替えます。以前にご紹介したものより長い抜粋です。
特に、青字にした部分にご注目ください。
天降り的に「命題」を教え込んで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのでなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何気なく見ている平凡な事柄を手がかりにして思索を推し進めてゆく、という教育法は、いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されて来たやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、果たしてどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。 むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれてきたものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。
いまや悪名高い、学習塾から始まる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加速されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。 そうして、こういう「知識」―実はここの情報にすぎないもの―のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起こし、その是正が「道徳教育の振興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、―そのイデオロギー的内容をぬきにしても―あの、私たちの年配のものが「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
私は、こういう奇妙な意味での「知育」に対置される「道徳教育」の必要を高唱する人々にも、また、「進歩的」な陣営のなかにまだ往々見受けられる、右と反対の意味での一種の科学主義的オプティミズム―客観的な科学法則や歴史法則を教えこめば、それがすなわち道徳教育にもなるというような直線的な考え方―の人々にも、是非『君たちは・・』をあらためて熟読していただきたい、と思います。 戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの「小国民文庫」の一冊のなかに先取りされているからです。
この丸山真男先生の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」は、
雑誌「世界」1981年8月号で、作者・吉野源三郎先生の追悼特集号に掲載されたものです。
文章が書かれてから、すでに25年以上経過していますが、
語られている「道徳教育」についての問題提起は、現在も決して古びていません。
ただ、子どもたちの生育環境と育ち方はずいぶんと変わってしまいました。
現在の方が1981年当時よりも、
子どもたちも、学校の現場も、より厳しい状況におかれていると
言っていいと考えます。
※4月4日 誤字に気付いて訂正しました。
続々 文部科学省<「心を育む」5つの提… 2009.02.08 コメント(2)
続き 文部科学省<「心を育む」ための5… 2009.02.06
文部科学省<「心を育む」ための5つの提… 2009.02.05
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